死生観を問い直す 002 2001年刊行。

 著者の広井良典は、東京大学卒→厚生省→千葉大学教授という経歴を持つまぎれもないエリート。官僚から学者に転身と聞けば、体制護持の保守派御用学者というイメージが湧くけれど、これまでに書いているものを見ると、ケア論であったり、持続可能な社会を提唱するものであったり、本書のようなスピリチュアルなものであったりして、「左」とは言わないまでも市民活動的な視点を匂わせている。官僚は官僚でも、医療や社会保障をこととする厚生省出身であるあたりがその理由であろうか。
 『持続可能な福祉社会』(ちくま新書)を読んだときは、普段自分(ソルティ)の考えていることとほとんど同じようなことを言っているものだから、大いに共鳴、親しみを覚えた。
 介護保険が始まった翌年に、アメリカの貿易センタービルがテロにより倒壊した年に、「死生観」というテーマを取り上げた感性もすぐれている。頭でっかちのエリートではない。世の中を読む力、社会の空気にビビッドに反応するアンテナを持っている。
 
 死生観とはなにか。
 広井はこう定義する。 

「私の生そして死が、宇宙や生命全体の流れの中で、どのような位置にあり、どのような意味をもっているか、についての考えや理解」

「“私はどこから来てどこに行くのか”という問いに対する一定の答えを与えるもの」

 そして、現在の日本において「死生観の空洞化」が見られると指摘する。
 その通りである。
 人の死生観を醸成する最たるものは宗教心であるが、戦後日本人が喪った最たるものもまた宗教心にほかならないからである。
 死生観の空洞化は一体どういった事態を招くのか。

それは死の意味がわからないということであり、同時に「生の意味づけ」がよく見えない、という感覚である。こうした状況の中で、一部の者はカルト的なものを含めて様々な宗教に引き寄せられることになる。


 考えてみれば、戦後の日本社会ほど、すべてが「世俗化」され、現世的なこと以外を考えるのはおかしなことだ、とされた社会は世界的に見ても珍しいと言えるのではないだろうか。ある意味では経済成長、または物質的な富の拡大ということ自体が、戦後の日本人にとってひとつの強力な「宗教」として機能した、と言えるのかもしれない。しかし現代はもはやそうした浮揚力をもつ時代ではなく、また生における物資的な富の拡大が、死をも背景に退けさせられるほどの輝きをもって受け止められる、といった状況ではなくなっている。まさに死生観の構築ということが強く求められているのである。

 より現実社会に即して言えば、問題はこういうことだ。
① 高齢社会を迎えて、死を見据えた長~い老後を生きる人びとが増加する。安穏な老いと死を迎えるためにどうしたらいいのか分からない。
② 豊かさの中で育った若い世代はもはや欲しいものも野心もない。生きがい、生の意味を見出せず、むなしさに襲われている。
 
 死生観は人を根底から支え、その人の「死に方」「生き方」に反映する。死生観を持たない時、人は欲望と依存のままに生きて破滅するか、迷いと虚無のなかに心を病むか、いずれにせよ、しんどい思いをしなければならないのである。

 著者は、死生観を考えるにあたって「時間」という切り口を適用する。 

死生観というものの核心にあるのは、実は「時間」というものをどう理解するか、というテーマなのではないか。

 そして、4つの時間――①直線的な時間/カレンダー的な時間、②コミュニティの時間/円環的な時間、③自然の時間、④聖なる時間/永遠――というカテゴリーを挙げて、順に思考を深めていく。
 また、直線的な時間=キリスト教(天地創造→最後の審判)、円環的な時間=仏教(輪廻転生)という対比により両宗教の違いを踏まえながらも、「存在の負価性」を認識し時間を超越した場所(=永遠)に到ることこそ、両宗教の共通して志向するところであるとする。
 「存在の負価性」とは、「生が全体としてマイナスの価値を帯びている」ということで、簡単に言えば「この世は苦しみばかり(一切皆苦)」「人は原罪を背負って生まれてきた(楽園追放)」ということである。そこからの出口として、仏教は「悟り⇒解脱」を説き、キリスト教は「信仰⇒神の愛⇒復活」を説く。 

通常、宗教はこうした「存在の負価性」を認識するところで“終わる”のではない。むしろ、私たちが生きているこの世界のマイナス性の認識を徹底していったその先に、いわばこの世界を超えたより根源的な価値――それは新しい“光源”と言ってもよいだろう――を見出し、その新しい価値でもって、もう一度この世界に光をあて、そこでの生のより深い価値ないし意味を見出していく・・・・・・。この一種の反転に、宗教の本質があるように思われる。

