1998年角川書店。

 御直披(おんちょくひ)と読む。
 図書館で棚を渉猟していて、背表紙に書かれたこの聞き慣れぬ言葉が気になって手に取った。

 1996年神奈川県警本部に新設された性犯罪捜査係の長を任命された40代初めの女性警察官・板谷利加子のもとに、ある日一通の手紙が届く。その封書の表に書かれていたのがこの言葉であった。
 御直披とは、親展と同様、「宛名となっている本人が自分で封を切って読んでほしい」という意味である。つまり、「あなただけに読んでほしい」という差出人の切実な思いが込められている。
 この本は、強姦被害にあった26歳の松井佳恵(仮名)と、同じ女性として親身になって彼女を支えながら一警察官として事件を解決に導いていった板谷との往復書簡である。

 題名の意味と大まかな内容はその場で分かったものの借りるかどうか迷った。というのも女性が強姦される類いの話がソルティどうも苦手なのである。
 これはセックス(性交)というものを知らなかった少年の頃からの傾向で、成人して性体験を持ち、あふれる性情報に晒されて性的な事柄についての免疫が甲羅のように固くなっている今に至るまで続いているので、ひょっとしたら前世と関係あるのかもしれない。子供の頃、テレビドラマや映画を観ていて女性が強姦されるシーンが出てくると、息が詰まるような胸の苦しさや吐き気を伴うような絶望感を感じていた。鑑賞後も数日は嫌な気分に付きまとわれ、忘れたいけれど忘れられない。
 トラウマとなったいくつかのシーンを上げることができる。
  • アニメ映画『哀しみのベラドンナ』(1973年虫プロ)で主人公ジャンヌが領主や家来や悪魔に凌辱されるシーン。
  • NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年)で吉永小百合が足軽兵らによって拉致輪姦され、森の中に捨て置かれるシーン。
  • 市川崑監督『犬神家の一族』(1976年松竹)で笑気ガスで意識を失った島田陽子がぼんぼん息子に強姦されそうになるシーン。
  • 森村誠一原作『青春の証明』(1978年毎日放送)で多岐川裕美が不良少年にレイプされるシーン。
  • 庄司陽子の漫画『生徒諸君!』(1977年~『週刊少女フレンド』)で高校2年生の主人公ナッキーの親友小西茜が森の中で見知らぬ男にレイプされるシーン。
  • イングマール・ベルイマン監督『処女の泉』(1960年スウェーデン映画)で清純無垢な少女が羊飼いの兄弟によって凌辱されるシーン。これは大学時代に観た。
 そういうわけで積極的に目を向けたくないテーマなのであるが、一方、なぜそんなに忌避するのか、その理由も気になる。なんとなくそれがゲイというセクシュアリティと関連しているようにも昨今思えるのである。思い切って読んでみた。
 
 性犯罪係の40代女性警官と、強姦被害を受けた20代女性の文通と言うからには、おそらく、被害女性の痛ましい心情の吐露と読むのもつらい事件の再現描写、彼女を慰めつつ犯人逮捕を誓い性犯罪撲滅に賭ける熱血ポリスウーマンの活躍――あたりがメインだろうと想像していた。それはあながちはずれてはいない。が、読み進めているうちにまったく別の物語であることに気づき、文面から目が離せなくなっていく。読後には思ってもみなかった爽やかな感動が待っていた。

 これはなんと、世代を超えた二人の女性の友情の物語でもあった。
 不幸なきっかけではあるものの、世代も違えば生きる世界も異なる二人が知り合い、気持ちを晒しては受け止め、共感し、信頼し、お互いを語り、励まし合い、理解を深め、友情が生まれ育っていく。支援する警官と支援される被害者という立場を超えて、二人の女性が互いの心の内や過去や苦悩をさらけ出して、まったく対等の立場から関わり尊重し合う。読みながら不覚にも――否、正覚にも――涙があふれた。近頃とんと忘れ去られたように見える、おそらくSNS上のやり取りだけでは簡単には生まれないであろう、「人と人とのまっとうな関係」がここにはあったのである。

 二人の関係の変化は、手紙の中で使われる互いへの呼びかけに端的に表れている。
 板谷は被害女性をはじめのうちは「佳恵さん」と呼んでいる。最初は、性犯罪の状況や犯罪の手口、自分がこれまで接してきた様々な事件被害者の様子を語り、声を上げることの必要性を説く。プロの警察官としての態度が勝っている。が、板谷が生きがいと言えるほど頼りにしていた実の母の死に遭い、その苦痛を佳恵相手に正直に綴るうちに、いつしか「佳恵ちゃん」と呼ぶようになる。
 佳恵は、強姦被害者が経験する様々な感情を赤裸々に綴り、板谷に無条件に受け止めてもらうことで、事情聴取に応じ、告訴に至る勇気を得る。その結果、犯人は捕まり懲役20年という判決が下される(犯人は十数件の強盗、婦女暴行を繰り返していた)。「板谷利加子様」ではじめられた手紙は、いつしか「利加子お姉さま」となり、しまいには「利加子お姉ちゃん」と変わっていく。


 平凡な結婚をして、子供を産むことが夢でした。夕方のにわか雨にあわてて洗濯物を取り込んだり、部屋中に散らかった子供のおもちゃをため息をつきながら片付けていく、平凡な毎日にほんの少し物足りなさを感じながらも、溢れだした洋服の収納に頭を悩ませる、そんなささやかな夢が、一番の望みでした。そんな小さな夢さえ木端微塵に壊されてしまいました。
 ほかの二十六歳の、傷つけられることのないまっさらな女性には、私はもう戻れません。でも、小学生の私がちょっと変わったところがあるなと思いながらも、いつまでも忘れることができなかったあの人形のように、いつかだれかが心を留めてくれることもあるのではないか。


 一年近い歳月を経て、佳恵が回復への道に辿り着いた様子が最後の手紙からは伺える。これはかなり早い変容であろう。
 犯人が早々に捕まって刑罰を受けたことも大きいと思うが、やっぱり板谷との交流こそが大いに力あったのではないか。人によって傷つけられた心は、人によってのみ癒されるのだろう。


アジサイ


 メディアでは連日のように女性が暴行される事件が流れている。その残酷にして残忍な手口に、「この世界で女として生きること」の理不尽さを思わずにはいられない。白昼堂々と被害者自身の車で連れ去られるなんて、信じがたいことまで起こっている。
 一人で静かな山道を歩く、深夜一人で散歩する、一人で知らない町を旅する、一人で路地裏の小汚いけれど激ウマのラーメン屋に入る、酔っぱらって終電を逃し公園のベンチで朝まで寝て過ごす・・・・・ソルティがなんのストレスもなく、むしろ快適な自由の享受として普通にやっているこうした行為が、女性にとっては相当な覚悟を要する危険な行為なのである。
 ピンクレディーが絶大な人気を誇った中学生の頃、ヒット曲『SOS』を聴いた担任教師(♂)が言った。
「『男は狼なのよ』とは、男を侮辱している!」
 なるほどそういう見解もあるのか、と狼以前の少年ソルティは面白く思ったけれど、悲惨な事件が頻発するのを見聞きすると、阿久悠の言うことにも百理あると思うのである。


 先の手紙で板谷さんが書いた少女の言葉、「守ってくれる男の人は欲しいけど、その人のペニスはいらない」とのつぶやき、あれはすべての強姦被害者の叫びなのではないでしょうか。


 ソルティが「ゲイで良かった」と思うことの一つは、少なくとも女性を強姦する可能性がない(なかった)ということである。
 あるいは、その可能性を摘むためにゲイたることを選んだのかもしれない。