ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

柳亭市弥

● 落語は楽語だ :第127回すがも巣ごもり寄席

すがも寄席


日時 2017年5月31日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(庚申塚そば)
出演&演目
  • 柳亭市弥   : 「かぼちゃ屋」
  • 入船亭小辰  : 「団子坂奇談」
  • 桂宮治    : 「権助芝居」
  • 春風亭正太郎 : 「三枚起請」

 開演45分前に会場に着いたら、座席は7割方埋まっていた。スタジオフォーのホームページに「入れないかもしれないので、できるだけご予約を」と書いてあったので予約はしておいた。いったい誰の人気ゆえなのか?
 技の小辰?
 残り二人は初めて聴く。
 
 その後も入場者は増え続け、演者が出入りするための通路の部分を削って椅子を追加し、最終的には85名の大入り満員となった。巣ごもり寄席には過去数回来ているが、いつも20~30名くらい。こんなに入ったのを見るのは初めてである。この狭いスペースにこんなに入るとは思わなんだ。
 みなさん、誰がお目当て?(自分はもちろん市弥である。)

 トップバッターはその市弥(34)。
 久しぶりに見たが、なんか男っぽくなった。妻夫木聡みたいな万年モラトリアム青年っぽさが抜けて、風格が増した。寿も近いのか・・・。(寿とはどっちでしょう? 真打ち昇進? or ご成婚?)
 話の途中から立ち昇るオーラは相変わらず。これが出ると目が離せなくなる。他の芸達者な演者が望んでもなかなか得られない市弥の秘密兵器である。
 しかし、高座そのものはやや集中力を欠いた感があった。会場にいる女性ファンを意識しすぎたか。それとも満席の圧力で緊張したのか。
 いまが飛躍の正念場だと思う。精進してほしい。(いま気づいたが「正念」も「精進」も仏教用語だ)

 2番手の小辰(34)。
 若いのに本当に達者である。
 研究熱心で努力家なのだろう。玄人受けするタイプである。
 行きのチンチン電車(都電荒川線)で見かけたが、素顔は本当に地味目な普通の青年である。
 そのギャップが面白い。 

 中入り後の桂宮治(40)。
 公式ホームページによると、平成20年に桂伸治門下となったとあるから、33歳で落語家転進したことになる。思い切ったな。
 平成24年に二ツ目昇進。その後、NHK新人演芸大賞 落語部門 大賞はじめ、数多くの賞をもらっている有望株。芸風は、本人が「色物担当」と自らを茶化していたが、パワフルで表情も体の動きも派手で、諧謔味あふれている。ギャグ漫画的。子供から大人まで楽しめる。
 本日の演目に登場する権助の東北弁があまりに上手いので岩手出身かと思ったが、プロフによると東京都出身とある。だとすれば、相当の努力家の証拠だろう。
 本日一番受けていた。

 トリは春風亭正太郎(36)
 カピバラというあだ名を奉られているらしい。なるほど顔が小動物風で愛嬌がある。が、立ち居振る舞いには落ち着きがあり、羽織り姿もさまになっている。
 「三枚起請」を聴くのは2回目。面白いけれど難しい演目。花魁と彼女にだまされた三人の男、しめて四人の演じ分けがポイントとなるので演技力を問われる。本職の役者だとて一朝一夕には行くまい。前回ソルティが聴いたのは中央大学の落研(オチケン)のふられ亭ちく生であった。これが上手くて感心した。
 正太郎はさすがにトリをつとめるだけあって、話の運びよどみなく、演じ分けも見事。技巧を感じさせない自然な風味が、「巧さ」を感じさせてしまう小辰より、一段上手かもしれない。
 が、一つだけふられ亭ちく生のほうが優れている点があった。
 それは花魁・喜瀬川の役である。
 正太郎の花魁はどうにも中途半端である。女らしくもないし、遊女らしくもない。色気がない。これで三人の男を手玉に取れるとは思われない。
 男が女を演じるのはもって生まれた資質がものを言うところであろうが(市弥なんか上手いもんだ)、もっと色気の研究が必要だろう。


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カピバラ (げっ歯目テンジクネズミ科カピバラ属)


 本日の大入り満席は、出演者4名の顔触れが高レベルで揃っていたことによるのであった。
 久しぶりの寄席だったが、やっぱり落語は楽しい。
 落語は楽語だ。
 


● 豆腐い~、ゴマ入り、がんもどき :すがも巣ごもり寄席

 水曜日は基本的に仕事が休みなので、午後1時から始まるこの寄席に参加できる。大抵の人は働いている時間なので、参加者の顔ぶれを見ると主婦やら定年過ぎた男性が多い。「おばあちゃんの原宿」とげぬき地蔵通りのそばという場所柄もあるか・・・。
 にしても、隣りに座ったおばさん連中の笑いの沸点の低いこと! 箸がころがる年頃は半世紀以上前に過ぎただろうに、マクラの段階の軽いジョブからすでに笑う準備が整っている(笑っている)。幸福と言えば幸福なのだろう。
 が、こうした客ばかり増えると、「自分もずいぶん笑いを取れるようになった」と演者が勘違いして自信過剰になるかもしれない。噺家を育てるためには簡単に笑ってあげないことも大切だな。
 ・・・・なんて、おまえ何様のつもり?
 ハイ、巣鴨のお地蔵様。

とげぬき地蔵通り 009
 

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日時 2016年5月11日(水)午後1時~
会場 スタジオ・フォー(豊島区巣鴨) 
演者と演目
  1. 柳家花ん謝:「青菜」
  2. 立川談吉:「大工調べ」
  3. 柳亭市弥:「粗忽の釘」
  4. 三遊亭好吉:「甲府い」

 「青菜」はわかりやすくてユーモアがありオチも楽しい。寄席のトップにふさわしい演目だ。花ん謝は自分でも言っていたが相当の汗かき。上がり症なのかもしれない。これからの季節、たいへんだな。

 立川談吉は、談志の最後の弟子。北海道帯広生れの34歳。
 なによりの特徴は威勢の良さと元フィギアスケートの織田信成を日干ししたような庶民的な顔立ち。顔面の変形率が高いのは落語家としては利点であろう。
 宿賃の担保に大家に道具箱を持っていかれた大工の与太郎。棟梁に金を借りて道具箱を返してもらいに行く。が、「お金が足りない」と与太郎を邪険に追い返す大家。今度は棟梁自ら乗り込んでいく。ことをうまくおさめるつもりが、言葉の行き違いから火に油を注ぐ結果に。棟梁と大家は大喧嘩を始める。はたで見ている与太郎は思わぬ成り行きにおろおろするばかり・・・。
 怒り狂った棟梁が大家相手に威勢よく啖呵を切るところが最大の見せ場である。
 ここで談吉は才能の片鱗を見せてくれた。張りとツヤのある声で、長く小難しいセリフを噛むことなく一気呵成にまくしたてる。見事な口ぶりに客席から拍手が起こった。
 全般に、本人の性格の表れなのか、‘押し’の強さを感じさせる噺家である。
 
