迷いと確信2007年サンガ刊行。

 日本でテーラワーダ仏教を教え続けて20年以上になるスマナサーラ長老は、これまでにいろいろな著名文化人と対談を重ねている。
 ざっと思いつくままに上げてみるだけでも、
① 玄侑宗久(臨済宗僧侶、作家)
② 立松和平(作家)
③ 鈴木秀子(聖心会シスター、評論家)
④ 南直哉(曹洞宗僧侶)
⑤ 有田秀穂(脳生理学者、医師)
⑥ 夢枕獏(作家)
⑦ 香山リカ(精神科医、評論家)
⑧ 瀬戸内寂聴(天台宗僧侶、作家)
⑨ 養老孟司(解剖学者)
⑩ 小飼弾(プログラマー、実業家)
 錚々たる顔ぶれである。
 自分がもっとも面白く読んだのは、④南直哉との対談『出家の覚悟』と⑩小飼弾との対談『働かざるもの、飢えるべからず』(ともにサンガ発行)である。
 対談相手によって、話されるテーマや雰囲気や話の難易度はずいぶん異なる。
 一般に、僧職相手の場合がもっとも話の密度が濃く、仏教用語が飛びかうためもあって難しく、丁々発止のやりとりが炸裂している印象がある。どうしても、大乗仏教V.S.テーラワーダ仏教の構造になってしまうし、無常や無明や輪廻転生や悟りなど仏教の真髄に触れる対話になってくるから、そこは乗る船は違えども同じ仏弟子同士、切るか切られるかの真剣勝負である。読者はそこに面白みを感じ、かつ学ぶわけである。

 宗教学者として著名な山折哲雄(父親が浄土真宗本願寺派の僧侶であったらしい)との充実した対話が楽しめるこの本もまた、ブッダその人や仏法に関わる話題はむろんのこと、日本仏教の歴史や現状、現代日本社会の諸問題、仏教的な見方やライフスタイルが日本人の生死にどう役立ってくるか・・・といったことを縦横に語り合っていて興味はつきない。
 特に「仏教カウンセリングの実践」と題した第三章において、①‘妄想ループ’が人の苦しみをつくり出していること、②それは認識の欠陥(=無明)によって起こること、③それを断ち切るためには観察(ヴィパッサナー瞑想)が有効であること、をまことにシンプルに語って、全編中もっとも対話--というか言葉の真の意味での‘問答’――が白熱し、ページをくくる手が震える。いわば、この本のキモである。
山折:    無明はどこから来るのですか。
スマナサーラ: どこからも来ません。
山折:         人間であれば、必ず無明ですか。
スマナサーラ:  「生命であれば」無明です。
山折:         存在それ自体が無明であると。
                   では、存在をそのままの形にしている限り、悟れないことになる。
スマナサーラ:  存在は正当化すると悟れません。  

 上記のすべての対談において共通して言えるのだが、スマナサーラ長老の語りの論理的なことにはほとほと感心する。
 これは、ギリシア論理学と並び称される強靭な論理学の歴史と体系を誇るインド文化圏(スリランカ)に長老が生まれ育ったことに由来するのだろう。元来、理知的で科学的な頭脳の持ち主(理系)でもあるのだろう。その上で、客観的に事実に基づいて観察することを重視するテーラワーダ仏教のマスターなのだから、これは本邦のちょっとやそっとの学者や評論家では敵うところではない。
 上記のどの対談を読んでも、スマナ長老の語りが圧倒的に明晰で論理的で、事実と事実でないものを伝えるときの言葉の配慮が行き届き、十二分にクリティカルシンキングおよび弁論のトレーニングが為されているのが感じられるのにくらべ、日本人の対談相手は全般、情緒的で直感的で、どこまでが実際のデータ(テキストや統計など)にもとづいた意見(事実)で、どこからが伝聞や憶測で、どこからが本人の体験や考えなのかの区別があいまいである。「そのときそのときの気分で思いついたことを話している」といった印象すら受ける。
 日本語の特質のせいでないことはもはや明らかである。
 スマナ長老のセリフのはしばしにそうした特徴は伺われる。
○ その場合はデータがないと研究になりません。
○ 論理的にはその可能性があったといえます。しかし、それにはデータを出して調べなければならない。
○ 私の個人的な経験で言えば、できない人の方が少ないです。
○ どうやって死後を言えるんでしょうか。仏教は厳密に論理的な世界です。過去世は歴史だから言えるんです。来世はまだ現象化していないから。言えるはずがありません。
○ それはインドで書かれた経典でないから、私は勉強していないのでわからないんです。
○ それは日本人の問題であって、それに私が答える必要はないと思います。
○ 山折:阿難尊者の優しい穏やかな表情というのは、わが国の平安時代から鎌倉時代にかけての代表的な釈迦仏とか阿弥陀如来仏とか大日如来と非常によく似ていると言っていいかもしれない。その点では単に、美男におわす、だけではないのではないか。
 スマナサーラ:遺伝的に言えば、顔、形はお釈迦様に似ていないとだめです。兄弟ですから。
 まったくクールでドライである。(ビールの宣伝か)

 さて、二日間にわたる対談の最後に山折はこう慨歎する。
 スマナサーラさんのお話を伺って、つくづく思ったことが一つだけあるんです。それは、同じ仏教といいながら、テーラワーダ仏教の伝統というのは、一種の「確信の仏教」、つまりブッダの生き方を確信する人々の仏教だ、ということです。それに対して大乗仏教とは、誤解を招きやすい言い方になりますが、「迷いの仏教」ではなかったのかと。「確信の仏教」対「迷いの仏教」。これがテーラワーダ仏教と日本の仏教の大きな違いではないかということです。
 今まさに日本における仏教というのは、この「迷いの仏教」の伝統の中で迷いに迷っているという感じがします。とはいっても、それは必ずしも悪いことじゃないんです。ただ、その重点の置き方は大きく違っている。人間生きるか死ぬかという問題についても、テーラワーダ仏教の側からは、つねに確信する者の声や響きが聞こえてくる。だからこそまさにテーラワーダ仏教なのでしょう。(ソルティ注:テーラワーダとは「長老」の意) これに対して大乗仏教というのは、常に大衆の側に立って考え続けてきた。迷わざるを得ないわけです。その究極の状態に日本の仏教はきているのかもしれない。

 この潔さは、山折氏の学者としての、あるいは一人の人間としての謙虚さや柔軟性を十二分に示していよう。
 と同時に、氏が大乗仏教の研究者ではあっても僧侶ではないところにも拠るのかもしれない。
 いずれにせよ、パラダイムを変える力をもつ大胆にして鋭敏な洞察である。