ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

春日武彦

● 本:『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』(春日武彦著、朝日新聞出版)

老いへの不安 2011年発行。

 信じ難いことに、自分は初老期に位置しているわけである。五十代も終わりに近づいている。老人となるのを目前に控えているーーだがそれにしては貫禄もないし、深みもない。落ち着きもなければ他人に年輪を感じさせることもできない。言葉にも態度にも説得力を欠き、欲望は未だに生々しく、枯淡の境地には程遠い。

 どうやって「きちんと」歳を取ったらいいのか分からないのである。しかも自分の周囲を見回し、世代の近い人間を眺めてみても、彼らも上手く老人になれそうに思えない。

 と、慨嘆する著者による「老い」をめぐるモノローグ。
 書店に並んでいる良くある「老い方指南」みたいな鬱陶しいもの(曾野綾子に代表される)ではないのが好感持てる。「功成り名を遂げた六十手前の有能な精神科医にしてこのザマか。春日がこれほど惑うなら一般人が途方に暮れるのも無理はないではないか」という妙な安堵感を与えてくれる。


 著者が「うまく」歳を取る鍵を探るために利用した手持ちの駒は、幼少の頃からこれまでに出会ってきた「カッコいい、粋な」老人たちの思い出であり、いろいろな小説に描かれている年寄りの姿である。様々な老人たち、老いのカタチを掲げて、ああでもないこうでもないとあれこれ寸評しながら、著者自身の求める「老い」のカタチ、そして「老いとは何か」の輪郭を描いていく。 
 輪郭であって中味でないのは仕方ない。実際に自らが老いと対峙するその日まで、結局「老いとは何か」分からないのだろう。他人の語る「老い」は、それがいくら当事者の口から発しられたものであろうと、結局他人のものでしかない。その意味では、「幸せ」と同様かもしれない。

 初めてこの著者の本(『病んだ家族、散乱した室内』医学書院)を読んだとき、何より印象に残ったのは著者の「偏屈」であった。
 で、2冊目を読んで「やはり自分の印象は正しかった」と思った。
 春日自身が十分自覚している。

おそらく、わたしは老いていくに従って、偏屈で意地悪で寂しい老人となっていくであろう。ひと筆描きの描写で事足りそうな「いやなじじい」で片付けられてしまうだろう。
 
 当方だって人間関係が面倒なあまりに子供を儲けなかったし、友人だって驚くほど少ない。携帯電話は持ち歩かない(番号メモリーも、妻の携帯と当方の勤務先の二つしか登録していない)。仕事と散歩以外は引きこもった生活だし、小鳥よりは鉱物の結晶のほうがもっと心が慰められる。もっとも猫だけは例外だが。

 なんだか自分(ソルティ)と重なる部分が多くて苦笑してしまう。

 一方、この本を読んでいて妙に引っかかった部分がある。
 いろいろな小説の中に出てくる「老人」を原文を引用しながら紹介するにあたって、春日はまず作者を紹介する。多読家である春日が取り上げる作家たちは世間的には知られていない人が多い。吉行淳之介や井上靖や橋本治はともかく、塩野米松とか中原文夫とか高井有一とか聞いたことのない(当然読んだことのない)作家の名前が次々と出てくる。
 春日は読者の便宜をはかって、それらの作家について簡単に紹介してくれる。
 その際に、どういうわけか「芥川賞受賞歴がある」とか「芸術院会員である」とか、なんか世間的に座りのいいプロフィールを必ず付すのである。

 高井は昭和七年、東京都出身。いわゆる「内向の世代」の作家として括られ、このグループには・・・・(略)・・・・などが含まれる。芥川賞のみならず谷崎潤一郎賞や野間文芸賞など受賞歴は華やかで、現在は日本近代文学館理事長。

 一回や二回なら普通に流せるが、毎回この調子なんである。なんだか春日自身が世間的価値に追従している俗物みたいに思えて、いささか鼻白む。「芥川賞」も「芸術院会員」も、タレントの「二科展入選」というプロフィール同様、「どうでもよいこと」というのが「偏屈者」たる者のスタンスではないかと思うのである。(自分が「理想的な偏屈者」の勝手なイメージを抱いているせいもある。他人に勝手に抱かれるイメージを裏切るからこその「偏屈」なのだから。)
 これは「世の中にはこういう素晴らしい埋もれた作家がいるのだよ」と無知な読者に啓蒙したい一心から来る文学愛好家の世間的価値への不請不請の「歩み寄り」であろうか。
 それとも、春日自身が「芥川賞」に対するオブセッションを抱いているのだろうか。
 としたら、まだまだ十分若い。

