ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

山口修源

● 1/ f の希望 本:『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司著)

2013年講談社より刊行。

 『脳はなぜ「心」を作ったのか』 『錯覚する脳』(共に筑摩書房)を世に問い、稀代のトンデモ学者 or 科学によって悟りに達した覚者?――と、毀誉褒貶さまざまなる前野隆司の本である。今年1月に氏の勤務先である慶応義塾大学にて、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老と公開対談し、意気投合している。その内容はサンガ発行の季刊誌『サンガジャパン』26号の巻頭を飾っている。この号の特集は『無我―「私」とはなにか―』である。
 前野隆司の関心および研究テーマや世界観や人間観、そこから生れてくる言説は、きわめて仏教的なのである。スマナサーラ長老は、同じく高名な学者でベストセラー作家としても有能な養老孟司とも対談し共著も出されている。養老の言説もまた仏教的である。ソルティの実感では、前野のほうがより仏教の核心に迫っていると思う。悟りの何たるかを理解し、もしかしたら‘それ’を体現している。

 前野隆司の提唱する主要な理論に「受動意識仮説」というのがある。

 受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識」下の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである。(ちくま文庫『錯覚する脳』より引用)

 分かりやすく言えば、「私が見た」「私が聞いた」「私が感じた」「私が考えた」「私が決めた」「私が感動した」「私が愛した」「私が怒った」「私が喜んだ」「私が話した」「私が記憶した」「私が悟った」・・・・e.t.c.という「私」を主語にした体験はすべて幻想・錯覚であって、無意識が自在に機械的に行っていることのあとづけを「私(=意識)」というラベルのもとに整理統合しているに過ぎない。「私=意識=心=クオリア」と呼ぶものには実体がなく、すべての生命を突き動かしてあれこれさせている真犯人は無意識である。
――ということだ。
 より分かりづらくなったか?
 もっと単純にする。
 ある会社員が「今日の昼飯はカレーライスにしよう」と決めたことは、「彼」の意思決定の結果ではなく、無意識の情報処理の結果であり、無意識がはじき出した「カレーライス」という結論を、あとから生まれた「私」があたかも自分がそう決めたかのように思いなしている。
 これを仏教用語で言えばこうなるだろう。
 
諸法は無我であり、ただ因縁によって輪廻する 
 
 ソルティの見立てでは、前野の言う「無意識」とは因縁(業を含む)の別名である。この世は因果法則という巨大な精密機械(またはプログラム)によって動いていて、そこでは因縁が果を生み、果が新たな因縁となる。一部の狂いもなく冷酷なまでに精確に働いているメカニズムのうちに「私の意志」など存在する余地は微塵もない。「私の意志」と思っているものは錯覚に過ぎない。
 別の観点から言えば、「私」もまた、巨大な蜘蛛の巣にかかった羽虫のごと、身動きままならず糸の振動に身をまかせている、メカニズムの一部である。「私」とは‘条件付け’の産物である。

 本書で、科学者である前野は「なぜ人は死を怖れるのか」を最新の科学的知見を用いながら科学的思考によって考察・究明し、ひるがえって「ではどうしたら死が怖くなくなるか」を述べている。
 上記の受動意識仮説を蓋然性の高い真理として受け取れば、結論は明確に導かれる。
  1.  人が死を怖れるのは、「自己(=私)」を失うことを怖れるからである。
  2.  だが、そもそも「自己」は幻想であり錯覚であり、はじめから存在していない。
  3.  ならば、「私はすでに死んでいる」のであるから、死を怖れる必要などない。
  4.  「自己」を幻想と見極めれば、死の怖さは消失する。

仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。(表題書より)