 今日の市弥は良かった。
 前回は演目(「甲府い」)が難しかったこともあるが、「ちょっとオーラーに翳りが・・・。TV出演の影響?」と案じていたのだが、すっかり持ち直して、出会った頃の君がいた。新調したのだろうか、淡い藤色の柔らかそうな生地を仕立てた着物姿に、以前には感じられなかった優美さと風格とを見止めた。
 マクラによると、体調を崩して病院にかかった。医者に運動を進められ、このところジョギングをしている。回復して、おまけに体重もずいぶん減った・・・そうだ。
 確かに顔が一回り小さくなって輪郭がくっきりしている。着こなしの優美さは痩せたため、体幹を鍛えたためか。
 うん、やっぱイケメンはこうでなくちゃ。
 「粗忽の釘」も楽しい演目である。引っ越したばかりの長屋の壁に誤って八寸釘を打ち込んでしまった粗忽者の大工。口うるさい女房に尻を叩かれ、お隣りに事情を説明に行く。壁を貫通した釘は見事仏壇の阿弥陀様の喉元を貫いて・・・。
 単純なストーリーなのだが、それだけに登場人物のキャラの魅力に成否がかかっている。釘の頭の変わりに自分の指を打ってしまったり、あわてて隣りではなく向かいの長屋に飛び込んでしまったり、事情を説明するつもりが女房との馴れ初めをのろけ始めたり・・・。おっちょこちょいで、威勢がよくて、裏表がなくて、単純で、女房に頭が上がらなくて(だが愛してもいて)、図図しくて、KYで(ちょっと古いか)、結論として‘憎めないキャラ’を、市弥は自らの天然キャラとうまく配合させながら演じていた。‘憎めない’長屋の若衆を演じたら、市弥ははまるな。ちょっと蓮っ葉な感じの色っぽいおかみキャラも自分は好きである。(片手で着物の掛衿をくいっと引っ張る仕草がいとおかし。)
 演目がイチヤに合っていただけでなく、「腕を上げたな」と思った。
 隣家に上がりこんだ主人公が、自分を落ち着かせるために煙草を吸うシーンがある。ここでイチヤは観る者を「ほう~!」と感心させるほどの「ため」をつくる。‘間’を取る。ゆったりとした動作で一服する。むろん、それによって粗忽者の主人公が落ち着きを取り戻したことを示すのであるが、それだけではない。このはっとするほど長い‘間’を取ることで、客席の注意を喚起する。「緩急の付け方を知っている役者は観客を惹きつける」と『ガラスの仮面』で月影先生がヘレン・ケラー役の北島マヤを評してのたまったとおり。
 だが、実際に演じている最中に、長い‘間’を入れるというのは冒険である。観客を飽きさせてしまうのではないか、「次のセリフを忘れたのでは?」と不安にさせてしまうのではないか、せっかくここまで持続してきた緊張の糸を途切れさせてしまうのではないか・・・・・などと思ってしまうからである。それができるには、ある程度の自らの芸への自信と客への信頼と経験がなければならない。舞台で汗ばかりかいていたり、‘押し’てばかりでは、なかなかできない芸当である。つまり、これは‘引き芸’の最たるものなのだ。
 「腕を上げたなあ」と思ったのは、そこが目立ったからである。
 
 しんがりの三遊亭好吉。1986年生れの29歳にしては落ち着いている。見た目40歳近いかと思った。老成しているのは外見だけでなく、芸もまたそうであった。
 『甲府い』は前回イチヤが演じた。ストーリーも登場人物のキャラも地味で、最後まで客を飽きさせずに引っ張るのが難しい演目である。
 さあ、どう捌くか。
 いろいろ工夫を凝らしている。話の合間合間にオリジナルの「くすぐり」を入れて、ちょっと笑いを取る。アドリブで客席とコミュニケーションする。豆腐屋の主人夫婦が娘を善吉の嫁に決めるシーンで、親心を演じてしんみりさせる。全体に緩急を上手につけて、話のだらだら感をなくしている。巧みと言っていいだろう。『甲府い』に関しては、イチヤより好吉に軍配が上がろう。
 マクラで、好吉は「先日3時間連続の独演会をやりました」と言って客席を驚かせていたが、この実力とこの若さならそれも驚くほどのことでもないと思った。将来有望である。

 『甲府い』はある意味、演じ甲斐あるネタである。そのまま普通に演じて笑いを取るのが難しい地味なストーリーだけに、だが内容そのものは(落語を愛する)日本人好みのとても‘いい’話だけに、二ツ目歴も長くなって自信がついてきた噺家達が、「この演目で客をひきつけてみたい」と闘志をそそられるのであろう。わかる気がする。
 思うに、この噺をやるときのポイントは、主人公の善吉ではなく、豆腐屋の主人のキャラ作りにあるのではないか。善吉のキャラは、「真面目で謙虚で信心深くておかみさんや子供にもてる」ということから動かせない。どうにも色のつけようがない。一方、豆腐屋の主人ならば、「日蓮 宗の篤い信者で心が広い」という基本キャラは動かせないものの、そこに個性を付け加えることができる。
 たとえば、往年の桂小金治や日テレの徳光和夫アナや織田信成のような「泣きキャラ」にしてみるのはどうだろう。善吉が財布を摺られたと聞いては同情して「泣き」、ご飯を一升五合たいらげたと聞いては感心して「泣き」、真夜中に祈りながら水をかぶる善吉の心根を知っては感動して「泣き」、娘を嫁にと思っただけで感極まって「泣き」、善吉が身延山に願ほどきに行くと聞いて法華信者の琴線を弾かれて「泣き」、とにかくよく泣くキャラにしてみる。実際に、そのつど涙を流し、ハンカチで洟をすすり、感謝の念を込めて経の一つでも唱えさせてみる。
 どうだろう。面白くないか?
 あるいはまた「オネエの主人」ってのはどうだろう?
 男色家という意味ではなくて、教育評論家の尾木ママみたいなキャラにしてみるとか。
 あるいはまたずっと年齢を引き上げて、小津映画の笠智衆みたいなお爺さんキャラにしてみるのは?
すると、かかあは東山千栄子か、杉村春子か。 
 いろいろ考えてみると面白い。
 
 巣ごもり寄席のはねた後は、地蔵通り商店街にある「ときわ食堂」に寄って腹いっぱい食べるのがいつもの楽しみ。この店は新鮮な魚が焼いても揚げても美味しいのだが、それ以上にご飯とお味噌汁と漬物がいける。メニューも豊富でいつも選ぶのに苦労する。
 さすがに「ゴマ入りがんもどき」はない。
 

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● 買いかぶりすぎ? 落語:すがも巣ごもり寄席


とき 3月23日(水)13時~
ところ スタジオフォー(豊島区巣鴨)
演者と演目
1.春風亭 朝也(落語)『片棒』
2.古今亭 駒次(落語)『みんなの学芸会』
3.一龍斎 貞鏡(講談)『木村長門守 堪忍袋』
4.柳亭 市弥(落語)『甲府い』