老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは動じない」人間になっていくこととは違うのだろうか。難儀なこと、つまり鬱陶しかったり面倒だったり厄介だったり気を滅入らせたり鼻白む気分にさせたりするようなことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。
 難儀なことを解決するのか、避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、それは人によって違うだろうが、とにかく次第にうろたえなくなり頼もしくなっていくことこそが、老いの喜ばしい側面ではないかとわたしは思っていたのだ。だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。嬉しいことや楽しいことに我々の感覚はすぐに麻痺してしまうのに、不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則である。不快なことや苦しい事象は、砒素や重金属のように体内へ蓄積して害を及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。
 だから老人は鬱屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら難儀なものを背負い込んでいく。世間はどんどんグロテスクになっていき、鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある。



● 本:『病んだ家族、散乱した室内』(春日武彦著、医学書院)

病んだ家族 散乱した室内 003 2001年発行。

 医学書院の「ケアをひらく」シリーズの一冊である。
 いままで迂闊にも知らなかった不明を恥じるほかないが、このシリーズは素晴らしい。これまでに読んだのは『介護民俗学』『逝かない身体~ALS的日常を生きる』『不動の身体と息する機械』そして精神科医である春日武彦の著したこの本の四冊だけであるが、どれも期待以上の面白さかつ有益さで新しい発見があった。巻末の紹介に見る限りでは他のラインナップも常識的なケア論とは一風変わった視点を感じさせるものばかりで興味深い。
 医学書院の白石正明という編集者が担当しているらしいが、どうやらこの人がキーパーソンのようだ。医療関係者向けの価格の高い、こむずしい専門書を出していれば社として安泰だし、高い給料も約束されるであろうに、ケアの新しい地平を果敢に拓こうとする姿勢は見上げた編集者魂である。

 この本もとても面白く、老人介護というケアに関わる者として役に立つ知識もたくさん盛り込まれていて、刺激的であった。

 一番の特色は、日々現場で精神病患者と向かい合う著者が、建前でなく本音を、きれいごとでなく現実を、汎用マニュアルや机上の空論ではなく現場で生きる具体的な技術を、誠実に臆するところなく語っているところである。(この姿勢こそが「ケアをひらく」シリーズに一貫するものであろう。)
 それが可能なのは、著者がまさしく「ゴミ屋敷」に象徴されるような、精神病患者とその家族の棲む修羅の現場にどっぷり身をおいて、性根を据えて、覚悟を決めて、自分なりに理論武装をして、日々闘っているからであろう。事なかれ主義、「様子を見ましょう」式の行政マンでも、マニュアルや理論を振りかざす学者や評論家でも、背後に分裂病患者に立たれた怖さを知らぬ人権派でもない。(と言って著者が患者の人権を軽視しているという意味ではない。)
 このように自分の仕事に一身を投じているあり方に凄みすら感じる。多くの人は善意と技術はそれなりにあっても性根と覚悟と持久力とに不足している。それと、周囲の目を気にせずに信念を貫く独立不羈の精神に・・・。


 その意味で、内容そのものの面白さ有益さとは別に興味を掻き立てられたのは、春日武彦という人物のひととなりである。本人に会ったことも話したこともないが、文章から察する限りにおいて、かなり「偏屈」な人という気がする。
 むろん、悪口ではない。
 行間から立ち上がってくる印象は、『ムーミン』に出てきた「無駄じゃ、無駄じゃ」が口癖のジャコウネズミ、あるいは古代ギリシャで樽の中で暮らし公衆の前でマスターベーションをしたディオゲネス。いずれも偏屈な哲学者である。(断じて悪口ではない)

 で、思うのは、春日の「偏屈ぶり」と春日が相対する精神病患者の「奇矯ぶり」とが凹凸のようにうまく合致しているのではないか、ということである。
 「ゴミ屋敷」に暮らすような人物、自分の母親を何年間も自宅軟禁するような人物には、平均的な人間の精神は太刀打ちできない。だから、多くの人は「関わらない」ようにするのである。保健師や福祉担当者だってその点では同じである。常識的な人間(「小市民」と言ってもよいが)は「非常識」には弱いのである。
 こういった突飛な、常軌を逸した人間たちと伍していくには、それなりの「常識的世間」からの逸脱が必要なのではないだろうか。
 「偏屈」とはそういう意味である。
 そして、春日が精神病患者と接するうちにそのような性格や才覚を身につけたというよりも、もともとのパーソナリティのうちにそれは存在するのではないだろうか。
 つまり、「天職」「適職」ということである。

