ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

悟り

● 悟りはどこにある? 本:『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)

奇跡の脳 脳卒中によって左脳の機能の多くを失ったアメリカ在住のエリート神経解剖学者の体験記である。単なる闘病記と異なるのは、彼女が脳に関するプロフェッショナルな研究者であるがゆえ、自分の身に起こっていることを科学者の目で観察し、分析し、推論し、表現できる能力に恵まれていること、そのため一人の患者の体験談を超えて、人間の脳の機能を知る上での興味深いケースとなっている点である。
 母親との二人三脚による賢明にして懸命なリハビリの模様や、周囲からのあたたかいサポートを受けて社会復帰するまでの軌跡も感動的ではあるけれど、何より興味深いのは、左脳の機能を失ったときに彼女に起こった現象そのもの、そして回復の途上で左脳が復活する時に彼女に起こった現象そのものである。


 ある朝、目が覚めると同時に、著者は左目の裏から脳を突き刺すような激しい痛みを感じ、異変に気づく。

(何が起きてるの?)
 わたしは自問します。
(これと似たようなことを体験したことって、あった? こんなふうにかんじたことって、今までにあった? これって偏頭痛みたいな感じ。あたまのなかで、何が起きているの?)
 
 集中しようとすればするほど、どんどん考えが逃げていくかのようです。答えと情報を見つける代わりに、わたしは込み上げる平和の感覚に満たされていきました。わたしを人生の細部に結びつけていた、いつものおしゃべりの代わりに、あたり一面の平穏な幸福感に包まれているような感じ。・・・・・・・
 左脳の言語中枢が徐々に静かになるにつれて、わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。

 驚くべきことに、左脳の制御から解かれて右脳中心で世界と関わることによって、悟りの境地に達したのである。 

 わたしは生まれて初めて、生を謳歌する、複雑な有機体の構築物である自分のからだと、本当に一体になった気がしました。自分が、たった一個の「分子の天才」と形容できる知性から始まり、細胞群が群がる生命の集合体になったことを、誇りに思いました。・・・・そして痴呆状態の知恵により、自分のからだの生物学的な設計のすばらしさからして、それが貴重で壊れやすい贈り物であることを悟ったのです。このからだは、わたしという名のエネルギーが三次元の外部の空間に広がってゆく扉なのです。

 このような不思議な体験を理解するには、右脳と左脳の違いを知る必要がある。脳の専門家である著者が同書の中で説明しているところを大ざっぱにまとめると、次のようになる。


左脳の働き
○ 時間の概念を司る。過去、現在、未来を作り出す。
○ 細部にこだわる。あらゆるものを分類し、比較し、組織化し、記述し、判断し、批判的に分析する。
○ 迅速に大量の情報を処理する。
○ 言葉を司る。定義し、分類し、伝える。
○ 入ってくる刺激に対してパターン化された反応をみせる(パターン認知)。思考パターンのループをつくる。
○ 境界をつくる。
○ 「わたし(アイデンティティ、自我)」を造る。絶え間なくおしゃべりすることで、人生の細部を何度も反芻する。
○ 「物語」をつくる。最小限の情報に基づいて外の世界を理解しようとする。
○ 道を踏みはずさず具体的に行動できる。
○ 完全主義者
○ 「正しいor間違っている」「良いor悪い」で判断する。
○ 財務や経済を重視

右脳の働き
○ 瞬間ごとに周囲の空間を把握し、空間との関係を築く。
○ 現在の瞬間以外の時間を持たない。「いま、ここ」の意識。
○ あらゆることが相対的なつながりの中にある。境界をつくらない。
○ 自発的、気まま、想像的、芸術的、自由奔放、好奇心旺盛
○ 他人に共感する、感情移入する、人類みな兄弟
○ 言葉のないコミュニケーションが得意
○ 変化に対して柔軟に対応できる。
○ 楽天的、社交的、直観的
○ ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認める
○ あらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい
○ 深い安らぎと平和の感覚
○ 人間性を重視
 