神野寺&鵜原理想郷 054


 本書後半では、「死が怖くなくなる7つの方法」を提案している。
 著者によれば、いずれの方法も「人類が蓄積してきた学問的な知の蓄積を論拠とした、確実で安全・安心なルート」である。つまり、「天国があるから大丈夫」「復活するから怖くない」「死は存在しない。生命は永遠に生まれ変わる」「死んだら高次元にアセンションする」「死んだらあの世で愛する人に再会できる」というたぐいの宗教的・スピリチュアル風な、確証の得られない‘おためごかし’ではない。むろん、脳科学の知見から導き出された受動意識仮説も方法のトップに挙げられている。
 前野が挙げた7つの方法を読んでこう思った。
「一言で言えば‘悟りなさい’ってことじゃないか」
 というのも、7つの方法のいずれも、悟りを開いた人たちの心境なり物の見方なり世界観なりを説明しているように、すなわち悟りを7つの異なった局面から概観しているように思えるのである。なるほど、悟った人は死を怖れない。

 ブッダは瞑想と智慧によって悟りに達した。仏教は瞑想と仏法によって悟りに達する道を伝える。
 しかし、スマナサーラ長老もどこかで書いていたが、最初の悟り(預流果)に達するために必ずしも瞑想は必要ないのだそうだ。仏教を深く理解して納得することで達しられるという。
 量子力学、脳科学、宇宙論・・・最新の科学的知見はまさに仏教の‘正しい’ことを次から次へと証明しつつある。おそらく現代人は、過去の真摯な仏教徒たちが仏教(瞑想&仏法学習)によって達し得た地点に、知性と現代科学の理解によって到達しうるのであろう。
 前野隆司こそはその典型と思われる。

P1290227

 

 ところで、ソルティは受動意識仮説に99%賛同、1%異議がある。つまり、
 本当に自由意志は存在しないのか?
 自己決定は有り得ないのか?
 もし、なにもかもが無意識によって決定されているのなら、すべてが因縁と業によってあらかじめプログラミングされているのなら、それは決定論・宿命論になってしまう。
 物事は変えられない。世界は「筋書きのある」ドラマである。予定調和または予定不調和が世界の実相である。何をやっても徒労である。成功する人は成功するし、失敗する人はいくら頑張っても失敗する。努力は無駄となる。
 社会運動も科学の進歩も無駄である。人類は初めから決まっているゼロポイントに向かって、タイタニック(あるいセウォル号)の乗客さながら運ばれていくだけである。
 仏教と出会うチャンスも修行しようという意志もあらかじめ個々人のプログラムに書いてあることになる。今生で悟るか悟らないかも、来世どこに生まれ変わるかも、すでに決定している。
 物事はなるようにしかならない。
 本当にそうであろうか?

 そうは思わない。
 「この世で本当に驚嘆すべき事柄は‘悟る’ということがあるということです」とどこかでブッダが言っていたように、巨大で抗し難い因縁の網から抜け出る道があるはずだ。プログラムのバグを見つけて、そこからすべてのプログラムを消去する方法があるはずだ。すなわち、「」が条件付けから抜け出る可能性がある。

 前野と同様、現代科学の知見をもとに「自由意志が幻想である」ことを見事に解き明かしてみせた宗教家・山口修源は、その力作『仏陀出現のメカニズム』でこう述べている。

 われわれはこれまで、全くの自由意志の許に生きてきたと信じて疑うことはない。しかし、本書は、それを現代科学に基づいて否定してきた。実は、自由人生どころか機械的な人生であることを明らかとしてきたのである。さらには、先祖及び個人の前世にまで言及しその意識の奥に無意識なる存在があり、それによって衝き動かされているという心理学理論を紹介した。・・・・・それらを整合していくと、われわれには如何ともし難い因果の関係性を見出すのである。それは巨大な力でわれわれを衝き動かしていく。
 しかし、その巨大な力に抗し得る偉大な自我或いは自己或いは霊(たましい)の存在があることを心理学者は示してくれたのである。それは、物理学法則にいう「ゆらぎ」によって導かれるものである。われわれの透徹した意識は、このゆらぎを通して巨大な力に対抗し、すでに定められた運勢を少しでも良い方向に転換させることを可能とするのである。

