ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

日本テーラワーダ仏教協会

● シングルベル 初期仏教講演会:『過去からの解放~なぜ「今」をしっかり歩けないのか?~』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年12月23日(土)13:30~
会場 なかのZERO小ホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 開演前の会場を見渡すと男ばかり。
 はて、なぜ?
 まさかクリスマス・イヴ・イヴの土曜日だからってわけじゃあるまい。仏教徒にクリスマスは関係ないよなあ~。それとも、仏教もキリスト教も関係なく、クリスマスはもはや女の決戦日か? 
 あるいは、本日のテーマのせいなのだろうか?
 「過去からの解放」って言うけれど、どちらかと言えば過去にとらわれがちなのは男のほうだ。別れた昔のパートナーに未練たらたらなのは大抵男のほうだ。つき合う相手の過去にこだわるのも男のほうだ。学歴や職歴や地位といった過去の経歴に執着するのも男のほうだ。そして、年齢を忘れたがるのは女のほうだ。男にくらべれば、女のほうが圧倒的に過去から自由である。とするなら、女にはあまり関心のないテーマなのかもしれない。

 さて、スマナ長老の話をかいつまんで紹介すると、

●過去には2種類ある。一つは、「人が生きてゆく流れ」のことで「何をやったか」という変えることのできない事実(=史実)である。本人だけでなく第三者が客観的に指摘できる類いのものだ。

●もう一つは、史実を貪・瞋・痴の感情で調理し捏造した主観的ストーリーである。人は、自分の過去の出来事を適当に選択して解釈・編集し、「自我」の栄養とも住処ともなる都合のいい物語をつくる。その物語に導かれて生きようとするので、失敗して不幸になる。なぜなら、それは第一の過去の定義である「史実」と一致しないフィクションだから。 

●なぜそういった物語が生まれてしまうのか。それは、我々の認識システムには生得的な欠陥(=無明)があるから。「眼・耳・鼻・舌・身・意」というレセプターに「色・声・香・味・触・法」という外的データが触れたとたん、「快・不快・どちらでもない」といったような好悪・判断が自動的に働いてしまう。

●「快」を求め執着し(=欲)、「不快」を厭い憎悪する(=怒)ことが繰り返されるうちに、一定の判断基準をもった「自我」が生まれる。「自我」はいつも「ありのままの事実」を感情で歪曲してしまう。

●過去とは、主観と感情で捏造した経験と判断の塊である。人は、過去に縛られて苦しむ羽目になる。つまり、自分が掘った苦しみの落とし穴に自分自身で落ちる。まさに自業自得。

●すべての経験は「わたし(自我)」という器に入れられているので、人はどんなに苦しくてもそれを捨てることができなくなっている。

●第一の過去(=史実)と第二の過去(=物語)を区別する方法はいたって簡単。「私は〇〇です」と覚えているすべての記憶は後者である。この幻覚の過去をこそ捨つるべき。
 例.(ソルティ創作)
  第一の過去 「××年前に交通事故にあって、下半身不随になりました」
  第二の過去 「私は交通事故の被害者です」

●第二の過去から解放される最速にして最良の方法は、上記の認識システムに介入し、物語をつくろうとする働きに即座に楔を打つこと。それがヴィパッサナー瞑想である。 

●ヴィパッサナー瞑想を、「人間のすべての行為にはゴール(=目的)が存在しない」という事実を発見して心が変わるまで、そして因果法則を発見するまで、徹底して行ってみることで解脱に達する。

 ・・・・・といった内容であった。


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 人間が、自ら作った「物語」に縛られてほかならぬ自分自身を苦しめている、というのは至極納得がいく。
 たとえば、「クリスマスは家族や恋人と一緒に過ごすのが幸福である」という、おおむねバブル期(80年代)に商業的に作られた物語がある。その物語に子供の頃から洗脳され、信じ込み、周囲とも物語を分かち合い、「クリスマスに独りで過ごす人間」を憐れんだりバカにしたりしていると、今度は自分が「クリスマスに独りで」過ごさざるをえなくなったとき、「クリスマスに独りで過ごす自分=不幸」という烙印を自分自身に適用することになる。
 自分を不幸にするのは自分の思考(=信念=過去)にほかならない。まさに墓穴を掘るというやつだ。

 いったい人はこうした「物語」をどれだけ身内に抱えていることか!
 物語の多くが「むかし、むかし・・・」で始まることが示すように、物語とはまさに過去そのものなのである。
 その意味で、「過去からの解放」とは「物語からの解放」にほかならないわけで、出だしに戻ると、物語に閉じ込められ閉塞しがちなのは――通常のイメージとは違って――女よりもむしろ男なのかもしれない。
 稲垣××のクリスマスソングを引き合いに出すまでもなく、ソルティの周囲を見ても、“シングル”ベルに身もだえるのは、昨今、独り身の女よりもむしろ独り身の男のような気がする。

 むろん、ソルティは今年もシングルベルを安楽に過ごしましたとさ。



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※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。





● ただOSのみ :初期仏教月例講演会 『性格の完成~「ありのまま」は危ない!』 (講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年6月3日(土)14:00~
会場 日暮里サニーホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回のテーマは性格について。
 仏教では、性格を語る上では業についての理解が欠かせない。性格と業は切り離せないのである。

 業とは行為(身・口・意)でありカルマである。我々が毎瞬毎瞬、体・言葉・心で行っているあらゆる行為(=業)は、そのまま、それに応じた結果をもたらすポテンシャルエネルギー(潜在力)を形成する。それがカルマ(=業)である。カルマを理解しやすい一番の例は、食べ物と体との関係じゃなかろうか。良い物を食べれば健康になり、悪い物を食べれば病気になる。結果をもたらすまでに体内で起こっている一連の活動――咀嚼、消化、吸収、分解、各組織への運搬e.t.c.――が潜在力である。
 カルマは、一つの生の中である程度のタイムスパンを持って起きている。たとえば、煙草の吸い過ぎでガンになった、というように。一方、複数の生をまたいでも作用している。それが輪廻転生と言われるものだ。たとえば、今生でグルメの限りを尽くしたけれど食欲が満たされることなく肥満が原因で亡くなった⇒⇒⇒来世で豚に生まれ変わる、といったように。
 「因があって、業を形成し、果を生じる」というカルマシステム(=輪廻)は、秒刻みの短いスパンから、何世紀にもわたる長いスパンまでを包含する概念なのである。

 仏教では「生命は業から生まれ、業を相続する」とする。過去に作られた業ゆえに我々(生命)はこの世に生れ落ち、その業の内容に応じて一人一人の置かれている環境に違いが生じている。つまり、人が先天的に持っている資質や生まれつき与えられている環境は業の働きによる。本人には選ぶことのできない・変えることのできない部分である。
 性格もこの業の一つなのだと言う。

 各生命の個性は業が作ります。性格とは業が個人のために作ったOS(Operation System)です。(スマナ長老の言葉、以下同)

 なので、基本性格は生涯を通じて変わらない。自分や他人の性格を変えようと努力しても無駄ということだ。
 だが、性格をまったく変えられないかと言えばそうでもない。基本性格は変えられなくとも、そこに上乗せすることができる。

 OSの上に人は自由にアプリケーションソフトをインストールし、環境を管理することで、好みの性格に変えられます。 

 このときアプリケーションソフトとして使えるものが、「家族・育ち・教育・他人の影響・年齢・職業・住む場所等々」、いわゆる後天的要因である。これらが因となって業を形成することで、‘性格の変化’という果をもたらすわけである。先天的なものと後天的なもの――性格は「2段構え」と言うことができる。

 性格に良し悪しはありません。業なのでポテンシャル(潜在力)が合理的で正しい結果を出します。

 仏教では結局、新たな業を作らず、業の影響から逃れ、次の再生を遮断すること(=解脱)を最終目的としている。なので、優秀なアプリケーションソフトを搭載して世間的に「良い性格」と言われているものを身に着けたところで、「そんなことしても意味ないですよ。生まれ変わりますよ」ということなのだろう。
 仏教における性格の完成とは、「新たな業をつくらない」ことにある。

 性格を完成する道は、以下の通りです。
    • 戒・定・慧を身につける。
    • まず善行為から始める。
    • 五戒を守る。
    • 慈悲喜捨の実践や呼吸瞑想。
    • ヴィパッサナー瞑想。

 さて、上記の修行を積むことで、新たな業が形成されず、悟りに達し解脱したとする。仏道修行の最終目標である阿羅漢になったとする。
 阿羅漢には業がないのであろうか? 性格がないのであろうか?

 そうではない。
 阿羅漢といえども過去の業を消すことはできない。過去に自らが起こした行為の結果は、生きている限り、その身に受けなければならないのである。
 999人殺しの大悪人アングリマーラの逸話が有名である。ブッダに出会って改心し、仏弟子となって修行に励み阿羅漢になったけれど、アングリマーラ長老の身の上には不可解な事故がついて回った。托鉢している最中、農夫が鳥や犬を追い払うために投げた石や棒がなぜか長老の頭に当たって出血したり・・・。それを嘆くと、ブッダはこう言った。

「堪えなさい。あなたは、行為の結果として何十万年も地獄で受けるはずの結果を、現世で受けているのです」(中部86)
 何十万年も地獄で受けるはずのカルマが、棒が当たって頭が割れたくらいで済むはずがありません。来世以降に地獄で受けるはずの悪いカルマはなくなってしまったけれど、今生で受ける分のカルマはどうしても避けられず、受けてしまうということです。(藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ発行)

 同じように、過去生の業の結果である今生の基本性格は、阿羅漢になっても消えることがない。OSである以上、生きている限りはずせない。
 別記事で阿羅漢の多様性(=個性)について考察し、クリシュナムルティの言を引用した。曰く、「最終的な悟りに至っても独自性(Individual Uniqueness)は残る」と。
 カルマシステムの観点からこの「独自性」を解き明かすことができるのである。

 我々修行者がやっていることは、後から搭載した「自己」という名前の数々のアプリケーションソフトを一つ一つはずしていって、最終的にOSだけの状態に立ち返ることなのであろう。 

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 最後にスマナ長老からの心が明るくなる一言。

人間なら皆、良い業を持っています。

 仏道修行のできる人間として生まれたことが途轍もない福音なのである(キリスト教的?)。



サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。




● おトクな一日 :Happy Wesak Day 2017 (日本テーラワーダ仏教協会主催)

ウエサカ祭2017


 今年もブッダの誕生・成道・般涅槃を祝うウェーサーカ祭に参加した。
 普段のスマナサーラ長老の講演会や瞑想会の時とは違い、会場いっぱいに和やかであたたかい、あえて言えば女性らしい雰囲気があふれていて、そこにいるだけで癒される心地がする。ブッダとブッダの教えとサンガを愛する人びとの慈悲の気が満ちている。会場内に流れている音楽がまた良かった。

 今年もたくさんのお土産があった。

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  • 『Patipadaパティパダー』4月号・・・・・日本テーラワーダ仏教協会の機関誌。
  • 『「怠け」を克服する』・・・・・スマナサーラ長老の法話を起こした冊子。山口県下松市の誓教寺に新設された会館「仏教なんでもセンター」の落慶記念に発行されたそうである。この誓教寺の住職が『浄土真宗は仏教なのか?』、『日本仏教は仏教なのか?』(ともにサンガ発行)で日本仏教界を騒がせた藤本晃である。
  • 『ブッダと脳』・・・・・スマナサーラ長老が現代の脳科学者によって書かれたいくつかの本を読んで、「脳」という角度からブッダの道を説明することに挑戦してみたもの。その中には当ブログで取り上げた『ブッダの脳:心と脳を変え人生を変える実践的瞑想の科学』および『奇跡の脳:脳科学者の脳が壊れたとき』も挙げられている。会員の喜捨によって刊行された尊い冊子である。
  • 『Samgha JAPANサンガジャパン』26号・・・・・スマナサーラ長老の本を最も多く出している㈱サンガ発行の季刊誌。今号の特集は『無我―「わたし」とはなにか―』。このブログで著書を紹介した慶応義塾大学大学院教授の前野隆司とスマナサーラ長老の対談が載っているのを知って、購入した。 

 これだけでもすごくトクした気分になったのであるが、なんと、昨年に引き続き今年もお弁当&ペットボトルのお茶の無料サービスがついていた。テーラワーダ協会ってば、なんて気前がいい!なんて潤沢なんだろう! 
 ・・・と感心していたら、司会者からアナウンスがあった。
 なんとこのお弁当、さる一人の女性会員からのお布施だったのである。
 ざっと500人分のお弁当とお茶。いくらかかるかは、はしたないので計算すまい。
 なんて奇特な方のいることか。
 なんて嬉しい心づかいか。
 昼休みに最寄りの公園で謹んでいただきました。
 