 こうやってまとめていると、左脳はずいぶんと頑なでつまらないヤツという感じがする。右脳は子供っぽく、左脳は大人っぽいという気もする。人間はもともと右脳優位だったものが、成長するにつれて左脳優位に変わってゆくのだろうか。

 左脳を損傷した著者は、上記の左脳の働きのほとんどを失ったのである。
 身体上の障害はもちろんのこと(通常左脳が傷つくと右麻痺が起こる)、言葉も理解できなければ喋ることもできない。数字も理解できない。「合衆国の大統領は誰か?」「1+1は?」に答えることができない。三次元でものを見る(奥行きの概念を持つ)ことができず、色も見えない。赤ちゃんに戻ったような感じだろうか。このあたりの記述は、坪倉優介著『記憶喪失になったぼくが見た世界』(朝日文庫)を思い起こさせる。(→ブログ記事http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5192951.html

 著者は、手術とリハビリによる回復への道を選択するのだが、もっとも困難だったことは、「回復する」という意志を持ち続けることであった。いったん、悟りの境地を味わった者がそこから抜けるのは容易なことではなかろう。左脳を回復させるとは、ある種の楽園喪失なのである。

 左脳が判断力を失っているあいだに見つけた、神のような喜びと安らぎと静けさに身を任せるのをやめて、回復への混沌とした道のりを選ぶためには、視点を「なぜ戻らなくちゃいけないの?」から、「どうやって、この静かな場所にたどり着いたの?」へ変える必要がありました。
 この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

 このような洞察を周囲に伝えようという使命を持って回復への道を一歩一歩たどり始めた著者は、左脳が甦っていくのに連れて、待ちかまえていたように待っていた古い馴染み深い「自我」と遭遇する。

 何度もくりかえし頭をよぎった疑問は、「回復したい記憶や能力と神経学的に結びついている、好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの?」ということでした。・・・・・・
 回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした。 


 左脳が持っている言語中枢と物語作家としての機能がもたらすマイナス面の最たるものとして、彼女は「マイナスの思考パターンにつながろうとする」ことをあげている。
 これは頷ける見解である。
 自分の思考を、それにのめり込まないで客観的に観察し続けていると、連想ゲームのように一つの事柄から別の事柄へと思考がとりとめもなく移っていき、多くの場合、怒りか欲望かのループにはまることが分かる。意識していないと、思考は手垢のついたソフトを勝手にダウンロードし始め、負のプログラムを起動してしまうのである。それが生化学的な反応を体内に呼び起こし、行動に結びついてしまったら、もう後には引けない。というか、たいていの我々の行動はこの通りに進む。これが、我々の『条件付けられた生』のOS(オペレーションシステム)なのだ。
 このOSは、遺伝的な(先天的)モジュールと成育環境によって作られた(後天的な)モジュールとの組み合わせでできている。OSが幸福な明るいものであれば一般に幸福な明るい人生になるだろうし、不幸な暗いものであればそのような人生になるであろう。OSの上にいかに優れた機能満載のソフトを載せようが、OSに不備がある以上、結局はどこかで狂いが生じてくる。
 この不毛なループから脱出するためには、まずこの構造自体に気づき、OSの不備を認めること。そして、余分なアプリケーションソフトをはずし、OSのプログラムを調べ、バグを取り除き、誤ったコマンドを削除し、正しいコマンドに書き換えねばならない。
 だが、一番重要なのは、「気づくこと」である。

 冷静な第三者の目で脳の話を聞くためには、それなりの訓練と忍耐が必要になるでしょう。しかしいったん、そのことに気づいてしまえば、あなたは、物語作家が捏造する厄介なドラマやトラウマを自由に超えて行かれるようになるのです。