 前野隆司は現在「人間が幸福になるためにはどうすればよいか」をテーマにした幸福学研究に取り組んでいるらしい。ならば、ぜひやってもらいたいと思うことがある。
 「激流に揉まれる一枚の葉のごとく無意識に突き動かされている生命が、どうやってその流れから脱出できるのか。我々は無意識の支配からいかにして抜け出せるのか」という問いについての純粋に‘科学的’な考察であり研究であり解明である。
 「なぜ人は悟れるのか」ということである。

 
 人間が、そのなかに自分が囚われている冷酷なメカニズムを深く理解したとき、あらんかぎりの力でこのメカニズムの性質を十全に把握したとき、そのとき初めて彼は、彼の一切の行為の起源である分離の意識を自発的に吟味するであろう。英知をもって、感情と思考をもって、彼は、誰も実際に避けて通れないこの中心問題に直面するであろう。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)



 
 

● 1%の神秘 本:『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑著、角川文庫)

科学するブッダ 001 第一級のスリリングな面白さに満ちた本である。
 最先端の科学(物理学、数学、進化論)の様相が、科学素人(99%文系)の自分にもわかりやすく説明されている。工学部と文学部(哲学科)を卒業し、現在仏教系の大学の教師である著者だからこそ為しえた離れ業という気がする。まったくこういう書き手がいてくれないと現代科学の動向など伺うべくもない。
 謝謝。

 面白さの第一は、最先端の科学が、実に不可思議な、合理性を拒否するような、ある意味「非科学的」な地点に達していることを知るからである。
 ある面から見ればそれは「頭打ち」であり「袋小路」である。だが別の見方をすれば、新しいパラダイムに跳躍する飛び込み台のまさに突端にいる、と言うこともできよう。
 そして、面白さに拍車をかけるのは、その新しいパラダイムがどうやら仏教的世界観に近似しているという点である。自分は仏教徒なのでワクワクしてしまうのである。
 最先端の科学と仏教の近似。
 そこに着眼し、両岸に橋をかけようとする野心的で質の高い試みとして、この本は山口修源著『仏陀出現のメカニズム 拡大せし認識領界』(国書刊行会)と双璧と言える。
 

 私は本書で、科学と仏教の関係を論じるが、両者の個々の要素の対応に関しては一切無視した。唯識と脳科学だの、マンダラと量子宇宙だの、つき合わせても意味がない。視点は常に、科学と仏教それぞれが目標とする世界観である。スケールはそこに合わせてある。科学は総体として、どのような方向に向かっているのか。仏教は本来、何を目指して活動していたのか。その向かう先を見定めることによって、科学と仏教の知られざる関係性を明らかにしたい。(標題書より引用、以下同)

 という壮大なる目的のもと、著者はまず科学の方向性について語り始める。
 科学が、右肩上がりの比例グラフのように漸次的ではなく、停滞→ジャンプ→停滞→ジャンプという段階的な過程を経て発展していく様をパラダイムシフトと呼ぶ。
 
 パラダイムシフトとは、頭の中の直覚と、現実から得られる情報とのせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ、そういった現象だと考えることができる。「世界はこうあるべし」という脳の生み出す理想世界が、現実を観察することによって得られる外部情報のせいで修正を迫られ、「いやだけど仕方ない」と言いながら軍門に下るのである。
 
 脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、悪く言えば墜落していく、そこに科学の向かう先が読み取れると想定するのである。

 このことを著者は科学の人間化と命名している。
 以下、科学の人間化がこれまでどのように起こってきたかを、物理学、進化論、数学、精神分析学を一つ一つ俎上にのせて調理していく。
 その包丁さばきの鮮やかなること!
 ダーウィン(進化論)とキリスト教(創世記)の攻防も、カントールとクロネッカーの「超限数」をめぐる師弟対決のエピソードも寝食を忘れてしまうほどの面白さにあふれているが、やっぱり圧巻は量子論である。 
 
