ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

小津安二郎

● 追悼・橋本治 平成と共に去る

作家橋本治さんを追悼し、以前ソルティが書いた『巡礼』(2009年刊行)の書評を再掲します。

巡礼


 本小説は、作家橋本治最良の仕事の一つであり、10年いや20年に一冊出るか出ないかの傑作である。
 完成度の高さ、テーマの今日性と掘り下げの深さ、魂を揺るがす感動の結末。
 最近の小説は興味が湧かなくて全然読んでいない自分。論ずる資格のないことは重々承知の上、あえて言おう。
 平成文学の金字塔である
 実際、この小説一冊読めば、昭和・平成を生きてきた日本人の何たるかを知ることができる。橋本の筆は、それをも超えて人間存在の本質にまで達している。誰もが眉を顰め目をそむけ鼻を覆うゴミ屋敷の主という醜怪な題材を扱って、まさにゴミの中から宝を探り当てた。真実という宝を。

 いまはひとりゴミ屋敷に暮らし、周囲の住人達の非難の視線に晒される男・下山忠市。戦時中に少年時代を過ごし、昭和期日本をただまっとうに生きてきたはずの忠市は、どうして、家族も道も、見失ったのか――。(裏表紙の紹介文より)


 『巡礼』『』『リア家の人びと』の昭和三部作を読み終えて思うのは、橋本が描き出そうとしてきたものは、つまるところ「家族」であり、その終焉であったということだ。豊かさの実現の先に待っていた「関係の不毛」と「生の虚妄」にあったのだ。
 その意味で、橋本三部作はまるで、戦後間もない頃に『晩春』『東京物語』『麦秋』という傑作三部作を撮った小津安二郎がそれらの作品を通じて予言していたものの具現であるように思われる。小津の透視力の凄さを証明しているかのように思われる。
「小津監督、あなたは正しかった。日本は、日本人は、こんなふうになりました」と。
 文体そのものも、小津のそれのように、対象から適度な距離をおいて淡々と、しかし無関心でも冷淡でもなく、あくまで慈悲深い。‘諦念’とでも言いたいような境地に達している。

 最も感動的な場面は、ご近所界隈の騒動に過ぎなかったものがマスコミに取り上げられ、しまいには「名所」にまでなった忠一のゴミ屋敷に、テレビ報道を見た弟の修次が母親の葬儀以来9年ぶりに帰ってくるシーンである。

 「兄ちゃん!」と言われて、忠市は振り向いた。長い歳月がその二人の間にはあって、忠市には、自分が「いつの時間」にいるのかが分からなかった、目の前には、見知らぬ白髪頭の男が汗を流して立っていて、それを見る自分の耳には、誰とも知れぬ少年の声が聞こえて来る。それが不思議だった。


 この場面、映画にしたらまさにクライマックス。涙なしで観られない名場面になろう。
 忠市役は蟹江敬三がベストだと思うのだが、亡くなってしまったのが返す返すも残念。西島秀俊なんかどうだろう。修次役は土田晃之がいい。あるいは高島兄弟で共演というのもありか。監督は天願大介か石井岳龍(聰亙)。
 ああ、観たいなあ。


 ゴミ屋敷の主人・忠市にとってゴミとは何だったのか。

 自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かってはいる。しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう? 自分には、もうなにもすることがない。片付けられて、すべてがなくなって、元に戻った時、生きて来た時間もなくなってしまう。生きて来た時間が、「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
「無意味」は薄々分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった。「自分のして来たことには、なにかの意味がある」――そう思う忠市は、人から自分のすることの「無意味」を指摘されたくはなかった。「それは分かっているから、言わないでくれ」――そればかりを思って、忠市は一切を撥ねつけていた。


 ゴミとは、不必要なもの・役に立たないもの・意味を失ったもの――の象徴である。
 ただ一人老いた忠市は、自分の人生が無意味で、自分という存在が誰からも必要とされないものであることを、心の奥底で感じている。だけど、それは認めたくない。認められない。
 だから、自分の分身であるゴミを、あたかも意味あるもののごとく収集する。人生意気に感じていた「日々」を、家族の中で役割を持っていた「過去」を、ひたすら回収して積み上げる。ゴミという壁を幾重にも周囲に巡らして、今現在のありのままの孤独と空虚を覆い隠す。
 読む者は、忠市の姿に他人行儀でいることは許されない。
 なぜならそれは、物資的豊かさの追求の果てに希望や目的を喪失し、個人主義の成就の果てに関係性を喪失した、我々平成人の姿にほかならないからである。


 修次との再会によって忠市は関係性を取り戻し、修次と共にゴミ屋敷の掃除を始める。忠一の孤独を誰よりも良く知る実の弟だからこそ、それは可能だった。近所の人々もホッと胸を撫でおろす。
 しかし、橋本が凄いのはそこで「終わり」としないところである。
 忠市とは対照的に良い家族に恵まれ、孤独とは無縁な幸福な人生を送ってきたかに見える修次もまた、子供たちが独立し、妻を失い、老年を迎えた今、人生に迷いを感じている。 

長男は結婚し、長女の望も結婚した。気がついたら、一人になっていた。孫も生まれ、父となった長男の輝義は、「一緒に住もう」と言ったが、修次は迷っていた。自分が何者で、なぜこの世に生まれて来たのかを、ふっと思った。なぜそれを考えたのか分からない。ただ、「それを知りたい」と思って、「四国へ行きたい」と思った。

