ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

柳家喬の字

● コイの勘違い :すがも巣ごもり寄席(@スタジオフォー)

日時 2016年8月17日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(東京都豊島区)
演者と演目
  • 瀧川鯉丸:『片棒』
  • 柳家喬の字:『紙入れ』
  • 古今亭駒次:『夏』
  • 桂三四郎:『まったくの逆』

 台風一過の蒸し風呂の猛暑。笑って暑さを吹き飛ばそう。
 巣鴨まで足を運んだ。
 
 本日は、一度は聞いたことがあり文句なしに面白かった三人の二ツ目(合わせて六ツ目)――瀧川鯉丸、柳家喬の字古今亭駒次――揃っての出演とあって期待大だった。
 が、いつものように入場時に配られた高座案内チラシの中の‘とっちゃんぼうや’の写真を見て、間違いに気づいた。ソルティの笑いのツボに鋭く銛を打ち込み、際限ないヒキツケを引っ張り出したのは、瀧川鯉丸ではなくて、瀧川鯉八であった。
 なんてまぎらわしい・・・・・。
 どちらも瀧川鯉昇(りしょう)の弟子なのだから仕方ないのだが。
 鯉丸は昨年4月に二ツ目になったばかりの29歳。鯉八より6つ下である。
 人の良さそうな‘とっちゃんぼうや’な笑顔はご婦人客に愛されるかもしれない。
 頑張れ!
 
 喬の字の『紙入れ』は手堅くかつ流暢であった。さすが4人の中で一番貫禄を感じさせた。
 以前聞いたときは――演目に寄るのかもしれないが――正統的で教科書どおりの折り目正しい高座という印象をもったが、今回聞くと少し‘くずれた’ような気がした。
 と言っても、芸が崩れた(粗雑になった)というのではない。肩の力が抜けて、本人の地のキャラ(=個性)が表に出てきているように思った。
 で、それは結構過激でエロいのではないかと――。
 今後どうはじけていくのか見守りたい。

 古今亭駒次。
 「鬼才」と言っていいんじゃないか。
 その高座は、長年の修行によって身に着けた芸の披露というより、もともとの彼の顔立ちが‘噺家として立つ’つもりなら天からの贈り物であるのと同じように、子供の頃からのもともとの喋り方、もともとのキャラクター、もともとの作り話好き、もともとの演じ好きを、100%そのまま舞台に移しただけという感じがする。つまり、黒柳徹子とか平野レミみたいな天然の話好き、天性の喋り上手ってことだ。小学校・中学校・高校と休み時間にいつも教室内で人垣を前にやっていた駒次ひとり劇場の、あるいは―――こっちのほうが的を射ていそうな気がするが――鉄道好きの男たちが周囲の冷たい視線も省みずに口角泡飛ばして好きな列車の話をしているオタクトークの延長が、駒次の高座なんじゃないかという気がする。
 今回駒次はネタを途中で間違えた(セリフを数行飛ばしてしまった)。けれど、まったくそれが瑕疵にならないのである。むしろ、それすら面白い。観客はネタそのもののおかしさは別として、彼の躁病的な話しぶりに気をとられてしまう。マンボのように軽快で景気のいいリズムや、次々と押し寄せるギャグの波状攻撃に呑み込まれてしまう。
 これで古典落語をやったらどうなんだろう?
 噺家としての真価はやはり古典落語で問われるのでは?
 ――という意地悪の一つも言いたくなるくらい、文句なしにこの日一番のウケであった。
 
 桂三四郎は、六代桂文枝(まだまだ桂三枝と言ったほうがピンと来る)の弟子。
 1982年生まれ(34歳)、関西出身の体育会系(レスリングをやっていた)のイケメン。
 『まったくの逆』は新作落語。反対語を探すという言葉遊びの面白さがテーマとなっている、意外に(失礼か?)知的なネタである。つかみ(マクラ)とネタの境目がないのは関西風?
 三四郎には観客の気を掴んで離さない握力がある(柔道の話か)。師匠から学んだか、レスリング好きな男だからもともと闘争好きなのか。師匠と同じ道、テレビタレントが向いていそうなキャラである。

 次は、鯉八を聞くぞ~!
 