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 彼女が幸福でありますように。
 彼女に悟りの光があらわれますように。
 生きとし生けるものが幸福でありますように。 


 「自分」が見ている・聞いている・感じている・考えている・受け取っている「世界」は、自分だけのものである。他人は、自分と同じようには見たり・聞いたり・感じたり・考えたり・受け取ったりしていない。これを理解するのは難しいことではなかろう。
 各人の体験している「世界」は実にその人だけのものである。「世界」=「自分」なのだ。
 ならば、全部が全部「自分のもの」である「世界」をどうして愛さないでいられるものだろうか? 「世界」のなにがしかを厭い、なにがしかに抵抗することは、「自分」の一部を厭い、一部に抵抗することにほかならない。(中野駅から会場に向かう途中で訪れた気づき)


サードゥ、サードゥ、サードゥ




● 命の価値 初期仏教月例講演会:「死に方入門」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年3月 12日 (日) 13:30 ~ 16:30
場所 一橋講堂(東京都千代田区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 月例講演会が一橋講堂で行われるのは初めてじゃないだろうか。
 事前に地図で確認して出かけたものの、地下鉄東西線・竹橋駅から地上に出て、同じような高層ビルが立ち並ぶ中、案の定、迷ってしまった。スマホを持っていないと、こういう時不便である。
 立派な会場(494席)で、休日午後いっぱい借りると22万3千円かかる。月例講演会でよく使われる中野ZEROは同条件で6万900円なので、ずいぶんと開きがある。なにか安く借りられるツテでもあるのか。余計な心配だが・・・。

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 今回のタイトルは「死に方入門」。
 仏教徒でない一般市民ならギョッとするかもしれない。スマナ長老自ら「まるで死ぬことを勧めているみたいじゃないですか」と苦笑いされていた(おそらく事務局がつけたのだろう)。
 このタイトルに別に何の違和感も不自然も感じなかった自分にちょっと驚く。ここ数年の仏道修行と介護の仕事で、いかに死が身近に(あたりまえのことに)なっているかを感じた。たしかに、働き始めた最初の頃は親しくなった利用者の死に際し悲しみや動揺を覚えたものだが、最近は淡々と見送っている。「死」に免疫ができるのは良くないことだろうか?

 講演内容は、「仏教は死をどうとらえているか、仏教徒は死とどう向き合うべきか」といったあたりで、別記事で紹介したスマナ長老の著書『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)、『老いていく親が重荷ですか。』(河出書房新社)に連なるものであった。
 いつものように前半は座席で舟をこいでいた。神田川をそれこそ中野あたりまで遡ったかもしれない。いびきをかかないようにだけ注意。
 最近は眠かったら逆らわずに寝る。というのも、スマナ長老の話が世間モードから出世間モードに移って仏法の核心に近づくや、パッと目が覚め、瞬時に頭が冴えると分かったからである。よくできている。

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 以下、思わずメモをとったスマナ長老のコメント。

● 正しい花の咲き方、散り方というのはありません。どんな咲き方、散り方も自然のままです。同じように、正しい死に方はありません。死は常に正しいのです。一方、正しい生き方なら可能です。

 死は常に正しい。
 これは、広い意味で業論であろう。
 介護の仕事をしていると、人の様々な老い方、死に方を目撃することになる。
  • 心身を蝕む病いに苦しみ、入退院を繰り返し、最後は救急搬送で病院に運ばれ、死を迎える人がいる。
  • すべての不幸や不遇を周囲のせいにして、せっかく訪ねてくれた家族・友人に怒りをぶつけ、職員に八つ当たりし、食事や服薬や入浴を拒否し、施設のトラブルメーカーとなる人がいる。
  • 入所時以降、まったく顔を見せない息子を恨む一方で、半ば諦めている人がいる。
  • 認知が進み、ちゃんとトイレの始末ができないのに、プライドばかり高くて職員の介入を執拗に拒む人がいる(ほうっておくと、他の人の部屋で放尿・放便する)。
  • 子供や孫やひ孫たちがちょくちょく訪れては散歩に連れ出してもらい、楽しい一時を過ごす人がいる。
  • 職員とも周囲の利用者ともまったくコミュニケーションをとらず、自室に閉じこもっている人がいる。
  • 認知はあれど人の役に立つのが好きで、進んでコップ洗いを手伝ってくれる人がいる。
  • 家族に見守られながら、穏やかに息を引き取っていく人がいる。
 人の老い方、死に方は百人百様である。
 心あるスタッフなら、すべての利用者に、人生の最後の時間を穏やかに、安らかに、心地よく過ごしてもらいたいと思う。それはスタッフ自身の楽にもつながる。口癖のように「死にたい」「殺して」を繰り返し、しんどい思いをしている利用者に日々接するのは、スタッフにとっても辛いことである。医療従事者でないので身体的な痛みはどうにもできないけれど、せめて精神的な苦痛は少しでも和らげてあげたい。それに、トラブルメーカーが一人いるだけでフロアは混乱に陥り、スタッフは気力消耗し、バーンアウトの可能性が高まる。
 ソルティもしんどい思いをしている利用者を前に、「なんとか楽な気持ちにしてあげられないものか」、「もっと家族が訪問してくれればいいのに」と思う。あるいは、「いい加減、自分を苦しめるだけのつまらないプライドを捨てたらいいのに」、「こんな苦しみを最新医療によって引き伸ばすことに何の意味があるのだろう。これこそ虐待」と思ったりする。他人の苦しみを前に、何もできないことの無力感や苛立ちに襲われ、そのうち、いちいち感情的に反応するのが自分を苦しめるだけと思い、感情を抑えつけるのが習性となる。利用者のしんどさに鈍感になる。すると、業務が着々と滞りなく進むようになり、形だけはベテランになっていく。
 こういう落とし穴が介護の仕事にはある。
 いや、介護だけでなく、医療や保育や福祉相談など人のケアに関わる仕事には共通してある陥穽だろう。

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 感情をなくした鉄面皮にならずに、なんとか無力感や苛立ちと付き合う道はないものか・・・・と探ったところで、業論に至った。
 つまり、どのような老いを迎えるか、どのような死に方をするかは、言葉の真の意味で「自業自得」なのだと気づいた。
「このように生きてきたから、このような老いを迎えている」
「このように生きてきたから、このような死に方をする」
 すべては因果応報、因縁のルールに則っているのだ。
 たとえば、親を施設に入れたが最後、全然訪ねて来ない子供たち(もちろん立派な社会人である)について、ソルティは(ご利用者に代わって?)憤りを覚えることが多いのだが、そのような子供になった一番の原因はやはり親自身の育て方にあるのは間違いない。育てたように子は育つし、育てられたように親を看取る。親は結局、自分の蒔いた種を刈り取るほかないのである。現役時代、仕事や趣味にかまけて子供をほったらかしにしてた挙句、今度は自分がほったらかしにされる。
 そのような視点からすれば、人は誰もみな、正しく「老いて」、正しく「死んで」いる。
 もちろん、「自業自得だから苦しんでいる人をほうっておけ」ということにはならない。それだったら介護という仕事の意味がない。本人の心の苦しみは、純粋に本人の生き方(=思考パターン、妄想ループ)の結果に過ぎないので、他人が――それこそ人生の最後に介護を縁としてほんのちょっと知り合っただけの人間が――それを変えることは不可能に近い。けれど、少なくとも苦しみに寄り添うことはできる。それで十分なのだ。
 一時の感情に振り回されずに状況を正しく見て、ご利用者と適切な距離を持って関わる心の持ち方として、業論は役に立つ。
 思うに、ソルティが現在介護の仕事に携わっているのもそれなりの因縁を持つ「自業自得」に違いない。


● 慈悲喜捨、無常、苦、無我などの真理を学んで、観察して理解し、納得するならば、年老いてボケになって世の中のどうでもいいものは忘れてしまっても、心は無常に、苦に、慈悲喜捨に定着します。

 せっかく修行して真理を悟ったとしても、ボケたらどうなるのだろう? 全部無駄になってしまうのだろうか? ボケたら智慧は失われるのか? ボケたまま死んで輪廻転生して、来世は木瓜の花にでも生まれ変わるのだろうか?
 そんな疑問があった。
 この言説は大いなる安心をくれた。


● 安楽死とは、医者が殺人を犯すのを許すことです。命を助けるべき医者を殺しの専門家にしてはいけません。なぜなら、人の病に真剣にあたることができなくなるからです。

 これは納得。
 一度、安楽死に手を貸した医者が、命に対する敷居が低くなるのは想像に難くない(漫画『ブラックジャック』に登場するドクター・キリコを想起する)。一度人を殺した犯罪者が、次からはさして抵抗を感じずに人殺しできるのと同様、いったん「死」を肯定したら命は安くなる。
 一方、 


● 命は無常だから価値がありません。生きるとは、命とは、無常の流れに過ぎません。無価値の流れです。 

 これぞ出世間の智慧。
 多くの人には受け入れ難い言説であろう。命こそ最大の価値というのが、現代人の信念である。大乗仏教でも命に多大な価値を置く言説ばやりである。
 
 生きることに意味はなく、命にはなんの価値もない。

 この、ある意味‘悪魔的な’言説が本来の仏教である。
 これを認めて受け入れるのはどんなにか難しいことだろう!
 しかし、よくよく考えてみれば、命に価値があると人が思うのは、「自分が死にたくない!」からである。死んだら、いろいろな欲望が果たせなくなるからである。「自分は死にたくない」→「きっと他の人も(生命も)同じ思いだろう」→「命は大切だ」となる。つまり、命そのものに価値を見ているのではなく、欲望に価値を置いているのだ(←別にそれが悪いことだと言っているわけではない)。
 あるいは、「命が生まれるのは、天文学的な確率で起こる奇跡である」→「命は大切だ」となる。しかるに、天文学的な確率で起こることに‘価値がある’と考えるのも、きわめて打算的な発想である。ダイヤモンドに価値があると言うのと変わりない。
 価値とか、意義とか、目的とか、超越的な存在(神意)とかないところに、ただ生まれて、ただ死んでいくのが、生命である。
 (原始)仏教のこのスタンスは、下手すると‘命’の軽視につながりやすい。生命が輪廻転生するという考え方がさらにそれに拍車をかける。なぜなら、「どうせ生まれ変わるのだから、今ある命が消えてもたいしたことない」と結論付ける傾向を生んでしまうからである。ここまで来ると、ポア思想を現実化したオウム真理教と大差なくなってしまう。(むろん、これは‘邪見’の最たるものだ!)
 
 テーワラーダ仏教(原始仏教)における命の意味とはなんなのか。それと慈悲の関係はどうなっているのか。
 そのあたりを学ぶ(悟る?)必要を感じる。
 
 
サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● やれ打つな :初期仏教月例講演会『思いやりを育てる~相手の立場を理解するシュミレーション~』(スマナサーラ長老指導)

日時 12月 17日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(荒川区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 ここ数日、ハエに悩まされていた。
 何の拍子で部屋に入り込んだかは知らぬが、ご飯を食べてたり、こうしてパソコンに向かっていると、頭や顔の近くをヴンヴンと飛び回り、うっとうしくて敵わない。寒気が入るのも仕方なく、部屋の窓をしばらく開け放しておいたが、いっこうに出てゆこうとしない。
 不思議なのは、こちらが寝ているときと瞑想しているときは羽音が止むのである。もっとも邪魔されたくないこの二つを尊重してくれているらしいので、しばらくほうっておいたのだが、ある晩ブログを書いていると、パソコンの画面やキーボードに止まったり、わざわざこちらの目の前をこれ見よがしに通過したりと、あまりに十二月蝿(うるさ)いので、退治しようと決意した。不殺生戒(=生き物を故意に殺してはならない)を破るのは本意ではないが、軽く叩いて意識を失わせて床に落ちたところをティッシュでつまんで外に追い出そう。――実際にはそんな上手い具合に力加減を緩めるのは難しいから、まかり間違って叩き殺してしまっても「殺すつもりはなかった」という言い訳を用意しておきたかったのだ。
 手近にあった大学ノートを丸めて筒を作った。
 そこから数分間のハエとの攻防が始まった。
 なんだか実に賢いというか「できる」ハエで、こちらが居場所を見つけてノートをゆっくり構えた瞬間に飛び逃げる。明らかにこちらの殺気か視線を敏感に察している。なるべく殺気を出さないよう平常心を保ち、直前まで明後日の方向を見ていたりするのだが、どうしても0.5秒遅れで逃げられてしまう。
 しまいには仏壇に入り込んだ。
 それは、ソルティが毎朝線香をあげ、経を読み、慈悲の瞑想を唱えている仏壇で、中にはミャンマーの友人からもらった小さなお釈迦様の像と、ポー・オー・パユットーの『仏法』の本と、スマナサーラ長老が編纂した『ブッダの日常読誦経典』(どちらもサンガ発行)と、塩を敷きつめた線香立てが置かれている。部屋の中で一等の聖なる空間でありパワースポットであり、ハエの立場からすれば最高のアジール(避難所)である。
 いくら無慈悲なソルティでも、そこに入り込んだハエを叩き殺すことはできない。あきらめるよりなかった。
 翌朝、顔の周りで唸るハエの羽音で目が覚めた。
「ちっ。寝ているときはほうっておいてくれるんじゃなかったの?」
 手で追い払って気持ちのいい惰眠を貪ろうとすると、またしてもやって来る。
「ったく、なんだよ、いったい」
 怒りモードで身を起こし、壁時計を見てハッとした。
「いかん。約束に遅れる!」
 人と会う大事な用件があったのに目覚ましをセットしていなかった。
 すぐに着替えて、朝飯もとらず家を出た。ぎりぎりの列車に間に合った。
 あとちょっと寝過ごしたら、約束に遅れるところだった。