 家を片付け終えた忠市と修次は、連れ立って四国八十八ヶ所の遍路に出る。
 その二日目の夜に泊まった宿で、忠市は何の前ぶれもなく、あっけなく逝ってしまう。
 おそらくは、日本文学史上まれに見る途轍もない重みを持つ一節が、せせらぎのような透明感ある文章に乗せられて、物語はつと終わる。


「自分はもう、ずいぶん昔から、ただ意味もなく歩き回っていたのかもしれない」と思った時、忠市の体は、深い穴に呑まれるようにしてすっと消えた。「生きる」ということの意味を探るため、弟と共に歩き始め、「自分がなにをしている」とも理解しなかった忠市は、自分が巡るあてもない場所を巡り歩いていたと理解した時、仏の胸の中に吸い込まれていった。 
 
 弟との再会によって忠市の「関係性」は復活した。
 けれど、「意味」は最後まで見出せなかった。

自分で自分を救えぬ者の前に(仏は)現れるというわけか?
(山岸涼子『日出処の天子』より聖徳太子のセリフ)



橋本治さんのご冥福を祈ります。







● 日本のシェイクスピア 映画:『日本の悲劇』(木下恵介監督)

1953年松竹。

 木下恵介監督の撮った49本の映画うち、ベスト5に入る傑作である。
 ソルティが選ぶ今のところの残りベスト4は、『香華』、『陸軍』、『永遠の人』、『破れ太鼓』。
 だが、まだ『楢山節考』、『喜びも悲しみも幾歳月』、『惜春鳥』はじめ未見が多いので、今後ベスト5がどう変わっていくか楽しみである。 黒澤明の凄さは観る者が若いうちでも分かるけれど、小津安二郎や木下恵介の凄さはある程度歳をとらないと分からない。とくに、木下映画の真髄はフェミニズムを通過しないと分からないものが多い。日本でも世界でも、まだまだ発見を待たれる監督と言えよう。

 この『日本の悲劇』も大上段なタイトルから社会派ドラマをイメージするが、実際は、戦後の混乱期に苦労して育てた子供に老いてのち冷たくされる一人の母親の半生を通して、「母の悲劇」「親子の悲劇「家庭の悲劇」を克明に描いた骨太にして非常に繊細な人間ドラマである。その意味で、「日本の悲劇」というのはむしろ狭い見方である。日本という地域性、敗戦後という時代性を超えて、「人間の悲劇」「生きることの悲劇」を描く深みに達している。
 大胆に言ってしまおう。
 
 木下恵介作品は、その最良のものにおいて、古代ギリシア悲劇あるいはシェイクスピア作品と匹敵すべきレベルにある。

 母親・春子を演じる望月優子がピカイチ。これがアメリカだったらオスカー間違いなし。とにかく上手い。
 二人の子供(歌子と清一)の為に自らを犠牲にして生きる、情が濃くて逞しくて愚かな母親を、圧倒的な存在感をもって演じている。この存在感に近いのは2時間ドラマの市原悦子か・・・。観る者は、最初から最後まで春子に共感し、母の気持ちになって、母の視点から、二人の子供をはじめとする周囲の人間ドラマを見ることになる。
 春子は夫亡き後、焼け跡で闇屋をやり、子供を親戚に預けて熱海の料亭で身を粉にして働き、時には売春まがいもし、子供の養育費を工面してきた。その甲斐あって、歌子は洋裁と英語が得意な才媛に育ち、清一は前途洋洋たる医学生となる。母の悩みと苦しみ、母の喜びと悲しみ、母の苛立ちと寂しさ、母の希望と絶望、母の強さと弱さ・・・・・。観る者はこの映画を通して一人の「母」を体験する。なので、その行き着く先にある飛び込み自殺という選択は、決して唐突でも不思議なものでもない。自分のすべてを捧げてきた当の子供から軽蔑され冷たくされ見捨てられ、生き甲斐を失った春子が自暴自棄になるのは悼ましくはあっても理不尽ではない。
 そこで観る者のやるかたなさは怒りとなって二人の子供たちへと向かう。
 何と冷たい恩知らずの子供たちか! 戦後教育はこんな自己中心的な若者を育てたのか! これが自由と権利を主張する民主主義の正体か!
 しかし、木下監督の凄さは物語をそんな紋切り型に収斂させないところにある。母親の苦労を描く一方で、母親と離れて暮らす二人の子供の成長も平行して描いているのである。
 熱海に出稼ぎに行く春子は、口車に乗せられて亡夫の弟夫婦に家を貸して、結果乗っ取られてしまう。思春期の歌子と清一は、生まれ育った自分の家に住みながら、伯父夫婦のもと肩身の狭い思いをして暮らすことになる。こき使われ、いじめられ、罵倒され、ひもじい思いをする。ある晩、辛さ寂しさに耐え切れず、二人は春子に会うため熱海に行く。そこで見たのは、酔客と体を寄せ合いながらしどけない格好で艶笑する母。二人は春子に声をかけずに通り過ぎ、駅で夜を明かして家に帰る。そのうち春子が体を売っているという噂も二人の耳に入ってくる。清一は偉くなること金持ちになることを決意し、一身に勉強に打ち込むようになる。歌子は、叔父夫婦の息子(いとこ)に病床を襲われ暴行されトラウマを背負う。縁談もあるが、トラウマと母の悪評がついて回り、希望は見出せない。(成人した歌子の描き方が凄すぎる! 女のさがをここまでリアルに多面的に描いた男性監督は世界中探してもペドロ・アルモドバル監督くらいしか見当たらない・・・)
 清一と歌子の生い立ちを描いていくことで、二人の子供が長じてどんな思いを母親に対して抱くようになるか、どんな人生観・価値観を身に着けていくかが観る者に了解される。それは十分な説得力を持っている。木下は冷たい無情な子供を描いているのではない。子供には子供の事情があり、そのような考え方や生き方を身につけざるを得ない背景があると伝えているのである。
 その点で、同じようなテーマを扱った小津安二郎の『戸田家の兄妹』や『東京物語』とは似て非なるものである。『戸田家の兄妹』は善悪がはっきりしていた。親に冷たく当たる子供たち=悪、最後まで親を見捨てず大切にする子供たち=善であった。そこから時を隔てた『東京物語』では小津監督も成熟して、親子の確執は善悪では捉えきれないことを示した。「子供には子供の生活があり事情がある。親世代は静かに去り行くのみ。子供に迷惑をかけてはいけない」というように。もはや利己的な子供世代を責める風はなかった。「老いたものは静かに去りゆくのが世の習い、それが生き物のさだめ」といった‘もののあわれ’あるいは‘無常性’が獲得された。その透徹した視点、達観した境地を、禅寺の風景のような静的スタイルで描き切ったことが、『東京物語』の傑作たるゆえんであろう。
 『日本の悲劇』は、『東京物語』の一歩先を描いている。
 一歩先というのが適切でないなら、高踏的でブルジョワで清潔志向の小津が『東京物語』で描かなかった泥々とした内幕を木下は描いている。つまり、「子供には子供の生活があり事情がある」ことを微に入り細に穿ち、観る者に提示して見せたのである。
 だから、観る者は単純に子供世代を責めることはできない。歌子や清一の立場に立てば、母・春子への冷たい仕打ちはどうにもこうにも仕方ないのだと理解できる。他人ならまだしも、実の親だからこそ許せないものがある。すべてを知って、すべてを許すには二人は若すぎる。 親には親の言い分(正当性)があり、子供には子供の言い分(正当性)がある。それぞれが頑張って厳しい時代を生き抜いてきたのである。どちらを責めることもできない。問責は洞察力(智慧)と思いやり(慈悲)に欠ける行為である。
 