 量子論は、観測という行為における、観測対象と観測者の関係を根本的に変えてしまった。両者は線を引いて区分けすることなどできない。観測というひとつの行為には、観測の対象と、観測者の両者が不可分のワンセットで含みこまれているのである。電子は重ね合わせの波の状態で存在していると言ったが、量子論の立場から言うと、観測対象と観測者を区分けすることはできず、全体がセットになって世界を作っているのだから、正確には、「電子および、そのまわりの世界は、可能性の重ね合わせの波として存在している」と言わねばならない。
 では、電子のまわりの世界とは何を指すのか。
 文字通り、電子のまわりの世界である。実験装置も、その装置の傍に立っている私も、私が住んでいる日本全域もすべてが電子のまわりの世界である。結局「全宇宙」が電子のまわりの世界になる。電子1個が重ね合わせの波として存在している。それはとりもなおさず、この宇宙の存在すべてが重ね合わせの波として存在しているということである。その中には、観測者である私自身も含まれねばならない。

 エベレットが提出したこうした解釈を「多世界解釈」と呼ぶのだそうである。
 なんともシュール!
 観測者(見る者)と観測対象(見られる物)との関係とは、畢竟するに認識(=心)と存在(=物)との関係である。古来から瞑想者の悟ることの一つは、「見るものは見られるものである(認識=存在)」ということである。観察という行為が、すべからく観察する主体を前提にしている以上、主体の性質そのものがバイアスとならざるをえない。純粋に客観的な、独立して成立している存在や現象など、この世にはありえないということだ。
 
 この事情をいちはやく見抜き指摘した科学者がポアンカレ(1854-1912)であった。
 
 ポアンカレは大量の科学論を残しているが、その基盤は、「科学は人間が生み出したものだ。人間なしには科学的真理というものはあり得ない」という思想である。これは人間が科学を勝手に作り出したという意味ではない。外界は確かに存在しており、科学は、その外界の状況を正しく記述しようとする活動であるから、あくまで外界の状況をもとにして作られている。なにもないところから、人間が自分たちの都合に合わせて気ままに作り出したというものではない。科学の説明が外界の状況と正しく対応すること、それが科学にとっての必須の要件である。
 しかし、外界はあくまで人間に科学を作らせる第一要因にすぎないのであって、外界からの刺激を認識し、思考し、総合して体系化するという作業を行うのは人間側である。したがって科学の中には、人間特有の認識方法、特有の思考方法、特有の総合方法が必ず含まれてくる。だから我々が科学的真理として受け取っている事柄も、実際には人間にのみ当てはまる、人間にとっての真理だということになる。
 
 ポアンカレ、偉大だ。天才だ。その名と違ってポアンとしてなどいない。
 しかし、著者も負けていない。 
 
 こうして人間は、外界からの情報を、人間固有の特殊な形で受け取り、それによって独自の世界像を構築していく。しかしそれが人間にのみ通用する世界像だという意識を持つことはない。世界は実際にそのような様相で存在しているのだ、自分たちの感じている世界像は絶対的なものだ、と確信しながら生活しているのである。
 
 このことを仏教では「無明」と呼ぶのだろう。
 
 さて、これからの科学はどこに向うのか。
 新たなパラダイムはどこらあたりから生まれてくるのか。
 観察という行為において、観察主体が常にバイアスとなってしまうのだから、次なる展開は観察主体のありようを徹底的に調べることだ。
 つまり、人間の認識システムの特徴を研究することが鍵となる。
 そこで、フロイトの精神分析学を土壌にもつ脳科学の出番である。昨今の脳科学の隆盛はこうした背景を知ると納得がいく。
 
 おそらくこれからの科学は、脳科学によって得られる脳の働きに関する知見(料理人の仕事)と、従来の科学理論(出された料理)をつき合わせることで、実際に見ることのできない外部世界の実像(生の食材)を推測するという作業が主になっていくであろう。