 半年ぶりの落語、半年ぶりのイチヤ。
 ここ最近、クラシックコンサートのほうに浮気していた。
 ごめんよ、イチヤ・・・。
 
 この期間にイチヤはめっきり、名(と顔)が売れた。「若手イケメン落語家」という触れ込みでNHKの生活情報番組『あさイチ』はじめキー局のテレビ出演が相次ぎ、女性人気うなぎのぼり(かどうかは知らん)。こういう日が来ると思っていた。
 そのせいかどうか、会場は満席であった。(と言っても30名弱だが)
 
 一番手、春風亭朝也(ちょうや)は春風亭一朝の弟子。37歳。2014年に「NHK新人落語大賞」で大賞を受賞している実力者。これがどれほどの賞なのか知らないのだが・・・。
 『片棒』は朝也がよく演じている十八番なのだろう。口舌鮮やか、表現豊か、緩急自在。器用なものであった。
 個人的には、もっと色気がほしいな。
 
 古今亭駒次は古今亭志ん駒の弟子。37歳。鉄道を題材にした創作落語である「鉄道落語」を中心に活動している。公式ホームページを見ると、その鉄道オタクぶりが歴然である。何よりの武器は、人懐こそうな愛嬌のある顔立ち。ギャク漫画の登場人物のような目鼻立ちは、まんま与太郎である。
 『みんなの学芸会』はむろん創作落語。5年2組の小学生たちが学芸会に『ロミオとジュリエット』をやることになった。だれがジュリエットをやるか、主演女優を決める段階からもめるはもめるは・・・・。
 ちびまる子ちゃんの世界を落語にしたみたいで面白い。今日一番笑わせてもらった。
 ‘また聴いてみたい’落語家を一人発見した。
 
 講談を生で聞くのははじめて。一龍斎貞鏡(いちりゅうさいていきょう)という名前は講談師の名跡で、当代は7代目に当たるらしい。祖父も父も好男子――じゃなくて講談師。サラブレットなのである。本人は華のあるなかなかの美女。気風もよろしい。
 『木村長門守(ながとのかみ)堪忍袋』は、豊臣秀吉の跡取りである豊臣秀頼が全幅の信頼をおいたイケメン家臣、木村重成の高潔な人格を描いた講談。場面・情景が目に浮かぶような話しぶり、客席の気をそらさない話芸や集中力は、さすがというほかない。血は争えない。
 
 トリはイチヤ。
 登壇してすぐ気づいたのは「顔が黒くなっている!」
 沖縄でダイビング? 白馬でスキー? 日焼けサロン? 酒の飲みすぎで肝臓を悪くした? それともスタジオのライト焼け?
 色白の美男子が松崎しげるのようになって・・・そこまではいかないか。いつもとちょっと違う妻夫木聡のような精悍な印象で、やっぱ女性ファンを意識している?
 が、マクラに入るといつもの‘ゆるキャラ’ぶりで安堵した。

 『甲府い』は難しい演目だと思う。しっかりとオチはあるけれど、オチで笑わせるような構成にはなっていない。話そのものも、真面目で働き者で信心深い豆腐屋の売り子・善吉を主人公とするだけあって、笑いやおかしみを誘うようなものではない。と言って、先がどうなるかハラハラするような仕掛けがあるわけでもないし、しんみりと涙を誘う人情物でもない。至極平凡な話なのだ。これをそのままテレビドラマにしたら、退屈で仕方ないだろう。
 なので、観客を飽きさせず、注意を演者に引きつけ、終わった後にじんわりと「いい話を聞いたなあ。良かったなあ」と思わせるには、相当の実力を要する。
 客席が途中から「どよーん」としてきて、隣席の男が舟を漕いでいるのを横目に見ながら、「なぜイチヤはこの演目を?」といぶかんでいたのだが、「そうか。新たな高みに挑戦しているんだな」と思った。
 買いかぶりすぎ?
 『片棒』のように話自体が面白くて見せどころ満載の演目なら、客を笑わせるのにたいした苦労はいらない。それならば、イチヤはお手の物だろう。『甲府い』で客を笑わせる、魅了する、あるいは感動させるには、相当な演技力が必要だと思う。フランスの伝説の名女優サラ・ベルナールは、あるパーティ会場でテーブルの上のメニューを読んだだけで、同席していた人々を感涙させたという。真の演技力とは、話の内容やセリフとは関係ない、そのような体と表情と声のみに依った純粋に肉体的な伝達力のことなのだろう。
 杉村春子なら『甲府い』で人を感動させることができたかもしれない。

 もう一つ思ったのは、善吉というキャラである。
 甲府なまりの田舎丸出しの青年が、一旗上げて育ての親である叔父夫婦に恩を返そうと江戸に出てきたところから話は始まる。生き馬の目を抜く大都会、善吉はさっそく全財産入った巾着袋を掏られる。窮したところで出会ったのが、同じ宗旨(日蓮宗)の豆腐屋の旦那。これも何かの縁と、売り子として雇われ3年。女子供に愛される善吉の素直でやさしい人柄と熱心な働きのおかげで店は繁盛、借金もチャラになった。そこで、主人夫婦は善吉を娘婿にと考える。めでたく結婚した善吉は新妻と二人、甲府へと旅立つ。叔父夫婦に恩返しと結婚の報告をするために。江戸に上る前に善吉が成功を祈った地元のお寺に参って‘願ほどき’するために。
 善吉は、なまりも抜けて、垢抜けて、すっかり江戸っ子らしくなった。豆腐屋の若旦那となり所帯も持った。願ったとおりの出世ぶり。
 だが、そこで善吉は、成功した男によくあるように、天狗になるということがなかった。受けた恩を忘れるということがなかった。最後まで、謙虚で真面目で正直で信心深い。
 
 最近、イチヤは売れている。
 テレビ出演あいつぎ、「イケメン」「若手実力派」などと持ち上げられ、女性たちにキャアキャア言われるような機会も少なくなかろう。
 (勘違いしてはいけない)
 (初心忘れるべからず)
 (ここまで応援してくれた人あっての今)
 イチヤは自らを戒めるためにこの演目を選んだのかもしれない。
 
 買いかぶりすぎ? 
 贔屓の引き倒し?   



● ‘色気’、この不思議なるもの 寄席定席番組:林家正蔵、柳亭市弥ほか(池袋演芸場)

日時  8月29日(土)昼の部(14~17時)
会場  池袋演芸場
演者と演目
1. 前座 柳家小かじ 「道灌」
2. 落語 柳亭市弥 「元犬」
3. 落語 春風亭柳朝 「悋気の独楽(りんきのこま)」
4. 紙きり 林家楽一
5.落語 入船亭扇好 「宮戸川」
6. 落語 柳家小ゑん 「顔の男」
7. 落語 柳家三三 「高砂や」
8. 落語 台所鬼〆 「たがや」
9. 落語 柳家小満ん 「幽女買い」
10. 三味線漫談 三遊亭小円歌
11. 落語 林家正蔵 「心眼」

 寄席の定席番組を最初から最後までしっかり聞いたのは初めてであるが、すっかり満腹になった。丸々三時間、磨かれた芸に生で接し、笑ってしんみりして(ちょっと眠って)楽しんで、これで2000円とはお得である。
 100席近くある客席は満員御礼。客層は老若男女バランスよい。人々の興味関心が多様化し、娯楽のタコツボ化が進んでいる現代、これだけ世代・性別・職業・セクシュアリティ(?)多様な観客が集まるのは奇跡と言っていいだろう。音楽コンサートや映画や劇場ではこうは行かない。
 今、落語が熱い・・・!?
 