 春子は春子の因縁を持ち、因縁に支配されて、世に投げ出されている。歌子は歌子の、清一は清一の因縁を持ち、因縁に支配されて、世に投げ出されている。両者の因縁がぶつかり合って齟齬が生じる。両者ともに、自分自身の因縁を見抜いて、そこから抜け出す方法を知らないので、結局、織り成す因縁が生む出す定めのまま行く着くところまで運ばれてしまう。それが最後には母・春子の自殺という最悪な‘果’を生んでしまい、それがまた新たな‘因’となって、この先の歌子と清一の人生に影を落としていくことになる。
 
 この映画は「因縁にとらわれた人間の悲劇」を圧倒的なリアリティのもとに語っている。
 ギリシア悲劇、シェイクスピアと比較しても少しも遜色なかろう。
 


評価:A-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。 
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 映画:『お茶漬けの味』(小津安二郎監督)

1952年松竹。

 異色の小津作品という感じがする。
 スタイル的にではなく内容的に、である。
 スタイル的には、低い視点の固定カメラ、バストショットで鸚鵡返しの単調なセリフのやりとり、空ショットの多用、壺や茶筒など文物をセンターに、演じる人物を脇に配した画面作り・・・など、翌年の『東京物語』で完成を見た小津スタイルがここでも健在である。(ズームが使われているのはちょっと珍しいと思った。)
 内容的な異色とは、ひとことで言えば‘女臭い’映画という点である。
 
 小津作品はいつも男臭い。バンカラである。扱うテーマから言えば男臭さの権化と思える黒澤映画よりも、小津映画のほうが平均的には男臭いと自分(ソルティ)は思う。
 それはおそらく、作品の持つ‘ウェット感’が影響している。
 黒澤映画はどこかウェットである。別の言葉で言えば「人情的」である。小津映画は乾いている。黒澤がチャップリンとしたら、小津はバスター・キートンだ。『東京物語』のように家族間の人情を描くドラマであってさえ、観る者の感情移入を不思議と拒むところがある。それは、先にあげた対象から常に一定の距離を置く小津スタイルのためでもあろうが、根源的なところにあるのは小津安二郎のストイシズムなのではないかと思う。
 小津作品からはエロスが欠落している。少なくとも女のエロスが。なまめかしいのは、原節子でも三宅邦子でもましてや杉村春子でもなく、佐野周二(『父ありき』の息子役)であり、この作品の佐分利信であり、壺や茶筒の曲線や表面のツヤである。
 生涯結婚せずに母親と二人暮らしだったという小津監督のセクシュアリティには興味深いものがある。
 そんななか、この作品はウエット感がいつもより濃厚なのである。
 
 理由の一つは、主演の木暮実千代の艶にある。洋装、着物、浴衣、ファッションショーのように切り替わる木暮の艶やかにして凛としたいで立ちは、登場するだけで画面にツヤをもたらす。この‘女満開’オーラはさすがの小津スタイルも閉じ込めておけなかったようだ。
 木暮を中心に他の3女優――淡島千景、津島恵子、上原葉子(←加山雄三の母親!)――が競演し、女ばかりで温泉に出かけては酒を飲んで酔っ払ったり、野球観戦に行ったり、ことあるごとにそれぞれの亭主の愚痴をぶちまけたり・・・と、「女子会」の模様が頻繁に描かれているのも‘女臭い’理由の一つ。温泉の部屋の窓辺でしどけない浴衣姿でくつろぐ4人の周囲を、庭の池に反射した光の模様が揺らぎ遊ぶシーンなど、衣笠貞之助監督『歌行燈』を連想させるほどにはかなげに美しく、「小津監督もこんな細やかな新派風の演出ができるのか」と感嘆する。
 また、物語が終始女性視点、すなわち木暮実千代演じる妻・佐竹妙子の視点で描かれているのも‘女臭さ’の原因である。「女達の目から見た男(亭主)の仮の姿と真の姿」というのが、この映画の主題なのである。
 