 脳卒中の前まで、自分なんて、脳につくられた「結果」にすぎないんだと考えていました。だから、押し寄せる感情にどう反応するかに口出しできるなんて、思ってもみなかったのです。頭では、認知的な思考を監視し、変えることができることには気づいていました。でも、感情をどう「感じる」かに口を挟めるなんて、まったく思いもよらなかったのです。


 著者は、左脳の絶え間ないおしゃべり、人を不幸に導きかねない思考のループを切断し、幸福感の源泉たる右脳にアクセスするための方法をいろいろ伝授している。
 それらのほとんどは、面白いことに、仏教における瞑想の極意と重なる。
 瞑想とは、左脳のおしゃべり(=思考)をストップさせる訓練なのかもしれない。

 おそらく、悟った人々は、いつも右脳中心で生き、必要な時にだけ必要な程度、左脳を働かせることができるのであろう。




● 本:『仏陀出現のメカニズム 拡大せし認識領界』(山口修源著)

修源 何か面白い本はないかと近所の古本屋を渉猟しているとき目についた。
 大袈裟なタイトルとハードカバーのぶ厚さ(442ページ)に最初は買う気なかった。「仏陀出現」とはいかにもトンデモ本っぽいし、大川隆法が自分のことを「仏陀再来」とかふざけたことを言っているのを連想させる。大体、輪廻を解脱した仏陀が再来するわけないのである。再来したのであれば、「もう二度と生まれ変わりません」と宣言した仏陀は嘘をついたことになるから、自身が作った五戒を破ったことになり、とうてい信用できる人物ではないということになる。山口修源という名前もまた、ちょっと前に世間を騒がせた「法の華」の福永法源を連想させて胡散臭さを感じさせる。
 著者プロフィールを見ると、

 幼少より無常観に生きる。中学より聖書を学ぶようになり、キリストに傾倒。同時に高校より仏教に目覚め、更に大学にてインド仏教を専攻。水行等の荒行や、『人間改造講座』の原型となった修行法の実践及び瞑想三昧の日々を経ながら、新聞記者を経験。啓示を受けて1986年ニュー・タイプス・ユニバースを設立、霊性向上を目指した『人間改造講座』を編纂し、指導にあたる。その後、延べ一年にわたる深山幽谷に於いての滝行を中心とした荒行と瞑想三昧の山籠りを経て、ヒマラヤにても数ヶ月に及ぶ行を為すも、目的に達せず。1990年、三十代半ばでついに因縁の地イスラエルの荒野に於いて二ヶ月の感応の行を成し、キリストの出現に出遭い、阿羅漢(悟)を得、現在に到る。


 ・・・・・・・・。

 またぞろ新興宗教団体のリーダーによる誇大妄想チックな自己宣伝本&信者勧誘本か。
 普通なら無視するところであるが、サブタイトル「拡大せし認識領界」がどうも気になる。手にとって中味をパラパラめくってみたら、思いの外であった。ずいぶんと堅気な学術書風な装いで、しかも最新の科学について書かれているらしい。各ページに付けられている用語注釈も親切でしっかりしている。
 前書きを読むとこうある。

 本書は、科学理論に基づいて述べられている。かなり難解である。これ程広い分野にまたがって論が進められ、しかも精緻に及んでいるものはほかに見聞したことがない。・・・・この種の本は、常に科学者の立場から著されてきたが、今回このような形で、行者の立場から分析されたことは意義のあることだと自負している。・・・・・
 これからの宗教は科学性を持たなければいけない。旧態依然とした形で、信じれば救われる的教義は、もはや時代遅れである。何より妄信・迷信・狂信の巣窟になりかねない。一件科学的内容を述べたものもあるにはあるが、結局は牽強付会的に自宗を擁護するところで止まっている。これでは宗教に新の未来は訪れない。


 自信たっぷりである。そこがちょっと恐いところだが、後半部分は正鵠を射ているし、冷静な分析が入っている。
 確かに、見るからに難解そうではあるけれど、4ヶ月通っていた介護の学校も終了したいまは元の無職に舞い戻り時間はたっぷりある。
 だまされるを覚悟で読んでみるか。(定価2000円のところを1000円で購入)