ハエ

 
 今回の講話のテーマは、「どうしたら相手のことが理解できて、適切な関係を結べるか」というものだった。
 結論から言えば、①自分がして欲しくないことは相手に対してやらない、②慈悲の瞑想を行って相手の幸せを願う、といったごく当たり前のことになる。
 ここで‘相手’というのは人間に限らず、すべての生命についてである。
 
 生命は自分に対してプライドを持っています、対等に接してほしいと思っています。
 
 ハエもまた然り。
 その正体は、「ハエ」という形態と生態と名前をもった「生命」であって、それはソルティが「人間」という形態と生態と名前をもった「生命」であることと、まったく変わりはないのである。ハエもソルティも輪廻転生によって変幻してゆく一時的な被り物をしているだけなのだ。
 
生命の根源は慈悲喜捨です。ほとんどの場合、それは被り物の下に隠れて寝ています。
が、それはすべての生命に共通しているものなので、慈悲の瞑想をすると、究極的にはすべての生命とひとつになることができます。それが梵天の生き方です。

生命の木


 今回面白く聞いたのは、「相手を理解する方法」すなわち読心術である。

    1. すべての生命の生きる衝動は貪・瞋・痴(=欲・怒り・無知)です。まず自らの貪・瞋・痴の感情の働き方を観察します。(貪・瞋・痴は組み合わせの配合によって何千通りの姿になる)
    2. 完璧でなくとも自己観察を続けます。
    3. 相手の行為を観察して、その裏にある行為を引き起こしている感情をチェックします。
    4. また、善行為をすると、貪・瞋・痴の三つに加え、不貪・不瞋・不痴の三つの感情も理解できるようになります。これで尺度は六つになります。 
    5. 価値観を入れず、白黒に分けず、判断せず、ありのままに相手を観ることが必要です。
    6. これで相手の感情を理解することができるようになります。 
    7. 決して悪用しないでください

 自分の感情や欲望を理解することは、相手の感情や欲望を理解することにつながる。自分が善行為することは、相手の善意を理解することにつながる。 
 面白いのは、これが社会福祉や精神保健福祉の分野で対人援助の基本原則とされているものによく似ていることである。
 たとえば、バイスティックの7原則では、
  • 統制された情緒的関与の原則(=援助者は自分の感情を自覚して吟味する)
  • 受容の原則(=クライエントのあるがままの姿を受け止める)
  • 非審判的態度の原則(=クライエントを一方的に非難・判断しない)
が謳われている。また、ケースワーカーやカウンセラーの最も重要な資質は、「自己覚知」「受容・共感・傾聴」と言われる。

 こうした方法(原則)が正鵠を射ていることを、ソルティは日々、職場の老人ホームで認知症高齢者の介助をしながら実感している。
 認知症高齢者は、思考と言葉がトンチンカンである。自らの願望を口に出して正確に相手に伝えることが苦手である。(たとえば、便意を感じているのだが、口に出して言うのは「俺のメシがないんだよ~」) また、こちら(職員)の言葉や意図を理解するのも苦手である。(たとえば、「歯を磨いてください」と歯ブラシを差し出すと、それで髪の毛を梳かし始める) 言葉を介在したコミュニケーション、あるいは言葉の背後にある意図の理解が苦手である。
 慣れていない職員だと、なんとか相手に理解させようと言葉を繰り返し、語気を強め、理屈によって納得させようと頑張ってしまう。これがまず逆効果で、相手は「職員に怒られている、脅かされている、馬鹿にされている」と感じて、不穏(=精神的に不安定な状態)になってしまう。当然、介助はうまくいかない。
 認知症の人への介助のコツは、相手の言葉や行動ではなく、感情に焦点を当てることである。理屈や良識を振りかざして介助者の意図通りに相手を動かそうとするのではなく、表情や振る舞いから相手の感情を読みとり、不安ならば安心させ、怒っているなら宥めて、嬉しそうな様子ならば一緒に喜び、感謝には感謝を返し、その瞬間瞬間の「ありのままの」相手をいっさいの保留なしに受け入れてしまうことである。そのためには、瞬間瞬間、介助者が自身の内面に湧き上がる感情を観察・捕捉できなければならない。介助者が自らの感情なり欲望なりに振り回されていては、あるいはそれらのバイアスを自覚せずに相手に関わっているようでは、到底、相手の感情に客観的に向き合えないし、相手のプライドを尊重した対等の関係を結べないからである。
 
 もはや言うまでもなかろう。自己覚知・自己観察力を育てる最強にして最高の方法がヴィパッサナー瞑想であり、「ありのままの」相手を受け入れる器をつくる最強にして最高の方法が慈悲喜捨の瞑想である。

 つくづく、ブッダって人類史上最高のカウンセラー&ケースワーカーである。
 否、生命史上か。
 


サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。



 

● CMの効用 初期仏教月例講演会:『Vinnana(識)の理解』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2016年10月1日(土)18:30~
会場 代々木オリンピックセンター・カルチャー棟小ホール
内容 「識の理解~仏教とはこころの勉強と育成です~」
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回は、仏教の基本的事項を網羅したアビダンマ風の講演であった。メモをとった用語をざっと見るだけでも、
  • 名(ナーマ)と色(ルーパ)
  • 欲界(六道)、色界、無色界
  • 業(カルマ)、行(サンカーラ)、識(ヴィンニャーナ)
  • 五蘊(色・受・想・行・識)
  • 心と心所
  • サマーディ瞑想とヴィパッサナー瞑想 ・・・等々
 自分の知識や理解度を確かめるいい機会になった。同時に、仏法の基本の「き」だけでも、今一度体系的に学び直したいなあと思った。来年1月の社会福祉士国家試験が済んだら、ポー・オー・パユットーの『仏法』を読み直そう。

 さて、識とは「心」のことである。
 仏教では、「心」とは認識する働きのことを言う。何をどのように認識するかは問題ではない。「心」とは単純に外界なり内界なりを「知覚する機能」であって、そこに内容はない。生命であることの条件は、この「識=心=知覚する機能」を持っていることにある。
 人が、悲しくなったり、楽しくなったり、欲望でヒリヒリしたり、怒りでフツフツしたりするのは、「心」のせいではなくて、その都度その都度「心」に溶け込んでいる「心所」のせいであるとする。「悲しい」心所が「心」に溶ければ悲しくなるし、「怒り」の心所が「心」に溶ければ怒りとなる。心所とはいわば「心の成分」である。その数は54種類に分類されている。
 スマナサーラ長老は、心と心所の関係を、水と水に溶けている成分の関係にたとえられた。そもそもの水(H2O)には味も色もついていない。それが、たとえば水にコーヒーの粉が溶ければコーヒーになり、茶の成分が溶ければお茶になり、アルコールが溶ければ酒になる。すべてのドリンク(水溶液)は「水」という液体を溶媒とし、そこに何(溶質)が溶けているかによっていろいろな飲み物に分類される。
 ソルティは、テレビ受像機(心)とテレビ番組(心所)の関係にたとえて理解している。テレビ受像機は電波を受信して映像に変換する装置に過ぎない。そこに感情的要素はまったくない。文字通り‘機械的に’動いている。しかし、モニター(さすがにブラウン管はもうないだろう・・・)に映し出される番組の内容によって、視聴者は悲しくなったり、楽しくなったり、怒りにかられたり、物欲や性欲をたぎらせたりする。番組の映っていない砂嵐の画面なぞ面白くも何ともない。
 
 さて、巷でよく言う「心を知る」とはどういうことか。

 こころは認識機能なので、認識機能で認識機能を認識することはできません。
 
 つまり、「心を知る」ことなんて不可能である。

 心は、自らと同時に生起する心所を認識するのです。

 「心を知る」とは「心所を知る」ことにほかならない。
 「あっ、いま心の中に、悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲望がある・・・・e.t.c」とその場その場で心の様態を認識すること、すなわち「気づくこと」――これがサティ(念)である。

 「心を育てる」とはどういうことか。
 もうお分かりだろう。
 「心所を育てること」である。
 心所には54種類あると書いたが、これが善心所(24種類)、不善心所(12種類)、善悪どちらでもない無因心(18種類)に分けられる。むろん、育てるべきは善心所である。
 「怒り・欲・無知」に代表される不善心所を、「信や念や慈悲や智慧」に代表される善心所に変えていくことは、「心」の機能そのものを強化する。テレビの喩えで言えば、「良い番組をたくさん増やしていくことがテレビ受像機そのものの性能をアップさせる」といったところか。(現実にはあり得ない話だが・・・)
 善心所を育てて「心」の機能を強化することによって、

ありのままにものごとを認識することができて、真理を発見します。

 すなわち、「悟る」のである。

 そして、一番の善心所が何かといえば「サティ(念)=気づき」であり、サティを育てることで悟りに達せんとするのがヴィパッサナー瞑想というわけである。
 仕組みを聞いて、なんだか非常にすっきりした。
テレビと視聴者
 ここで面白いのは、というか気をつけなければいけないのは、瞑想によりサティの力が高まることが、「気づいている‘自分’がいる」という錯覚につながりやすいことである。「悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲がある」とある程度客観的に淡々と自分の心の中(心所)を観察できるようになると、観察者としての自分を立ち上げてしまうのだ。サティ(念)という心所が、ほかの53の心所から分離されて、あたかも「心所を24時間チェックしている自分がいます」という幻影を生み、マトリョーシカみたいに入れ子構造の「私s」がつくられる。

 しかし、それは間違いである。
 テレビ番組がニュース→天気予報→ホームドラマ→スポーツ番組→バラエティ・・・・・と時間帯で次から次へと変わっていくように、心に溶け込む心所もまた時々刻々移り変わっていく。喜び→物欲→怒り→悲しみ→無気力→性欲→賢者タイム→慈悲・・・というように。サティ(気づき)もまた、その流れの中に包含され繰り返し現れては消えていく心所の一つに過ぎないのである。
 サティをCM、それ以外の心所をテレビ番組と考えると分かりやすいかもしれない。
 視聴者は、たとえばサスペンスドラマを見てストーリーや役者の演技に心奪われ、恐怖や不安や興奮などの感情をかきたてられ、自らを登場人物のように感じて現実とフィクションの境界を忘れることがある。そんな瞬間、CMがやってきて視聴者をお茶の間の現実に引き戻す。「これはドラマだよ。フィクションだよ。少し頭を冷やしなさい」というふうに。サティとは、妄想からありのままの現実に人を連れ戻すCM――それもトイレに立ちたくなるような味気ない――みたいなものである。
 そして、朝から深夜までの放送時間中、CM枠をできるだけ多く入れていくことがヴィパッサナー瞑想の極意というわけだ。
 
 あまり適切な喩えでないかもしれない。が、少なくとも「気づいている自分、悟りに近い自分」という別のドラマを立ち上げてしまう牽制にはなろう。

Consciousness is not Self.
気づきもまた「私」ではありません。

 それゆえ、「私が瞑想をしている」という言い方は誤謬なのである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● あとは野となれ山となれ 初期仏教月例講演会:『「承認欲求のトリセツ」~ひとは誰に認めてもらうべきなのか?~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 9月 10日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(東京)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 400名定員のホールはほぼ満席。
 近くの席の会話を聞いていたら、「泊り込みで関西から来ました」という参加者も。東京に住み、毎月のようにスマナ長老やマハーカルナー禅師の生の姿に触れ、生の声を聴き、じかに教えを受けられるのは幸運なことである。
 というのも、今日のスマナ長老のオーラ。
 凄かった。
 演席の背後に黒い幕が垂れていたせいもあり、長老の身体から放射状に広がる白い煙のような光背が客席からよく見えた。まるで繭の中で語っているかのようであった。
 長老から発する熱波は、珍しく前の方の席に座っていたソルティのところまで及び、全身が温かく微細な波動に包まれ、全細胞が喜びに打ち震えるかのように振動し、体内温度が上昇した。
 伺うところによると、ひと月ほど母国スリランカに帰られて、村の子どもたちと交流したらしい。日本で溜まった垢を落として、すっかりリフレッシュされたのだろうか。
 