 生の食材!!!
 これを一瞥することが「悟り」なのではないだろうか。
 
 著者はここまで延々と、第1章から第3章まで、総ページ数の4分の3を使って科学について書き連ねてきた。
 いよいよ(やっと)仏教の出番である。
 ページを括るのももどかしく第4章に突入したら、あららら・・・。
 なんだか肩すかしであった。
 期待していたのは、仏教とはそもそもどんなもので、仏教の世界観(ブッダの言ったこと)とこれまで著者が懇切丁寧に説明してきた現代科学の知見とが、具体的にどのように似通っているのか、どのように連関しているのか、という照合作業であった。であってこそ、仏教と科学を比較することの意義があるはずだ。
 著者はいきなり結論を持ってくる。 
 

 科学は物質世界の真の姿を追い求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、気がついたら、神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる物質的世界観を作らねばならなくなっていた。一方の仏教は、同じく神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である。
 仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なのである。
 
 続いて著者は、仏教の起源と歴史から語り起こし、経典研究をもとに、以下の点を論証する。 
 
最初期の仏教(釈尊の仏教)だけが持つ三つの特性
 1 超越者(神)の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。
 2 努力の領域を、肉体でなく精神に限定する。
 3 修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余りをもらうことによって生計を立てる。

 すなわち、仏教と科学との近似を論じるのであれば、それは中国を通じて日本に伝わった大乗仏教ではなく、釈尊の言葉(教え)を忠実に伝えた原始仏教でなければならない。経典の勉強と瞑想修行という自己努力によって悟りに達することを根本とする原始仏教こそ、実証的な科学との比較に耐えられる。(といっても著者は大乗仏教の意義を否定してはいない。)
 
 そこで、仏教と科学の関連性について結論を下すなら、仏教と科学は同次元の世界観に立つ人間活動であり、両者を同時に受け入れてもなんら矛盾することがない、ということになる。特に科学の人間化が進んできて、科学の基礎が次第に仏教世界の世界観へと近づいている現代において、仏教と科学の親近性はますます強まっている。
「世界は法則性に沿って展開しているが、その法則性とはあくまでも我々人間が人間独自の視点で構成していくものである。科学は、外部の物質世界を法則性によって理解しようとし、仏教は人間精神を法則性によって理解しようとする。さらに仏教の場合は、その理解した法則性を利用して、自己の向上を目指す。科学も仏教も、人間という存在を視点の中心に据え、現象を法則性によってとらえようとする点では変わることがない」こう考えた人が、仏教と科学を同時に受け入れたとして、どこに矛盾があるのか。


 矛盾はない。
 しかし、「超越者(神)の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明すること」(=人間化)という共通項のみを持って科学と仏教とを結びつけるのはいささか大雑把に思える。それなら、経済学と仏教を結び付けてもいいし、将棋やチェスと仏教を結び付けてもいい。
 現代科学と仏教の近似を説くのであれば、やはり「科学の基礎が次第に仏教世界の世界観へと近づいている」ことを具体的に示すべきだろう。
 つまり、先に触れたような、量子論が明らかにした「認識(観察者)」と「存在(観察対象)」の関係をめぐる不可思議や、宇宙のすべてが重ね合わせの波として存在しており主体(自己)さえもそこに含まれるという驚くべき世界解釈が、仏教の世界観の何に相応するかの示唆があってもよかろう。
 「両者の個々の要素の対応については一切無視した」と著者ははじめに述べている。それならそれでよい。照合作業(つきあわせ)は読者にまかせればよい。ただ、少なくとも科学領域について著者が提供したのと同じくらいの検討材料を、仏教についても提供してほしかったと思うのである。
 自分が「肩透かし」と感じた理由は、仏教の世界観を語る上で絶対に欠かせない「無常」「無我」「因縁」の説明が抜けているからである。仏教素人の読者にしてみたら、そこが説明されたあとで第1~3章を再読することではじめて、「今の科学の最先端はこんなにも仏教と近接しているのか!」、そして「ブッダは2000年以上も前にこんなもの凄い知恵に到達していたのか!」と驚嘆と共に合点がゆくと思うのである。