 読み終えるのに半月くらいかかるかなと踏んでいたのであるが、一週間足らずで読了してしまい、我ながら驚いている。
 面白くて、しかも読みやすかったのである。
 他人はどう思うか知らないが、トンデモは感じなかった。むしろ、著者の言うとおり、実に広い分野にわたる最新(この本の書かれた80年代終わり頃)の科学理論のダイジェストが、批判的な検討も加えながら、非常にわかりやすく体系的かつ客観的に紹介されており、現代の科学(物理学、分子生物学、脳生理学、精神分析学等)の最先端がどのあたりにあるのかを知る格好のテキストになっている。新聞記者の体験があるだけあって文章も実にこなれていて、うまい。
 これは当たりであった。
 やはり偏見は損をする。

 とは言え、やはり著者は行者であり宗教家である。
 自称「阿羅漢」でもある。


 阿羅漢とは完全に悟った(解脱した)人のことを言う仏教用語である。「完全に」悟ったとはどういう意味か。完全でない悟りもあるのか。
 そうなのである。
 仏教では悟りは4段階ある。
1.預流果(よるか)・・・悟りの流れに入った。今生にあと7回生まれ変わる間に解脱する。
2.一来果(いちらいか)・・・あと1回今生に生まれ変わって解脱する。
3.不還果(ふげんか)・・・今生には生まれ変わらない。天界に生まれ変わってその命が尽きて解脱する。
4.阿羅漢果(あらかんか)・・・もうどこにも生まれ変わらない。輪廻を脱した。

 こういったことが日本でこれまで伝えられてこなかったのはまことに不可解である。日本は大乗仏教の国で、釈迦本来の教えが入ってこなかった(広まらなかった)からという一応の理屈はあろうが、ことは仏教の核心たる、すべての修行者の最大にして最終目的たる「悟り」に関してである。
 悟りが何なのか、どうすれば悟れるのか、悟りには段階があるのか、伝統仏教(いわゆる小乗仏教)でははっきりと経典に示され、そのための修行体系も整っている、修行において最も重要なポイントが、我が国には明確に伝わっていなかったのである。長い日本仏教の歴史の中でどれだけ多くの行者や僧侶が悟りを求めて苦難呻吟してきたかを思うと、実にもったいないというか奇妙奇天烈な話である。おかげで、日本においては「悟り」というものが亀の毛か兎の角のように、現実にはありえない、暇で奇特な一握りの人間たちが執りつかれた世迷い言のようなものになってしまったのである。

 だが、実際に人は悟れるのである。
 最後の阿羅漢果まで行くのはさすがに難しいが、最初の預流果はきちんと修行すればそれほど期間をかけずに得られる。実際、古い経典でも釈迦の説法を聞いて一度に多くの人がその場で預流果を得た話があちこちに見られる。チャレンジする価値はある。

 話がそれた。
 山口修源は阿羅漢ということだから、完全に悟ったということである。本当だとしたら、たいしたことである。
 この本は、阿羅漢・山口修源が見出した究極の真理と、現在わかっている最先端の科学知識及び理論との整合性の確認という意味合いもある。「行者の立場から分析された」とはそういうことである。

 第一章では、著者のこれまでの人生で起った数々の神秘体験が述べられる。このあたりは好奇心も手伝って面白く読める。
 とりわけ、20歳の時に起こったという体験が興味深い。

 「アッ・・・無い!」
 「本当に無い。何も存在しない。全ては幻影ではないか」
  ・・・・・・・
 それは、劇的な体験だった。二十歳の夏の出来事だった。それまでの認識では、この世(現象世界・三次元世界)の存在は明らかに実在しており、且つ、非現象世界(四次元以上)も、三次元世界に重複して実在していると考えていたのである。もちろん、この考えは一定の法則性において間違ってはいない。しかし、これ以上の新たな認識、否、真実に気付かされたのである。・・・・・・端的に言えば、この世は存在しないーということになる。 