 こういった毛色の変わった小津映画を面白く観ていたのだが、最後の最後で教条主義になってしまうのが残念。
 佐竹妙子は、鈍感でドン臭いと思っていた亭主・佐竹茂吉(=佐分利信)が、実は「器の大きな、地に足ついた男」であることを知って反省するというオチなのだが、それが「世の女性方よ。男を、亭主を見くびってはいかん。亭主を馬鹿にして、遊び惚けるのも大概にしなさい。」という説教になってしまって、台無しである。
 『戸田家の兄妹』(1941年)でもそうだが、教条主義に走ると小津映画は失敗する。もとがストイシズムなだけに、とたんに息苦しい、無味乾燥なものになってしまう。
 『東京物語』以後の作品は、教条主義を捨てたストイシズムによって万人の共感を得たのであろう。
 
 それにしても、撮影当時の佐分利信は43歳、木暮実千代は34歳。共に貫禄・風格十分の立派な大人である。
 いま、SMAPの中居君が43歳、宮沢りえが36歳。
 こうして比べると、戦後、日本人がいかに幼く(若く)なっているかが瞭然である。
 だからどう、というわけでもないのだが、映画を観ている間、佐竹茂吉(=佐分利信)を自分より年上に思い、「いぶし銀のような渋いお父さんだなあ」と憧れに近い魅力を感じていたのだが、実際は自分より10歳近くも年下なのである。

 なんだかなあ~。



評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● ゴミの中の宝 本:『巡礼』(橋本治著、新潮社)

巡礼 2009年刊行。

 本小説は、作家橋本治最良の仕事の一つであり、10年いや20年に一冊出るか出ないかの傑作である。
 完成度の高さ、テーマの今日性と掘り下げの深さ、魂を揺るがす感動の結末。
 最近の小説は興味が湧かなくて全然読んでいない自分。論ずる資格のないことは重々承知の上、あえて言おう。
 平成文学の金字塔である
 実際、この小説一冊読めば、昭和・平成を生きてきた日本人の何たるかを知ることができる。橋本の筆は、それをも超えて人間存在の本質にまで達している。誰もが眉を顰め目をそむけ鼻を覆うゴミ屋敷の主という醜怪な題材を扱って、まさにゴミの中から宝を探り当てた。真実という宝を。

 いまはひとりゴミ屋敷に暮らし、周囲の住人達の非難の視線に晒される男・下山忠市。戦時中に少年時代を過ごし、昭和期日本をただまっとうに生きてきたはずの忠市は、どうして、家族も道も、見失ったのか――。(裏表紙の紹介文より)


 『巡礼』『』『リア家の人びと』の昭和三部作を(発表順とは逆に)読み終えて思うのは、橋本が描き出そうとしてきたものは、つまるところ「家族」であり、その終焉であったということだ。豊かさの実現の先に待っていた「関係の不毛」と「生の虚妄」にあったのだ。
 その意味で、橋本三部作はまるで、戦後間もない頃に『晩春』『東京物語』『麦秋』という傑作三部作を撮った小津安二郎がそれらの作品を通じて予言していたものの具現であるように思われる。小津の透視力の凄さを証明しているかのように思われる。
「小津監督、あなたは正しかった。日本は、日本人は、こんなふうになりました」と。
 文体そのものも、小津のそれのように、対象から適度な距離をおいて淡々と、しかし無関心でも冷淡でもなく、あくまで慈悲深い。‘諦念’とでも言いたいような境地に達している。

 最も感動的な場面は、ご近所界隈の騒動に過ぎなかったものがマスコミに取り上げられ、しまいには「名所」にまでなった忠一のゴミ屋敷に、テレビ報道を見た弟の修次が母親の葬儀以来9年ぶりに帰ってくるシーンである。

 「兄ちゃん!」と言われて、忠市は振り向いた。長い歳月がその二人の間にはあって、忠市には、自分が「いつの時間」にいるのかが分からなかった、目の前には、見知らぬ白髪頭の男が汗を流して立っていて、それを見る自分の耳には、誰とも知れぬ少年の声が聞こえて来る。それが不思議だった。

 この場面、映画にしたらまさにクライマックス。涙なしで観られない名場面になろう。
 忠市役は蟹江敬三がベストだと思うのだが、亡くなってしまったのが返す返すも残念。西島秀俊なんかどうだろう。修次役は土田晃之がいい。あるいは高島兄弟で共演というのもありか。監督は天願大介か石井岳龍(聰亙)。
 ああ、観たいなあ。


 ゴミ屋敷の主人・忠市にとってゴミとは何だったのか。

 自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かってはいる。しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう? 自分には、もうなにもすることがない。片付けられて、すべてがなくなって、元に戻った時、生きて来た時間もなくなってしまう。生きて来た時間が、「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
「無意味」は薄々分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった。「自分のして来たことには、なにかの意味がある」――そう思う忠市は、人から自分のすることの「無意味」を指摘されたくはなかった。「それは分かっているから、言わないでくれ」――そればかりを思って、忠市は一切を撥ねつけていた。

