ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

時宗

● ひとりはおなじ 時宗当麻山 無量光寺

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日時 2017年10月1日(日)
場所 神奈川県相模原市南区当麻578番地
本尊 一遍上人立像
開基 1304年、二祖真教上人による

 時宗総本山遊行寺(清浄光寺)を藤沢に訪ねたのは梅雨入り後の真夏日であった。あれから4カ月近く経ち彼岸も過ぎたのに、まだ暑さが残っている。日差しの下を半時間も歩いていると、半袖でもうっすら汗をかく。中学生の頃は確かに10月1日の衣替えで詰め襟を着て、違和感なかったのに。

 無量光寺は、家を持たず旅から旅への遊行生活を送っていた一遍上人が、もっとも長く滞在し修行した場所であるという。一遍上人亡きあと一番弟子であった真教上人がここに一宇を建立し、宗祖の遺骨を埋葬し、無量光寺と名付けたのがはじまりである。名前の由来は阿弥陀如来の別名である無量光佛から来ている。(以上、無量光寺ホームページ参照)

 そういう意味では、1325年開基の清浄光寺よりも一遍上人にずっと深い縁をもっているわけで、なぜこちらが総本山にならなかったのかが気になるところである。
 ウィキ「無量光寺」を読んでみると、そのあたりのドロドロした事情が書かれていて面白い。道理でホームページに一言も清浄光寺のことが触れられてなく、リンクも貼られていないわけだ。
 天界で修行中の一遍上人、さぞや踊り嘆いていることだろう。


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 最寄り駅はJR相模線・原当麻(はらたいま)駅。昔『クイズダービー』に出ていた正答率の高い漫画家のような名前である。
 閑静な住宅街を15分も歩くと、当麻山公園という森に入る。山というだけあって高台からは大山をはじめとする丹沢の山々がよく見える。
 夏日とは言え、やっぱり軒先には秋が忍び寄ってきている。


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 一遍上人が手ずから植えたというなぎの大木を見上げながら山門の石の階段を上る。山門の脇に三猿を踏みつけている仏の石碑がある。この寺で起こったことは「見ざる・聞かざる・言わざるに」という脅しにも似た教訓だろうか。

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なぎの木

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 山門からまっすぐ伸びる参道の突き当りに、一遍上人の銅像がある。片足を前に出している姿は遊行寺と同じ。「さあ遊行せん」とする上人の熱い思いの表現であろう。


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弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発たれることになりました。
このとき名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像を完成されました。これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置され、多くの人々を信仰の道に導かれているのです。(無量光寺ホームページより)

 本尊を象ったものであるなら、一遍上人はこんな顔をしていた。

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 参道脇によく目立つ大きな直方体の石がある。
 「なんだろう?」と近づいて説明書きを読んだところ、北里大学医学部の学生の医学教育(つまり解剖)のために検体した人たちの納骨堂であった。毎年、慰霊祭を行っているらしい。終活にはこういう始末のつけ方もある。

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 境内のトイレにあった張り紙。
 平成27年末の相模原か。
 まさか、ね・・・・・・。

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 境内はさすがに静かで緑も多く、憩いと癒しの場所であった。


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本堂は明治26年に全焼し、いまあるのは仮だそうだ


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仮本堂の裏手にある池
この水面に一遍上人は顔を映して自画像を描いたそうな


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もちろんお墓もあり


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をのづから あひあふときも わかれても
ひとりはをなじ ひとりなりけり
(たまたま人と会っているときも、一人でいるときも、一人の人間は一人なのだ。
一人で生き、生活し、死ぬのが本来の姿なのだ。)



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生きとし生けるものが幸せでありますように



 

● 一遍は行きたい : 時宗総本山・遊行寺

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 一遍上人への興味がソルティの足を神奈川県藤沢市まで運ばせた。江ノ島は目と鼻の先である。
 もっとも、遊行寺(清浄光寺)の開山は、踊り念仏と賦算による遊行(全国行脚)をはじめた一遍上人ではなく、全国の弟子たちをまとめて時宗の基盤を作った二祖・真教上人でもなく、四代目の呑海(どんかい)上人である。この人が藤沢の地頭であった俣野氏の出なのである。
 創建は1325年、鎌倉時代末期である。