 面白かったのは、長老が、「いま日本人に話しているのとまったく同じような話をスリランカで(むろん現地語で)したけれど、聴衆はまったく食いついてこなかった」と言われたこと。原始仏教のお家元であるスリランカのほうが、庶民レベルでより仏法への関心と理解が深く、悟りを目指して瞑想修行している在家の人も多いのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
 時々思うのだけれど、平成の世の日本人ってのが、世界で一番テーラワーダ仏教を理解できる素地(=波羅蜜)を持っているんじゃないだろうか。

虹をわたって 001


 今回のテーマは「承認欲求」。
 「他人に認められたい」「社会的な尊敬が欲しい」といった欲求である。
 アメリカの心理学者マズローの欲求段層説では、5段階のピラミッドの上から2番目に来る。下位3つの欲求がある程度満たされると、この「自尊と尊敬の欲求」とも言われる「承認欲求」が出現する。
 つまり、誰にでも備わっている。

マズローの五段階
2017社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用
 
 スマナ長老は言う。
 
承認欲求は無始なる過去からあり、解脱に達するまではあり続けるものです。 
 
 つまり、阿羅漢になるまでは承認欲求から完全に自由になることはできない。『私』が存在する限り、承認欲求も存在するわけである。(阿羅漢には『私』が無い)
 人が承認欲求を持つのはなぜか。
 それは、「他人に認めてもらえないと自信が持てない」からである。他人の存在も社会の目もまったく関係なしに、一人で自信満々のうちに完結しているというのは(阿羅漢でない限り)ありえない。
 というのも、
 
客観的に物事を観察するならば、何に対しても自信が持てるはずはありません。なぜならば、すべては無常なので先が見えないからです。
 
 まさしく。
 ある一つのことで成功しても、その成功がこの先ずっと続くことはあり得ない。自分も変わるし、相手も変わるし、状況も変わる。かつてのミリオンセラー連発のヒットメイカーが、時代が変わるとまったく売れなくなるのを見ると、その事情は明らかだ。好きな相手への恋が成就しても、二人の関係が永遠にハッピーに続くことはお伽話でない限りあり得ない。「体力だけは自信があります!」と言う体育会系男子も、頭脳明晰を誇った東大卒エリートも、寄る年波には勝てない。自信が持てるのはせいぜい一時だけ。それも「現状が変わらない」と言う間違った認識(=思い込み)に支えられてのことである。
 大概、人は自信と自信喪失の間を行ったりきたりしながら、最後は自信喪失のままに生涯を終える。 

 一方、自信がまったく持てないのも困りものである。仕事も恋愛も人間関係も、ある程度の自信がないとうまくいかないのは明白である。常にオドオドし失敗におびえている人間は、お望みどおりの結果(=失敗)を呼び寄せてしまい、自信喪失の悪循環にはまり込んでしまう。
 どうしたらいいのだろうか。

ポイントは自信を確信に置き換えることです。

 これが今回の法話の肝であろう。
 ソルティも「なるほど。ウン、これは使える!」と心の中で唸った。
 ここで言う「確信」とは別の言葉にすると「確認」である。つまり、サティ(念)のことだ。流行の言葉で言えば「マインドフルネス」ということだ。

仕事、勉強、料理、洗濯など、すべての行為を確認しながら行うことが大切です。行うことに確信があれば十分です。自信は要りません。
 
 つまり、「いまここ」の目の前のやるべきことについて、しっかりと注意を向け、集中し、自分ができる最良のことをすれば、それで十分ということだ。仕事についても、対人関係においても。

 ソルティの従事している介護の仕事を例にとる。
 経験のない新人のうち、たとえば片麻痺のある高齢者を車椅子からトイレの便座へ移乗するのは神経を使うものである。安全に、介助する者の負担を最小にして、ご利用者に不快感やしんどさを与えないようできるだけ短時間で、移乗介助を一連の流れとしてスムーズに行えるようになるまで、半年くらいかかる。それまでは、流れをコマ切れにした一つ一つの作業――「車椅子のブレーキをかける」→「利用者に手すりを握ってもらう」→「利用者の足の位置を確認する」→「利用者を車椅子から立たせる」→「片手で利用者を支えながら片手で衣類を下ろす」→「汚れたパットを慎重に抜き取る」→「利用者の体の向きを変え便座に座らせる」等々――について、指差し確認するかのように、確実にクリアしていかなければならない。
 慣れてくると、一連の作業を特段考えることなく分割せずに行えるようになる。体が覚えてしまうのだ。「自分もできるようになってきたなあ~」などと思うのである。
 しかし、最も事故を起こしやすいのは、この慣れてきた局面(開始後半年~1年くらい)と言われる。
 新人のうちは、一つ一つの作業に全神経傾けているので、介助技術自体は未熟でも事故は起こりにくい。慣れてきて「自信がついてくる」と、一つ一つの作業への注意力が薄れ、確認がおろそかになって、かえって事故につながりやすい。「自信がつく」ことが、事故をまねくわけだ。
 介護の仕事について5年目となるソルティも、今では上記の介助をご利用者と雑談しながら、あるいは鼻歌まじりに行えるようになった。新人の頃には考えられないくらい熟達したと思う。一方、時々、思わぬミスも生じるのである。たとえば、「車椅子のブレーキをかけ忘れた」「利用者の足を車椅子のフットレストに乗っけたまま利用者を立ち上がらせた(車椅子ごと前に倒れる危険がある)」「パットを抜き取る際に失禁していた大便を床にぶちまけてしまった」等々・・・。自信がつくことは、「大丈夫だろう」という過信に容易につながりやすく、その結果初歩的なミスを招くのである。
 最近は新人の指導につくことも多くなったが、もたついているように見える新人の介助を見ていると、一つ一つの作業について丁寧な確認を行うことの大切さを逆に教えられる。結局それが一番大切なのだ。
 自信ではノーミスは保証できないけれど、確認作業ならノーミスは保証できる。

 対人関係についても、「あの人に嫌われているのでは?」とか「あいつは気に喰わない」とか「あの人とどうやって付き合ったらいいんだろう?」とか「こんなことしたら、人からどう思われるだろう?」など、いろいろ考え頭を悩ますよりは、いま目の前にいる相手に誠心誠意向き合えば、それで十分なのである。その積み重ねが‘関係’を作っていくのだから。
 
 ポイントは、「時間」というものを‘線’や‘面’でとらえないで、「いまここ」という‘点’でのみ、とらえることだと思う。「いまここ」に集中し、「あとは野となれ山となれ」と鷹揚にかまえる。
 その結果は、自信にはつながらないかもしれない。が、「あの人は信頼できる」という評価を得、他人や社会から認められることには益するだろう。なぜなら、失敗のない「いまここ」を重ねていけば、「失敗のない」人生をいやでも生み出してしまうからである。

自分の義務を果たすだけで人生は精一杯です。それ以上、妄想するものではありません。ある程度認められたら十分です。


 自分がヴィパッサナ瞑想修行をしている理由の一つは、意識を「いまここ」に定着させる訓練(=脳神経の回路形成)をしているのだろう。
 妄想のない人生は、そのまま幸福なのだ。
 

サードゥ、サードゥ、サードゥ。



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。






 

● 結論ばかりが人生だ : 初期仏教講演会(講師:スマナサーラ長老)

日時:2016年4月9日(土)14時~
会場:日暮里サニーホール(東京都荒川区)
主催:日本テーラワーダ仏教協会 
テーマ:『「立ち止まらず、もう一歩前へ」~勇気を出して概念を手放せ~』

 心地よい春風が吹く行楽日和にも関わらず、定員400名ほどのホールはほぼ満席。マハーカルナー禅師の人気沸騰ぶりといい、初期仏教は一時的なブームを超えて、すっかり日本社会に根を下ろしたように思う。
 釈迦国の王子だったブッダがそうだったように、物質的豊かさと自我を満たしてくれる(ように見える)様々な‘物語’が崩壊した果てに訪れる「虚しさ」が否応なく辿り着くのは、ここでしかないのだろう。
 おそらく、今後日本における初期仏教の主役を張るのは、いわゆる「さとり世代」になるんじゃないかと予測する。

 あいかわらずのスマナ節炸裂。
 話が終わりに近づくにつれて、ぐんぐん核心に迫っていき、聴いているこちらの頭もぐんぐん覚醒していく。
 聴くことがそのまま瞑想体験になる。
 最後には脳細胞が痺れたようにジンジンと脈動しているのを感じた。
 
 思わず書き留めたスマナ語録。そのソルティ流解釈。

「結論ばかりの人生」
日本人はYES/NOをはっきり言わない、自分の意見を持たないと言われるが、それはウソ。みんな見解を持っている。対立を恐れて口にしないだけ。どんなことにも見解を持っている。結論ありきで生きている。
 巷を賑わすスキャンダラスなニュースに対するネット上の匿名コメントを見ていると、本当にそう思う。一億総評論家時代。しかも意地悪な・・・・。

「見解は戦い、勝敗を招く」
見解を持つとは、各々が「眼・耳・鼻・舌・身・心」を通して得た固有のデータをもとに概念を組み合わせ、固定した判断をすること。客観的な正しい見解などない。見解はすべからく邪見。各々が見解に執着するから戦いが起こる。

「知識は重い。智慧には重さがない」
知識は貯めること。智慧は反対に見解を捨てること。見解から自由になること。捨てることで現れる開放感・自由・安らぎ、これこそが幸福。

「あらゆる見解を捨てた境地が解脱」
仏道修行によって世間的な見解を一つ一つ捨てていったら、ブッダの言ったことが真実とわかる。「地球は丸い」と言うのと同じく立証された事実とわかる。が、それもまた一つの見解にすぎない。頭で「諸行無常・諸法無我・一切行苦」を理解しているうちは、それもまた見解。解脱とはそれさえ捨てること。

 つまり、こうなる。
 A.あらゆる見解は邪見である。 
ならば、
 B.「あらゆる見解は邪見である」という見解もまた邪見である。
この矛盾を解く第三の道は、
 C.見解のない世界(=ありのままの世界)



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● 孤独な修行者 :日本テーラワーダ仏教協会月例講演『えっ、私が悪いの!? 疑うべきそれぞれの常識』(話者:アルボムッレ・スマナサーラ長老) 

日時 2015年6月26日(金)18:30~
会場 中野ZERO小ホール(東京都中野区)

 幸いなことに早番だったので参加できた。
 日中は段取りよくテキパキと業務を進め、定時になるや更衣室に直行。褥瘡についての学習会参加を呼びかける館内放送が響く中、迷いも無く施設をあとにした。
 中野サンモール商店街でかき揚そばを食べ、途中にあるベローチェで眠気覚ましのコーヒーを飲み、中野ZEROに向かった。

 アルボムッレ・スマナサーラ長老による月例講演会に参加するようになってからずいぶんになる。
 今では、自分にとって月のもっとも大切な行事(一日)であり、仏法について学び、俗世間から離れた視点から自分自身や世間や社会を見直す機会となり、かつ修行のモチべーションを高めることのできる有意義な時間である。出られるときは必ず参加するようにしている。会場が職場からわりに近いことも幸運である。
 
 今日もまた6割がた埋まった会場の後方の座席について、講演中の印象的な言葉をメモしようとノートとボールペンを手に、パワーポイント映写されたスクリーンに対峙した。
 が、なにせ8時間の重労働(介護)のあと、しかも今日は午後から入浴介助。汗をかいて体はクタクタである。
 講演冒頭の日常読誦(読経)が済むやいなや、瞼は垂れ下がり、首はコクンと前にうなだれた。
 40代半ばまではこんなことなかったのに・・・。
 かき揚そばは失敗だった。コーヒーだけで良かった。
 よって、講演は後ろ半分しか参加できなかった。
 情けねえ・・・
 
 しかし、話されている内容はおおむね理解できるものであった。
 人間の持つあらゆる意見・論・見解・印象は、つまるところ各人の主観に過ぎないので、他の人と完全な一致を見るわけがない。そのことに気づかず、お互いの意見に固執し、あい争ってもなんの解決にも至らない。コミュニケーションがうまくいくはずもない。まず、自分の意見が単なる主観に過ぎないことを自覚し、「自分が間違っている」可能性のあることを常に自覚しなければならない。
――というような内容であった。(これも主観的な解釈かも。半分寝ていたし。)