 修原氏(当時はまだ修源を名乗っていなかったであろうが)は、まさに般若心経で有名な「色即是空」を悟ったのである。
 面白いのは、このときの悟り方である。

 実は私にとって、この体験はもう一つの興味ある側面をもっていた。それは、従来のこの種の“神秘体験”が直感をもって行われてきたのに対し、この時に限っては、無限な程に速いスピードで脳が活動し、この把握(認識)を導き出したことである。脳が瞬時にして、信じ難い程のスピードで次々と論理を追い遂に最終結論を導き出したという驚くべき体験は、味わった者でなければ理解し難いことであろう。


 第2章からいよいよ本論である現代科学の分析に入る。
 次々と読者の前に紹介される学者や研究者の名前と彼らの提唱した理論名を挙げるだけでも、著者がいかに広い分野の本を読破し、科学素人の読者にかみ砕いて紹介できるまでに内容を深く理解しているかが分かる。そのうえ、各理論について欠陥や不足を指摘できるまでに検討・分析を加えているのである。これだけでも、修源氏が尋常でない頭脳の持ち主であることが知られる。

 詳しい内容は省くが、物理学(フリッチョフ・カプラやデイヴィド・ボームが登場)、分子生物学(今西錦司や利根川進やリチャード・ドーキンスが登場)、脳生理学(クンダリニーへの言及、ペンフィールドが登場)、精神分析学(フロイト、ユング、ソンディが登場)という多岐の異なる科学領域を闊歩しつつ、そこに浮かび上がって見えてくる‘統一理論’を著者は指し示そうとする。それはまた、著者が深い理解と敬意をもっているのが歴然である中国古来からの教えである道家思想につながる。

 われわれはこれまで、全くの自由意志の許に生きてきたと信じて疑うことはない。しかし、本書は、それを現代科学に基づいて否定してきた。実は、自由人生どころか機械的な人生であることを明らかとしてきたのである。さらには、先祖及び個人の前世にまで言及しその意識の奥に無意識なる存在があり、それによって衝き動かされているという心理学理論を紹介した。・・・・・それらを整合していくと、われわれには如何ともし難い因果の関係性を見出すのである。それは巨大な力でわれわれを衝き動かしていく。
 しかし、その巨大な力に抗し得る偉大な自我或いは自己或いは霊(たましい)の存在があることを心理学者は示してくれたのである。それは、物理学法則にいう「ゆらぎ」によって導かれるものである。われわれの透徹した意識は、このゆらぎを通して巨大な力に対抗し、すでに定められた運勢を少しでも良い方向に転換させることを可能とするのである。


 この「如何ともし難い因果の関係性」から抜けることが、いわゆる解脱なのであろう。
 修源氏は、そのための方法(修源之法)を一章をあてて読者に伝授してくれている。
 なに、おびえることはない。頭にヘッドギアなんかつける必要も、滝に打たれる必要もない。

 自観法―自分自身を観る、気づく。

 いま、あなたは私のこの本を読んでいるところだ。正にこの文字を見、理解しようと必死(?)である。そこでこの本を読んでいる自分に改めて気づけば良いのだ。これが自観法である。

 単純で簡単そうなのだが、やってみるとこれが結構難しいことに気づく。
 「今ここ」の自分自身(の身体・心・動き)に気づくことをサティ(念)と言うが、これこそ伝統仏教の悟りに至る瞑想と言われる「ヴィッパサナ瞑想」の中核を成す。してみると、修源之法はそれほどナンセンスなものではない。

 自分自身に気づくことがなぜ「如何ともし難い因果の関係性」の集合体であるところの自分を変容させるのか。
 その点について量子力学の第一命題とも言うべき次の一文が何かを示唆しているようで面白い。

 量子物理学において一個の粒子を観察すると、観察するという行為が、粒子そのものに対して何らかの影響を与える。


● 講演:「気づき」の迷宮 ~サティの実践とは何か?(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。

 スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
 それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
 いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。

 今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
 サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
 考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)

 
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。

○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。

○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。

○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。

○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。

○すなわち、
 六つの門に情報が触れる
       ↓
 「感じた者」が概念(想)をつくる
       ↓
 概念ができたら思考する
       ↓
 この思考が捏造する
       ↓
 過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。

○ アジタ行者とブッダの問答
 アジタ: 世は何に覆われている?
 ブッダ: 無明によって覆われています。
      (六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
 アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
 ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
 アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
 ブッダ: 妄想の回転です。
 アジタ: その結果起こる危険とは?
 ブッダ: 苦が起こることです。
 アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
 ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。


 と、やっとここでサティが出てくる。
 仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」

 つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
 「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
 その楔こそサティなのであろう。 

 こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
 自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。

 やっぱり、精進が足りないのだろう。
 

● 東と西とが出会う時 本:クリシュナムルティ・懐疑の炎(ルネ・フェレ著、瞑想社)

 久しぶりのクリシュナムルティの本。クリシュナムルティ・懐疑の炎

 と言っても、クリシュナムルティ自身が書いたものではなく、クリシュナムルティの教えの熱心な共鳴者にして理解者であるルネ・フェレが、クリシュナムルティについて解説した本である。

 第一部では、インドの貧しい家庭に生まれた少年が、いかにして「世界教師」の器として英国のブルジョワのスピリチュアリスト達に見出されたか。青年時代にどのような精神的成長を遂げていったか。そして、どのようにして覚醒したか(悟りに至ったか)を紹介する。
 そこに、著者は何にもまして「懐疑の精神」を認める。既存の伝統、宗教組織、教義、哲学、霊的体験(それがいかに神秘的なものであろうとも)、権威、イデオロギーについて、鵜呑みにするのではなく、むしろ徹底的に否定する。その否定につぐ否定の道行きの先にしか真理はあらわれない。
 結果、クリシュナムルティは自らを営々と養い育ててくれた母体自体(神智学協会、星の教団)をも最終的に否定し、決別することになる。

 第二部ではクリシュナムルティの教えの核心を、彼と長年の知遇を得た著者の理解のままに、著者自身の言葉で語る。
 「異様なまでに凝縮され、研ぎ澄まされたクリシュナムルティ論」と訳者である大野純一があとがきで書いている通り、実に考え抜かれ、時の中で熟成され、言葉も引用も選び抜かれ、無駄な説明を徹底的に省いた、高い緊張感と緊密な論理をはらんだ文章である。一行たりともおろそかには読めない。ルネ・フェレのクリシュナムルティ理解が半端でないことが知られる。たんなる解説書とか伝記の域を超えて、この本自体が一つの哲学書というか思想書と言うべきであろう。

 序文を書いた英訳者は愚かにも、「本書をクリシュナムルティの教えの入門書とみなされたい」と述べているが、なかなかどうして入門書のレベルではない。適切な喩えではないかもしれないが、大乗仏教の真髄を凝縮している般若心経みたいなものだ。般若心経を大乗仏教の入門書とは言えまい。
 クリシュナムルティを相当読んできた読者が手にしてはじめて、真価を発揮する本である。一文一文があたかもタグであるかのようで、そこをクリックすれば、クリシュナムルティという広大なサイバースペースにある、膨大な彼の著書の中の他の言葉群や、他の人間が記した彼の伝記中のエピソードにつながる、そんな感じである。
 