 小田急江ノ島線で藤沢駅に降りる。
 はじめて降りるが、とても賑やかで栄えている。人も車も多い。人口約42万の湘南の中心都市なのである。
 江戸時代に藤沢宿は、遊行寺の門前町&江ノ島詣の足場として栄え、有名な歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。

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 駅北口からその名も「遊行通り」を歩いて20分ほどで、堂々たる門構えの遊行寺に到着する。惣門(正門)からなだらかに延びる桜並木の四十八の石段が‘さすが総本山’という風格と情趣を醸し出している。
 

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 広い境内に入ってすぐ圧倒されるは、大銀杏。樹齢七百年、幹周り710センチある。黄色に色づく姿は圧巻であろう。幹の周囲にベンチがぐるりとこしらえてあり、木陰で一服することができる。
 

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  本堂に面するようにベンチに腰掛けると、向かって右手の樹木の間からこちらを拝みながら前かがみにすくっと立っている僧形が目に入る。
 一遍上人である。

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 寺も組織もつくらず乞食坊主のまま栄養失調で亡くなった一遍の生き方と、奈良や京都の寺に見るような立派な本堂との取り合わせになんとなく違和感を持ちながら、手を合わせ、慈悲の瞑想をする。
 
 生きとし生けるものが 幸せでありますように。
 

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 本堂の右手に回ると、犬猫慰霊塔がある。
 卒塔婆に書かれた愛犬・愛猫の名前がいたいけない。(さすがに戒名はないらしい)    
  

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 本堂の左手に、宇賀神社への入口がある。
 ご本尊は宇賀弁財天で、開運・金運上昇のご利益をうたわれている。
 行かなくちゃ!
 奥まったところにある社は深い緑に囲まれて、そこだけ空間が澄んでいた。
 パワースポット発見!

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 社の裏手に回ってその証を知った。湧き水が出ているのだ。

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 鳥居の前にあったベンチでしばらく瞑想する。
 静かで落ち着く。ここに来る途中の国道の騒音が嘘のよう。

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 境内でもっとも古い建物である中雀門(1859年作)の向こう側が、僧堂や寺務所や信徒会館など、僧たちの日常生活の場となっている。信徒会館から中に入ると、この時期ならではの庭園の美を鑑賞できる。菖蒲園があるのだ。
 書院と渡り廊下に囲まれた中庭に咲く色とりどりの菖蒲。
 良い時期に来たものである。

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 境内の茶屋できつねうどん(500円)を食べる。
 気温は30度を超えているが、風があるので日陰は涼しくて気持ちよい。
 混んでいないのが何よりである。(そのうち‘宇賀神様’で火がつくかもしれない)
 

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 昼食の後は宝物館に。
 一遍上人の遊行の足取りを記した日本地図が目を引いた。北は北上(岩手)から南は鹿児島まで、ほんとうにあちこちを歩かれたのである。
 ちょうどやっていた企画展『発現した姿』とは、賦算のあり方について悩んでいた一遍が熊野本宮をたずねた際、山伏の姿をした熊野権現が現れて一遍を諭したというエピソードによる。
 山伏はこう言った。

「お前の勧めによって一切衆生が往生するのではない。阿弥陀仏が十劫の昔に悟りを開かれたそのときに、一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されているのだ。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければならない」
 
 この言葉に触れて、一遍は画然と目覚めた。
 阿弥陀仏を本地とする熊野権現の神勅を受けたこのときを時宗教団では「一遍成道」とし、開宗の年としている。

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 時宗信徒でなくとも仏教徒なら一遍は行きたいお寺である。

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● 鎌倉時代のヒッピー 本:『捨聖 一遍』(今井雅晴著)