 テレビ朝日の『朝まで生テレビ』が始まったばかりの大学生の頃(1987年)、夜更かしして夢中になって観ていた。天皇制や部落問題などタブーとされる話題も果敢に取り上げて、斯界の著名人らによる議論の応酬や、いい大人たちの感情の幼稚な暴発ぶりを見るのが面白かった。
 しばらく見ていて、「ああ」と腑に落ちたことがあった。
 それは、「あらゆる意見・哲学・論は結局その話者の主観に過ぎず、自らのアイデンティティを支えるための自己正当化に過ぎない」という気づきであった。科学分野における論(万有引力の法則とか相対性理論とか)はとりあえず別として、洋の東西問わず、歴史上のいかなる哲学も、社会的なトピックに関するいかなる論も、もとより正解はないのである。多数派だから正解と言うこともないのである。それぞれが自己のアイデンティティの正当化を図ろうとする延長上に、もっともらしい理屈をこねているに過ぎない。
 それがわかってから、自らの意見こそが「絶対に正しい」と信じ込んで相手を言い負かそうと必死になっている出演者らがアホに見えてきて、番組自体馬鹿らしくなって、見るのを止めてしまった。
 たが、今思うにあれは、討論することでどっちが正しいかを決めようとしたのではなく、意見の多様性を視聴者に知らしめようとしたのでもなく、いわんや視聴者の意識を高めようとしたのでもなく、単なる「机上プロレスショー」だったのである。田原総一朗はアンパイヤだったのだ。
 もとより視聴率が取れなくては番組にならない。
 (だが、上記の気づきを視聴者の一人である自分にもたらしてくれたのだから、製作者や出演者には感謝すべきだろう。)

 さて、講演内容はともかく、今回「なぜ自分がこの月例講演会に参加するのか」に思い当たった。
 もちろん、法話を聞きたい(=仏法を学びたい)というのが一番ではある。
 が、今日のように半分眠って過ごしていても「十分来た甲斐があった」と思うわけである。
 それはなぜか。
 一つには、サンガ(仏道修行の仲間たち)に出会えるからである。
 ふだん自分はたった一人で本を読んで仏法を学び、たった一人で瞑想している。テーラワーダ仏教を学んでいてお互いに励ましあえるような友人、いわゆる法友を持っていない。お寺(京王新宿線の幡ヶ谷にある)に行くことも滅多にない。孤独な修行者である。
 孤独な修行者はときに迷うのである。
 
 自分がやっていることは正しいのか。
 こんな世間的価値観とはかけ離れた仏教というものに、時間やお金や気力や能力を費やしてあたら人生を無駄にしていないか。
 何年も修行をしているのに結果が見えない。このまま続けていてもいいものか。
 こんな陰気臭いことをする代わりに、もっと生活を、もっと人生を楽しむべきではないか。
 自分の欲求に忠実であるべきでないか。
 自分は仏教に依存することで、‘何か’から、あるいは人生そのものから逃げているのではないか。
・・・・・・等々。

 仏教的観点で言えば、これらは自我の策略である。
 修行の進展によって正体が暴かれ弱毒化されていく‘自我’が、なんとか生きのびようとして、修行を邪魔せんと修行者の中に迷いを生じさせるのである。
 お釈迦様でさえ、菩提樹の下に座し解脱に達する最後の瞑想中に、悪魔の声を聞いたのである。

 君はやせ細り、体が黒ずんでいる。あなたは死の瀬戸際にある。
 死が千分なら、あなたの命は(ただの)一分。君よ、生きたまえ。生きることが優れているでしょう。生きていて、諸々の善行為を行いたまえ。・・・・・・
 あなたの修行は何の役にも立たない。修行の道は厳しい。成し遂げることは難しい。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『日本人が知らないブッダの話』学研発行)

 お釈迦様はこのように答え、悪魔を退けた。

 私はムンジャを挟んでいる。命は惜しまない。敗北して生きるよりは、戦って死ぬ方がよい。

 ムンジャとは草の葉っぱのことで、昔インドで戦士たちがターバンにムンジャを挟んで死ぬ覚悟で戦いに赴いた故事に由来する。
 
 自分とお釈迦様を較べるつもりは毛頭ないものの、やはり瞑想が進むほどに、仏教にはまり込むほどに悪魔の声も強くなるのは事実である。
 そんなときに、同じ修行者の多く集まる月例講演会に参加し、別段会話をせずとも、「これだけの仲間がいるのだ。自分一人ではないのだ」と知ることは、悪魔を退ける力となる。
 仏教では、仏法僧を三宝とするが、僧(サンガ)――広くとらえて在家信者の集まり――にはそれなりの意義があるのだ。
 そろそろ法友が必要なのかな・・・。

 今一つの理由は、やはりスマナサーラ長老の存在に触れることにある。
 自分の軸がしっかりせずに右に左に揺れている自分が――仏教を知ってその振幅は以前より小さく単純な動きになったが――しっかりしたアンカー(碇)がほしいとき、スマナサーラ長老の確固たる存在感は‘効く’のである。姿を見るだけで安心するのである。
 これに関しては、当のスマナサーラ長老がこんなことを書いている。

 なぜ、一部の人々には影響力があって、他の人々には影響力がないのでしょう。
 両者を分けるのは、「生き方に自信を持っているか否か」ということです。「私はこういう理由で、このような生き方をしています」と、自分自身で自分の生き方に対して確信を持つこと。それが影響力の源になるのです。生き方が優柔不断・曖昧ということでは、影響力はまったく生まれません。(日本テーラワーダ仏教協会会報『Patipadaパティパダ』2015年6月号智慧の扉より)

 確かに、自分がこれまでに出会った影響力のある人々を思い起こすと、上記の言葉がぴったり当てはまる。
 何を信奉しているか、何を語っているか、何の仕事をしているか、どんな地位にあるか、どんな風采であるか、世間的に有名か否かなどは、あまり関係ない。自分の選んだ生き方について自信を持ち、日々それを基盤にして生き、それなりの覚悟のある人が、良きにつけ悪しきにつけ、自分に対する影響力を行使している。
 スマナサーラ長老はまさにその典型である。 
 
 サンガに出会い、長老に出会い、「やっぱり自分には仏教しかない」と納得し(なかば諦め)、会場を後にしたのであった。


サードゥ、サードゥ、サードゥ

ハスの花ピンク


 








● 思えば遠くに来たもんだ :仏暦2559年ウェーサーカ祭(@中野、東京)

 今日(5/25)は日本テーラワーダ仏教協会主催のウェーサーカ祭
 お釈迦様の誕生と成道(解脱)と入滅(逝去)を記念する年に一度の祝典である。
 5月の満月の日に行うのが本来。今年は5月4日がそうだった。
 
満月

 中野ゼロ小ホールで10時から16時半までの半日を(正確には約1/4日だが)、法話と読経と瞑想で過ごした。帰宅してから2時間のヴィパッサナー瞑想を行ったので、仏教漬けの一日となった。
 法話の途中で足を攣るというアクシデントに見舞われながらも、長時間、法話と瞑想指導に専念されたスマナサーラ長老に感謝。

 お昼休み、人でごった返す中野サンモール商店街を歩いた。
 あふれる商品の波、各国の料理、最新のIT機器、休日を楽しむ着飾った人々の笑い声、サブカルチャーの聖地・中野ブロードウェイに集うマニア達・・・・。
 ここと較べると、中野ゼロは文字通り‘ゼロ’だ。
 自分はいったいどこまで来てしまったことか。

 今回の特典は、記念品として参加者全員に贈られた協会オリジナルのマグカップ。
 デザインが可愛くて、色彩も明るくあたたかく、大きさも手ごろ。
 これでコーヒーや紅茶やスープを飲むのが楽しみだ。
 
ウエサカ2015 001

 と、喜んでいたら、イラストの裏面には「食事の観察」というお経(?)が書かれてあった。
 
ウエサカ2015 002

正覚者の説かれた真理を遵守し、
正しく観察してこの食事をいただきます。
食事により心が汚れることを戒め、
身体を痛めることにも注意し、
壊れてゆくこの肉体の修復のために、
量を計って、この食事をいただきます。
一切の生命に対して慈しみの念を抱き、
釈尊の説かれた仏道を歩む目的を念頭において、
一切の現象は無常であることを随念しつつ、
この食事をいただきます。

 やっぱり、ただの記念品ではなかった。
 このマグカップを使うたびに、気づきが生じる仕掛けになっているのだ。
 
 
 もろもろの事象は過ぎ去るものである。
 怠ることなく修行を完成なさい。
 (お釈迦様の最後の言葉)

 

● 新春仏教講演:『知ってるつもり!やってるつもり!~成長を止める落とし穴~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

【日時】2015年1月10日(土)13時00分 ~ 16時30分
【会場】東京:日暮里サニーホール
【主催】日本テーラワーダ仏教協会

 新年最初の法話、寒さも手伝って身が引き締まる思い。
 サニーホールは荒川区の施設で日暮里駅の近くにある。はじめて来たが、きれいでファッショナブルなホールである。日暮里舎人ライナー開通以降、このあたりもどんどん垢抜けていく。

 400名定員のホールは8割がた埋まっていた。
 やっぱり圧倒的に男性が多い
 テーラワーダ仏教は「心の科学」と言われるくらい論理的で実証的である。キリスト教のように愛や信仰を重視するのでなく、各々の修行による智慧の開発・確信をもっぱら重視する。そのあたりが男性向けなのかもしれない。スマナ長老の人柄もあろうか。歯に衣を着せずに容赦なくズバっと核心を突く鋭さは、‘慈悲’よりも‘智慧’の人というイメージを抱かせる。(むろん、慈悲の深さは限りないものであるが・・・)

 今日のテーマは、「仏法を知ってるつもり、修行をやってるつもり」になって、実際には成長がストップしている修行者に向けて、渇を入れるものであった。
 まさに自分・・・・!
 スマナ長老の著書を含め数々の仏教書を読んで学んだことや、毎日のヴィパッサナー瞑想で発見したことで、「自分は人より(テーラワーダ)仏教を知っている、世のありよう(無常・無我・因縁・苦)を理解している」とどこかで‘上から目線’になっていた。それが修行の進歩を妨げて、同じところを堂々巡りしていたのであった。毎日行なっている慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想、および月例の講演会参加も含めた仏法の勉強、それでOKと安心してしまい、それ以上の努力を怠っていたのである。 

修行によって発見した、体験した真理を使用することで、実践することで、復習することで、真理に達するのです。ヴィパッサナー瞑想で発見したこと(無常・無我・因縁・苦など)を実践して生活することが大切です。

 生活における実践、つまりそれが八正道なのだろう。
1. 正見  ・・・・・正しく見る
2. 正思惟 ・・・・・正しく考える
3. 正語  ・・・・・正しい言葉を語る
4. 正業  ・・・・・正しい行いをする
5. 正命  ・・・・・正しい仕事をする
6. 正精進 ・・・・・正しい精進をする
7. 正念  ・・・・・正しい気づきを行なう
8. 正定  ・・・・・正しい集中力を養う

 自分の場合、特に3と4、つまり普段の言動をもう少し注意したほうがよさそうだ。昔に比べれば、ずいぶん自分をコントロールできるようになって、他人に対する余計な言動やあとから後悔するような言動は減ったと思う。
 でも、まだまだ「つい、言ってしまった」「つい、やってしまった」ということがある。
 たいていの場合、何かを言うよりは黙っていたほうが正解である。何かをするよりはやらないでいるほうが結果うまくいくことが多い。とくに、感情(気分)に煽られての言動、酒に飲まれての言動は、あとから後悔することが多い。
 後悔というより反省か。
 今年は、そのあたりの是正を目標にしよう。


 さて、本題はそれとして、今日は講演後の質疑応答がなかなか面白く勉強になった。


●若い女性の質問「私は男性が怖いんです。どうすればいいんでしょうか」
○スマナ長老「一般論として言います。それは勘違い。男性のほうが女性を恐れているのです(場内笑)。命を生んで育てなくてはならない性が弱いはずがありません。生物学的にも女性のほうが強く作られているのです。私だって、男性が何人歯向かってきてもどうということもなくやり返せます。でも、女性が本気で歯向かってきたらお手上げです(と両手を挙げられる)。男性なんかどうってことない、という強い気持ちでいてください」

●中高年男性の質問「妻がアルツハイマーで記憶障害になった。どう対応したらよいのか」
○スマナ長老「難しく考える必要はありません。奥さんのいまの状態をそのまま受け容れて、奥さんがニコニコと幸せでいられるようにその場その場で対応すればいいのです。あなたのことが分からなくなったら‘隣のおじさんだよ。君のことが気に入ったんだ’とでも言ってあげてください」  


 認知症老人の介護を仕事(正命)としている立場から言って、スマナ長老の答えは大正解である。脳の器質異常(萎縮など)はもとに戻せないのだから、相手を昔のクリアな状態に戻そうとしたり、昔と違ってしまったことで苦しんだりするのは無意味である。今目の前の相手が穏やかに落ち着いて笑顔で過ごせるようにすることが一番である。
 そして、それは結局、認知症患者相手に限らず、平常の人間関係すべてについて言えることなのだ。過去のかくあった自分・未来のあるべき自分、過去のかくあった相手・未来のあらまほしき相手、そういったイメージに我々は捕らわれ過ぎている。‘いま、ここ’の自分と相手とが幸せであること、そこにしか幸せは築けないのである。



