ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

有吉佐和子

● フラジャイル、あるいは僕の瞳が失禁した 映画:『紀ノ川』(中村登監督)

1966年松竹。

 原作は有吉佐和子の同名小説。紀州和歌山の素封家を舞台に、有吉の祖母、母親、そして有吉自身をモデルに女三代の生きざまを描いた自伝的小説。映画では、祖母にあたる花(=司葉子)の嫁入りから死までを、明治・大正・昭和の時代背景の推移に重ねながら描いている。
 とりわけ中心となるのが、花とその娘・文緒(=岩下志麻)の愛憎関係である。その意味では、別記事で書いた有吉原作&木下恵介監督『香華』に通じる。美空ひばり母子と同様に、売れっ子作家であった有吉とその敏腕なマネージャーであった母親との実際の関係が投影されているのかもしれない。

 監督の中村登はよく知らなかった。岩下志麻主演の『古都』(1963)、『智恵子抄』(1967)、萬屋錦之介主演の『日蓮』(1979)が代表作らしいが、ソルティ未見である。前2作はアカデミー外国語映画賞にノミネートされており、国際的評価も高い。「端正かつ鮮やかな作風は映画の教科書と評されている」とウィキに紹介されている。実際、この作品も一部の隙も見られない見事な‘映画’に仕上がっている。
 特に素晴らしいのが冒頭の嫁入りシーンである。
 
 川霧の立ち昇る初夏の早朝の紀ノ川を、川下にある嫁ぎ先に向かう婚礼衣装の花や付き人たちを乗せた何艘かの舟が滑るように進んで行く。滔々とした流れは川辺の緑を映し、晴れ上がった空と山は鮮やかな紀州の風景を観る者の目に焼き付ける。夜の帳の下りる頃、川面に映る篝火とたくさんの提灯に迎えられ、花は嫁ぎ先に仰々しく迎えられる。武満徹の因習的でありながらドラマチックにして雄大な音楽と共に、タイトルバックが極めてスマートに挿入される。
 このシークエンスこそ映画そのもの。「映画とは何か、映画的時間・空間とは何か、映画の快楽とは何か」をまさに教科書のように真正面から教えてくれる。大きなスクリーンで観たら、全身を震わす愉悦に瞳が失禁しそうである。

 主演の司葉子も、これまであまり注目していなかった。小津安二郎作品『秋日和』(1960)、『小早川家の秋』(1961)に原節子の娘役としてキャスティングされていたのと、市川箟監督の金田一耕助シリーズにおける着物姿の控え目なたたずまいが印象に残っている。それと、もちろん、元代議士夫人の肩書きである。
 彼女の女優としての格付けがよく分からなかったのだが、この『紀ノ川』こそが彼女の代表作であり、役者として一世一代の演技であるのは間違いない。この作品でブルーリボン主演女優賞はじめ、いろいろな賞をもらっている。

家柄や家風の違う他家に嫁いだ花は、自己を滅却して亭主に仕え、家を盛り立てていこうと献身する。亭主の浮気や娘の反抗、戦火を乗り越えて、賢く逞しく忍耐強く生きていくも、時の流れに逆らえず、家は没落し財産は奪われる。最後は、娘と孫娘・華子(=有川由紀)に見守られながら、息を引き取っていく。
 
 20代の初々しい娘から、家制度に積極的に殉じる賢婦の誉れ高い議員夫人、そして夫亡き後「家」の束縛から逃れた自由を味わいつつ来し方を振り返る老いたる女まで、明治・大正・昭和を凛として生き抜いた一人の女を実に見事に造形化している。
 調べてみると、司葉子は鳥取県のある村の大庄屋の分家の娘であり、「祖先が後醍醐天皇の密使を務めた」との伝説をもつほどの格式の高い家柄。芸能界に入るにあたって、本家から「そんな河原乞食のようなマネは許さん」と諌められたそうだ。結婚した相手は、弁護士で元自由民主党衆議院議員の相澤英之。親類縁者にも著名人が多い。
 つまり、『紀ノ川』は、作者有吉佐和子の家系の話であると同時に、司葉子自身の家系や半生と通じているのである。主役・花の置かれた環境についてよく理解し得るところであったろうし、感情移入もしやすかっただろう。後年、同じように代議士夫人になったところを見ると、性格的にも花に近いものがあったかもしれない。司葉子は、この作品と運命的な出会いをしたわけである。
 
