逝かない身体 2009年刊行。

 60歳目前にしてALS(筋萎縮性側索硬化症)になった母親を介護し、最期まで看取った娘の手記である。
 「歩きにくくて、しゃべりにくい」という異変を来たした母親は、病名告知を受けるや、主治医も驚くほどの速さで病状が進行していった。歩行、食事、排泄、入浴と自分でできることがどんどん失われていき、寝たきりになってしまう。本人も家族も納得ゆくまで存分に話し合う余裕もなく1年も経たないうちに気管切開して人工呼吸器を装着、同時に胃瘻による経管栄養が始まる。家族とイギリスでの生活を楽しんでいた著者は、二人の子供を連れ、夫と離れて実家に戻って来ざるを得なくなる。
 それから10年以上に及ぶ365日24時間休みなしの在宅介護が始まった。


 まず思うのは「身体ってのはなんと面倒くさい、わずらわしいものなのか」ということである。ALSは身体こそ動かなくなるが感覚はそのまま残る。「かゆい」「痛い」「重い」という感覚を感じながらも自分ではどうすることもできないのである。周囲の人に体位交換してもらい、体を掻いてもらい、眠りに入る際の最適な体位を決めるための数センチの微調整にこだわらざるをえない。

 動かぬ身体の彼らは常に、身体と身体、身体と物品、そして身体と身体の拡張性を保障する機械のインターフェースに気を配って生きている。しかしそれを実行するのは本人ではなく別の人であることから、面倒な作業、すなわち介護の必要性が生じるのである。


 いっそ麻痺になって感覚すら失われたほうが、本人も介護者もラクなのではないかと思われるほどだ。普段、健常者がどれほど無意識に身体の微調整を行い、身体に次々と生まれる苦から「自分」を逃がしているかに思い至る。ブッダが看破したように「一切行苦」であり、「快」や「楽」は、「苦」という常態から解放された瞬間にだけ現れるのである。
  
 介護の大変さは想像を絶する。著者は、意気消沈しほとんど役に立たなくなった父親(患者の夫)への期待を捨てて、会社を辞めた妹と代わる代わる付き添いを行う。

 病人がいちばんつらいだろうけれど、自分の人生をなかば放棄してまで親につきあわねばならない子どもには、それなりの言い分も悔しさもあった。でもストレスを発散する方法もない。介護で外出がめっぽう制限されるから、仕事もできないし友人にも会えない。私は介護を契機に夫と別居するはめになってしまったし、妹は長年勤めてきた出版社を退社してしまった。余裕がなくなると自分たちに起きる悪いことはみな母のせいになってしまった。


 お願いだから介護に協力してほしいと何度本人に訴えたかわからない。しかし、こちらの提案はめったに受け入れてはもらえない。まったく協力しないのだ。こうしたら母のためになるだろうといろいろ工夫して実行しても、とたんにダメと却下されてしまう。毎日の着替えもオムツの交換方法も、手や足を置く位置も、「何から何まであなたたちの言うとおりになどならないわ」という意地さえ感じられる。しかし今思えば、そうやって母は自己主張の練習をしていたのだった。この先長くALSと仲良くやっていくために。

 まだ動く筋肉を使ってナースコールを鳴らし、透明文字盤と瞳の動きによって意思表示をしていた母親だが、呼吸器を装着してわずか3年で、瞼が開閉できないところまで進んでしまう。いわゆるTLS(Totally Rocked-in Syndrome、完全閉じ込め症候群)である。
 耳は聞こえる、これまで通り身体の感覚もある。しかし、いっさい発信ができない。自分の意志や感情や欲求を伝えることができない。患者が何を思い、何を考えているか、それを周囲が知る手立てがない。
 いや、正確には顔色や血圧や脈拍を通して患者の気分を想像するほかない。
 ここに至って、これまで懸命に介護してきた著者は「安楽死」を考える。安楽死法について調べ、片っ端から見ず知らずの学者に意見を問うメールを出す。 
 

 肉親に迫り来る意思伝達不可能な状態を想ったとき、殺したくなるのは私だけではないはずだ。そんな患者は生きているよりも死んだほうがQOL(生活の質)が高いという医学論文もある。
 そのころ、母の心情を察すると、決まって脳裏に浮かぶ映像があった。
 東山魁夷の絵にあるような深い雪に埋もれた青い森。そのなかをさまよい、いつしか小さな湖の畔に私はたどり着く。そして今にも沈没しそうな一平米ほどの小さな浮き島に母の姿を発見するのである。
 母は腰にエプロンをかけた姿で、小さな木製いすに腰を掛けて寒そうに膝を撫でながら泣いていた。
 