 とはいえ、ここまで書いてきて、やはりこの本はこのように「尻切れトンボ」に終わるほか仕方がない、著者の姿勢は正しかったと思う。
 「無常」「無我」「因縁」をわかりやすく説明するなど、悟った人間であっても困難を極めるだろう。まだ、フラクタル幾何学や相対性理論を説明するほうが簡単かもしれない。
 そしてたとえ「無常」を見事に説明し得たところで、それを読んだ人間が頭で理解する限り、それは真に理解したことにはならない。
 「不立文字」は大乗仏教(禅)の謂いだけれど、ここから先は個々人が修行(=瞑想)によって身をもって知る世界。 
 著者の言うとおり、仏教を宗教たらしめている1%の神秘がここにある。


● 本:『仏陀出現のメカニズム 拡大せし認識領界』(山口修源著)

修源 何か面白い本はないかと近所の古本屋を渉猟しているとき目についた。
 大袈裟なタイトルとハードカバーのぶ厚さ(442ページ)に最初は買う気なかった。「仏陀出現」とはいかにもトンデモ本っぽいし、大川隆法が自分のことを「仏陀再来」とかふざけたことを言っているのを連想させる。大体、輪廻を解脱した仏陀が再来するわけないのである。再来したのであれば、「もう二度と生まれ変わりません」と宣言した仏陀は嘘をついたことになるから、自身が作った五戒を破ったことになり、とうてい信用できる人物ではないということになる。山口修源という名前もまた、ちょっと前に世間を騒がせた「法の華」の福永法源を連想させて胡散臭さを感じさせる。
 著者プロフィールを見ると、

 幼少より無常観に生きる。中学より聖書を学ぶようになり、キリストに傾倒。同時に高校より仏教に目覚め、更に大学にてインド仏教を専攻。水行等の荒行や、『人間改造講座』の原型となった修行法の実践及び瞑想三昧の日々を経ながら、新聞記者を経験。啓示を受けて1986年ニュー・タイプス・ユニバースを設立、霊性向上を目指した『人間改造講座』を編纂し、指導にあたる。その後、延べ一年にわたる深山幽谷に於いての滝行を中心とした荒行と瞑想三昧の山籠りを経て、ヒマラヤにても数ヶ月に及ぶ行を為すも、目的に達せず。1990年、三十代半ばでついに因縁の地イスラエルの荒野に於いて二ヶ月の感応の行を成し、キリストの出現に出遭い、阿羅漢(悟)を得、現在に到る。


 ・・・・・・・・。

 またぞろ新興宗教団体のリーダーによる誇大妄想チックな自己宣伝本&信者勧誘本か。
 普通なら無視するところであるが、サブタイトル「拡大せし認識領界」がどうも気になる。手にとって中味をパラパラめくってみたら、思いの外であった。ずいぶんと堅気な学術書風な装いで、しかも最新の科学について書かれているらしい。各ページに付けられている用語注釈も親切でしっかりしている。
 前書きを読むとこうある。

 本書は、科学理論に基づいて述べられている。かなり難解である。これ程広い分野にまたがって論が進められ、しかも精緻に及んでいるものはほかに見聞したことがない。・・・・この種の本は、常に科学者の立場から著されてきたが、今回このような形で、行者の立場から分析されたことは意義のあることだと自負している。・・・・・
 これからの宗教は科学性を持たなければいけない。旧態依然とした形で、信じれば救われる的教義は、もはや時代遅れである。何より妄信・迷信・狂信の巣窟になりかねない。一件科学的内容を述べたものもあるにはあるが、結局は牽強付会的に自宗を擁護するところで止まっている。これでは宗教に新の未来は訪れない。


 自信たっぷりである。そこがちょっと恐いところだが、後半部分は正鵠を射ているし、冷静な分析が入っている。
 確かに、見るからに難解そうではあるけれど、4ヶ月通っていた介護の学校も終了したいまは元の無職に舞い戻り時間はたっぷりある。
 だまされるを覚悟で読んでみるか。(定価2000円のところを1000円で購入)

