ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

末廣誠

● アンダンテ・モリオカーノ 都民交響楽団 2017年特別演奏会 :『ベートーヴェン《第九》』

日時 2017年12月24日(日)13:30~
会場 東京文化会館大ホール(東京都台東区)
曲目
 ワーグナー/歌劇『タンホイザー』序曲
 ベートーヴェン/交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」 作品125
独唱
 ソプラノ:文屋 小百合
 アルト :管有 実子
 テノール:渡邊 公威
 バリトン:大山 大輔
合唱 ソニー・フィルハーモニック合唱団
指揮 末廣 誠

 今年最後の演奏会はお決まりの《第九》である。
 クリスマスイヴの日曜日。パンダでにぎわう上野公園。人波は覚悟していたが、曇りがちで寒かったためか、思ったほどの混雑でなかった。


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東京文化会館


 会場はほぼ満席だった。前から4列目の席だったので、最初から最後まで全身で音を浴びているようであった。
 都民交響楽団の実力は折り紙付き。安心して聴いていられる。あまりに安心しすぎたのか、『タンホイザー』も『第九』も途中で意識が遠のいた。めずらしいことである。一年の疲れが出たのかしらん?
 合唱のソニー・フィルは、ソニーグループの社員およびOB・OG、家族らにより構成される合唱団で20年以上の歴史がある。これが圧巻の上手さだった。世界のSONYとしてのプライドと愛社精神を基盤とした団結力、週一回行っているという練習の賜物であろう。これほど四声(テノール、バリトン、ソプラノ、メゾソプラノ)のバランスが拮抗&均衡して、合唱の面白さを引き出している《第九》を聴くのははじめてかもしれない。とりわけ、テノールパートはたいていの場合、人数が少ないのと高音がつらいのとで客席まで声が届くのはまれなのであるが、今回は非常によく響いていた。

 今回の《第九》のポイントは、何と言っても第3楽章であった。
 「アダージョ・モルト・エ・カンタービレ」(歌うように、非常にゆっくりと)
 「アンダンテ・モデラート」(ふつうに歩く速さで)

という指示を与えられている第3楽章は、全曲中もっともテンポが緩やかで、まったりしている。ここは癒しと安らぎの章である。現世的なストレスと気ぜわしさに満ちた第1、第2楽章から曲調は一転し、心はしばし天上にたゆたう。第4楽章の歓喜の爆発を前に「嵐の前の静けさ」とも言える平和と安息を十分味わい、怒涛のクライマックスに備える。たとえベートーヴェンの指示がなくとも、どの指揮者も第3楽章をゆっくりと演奏することだろう。
 今回の末廣の挑戦は、これまでソルティが聴いた《第九》の中でも、もっともテンポの遅い第3楽章であった。あの譬えようもなく美しいメロディラインが間延びして崩壊するのではないかと思うギリギリの線だった。つまり、ある歌をあまりにゆっくり歌い過ぎると、なんの歌かわからなくなるという現象と同じである。危険な挑戦だが、これが可能なのは《第九》があまりにも有名で、あまりにも耳馴染んでおり、第3楽章の甘美そのもののメロディをほとんどの聴衆がこれまでに何度も聴いて、すっかり諳んじているからだろう。速度を落としてもメロディラインは把握できるのである。(今回はじめて《第九》を耳にした人がどう感じたかは微妙である)

 このアンダンテ(歩く速さ)で思い出したのは、盛岡人のことである。
 20代を東京で過ごしたソルティは30歳を前に仙台に移住したが、その際驚きをもって発見したのは「仙台人の歩く速さは東京人の歩く速さの半分。つまり2倍遅い!」ということであった。
 だいたい宮城県民は休日になると家族や友人らと仙台の街中に出てきて、アーケード商店街をぶらぶら歩くのが一番の娯楽なのである。基本歩行者天国なので、横に広がって連れとワイワイおしゃべりしながら、気になった店をのぞき込み、途中のベンチで休憩し、何にせかされることなく暇つぶしするのである。ソルティも半年くらいでその速度に馴染んで、仙台の街を楽しむようになった。たまに用事で東京に出ると、東京人の歩く速さに逆に吃驚する、というか恐怖を感じるまでになった。池袋や新宿の雑踏で他人とぶつからないで歩く能力を喪失してしまったのである。

