1986年発表。
1989年新潮社より邦訳(柴田元幸訳)発行。
オースター2作目である。
『幻影の書』を読んで感じたオースターの肝(‘かき’の肝臓みたいだ)は、ここでも共通している。
すなわち、「幻影の人生」である。
すなわち、「幻影の人生」である。
まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。
何となく英国のマザーグースの詩を思い起こさせる一風変わった書き出しで本書は始まる。
私立探偵ブルーは、謎の男ホワイトからある依頼を受ける。ある男(ブラック)の住むアパートの向かいのアパートの部屋に陣取って、ブラックの行動を24時間監視し、逐一報告してほしいと。
心安く引き受けたブルーであったが、ほとんど一日部屋から出ず、机に向かって書き物しているブラックの孤独で単調な生活に付き合ううちに、心の中の歯車が次第に狂いだしてくる。
物を深く考えたことのない、自分の心の底を覗いたことのない、現実的で散文的なブルーが、「正体の知らない他の男の私生活をただ監視する」という目的も理由も終わりも見えない奇妙な行為をしているうちに、自らもまた孤独になり、アイデンティティの危機に陥っていき、確かに思えた生の基盤が揺らいでいく。
読みながら、いろいろな他の小説家や作品のことが連想されてくるのが、面白い。
マザーグースから始まって、まずレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説。硬派な私立探偵というキャラクターからの連想である。
次に、ハーマン・メルヴィルの傑作中篇『筆耕バートルビー』。目的のない単調な仕事を延々とやることが生活のすべてとなった男の置かれた境地という点で似ている。
次に、カフカと安部公房。不条理で寓意的な設定、孤独の中に閉鎖された人間の脆弱性と狂気、関係疎外といったところが通底している。
謎が深まっていくにしたがい、エドガー・アラン・ポーの『ウイリアム・ウィルソン』が浮かび上がってくる。依頼人のホワイトとブラック、あるいは監視されているブラックと監視しているブルーは実は同一人物(ドッペルゲンガー)なのではないかと思われてくるのだ。
最後の最後、ついにブルーは何もかもかなぐり捨てて、ブラック(あるいはホワイト)と対峙する。
物語のクライマックス。緊張の一瞬。
物語のクライマックス。緊張の一瞬。
ブルーは問う。
それで俺は――俺は何のためにいたんだ? 息抜きのギャグか?違う、ブルー、私にははじめから君が必要だったんだ。君がいなかったら、私にはやりとげられなかっただろうよ。何のために俺が必要だったというんだ?自分が何をしていることになっているか、私が忘れないためにさ。私が顔を上げるたびに、君はあそこにいた。君は私を見張り、私をつけ回し、決して私から目を離さず、錐のようにその視線を私の中に食い込ませていた。いいかね、ブルー、君は私にとって全世界だった。そして私は君を、私の死に仕立て上げた。君だけが唯一変わらないものなんだ。すべてを裏返ししてしまうただ一つのものなんだ。
意味不明である。
ブルーとはなんだったのか。
ブラックは何をしていたのか。
ホワイトの正体は?
たとえば、ブラックは実はホワイトで、自分自身の監視をブルーに頼みつつ、ブルーについての物語を書いていたとか、ブラックとブルーの関係は小説家と編集者との関係を模しているとか、ブルーとは芸術家をして創作活動に従事せしめる‘着想’の擬人化であるとか、解釈は様々つけられるけれど、オースターの真意がどこにあるのか、はっきりとは指摘できない。
たとえば、ブラックは実はホワイトで、自分自身の監視をブルーに頼みつつ、ブルーについての物語を書いていたとか、ブラックとブルーの関係は小説家と編集者との関係を模しているとか、ブルーとは芸術家をして創作活動に従事せしめる‘着想’の擬人化であるとか、解釈は様々つけられるけれど、オースターの真意がどこにあるのか、はっきりとは指摘できない。
しかし、最後の最後にソルティが深い類似を感じた作品なら上げられる。
それは、本邦の松浦理英子のデビュー作『葬儀の日』(1978年発表)である。
内容をくわしく覚えていないが、葬儀における哭き女と笑い女の宿命的な対決を描いたあの不思議な作品に、深いところで響きあうものがある。
こんなふうに、いろんな作家のいろんな作品の記憶を呼び起こすものだから、まるで他の鳥の羽で体を飾り立てたイソップ童話のカラスのような感触がある。集められた部品をひとつひとつ取り除いてしまったら、あとには何も残らないような・・・。
それが‘幽霊’の正体か。
それが‘幽霊’の正体か。
と言っても、オースターが盗作しているとか、オリジナリティに欠いているとか言っているのではない。
創作物というのは、そもそもそういうものなのではないか。
いや、表現主体(自我)というのは、そもそもそういうものなのではないか。
‘自分’というのは、過去に出会った‘他者’の寄せ集めである。オリジナリティがあるとしたら、その寄せ集めの種類と配合とレイアウトに存するのだろう。
この作品からソルティは諸法無我を感じたのである。