 ゴミとは、不必要なもの・役に立たないもの・意味を失ったもの――の象徴である。
 ただ一人老いた忠市は、自分の人生が無意味で、自分という存在が誰からも必要とされないものであることを、心の奥底で感じている。だけど、それは認めたくない。認められない。
 だから、自分の分身であるゴミを、あたかも意味あるもののごとく収集する。人生意気に感じていた「日々」を、家族の中で役割を持っていた「過去」を、ひたすら回収して積み上げる。ゴミという壁を幾重にも周囲に巡らして、今現在のありのままの孤独と空虚を覆い隠す。
 読む者は、忠市の姿に他人行儀でいることは許されない。
 なぜならそれは、物資的豊かさの追求の果てに希望や目的を喪失し、個人主義の成就の果てに関係性を喪失した、我々平成人の姿にほかならないからである。


 修次との再会によって忠市は関係性を取り戻し、修次と共にゴミ屋敷の掃除を始める。忠一の孤独を誰よりも良く知る実の弟だからこそ、それは可能だった。近所の人々もホッと胸を撫でおろす。
 しかし、橋本が凄いのはそこで「終わり」としないところである。
 忠市とは対照的に良い家族に恵まれ、孤独とは無縁な幸福な人生を送ってきたかに見える修次もまた、子供たちが独立し、妻を失い、老年を迎えた今、人生に迷いを感じている。 
長男は結婚し、長女の望も結婚した。気がついたら、一人になっていた。孫も生まれ、父となった長男の輝義は、「一緒に住もう」と言ったが、修次は迷っていた。自分が何者で、なぜこの世に生まれて来たのかを、ふっと思った。なぜそれを考えたのか分からない。ただ、「それを知りたい」と思って、「四国へ行きたい」と思った。

 家を片付け終えた忠市と修次は、連れ立って四国八十八ヶ所の遍路に出る。
 その二日目の夜に泊まった宿で、忠市は何の前ぶれもなく、あっけなく逝ってしまう。
 おそらくは、日本文学史上まれに見る途轍もない重みを持つ一節が、せせらぎのような透明感ある文章に乗せられて、物語はつと終わる。


「自分はもう、ずいぶん昔から、ただ意味もなく歩き回っていたのかもしれない」と思った時、忠市の体は、深い穴に呑まれるようにしてすっと消えた。「生きる」ということの意味を探るため、弟と共に歩き始め、「自分がなにをしている」とも理解しなかった忠市は、自分が巡るあてもない場所を巡り歩いていたと理解した時、仏の胸の中に吸い込まれていった。 
 
 弟との再会によって忠市の「関係性」は復活した。
 けれど、「意味」は最後まで見出せなかった。

自分で自分を救えぬ者の前に(仏は)現れるというわけか?
(山岸涼子『日出処の天子』より聖徳太子のセリフ)


瞑目。




● 映画:『宗方姉妹』(小津安二郎監督)

 1950年新東宝。

 日本映画の至宝女優たる田中絹代と、元祖銀幕アイドルたる高峰秀子の共演、撮るは名匠小津安二郎、と来ては期待せずにはいられまい。
 が、どことなくちぐはぐな印象が残る作品である。

 面白くないわけじゃない。むろん、演技や演出が下手なわけでもない。

 古い価値観、倫理観を大切にしながら妻として凜と生きる姉・節子を演じる田中絹代も、新しい時代の風を柔軟に受け入れながら自分に正直に自由に生きようとする妹・満里子を演じる高峰秀子も、ともにすこぶる魅力的で、それぞれの役に生き生きとした個性とリアリティを与えることに成功している。
 加えて、節子の夫・三村を演じる山村聡のうらぶれた、すさんだ、しかし最後まで矜持を捨てない男の造型も見事である。「よくできた、理想的な」妻を持つがゆえにかえって、無職の不甲斐ない家長でいることが桎梏となって心の休まる場所を持たない男の心理を、山村はあますところなく演じ切っている。節子がかつての恋人である田代(上原謙)と実際に不倫していたのであれば、むしろそのほうが楽だったかもしれない。節子を責める口実ができるし、不道徳な妻に対してもはや引け目を感じる必要はないからである。 
 三人の役者の演技合戦は見物である。

 ちぐはぐなのは、暗くドロドロした人間関係の生み出すダイナミズム(活力)と、すでに完成されている小津安二郎のスタティックでユーモラスな演出スタイルとが噛み合わない為と思われる。

 映画冒頭の大学教授(齋藤達雄)のとぼけた感じの講義シーンから始まって、笠智衆のあいもかわらぬ飄々とした趣き、新薬師寺境内の美しいショット、豪華な応接セットの中での田代と満里子のユーモラスなやりとり、真下頼子(高杉早苗)が箱根の旅館の窓から見上げる白い雲・・・・。『晩春』や『東京物語』ですっかり馴染みとなったこれら一連の小津印のついた流れの中で、三村が登場するシーンは息苦しいまでの重さと生真面目さとで流れを堰き止め、澱みをつくっている。三村が飼い猫を抱き上げる本来なら幾分の愛らしさを感じさせるはずのシーンですら、なんだか戦前の肺病持ちの売れない文筆家の生活を描いたリアリズム作品みたいで、貧乏臭さばかりが匂ってくる。
 それは、前者の流れの持つ品のある晴朗感と対比されることで燦然たる効果を発揮するという方向には向かわず、お互いの世界のリアリティを打ち消しあう結果となってしまっている。


 小津監督が自分のスタイルを確立した時、それは何を撮るのかが自ずから限定されてしまった時なのであろう。より正確に言えば、何を撮るべきでないかが決まってしまったのである。
 そのスタイルは、たとえば黒澤監督のスタイルとは違って、さまざまな素材を自由に料理して盛りつけることのできる器ではなかった。黒澤の器が何にでも使える大きな平皿だとしたら、小津のそれは醤油を入れるスペースまで付いた刺身専用の皿みたいなものである。素材が刺身である時は、ほかの誰も真似できない至高の高みまで到達するが、肉料理を盛り込むとどうしてもちぐはぐにならざるをえない。せいぜい馬肉の刺身までが許容範囲である。

 ドロドロした男女関係は肉料理の最たるものであろう。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● ダイナミズムを演じる女優 映画:『夜の女たち』(溝口健二監督)

 1948年松竹。

 溝口健二はフェミニストだろうか?
 社会派だろうか?