 自分も一時、相当クリシュナムルティを読んだ。クリシュナジーにイカれたと言ってもよい。
 覚者、光明を得た人、現代の仏陀、孤高の哲人、世界教師、真理を知る人・・・。
 その神秘的な生い立ちと、古代ギリシャの哲学者のような印象的な風貌、そして、世界的な学者であろうと宗教家であろうと政治家であろうとマスコミであろうと、いかなる対談相手をも凌駕する、洞察力と観察力と存在感。また、詩人としての才能も豊かであり、同じ大野純一が訳している『生と覚醒のコメンタリー』(春秋社)などは、自然描写と彼の哲学とが客観的で抑制の効いた詩的な文体のうちに見事に融合した、第一級の随筆である。ことあるごとに本棚から抜いては、あちらこちらのエピソードを読み返し、しばし黙想にふけったものである。(いまこれと同じことをナンシー関の本に対してやっている。)
 
 しかし、あるとき、引越しを機に、持っていたすべてのクリシュナ本を友人の経営している古本屋に売ってしまった。
 なぜか?
 「もういいや」と思ったのである。
 
 亡くなって25年になる今も依然としてクリシュナムルティの人気が高いのは、どの程度本気なのかは問わず、「悟り」を求める人が多いからであろう。「真理」と言いかえてもよい。自分もまたその一人である。それが、個人においても、社会においても、唯一の「苦」からの離脱の道だと思うからだ。
 悟りとは何なのか、悟った状態とはどんなものなのか、悟るためには何をすればいいのか、悟った人は世界をどのように見ているのか・・・・。
 そういうことを知りたくて、クリシュナムルティの本を何冊も購入しては熟読してきたのであった。それが、どの本も結局、同工異曲、同じ言説の繰り返しに過ぎないとわかっていても。(真理は一つなのだから、当たり前の話なのだが)

 しかるに、たった一つ、疑問があった。
 クリシュナムルティは一切、真理にいたる手段、方法について語っていないのである。自分自身が悟りながら、世界中を旅して悟ることの重要性について膨大な聴衆に伝え、自己変容を促しながらも、「そこに至る道はない」と無情にも言い放つのである。
 
 これは最初からわかっていたことだった。
 
 クリシュナムルティが、孤高の覚者として、何ものにも縛られない一人の世界教師として、最初の咆哮を放ったのは、いわばクリシュナムルティが「クリシュナムルティ」になったのは、1929年オランダのオーメン集会。何千人という会員の前で、自らが長であった「星の教団」の解散宣言をした時である。
 彼の第一声がこうである。 

 「私は言明する。<真理>は道なき領域であり、いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はそれに近づくことはできない。これが私の見解であり、私はそれを絶対かつ無条件に支持するものである」。

 この言葉がクリシュナムルティ自身を縛ってしまった、とは言わない。
 しかし、クリシュナムルティは執拗に(と言っていいだろう)方法論を語ることをその後の生涯にわたって拒否した。結果として、クリシュナムルティの周囲で、またはクリシュナムルティの言葉を聴いて「悟った」人間の話はまったく聞かないのである。
 むろん、悟った人間は「私は悟った」とは言わないからかもしれない。自己主張や自己定義や自己顕示の欲望から自由なのが「悟っている」ということであるならば。
 
 ある意味では、「一切の方法論に懐疑の目を向け、それが内包する欺瞞~自我(エゴ)が存続するための巧妙な手口~を徹底的に暴き、それを否定する」という方法論を提唱したと言ってもよいのかもしれない。そうやって、すべてを徹底的に洞察し、虚偽を虚偽として見抜き、退けたさきに、「それ」が訪れる可能性がひらける。

 人が、自分自身の避けがたい問題から逃避しようとする一切の企ては失敗に帰着するということを悟るに至るとき、彼は真の孤独の何たるかを知るであろう。クリシュナムルティが単独性(aloneness)と呼ぶものは、たんなる寂しさではなく、真の、根源的孤独である。彼は全的裸形と全的責任の苦悶を経なければならない。彼は己の最も内奥の苦痛であり、そしてそのなかで彼が生きている社会風土に助けられて無数の自己欺瞞の下にひた隠しにしてきた、基本的恐怖に直面しなければならない。彼はいまや、この恐怖に充分に気づく。それは彼の骨髄までしみ通り、彼をその氷のような手で締め付ける。けれども、この死の苦悶は新生の陣痛に他ならない。彼の恐怖の叫びは、突如として最終的な解放の歌になる。苦悩はそのクライマックスに達し、そして突然消え去る。人は、一切の<私>意識が置き去りにされた後の、ある新しい、名状しがたい状態のまばゆい光のなかへ入る。