 しかしながら、我々日本人にしてみれば、あるいは自由と安全と物質的繁栄をあたり前のように享受する現代の先進国の人々にしてみれば、この「存在の負価性」自体、なかなか承服できるものではなかろう。そこが、近代科学の発展ならびに科学教育の浸透という事象と並んで、両宗教の勢い(=信仰)が衰退するにいたった主たる原因だと思う。「生きること」を否定的に、「美しいこの地上」を無価値のものとしてとらえるなんて、よっぽどのペシミストかマゾヒストか敗北主義者と馬鹿にされるのがオチである。
 仏教の長い伝統を持ち、輪廻転生という考えに親しんでいるはずの日本人であるが、「存在の負価性」に関しては実はそれほど徹底していない、というよりむしろ逆であると、著者は言う。

実は、このこと――時間の回帰性や輪廻転生ということについて、それを(仏教の場合のように)否定的にとらえたのではなく、むしろそれを積極的に肯定するという点――が端的にあてはまるのは、他ならぬ私たち日本人の時間観や死生観においてである。
 日本人の伝統的な死生観には、死んだ人の魂が何らかのかたちで存在し続けるという、輪廻転生的な発想があり、しかもその場合、輪廻転生それ自体が否定的にとらえられているわけではない。・・・・・・・・・


 それは、他でもなく、日本人が、その比較的恵まれた自然環境ということも手伝って、基本的に現在充足的あるいは現世肯定的な志向を強くもち、「自然」に対する親和性ということの非常に強い民族である、ということと表裏の関係にある。


 この指摘は興味深い。
 別記事でとりあげたジブリの映画『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)のテーマがまさにそこにあった。
 本来の仏教(小乗仏教=原始仏教)は、輪廻転生からの解脱を最高の幸福とする。たとえ、天界(いわゆる極楽浄土)に生まれ変わったところで、そこに永遠にいられるわけではない。天人五衰の果てに苦しみの多い人間界にまた生まれ落ちなければならない。六道を経巡らなければならない。天界だろうと人間界だろうと、「二度と生まれない」ことが最高の幸福、というのが釈迦の教えである。
 浄土信仰にみるように、日本人が望んだのはそれではなかった。日本人の死後の最大幸福は「極楽に行くこと」であった。次点で、「より幸福な身分に生まれ変わること」であった。一部の修行者を除けば、断じて「解脱」ではない。
 これは、日本に入ってきたのが釈迦の教えから変質を遂げた大乗仏教だったからなのか、それとも広井が言うように元来日本人の気質に小乗仏教は合わないのか。
 いずれにせよ、上記のような「日本人の伝統的な死生観」が空洞化してきたことには変わりはないのだけれど・・・・。

 さて、広井は「あとがき」でこう述べている。

本書は、死生観というテーマを「時間」という主題を窓として追求してきた。結局は同じことになるかもしれないが、それを「私(あるいは自我)」という主題を切り口に整理し直すとどうだろうか。
(本書の中で退けた「死とはただ無に帰すること」という考えを除き、)「死」と「私」自身の関係については、つきつめれば次の四つの考え方に整理できるように思われる。
(A) 肉体は滅んでも「こころ」あるいは「たましい」は存在し続ける
(B) 死んだら「自然」(生命、宇宙)に還り、かたちを変えて存在し続ける
(C) 私自身の意識はなくなるが、かたちを変えて輪廻転生を続ける
(D) なんらかのかたちで「永遠の生命」を得る(仏教やキリスト教)  

 いくら「あとがき」だからと言って、この分類はあまりに杜撰すぎる。私(自我)との関係など、何も言っていないではないか。ちっとも分類になっていない。
 すなわち、
(A) 「こころ」とは何か。「たましい」とは何か。両者は同じなのか、違うのか。両者と「私(自我)」の関係はどうなっているのか。
(B) 何がかたちを変えて存在し続けるのか。「私」か「こころ」か「たましい」か。それとも肉体を造っている「元素」か。
(C) 何がかたちを変えて輪廻転生を続けるのか。意識がなくなれば「私」はなくなるのか。「私」と「意識」との関係はどうなっているのか。
(D) 何が永遠の命を得るのか。ここで挙げている「仏教」とは小乗か大乗か。(もちろん小乗ではないはずだ。小乗では「永遠の命」など想定しないから。本書全体について言えることだが、そもそも両者を一緒くたにして論じるのは乱暴すぎる)

 突込みどころが多すぎて、あきれかえる。著者の頭の中が整理できていないのが一目瞭然。

 「私」との関係から死生観を考えるのならば、まず「私とは何か」が追求されなければならないだろう。(それをやったのが釈迦であり、それを伝えるのが小乗仏教なのだ。つまり、「私」なんて幻想にすぎない。)


 いみじくも死生というからには、それは結局のところ「主観」である。「私の死生観」である。「だれそれの死生観」である。
 だから、「私」が無いとき「観」もない。「私がある」とするから、その「私」とは何であるか定義できていないから、いくつもの不可解きわまる説が飛び出してくるのである。
 「私」との関係で言うならば、それが唯一の正解であろう。
 そのうえで、「私がない」のに、何故あるいは何が輪廻転生する、と釈迦は言ったのだろう?――と問いを推し進めるのが筋である。


 広井には再度の「問い直し」を期待したい。