 一番のお目当ては、むろん柳亭市弥である。
 並み居る実力派真打ち達に混じって、いの一番に登場したイケメン市弥。あいもかわらぬ‘水もシタタル’色男ぶりと一瞬にして敵の戦意を失わせる愛くるしい笑顔で、固かった場内の空気を瞬く間にほぐしてしまう。トップバッターとしては文句の無い働きぶり。
 何の因果か人間に変身した白い犬の職探しをユーモラスに描いた「元犬」は、市弥自身がまさに尾っぽをしきりに振る犬っぽい(それも白犬っぽい)雰囲気を持っているので、まったく演者にどんぴしゃりの演目である。犬だったときの習癖で思わず立ち上がって「ちんちん」してしまう若衆を演じる市弥のなんとも色っぽいこと。思わず赤面してしまうのはなぜ???
 あとに続く真打ち達(上記3~7)は、みな聞くのは初めてであった。
 やっぱりみな上手である。人前で金取って話すだけのことはある。しかもみな若くて脂が乗っている。甲乙つけがたい芸の競い合いであった。
 中で目立ったのは、6番の柳家小ゑん。鉄道や天体観測や日曜大工が好きなオタク系の噺家らしいが、その嗜好を十分生かした創作落語を披露している。同好の士にはたまらない喜びであろう。しかも、オタクを馬鹿にしたり卑下したりすることなしに客観化して笑いに変えてしまい、オタクでない観客たちからも笑いをとれるあたりに知的センスを感じる。演目「顔の男」は、顔の表情だけで(声を出さずに)ネタを注文するのが決まりとなっている寿司屋の話。独創性が素晴らしい。
 
 トリは林家正蔵。
 生で聞くのは(見るのも)初めてである。
 自分の世代では、パツンパツンの白いズボンが今にもはち切れそうな二木ゴルフのCMと、子供向け料理番組『モグモグGOMBO』(1993年4月?2003年9月)でヒロミ(伊代ちゃんの亭主)に徹底的にいじめられるキャラとしての‘こぶ平’イメージがいまだに強い。
 芸能界名うての‘愛され(いじられ)キャラ’であることは間違いない。
 正蔵を襲名して10年、ずいぶん精進したという話は聞いているが、本職の落語のほうは実際どうなのだろう?
 
 「心眼」は盲の按摩・梅喜(ばいき)が主人公の人情話で、途中梅喜の可哀想な境遇に同情してしんみりするところがある。笑いはむしろ控えめである。
 なので今回は、正蔵の笑いを取る実力については判明できなかった。
 話の運び方や演技は、真打ちの名に恥じないものだと思う。場内をしんみりさせる力はたいしたものである。テレビドラマや映画に出演したり、声優をつとめたりしているのが、肥やしになっているのだろう。
 だが、なによりも特筆すべきは、正蔵の醸し出す‘色気’である。艶っぽさである。芸の技術的なところでは、他の真打ち達と互角あるいは(もしかしたら)やや劣るのかもしれないけれど、身にまとった艶っぽさはどうしても視線を集めずにはおかない。これが芸能人オーラーなのか。
 その吸引力でもって観客の心を引きつけ、観客と気で交流し、一体化する。これはやはり持って生まれた才能であろう。単に親の七光りだけでは厳しい芸能界で生き残れるわけが無い。(関口宏や松方弘樹や明石家さんまやビートたけしの子供たちを見よ!)
 真打ちともなれば、実力伯仲は当然である。だれだって上手い。そのなかで群を抜いた人気噺家になるには、実力プラス‘何か’が必要なのだろう。それは演技が一級で付属の劇団では主役クラスの俳優が、必ずしもテレビや映画に出て成功するとは限らない、ってのと同様である。
 本日の出演者で、そうした‘色気’をまとっているなあ~と自分が感じたのは、正蔵と市弥と‘紙きり’芸人の林家楽一であった。


 


● ドラえもん、好き♥ 落語:柳亭市弥の会(ミュージックテイト西新宿店)

7月9日(木)
 仕事が早上がりだったので、滅多に行かない、行く気もさらさらない新宿へ向かった。
  イチヤの為ならどこへでも。
 ミュージックテイト西新宿は、落語・演芸関係のCDやDVDや書籍を扱っているお店で、店舗の空きスペースを使って毎日のように落語会を催している。もちろん、自分は初めてお邪魔する。場所はJRの高架を挟んで西武新宿駅の裏手にある。
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 会場に入ると、落語関係のCDやDVDがぎっしり飾られた棚に囲まれた狭いスペースに、すでに10名くらいが着席していた。コアなイチヤファンはまだまだ少ない?
 今日の演目は以下の通り。
1. 湯屋番・・・プー太郎の居候が銭湯の仕事を紹介される。むろんお楽しみは番台からの風景。
2. 王子の狐・・・美女に化けた狐を逆に騙してやろうと、男は女を割烹に誘う。
3. ろくろ首・・・嫁を欲しがる与太郎が紹介されたのは、美人で金持ちで立派な屋敷に住む娘。だが、娘に婿の来手がないのには相応の理由があった。

 演目もそれぞれに面白かったけれど、枕というかアドリブというかMCというか、演目に入る前の雑談がイチヤのひととなりを伺えて面白かった。『ドラえもん』が好きで暇な時はYouTubeでドラえもん特集を観ているとか、小学生の頃ボーイスカウトに入っていたとか、大学時代100キロマラソンに参加して20時間歩いたとか、‘いかにもイチヤ’な感じで、憎めないキャラの由来を知った気がした。(自分もドラえもん好きで、高校時代に通学列車の中でコロコロコミックを読んで同級生に馬鹿にされた覚えがある。)

 ときに、落語というのは話芸なわけだ。話が上手い、間合いやアドリブが絶妙だ、表情や身振りに味がある、小道具の使い方が巧みだ、客の波長を読んでそれにうまく合わせる柔軟性がある・・・といったあたりが評価のポイントになるのだろう。
 これらは日々の稽古や師匠や先輩からの教えや数多くの高座の経験を重ねて、技として磨かれていく。むろん素質--素人でも話の上手い下手があるように--ってのも関係するとは思うが、努力や精進によって誰でも進歩できる部分である。
 一方、キャラは、生まれついての、あるいは幼少期に形成されて、その後の人生の基盤を成してしまう。「三つ子の魂百まで」と言われるように・・・。パソコンで言えばOSみたいなものだから、キャラを簡単に変えることはできない。せいぜいできるのは、自分の基本的なキャラを自覚して、その上で別のキャラを演じることだ。であれば、陰気な性格の役者も陽気な役を演じられる。派手で高慢な性格の女優も謙虚で貞淑な妻を演じられる。演技力は、自分の基本的なキャラとは違った性格の役柄を演じるところに発揮される。

