日時 2017年7月15日(土)19:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
- マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
- チャイコフスキー:交響曲第5番
指揮 東 貴樹
入場時にもらったプログラムや他の催し物の案内チラシを客席で読みながら開演を待つひとときは、クラシックコンサートに限らず、ライブにおける至福の瞬間と言っていいだろう。
最寄りの喫茶店で軽く腹ごしらえをすませ、開演20分前に会場入りし、すいている1階席前方に陣取り、おもむろに本日のプログラムを開いて、思わず唸った。
チャイコフスキー5番の曲目解説の冒頭文に、である。
先日、高校生から突飛な質問を受けた。いわく、「『運命』の対義語ってなんですか」。この世の全てが既に決定されている必然だったのならば・・・私たちは運命に抗えず、運命の対義語は生まれ得ないのではないか、と言うのである。
ブルレスケのトロンボーン奏者である木戸啓隆という人がしたためたこの一文にソルティが唸ったのは、上記の文章がまさに先日書いたばかりの記事『1/fの希望」に重なるからである。
これはシンクロニシティなのか。運命の必然なのか。あるいはソルティの無意識の策略なのか。
なんだか‘何者か’によって操作されているような気分になったことは確かである。
これはシンクロニシティなのか。運命の必然なのか。あるいはソルティの無意識の策略なのか。
なんだか‘何者か’によって操作されているような気分になったことは確かである。
それにしても、なんとも凄い高校生がいたものだ。
太宰治予備軍か?

木戸がそのように文章をはじめたのは、チャイコフスキー交響曲第5番が、ベートーヴェン交響曲第5番同様に、まさに「運命」をテーマにしているからである。人間が不条理なる運命にどう翻弄され、傷つき、苦悩するか。どう希望を持ち、抗い、連帯し、克服しようと努めるか。どう挫折し、落胆し、絶望し、すべてを「無」に帰す死へと押し流されていくか。そこに救いはないのか。これがテーマなのである。
であるから、5番を聴くとチャイコフスキーの運命観がどのようなものかを垣間見ることができる。理不尽で残酷な運命とどう向き合おうとしたか、5番を作曲した時点でどんなふうに受けとめていたか、を伺うことができる。聴く者はチャイコフスキーの苦悩多き人生に思いを馳せる。何と言っても、26歳から52歳までの26年間に12回の鬱病期を経験し、53歳でスキャンダルにまみれた不慮の死を遂げた人である。
少し長くなるが、木戸の文章を引用させてもらおう。
最終楽章については思うところがある。「運命のテーマ」が輝かしい長調となって鳴り響く冒頭。そのテーマは終盤で凱歌として復活する。私たちは、運命に対する人間の勝利をそこに聴く。しかし、響きこそ長調になってはいても、その姿は不条理を示す「運命のテーマ」なのだ。さらに、作品は3連音が叩きつけられて終わる。(作曲者が死を歌った交響曲6番の3楽章でも、同じ終結が用いられている)。またチャイコフスキーが遺したスケッチには、「運命の前での完全な服従」、「いや、希望はない」といった言葉が並んでいる。これはいったいどういうことなのか。勝利を歌うフィナーレにて、私たちがおぼえる確かな高揚は、もしやミスリードなのだろうか?そもそも冒頭の質問通り、人間が運命に打ち克つことなど可能なのか?
5番に続けて作られた6番『悲愴』とその数日後に訪れた死を思うとき、ソルティはチャイコフスキーが「運命に打ち克った、苦悩から脱する道を発見した」とはとても思えないのである。もちろん、死の直前に彼がどういう心境にあったかは知るところではないが。
本日のもう一つの曲目である『マーラー交響曲10番』もまた、えらくネガティブなテーマを持っている。
マーラーの死により第1楽章のみで未完に終わってしまったこの交響曲の構想は、ダンテ『神曲』ばりの「地獄」なのである。第3楽章「煉獄」の五線紙には「慈悲を!おお、主よ!何ゆえにわれを見捨てたまいしか?」と、第4楽章には「悪魔はわたしと一緒に踊る・・・狂気がわたしを捕らえ、呪った・・・わたしであることを忘れさせるように、わたしを破滅させる」と作曲者自身の手によって書き込まれている。
数々の傑作を生み出し、成功と栄誉と財産と世にも稀なる美女アルマを手に入れたマーラーでさえ、晩年には『第九』のような喜びの調べを奏でることができなかったのである。(本日のプログラムはその意味で強烈に‘後ろ向き’というか重苦しいライナップである。そこにソルティは惹きつけられたのか?)
