(財)日本仏教讃仰会主催の仏教セミナーに参加した。

 講師の田宮仁(まさし)氏は、淑徳大学の先生であり、仏教を背景としたターミナル施設の呼称としてそれまで使われていた「仏教ホスピス」という表現に替わって「ビハーラ」という言葉を提唱した人で、1992年には実際に新潟県長岡市に臨床の場としてのビハーラを日本で初めて開設した。いわば我が国のビハーラの生みの親である。

 講演は、まず日本でターミナルケアが重要視されるようになった背景についてから始まった。
・ 生まれる場所、死ぬ場所が、家の畳の上から病院のベッドの上になった。(後者が8割を占める)
・ 死亡原因の1位が、結核→脳血管障害→癌、と変わってきた。特に、働き盛りの世代の癌死が多い。
・ 癌における痛みの問題が浮上してきた。
・ 癌死の増加と共に「ターミナルケア」「ホスピス」という言葉がマスコミに登場するようになった。

 これまで1分1秒でも延命させる(生体反応を持続させる)ことを使命としてきた医療のあり方が問われるようになり、最期をどう看取るのが当人のために良いのかが議論されるようになってきた。同時に、「生きている間はお医者さん、死んだらお坊さん」という医療と宗教の棲み分けが当たり前の現状に疑義が呈されるようになった。

 もともと医療と宗教は分かれていなかった。
 歴史を振り返ると、僧院の役割の一つに、患者とくに末期の患者の看病をし極楽往生できるように取りはからうことがあった。平安時代の源信僧都の著した『往生要集』には、いかにして死ぬか、いかに看取るかを細かく取り決めた臨終行儀というものがあるそうだ。
 また、僧になるための修行の中に医学が組み込まれており、武士が戦地に赴く時は常に陣僧(従軍僧)が同行し、戦いで怪我をした者を治療し死者を看取り弔ったとのことである。
 医療と宗教は、時代を下るにしたがって分業化し専門家していったのである。

 一方、海外では、欧米のキリスト教系のホスピスの例を挙げるまでもなく、人の死に逝く場所には宗教者の存在が欠かせない。この世の罪を懺悔し天国に行くことを望むには死んでからでは遅いのである。
 自分が数年前にエイズの調査でイギリスの公立病院を見学した時、エイズ患者をケアするスタッフチームの中に、医師や看護師や栄養士や薬剤師やカウンセラーと並んでチャプレン(牧師)が入っているのを知ってびっくりしたことがある。
 同じアジアに目を向けると、韓国や台湾の国立病院の中には仏間があり、入院患者が好きな時に読経したり祈ったりすることができるそうだ。

 なぜ、日本だけがこんなにも医療と宗教とが分離してしまったのだろうか。
 なぜ、病院に僧侶がいると「縁起でもない」と忌避され、僧侶の仕事は死んだあとからになってしまったのか。
 田宮氏はこう言う。 

太平洋戦争で多数の死を経験したことにより、日本人の中に「死」に対する忌避感が形成されていったのではないか。
 
 これは戦後生まれの自分には思ってもみなかった見解であった。
 確かに、物心つく頃から周囲の大人達はじめ日本の社会全体が「死」を忌避し、語りたがらず、日常的に見えないものにしていく傾向は感じていた。だが、それは「明るく、前向きで、合理的で、欲望に肯定的であること」をモットーとするアメリカ文化(及び資本主義)の影響のためかと思っていた。
 昭和30年代の高度経済成長と足並みを揃えるように、畳の上から病院のベッドでの死へ、家の仏間やお寺から専用の斎場での告別式に、近所の墓地での土葬から郊外の火葬場へ。「死」は日常から隠され、日本人が持っていた「死の文化」が消失していった。
 自分はそういう傾向にどちらかと言えば奇異なものを感じていた。誰の人生にも100%やってくることが確実な「死」について、なぜそんなに向き合うことを避けるのかが若い頃からの不可解であった。大学生の頃、最初に行った海外旅行がインドであるのも、ベナレスの河岸でいわゆる‘不可触民’の男が死体を焼くのを飽かず眺めていたのも、人が生きる上で最も大切な2つのものをタブー視する日本社会の軽薄さに解せぬものを抱いていたからである。
 2つのタブーとは、一つはもちろん「死」、もう一つは「性」である。(このタブーに対する反骨が後年エイズのボランティアにつながった。)