 娘・文緒を演じる岩下志麻も強い印象を残す。
 岩下は、気の強い剛毅な女性や、ちょっとファナティック(狂気)なところのある女性を演じるとはまる。
 前者の代表は、言うまでもなく『極妻』シリーズ、ほかにNHK大河ドラマ『草燃える』の北条政子や『霧の子午線』(1999)で犯罪者を演じる桃井かおりの顔面に赤ワインをぶっ掛けた有能弁護士役がすぐに思い浮かぶ。演技上のことだとしても、桃井かおりにワインをぶっ掛けることのできる、そしてそれを桃井が許さざるを得ない女優が志麻さまのほかにいるだろうか。
 後者の代表は、『鬼畜』(1978)、『悪霊島』(1981)、『魔の刻』(1985)あたりが浮かぶ。
 『紀ノ川』公開時、彼女は25歳。水仙のように清らかで凛とした美貌が匂ってくる。絣の着物に袴姿、長く垂らした髪に大きなリボンといった大正時代のハイカラ女学生が、自転車を乗り回し、権力横暴を訴え女学生の先頭に立って校長室に直談判しに行く。まさにここで見られるのは‘気の強い’岩下志麻さまである。
 クレジットを見ると、彼女の実の父親である野々村潔の名前があった。新劇出身の役者である。どこに出ているのだろう?と探したら、なんと面白いことに、主人公・花の父親役、つまり岩下志麻演じる文緒の祖父役で出ていた。

 花の亭主(=田村高廣)の弟役で丹波哲郎が出ている。
 やっぱり演技はうまくない。が、存在感は抜群である。
 同じようなタイプの役者を挙げると、ターキーこと水の江滝子がいる。
 丹波はほんとうに作品に恵まれている。出会いの天才だったのだろう。

 173分の長尺を二夜に分けて十全に楽しんだ。
 つくづく思ったのは、「こういう映画はもう二度と作れないんだなあ~」
 お金の問題ではない。題材の問題でもない。
 華のある存在感ある役者がいなくなった。演出や撮影やセット製作や編集の技術も低下した。日本全土開発されて、歴史ドラマのロケ地が見つけられなくなった。なによりも、このような本格的な3時間近い大河ドラマを望んで映画館に足を運ぶ観客がいなくなってしまった。
 むろん、平成時代には平成ならではの映画が撮れるはずである。
 だが、この映画の冒頭シーンに見る美しさを再現することはもう絶対に不可能であろうと思うとき、映画というものがいかにフラジャイルで奇跡的な現象なのかを痛感せざるをえない。
 


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 男には決して分からない 映画:『香華』(木下恵介監督)

 1964年松竹。

 奇矯な関係にある母と娘の波乱の生涯を描いた有吉佐和子同名小説の映画化である。

 木下恵介と有吉作品がこれほど相性が良いとは意外であった。
 二人の女--母と娘--が実に良く描けていて、実に面白かった。前後編あわせて202分を一気に観てしまった。
 女性が主役の、女性視点の物語を、かくも上手に、かくも細やかに撮れるのは、木下監督のゲイセクシュアリティゆえであろうか。その意味で、木下監督の本領がもっとも良く発揮されている作品の一つと言えるのではなかろうか。

 母親と娘の関係というものは、男たちのまったくわからない世界である。
 それは、父親と息子の関係を世間の女性たちがよくは理解できないのと照応するわけであるが、後者については『巨人の星』をはじめ典型的な物語がたくさんあるし、男同士の関係はなんだかんだいって単純で劇画調でわかりやすいので、謎というほどのことはない。
 しかるに、母親と娘の関係は、世間の男たちにとって謎の中の謎と言っていいだろう。
 まず、一般に男たちは単体の「女」を理解できない。理解するためのプログラム言語を持っていない。母と娘の関係と来た日には、「女」の二乗である。わからなくってあったりまえだのクラッカー。というか、そもそもそこに興味を持つ男はそういまい。理解できないことには興味を持たないのが「男」という生き物である。
 だから、この作品を映画化できた木下恵介は偉大なのである。

 娘を生計のたつきにしか思っていない身勝手な母親・郁代と、その母を終生慕い続けるしっかり者の娘・朋子。観る者は母親の冷酷さ、その人非人ぶりに怖気を奮いつつ観ることになるのだが、唯一母と娘の心が通い合う場面がある。
 ほかならぬ実の母によって遊郭に芸妓として売られた娘。こともあろうに亭主に捨てられた母親は同じ遊郭で女郎として雇われるはめになる。芸は売れども体は売らぬ娘と、年をごまかして体を売る母親。娘は周囲に知られぬようにこっそりと母親の元に通い、食べ物を差し入れる。
 そんなある日、娘は初潮を迎える。点々と床に滴る徴からそれを見知った母親は、娘を思わず掻き抱く。
 それは決して娘の成長を喜ぶ母親の喜びではない。同じ「女」になってしまった娘に対する憐憫なのである。
『ああ、お前もこれから男社会の中で、一人の女として、「女であること」を弱みとも武器ともして、生きていかなければならないんだ』

