2012年サンガ初出。
2016年新潮文庫発行。

 仏教に詳しい、かつ仏教への高い評価を有する二人の論客による対談。
 対談ならではのトピックの自在さ、言葉の平易さ、両者の関係性の綾、垣間見られる素の表情が感じられ、面白くて読みやすい。
 一方、対談とは言うものの、途中から圧倒的に宮崎のセリフが多くなって、おのずと仏教に関する専門用語が多くなる。中観派の仏教徒を自認する宮崎の独壇場となり、呉は話の聞き手、引き出し役に回っている。もうちょっと呉の話が聞きたかった。

対談中、私は宮崎君から学ぶことばかりであった。私は素人として、読者代表として、宮崎君と格闘した。いや、二人で笑いあいながら、仏教思想の沃野ではしゃぎ合い、じゃれ合った、と言ったほうが正確かもしれない。(呉による「まえがき」より)

 まあ、呉の仏教観は著書『つぎはぎ仏教入門』に書かれているようだから、読んでみよう。
 そう。この対談を読んで一番「トクした」と思ったのは、次に読みたい本や漫画がいくつか見つかったことである。二人の話の中で取り上げられて、いかにも面白そうなのである。
  • 漫画 たかもちげん『祝福王』
  • 漫画 井浦秀夫『少年の国』
  • 小説 高村薫『太陽を曳く馬』
  • 評論 丘山万里子『ブッダはなぜ女嫌いになったのか』
  • 評論 D.H.ローレンス『現代人は愛しうるか』
  • 評論 呉智英『つぎはぎ仏教入門』
  • 経典 『サンユッタ・ニカーヤ』
 ま、すべてはシャフクの試験(1/29)が終わってからだ。

 宮崎の言葉から宮崎の仏教観――というより「そもそも釈迦の教えとはどんなものなのか」が伺える。
 つまり、日本に伝来する以前の、インドから中国にわたる以前の、大乗と小乗に分裂する以前の、初期の仏教のありのままの姿。呉はそれを「プロト仏教」と呼んでいる。本書(新潮社版)の解説を『仏教思想のゼロポイント』で仏教研究者として一躍名を高めたニー仏こと魚川祐司が引き受けているのもそれゆえであろう。

 以下、宮崎の言葉より抜粋。

 言葉の限界というのは、同時に論理の限界、世界の限界でもありますから、言葉や理性を携えたまま、世界に内蔵したままで、自ずと超えてしまう。そこから世界や言語や論理に内側から穴を開け、外に出してしまい、果ては内と外の分別すらも滅却してしまう。そんな思考技術、心身技法を開発した仏教は、宗教としてもやはり特異なものですね。

 法を求めることは、近親者への情愛に優る。何となれば「子供や配偶者の存在は自分を根源的な苦悩から解放してはくれないから」というわけ。これが仏教の基本的思想ですね。まさしく「非凡なエゴイスト」の教えに相応しい言葉だし、夫や子供の存在が自己確立や自己解放に繋がるわけじゃないとする現今のフェミニズムの主張にも通じるものがありますよね。

 ここではすでに仏教教理の二つの特徴が表れていると解せます。悟りの境地とそこに向かう教えは第一に、私達の日常生活における実感と反するものであること。第二に、下手に教えを広めると却って世間を害する虞(おそれ)があること。

 仏教の慈悲の意味は、人間の実存に根ざした、生老病死に纏わる根源的苦を取り去ることです。社会がどうあろうが、たとえば完全無欠の理想社会が訪れようが、そこでも解明できない「この私」の苦しみこそが仏教本来の救済対象なのです。

 上の「非凡なエゴイスト」という言い方に、仏教徒は――少なくとも初期仏教を拠り所とする仏教徒は「なんて酷薄でジコチュウな奴らだ」と思う向きもあるかもしれない。
 しかし、それは勘違いであろう。
 世の中にはおおむね二通りの人間しかいない。
 「非凡なエゴイスト」と「凡なエゴイスト」と――。


 サードゥ、サードゥ、サードゥ