1999年吉川弘文館発行

 一遍および時宗についてはほとんど知らなかった。法然・親鸞・日蓮・道元・栄西ら、鎌倉期のほかの高名な祖師たちの影に隠れてしまっている感がある。歴史の授業で習った「踊り念仏」という言葉は記憶に残っているが、「なんだか巫山戯た坊さんだなあ~」というイメージしかなかった。
 時宗も歴史の泡と消えていったのかと思いきや、なんと現在まで脈々と続いているのである。神奈川県藤沢市にある総本山の遊行寺(藤澤山無量光院清浄光寺)を中心に全国に400ものお寺がある。むろん、今でも踊り念仏は行われている。
 知らなかった・・・・
 もっとも一遍には生前、お寺や教団を作る意図はなかったようである。実質的な時宗の開祖となったのは一番弟子の真教である。
 
 一遍は、延応元年(1239年)、伊予(現在の愛媛県)の豪族・別府通広の第2子として生まれた。
 10歳のとき母を亡くし、父の勧めで天台宗で出家。
 13歳のとき大宰府に移り、法然の孫弟子にあたる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗を学ぶ。
 25歳のとき父の死をきっかけに還俗し伊予に戻るも、一族の所領争いなどが原因で32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行する。
 35歳より遊行を開始、各地を転々としながら「南無阿弥陀仏」の六字を記した念仏札を配り始める。この頃より一遍を名乗るようになり、時衆と呼ばれる入門者を増やし始め、のちの時宗の礎を築く。
 40歳のとき信濃国にて踊り念仏を始める。
 51歳のとき摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没す。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。(ウイキペディア『一遍』を参照)

 一遍の信仰の特色は、次の四つで示すことができる。念仏、踊り念仏、遊行、賦算である。念仏は、もちろん、南無阿弥陀仏と声に出して唱えることである。念仏こそ人生でもっとも大切なことであり、その他衣食住のすべての欲望を捨てよ、と一遍は説いた。・・・・また、すべてを捨てて、ひたすら念仏を唱えていると、しだいに興奮して体が動き出し、踊りだすようになる。これが踊り念仏である。娯楽の少なかった昔、踊るのも、それを見物するのもおもしろく、踊り念仏は大変な人気を呼んだ。
 遊行とは、住居を持たず、各地をめぐり歩くことである。念仏を布教するためである。一遍は16年間、夏の暑い日も冬の寒い日も、日本中を歩きまわった。すべてを捨てて。「捨聖」と呼ばれたゆえんである。・・・・賦算というのは、「南無阿弥陀仏」と印刷された10センチたらずの紙の札を会う人ごとに配ることである。念仏に関心を持たせ、念仏の信仰に入ってもらうためである。

 ひたすら念仏を唱えながら一心不乱に踊ることが、なぜ救いの道につながるのか。
 実際にやってみないことには何とも言えないが、連想するのは、黄色いローブを着て「ハレー・クリシュナ ハレー・ラーマ」とか歌い踊りながら道行く人に布教するクリシュナ意識国際協会の人たちである。詩人アレン・ギンズバーグやビートルズも傾倒したインド出身の尊師A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダによって1966年に設立されたこの団体は、ヒッピー文化の象徴といった趣きがある。ソルティも若い頃(80年代)、新宿駅あたりで独特な躁的オーラーを発散しながら踊っている信者たちを見た記憶があるが、今はどうしているのやら・・・。90年代のオウム真理教事件の影響を受けなかったはずはあるまい。
 ともあれ、敬愛する神や仏の名前を繰り返し唱えながら踊るという点で、時宗とクリシュナ意識国際協会は似ている。たびたび当ブログにコメントをお寄せくださる石井利男さんの示唆によると、「口に神の名を唱え、身体に神を招来し、恍惚として踊り巡るインドのバクティ・ヨーガは、日本における一遍上人の踊り念仏(後の時宗)と深い共通性を持つ」(『仏教とヨーガ』(保坂俊司著、東京書籍)とのこと。

