日時 2017年10月1日(日)
場所 神奈川県相模原市南区当麻578番地
本尊 一遍上人立像
開基 1304年、二祖真教上人による
時宗総本山遊行寺(清浄光寺)を藤沢に訪ねたのは梅雨入り後の真夏日であった。あれから4カ月近く経ち彼岸も過ぎたのに、まだ暑さが残っている。日差しの下を半時間も歩いていると、半袖でもうっすら汗をかく。中学生の頃は確かに10月1日の衣替えで詰め襟を着て、違和感なかったのに。
無量光寺は、家を持たず旅から旅への遊行生活を送っていた一遍上人が、もっとも長く滞在し修行した場所であるという。一遍上人亡きあと一番弟子であった真教上人がここに一宇を建立し、宗祖の遺骨を埋葬し、無量光寺と名付けたのがはじまりである。名前の由来は阿弥陀如来の別名である無量光佛から来ている。(以上、無量光寺ホームページ参照)
そういう意味では、1325年開基の清浄光寺よりも一遍上人にずっと深い縁をもっているわけで、なぜこちらが総本山にならなかったのかが気になるところである。
ウィキ「無量光寺」を読んでみると、そのあたりのドロドロした事情が書かれていて面白い。道理でホームページに一言も清浄光寺のことが触れられてなく、リンクも貼られていないわけだ。
天界で修行中の一遍上人、さぞや踊り嘆いていることだろう。


そういう意味では、1325年開基の清浄光寺よりも一遍上人にずっと深い縁をもっているわけで、なぜこちらが総本山にならなかったのかが気になるところである。
ウィキ「無量光寺」を読んでみると、そのあたりのドロドロした事情が書かれていて面白い。道理でホームページに一言も清浄光寺のことが触れられてなく、リンクも貼られていないわけだ。
天界で修行中の一遍上人、さぞや踊り嘆いていることだろう。


最寄り駅はJR相模線・原当麻(はらたいま)駅。昔『クイズダービー』に出ていた正答率の高い漫画家のような名前である。
閑静な住宅街を15分も歩くと、当麻山公園という森に入る。山というだけあって高台からは大山をはじめとする丹沢の山々がよく見える。
夏日とは言え、やっぱり軒先には秋が忍び寄ってきている。
閑静な住宅街を15分も歩くと、当麻山公園という森に入る。山というだけあって高台からは大山をはじめとする丹沢の山々がよく見える。
夏日とは言え、やっぱり軒先には秋が忍び寄ってきている。



一遍上人が手ずから植えたというなぎの大木を見上げながら山門の石の階段を上る。山門の脇に三猿を踏みつけている仏の石碑がある。この寺で起こったことは「見ざる・聞かざる・言わざるに」という脅しにも似た教訓だろうか。

なぎの木


山門からまっすぐ伸びる参道の突き当りに、一遍上人の銅像がある。片足を前に出している姿は遊行寺と同じ。「さあ遊行せん」とする上人の熱い思いの表現であろう。


弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発たれることになりました。
このとき名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像を完成されました。これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置され、多くの人々を信仰の道に導かれているのです。(無量光寺ホームページより)
本尊を象ったものであるなら、一遍上人はこんな顔をしていた。

参道脇によく目立つ大きな直方体の石がある。
「なんだろう?」と近づいて説明書きを読んだところ、北里大学医学部の学生の医学教育(つまり解剖)のために検体した人たちの納骨堂であった。毎年、慰霊祭を行っているらしい。終活にはこういう始末のつけ方もある。

境内のトイレにあった張り紙。
平成27年末の相模原か。
まさか、ね・・・・・・。
平成27年末の相模原か。
まさか、ね・・・・・・。

境内はさすがに静かで緑も多く、憩いと癒しの場所であった。

本堂は明治26年に全焼し、いまあるのは仮だそうだ

仮本堂の裏手にある池
この水面に一遍上人は顔を映して自画像を描いたそうな
もちろんお墓もあり

生きとし生けるものが幸せでありますように
この水面に一遍上人は顔を映して自画像を描いたそうな


をのづから あひあふときも わかれても
ひとりはをなじ ひとりなりけり
(たまたま人と会っているときも、一人でいるときも、一人の人間は一人なのだ。
一人で生き、生活し、死ぬのが本来の姿なのだ。)
一人で生き、生活し、死ぬのが本来の姿なのだ。)