 春日と患者たちは「常識的世間」という線分を挟んだ等距離の位置で向き合っている。両者の違いはおそらく、患者たちが自分と中心線との距離を自覚していないのにくらべ、春日がしっかりと認識しているというところにあるのではないだろうか。

 そんな憶測をする楽しみを供してくれた名編集者白石氏に感謝。



 以下、引用。

●仕事の動機について


 人間というものはなかなか自分の言動を客観的に眺められない、そんな宿命を負っているのである。ましてやその言動に個人的な必然性が加われば、なおさらである。だからこそ、仕事に一途になり、脇目もふらず懸命に取り組むことが必ずしも「善」とはなり得ないことを肝に命じておくべきだろう。
 換言すれば、我々の仕事には心の余裕が必要であり、あまりに悲壮な気持ちに囚われたり、使命感に燃えすぎてしまうと、かえって押しつけがましいことしかできなくなってしまう。

 好奇心には、ある程度の距離をおいて対象を眺める姿勢が含まれている。なるほど好奇心といった言葉には、相手を笑いものにしたり弱点を暴きだしたがる心性や、デリカシーの欠如といったニュアンスがともなうかもしれないけれど、必ずしもそうしたネガティブな要素ばかりではあるまい。あえてネガティブな面を自覚する限りにおいて、好奇心を持ち続けて仕事に臨むことは不謹慎でないばかりか、我々の目を見開かせてくれ、心に瑞々しさを与えてくれ、苦しい仕事を支えてくれる大きな柱となり得るように思われるのである。


●多少の不幸より「今のまま」

 わたし個人の臨床経験からすると、人間は基本的に驚くほど現状維持と排他的傾向へのこだわりが強く、状況の変化を望むよりは、けっきょくは「今のまま」を選びたがり、多少の不幸には平気で甘んじてしまうものである。 

●専門家は「選択肢」を用意する 
 そして我々が専門家という立場でいられることの証明とは、十分に訓練されたがゆえの知識と経験とを裏打ちとして、直面する事態に対して様々な選択肢を想定し、そのなかでベストのものを選び取るだけの能力と覚悟をもつことにほかならない。気まぐれな親切心だとかチープな感傷、腹の据わらぬ使命感、見せかけだけの論理的整合性、盲目的なマニュアル信奉に支配された人びとが、けっして真の専門家とはなれない理由もそこにある。

●迎合か、押しつけか
 
 わたしの考えとしては、どれほど孤高の生活を営んでいたとしても、やはり人間とは社会的な生き物であり、他者との関係性を抜きにして理解することなどできない。そういった発想の延長として、もし周囲に幅広い視野と豊富な経験と誠意とを持ち合わせた者がいてその人物が患者の判断に異を唱え、それどころか本気で患者の身を案じ心配していたとしたら、患者が自分の判断を押し通すことはけっきょく相手に深い悲しみと「寝覚めの悪い思い」をさせることにつながる。それは人間としての「エチケットに反すること」だろう。
 人間同士のつながりにおいて、相手に目覚めの悪い思いをさせ、無力感と無念さの入り混じった気分に陥らせる権利など誰にもないのではないか。そして援助者とは必ずしも患者の言いなりに振る舞う人物のことではなく、必要ならば患者の意に沿わないこともあえておこなわなければならない者を指すのではないだろうか。
 

 
最後の引用にはちょっと異がある。というか補足をしたい。
 例えば、戦時下にあって「兵役拒否」を押し通そうとする個人がいたとする。周囲の「幅広い視野と豊富な経験と誠意とを持ち合わせた」人々は、それが本人の為にならない(なぜなら投獄や拷問を受ける可能性が大だから)と思って入隊を勧める。だが、本人は強く拒否し行方をくらます。周囲は深い悲しみと「寝覚めの悪い思い」に包まれる。
 果たして彼等は良い「援助者」だろうか。
 
 自分の持っている「幅広い視野と豊富な経験と誠意」が、どこまで特定の社会や時代や世間の価値観によって洗脳された「偏った」ものであるかどうか。それを自らに問いかけ続けることも良い援助者の条件であろう。 




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