マーラーの死により第1楽章のみで未完に終わってしまったこの交響曲の構想は、ダンテ『神曲』ばりの「地獄」なのである。第3楽章「煉獄」の五線紙には「慈悲を!おお、主よ!何ゆえにわれを見捨てたまいしか?」と、第4楽章には「悪魔はわたしと一緒に踊る・・・狂気がわたしを捕らえ、呪った・・・わたしであることを忘れさせるように、わたしを破滅させる」と作曲者自身の手によって書き込まれている。
数々の傑作を生み出し、成功と栄誉と財産と世にも稀なる美女アルマを手に入れたマーラーでさえ、晩年には『第九』のような喜びの調べを奏でることができなかったのである。(本日のプログラムはその意味で強烈に‘後ろ向き’というか重苦しいライナップである。そこにソルティは惹きつけられたのか?)
古典派のベートーヴェンと、ロマン派のチャイコフスキーやマーラーを分け隔てるものは何か。それぞれの作曲家の個性をとりあえず脇に置けば、「神への信仰」ってことになるのではなかろうか。
次の年表を見てほしい。
1824年 ベートーヴェン交響曲第9番初演1859年 ダーウィン『種の起源』発表(進化論)1885年 ニーチェ『ツァラトゥストラ、かく語りき』発表(神は死んだ)1888年 チャイコフスキー交響曲第5番初演1889年 マーラー交響曲第1番初演
19世紀後半はヨーロッパが「神」の存在に疑義を呈し、キリスト教信仰が揺らぎ、神の支配から脱し「自己」の確立へと向かい始めた時代だったのである。同性愛者であったチャイコフスキーなぞは、そうでなくとも「神」を信じることが難しかったであろう。
「不条理な運命」も神意や天命と取れば人はどうにか受け入れ生きていけよう。だが、そこに神がいないのならば単なる「苦しみ」である。もはや神への‘明け渡し’は叶わずに、苦しむ「自己」ばかりが肥大する。近代人の苦悩である。
さて、木戸はこう続ける。
最初の話に戻らせてもらおう。私は「運命」の対義語は、「意思」だと考えている。確かに不条理な世界の中で、私たちは時に絶望する。しかし人間が内に秘めた「運命を乗り越えようとする意思」だけは、運命そのものに支配されないはずだ。
確かに、ベートーヴェンもチャイコフスキーもマーラーも不条理なる運命を乗り越えようとする大いなる意思のもとに、後世に残る素晴らしい芸術作品を創造し得たのであろう。いや、人間のあらゆる営為は、さらに言えば人類の歴史そのものが、運命に対する抵抗の記録なのかもしれない。
だが、くだんの高校生がもし前野隆司の「受動意識仮説」を知っていたら、こう言い返すかもしれない。
「意思もまた運命の一部ではないでしょうか?」
前野説にしたがえば、意思は実体のない幻覚であり、無意識という名の‘運命’に組み込まれた、気晴らしのごときオプションに過ぎない。「自己=私」は幻覚である。
ソルティなら高校生にこう答えるだろう。
「運命の対義語、それは‘悟り’じゃないかな」
ブルレスケの演奏は、気迫と情熱のこもった若さ漲るものであった。特にチャイコの5番はその真摯なまでのひたむきさに胸が熱くなった。テクニックは抜きん出ているわけではないが、奏者の思いが伝わる演奏で好感が持てる。
チャイコフスキーは‘個人的には’自分は運命に屈したという思いを抱いていたかもしれない。でも、こうやって死後100年以上過ぎても作った曲が世界中で愛され、演奏され、人びとにパワーと感動を与え続けている。それを思うとき、‘人類史的には’「不幸な人生」とはほど遠いところにいるではないか、運命は彼を偉大な人間に仕立て上げたではないか、と思うのである。
もしかしたら、運命の同義語も‘悟り’なのかもしれない。
もしかしたら、運命の同義語も‘悟り’なのかもしれない。