神への純粋な信愛を培い、グルがいる場合はグルを、その他の普遍的な愛の対象がある場合はその対象を、超意識(宇宙的な意識)の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。(ウイキペディア『バクティ・ヨーガ』)

 思うに、すべてを捨てて放浪に生きた一遍はまさに鎌倉時代のヒッピーだったわけで、そこが60年代後半の先進諸国の若者たち(フラワーチルドレン)と時間や空間を超えてシンクロしているのかもしれない。

 一遍は踊り念仏を大いに広めたが、彼自身は偉大な先達である空也上人に倣っただけと言っていた。その理由を著者はこう述べている。

 鎌倉時代の日本では、何か新しい宗教的境地をひらいても、新しい宗教を作ったとして布教することは不可能に近かった。なぜなら、宗教はすべて仏教の範囲を出ることはできなかったからである。いい換えれば、新しい救いの道をひらいたとして、それを正当化するためには仏教の論理や経典、高名な僧を使うことが必要であった。そうすることによってのみ、社会の人びとの支持が得られたのである。これは日本の古代・中世を通じての常識であった。中世末期に伝わってきたキリスト教でも、神(デウス)は大日如来であるとか、仏教教義にのっとった説明の仕方にならざるを得なかったのである。 

 なるほど~
 (鎌倉期に興った仏教は、釈迦本来の仏教はもとより、中国由来の仏教とも、奈良・平安時代の仏教ともずいぶん様相が異なっている。ならば、何も仏教と称する必要はない。親鸞教なり、日蓮教なり、道元教なり、一遍教なりと、祖師自らの名前をつけて新たな教えとして布教すればよい。わざわざ仏教に押し込める必要はない。そんなことするから、日本の仏教は複雑怪奇なわけのわからないものになってしまったのだ。)
 ・・・・・と思っていた。
 だが、上記のような事情があったのである。
 民主主義の、信教の自由のある現代なら、既成の宗教とはまったく世界観(彼岸観)も目的も儀式も語彙も異なる新たな宗教を作り、教団を立ち上げ、教祖になることもできる。たとえば、「‘人生は芸術である’の真理のもと、各人の真の個性を世の為人の為に最大限発揮し、ひいては世界人類永遠の平和と福祉の為に貢献する事を目標とする」PL教団のように・・・。法に触れたり公共の福祉に反したりしない限り、国家から弾圧を受けることもなければ、「破防法」の適用を受けて潰されることもない。
 民主主義以前の日本ではそうはいかなかったのである。新しいユニークな教えを広めるためには、国家から認可・保護されている神道や仏教といった隠れ蓑を必要としたのである。
 この視点から、わが国の大乗仏教の多様性(一見なんでもあり)を捉えないと片手落ちとなろう。

 一遍の残した和歌には含蓄あるものが多い。

みな人の ことありがほに おもひなす
こころはおくも なかりけるかな
(誰でも心には特別なものがあるように思っているが、そうではない。底の浅いものなのだ。)


こころより こころをへんと こころへて
心にまよふ こころなりけり
(自分の心をはっきりつかもうと心で思っても、つかめずに迷ってしまうのが凡夫である自分の心であるのだ。)


をのづから あひあふときも わかれても
ひとりはをなじ ひとりなりけり
(たまたま人と会っているときも、一人でいるときも、一人の人間は一人なのだ。一人で生き、生活し、死ぬのが本来の姿なのだ。)


身をすつる すつる心を すてつれば
おもひなき世に すみぞめの袖 
(自分を捨て、捨てようという心も捨てれば、もう何もこの世のなかに未練はない。そしてそこから新しい人生が広がる。価値観が変わる。)


すててこそ みるべかりけり 世の中を
すつるもすてぬ ならひありとは
(何もかも思い切って捨ててみたら、実は、ほんとうに大切なものは捨てていなかったことがわかってきた。俗世間で貴重だとされている妻子・衣食住を捨てたからこそ、その大切なものが見えてきたのだ。それがわかったのだ。)

 魅かれる・・・・・。




 
 


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