 こんなシーンをまともに撮れる男性監督なんて、滅多いない。
 溝口健二にも市川昆にもできなかったであろう。形だけは原作どおり(脚本どおり)に作れたかもしれないが、母と娘の一見‘共依存’の陰に隠された、切っても切れない女同士の絆は、木下の細やかなる女性的感性によってしか表現されえなかったと思われる。


 年端の行かない娘を遊郭に売ってしまうひどい母親を乙羽信子が演じ、その母を終生面倒見続けるしっかり者の娘を岡田茉莉子が演じている。甲乙つけがたい好演である。
 現代ならこの母娘の関係は、児童虐待とかストックホルム症候群とか共依存とか指摘されてしまうのであろうが、なんだかそんな精神医学的解釈が味気なく感じられるほど、この母娘は花柳界の現実をなまなましく逞しく生きて、個人主義という言葉が冷たく感じられるほど、強い縁で結ばれている。
 岡田茉莉子の気丈な視線を観ていると、外野が文句つける筋合いはないなあ、とくに男はうかつに近寄るべからず、とつい思ってしまうのである。

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 失われた40年 本:『恍惚の人』(有吉佐和子著、新潮文庫)

120210_0552~01 この作品が最初に出版されたのは昭和47年(1972年)。
 なんと40年前である。
 今の高齢者が元気で働き盛りで、日本経済も財政も安定していて、バブル到来もその破綻も予期してなくて、阪神大震災も東日本大震災も知らず、消費税も導入されていない。オイルショックや公害問題などいろいろ事件はあれど、今から見れば「豊かな、牧歌的な」時代。
 そのときに、有吉佐和子は、医療や保健衛生や食生活の向上の結果として訪れた寿ぐべき長命の影に次第に姿を現わしつつあった老いの問題、介護の問題について問題提起し、来たるべき超高齢社会について警鐘を鳴らしたのであった。
 慧眼というべきだろう。

 それから10年後、昭和57年に書かれた森幹郎氏の本書の解説の中に、次のような文章がある。 


 今度、十年ぶりに本書を読み返した。まず強く感じたのは、内容的にはちっとも古くなっていないということである。痴呆の老人をめぐる問題はそのころより社会的な深刻さを増していると言ってもよい。その意味で、本書は、ますます今日性を強めていると言えよう。

 
  驚くことに、30年たった今(2012年)も上記の解説はそのまま生きている。(なんという寿命の長さ!)

 もちろん、介護の社会化を目指す介護保険の導入(2000年)という大きな転換はあった。
 日本全国に高齢者のための施設が増え、介護福祉士をはじめヘルパーも増えた。
 最新の科学的知識や蓄積された経験をもとに、介護に関する知見や技術も日進月歩で向上している。
 人権に関する意識、男女平等に関する意識も高まった。
 全般的に見れば、日本の介護事情はすこぶる良くなったと言っていいだろう。

 一方で、少子高齢化に歯止めがかかる気配もなく、年金はすでに破綻している。
 バブルの頃の羽振りの良さを伝えるエピソードがホラ話に聞こえるほど、経済は冷えきっている。国債は膨らむばかり。そのうえに、東日本大震災である。
 福祉予算をどう捻出していくか、高齢者をどう養っていくか、前途はまったく明るくない。

 本当に日本人はいったいこの40年間何をしていたのだろう?


 長年連れ添った妻の死と共にボケが始まり徘徊するようになった義父・茂造の介護に右往左往する昭子は、困じ果てて役所の老人福祉担当者と会う。
 しかし、期待していた老人ホームへの入所は、圧倒的な施設不足で、まったく見込みがない。昭子は茫然とする。 


 はっきり分かったのは、今の日本が老人福祉では非常に遅れていて、人口の老齢化に見合う対策は、まだ何もとられていないということだけだった。もともと老人は、希望とも建設とも無縁な存在なのかもしれない。が。しかし、長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老耄が待ち受けているとしたら、では人間はまったく何のために生きたことになるのだろう。
 

  もう一度言う。
 40年前の文章である。

 この作品が古くならないのは、しかし、上記の文章の前半に指摘されているように、「人口の老齢化に見合う対策」が取られていないという政治上、財政上、制度上の無策、怠惰、いい加減、福祉の欠如の体質が、40年前の日本および日本人と、現在の私たちとが、いささかも変わっていないからだけではない。
 後半部がポイントである。

 すべからく人間は老いて弱って死ぬ。
 結婚しようが、子供を作ろうが、仕事で成功しようが、金持ちになろうが、有名になろうが、ゴールは誰でも「老、病、死」である。何もこの世から持っていくことはできない。
 いったい何のために生きているんだろう?

 入居金ウン千万円、きれいで立派な介護付き老人ホームのよく陽のあたるリビングで、車椅子に乗った昼食後の老人たちが、何もすることがない手持ち無沙汰の折に、ふとこの問いが頭をかすめる限り、この作品が古くなることはないだろう。

 

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