● 王様の涙 初期仏教講演会:『やめたいことはやめられる~ブッダに学ぶ「やめる」訓練』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 12月6日(土)中野ゼロにおける日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 今回のテーマは、‘やめたいのにやめられない’好ましくない習慣(悪癖)を如何にしてやめるか、というもの。
 仏道修行を生きる糧としているのになかなか飲酒がやめられない自分にとって、ドキッとするテーマである。

 開口一番、スマナ長老は宣言する。

「やめたいのにやめられない」と言うのは嘘です。本当にやめたいのだったらとっくにやめているはずです。実は‘やめたい’と思っていないのです。自分の意思で好んでやっているのです。

 まさに図星。
 飲酒をやめたほうが絶対に修行がはかどると分かっているのに、飲んでいる時間や酔っ払っている時間をもっと有効に使えるのは明らかなのに、「まあこれくらいいいではないか」と自分を甘やかしているのが事実である。
 「理性を失って、あとから後悔するような言動をしないでいられるレベルまでならOK」とか、「自分一人で部屋でたしなむ程度(缶ビール一缶)なら、誰に迷惑かけるでなし、よいだろう」とか、「赤ワインは健康ドリンク(ポリフェノールたっぷり)であってお酒のうちには入らない」とか、「若干の飲酒は寝つきを良くするから」とか・・・いろいろ理屈をつけて飲み続けている。
 お酒が好きか、赤ワインが好きか、酔っている状態が好きかと言うと、実のところそうでもない。
 では、なぜ飲むのか。
 自己分析するに、一つには「あまりストイックなお堅い人間にはなりたくない」という牽制が働くからである。自分に厳しい人間は他人にも厳しくなりがちなので、車の運転操作で言うところのある程度の‘あそび’があったほうが良いのではないか、と思うからである。(これもまた言い訳?)
 もう一つは――こっちのほうが真相を突いていると思うが――飲酒に依存しなかったら、もっと大変なものに、人生を狂わせてしまうほど厄介なものに依存してしまいそうだからである。
 たぶん、多くのアルコール依存症やニコチン依存症の人の深層心理にこの思考が働いているような気がする。
「明らかに自己破壊につながるもっと依存性の強い‘あっち’を我慢しているのだから‘こっち’くらい許してよ」
「‘こっち’くらいでなんとか制御しているおかげで、もっと自分をダメにするであろう‘あっち’の習慣に行かないで済んでいるんだ」
--という思考である。
 このからくりというか内心の弁明は、当事者でなければわからない。外側からカウンセラーやソーシャルワーカーや医師や保健師が、いくら本人に「お酒をやめろ」「タバコをやめろ」と言ったところで、このからくりを理解しない限り、立て板に水であろう。当事者ですら自覚していないのが普通かもしれない。

 そんなわけで飲酒をやめないでいる自分なのだが、どういうわけか、最近自分の友人たちでお酒をやめる人が続出している。「あんなに日本酒好きだった奴が!」「週末になると必ず飲み屋に出入りしていた奴が!」次々と、「自分お酒をやめました」宣言をしてくる。
 いったい、何が起こっているのだろう?
 たしかに、自分の友人たちはもういい歳(40~50代)である。体の負担を感じてもおかしくはない。人生ももう秋、お酒を飲んで無駄にする時間がもったいないと思っても不思議ではない。自分もまた「お酒の席で話したことや起こったことや意気投合したかに見える人間関係は、そのときは非常に意義を感じたり、価値を感じたり、得したような気分になったりするが、醒めてみると、結局益するものが少ない」と、飲酒生活30年でいい加減気付いている。
 飲酒で得することと損することを比べれば、やっぱり針はマイナスに振れるであろう。

 話を戻して。
 「やめたいのにやめられない」は欺瞞であり、「やりたいからやっているのだ」と正直にはっきりと自覚することが大切である。
 「やりたい」は欲望であり、心に生じる様々な感情や気分(=悪感情)をもとに熾ってくる。この悪感情がうごめいている段階で、それをしっかりと認識し、それに流されないで客観的に分析する。いま悪感情と言ったが、仏教では感情はすべからく悪感情である。感情による判断は決まって間違っている。
 以下、スマナ長老直伝の仏教による「悪感情に打ち勝つための方法」。

1. まず、心に様々な感情が湧く。
2. そのとき、「この感情でいる私は幸福、楽しみ、安らぎを感じていますか? 苦しみ、不幸を感じていますか?」とチェックする。
3. 行為をしたくなった時も同様にチェックする。
4. 行為するときも、して終わってからも、同様にチェックする。
すると、
5. 正道が徐々に現れる。
6. 行為と感情の関係がわかるようになる。どのような感情が、どのような行為を引き起こすかを発見できるようになる。
7. 正しい行為によって、自分がどのように幸福になっているのかを理解する。
8. 自分の正しい行為で他者も幸福になるのだと発見する。
さらに、
9. 無知のせいで、無常なる現象に執着していたことも、執着が不幸を司っていたことも、執着はもともと成り立たないことも、発見する。
10. 執着を減らす生き方をすることで幸福に生きられることも、執着を捨てることで究極の幸福に達するのだということも発見する。

 人間がやっているすべてのことは、原始脳が司る「存在欲(=生きていたい!)」と「恐怖感(=死にたくない!)」から熾っています。あらゆる感情は、この「存在欲」か「恐怖感」を基盤として、そこから派生しています。人間は、原始脳(獣の脳)に支配されています。大脳が原始脳に支配されているのです。
 不幸と苦しみを作り出す原始脳の支配を破って、客観性と理性で働ける大脳に支配権を与えることが仏道修行です。

 いつもながら大胆すぎる。
 人が働くことも、子供を生み育てることも、家族を養うことも、勉強して偉い学者になることも、政治家になることも、練習を重ねて超一流のアスリートになることも、芸術を創造することも、友達をつくることも、恋愛することも、他の人を助けることも、すべてが原始脳の働きと言うのである。そして、そこから脱出しなさいと言うのである。

 と、ここまで書いてきて気づいた。
 自分が飲酒をやめられない今一つの理由は、真の仏教徒になることへのためらいの表れなのだ。こんな途方もない、ある意味‘非人間的な’思想を本気で受け入れて、彼岸に渡ってもいいものかどうか、深い崖の前でおびえているのである。(むろん、この感情こそエゴの仕業であろう。)

王様の涙




● 出家と還俗 本:『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス』(西澤卓美著、サンガ)

 ミャンマーのマインドフルネス2014年発行。

 著者は1966年生まれ。中学生の時より出家の希望を持ちながら機会に恵まれず、社会に出て働き、30歳でミャンマーで念願の出家を遂げる。爾来、約17年間の比丘生活をミャンマーおよび日本で送り、教学(仏法学習)や瞑想修行に励み、日本においては在家への仏法講義や瞑想指導や仏典の邦訳に従事、テーラワーダ仏教の布教に努めてきた。
 2014年に還俗し、現在は大阪に西澤綜合研究所を設立。仏教カウンセリングを中心に、瞑想指導、執筆、講演活動を行なっている。
 出家名をウ・コーサッラと言う。


 本書は、著者の仏教との個人史的な関わりや仏教観、あるいは修行の体験談(「私はこうして悟った!」みたいな)を書いたものではない。テーラワーダ仏教の教えについて説いたものでもない。
 著者が出家し長い修行の年月を過ごしたミャンマーという国の仏教事情について、一人の外国人比丘として、内部から観察し体験し感じた事柄をありのまま綴ったものである。
 ミャンマーとはどんな国か?
 ミャンマー人にとって仏教及びお坊さんはどんな存在なのか?
 ミャンマーにおける比丘と在家との関係はいかに?
 ミャンマーで出家するとはどういうことか?
 軍事政権から民政に移管した現代ミャンマー社会における新たなる宗教問題とは?
 ・・・・・・等々
 ミャンマー及びミャンマー人に興味を持つ人、仏教とくにテーラワーダ仏教に興味を持つ人、瞑想修行に興味を持つ人、いずれが読んでも得るところの多い書物である。


 ずいぶん前になるが、ウ・コーサッラ長老――テーラワーダ仏教では出家して10年経つと‘長老(テーラThera)’の肩書きがつく――には日本テーラワーダ仏教協会主催の瞑想会で指導を受けたことがある。
 はじめてお目にかかったときの印象は‘ハンサムで清らかな人’というものであった。長崎生まれということだが、南蛮貿易以来の西欧人の血が混じっているのだろうか、長崎には細面で彫が深くて色の白いイケメンがいる(代表的なのが美輪明宏、福山雅治)。一方、清らかさはやはり、戒をしっかり守り心身の清浄を保つストイックな修行生活のためであろう。
 年齢は30代だろうと思っていたのだが、この本の帯に書かれたプロフィールではじめて1966年生まれと知りビックリ。自分とそう変わらないではないか。出家は人を若く保つ。
 外見の印象とは別に、瞑想会での個人インタビューや法話の後で参加者の質問に答える際のコーサッラ長老の印象は、‘親しみやすいけれども、極めて理知的でよく切れる人’というものであった。もちろん、‘切れる’は‘頭が切れる’である。奇跡や迷信や超能力を簡単に信じるような人ではないな、と思った。
 仏教は――少なくともテーラワーダ仏教は、他の宗教に比べれば極めて合理的で、脱神秘的で、実証主義に則っている。ある意味、科学的と言ってもよい。中学生のときに出家を志した著者が、キリスト教(長崎ならありがちではないか)や神道や大乗仏教、あるいは‘頭の切れる’当時の若者が惹かれたオウム真理教や統一協会などの新興宗教ではなくて、テーラワーダ仏教を選んだというのもうなづける。
 個人インタビューで、自分は次のような質問をした。
「仏教の輪廻転生というのがどうも自分には理解できない。永遠に存続するものはないという無我説と、生命は生まれ変わって六道をめぐるという考えは矛盾すると思う。生まれ変わりがあるのなら、生まれ変わる主体は何なのか?」
 それに対してコーサッラ長老は大体このようなことを言った。
「輪廻転生を信じる信じないは個人の自由です。生まれ変わりを見る能力と悟りとは関係ありません。阿羅漢(=完全に悟った人)でも生まれ変わりを見ることができない人もいるし、凡人でも見ることのできる人(ソルティ注:江原啓之のように)もいます。わからないことはとりあえず保留にしておいて、仏教をバイキング料理だと思って、自分に役立つものを選び取ればよいのではないでしょうか。」
‘輪廻転生がある’と確言しなかったことに驚いた。

 そのコーサッラ長老が還俗したと聞いて、ちょっとショックであった。
「諸行無常なのだから、世の中に絶対に変わらぬものなどない。世の中、何が起きても不思議でも何でもない。それこそ人の心なんかその最たるもの」というのが仏教の教えなのだから、誰が還俗しようが誰が改宗しようが驚くには当たらないのではある。が、なんとなく、齢七十にならんとされるアルボムッレ・スマナサーラ長老の後をついで、日本テーラワーダ仏教協会の指導者として、日本人へのテーラワーダ仏教布教を担っていかれるのでは、という勝手なイメージ(半ば期待)があったものだから、不意をつかれたのである。
 還俗を決めた理由について、本書ではあまり詳しく語られていない。

 還俗の気持ちを伝えるのは難しく誤解されるのでなるべく話すのは避けてきました。根本的なお釈迦様の教えに対する信は今も変わりませんが、自分にとって輪廻の存在自体が重要な問題ではなくなってしまいました。
 出家するときに「輪廻の苦しみから逃れるためにこの衣を受け取り、憐れみを垂れて出家させてください」と和尚に願って出家します。しかし今自分が求めているのは輪廻の苦しみから逃れることよりも、あらゆる固定観念から自由になり無我を体験して今幸せに、今自由になることだと思っています。
(本書より)


 日本の大乗仏教系のお坊さんが還俗したという話はあまり聞かない。
 現在の日本の仏教では、俗(在家)と聖(出家)との区別がほとんどない。在家の人間が出家したことでできなくなることが特にない。酒も飲めるし、エッチもできるし、金儲けもできるし、美味しいものもたらふく食べられるし、お洒落もできるし、車も運転できるし、托鉢する必要もないし、瞑想する必要もない。だから、出家する理由で一番多いのが「お寺の跡継ぎだから」なんていう個人の信仰とはまったく関係ない理由がまかり通ってしまう。そして、坊さんになっても今までどおりのやりたいことがやれるのであれば、なにも還俗する必要もない。
 一方、テーラワーダ仏教では在家と出家とははっきり分かたれている。結婚が禁じられているのだから「お寺の息子」なんて矛盾する存在はいない。俗世間を捨てて250もの戒を守って修行に励む生活は、生半可な決意では選び取れない。
 だから、その境界をあえて飛び越える人に対して、何らかのそれなりの理由を求めてしまうのだろう。
 なぜ出家したのか。
 なぜ還俗したのか。