 読み終えるのに半月くらいかかるかなと踏んでいたのであるが、一週間足らずで読了してしまい、我ながら驚いている。
 面白くて、しかも読みやすかったのである。
 他人はどう思うか知らないが、トンデモは感じなかった。むしろ、著者の言うとおり、実に広い分野にわたる最新(この本の書かれた80年代終わり頃)の科学理論のダイジェストが、批判的な検討も加えながら、非常にわかりやすく体系的かつ客観的に紹介されており、現代の科学(物理学、分子生物学、脳生理学、精神分析学等)の最先端がどのあたりにあるのかを知る格好のテキストになっている。新聞記者の体験があるだけあって文章も実にこなれていて、うまい。
 これは当たりであった。
 やはり偏見は損をする。

 とは言え、やはり著者は行者であり宗教家である。
 自称「阿羅漢」でもある。


 阿羅漢とは完全に悟った(解脱した)人のことを言う仏教用語である。「完全に」悟ったとはどういう意味か。完全でない悟りもあるのか。
 そうなのである。
 仏教では悟りは4段階ある。
1.預流果(よるか)・・・悟りの流れに入った。今生にあと7回生まれ変わる間に解脱する。
2.一来果(いちらいか)・・・あと1回今生に生まれ変わって解脱する。
3.不還果(ふげんか)・・・今生には生まれ変わらない。天界に生まれ変わってその命が尽きて解脱する。
4.阿羅漢果(あらかんか)・・・もうどこにも生まれ変わらない。輪廻を脱した。

 こういったことが日本でこれまで伝えられてこなかったのはまことに不可解である。日本は大乗仏教の国で、釈迦本来の教えが入ってこなかった(広まらなかった)からという一応の理屈はあろうが、ことは仏教の核心たる、すべての修行者の最大にして最終目的たる「悟り」に関してである。
 悟りが何なのか、どうすれば悟れるのか、悟りには段階があるのか、伝統仏教(いわゆる小乗仏教)でははっきりと経典に示され、そのための修行体系も整っている、修行において最も重要なポイントが、我が国には明確に伝わっていなかったのである。長い日本仏教の歴史の中でどれだけ多くの行者や僧侶が悟りを求めて苦難呻吟してきたかを思うと、実にもったいないというか奇妙奇天烈な話である。おかげで、日本においては「悟り」というものが亀の毛か兎の角のように、現実にはありえない、暇で奇特な一握りの人間たちが執りつかれた世迷い言のようなものになってしまったのである。

 だが、実際に人は悟れるのである。
 最後の阿羅漢果まで行くのはさすがに難しいが、最初の預流果はきちんと修行すればそれほど期間をかけずに得られる。実際、古い経典でも釈迦の説法を聞いて一度に多くの人がその場で預流果を得た話があちこちに見られる。チャレンジする価値はある。

 話がそれた。
 山口修源は阿羅漢ということだから、完全に悟ったということである。本当だとしたら、たいしたことである。
 この本は、阿羅漢・山口修源が見出した究極の真理と、現在わかっている最先端の科学知識及び理論との整合性の確認という意味合いもある。「行者の立場から分析された」とはそういうことである。

 第一章では、著者のこれまでの人生で起った数々の神秘体験が述べられる。このあたりは好奇心も手伝って面白く読める。
 とりわけ、20歳の時に起こったという体験が興味深い。

 「アッ・・・無い!」
 「本当に無い。何も存在しない。全ては幻影ではないか」
  ・・・・・・・
 それは、劇的な体験だった。二十歳の夏の出来事だった。それまでの認識では、この世(現象世界・三次元世界)の存在は明らかに実在しており、且つ、非現象世界(四次元以上)も、三次元世界に重複して実在していると考えていたのである。もちろん、この考えは一定の法則性において間違ってはいない。しかし、これ以上の新たな認識、否、真実に気付かされたのである。・・・・・・端的に言えば、この世は存在しないーということになる。 