 落語は話芸だから話が上手くて笑いが取れればそれでまずは合格である。
 だが、どうやらそれ以上でもある。
 観客は噺家のキャラそのものを楽しみにも来る。「1対多」の相対する空間で、高座に座る噺家から知らずにじみ出るキャラを味わうのである。5代目古今亭志ん生が酔っ払って高座で眠っている姿を客は喜んで聴きに(観に)来たという伝説も、そのへんの事情を表しているのであろう。
 たとえば、舞台役者が舞台で眠りこけて大事なセリフを飛ばした姿に拍手喝采する観客が想像できようか。音楽家が無愛想に舞台に登場し、表情もなくピアノ演奏し、笑顔なく立ち去ったとしても、その演奏自体がこの上なく素晴らしかったら、聴衆は惜しみない賛辞を送るであろう。音楽家のキャラはあまり関係ない。(深い意味では、キャラ自体が曲の解釈に関わっているのだろうが、観客はライブにおいて音楽家のキャラを楽しんでいるわけではない。)
 漫才やコントなどはよくわからないが、落語は話芸であると同時に、キャラ芸なのだろう。

 そんなことを思ったのは、今日のイチヤは緊張していたせいか、疲れていたせいか、演目それ自体はいつもほどの出来ではなかった。妙に集中力を欠いている箇所もあった。「ろくろ首」では、途中で大事なセリフ(「なかなか」)を忘れてしまい、客席から助けられるという一幕もあった。
 でも、終わってみれば、客席からはあたたかい拍手が起こり、店内は明るいオーラーにあふれ、自分も一日仕事の疲れが癒され、満足して帰途に着いた。
 失敗すらも愛嬌に変えてしまうキャラ。多少の出来の悪さをマイナスにせず、自らを笑い者にすることでエンターテインメントに変えてしまうキャラ。イチヤは芸の出来不出来より、客席との間に親密な関係が結べたかどうかを一番大切にしているのだろう。あるいは、そこが一番大切だと自然に思えるような育ち=キャラなのだろう。
 演者が100点の出来と思っても、観客が50点しか楽しまなかったら、それはやはり50点である。演者が今日は50点だと落ち込んでいても、観客が100点楽しんだら、それは100点である。
 50点を100点に変えてしまうのが、噺家のキャラの魅力なのだろう。
 そして、これはもともとのキャラが「明るい」とか「優しい」とか「善良だ」とか「天然だ」とか「のんきだ」といった質自体の問題ではなくて、自らのありのままのキャラを受け入れて肯定している度合いによるのではないかと思う。
 「こんな○○な自分をどうぞそのまま100%味わって楽しんでください」という開放性および観客への信頼が、キャラの魅力と映るのではないだろうか。
 
 イチヤは、ドラえもんが好きな自分を愛しているのだろう。



  



 
 

 
 
 

● ‘それほどでもない’たみちゃん! 落語:すがも巣ごもり寄席

とげぬき地蔵通り 001

 巣鴨の庚申塚のすぐ近くにスタジオフォーというイベントスペースがある。
 ここで毎週水曜の午後、巣立ちのときを待っている若手芸人(いわゆる二ツ目)4人を招いて寄席が開かれる。(木戸銭1000円)
 5月13日(水)にはイチヤ(ついに呼び捨てか!)こと柳亭市弥が出演するので、初夏の日差しの中、出かけることにした。
 
 JR山手線大塚駅から昔懐かし路面電車(チンチン電車)都電荒川線に乗り換えて、二つ目の庚申塚で降りる。「オバチャンたちの原宿」として有名な巣鴨とげぬき地蔵通りに入る手前の交差点を左折すると、すぐに建物は見つかった。
 中に入ると、それほど広くないスペースに青い毛氈を敷いた高座と折りたたみの椅子が20脚ほど並んでいた。
 開演前にはすべての席は埋まった。中高年女性が多かったが、自分と同じイチヤ目当て?
 
 本日の出演者と演目
1. 柳家緑君(ろっくん):唖しの釣り 
2. 柳亭市弥:紙入れ
3. 瀧川鯉八:暴れ牛奇譚
4. 柳家喬の字:うなぎの幇間(たいこ) 

 本来ならば、イチヤが一番手で、二番手・鯉八、三番手・緑君、喬の字がトリの予定であった。
 が、やってくれました。
 開演時間の13時にイチヤと鯉八が会場に到着していなかったのである。二人揃って遅刻である。
 で、すでに会場に来ていた真面目な緑君が、急遽一番手をつとめることになった。
 こんなこともあるのだな。
 
 貧乏くじをひいた緑君。
 余裕を持って会場入りし準備万端整えるつもりであったろうに、いきなりの出番。それもイチヤか鯉八かどちらかが到着するまで、場をつないで時間稼ぎしなければならない羽目になった。戸惑いを隠せぬ様子で登壇した緑君は、事情を説明し、雑談を始めた。演目に入ってしまうと、もう時間稼ぎのしようもないから、雑談で観客を楽しませなければならない。
 緑君はまだ25才。なんという試練が待ち受けていたことか。
 でも、良く頑張った。
 若者らしい友達ネタや趣味ネタ(歴史が好きらしい)で観客を楽しませてくれた。演目をやる数倍も疲れたことだろう。言ってみれば、セリフが入ってないのに初日の舞台に立った役者みたいなものだ。アドリブで切り抜けるほかない。
 イチヤの到着の合図を受けて、ホッとした表情でやおら『唖しの釣り』に突入した。 
 まあ、こういったアクシデントを経験して、真に力量ある噺家に成長するのだろう。
 敢闘賞!
 
 イチヤは開演時間を間違えたのだと言う。13時開演を13時半と勘違いして上野の鈴本演芸場にいたとか。この「巣ごもり寄席」には過去何回か出ているはずだのに・・・・・。
 やっぱり天然だ。
 ばつが悪そうに観客に頭を下げたあと、高座に入る。
 やりにくいのはイチヤも同様だ。人の良さそうな若い緑君の脂汗たらたらの苦労を目の当たりにしている観客は、イチヤに自然厳しい視線を送る。大事な高座に遅刻して主催者(スタジオフォー)や他の出演者をハラハラさせ迷惑をかけたイチヤ自身も、平常心というわけにはゆくまい。
 一体どうなることやら。
 ・・・・という心配をよそにイチヤはやっぱりイチヤであった。 
 顔つきこそいつもと違い、どことなく情けない準イケメンふう(当然だろう)ではあったものの、ひとたび演目が始まって、世話になっている旦那の目を盗んでそのお内儀(妻)と密通する小間物屋の新吉のセリフを口にするや、いつものごとく、すっと役柄に入り込んでしまい、観客もいつのまにか江戸の下町にいる自分を発見するのであった。
 もしかしたら、本来用意していた演目は別だったのかもしれない。この「紙入れ」はイチヤの一番得意とするものなのかもしれない。自分の遅刻によって巻き起こした情況をみて、一番の安全牌にして鉄板のネタを持ってきたのかもしれない。
 そんなふうに思えるほど、安定した芸と笑いを提供した。
  そう、これが正解だ。
 遅刻した上に出来の悪い落語を披露したのでは、木戸銭払った観客に愛想つかされても仕方あるまい。遅刻したからこそ、気持ちを切り替えて、いつもより気の入った落語を提供すべきである。 
 意外に大物だよ、この人は。
 