 もちろんこの質問は反語である。
 溝口健二はフェミニストでも社会派でもない。


 『祇園囃子』『赤線地帯』そしてこの『夜の女たち』と並べると、どの作品も共通して、(男)社会の中で弱い立場に置かれ虐げられている悲惨な女たち―売春婦―を描いているので、一瞬、溝口は「女の味方」であり、こういった不平等で残酷な社会に対して現実を示すことで一石を投じているのだと思いたくなる。
 しかし、『西鶴一代女』を挙げるまでもなく、溝口はこういった女たち、女性群像を好んで描いているのである。つまり、「転落する女の姿」に対するフェチズムがあるのではないかと思うのだ。
 であるから、これらの映画に出てくる女たちが売春業から足を洗って更正する姿は決して書き込まれることはなく、一等底に落ちた地点で物語は終わるのである。女たちを更正させようと目論む善意の人々のかけ声のなんとしらじらしいことか。溝口は更正を信じていないかのようである。
 しかるに、なぜか不快な印象を与えないのは、溝口がこれらの女たちに向ける視線にはまぎれもない愛情と讃嘆の念が宿っているからである。自分が愛し讃美するものの転落する姿を悦ぶというのは倒錯に違いない。それとも、転落してはじめてその女を愛することが可能となるのか。としたら、溝口の劣等感は強烈である。

 例によって、田中絹代が圧倒的に見事である。
 きまじめな戦争未亡人が、ひょんなことから夜道で客を獲るパンパンに身を落としていく、その変わり様をまったく不自然を感じさせず、いずれの役をもリアリティを持って演じている。これを観ると、小津安二郎が『風の中のめんどり』においていかに田中絹代を生かせなかったかが非常に良くわかる。どちらも普通に暮らしていた未亡人が春を売らざるをえなくなるという設定であるのに、小津には溝口のようなダイナミズムが感じられない。そう、小津が描いたのは「喪失」であって「転落」ではなかった。(→ブログ記事参照http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5091416.html )
 そして、田中絹代はなによりダイナミズムを演じる女優なのである。



評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『戸田家の兄妹』(小津安二郎監督)

 0121941年松竹映画。

 まずは音の悪さにがっかり。
 古いフィルムだから仕方ないのだが、こうしてみると、映画という表現形式は文学や音楽にくらべると、非常に脆いものであることが知られる。
 文字や楽譜は新たに書き写して、作品を元通りに再現することができる。作品そのものが失われる心配はまずない。絵画や彫刻や建築物も時の浸食を受けやすいけれど、フィルムの方が脆弱性では勝っていよう。500年前の絵画は今も残っていて鑑賞することができるけれど、わずか60年目のフィルムでさえ、途中で観るのを止めようかと思うほどの劣化ぶりである。
 もちろん、現在では作品をきれいなままデジタル化して保存もコピーもできるようになった。けれど、DVDは電気がなくなれば単なる円盤に過ぎなくなる。

 とは言え、やはり小津映画。観る価値は十分にある。
 構図の見事さ、日本家屋や女性の着物姿の美しさ(それをもっとも感得させるのが葬儀のシーンであることは奇妙である)、人の消えたショットの含蓄ぶり、セリフ回しの品の良さ、家族内で起こるちょっとしたすれ違いにドラマを生み出す冴えた演出(高峰三枝子演じる三女が、義姉に夜ピアノを弾くのを止めるよう頼みに行くシーンなど、凡百のサスペンス映画が吹っ飛ぶほどのドキドキ感がある)。8年後の『晩春』から始まる小津絶頂期の序章をここでは確認することができる。

 あらすじから言っても、この作品は『東京物語』(1951年)の雛型であろう。
 名士であった夫の急死と共に屋敷を失った後、肩身の狭い思いをしながら娘や息子の家を転々とする年老いた妻(葛城文子)と三女(高峰三枝子)。その不憫な姿は、『東京物語』の上京した老夫婦(笠智衆と東山千栄子)の姿に重なる。
 長男の家でも長女の家でも厄介者扱いされて、行き場を失った二人は、『東京』では熱海の旅館に、『戸田家』では鵠沼の荒れた別荘に追いやられる。二人に親切にする唯一の人間として、『東京』では原節子演じる義理の娘の紀子、『戸田家』では佐分利信演じる次男昌次郎とが配される。
 『戸田家』では、母と娘は、昌次郎と共に大陸で暮らすことに決まり、ハッピーエンドとなるが、それだけにそこに至るまでの他の兄妹の邪険な仕打ちは無情に描き出される。父親の一周忌に集まる兄妹の面々を非難する昌次郎の矛先も容赦ない。親の恩を忘れ、年老いた親を大切にしない身勝手な子供たちに対する小津監督自身の怒りが爆発している感がある。戸田家の兄妹たちが名門を鼻にかけていることも怒りを増幅する効果がある。
 一方、『東京』はどうだろう?
 設定こそ似ているが、ここでは最早、身勝手な娘や息子に対する怒りはほとんど感じられない。『戸田家』と違い、一族が日々の生活に追われる庶民であることにもよるが、子供には子供の生活があり、家庭があり、仕事があり、日々の雑事がある。そんな中、親の居場所はつくりたくてもつくれないのである。決して恩知らずなわけではない。老夫婦に親切な紀子が、戦争で夫を亡くした寡婦であり、子供の持たない身であることは、偶然ではあるまい。新しい自分の家族を持つことは、生まれ育った古い家族を捨てることなのだ。