 筋道は明瞭だ。
 しかし、誰がこの困難極まりない道程、自分が正しい方向に進んでいるのかどうかさえ検討がつかないような道を、たった独りで、誰の助けも、何の手段も用いることなく遂行できるだろう? それができるのは、クリシュナムルティのように「選ばれた」人のみではないか、と皮肉の一つも言いたくもなる。
 そしてまた、こうも思う。
 いかに生来の資質に恵まれていようとも、クリシュナムルティ自身もまったく独力で「そこ」に達したわけではない。少年の彼を見出し、然るべく教育した人々がいて、何がしかの霊的知識を与えつつ、世界教師への道を整えてくれた組織が存在し、個人的にもヨガや瞑想を指導してくれた師がいたはずである。それらがなければ、彼は生まれ故郷のインドにいて、バラモンの伝統のままに生き、ちょっとぼんやりした、仕事のできない貧相な男のままで一生を終えていたことだろう。・・・・・

 言いたいことは分かった。もう言葉は十分だ。
 要は、頼りにする杖を持つなということだろう。
 ならば、まずクリシュナムルティを片づけよう。
 そうして、自分はクリシュナムルティのすべての本を手放したのであった。


 クリシュナムルティの教えは、よく革命的と言われる。
 その通りである。
 しかし、実のところ、それは西洋人にとって革命的なのであって、東洋人、とりわけ仏教徒にとってはなんら目新しいものではない。もっと断定的に言えば、仏陀の教えをそのままに伝える南方系の仏教を学ぶものにとっては今さらの言説のオンパレードである。
 クリシュナムルティの教えは、まったくのところ仏陀のそれとかわりがないのである。(その意味では、両人がインドから出たということは何か因縁を感じる)
 たとえば、上記の引用文は、そのまま仏陀の教えの中核となる「四聖諦」と重なる。
 まず、一切行苦に対する認識があり(苦諦)、そこには渇愛という原因があることを見抜き(集諦)、それを終わらせることができることを確信し(滅諦)、そのための道を示す(道諦)。仏陀もまた「苦」こそが、解放への手がかりになることを説いたのである。
 しかも、仏陀にあってクリシュナムルティにないものがある。そう、4つめの道諦、真理へ至るための方法論である。仏陀は、道諦の具体的な内容として八聖道を伝えたのであった。

 クリシュナムルティが革命的と称えられる最大のポイントは、近代西洋文明の根本基盤となっている「自我」を否定したところにあろう。確固たる自我があると考えることがそもそもの誤りであって、その自我の固定化と拡張傾向こそが諸悪の根源と喝破したのである。そして、自我の形成にあずかるところ大である「思考」を、害悪以外の何ものともみなさなかった。

 これもまた仏陀の専売特許である。
 諸法無我。そして、思考を退治するための修行方法としての観冥想(ヴィパッサナー)。


 クリシュナムルティは、幼くして東洋(インド)から西洋(イギリス)に渡り、上流階級の間で西洋文化の洗礼を受け、西洋的学問やマナーを基礎から身につけた。日常会話も講話もクイーンズイングリッシュだったと言う。
 だからこそ、西洋的概念と語彙を使って、古くから東洋に伝わる教えを、西洋人に理解しやすいスタイルのうちに伝え広めることができたのだ。
 だからと言って、別にクリシュナムルティを貶めるつもりは毛頭ない。仏陀と同じ真理にほとんど独力で達した。それは、圧倒的に偉大なことである。

 そうして、西洋はクリシュナムルティを通じて、ようやく仏陀を発見するのである。

 

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