ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

尊厳死

● 終わりよければ 映画:『終の信託』(周防正行監督)

2012年東宝。

 尊厳死(安楽死)がテーマの‘重~い’作品である。
 この答えのない難しい題材を、144分の長さにわたって真摯に、丁寧に、しっかりと、緊張感を持続させて描き切った周防監督の力量は、賞賛に値する。やはり、現代日本の最もすぐれた映画監督の一人である。
 主演の草刈民代は、夫である監督の薫陶よろしく、「ここまで演れる人だったのか!」と目を見張るほどの熱演、好演。『Shall we ダンス?』(1996年)での女優デビューから16年、女優としてとても良い成長を遂げてきたのが証明されている。篠田正浩―岩下志麻、吉田喜重―岡田茉莉子に継ぐべき夫唱婦随のコンビネイションであろう。
 
安楽死とは、
①患者本人の自発的意思に基づく要求に応じて、患者の自殺を故意に幇助して死に至らせること(積極的安楽死)、および、②患者本人の自発的意思に基づく要求に応じ、または、患者本人が意思表示不可能な場合は患者本人の親・子・配偶者などの自発的意思に基づく要求に応じ、治療を開始しない、または、治療を終了することにより、結果として死に至らせること(消極的安楽死)である。

積極的安楽死を認めている国は、スイス、アメリカ(オレゴン州、ワシントン州)、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクなど。日本では刑法上殺人罪の対象となる。一方、消極的安楽死は、日本を含め世界諸国で容認されている。
                          (ウィキペディア「安楽死」より引用抜粋)


 先日、知り合いの看護師から聞いた話である。
 彼女はALS(筋萎縮性脊索硬化症)患者のいる病棟で働いていた。体も口も動かせなくなったALS患者は、文字盤を使い、瞳の動きで意思表示する。それを解読し、家族や見舞客に通訳するのが彼女の特技だったそうである。
 ALS患者は、病状が進行したある時点――自発的な呼吸ができなくなる時点――で、人工呼吸器をつけるかどうするか決定しなければならない。
 つけなければ死ぬことになる(消極的安楽死)。
 つければ数年生き延びることになるが、最終的には瞳すらも動かせないトータリー・ロックト・イン・ステイト(完全閉じ込め状態)が訪れ、周囲とのコミュニケーションがいっさい図れないまま、寝たきりで最期を迎えることになる。
 いったん呼吸器をつけたらはずすことはできない。当然本人にははずすことが機能的にできないし、医者や家族など周囲の人間がそれをすると殺人になってしまう(積極的安楽死)。
 彼女の担当していたあるALS患者は人工呼吸器をつけないことを望んだが、家族が反対し(決心することができずに時間切れとなって)、結局つけさせられてしまった。
 その後しばらくして、病室で患者と家族の対話を通訳していた彼女は、次のセリフを患者の家族に伝えなければならなかった。
「ど・う・し・て・こ・ろ・し・て・く・れ・な・か・っ・た」

 尊厳死(安楽死)をどう考えるべきか。
 いまのところ自分でもよく分からない。
 ただ、積極的安楽死の容認賛成派の主張のうち、次の一文は妙に納得する。
「生命の継続・延命を強要し、心身の耐え難い苦痛を継続させることは虐待や拷問であり、死生観の強要である」


 仏教では、死ぬ間際の意識の状態が次の転生先を決めるとする。
 苦痛に七転八倒し、周囲の人間を恨み、怒りに満ちた心の状態で死ぬのは、当然良いことではない。どんな酷いところに転生するか分かったもんじゃない。
 そのような死に方をもたらした人たちもまた、計り知れない業(カルマ)を背負うことになろう。


 最近思うのは、「命の大切さゆえに」生物としての生命を何としても長らえさせるべき、というのはかえって「命」に対する軽侮であり、「命が大切だからこそ」その終焉も尊厳あるものにすべきでないか――ということである。
 ただし、その際の当事者の自己決定が、周囲の愛と理解と、最善の医療的・福祉的対応に保障されていることが前提であるが・・・。


All's Well That Ends Well
(終わりよければすべて良し)
    ―シェイクスピア―



評価:B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」 

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 


● 介護の仕事3 (開始三ヶ月)

 老人ホームの仕事を始めて3ヶ月が過ぎた。

 この1ヶ月は時間が経つのが早かった。最初のひと月を100とすると、ふた月めは80、みつき目は40くらいの長さに感じた。慣れるとは時間の経過が早まることなのだと思う。
 先輩職員のマンツーマン指導から離れて一人立ちし、試用期間も過ぎて、まだ自信も余裕もないけれど、仕事が終わったあとに反省することのない日はないけれど、「事故なく一日が終わればとりあえずクリアかな」というお粗末な介護レベルではあるけれど、なんとか続けられそうな気配が見えてきた。
 今の目標はとりあえず半年である。