 人が出家する理由は結構よく見聞するし、想像の範疇を超えるものではない。大体は、「俗世が嫌になったから」とか「むなしくて・・・」とか、あるいは「真理を追究したい(悟りたい)から」。最後のを別にして、世の中に長く生きていれば誰しもたまには脱世間を夢想することはあるだろう。無人島で一人きりで生活している人だっている。厭世ベクトルが欲望ベクトルより大きければ、人は出家に傾くであろう。
 一方、還俗した理由ってのはあまり語られていないように思う。上に書いたように、日本の仏教界では還俗にさして意味はないし、テーラワーダ仏教で出家し還俗した人がまだ少ないからである。
 出家の理由よりも還俗の理由のほうが、自分は興味ある。きっと人それぞれバリエーションがあって面白いのではないか。これから出家を考える人の役に立つのではないか。 
 結婚する理由はどれも陳腐だが、離婚した理由は夫婦それぞれで面白いってのと似ているかも・・・。
 
 なんてことを考えていたら、タイの僧侶(テーラワーダである)が女性と逢引していたというニュースが飛び込んできた。

 27日のカオソッド紙に掲載されたのは、うつろな表情の僧侶の写真。アパートの一室で女性と一緒にいたところを警察と軍に踏み込まれた。その時、風呂場に隠れていたという僧侶は、「自分の部屋の風呂が壊れたので女性に借りた」と釈明。しかし彼が「自分の部屋」と主張したのは、空き室だった。
 ウソの代償は大きく、僧侶の身分を剥奪されたという。
(11月29日「日テレNEWSニュース24」より)


 一僧侶の‘破戒’現場に警察と軍が踏み込むってのがすごい。
 まあ、還俗して幸せな家庭を築かれるよう祈願しようではないか。

サードゥ、サードゥ、サードゥ(善き哉、善き哉、善き哉)



● 犀の角 仏教講演会『結果を出すチーム力』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 11/7(金)中野ゼロ 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 いつものように開始間際に会場に入って席に着き、おもむろに周りを見渡し、なんとなく変な感じがした。
「なんだ?」
 しばらくしてハッと気がついた。
「男が多い!」
 会場にいる約300名のうち9割以上が男性である。
 いつもは男女半々くらいか、若干女性のほうが多い印象があるのに・・・。
 いったい、どういうことか。
 スマナ長老に急に男性ファンが増えたのか?
 女性会員に人気のイケメン僧侶が、どこか別のところで法話をおこなっているのか?
 何か女性会員に総スカン食うようなことを事務局がしでかしたのか?
 ・・・・・と、数秒のうちに様々な憶測が頭の中を駆けめぐったが、答えは単純であった。
 本日のテーマ、副題は「元気な組織、ダメな組織」。
 男は組織論が好きなのである。
 これが「仲のいいグループ、仲間割れするグループ」とでも副題を立てれば、おそらく女性参加者がもっと増えたであろう。

 話の内容は、まさに組織論で、上手くいく組織のあり方というものを仏教的観点から説明するものであった。

 今回、もっとも面白かったのは、原始仏教経典『スッタニパータ』の中の有名な「犀の角」の解釈についてであった。
 『スッタニパータ』は数多い仏典のうちもっとも古く、お釈迦様の言葉を最も忠実に伝えているものとみなされている。邦訳では岩波文庫から中村元氏の訳により『ブッダのことば』というタイトルで出ている。
 「犀の角」の教えは、その最初のほうに出てくる。
 

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。(岩波文庫『ブッダのことば』)

 という偈(げ=詩句)から始まって、

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(同上)

 という偈まで、41ある偈の末語がすべて「犀の角のようにただ独り歩め」で終わる。
 岩波文庫の中村元氏の解説を読むと、こう書いてある。 

「犀の角」の譬喩によって、「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を述べているのである。 「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。(同上) 


 これに対してスマナ長老は異を唱えた。 

「犀の角」は聖者が自らの心境を語ったものです。「汝、~せよ」と他人に命じるものではありません。

 原始仏教経典は古代インドの俗語であるパーリ語で伝えられているのだが、その厳密な文法解釈から、末尾は命令形ではないと言うのである。
 すなわち、悟った人(=聖者)が己の心のありようを披瀝した独白(モノローグ)であって、弟子たちや在家信者に「このように振る舞いなさい」と説いているものではない。
 上記の最後の偈を、スマナ長老は次のように和訳した。

人は何かの理由あって人づきあいする。自利を目指さないつきあいは珍しい。自利のみを目指す人間は不潔です。聖者は犀の角のように独り歩む。  

 中村元氏の訳とは、かなりニュアンスが違ってくる。
 中村訳だと、「人づきあいにおいて自分の利益をめざさないような人は少ない(特に今日では)」という意味になる。スマナ訳だと、「(いつの世にあっても)人は自分の利益をめざして人づきあいするものである」と解釈できる。
 中村訳は、世俗の人間関係のありようを嘆いているようにとれる(『徒然草』の吉田兼好風に)。スマナ訳は、人間存在のありよう(=無明)を根源において喝破している。
  すごい違いだ。

  よくよく考えるに、スマナ訳の否定できなさが痛感される。
 人が誰かと付き合おう(仲良くしよう、関わろう)とするのはなぜか?
1. それによって物質的利益が得られる。
 例.金持ちとつきあって贅沢ができる。
   上司に可愛がられて出世して収入増。
2. それによって精神的利益が得られる。
 例.恋人ができて心や性欲が満たされる。
    家族ができて生きがいができる。
    友達ができて寂しさや退屈が満たされる。
    有名人と知り合って友人に自慢できる。
3. それによってスピリチュアルな欲求が満たされる。
 例.他人に奉仕(ボランティア)して自己イメージがUPして気分がいい。
    世界を救うために自己犠牲を払い、自分の存在価値が生み出せる。
    見知らぬ人に親切にすることで善業を積み、極楽往生できる。

  人が誰かと関わろうとするのは、究極的には「自分のため(エゴのため)」であるというのは、心の奥の奥まで覗き込んで正直に分析するならば、ごまかしようのない事実である。
 聖者はそのことを知っているから「独り歩む」のであろう。
 聖者でない我々は、せめて「相手のためにやっています」と言いたがる表面的な動機の底に潜むエゴの声を自覚(自己覚知)しながら、「100%自分のため」よりは、「70%自分のため、30%世のため人のため」を目指して、人と関わっていきたいものである。 



● 初期仏教講演会:『継続力~目的に達するために』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ長老)

10月10日(金)中野ゼロ

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会への参加は、自分にとって、月のもっとも大切な行事となっている。
 スマナ長老の話を聞き、喝を入れてもらい、日々の瞑想修行のモチベーションを高める。同時に、世間的価値にすっぽり覆われた日常生活(世俗)から一瞬心を引き離して、自分のあり方や日常の物事を相対化して客観的に見る機会となる。それによって、またルーティンな生活に、新たな気持ちで向き合えるのである。
 そしてまた、どういうわけか、スマナ長老の話はいつも、その時々の自分の気持ちや瞑想修行の進捗状況にピッタリ来るような、心のうちに抱えている問いに対して見事に「解」をもたらすような、不思議な符号(=シンクロニシティ)がある。
 今回も、自分が今まさにぶつかっている壁の存在を察知して(他心通?)、それを乗り越える方法を具体的に示し、励ましてくれるかのようなテーマと内容で、講演終了後に「わかりました。やってみます」と心の中でつぶやいた。


 今回のテーマは、目的に達するための継続力について。(以下、概要) 
 

「世に魔法はありません」
ゆえに、成功するためには地道な努力が必要である。
しかし、努力だけでは成し遂げられない。結果がでるまで継続することが重要。
一般に(俗世間的に)、人が継続するためのモチベーションとして用いているのは、「欲や怒りや嫉妬や恨みや傲慢などの悪感情」である。
しかし、「貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)」で始めたことは、「貪・瞋・痴」で断念することになる。最終的には不幸になる。
「欲--たとえば、金儲けしたい、いい暮らしがしたい、出世したい、ひとかどの人物になりたいetc.--がなければ、そもそも商売や仕事ができないではないか」と反論したいと思うが、それは間違いである。
仏教的戦略は以下の通り。
1. まず、怒りを捨てること。悪感情から起こる「やる気」は堂々と断念すべき。
2. 欲を慈悲喜捨に変換すること。生きることは慈悲喜捨を実践するためにあるのだと決めてしまえば、何一つもあれこれ考えたり、悩んだり、心配したりする必要はない。
3. 理性と慈しみで目的を設定する。目的がない行為は決まって悪感情の衝動から生じている。慈悲喜捨で設定された目的ならば、やればやるほど明るくなる、元気になる、喜びと充実を感じる。
4. つまり、自然と目的に達するまで進むので、継続力は問題にならない。


しかし、慈悲喜捨で実践しても努力を止めたくなることがある。
それは、心に潜んでいる悪感情(=煩悩)のせいである。
悪感情が割り込んでくるたびに、慈悲喜捨でもってその感情を潰すことがポイント。
慈悲喜捨で生きれば、人生、自分のせいで失敗することはない。


 と、ここまでが世間的なレベルの話である。
 あまり知られていないが、仏教には、世間的レベルの教えと、出世間的レベルの教えの二種類がある。
 単純に言えば、前者は在家信者向けの教えで、「いかにすればこの世で人と争うことなく幸福に生きられるか。死んだら天国に生けるか。良い生まれ変わりができるか」という教えである。後者は出家者向けの教えで、「いかにすれば苦を終わらせることができるか。この世から離脱できるか。生まれ変わらなくて済むようになるか」という教えである。
 スマナ長老の話は――初期仏教の説法は、というべきか――だから、二段構えになることが多い。
 後半は、出世間的な「継続力」の話であった。
 ここからが仏教の本領であり、いまだに衝撃を感じることなしに聴くことは難しい。
 
生きることに目的はない。
存在欲(渇愛)によって、誰でも何かをしながら、死ぬまでただ闇雲に闘っているだけ。
ゆえに生きることは空しい(=一切皆苦)。
出世間的な生き方とは、生きることを断念するのではなく、そこから脱出する。
すなわち、生きることを乗り越えることを、生きる目的として設定する。
それが仏道の実践である。
「貪・瞋・痴」という本能に抵抗し、打ち勝つことが、真の精進である。

 今回、ドキッとした表現に「存在の罠」というのがあった。
 どういう意味か。


私たちは、普通に働いて、普通に家族を養って、普通に生活を送っていても、知らずに悪に染まってしまう。なぜなら、欲や怒りという煩悩こそが人の(動物の)本能だからである。世間の流れに沿った生き方は、人を安心させるが、実は危険なものである。  

 つまり、この世に存在するということ自体、あらかじめ罠にはめられているようなものだ、という意味である。
 本当に、仏教は西欧人の好きな「ブラボー、人生!!」とは程遠いところにある。
(ある意味、‘反社会(反近代)的’という烙印を押されても仕方ない気がするのだが、‘脱社会的(脱近代的)’というべきだろう。その昔‘ポストモダン’という言説が流行ったけれど、仏教こそが真の‘ポストモダン‘なのかもしれない。) 


 さて、スマナ長老の話は続く。 

仏道を実践すると、必ず本能の反撃があります。「貪・瞋・痴」の攻撃を受けます。
煩悩は、修行中に「妄想」として現象化します。
そうすると、修行を止めたくなります。
瞑想中に妄想が起きたときには、
① 座る場所を変える
② 修行の方法を変える(座る瞑想から立つ瞑想にする)
などの方法をとります。
日常生活では、
① 仏法を学ぶ
② 慈悲の瞑想を行なう
③ 社会奉仕をする
などして、煩悩に対する抵抗力をつけるのがポイント。
結果がでるまで、あきらめないでください。

 ――といった内容であった。

 今回、驚いたのは、最後の質疑応答で手を挙げた参加者の中に、16歳の男子高校生がいたことである。
 このような話をわざわざ平日(おそらく学校が終わってから)聞きに来て、大人たちで埋まっている会場の中で挙手するとは、たいしたものである。
「自分がこれから生きていくにあたって、これだけはしておいたほうがいいというものは何かありますか?」
というような質問内容だったと記憶する。
 彼のような子供は、教室で‘浮く’のだろうか。
 孤独を担わざるをえないのだろうか。
 この先社会で生きづらさを感じることになるのだろうか。
 それとも、意外にいまどきの‘マジョリティ’なのだろうか。 


 ともあれ、このような十代が存在するという発見が、「よし、おじさんも一つ頑張らねば」というやる気につながったのは事実である。
 2時間話したスマナ長老と同じだけの効果を、ほんの5分で成し遂げるとは!

