2013年刊行。
「戦前の教科書」と聞くと、「軍国主義一辺倒なのだろう」という先入観を持つ人は少なくないと思う。しかし、それはまったく違う。
たしかに第二次世界大戦直前の1941(昭和16)年4月、それまでの尋常小学校が国民学校と改組されて以降は、武勇を鼓舞するような表現も増えたが、大正期から昭和15年まで尋常小学校で使われていた国語の教科書は、日本の国土や自然、またそれを愛でる心、優しさや協力する心を育む、「風流」と形容するのがもっともふさわしいものだった。
とくに1981(大正7)年から1932(昭和7)年まで使われた教科書は、大正デモクラシー独特の明るさがあり、世界に向かって日本の主張をするという気高い精神が持てるような、またそれができるだけの教養が詰まっていた。
と主張する著者は1930年(昭和5年)生まれの評論家。「くさかきみんど」と読む。
戦前の尋常小学校の国語の教科書に載っていた題材を紹介しながら、「日本人の心、日本精神、伝統とは何か」を述べ、それを「取り戻す!」ことの大切さを訴えている。
もちろん安倍晋三びいき、「朝日新聞」嫌いの、反米保守派である。原子力安全システム研究所最高顧問を勤めている生粋の「原発推進派」。
安倍政権が安定軌道に入って、出るべくして出た本という感がある。
なるべく予断や偏見を持たずに読もうと頑張ってみた。
共感できる部分もある。拝聴すべき意見もある。
西欧世界は、日本を有色人種の国だからとバカにしたが、その人種差別に対して、日本は正面からケンカをしていない。反論しないし、賛成もしない。そして「世界の人々や国々がケンカしないで生きていくためには、これが答えではありませんか」と示した回答が日本の尋常小学校の教科書だった。
それを私は如実に感じる。というのも、私も西欧人による差別の真っ只中を生きてきたからだ。戦後生まれの人と大きく違うのはその点だと思う。明治維新のあと、日本人はずっと人種差別と闘う痛みと、それを超越する気高さの中で生きてきたことが、実感としてわかるのだ。
戦後、「個人が利益を追求するのはよいこと」「個人の利益が侵されるのは悪いこと」という考えが蔓延してしまったために「人のために努力する」ことの大切さが忘れられてしまった。今、エリートと呼ばれる人たちは、持てる能力を自分のためだけに使って当然だと思っているフシもある。
戦後教育では、「情・意」が抜け落ちて、「知」の一辺倒になってしまった。
「知」は試験をして採点することで簡単に測ることができる。教えたことを覚えていないとか、間違っているとか誰でも評価できる。教える側の都合もよかったが、教えられる側も「採点基準がわからないのは困る」「好き嫌いで成績を決められたらかなわない」と、客観評価できる「知」に絞ることを望んだのだ。戦後の教育の欠陥はここからはじまった。
知性だの理性だのは、先延ばしに非常に便利な方法である。「知」ばかり尊重する教育を受けて、成績がいいからと誉められて育ち、「自分は優秀だ」と思い込んだ人間は、例外なく先延ばしするようになる。
できない理由や何もしない理由は、ほんの少し知力を働かせて、理屈をつけてしまえばいいのである。そんなことばかり熟達する。行動しないのは、「知」だけあって「情」がないために、意思も意欲も湧いてこないからだ。
紹介されている国語読本の題材は、戦後生まれの人間が読んでも感動できる、感心できる、そこから学ぶことの多いエピソードにあふれている。筆致も格調高い。
たしかに著者の言うように、単なる「軍国主義」「国粋主義」一辺倒と決めつけることはできない。
地震後の津波から村人を救うために、高台にある自分の家の刈り入れたばかりの稲束に火をつけて、村人を招き寄せた五兵衛の話(「稲むらの火」)などは、感動的である。部下を信じたアレクサンドル大王の話、怪我した犬を介抱する少女時代のナイチンゲールの話、難破船を救助するために危険も顧みず嵐の海に漕ぎ出した燈台守の娘グレースの話など、外国のエピソードもふんだんにある。低学年では、さまざまな季節の風物、家族や生き物への情愛を取り上げ、情操教育に力を入れている。
戦前の教科書を賛美する著者の言い分には一理ある。
――と、認めるにやぶさかではない。
しかし・・・・。
日本のほうが外国に比べて教育程度がまったく高い。当時は小学校で義務教育は修了だが、この教育課程の段階の日本人は世界最高レベルの教育水準だったと思う。その証拠が教科書だ。尋常小学校の教科書を見れば、その程度の高さがわかる。つまり、「その教科書を使った自分は、世界最高レベルの教育を受けた。」と言いたいのだろう。
まあ、それはいい。
看過できないのはそのあとである。
しかし、日本人が文化人、風流人になったのは学校で教えたからではない。もともと自然の移ろいに敏感で、花鳥風月を愛でる心根があった。その上でこの教科書で勉強したから一層、風雅な心を持つにいたったのだ。だから日本人は捕虜の虐待などしない。
・・・・・・。
この人は『クワイ河捕虜収容所』(現代教養文庫、1984年)を読んでいないのだろうか。731部隊を知らないのだろうか。
それとも、読んでいて、知っていて、あえてそれを否認しているのだろうか。
だとしたら、この人が最高顧問をつとめる原子力安全システム研究所という組織は実に危険である。朝日新聞がバッシングで勢いを失ったいま、福島原発事故でさえ、そのうち否認し始めるかもしれない。
日本兵と鉄道技師がすべての連合軍将兵の生殺与奪の権を握り、かれらはまたこの目的遂行のため、命令を実施するに当たって個人的にも弱いものいじめをするよろこびを感じていたのである。かれらはこの痩せ細ったわれわれの身体に、残酷非道な仕打ちをどれほど行っても平然として恥とは思わなかったのである。またそれ以上にわれわれの自尊心を傷つけ、品性を墜落させるのもかれらの目的のひとつだった。日本人自身これらの事実を何回となく否認はしているが、かれらの心の中ではそれが真実であることは知っているはずである。(レオ・リーリング著『クワイ河捕虜収容所 地獄を見たイギリス兵の記録』)
自らのやった行為の‘非’を率直に認めて反省・謝罪することは、恥でも不名誉でも屈辱でも敗北でも自己卑下でもない。
一般に、自尊感情の低い人(=自己肯定感の育っていない人)は、他人から何か過ちを指摘されたり言動の一部を批判されたりすると、あたかも自己の存在全体が否定されたかのように感じ、指摘されたことを冷静に受け止め内省することなく、それを否認し、過剰な攻撃行動に走るか、自らの殻を固くして内に籠もってしまいがちである。
多くの場合、そういう人は自尊感情の欠落を埋めるために、外部の組織(チーム、会社、結社、派閥、国家etc.)や象徴(家柄、学歴、財産、宗教、勲章、天皇制etc.)に自らのアイデンティティを托し、それと同化し、それを称揚する。それが傷つけられそうな気配あれば、知性も理性もかなぐり捨てて、ひたすらそれを守ることに邁進する。
あたかも、それが自らの‘母’のごとく――。
戦前の教育が、子どもたちの自己肯定感を育むのに成功していないことを、ほかならぬ日下自身が証明している。