1. 介護の仕事は体力勝負

 これは分かっていたことだけれど、本当に肉体労働の世界である。
 仕事中は夢中で気づかないが、帰宅してから、あるいは翌朝に、肩や腰の重みや痛み、体のだるさをまったく感じない日はない。
 特にコタえるのは入浴介助。利用者のために十二分に暖められた浴室で、ポタポタ落ちる汗を拭う間もなく、何時間も洗髪・洗体介助を続けていると、気が遠くなってくる。利用者の下半身を洗うために、あるいは靴下やズボンを脱着するために、しゃがみ込むポーズは腰痛持ちにはご法度なのであるが、致し方ない。
 入浴介助のあった日は、だるさと眠気とで家に帰っても何する気も起こらない。自分の入浴も面倒くさくなる(笑)。
 そのうえ、ここ数日のとてつもない暑さ。
 先日も帰宅して、シャワーを浴びて下着姿でビール缶を開けたはいいが、気づいたらソファに横になったまま、部屋の電気も冷房もつけっぱなしのまま朝を迎えて、ビールはすっかり気が抜けていた。脱原発派として、恥ずかしい限りである・・・。
 最初のうちは、緊張と覚えることの多さに圧倒されて気力の消耗のほうが問題だったが、ここにきて肉体的な疲れや痛みが表面化してきたのであろうか。これも慣れてきた証拠なのかもしれない。
 若い頃は一晩ぐっすり寝れば取れた疲れが・・・なんて愚痴は言ってもせんない。自らの老化を受け入れてこその介護職である。
 そろそろ、近くのジムで水泳と筋トレを再開しようと思っている。



2. 介護の仕事は腰がネック


インゲン 001 腰痛は20代の頃からの長いつき合いである。
 背骨の腰椎と腰椎とをつないでいる椎間板が腰のところで擦り減っている。ずれて飛び出した椎間板が脊椎を走る神経に触れると、痛みと足のつりが生じる。いわゆる椎間板ヘルニアだ。今のところ完治方法はない。
 週に2回ほど、仕事帰りや休日にクリニックに通って、牽引と電気治療の処置を受けている。根本的な治療にはならないが、痛みを避けようと終始同じ方向に緊張している筋肉がほぐれる感覚はある。
 仕事中はもちろんコルセットをつけている。腰への負担が少ない体の使い方、いわゆるボディメカニクスを利用した介助方法の実践は必須である。ただ、それも万全でないことは、先輩職員の中にも腰や膝を痛めている人が少なくないのを見れば分かる。
 コルセット常に腰に時限爆弾を抱えながら働いている。






3. 介護の仕事はプライドのぶつかり合い


 ベテラン介護士のプライドは高い。
 自分なりの介護哲学や介護方法をそれぞれが多かれ少なかれ持っている。仕事に一所懸命な人であればあるほど、利用者のことを考えている人であればあるほど、その傾向が強い。みな、自分が一番利用者の状態を分かっている、と思っている。
 ある一人の利用者に対して、複数の介護士が抱く見解やベストの介護方法が一致すれば問題ないのだが、やはりそうは問屋がおろさない。A介護士が決めて申し送った介護方法を、B介護士がひっくり返すなどということがしょっちゅう起こる。
 例えば、利用者Dさんの入浴方法について、「独歩にふらつきが見られるのでリフト浴(浴室、浴槽にそのまま入れる専用の車椅子を使う)でお願いします」とA介護士が申し送った数日後に、「廃用性症候群(使わない体の部分が衰えて使えなくなってしまうこと)を避けるために、一般の浴槽を使ってください」とB介護士がひっくり返す。
 当然、意見を否定されたA介護士は面白くないだろう。
 こういう場合、表立てて意見を述べ合い議論して両者が納得する結論に達するというやり方は、日本人には馴染まない。対立が表面化するのを回避して、双方が黙ったまま、やり過ごす。
 しかし、それは決して、互いの違いを認めて寛容に対処するとか、自分が譲歩するという方向での妥協を生むのではない。表に出さないだけに、心の中で不満やわだかまりを抱えていくことになる。
 介護の仕事は人間関係が難しいとはよく言われるが、介護方法に対する見解の違いが結構大きな要因の一つであるとは、現場で働いてみるまで想定していなかった。単なる、「あの人が嫌い」とか「あの人とは気が合わない」という低次元のあらそいだけではないのである(それもあることはあるが・・・)。
 だが、利用者の側にしてみれば、介護してくれる人ごとに異なる介護方法を提供されることは混乱するばかりか、QOL(=Ouality Of life、生活の質)を上げる点で逆効果になることもある。
 だれか「この利用者にはこうしてください」と決定し命令できる権威か上部機関でもあればよいのだろうが、介護の仕事はまだそこまでの組織性は獲得していないようだ。 
 また、一般企業のように、あるいは、たとえば近い分野にいる看護の仕事のように、上意下達のピラミッド組織になることが果たして良いのかどうかという点もある。
 自分の場合、当然、介護の方法を提案することなどあり得ないので言われたままにやるしかないのだけれど、その言われることが先輩職員一人一人によって違うのだから結構面倒なのである。
 利用者の為を思うのならば、もちろん統一したケアが一番である。ある方法を試して上手くいかないのであれば、別の方法を統一してやればいいだけの話なのだ。
 そこにプライドを介在させる必要はない。