 本日一番ウケていたのは三番手の瀧川鯉八であった。自分も一番笑った。
 登場した瞬間に会場の雰囲気を変えてしまうその独特の顔、独特の動き、独特の存在感、独特の間。オタク系とでもいうのか。片桐ハイリ系か。この濃いキャラは希少価値だ。一度聴いたら、決して忘れられない。
 演目(暴れ牛奇譚)も新作落語、つまり本人が自分で作ったものらしい。
 村を救うために暴れ牛の生贄に選ばれた「それほどでもない(=ブス)」キャラたみちゃん。
 これが強烈にツボにはまる。ゲイ的感性を持つ人なら、このノリはたまんないだろう。
 すごい二ツ目がいたもんだ。同じ二ツ目仲間のみならず、真打ちの落語家連中をも青ざめさせるに十分な才能と思われる。
 イチヤとは別の意味でファンになりそう。(ちなみに遅刻の理由は「二度寝」だと)
 
 トリは喬の字。
 前回池袋演芸場で聞いて、その実力のほどは知っていた。
 が、今日は調子が良くなかったのか、前回ほどの集中力を欠いていたようだ。(顔もなんだか浮腫んでいた・・・) 
 また、この「うなぎの幇間」という演目は、難しいわりには面白くない。
 どうしてこの演目を選んだのか奇妙な気がした。 
 自分に合ったネタ、その日の調子に合ったネタ、会場に合ったネタ、その日の観客に合ったネタ、他の出演者の演目とバランスのとれたネタ、いろんな条件に合った演目を選ぶのは難しいものだろうな。
 
 終演後は、とげぬき地蔵通りを巣鴨駅まで歩いた。
 昔懐かしい昭和の商店街の風景に心がほぐれた。

とげぬき地蔵通り 009

とげぬき地蔵通り 003

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とげぬき地蔵通り 006

 
とげぬき地蔵通り 007
 
 

 

● イケメン市弥 落語:清瀬けやき亭落語応援会

日時  5月2日(土)14時~
会場  清瀬けやきホール・集会室(和室)
演者  春風亭一蔵  : 『子ほめ』『ちりとてちん』
      金原亭駒松  : 『元犬』
      柳亭市弥    : 『転宅』
      入船亭小辰  : 『代脈』
清瀬落語会 002

 GW真っ只中の夏日。西武池袋線清瀬駅近くの清瀬けやきホールまではるばる来たのは、イチヤ君こと柳亭市弥を見る(聞く)ためである。
 追っかけ?
 ブログいちやぼしを見ると、5月には市弥一人舞台(一人会というのか)も何度かあるらしい。それはそれで楽しみであるが、他の噺家(主にイチヤと同格の二ツ目)と共演するイチヤを見るのもオツなものである。
 一つには、落語初心者ゆえ、多くの噺家の高座を見て落語の何たるかを学びたいし、いろいろな演目も知りたい。いま一つには、他の噺家と比較することでイチヤの特質を確認できるからである。

清瀬落語会 001
 
 清瀬けやきホールで開催されているこの若手落語家を応援する会はすでに41回を数える。
 地元の常連もいるらしく、SF映画に出てくる宇宙船のようなデザインのけやきホールの4階集会室に入ると、和室に並べられた椅子はほぼ埋まっていた。50人以上は入っていた。
 やっぱり、落語ブームなんだろうか。

 本日の出演者のうち金原亭駒松は二ツ目昇進を間近に控えるいわゆる前座。1985年生まれの30歳。育ちの良さが伺える丁寧な話しぶりで、これから本当の勉強が始まるのだろう。
 あとの三人は同期とのこと。同期って、どうやら入門(弟子入り)した年のことでなくて二ツ目に昇進した年(三人とも2012年)のことらしい。三人とも30代前半である。
 手元にある案内チラシには、三者三様の落語のスタイルを表すのに、こんな煽り文句を載せている。
「力の一蔵、イケメンの市弥、技の小辰」
 まさに「その通りだな」と頷くような、三者それぞれの違いが引き立った会であった。

 春風亭一蔵は、押し出しのいい、仲間内の飲み会で間違いなく主役をはるような威圧感ある男。ちょっとかすれたダミ声といい、堂々たる体躯といい、ジャイアンを彷彿させる。「力の一蔵」の異名どおり、ガンガン押しまくっていくスタイル。表情や振りも大袈裟で、演目によっては「ちょっと暑苦しい」かもしれない。なにより演者が汗だくになりそう。
 対照的に、入船亭小辰は最初から最後まできわめて冷静に自身をコントロールする。汗をかかない芸である。なによりの武器は声の良さ。大きくはないが、よく通る低めの渋い声で、滑舌もしっかりしている。話の運び、メリハリのつけ方も滅法上手い。たしかに「技の小辰」と言うだけある。外見は瀬戸内寂聴を若くしたみたいな感じだが、どことなく孤高な雰囲気がある。
 で、柳亭市弥である。
 
 「イケメン市弥」という異名は、本人にとっては面白くないかもしれない。他の二人が芸風について語られているのに、自分だけは外見重視。あたかも器量のみによって採用された女子社員みたいな。
「失礼ねえ。あたしだって同期の男くらい仕事できるわよ~」
 しかし、イチヤの高座に接するとやはり思うのである。
「イケメンであることは立派な芸である」と。
 まず、登場した瞬間から会場の目を引き付ける。心を浮き立たせる。
 イチヤのイケメンぶりは、女性にとってはもちろん魅力だが、男性にとってもライバル意識や嫉妬を沸き立たせるような性質のものではない。「こんな息子がいたら」「こんな部下がいたら」「こんな娘婿がいたら」と思わせるような、嫌味の無い、気障っぽさの無い、劣等感や反感を引き起こさないような万人受けするイケメンである。それでトクしている。噺のマクラからわずか数分以内に、会場は「イチヤを支えよう」というモードになる。母性本能をくすぐり、武装解除させる。
 イチヤは芸も巧みであると自分は思うのだが、芸の上手さ(=テクニック)を感じさせない。話の間合いであるとか、アドリブであるとか、ここぞと言う時のはじけ方であるとか、実に巧みなのである。が、小辰のときに「うまい!」と思わず心の中で声を上げたようにはならない。
 なぜかというに、イチヤのテクニックは話全体のムードの中に溶け込んでしまって目立たないからである。客の側から言えば、聞いていると話の中に知らず知らず入り込んでしまうからテクニックどうのという次元での評価を忘れてしまうのだ。
 あるいはこうも言える。イチヤは登場人物になりきる度合いが大きくて、話芸というより芝居に近くなっている。そう、イチヤの高座はまるで落語というよりも一人芝居を観ているようなのだ。(とりわけ、長屋のおかみさんなど女性を演じるときにその傾向が強い。あと一歩でオネエになってしまうスレスレのところで、かろうじて踏みとどまって下世話で色っぽい江戸の女らしさを成立させている。本人自身、演じることの快感に酔っているのではなかろうか。)
 だから、話が佳境に入り役に没入してきたときのイチヤが放つオーラーは、まさに舞台俳優の放つそれに近い。どうしたって目が離せなくなる。

