9月25日(火)西新宿駅にある常圓寺祖師堂にて。
こんな繁華街のど真ん中、新宿駅から目と鼻の先にお寺があるとは知らなんだ。青梅街道をはさんだ向かい側には都庁はじめ高層ビルが林立している。相当な地価だろう。
境内には墓園もあって、お彼岸最終日のこの日、墓参りに訪れた人々の姿がちらほらと見えた。便利なところにお墓があったものである。
常圓寺は日蓮宗のお寺であ
る。
日蓮というと他宗派をいっさい認めない排他的イメージがあるのだが、昨今の日蓮宗はそんなこともないらしい。
それでも、それがどんなに偉くて有名であろうとも、大乗仏教の他宗派のお坊さんを講師に招くことは考えられまい。やはり、小乗仏教すなわち原始仏教(テーラワーダ)の長老だからこそ、スマナサーラ氏は招かれたのだろう。何というか、分家の行事に本家の長男がよばれてご挨拶みたいな感じだろうか。仏教の根本を今一度見直そうという、日本大乗仏教の焦りと反省みたいなものだろうか。
祖師堂というだけあって、お堂の正面には仏像ではなく日蓮上人が祀られている。
参加者は80名くらい、ほぼ満席だった。
法話の前に、全員で法華経を唱える時間が設けられていた。
今日の話のポイントは、真理を知ることで平和が訪れる、というタイトルどおりの内容であった。(とわざわざ書くくらい、その日のタイトルとスマナ長老が実際にする話とはギャップがあることが多いのである。)
以下、概略する。
● 人々が争ったり喧嘩したりするのは、曖昧なこと、はっきりと事実が判明していないことについてである。
例)真の神はエホバかアラーか?
聖書とコーランどちらが正しいか?
尖閣列島は日本のものか中国のものか?
● 私たちは事実については喧嘩をしない。
例)地球は丸い。
ガンになったら病院に行って治療する。
人の死亡率は100%。
● ゆえに、真理を知ったら最早争う必要がない。平和である。安らぎに満たされる。
● 真理を喜ぶ生き方とは、何が真理か自分で調べて確かめてみようとする姿勢のことを言う。
● ブッダの伝えた真理とは、「一切行苦」「諸法無我」「諸行無常」などである。
● 仏教は、しかし、上記の「真理」を押しつけることはない。ブッダの言葉が本当かどうか各自で徹底的に調べてみなさい。挑戦してみなさい。
というような骨子であった。
そうなのだ。キリスト教徒とイスラム教徒とが争うのは、神の正体が曖昧だからである。いつの日か大空から全知全能の神が降りてきて、全人類の前で生命や自然を創り出す奇跡を行い、「私が神です。当然名前はありません。エホバもアラーも神ではなく、私が地ならしに派遣した弟子たちです。」とでも言明すれば、最早宗教戦争はなくなるだろうに。
事実については誰もが納得せざるを得ない。
あるいは、誰もが納得せざるを得ない事実が、真理なのである。
では、我々は真理をどうやって知ることができるのだろうか?
肝心なのはそこである。
「ブッダの言ったことが真理だから、それをよく学んで信じなさい。」と言うのでは、キリスト教やイスラム教と何ら変わりはなくなる。あらかじめ真理(の書)があって、それに従うのは信仰である。それではいっこうに問題が解決しないのは見てきたとおりだ。
そもそも、「私」が「真理」を発見する、という言い方自体に誤謬がある。
受動態にすると分かりやすい。
「真理」は「私」によって発見される。
つまり、この「真理」は、発見された時点ですでに「私」というバイアスがかかっているのである。そこには、「私」の過去の経験、知識、欲望、怒り、コンプレックス、プライド、トラウマ等々が、多かれ少なかれ投影されてしまっているのである。それは、「私」にとっての「真理」であって、他人が見たら「真理」どころか「誇大妄想」「危険思想」「トンデモ本の世界」に過ぎないのかもしれない。
実際、新興宗教の最終解脱したとか言う教祖が語る「真理」を見れば、この構造は手に取るようにわかる。
「真理」が誰もが納得し誰にでも通用する事実の謂いであるのなら、「真理」は断じて「私のもの」「誰それのもの」であってはならないのである。
結論として、「私」は「真理」を知ることはできない。
では、どうやって・・・???
「私」にできるのは、「私」の中味を観察し吟味し、その構造を調べ尽くすこと、そして、これまで「真理」として語られてきたこと、唱えられてきたこと、信じられてきたこと、伝えられてきたことについて否定もしくはペンディングすること、だけである。もちろん、それが仏教だろうとも・・・。
クリシュナムルティはこう述べている。
信ずるな。ただし、諸君自身をも含むいかなるものも。
諸君の不信と共にぎりぎりまで歩め。
そうすれば、疑い得たあらゆるものは虚偽であったことを、そして最も激しい<懐疑の炎>に耐えうるもののみが真理であることを見出すであろう。
なぜなら、そうなってもなおかつ残るものが、懐疑をその自己浄化過程とする<生>にほかならないからである。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)
仏教においては、カーラーマ経の中の10項目の教えが有名である。
大乗仏教と原始仏教の最大の違いは、おそらく、大乗仏教が仏教を「信仰」にしてしまったところにあると思う。
本来の仏教は、信仰とはかけ離れた実証主義の精神そのものなのである。(大乗の中では禅が実証主義だと思うが、禅は「悟り」を信仰にしてしまったように思う。)
仏教の性質は、テーラワーダ仏教を学ぶ者が日常唱える「法の六徳」の中に明確に表されている。
世尊の法は
1. 善く、正しく、説き示された教えです。
2. 実証できる(いつでも誰でも体験できる)教えです。
3. 普遍性があり、時の経過に耐えうる教えです。
4. 何人も試して、確かめてみよ、と言える教えです。
5. 実践者を涅槃に導く教えです。
6. 賢者たちによって各自で悟られるべき(他力救済を説かない)教えです。