 母親のために何もできない、見捨てざるを得ないという罪悪感に苦しめられ、答えを求めていた著者は、社会学者の立岩真也に出会う。このブログでも取り上げた『ALSー不動の身体と息する機械』の著者である。
 
 ・・・京都に帰る先生を東京駅で見送るまで八時間近くもしゃべり続けたが、先生は迷惑な顔ひとつ見せず、私の話した内容を整理してくれた。そして、社会学者が皆そう言うとは限らないが、私の抱えている問題の多くは病気そのものではなく、社会の仕組みでどうにかできることもあるだろうということになった。 
 その結果、といってはあまりにも予定調和的な展開かもしれないが、私は母に対して、たしかに一生懸命に介護してきたつもりだったけれども、悲惨に考えすぎていたのかもしれないと思い出していた。立岩先生の楽観的な考え方にいつの間にか癒されて、余分な力が抜けていくのがわかった。


 脳は人間の臓器のなかでもっとも重要で特別な臓器と思われているが、母は脳だけでなく心臓も胃腸も肝臓も膀胱も同じように萎縮させ、あらゆる動性を停滞させて植物化しようとしている。そして不思議なほどに体調の安定した生活が長く続いたのだが、これはよく解釈すれば、余計な思考や運動を止めて省エネルギーで安定した状態を保ち、長く生きられるようにしていたということだろう。
 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。
 このように考えていくと、私にはALSの別の姿が見えてきた。脳死とか植物状態といわれる人の幸福も認めないわけにはいかなくなった。この時点での私の最大の関心事は、どちらの考え方を採用するかということだった。暗いほうか明るいほうかー。

 
 TLSにある患者、植物状態にある患者の精神状態や気持ちについては、当人以外の誰にもわからない。
 だけど、どういうわけか健常者はそれを「苦しみの極地」「生き地獄」と推測してしまう。自分もまたそうであった。なぜそう思ったのか。
 それは自らの身体を自らの意思で動かすことができる(実はほんの一部分に過ぎないのだが)現在と比較するからである。好きなときに好きなところへ行けて、好きなことができ、好きな物を食べられて、自己表現し、他人と様々なレベルで交流する楽しみを享受している現在と比較するからである。
 つまり、「喪失の恐怖」に耐えられまいと予想するのである。
 だが、ボケが「老い」の苦しみを緩和する働きを持つのと同様、脳はそのときどきの身体が置かれている状況に合わせて、「幸福感」に向けて心を最適化するシステムを持っているのかもしれない。TLS状態にある患者の脳波を調べると瞑想のときに出てくるアルファ波が見られるという研究もある。
 そしてまた、「今ここ」において自分の身体に起こる感覚と、呼吸器の発する規則正しい音と、心に浮かぶ思考だけを随時認識し観察しているALS患者は、仏教におけるヴィパッサナー瞑想の達人と言えるかもしれない。としたら、「悟り」の境地に至る可能性も否定できない。
 TLS状態や「植物」状態にある患者本人が不幸を感じているかどうかは、他人にはどうしたって分からないのである。少なくとも、患者の血圧や脈拍が静穏であることはストレスがかかっていないことを示しているわけである。


 安楽死や尊厳死の問題に正解を求めるのは無意味であろう。正誤も是非も善悪も正邪もない。植物人間に生きる価値がないと断じることが見当違いであるように(なぜなら「植物」には生きる価値がないなどと我々は普段思わないのだから)、いかなる状態になっても生きるべきであると苦しんでいる患者本人に強要するのも、介護する家族の犠牲を当然視するのも、無責任でむごい仕打ちであろう。
 でも、明らかにやるべきことはある。
 障害や難病を抱えても安心して生きていける環境をつくることである。介護疲れで家族がALS患者の呼吸器を止めたりしないよう、介護のために仕事を辞めて精神的または経済的に苦しくなって心中などしないよう、本当は生き続けたい患者が家族や社会の負担を心苦しく感じ自死を選ばないですむよう、社会の仕組みを変えていくことである。
 死を選ぶか否かの問題は、本来ならその先に現れて然るべきテーマである。生きられる現実が保障されていない段階で「生か死か自己決定せよ」と言われたら、死に傾くのは目に見えている。それは強者の論理である。


 もし自分や家族がALSになったら、脳死状態になったら、どんな道を選ぶだろうか。
 そのときになってみないと分からない、というのが本当のところである。
 だが、知らないうちに張り巡らされて、人々を洗脳しようとしている「強者の論理」にたぶらかされて死ぬのだけはゴメンだ。
 そう今は思う。