 修原氏(当時はまだ修源を名乗っていなかったであろうが)は、まさに般若心経で有名な「色即是空」を悟ったのである。
 面白いのは、このときの悟り方である。

 実は私にとって、この体験はもう一つの興味ある側面をもっていた。それは、従来のこの種の“神秘体験”が直感をもって行われてきたのに対し、この時に限っては、無限な程に速いスピードで脳が活動し、この把握(認識)を導き出したことである。脳が瞬時にして、信じ難い程のスピードで次々と論理を追い遂に最終結論を導き出したという驚くべき体験は、味わった者でなければ理解し難いことであろう。


 第2章からいよいよ本論である現代科学の分析に入る。
 次々と読者の前に紹介される学者や研究者の名前と彼らの提唱した理論名を挙げるだけでも、著者がいかに広い分野の本を読破し、科学素人の読者にかみ砕いて紹介できるまでに内容を深く理解しているかが分かる。そのうえ、各理論について欠陥や不足を指摘できるまでに検討・分析を加えているのである。これだけでも、修源氏が尋常でない頭脳の持ち主であることが知られる。

 詳しい内容は省くが、物理学(フリッチョフ・カプラやデイヴィド・ボームが登場)、分子生物学(今西錦司や利根川進やリチャード・ドーキンスが登場)、脳生理学(クンダリニーへの言及、ペンフィールドが登場)、精神分析学(フロイト、ユング、ソンディが登場)という多岐の異なる科学領域を闊歩しつつ、そこに浮かび上がって見えてくる‘統一理論’を著者は指し示そうとする。それはまた、著者が深い理解と敬意をもっているのが歴然である中国古来からの教えである道家思想につながる。

 われわれはこれまで、全くの自由意志の許に生きてきたと信じて疑うことはない。しかし、本書は、それを現代科学に基づいて否定してきた。実は、自由人生どころか機械的な人生であることを明らかとしてきたのである。さらには、先祖及び個人の前世にまで言及しその意識の奥に無意識なる存在があり、それによって衝き動かされているという心理学理論を紹介した。・・・・・それらを整合していくと、われわれには如何ともし難い因果の関係性を見出すのである。それは巨大な力でわれわれを衝き動かしていく。
 しかし、その巨大な力に抗し得る偉大な自我或いは自己或いは霊(たましい)の存在があることを心理学者は示してくれたのである。それは、物理学法則にいう「ゆらぎ」によって導かれるものである。われわれの透徹した意識は、このゆらぎを通して巨大な力に対抗し、すでに定められた運勢を少しでも良い方向に転換させることを可能とするのである。


 この「如何ともし難い因果の関係性」から抜けることが、いわゆる解脱なのであろう。
 修源氏は、そのための方法(修源之法)を一章をあてて読者に伝授してくれている。
 なに、おびえることはない。頭にヘッドギアなんかつける必要も、滝に打たれる必要もない。

 自観法―自分自身を観る、気づく。

 いま、あなたは私のこの本を読んでいるところだ。正にこの文字を見、理解しようと必死(?)である。そこでこの本を読んでいる自分に改めて気づけば良いのだ。これが自観法である。

 単純で簡単そうなのだが、やってみるとこれが結構難しいことに気づく。
 「今ここ」の自分自身(の身体・心・動き)に気づくことをサティ(念)と言うが、これこそ伝統仏教の悟りに至る瞑想と言われる「ヴィッパサナ瞑想」の中核を成す。してみると、修源之法はそれほどナンセンスなものではない。

 自分自身に気づくことがなぜ「如何ともし難い因果の関係性」の集合体であるところの自分を変容させるのか。
 その点について量子力学の第一命題とも言うべき次の一文が何かを示唆しているようで面白い。

 量子物理学において一個の粒子を観察すると、観察するという行為が、粒子そのものに対して何らかの影響を与える。


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