長野パワースポットツアー2012夏 034
仙台市街


 数年経って、すっかり仙台人化したソルティは用事があって盛岡に行った。そして、盛岡随一の商店街を歩いて、また驚いたのである。
「盛岡人の歩く速さは、仙台人の半分。つまり2倍遅い!」
 つまり、盛岡人は東京人の4倍、歩くのが遅い。
 これは県民性・地域性の違いもあるのだろうが、単純に、盛岡随一の商店街(目抜き通り)は仙台人の速さで歩くと「あれれ?」という間に終わってしまう、東京人の速さで歩いたら瞬時に終わってしまうというところに主たる原因はあろう。(今は盛岡の街も随分発展していると聞いた)

 何の話をしていたんだっけ?
 ああ、《第九》の第1楽章や第2楽章が「東京人の歩く速さ」だとしたら、第3楽章は「仙台人の速さ」、そして本日の末廣の第3楽章は「盛岡人の速さ、というか遅さ」と感じたのである。
 そのスロウなペースがどういう効果をもたらしたか。
 タメをつくってメロディラインの美しさを強調し聴衆を陶酔させるためでないのは、上に書いたとおりである。それなら、メロディ崩壊のリスクを生むまで遅くする必要はない。
 ソルティがなにより感嘆したのは、このゆっくりした盛岡テンポによって明瞭に開示された、第3楽章の構成の巧みさ、それぞれの楽器の特色を最大限生かしたオーケストレーションの繊細さと諧謔味とウィット(才知)、つまるところベートーヴェンの天才であった!
 美しいメロディラインという長所は、そこにのみ聴き手の関心を引き付けてしまい、かえって上記のような細やかでユニークな工夫を見逃してしまうという短所にもなりうる。新幹線の車窓から見る富士山がいかに美しかろうが、鈍行列車の車窓から見る富士山のほうが味わい深いのと同様である。速度を落としたところではじめて見えてくるものがある。
 そういった意味で、今回の末廣の第3楽章は数年前に聴いたロジャー・ノリントンのピリオド奏法の《第九》を想起させるものであった。
 考えてみれば、ベートーヴェン時代のドイツ人の「歩く速さ」は現代人より相当遅いだろう。アンダンテ・モリオカーノが正解なのかも・・・。(ただ、逆に今回の第4楽章のラストは東京人を軽く追い越す加速度付きハイスピードで、会場の撤収時間が迫っているのかと思うほどだった
 
 のんびりと街を歩く盛岡人の眼に映る風景が、目的地に向かって一心不乱に歩く東京人の眼に映る風景より、豊穣で味わい深いのは間違いあるまい。


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盛岡夜景



 
 

● 100分間の桃源郷 :マーラー交響曲第3番(都民交響楽団第122回定期演奏会)

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日時 2016年7月31日(日)14時~
会場 東京文化会館大ホール(上野)
指揮 末廣誠
アルトソロ 菅有実子

 マーラー交響曲第3番ニ短調は、「世界で一番長い交響曲」としてギネスブックに載っていたそうである。
 その後もっと長い交響曲が次々と作られた。ルーマニアの作曲家ドミトリー・ククリン(1885-1978)の交響曲第12番は演奏時間なんと6時間に及ぶと言う。実際に全楽章一挙に上演されたことがあるのかどうか不明だが、ここまで来ると「長くするだけなら誰だってできるよ。問題は質だよ」と軽口の一つでも叩きたくなる。
 現在でも世界中で頻繁に上演されていて、質も評価も人気も高く、クラシック愛好家がこぞって聴きに行く交響曲――という条件を課すならば、マーラーの第3番こそ「一番長い交響曲」と言ってさしつかえないだろう。
 全6楽章、合わせて100分ある。
 ベートーヴェンの《第九》が60分強ということを考えれば、100分は異常に長い。映画の100分は結構短く感じるものだが、音楽の100分はいかに?
 退屈しないだろうか。
 眠らないで聴けるだろうか。
 途中でトイレに行きたくならないだろうか。
 満席の会場で閉所恐怖症が勃発しないだろうか。
 ・・・・・・ 
 はじめてライブで聴くにあたり、いろいろ懸念はあった。
 というのも、この曲を最初から最後まで通して聴いたことがなかったからである。
 