 後世、畏るべし。 


Water lilies



● 「無い幸福」より「有る不幸」 B.E.2557年釈尊祝祭日ウェーサーカ法要に行く

KC3Z0001 5月12日(土)渋谷区立文化総合センター大和田さくらホールにて。

 この施設は渋谷駅から徒歩5分。天文台のドームの目立つ新しい建物である。さくらホールの収容人数は729名。6割方埋まっていたから450名ほどの参加か。

 ウェーサーカはお釈迦様の「誕生」「成道(悟達)」「般涅槃(死)」の3つのできごとを一度にお祝いする記念日で、5月の満月の日に行われる。(満月は25日)
 日本テーラーワーダ仏教協会が主催する年に一度のこのイベントが、自分にとって一年でもっとも重要な日になりつつある。出席するため、職場にしっかりと希望休を出しておいた。
 と言って、ブッダの誕生日や悟った日や亡くなった日を記念する意図は自分にはない。
 誕生日も含めて何かの記念日というのは基本的にナンセンスだと思っている。季節はめぐり暦は一年で一周するので、我々は時間が循環するものとどこかで思っている。だから、誕生日とか「○○の日」などというものをお祝いするのである。
 だが、時間は循環などしない。一方向に流れていくだけだ。同じ日など一日たりともない。昨年の5月12日と今年の5月12日には何の関係もない。月や星の位置関係ですらまったく同じと言うことはありえない。昨年庭に咲いたポピーと今年のポピーはまったく別物である。年齢という概念ですら本当は意味のないものだ。人の成長の度合いは個々人によって違うのだから。

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 自分がウェーサーカを大切にするのは、修行のための動機付けになるからである。たまに人為的にでもこういった区切りを設定して、スマナサーラ長老の話を聞き、渇を入れてもらわないことには、怠け心を払拭できないからである。

 最近、仕事のハードさを言い訳として、酒は飲むわ、瞑想はさぼるわ、と自分を甘やかしている。瞑想してもサティ(念)が続かず、知らぬ間に妄想に入り込んでいることが多い。
 現在進行中の片思いのせいもある。実際、恋愛ほど妄想の膨らむものはない。妄想から成り立っていると言っても過言ではない。相手が自分に示したささいな言動をもとに、それを客観的な事実として冷静に捉えるかわりに、自分にとって都合のよい物語をまたたく間に作り上げてしまう。満たされない思いは「苦」であるが、それすらも「喜」と感じてしまうほど、頭はバカになる。
 その意味で、恋愛ほど妄想の性質、自我の罠を観察(ヴィパッサナー)できる絶好の機会はない。それをネタに瞑想しようとチャレンジするのだが、やっぱりいつでも負けてしまう。相手の魅力がそれほど強いのだ。(ってバカじゃん)

 そんなたるみがちな自分を見通すかのように、今日のスマナ長老の話は、「釈尊の教えの基本」という、瞑想を習った頃の初心に自分を帰らせ、「お前少し頭冷やせよ」とのぼせや浮つきを取り除くような、心に今一度仏教という確固たる杭を打たれたかのような、力強く破壊的で叡智に満ちたものであった。
 そうだ。これが「本当の」仏教だった・・・・。


●講演の骨子
釈尊の教えの基本 ~信仰のかわりに確信~
1.生きることは苦である。
2.私たちは自分自身が作った鎖(煩悩)で束縛されて、自由はない。
3.私たちは幸福を目指して不幸の方へと進む。
4.他に頼って、助けられること、救われることを望んでいる。
5.自分が作った束縛を絶つことで自由を得る。智慧が生じる。
6.智慧こそが唯一の財産である。
7.智慧によって執着をなくすことにより、究極の幸福に達する。
8.究極の幸福は、「あの世」でなく「今」この世で体験するもの。 


130512_1557~01 一番最初の「生きることは苦」という仏教の根本命題を、我々はなかなか理解できない。理解したがらない。「だって楽しいこと、嬉しいこともあるじゃん」と思う。「生=苦」と認めてしまうと、よけい生きるのがつらくなるだけだと思う。希望がないと思う。鬱にでもなりかねないと思う。
 だから、なかなかその先に行けない。
 生まれつきハンディキャップをもっているとか、事故にあってカタワになったとか、愛する家族を誰かに皆殺しにされたとか、そんな心理療法や趣味娯楽では変えることのできない、時間が癒やすことのできない重荷を背負った人なら、「生きることは苦」はかえって受け入れやすいかもしれない。仏道へ入りやすいかもしれない。
 だが、若くて健康でエネルギーが有り余っていて、家族や友人にも恵まれ、将来が輝いて見える時に、「生きることは苦」は歯牙にもかからない空言だ。
 自分も若い頃はそうであった。20代の時、ブッダがどういうことを言っているか知ろうと思い、岩波文庫の『ブッダのことば』を手に取ったが、とても最後まで読めなかった。究極の悲観主義だと思った。「昔のインド人は本当に苦しみばかりの人生だったのだなあ」と思った。
 今はどうか。青春もとうに過ぎて、体のあちこちにガタが来て次第に老いが見えてきた現在、そして数々の希望がくじかれ、夢が破れ、活力も損なわれつつある現在、「生きることは苦」はずいぶんと受け入れやすい。
 老人ホームで働くようになって、一層その言葉は身に沁みる。これまでどんな境遇にあろうが、金持ちだろうが、地位が高かろうが、かつては美しかろうが、子供や孫に恵まれていようが、その生涯が様々な素晴らしい思い出に彩られていようが、今現在、日々心身を責めさいなむ「老い」と「病」と、遠からずやってくる「死」とに、誰もが囚われている。どんなに楽しい思い出も、誉れ高い業績も、認知症になれば意味はない。

 「生きることが苦」という事実は、もっと簡単に確認できる。
 我々は、「楽」をなくすには何もしなくてもよい。ベッドで寝ているのは楽だ。だが、そのまま寝続ければ、体は痛んでくる、心は退屈してくる。何もしなくても楽は消えていく。
 一方、「苦」をなくすには何かしなければならない。寝ているのが苦痛になったら、起きあがらなくてはならない。腹が痛くて苦しいのなら、薬を飲まなければならない。
 つまり、人間の基本設計は、常に「苦」を感じるようにできているということだ。「苦」にせっつかれて我々は「何か」をし続ける。それが生きるということなのである。
 であるから、スマナ長老が言うように、幸福の定義は「楽がたくさんあること」ではない。楽は必ず苦に転じるからだ。「何かを得ること」でもない。得た物は必ず失われるからだ。
 

幸福を正しく定義するなら、「苦しみがない状態」ということになります。 

 
 世間には、「有る幸福」と「有る不幸」、「無い幸福」と「無い不幸」の4つがある。
 人が一番求めるのは「有る幸福」である。何もかも手に入れた成功者を羨むのはそのためだ。一方、人が一番忌み嫌うのは「無い不幸」である。ホームレスが社会で一番貶められるのはそのためだ。
 「有る不幸」は、「不幸」という点では「無い不幸」とまったく変わりはないのであるが、どういうわけか人は「無い不幸」より「有る不幸」を選ぶ。「有る」=所有する、ということはそれだけ魅力的なのであろう。少なくとも他人と比較して優越感に浸ることができる。我々は「有ること=幸福」という観念――それは多分長い原始時代に培われたのだろう――に強く洗脳されている。だから、反射的に「無い=不幸」と思ってしまうのである。
 人が最も理解できないもの、到達しがたいものが「無い幸福」である。
 多くの人は、そんなもの負け犬の遠吠えくらいにしか思っていない。
 それがどんな状態か想像することすらできないので、「無い幸福」を選ぶくらいなら、むしろ「有る不幸」を進んで選ぶのが世間一般である。アル中でDVの夫と別れられない妻なんてその典型だ。
 「無い不幸」と「無い幸福」は、実は表裏一体である。外側から見た状況は、ほとんど一緒であろう。ホームレスは和訳すれば「出家」である。清貧をこよなく愛した聖フランチェスコと、隅田川周辺のブルーテントの住人は同じくらい「何も持っていない」。(実際にはブルーテント派の方がいろいろ所有している。)

 仏教は「無い幸福」を目指す道なのだと思う。

 しかるに、この恋は捨てがたい。
 どういった因縁が陰で働いているものやら。
 お釈迦様、どうか因縁を見極めるための執行猶予をください。(笑)



● 講演:「人生はつらいことだらけだけど」(演者:アルボムッレ・スマナサーラ)

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 東京代々木・国立オリンピック記念青少年総合センターにて。

 講師のアルボムッレ・スマナサーラは、スリランカ出身の上座仏教(テーラワーダ)長老である。
 『怒らないこと』(サンガ)、『心がスーッとなるブッダの言葉』(成美文庫)などのベストセラーを含む膨大な数の著書がある。押しも押されもせぬ日本の上座仏教界のリーダー的存在、というか今や日本人の精神的指導者の一人と言ってよいだろう。
 300名定員の会場はほぼ満席であった。

 今なぜスマナサーラ長老がこれだけ人気を集めるのか。今なぜ上座仏教なのか。

 会場に集まった一人一人に、それぞれの理由と求めるものがあるのだろう。
 だが、共通しているのは、既成の仏教教団(いわゆる大乗仏教系)では飽き足らないものを感じていること。かといって、キリスト教やイスラム教は文化基盤があまりに違いすぎる。近代以降の新興宗教は、統一協会やオウム真理教の事件以降、どうしても「うさんくさい」感じをぬぐいきれない。でも一方で、心の拠り所はほしい・・・。
 そこへ颯爽と現れたのが、スマナサーラ長老であった。

 もっとも、上座仏教自体は、明治時代に主要な経典が翻訳され研究されるようになっていたし、母国で上座仏教を信仰する在日のタイやミャンマーの人々を中心として、各地にお寺やサンガが存在してはいた。
 しかし、広く一般の日本人に紹介され、浸透するきっかけとなったのは、やはり、すぐれた語学力と他文化理解のセンスを持ち、スピーチ能力に長け、カリスマ性を宿すスマナサーラ長老の来日(1980年)、そしてその教えを広めるべく、1994年に日本テーラワーダ仏教協会が設立されたことが大きいだろう。

 「1994年」という年は、もしかしたら、第2の仏教伝来の年として、将来の歴史教科書に掲載されるかもしれない。そのくらい、大乗仏教と上座仏教は、別物なのである。

 近代化の進む中、廃仏毀釈して国家神道への道を歩み出した日本人は、敗戦で「神」を喪った。その後、「金」という神様に乗り換え、経済復興を果たしたけれども、バブル崩壊でその信仰も潰えてしまった。そこへ起きたのがオウム真理教事件であった。これで、決定的に宗教は「禍々しいもの」「うさんくさいもの」に堕ちてしまった。
 もはや特定の宗教を信仰していること自体が、他の人には大っぴらには言えないような「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ信者」にされてしまったのである。何を信仰するか、あるいは信仰を持つ持たないの是非は別として、これは国際的には異常なことといっていいだろう。
 そうして、隠れ信者以外の多くの日本人は、確かな宗教的基盤を持たない存在の相対性の不安の中に置かれることになった。鬱や統合失調やパニック障害など、2000年以降の日本人の精神疾患の増加はこれを抜きにしては考えられないと思う。
 そこへ不意打ちしたのが、今回の震災・津波・原発事故である。

 上座仏教は、希望や目標を失い暗い森をさ迷う日本人に、新たな希望の光を、足場とする確かな梯子を与えてくれるのだろうか?

 スマナサーラ長老は言下に否定する。
「夢や希望を持つこと自体が大きな間違い」
「夢や希望という幻想と、現実とのギャップが、不満・落ち込み・怒り・妬み・憎しみ・失望・嘆きの原因」
仏教は信仰ではない。論理的で実践的な心の科学。仏教は理解し、実践するもの」
「生きることに意味はない。存在というのはもとから無価値」

 1500年の歳月を経て、我々日本人がはじめて知った仏教の真髄、お釈迦様の言葉は、想像を遙かに超えたとてつもない言説のオンパレードであった。
 それは、コペルニクスも真っ青の、存在意義の大転換を我々に迫る。
 これだけの哲学(哲学と言っていいのかどうかはわからないが)は、空前絶後だ。19世紀の西洋人が仏教を理解できず、「虚無の信仰」と怖れたのもまったく頷ける。

 果たして、どれだけの日本人が仏の教えを理解し、実践し、納得し得るだろうか?
 正直、まだ自分はその衝撃を受けとめ切れていない。
    

テーラワーダ仏教協会のホームページは
http://www.j-theravada.net/


2012秋の関西旅行 002
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