4.介護の仕事はチャレンジャブル


 食事、排泄、更衣、移動、入浴等々、それぞれの介護の方法に基本的ベース(たとえば、更衣する時の「脱健着患」など)はあるけれど、利用者の症状やADL(日常生活動作)は一人一人異なるので、それに合わせて介護方法を変えなければならない。バリエーションは利用者の数だけある。

 また、頻尿の利用者がいたら、ただ本人が欲求するままにトイレに連れて行けばいいというものでもない。なぜ、すぐにトイレに行きたがるのか原因を考えなければならない。水分の取りすぎなのか、膀胱内に炎症があるせいなのか、残尿の為なのか、精神的な問題なのか・・・。それを探り、適切な対処手段をとるためには、排泄障害に関する知識と、医療(医師や看護師)との連携が大切である。

 利用者に処方される薬についても、ある程度の知識は必要である。下剤が処方されたなら、折りを見てトイレに誘導する必要がある。(さもないと便意を訴えられない人の場合、失禁ということになる。もちろん、介護の負担が増す。) どんな副作用があるのかも知っておきたい。


 リハビリについての知識や技術も必要である。歩行訓練をする時に、どんなふうに、どの程度の介助が必要なのか、どんな声がけが本人をその気にさせるか等々、学べることはたくさんある。

 認知症の人の対応の仕方も奥が深い。どの程度の認知レベルなのかを把握することから始まって、どの程度のことが自分でできるのか、どんな時に不穏状態になるか、どんな言葉がけや話題が本人を活気づけるか等々、普段から観察と見守りと試行錯誤が欠かせない。

 介護の仕事は、学ぼうと思えば、学ぶことがいくらでもある。
 でも、その気がなければ、表面上の介助だけをたんたんと事務的にやることもできる。



5.介護の仕事と自己決定


 三ヶ月経って、自分がこの仕事に向いているのかいないのか、この仕事が好きなのかどうなのか、いまいち混乱している。
 利用者と話していて波長があった時、この仕事は面白いなあと思う。自分に向いているなあと思う。
 しかし、利用者が望んでいないことをしなければならない時、たとえば、入浴拒否やリハビリ拒否のある人に対して入浴やリハビリをさせなければならない時、自分には向いていないなあと思う。
 基本的に、自分は「本人がやりたくないことをやらせたくない」。
 それをやることがいかに本人の為になろうが、それをやらないことがいかに本人のマイナスになろうが、本人が望むならばその通りにさせればいいという考えが強い。自己決定の尊重と言えば聞こえはいいが、介護職としては無責任なのかもしれない。
 なぜなら、「死にたい」という人間の自己決定を尊重することは、殺人幇助に等しいからだ。

 「風呂に入りたくない」と頑張っている高齢者を、言葉巧みになんとか懐柔して、説得して、気をそらして、入浴させてしまうのが良い介護士の資質なのかもしれない。あるいは、「風呂に入りたくない」という利用者の言葉の裏にはもっと別の深い要因が潜んでいて、そこを読み取ることが大切なのかもしれない。が、幾重にもよじれた感情の糸を解きほぐし理解し平らげていくのは、正直面倒くさい。

 元来、自分は他人との感情の駆け引きが苦手である。というよりそこに関心がない。「口には出さない本当の気持ちを察してくれ」と、持って回った(と自分には思える)感情ドラマの相手役をさせられるのは、うざったい。(だから、恋愛が億劫なのだ。)
 それに、すでに何十年と生きていて苦労を重ねてきている人間、自分の生活スタイルが確立している人間に、彼等から見れば洟垂れ小僧の自分が、「こうしなさい」「ああしなさい」と言うのは、おこがましい気がしてならないのである。
 一方、認知症の高齢者は「何が自分にとって良いのか」を十分に理解できない面もある。子供と同じだ。誰かが親代わりとなって面倒を見る必要がある。

 
介護と自己決定の問題は、突き詰めれば「尊厳死」をどう考えるかにつながる。もっとよく考えてみるべきテーマである。





前段 →「介護の仕事2
続き →「介護の仕事4

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