 どうしてそんなことができるのか。
 おそらくその秘密はイチヤの性格にある。
「親に大切にされて、さほど屈折もせずに、何不自由なく育ったんだろうなあ~」というところから来る素直さ、人の良さ、おっとりした風は一目瞭然である。それに加えて気づくのは、‘我’の無さである。生き馬の目を抜く厳しい芸の世界でライバルたちとしのぎを削る30代男の内面から放たれる、ギラギラした野心や性欲と一体化した‘我’が感じられない。自己顕示欲の強そうな一蔵からも、一見クールに見える小辰からも、その匂いはにじみ出ていて、とうに30代を超えた自分の目にはかつての若い日の自分を見るかのように、それを二人に嗅ぐことができる。
 しかし、イチヤにはそれが希薄なのである。イチヤの清潔感はそこから来る。
 役への没入は‘我’の無さゆえであろう。
 三者による同期会も3年越しだと言う。「なかなか同期でここまで長く一緒にやることはないんです」と一蔵も小辰も口を揃えていたが、それが可能なのはひとりイチヤの性格ゆえではなかろうか。

 30も過ぎれば、容姿はどうしたって衰える。肌はたるんでくる。口元はしまりがなくなってくる。髪も薄くなる。美形を保つのは難しい。
 そのぶん内面が表に浮上してくる。「顔じゃないよ、心だよ」とは言うけれど、心は顔つきに投影される。造形の良し悪しは整形でもしない限りどうにもならないけれど、顔つきの良し悪しは生き方や考え方によって長年にわたって作られていくものである。逆に言うと、顔つきの良し悪しだけは整形ではどうにもならない。
 自分が思う(好きな)‘イケメン’とはむろん‘顔つき’のことである。 
 
イチヤ イチヤは30過ぎて堂々のイケメンである。
 凄いことではないだろうか。
 芸風に掲げても何ら過不足なかろう。
 (この性格の良さが昇進の妨げになる日も来るんだろうか)

● あったかいんだからぁ♪ 落語:柳亭市弥“春爛漫ちょいと一杯”

日時  4月11日(土)15時~
場所  コジコジハウス(世田谷区経堂)

 小田急線経堂駅南口から歩いて3分のところにある洋風レストラン「コジコジ」まで、二ツ目にして二枚目の柳亭市弥を聞きに行った。
 地元の後援会的な(家族が来ていたようだ)小じんまりした(参加者10名強)アトホームな会で、なんとなく場違いな感じもしたが、「はるばる経堂くんだりまで来たからには、木戸銭1800円払ったからには、しっかり元を取らねば」と思い、空いている一番前席の中央に陣取った。
 なんとまあ、目の前1メートルのところに緋毛氈と座布団を敷いた高座がある。
「え! いちや、丸かぶり?」
 
ichiya

 自分(ソルティ)はNGOの仕事で何百回と人前で話してきた。学校の体育館や教室、お役所や公共施設の一室、カフェや飲み屋などの商業施設。演者席と客席はいつも一定の距離が置かれていた。ワークショップ形式でなく講演の場合、一番近い席まで少なくとも2メートルは離れていた。板書したりパワポ映写したりするので、ある程度距離がないと客席から見えにくいし、毛穴まで見えるくらいの近さとなると、参加者の視線の圧力をもろ感じ、緊張して話しにくい。
「鼻毛出ていないかな?」
「口臭は大丈夫かな?」
「喋っている最中につば飛ばないかな?」
「ズボンのチャックは開いていないかな?」
 容姿や身なりに自信がないので、こういう瑣末なことが気になって講演に集中できなくなる。
 だから、逆もまた同じで、演者とあまり近い距離にいると落ち着かないのである。
 家族や恋人や友人ならともかく、まったく見ず知らずの人と1メートル強の距離で長時間(約2時間)対峙する面映さや気詰まりは、イケメンいちやを間近で見られるという、ファンなら喜びで卒倒しそうな幸運を、ちょっと負担に感じさせる。
 奥ゆかしいな、自分(笑)。

 コジコジハウスでの催しは月一回の定例であるらしく、店内は常連客の和気藹々とした空気に包まれていた。
 今日のお題は三つ。本日のテーマ“春爛漫ちょいと一杯”通り、お酒に関連した演目である。むろん、落語ビギナーの自分には初めて聞くものばかり。
○ 二人癖(ににんぐせ)
「つまらない」「一杯のめる」が口癖の二人が、互いの癖を禁じ合って賭けをする。なんとかして相手に口癖を言わせようと苦心惨憺するが・・・。
○ 夢の酒
 午睡中の夫の見た夢を追及する妻が、夢の中での夫の浮気に怒りまくる。義父に涙ながら訴え、夫の見た夢の続きを見てもらおうとするが・・・。
○ 棒鱈(ぼうだら)
 料亭で酔っ払った男が、隣の座敷の田舎侍ともめて大騒ぎに。仲裁に入った板前が手にしていたのは胡椒の容器だったから・・・。

 物語自体の面白さ(オチ)よりも、やはり味わうべきは演者の話芸である。
 身分、性別、年齢、性格、職業、言葉遣いの違う何人もの登場人物をどう演じ分けるか。声の大小・強弱・高低・緩急・間合いによってどうメリハリをつけて観客を最後まで引っ張っていくか。扇子や手拭をどう使うか。客席の空気をその都度読んでどう流れをつくっていくか。どこでアドリブを挿入するか。客席のどこに、誰に、何秒視線を向けるか・・・。
 日頃の稽古で身につけた技術と場数を踏んで身につけた勘を、冷静な状況判断で生かしていかねばならない。といって冷たい理知的な印象を与えては失敗である。お客様にはあくまでも飄々とユーモラスな余裕ある態度で接しなければならない。なにより客は笑いに来ているのであり、演者の計算が透けて見えるようでは笑いが生じる隙はないからである。

 さて、いちやはやっぱり達者であった。
 芸の技術的なところはよくわからないが、客の緊張をほぐす力が秀でている。それはもちろん身につけた技術のためでもあるが、やはり素材の力によるところが大きいと思う。天性の資質である。
 1メートル強の距離でまじまじといちやを観察できたことで、どうにも抗いがたいイケメン力を再認識することになった。
 肌が白くてきれい。
 歯が真珠のように白くてきれいに揃っている。(審美歯科済み?)
 瞳に茶目っ気があり小鹿のように潤んでいてきれい。(近眼のため?)
 意外に腕が太くて逞しい。(ラグビーをやっていたとか)
 顔立ちは確かに整っているのだが、芸能人クラスというほどではない。むしろ惹きつけられるのは愛嬌ある表情である。熊五郎や八五郎などのおっちょこちょいでひょうきんな人物を演じている時にたまに見せるドングリまなこの漫画チックな表情と、地の語りをするときの真面目な‘これイケメン’の表情とのギャップが愉快で、顔の変形率に目が離せなくなる。
「憎めないなあ~、この男」
 そこが噺家としてのいちやの一番の武器であろう。
 当初の照れ臭さをいつのまにやら乗り越えて、尻上がりに調子を上げてくるいちやの発する‘あったかいんだからぁ’オーラーに自分も会場もすっぽり包まれて、一体感のうちに高座は幕を閉じた。