 田宮氏は、戦後日本人がこのように「死」をタブー視し向き合おうとしない風潮に渇を入れたのは、ほかならぬ昭和天皇であったと言う。
 これも卓見である。
 1989年の正月、すべての日本人は、政府の都合で植物人間として生かされつづける昭和天皇を哀れに思い、ターミナルケアのあり方について問いを突きつけられたのであった。

 「死」に対する忌避観の形成は、宗教心の欠落を意味している。
 古来から日本人の宗教基盤は、神道(神社)と仏教(お寺)の二大柱であったことは今さら言うまでもないが、戦後このどちらも日本人の心を御することができなくなった。
 神道はそれこそ戦前・戦中の天皇を神とする国家神道が、敗戦と同時に崩壊したことで大きなダメージを食らってしまった。仏教は、金儲けや権威主義に走る仏教者の堕落で信を失ってしまった。
 その上に、現代日本人は、オウム真理教やら統一教会やらの影響で、宗教そのものに対するイメージが良ろしくない。
 また、西欧の近代合理主義や近代科学を小さな頃から学んでいるので、「神」や「天国」や「輪廻転生」など存在を証明できないものに対しては、はなから近寄らない。
 かくして、宗教心のない日本人があまた誕生している。

 これは、しかし、たいへんな悲劇である。
 宗教心とは、人の生き方の問題であり、死に方の問題であるからだ。
 それが「無い」人は、生きるための指針を持たず、その場その場の欲望に突き動かされて生きることになるし、老いや病や死に際してどう臨んだらよいかが全く分からないということになる。何かを「獲得すること」をのみ目的に生きてきた人ほど、つらい晩年が待っていることになる。老いも病も死も「喪失すること」にほかならないからである。
 超高齢化社会を迎える我が国の、最大の問題がここに立ちはだかっている。

 ビハーラは、その一つの解決策になるであろうか。


 「ビハーラ(VIHARA)」という言葉はサンスクリット語で「休養の場所、気晴らしすること、僧院または寺院」を意味する。

 田宮氏は「ビハーラ」の理念として次の3つを掲げる。
 

1. 限りある生命の、その限りの短さを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる場である。
2. 利用者本人の願いを軸に、看取りと医療が行われる場である。そのために、十分な医療行為が可能な医療機関に直結している必要がある。
3. 願われた生命の尊さに気づかされた人々が集う、仏教を基礎とした小さな共同体である。(ただし、利用者本人やその家族がいかなる信仰をもたれていても自由である)

 要は、個人が仏教を基盤として「老・病・死」と向き合う場であり、そういう人たちが集う場であり、そういう人たちをサポートする場である。
 

 また、一つの基本姿勢を掲げている。

「超宗派の活動である。一宗一派の教義に偏ったものでない。」

 この理念と基本姿勢に基づいて、1992年の5月から新潟県の長岡西病院ビハーラ病棟(22床)が開設し、これまでに約2000名の人をそこで見送っている。敷地内には身寄りのない死者のために「無縁墓」ならぬ「有縁墓」がある。

 素晴らしい活動だと思う。
 仏教的空間、すなわち「慈悲」の雰囲気の中で、昔のように、心安らかに最期を迎えられる人が増えれば良いなあと思う。

 ただ、利用者の宗教心と必要性あってのホスピスでありビハーラであるのは言うまでもない。ビハーラを先に作って、「さあ、ここにいらっしゃい」というのは本末転倒であろう。
 その意味では、先に書いたように、日本人の宗教心が今後の動向を決めるのである。

 もっともありそうな可能性として、たとえば、創価学会専用の老人ホームやホスピス、幸福の科学専用の老人ホームやホスピスといったような、同一の固い信仰によって結ばれた信者たちケアする特定の宗教団体や宗派の運営する施設の登場が予想される。同じ信仰を持つ、同じ死生観を持つ仲間と最期の時を深い共感と理解のうちに過ごせるのは、それだけでも幸福であろう。ケアするスタッフ(医師や看護師や介護職など)も同じ信者であれば、患者や利用者の価値観や要望を理解できる良いケアが生まれるはずである。

 すべての人間に襲い来る「老」「病」「死」。
 そこに最初に光を当て、その苦しみからの解放の道を発見したのがブッダであった。ブッダは、『大般涅槃経』の中でターミナルをどう迎えるべきかを自分自身で模範を示している。ブッダが最期に弟子達に言い残した言葉がある。

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい。」


 ビハーラには輝かしい未来がある。