 すべて動物は我が子の面倒を見るようプログラミングされている。それは種の保存に関わる本能である。
 しかし、自分を生み育ててくれた親を死ぬまで面倒を見る動物はいない。それはそもそも本能に書き込まれていない行為なのである。
 唯一、人間だけがその行為をやることができる。本能でなく、文化として位置づけたことによって。(もちろん、愛も感謝も恩も義理も文化である)

 『戸田家』ではこうした一つの文化が時代と共に失われていくことを嘆き憤った小津が、『東京』ではある種の諦観と受容において映画を撮っているように思える。
 それとともに、『戸田家』ではほとんどない自然描写が、『東京』では頻繁に取り入れられる。生いること、老いること、別れること、死ぬこと。あたかも、人間も自然も同じ宿命のうちにあると達観しているかのように。

 文化が壊れていくことの焦りと憤りは、わずか12年の歳月を経て、哀しみと諦念に変わった。
 1941年から1953年。
 その間に小津監督自身に何があったかは知るよしもない。
 何が日本にあったかは言うまでもない。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 聖父子 映画:父ありき(小津安二郎監督)

父ありき 1942年松竹作品。


 この映画を見るのは何回目だろう?
 観るたびに、すでに完成の域に入りつつある小津ワールドの独特なリズムと時間の流れ(それは慣れないうちは眠くなるが、はまるとその心地よさに病みつきになってしまう麻薬である)に酔い、父と子が渓流釣りするシーン、城郭(上田城址?)で対話するシーンの圧倒的な美しさに心震える。
 状態の良いフィルム、くっきりとした音声で、観たい聴きたいと、これほど思わせられる映画はない。
 一方、観るたびに、ある種の居心地のわるさ、妙に落ち着かない気分を味わうことにもなる。
 それは、この父親と息子の関係性に起因している。


 戦前の日本の理想的な父親と、親思いの真面目な孝行息子。
 なんの文句もないのであるが、この二人の関係、親子というより、なんだか恋人同士か夫婦みたいなのである。
 成人後、秋田で学校教師をしている息子の良平(佐野周二)は、舎監の仕事の合間にふと手を止めて、ポートレートを取り出し、写真に微笑みかける。その相手は大学時代に知り合った恋人、ではなく、東京で働く父親の周平(笠智衆)である。彼の切なる願いは父親と一緒に暮らすこと。
 宴会に行った父親の帰りを一人布団の上で待つ良平、帰宅した父親をうきうきと迎える姿は、夫の帰りを待つ新妻そのもの。父親と会話するときのうれしそうな表情からは色気さえ漂っている。
 結婚相手を世話しようとする父親に、頬を赤らめ、はじらいながら、「おとうさんにおまかせします」と言うシーンなどは、畳の上に「のの字」でも書いているかと思うほど妙にかわいい、というか妙。
 なんか見てはいけないものを見てしまったという感じがする。
 父親もまんざらでない。息子と一緒に風呂に入ったり(そんなに広い風呂場がありそうな家には見えないのだが)、仏壇に向かい亡くなった母親に徴兵検査合格を報告する息子の姿を、口元をほころばせながら飽かず眺めている。

 同性愛(近親相姦)のニュアンスがあるというのではない。それは小津映画にはありえない。
 この父と息子のいっぺんの翳りもない愛情に満ちあふれた関係は、世間一般の普通の父子関係ではないと言いたいのである。

 父と息子の関係は、ややこしいものである。
 自分の場合を見てもそう思うが、世間的にも決して「互いへの尊敬と愛情に満ちた、いつもそばにいたい良好な関係」などではない。
 母と息子ならそれは可能だろう。父と娘でもあり得よう。『晩春』の笠智衆と原節子はまさにそうだった。
 だが、父と息子はそうはいかない。 
 西欧なら、父親を殺したオイディプスがいる。エデンの東、スターウォーズ。日本なら、巨人の星、美味しんぼ、エヴァンゲリオン、宮崎吾郎の『ゲド戦記』・・・。父親と息子は理解し合うことも愛情を示し合うこともなく、いつも闘っている。それが、あたかも父親と息子の宿命であるかのように。
 息子にとって父親は、人生の先輩であり、見本であり、前に立ちはだかる岩壁であり、到達し乗り越えるべき山である。それは、常に自分にプレッシャーを与える存在である。
 父親はまた社会の象徴でもある。個人として目覚め、個人として生きたいといきり立つ息子に対峙し、その気持ちを潰し、行動を束縛し、自尊心を打ち砕く社会というものが、人間の姿をして身近にあらわれたのが父親である。古今東西、父親の役割は息子を社会化させることにあった。(ここ過去形にしました。)
 
 映画の中でも、周平は、「一緒に住みたい」という良平の希望を常に裏切り続けることで息子に忍耐と我慢を教え、いつかは出て行くことになる社会の厳しさに対し準備させている。父親としての役割をきちんと果たしている。決して、親子関係のとり方が間違っているわけではない。(息子に対する父親の役割について描いた映画に『父、帰る』がある。これは、つよい衝撃と深い考察を呼び起こす傑作。)
 でありながら、あまりにうるわしすぎる父と息子の関係。
 なぜそれが可能なのか?
 そこにはいくつかの条件が前提としてある。
 