「爺・・・。この私が誰かのファンになることはいけないことだろうか」
(by紫の薔薇族のひと)
紫の薔薇2
 



● いちやクンとの一夜♥ :落語二ツ目勉強会(池袋演芸場)

池袋演芸場とき  2015年1月27日(火)18時~
ところ 池袋演芸場
演目  「猫と金魚」    柳家花いち
     「たまげぼう」   柳家かゑる
     「三方一両損」  柳家鬼〆
     「鮑のし」     柳家喬の字
     「妾馬」      柳亭市弥

 晩飯を食う店を探して池袋西口(東武側)をウロウロしているところ、演芸場の前を通りかかり、何かに惹かれるように入ってしまった。入場料(木戸銭)1000円という価格も魅力であった。
 これまでプロの噺家によるナマの落語は見たことあるし、吉本のなんばグランド花月にも足を運んだことはある。だが、落語専門館いわゆる‘寄席’に入るのは人生初めて。
 体が笑いを必要としていたのか。
 それとも・・・・。

 途中からの入場。地下2階への階段を下りるとロビーには今やっている高座の音声が漏れ聞こえている。
 そっと扉を開けて場内を見渡すと、驚いたことに場内(93席)は8割がた埋まっていた。
 平日の夜でもあるし、現在落語がそんなに人気だなんて思っていなかった。それに、本日は「二ツ目勉強会」と銘打っている通り、前座と真打ちの中間に位置する「一人前ではあるがまだトリをつとめる力量はない。『笑点』をはじめとするテレビ出演にもそう簡単にはお声がかからない」若手たちの勉強会。落語ファンはともかく一般には名前や顔の知られている演者はいないはず。
 ?????
 空いている席を探す。舞台向かって右側、いわゆる上手の後ろのほうに腰かける。
 
 現在かかっているのは3人目の柳家鬼〆という若手の落語家。
 タカ&トシの片方のようないがぐり頭の威勢のよいアンチャン。口角泡を飛ばし一所懸命つとめている。ネタ(三方一両損)の内容も知らないし、途中からなので、いまひとつノレない。
 場内を見渡す。
 中高年が多いのは予想していたが、意外にも女子高校生と見まがうような若い女性もちらほらいる。勤め帰りのサラリーマン、OL、カップルの夫婦(愛人?)、しきりにメモを取る常連らしき人々。時折笑い声が上がって、なるほどさすが寄席。映画館とも芝居小屋ともコンサートホールとも異なるリラックスしたムードである。
 仲入り(休憩)をはさんで、残り二人の出番。
 
 柳家喬の字(やなぎやきょうのじ)。
 ちょっとふてぶてしい、と言うかしたたかな顔つきの実力派。
 演目に入る前の客席との‘波長あわせ’いわゆる‘まくら’がうまい。「自分の出番中にいつも携帯電話が鳴るんです」といった日常的な話で親しみ感・一体感を作り出す。そこからおもむろに演目に入る。
 うまい。
 声の出し方、登場人物の演じ分け、抑揚、大小、緩急、間の取り方。
 表情の変化、無駄のない・観る者を疲れさせない動き、扇子の使い方。
 最初から最後まで客を飽きさせないリズムを知っている。
 日夜、相当研究を重ね、稽古を積んでいるのだろう。
 さすが二ツ目である。
 調べてみると、彼は柳家さん喬の門下で、もともとはなんと(!)福祉畑で働いていた。福祉施設で8年間勤務し、介護福祉士・ケアマネ・社会福祉士を持つ三冠王、自分(ソルティ)の先輩である。ボケ役の上手いのも頷ける。しっかり認知症老人を観察していたのだろう。レクリエーションの名人だったことだろう。
 老人ホームや自治体主催の介護予防教室等でも講演(落語や漫談)をしているらしい。次は、そういったネタを聞きたいものだ。
 
 柳亭市弥(りゅうていいちや)。
 四代目柳亭市馬(りゅうていいちば)の弟子である。
 喬の字がかなり出来が良かったので、「このあとに出るのはつらいだろうな」と思った。
 お囃子にのって現れたのは、なんとまあ、紋付はかま姿も初々しい、人の良さそうなイケメン。しっかりして頼りがいがあるというより、支えてあげたくなるような母性本能をくすぐるような、いいとこの坊ちゃんタイプあるいは与太郎タイプ。
「へえ~、彼がトリか、大丈夫かな・・・」(すでに母性本能くすぐられている)
 ‘波長あわせ’はうまい。自分の足りなさ加減をネタにして笑いをとっていく。観客を味方に引き入れる。

 喬の字が技巧と計算の努力家とすれば、市弥は素材と才能に恵まれた天才肌ではないだろうか。
 たぶん、喬の字は何をやっても常に質の高いレベルの高座が保てると思う。安定した笑いを生み出せると思う。一方、市弥は技術も客席との駆け引きもうまいことはうまい。が、それ以上に何か神がかり的なものを感じさせる。噺の最高潮の場面で、どうも登場人物が市弥に‘憑依’しているのではないかと思わせるような、役への没入が感じられる。その瞬間こそ、市弥がもっともオーラに包まれる時であり、観客が演者の姿以外まったく目に入らなくなる時である。(目がはなせない!)
 演目の「妾馬」は、殿様に見初められて輿入れし目出度く懐妊した妹に会いに行く、やくざでちょと抜けている兄貴・八五郎の話である。礼儀も作法も口の利きかたも知らない貧乏長屋の八五郎が、立派なお屋敷に出向いて殿様にお目にかかり、ご馳走になる。この対極的な世界のギャップが笑いを生み出す。
 八五郎が普段呑んだことのないような極上の酒を口にしたあたりから、‘憑依’は始まる。
 お坊ちゃま風情(世田谷生まれ、玉川大学出身、広告代理店で働いていた)で、31歳(1984年生まれ)にしてあどけなさの残る市弥が、貧乏で酒飲みで礼儀知らずで不調法な(だが母親と妹思いの)八五郎として、まったく違和感ない。八五郎がそこにいてくだを巻いているのに観客はつきあってしまう。
 なぜなら八五郎の心が演じられているからである。
 これは計算や稽古ではなかなかできないことであろう。
 喬の字が姫川亜弓とすると、市弥は北島マヤである。(だから、彼の欠点はおそらくうまく仮面がかぶれなくなった時であろう。)
柳亭市弥 噺が済んだあと、客席の中年女性が舞台上におひねりを乗っけていた。特定ファンがついている。若い女子たちもそうなのだろう。
 
 この容姿。この芸。
 おじさん(ソルティ)もすっかりファンになってしまった。
 また、会いに行くからな~。
  (from 紫の薔薇族の人) 

紫の薔薇

  
    

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