 ソルティが持っているCDは、レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック演奏の1961年録音版である。これは、ソニー・クラシカルが1990年に『バーンスタイン マーラー:交響曲全集』という16枚組みのボックス仕様で発売したもので、10の交響曲のほか、交響曲「大地の歌」、歌曲集「なき子をしのぶ歌」「少年の魔法の角笛」が入っている。当時日本はマーラー人気が凄かった。お酒のCMのBGMに「大地の歌」の一節が使われていたのを覚えている。
 このBOX、当時確か2万円近くしたと思う。大学を出て最初に勤めた会社を退職するときに上司だったHさんから餞別としていただいたのである。むろん、ソルティがマーラー好きを公言していた為である。今思うに、本当に自分みたいな「生意気で協調性のない、たかだか5年ばかし勤めた使えない‘新人類’社員」にこんな高価なものをくれたものだ。よっぽどソルティが目の前からいなくなるのが嬉しかったのだろうか(苦笑)。

都民交響楽団 002
 
 以来、「今日は1番、今日は5番、今日は歌曲かな」とその日の気分に合わせてBOXからディスクを一枚選んでは時折聴いていた。
 やっぱり、映画『ベニスに死す』で有名なアダージョのある5番、若々しく聞きやすい1番「巨人」、霊妙な美しさが快眠を約束する4番、もろ東洋風の「大地の歌」あたりが聴く頻度が高い。一方、2番「復活」、3番、6番「悲劇的」、7番「夜の歌」、9番は個人的にとっつきにくく、最初から最後まで集中力を持って聴くのが困難で、貰った当初に2、3回聴いた後は宝の持ち腐れ状態になっていた。とりわけ、3番は前述のとおり長いので全体像が把握しづらく、聴いている途中で眠ってしまったり、気が散ってしまったりで、その真価が分からなかった。
 端的に言って、まだマーラーを理解できるレベルに達していなかったのだろう。(「好きだ」なんてよく言えたものだ)

 今回の演奏会は事前申し込み制で、抽選により招待券が送られてくる仕組みであった。つまり入場無料である。「これは利用しなくては!」と申し込んだ。
 どうせ聴くなら十分楽しみたい。
 招待券が届いたその日から予習が始まった。
 仕事から帰ると、上記のバーンスタインのCDをBGMのように流す。食事しながら風呂につかりながら寝入りながら耳になじませる。BOX付属の解説書やウィキペディアを利用して各楽章のテーマや構成や聴きどころを学ぶ。休日は、楽章ごとに分けて集中して聴き、主題(第1主題、第2主題)を聴き分け、ホルンやクラリネットなど独奏部分を押さえる。歌唱部分(第4楽章、第5楽章)については和訳を読みながら聴いた。
 《第九》を除けば、一つの曲をこんなにじっくり調べたのははじめてかもしれない。
 
 当日は昼ご飯を抜き、会場近くのカフェで「ごまバナナジュース」で滋養をつけた。
 直前にトイレに行き、最後の一滴までしっかり絞る。
 準備万端、客席に着いた。
 9割以上の客入り。席は4階のほぼ正面最後列であった。
 
 都民交響楽団を聴くのはたぶんはじめて。アマオケの中では新交響楽団と並び称される実力との評判。この招待システムでいつも1000名を超える観客を集めている。入団時だけでなく入団後も4年に1回の更新オーディションを課している。質の高さは自他共に認めるものと言っていいのだろう。
 指揮の末廣誠は1994年から2005年まで都民交響楽団の常任指揮者をつとめ、その後も数多くの共演を重ねている。団員からの信頼の最も厚い指揮者であろう。配布されたプログラムには、末廣自らによる曲目“快”説が4ページにわたり載っていた。これが軽妙洒脱、面白くて親切で‘読ませる’。『マエストロ・ペンのお茶にしませんか?』というエッセイを出しているようだが、ぜひ読んでみたいと思わせる文才である。