1. 母親がいない。父親が母親代わりもつとめていた。
2. 父親は再婚しなかった。
3. 息子は一人っ子である。
4. 息子の中学・高校・大学時代(いわゆる反抗期・疾風怒濤期)に、二人は離ればなれでいた。
5. 息子は結婚していない。晩生である。
6. 父親の人格が高潔である。
7. 息子の結婚が決まったとたん、父親は亡くなってしまう。


 この条件のどれか一つ欠けただけで、二人の関係は微妙に変化し、うるわしい関係は崩れてしまう。
 たとえば・・・。
 周平が女房を亡くしたあとすぐに再婚して別の子供を作っていたら?
 周平に良平のほかにも子供がいたら? とくにそれが娘だったら?
 良平が思春期を周平と共に暮らしていたら?
 良平の結婚後も父親が生きていて、ずっと同居するとしたら?
 周平がアルコール中毒だったら? 女癖が悪かったら?
 
 すべてが変わってくることが見えてくる。

 いくつもの条件の稀なる積み重ねの結果として、あのような天上的な父子関係が一時的限定的に成り立ったのである。それはまるで、この世ではあり難い父子の姿をスクリーンに永遠にとどめんが為に、条件を考え出して、逆算して設定を作ったかのようである。
 
 いくつもの困難を乗り越えた先に一瞬立ち現れた幻こそ「聖なるもの」の刻印が押されるにふさわしい。
 

 
評価: B+
「A-」をつけるつもりだったが、やはり一部フィルムの見にくさと音声の悪さは無視できない。

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!





● 映画:風の中のめんどり(小津安二郎監督)

 風の中の雌鳥1948年松竹。

 日本が無条件降伏してから3年後に撮った映画である。
 映画の中の時代背景も舞台も状況設定も、そのまま当時の日本(東京)とみていいだろう。
 その意味では、リアリズム映画と言える。よくあったであろう話。

 出来としては、当時の批評家の評した通り、そして小津監督自身が言った通り、「失敗作」なのだろう。84分という短い上映時間にかかわらず、長く感じてしまったあたりにそれが表れている。

 見るべきは、主役の田中絹代の演技となる。
 この人はぜんぜん美人じゃないけど、存在感は尋常じゃない。この人とからむと、あの京マチコでさえ食われてしまう。(『雨月物語』) 女の情念や愚かさや一途さを演じたら、この人の右に出る女優は昔も今もそうそういないだろう。
 そして、なんとなく小津監督もこの人の演技にひきずられてしまったのではないかという感じがする。
 というのは、小津映画にあっては役者の過剰な演技力は‘余分’であるからだ。それは、もっとも小津映画で輝いたのが、笠智衆と原節子であったことからも知られる。笠も原もなんだかんだいって、決して上手い役者ではない。少なくとも、同様に小津映画の常連であった杉村春子や『東京物語』の東山千栄子のように新劇的な意味で演技できる役者では、全然ない。
 だが、小津が自らのスタイルを確立する上で必要としたものを二人は持っていた。
 立体的で虚ろな顔と、純潔なたたずまい。
 言ってみれば、二人のありようこそが、真っ白なスクリーンかキャンバスみたいなもので、あとは小津マジックで、場面場面で必要な様々な感情や印象を二人の役者に投影して見せることができたのだ。そこで変に演技されると、小津スタイルを壊してしまう。

 病気になった子供の看病をするシーン。布団に横たわっている子供の顔をしゃがんでのぞき込む田中絹代は、スクリーンの中心から左半分にいる。子供の姿はそのまた左側なのでスクリーンに入っていない。凡庸な監督ならば、心配する母親の顔が画面中央に来るようにして、子供の寝姿と共に撮すだろう。
 この不思議な構図で我々の目が惹きつけられるのは、スクリーンの右半分、小卓に置かれたビールかなにかの瓶である。表面の光沢と物体としての重さ。その異様なまでの存在感。
 「物(自然を含む」)と「人」とが等価値で、時には「物」の方が尊重されて、スクリーン上に配置される。語ることなく動じることなく、ただそこにある「物」の世界の中に、ほんの一時、顕れてはドラマを演じ消えていく人間達。  
 「物」と「人」との絶妙なバランスこそが、小津スタイルの刻印である。

 杉村も東山も日本の演劇史に大きな足跡を残す名優ではあるが、微妙なところで、小津スタイルを壊すことなく、むしろ、持ち前の演技力によって逆に小津スタイルを浮きだたせる役割りを担っている。それは、小津の使い方がよかったのか、杉村や東山の呑み込みがよかったのか。きっと、もともとそれほど芝居をさせてもらえるようなテーマや脚本や役柄ではなかったことが大きいのだと思う。(杉村春子主演で小津が監督したら、やっぱり失敗作になると思う。)
 この映画での田中絹代は、小津スタイルにはまりきれていない。容貌ももちろんそうだが、何より本気で芝居している。この脚本と状況設定とでは、そうするよりほかないだろう。そう撮るよりほかないだろう。
 田中絹代は、役者に十分演技させながら独特の美を造形していく溝口スタイルにこそ向いているのだ。(『西鶴一代女』) 


 結論として、テーマ自体が小津スタイルには向いていなかったということである。

 それにしても、この翌年に『晩春』を撮っていることが驚きである。
 なんとなく、60年代くらいの映画と思ってしまうのだが、『晩春』も無条件降伏からたった4年後の話なのだ。




 評価:C+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!





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