 まず初めに、今日演奏する作品は全部で約1時間40分かかります。途中で休憩は挟みませんので、御用をお足しになりたい方は、読んでいる場合ではありません! すぐさまそちらを優先されるようお願いします。(パンフレットより)


 末廣の指揮棒が動いて、休憩なしの100分1本勝負が始まった。
 出だしのホルンの壮麗なこと! 
 8本のホルンが一糸乱れず揃って、1本の巨大なホルンのように高らかに鳴り響いた。よっぽど8人揃って練習したに違いない。この先への期待で背筋がゾクゾクした。
 オケのレベルの高さは評判に違わない。弦楽器、金管楽器、木管楽器、打楽器、ハープ、どれもが自信を持って音を出していて、明確かつ艶がある。トロンボーン、オーボエ、クラリネット、ポストホルンなどの独奏部分では、それぞれの奏者の月並みでない技量と曲想に対する感性のしなやかさが伺える。各楽章のフィナーレの迫力は4階席のソルティを、脱水中の洗濯物のごとく、椅子の背に張り付けた。
 たいしたものである。
 そもそもこの第3番を――高度な技術と深い解釈力と多様な表現力、かつそれらを100分間持続しながら完走できるだけの体力と気力とが要求されるこの難しい曲を――上演できること自体、オケの力量と自信の表明であろう。いったい、クラシック愛好家の耳をそれなりに満足させるレベルでこの大作を上演できるアマオケが日本にどれくらい存在するだろうか?
 特に、第1楽章と第2楽章はオケと指揮者の緊張感がいい方向に作用して、非常に緊密度ある純度の高い音楽が楽しめた。「このまま最後まで行ったら凄いことになる」と思うほどに・・・。第3楽章でやや失速した感があった。
 だが、失速したのは聴き手の耳のほうだったかもしれない。第2楽章までですでに40分以上集中力を保ってきたのだから。
 人間の生理として、同じ強さの集中力が持続できるのはせいぜい40~50分だろう。学校の授業を思いかえせば了解できる。このあたりで休憩を入れるか、あるいは全身の緊張を解いてリラックスできるような調べ(たとえばアダージョ)を入れると、その後の楽章に向き合うエネルギー補填ができる。(ベートーヴェンの《第九》は約30分経過したところで第3楽章アダージョに入る)
 この曲の場合、第4楽章のアルトの深みある独唱(菅有実子さんは姿も声も美しく眼福&耳福!)と第5楽章の児童合唱団の何とも心洗われる純粋なボーイソプラノによって、ここまでの疲れが癒される仕組みになっている。あたかも使用する脳が左脳から右脳に切り換わるかのように、別の部分の脳細胞が新たに刺激を受け働き出し、これまで酷使してきた脳細胞に一時の休息が与えられる。実際、純粋な器楽音楽を聴くときと、歌唱付きの音楽(人間の声)を聴くときとでは、聴き手の脳の働きは異なるのではないだろうか。
 
 そういうわけで、いよいよラストの第6楽章に入ったとき、ソルティの脳は右も左も全開であった。脳のすべてで、すなわち心身のすべてで、マーラーの音楽を受け入れ、身をゆだね、心地良くシートに溺れることができた。
 
 この第6楽章をなんと形容したらいいのだろう?
 
 朝露に濡れて蕾をひらく真紅の薔薇。
 夜明け間近の山間にたなびく紫雲。
 宇宙飛行士が目にする自転する青き地球。
 激しい戦闘が終わった焼け野原に降り注ぐ最初の雨。
 人類が目撃した最初の陽の出。
 人類が見る最後の日の入り。
  
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 第3番は自然を表現したものと言われる。
 実際、そのとおりなのだろう。が、第6楽章を聴いていると、人間も自然も含めた‘偉大さ’に対する畏敬の念のようなものが湧き起こる。
 西洋人ならそれを「神」とか「愛」とか呼ぶだろう。
 仏教徒のソルティは「慈悲」と呼びたい。

 第6楽章が聴き手を誘う桃源郷は、それまでの75分の地上的かつ人間的感情のマグマあっての爆発であり飛翔である。
 これほどの至福が待っているのなら、100分なんて屁のカッパ。
 
 Hさん、ありがとう。
 ようやく自分もマーラーを聴けるようになりました。 



 
  
  

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