 
 
 
 
 
 

● ‘それほどでもない’たみちゃん! 落語:すがも巣ごもり寄席

とげぬき地蔵通り 001

 巣鴨の庚申塚のすぐ近くにスタジオフォーというイベントスペースがある。
 ここで毎週水曜の午後、巣立ちのときを待っている若手芸人(いわゆる二ツ目)4人を招いて寄席が開かれる。(木戸銭1000円)
 5月13日(水)にはイチヤ(ついに呼び捨てか!)こと柳亭市弥が出演するので、初夏の日差しの中、出かけることにした。
 
 JR山手線大塚駅から昔懐かし路面電車(チンチン電車)都電荒川線に乗り換えて、二つ目の庚申塚で降りる。「オバチャンたちの原宿」として有名な巣鴨とげぬき地蔵通りに入る手前の交差点を左折すると、すぐに建物は見つかった。
 中に入ると、それほど広くないスペースに青い毛氈を敷いた高座と折りたたみの椅子が20脚ほど並んでいた。
 開演前にはすべての席は埋まった。中高年女性が多かったが、自分と同じイチヤ目当て?
 
 本日の出演者と演目
1. 柳家緑君(ろっくん):唖しの釣り 
2. 柳亭市弥:紙入れ
3. 瀧川鯉八:暴れ牛奇譚
4. 柳家喬の字:うなぎの幇間(たいこ) 

 本来ならば、イチヤが一番手で、二番手・鯉八、三番手・緑君、喬の字がトリの予定であった。
 が、やってくれました。
 開演時間の13時にイチヤと鯉八が会場に到着していなかったのである。二人揃って遅刻である。
 で、すでに会場に来ていた真面目な緑君が、急遽一番手をつとめることになった。
 こんなこともあるのだな。
 
 貧乏くじをひいた緑君。
 余裕を持って会場入りし準備万端整えるつもりであったろうに、いきなりの出番。それもイチヤか鯉八かどちらかが到着するまで、場をつないで時間稼ぎしなければならない羽目になった。戸惑いを隠せぬ様子で登壇した緑君は、事情を説明し、雑談を始めた。演目に入ってしまうと、もう時間稼ぎのしようもないから、雑談で観客を楽しませなければならない。
 緑君はまだ25才。なんという試練が待ち受けていたことか。
 でも、良く頑張った。
 若者らしい友達ネタや趣味ネタ(歴史が好きらしい)で観客を楽しませてくれた。演目をやる数倍も疲れたことだろう。言ってみれば、セリフが入ってないのに初日の舞台に立った役者みたいなものだ。アドリブで切り抜けるほかない。
 イチヤの到着の合図を受けて、ホッとした表情でやおら『唖しの釣り』に突入した。 
 まあ、こういったアクシデントを経験して、真に力量ある噺家に成長するのだろう。
 敢闘賞!
 
 イチヤは開演時間を間違えたのだと言う。13時開演を13時半と勘違いして上野の鈴本演芸場にいたとか。この「巣ごもり寄席」には過去何回か出ているはずだのに・・・・・。
 やっぱり天然だ。
 ばつが悪そうに観客に頭を下げたあと、高座に入る。
 やりにくいのはイチヤも同様だ。人の良さそうな若い緑君の脂汗たらたらの苦労を目の当たりにしている観客は、イチヤに自然厳しい視線を送る。大事な高座に遅刻して主催者(スタジオフォー)や他の出演者をハラハラさせ迷惑をかけたイチヤ自身も、平常心というわけにはゆくまい。
 一体どうなることやら。
 ・・・・という心配をよそにイチヤはやっぱりイチヤであった。 
 顔つきこそいつもと違い、どことなく情けない準イケメンふう(当然だろう)ではあったものの、ひとたび演目が始まって、世話になっている旦那の目を盗んでそのお内儀(妻)と密通する小間物屋の新吉のセリフを口にするや、いつものごとく、すっと役柄に入り込んでしまい、観客もいつのまにか江戸の下町にいる自分を発見するのであった。
 もしかしたら、本来用意していた演目は別だったのかもしれない。この「紙入れ」はイチヤの一番得意とするものなのかもしれない。自分の遅刻によって巻き起こした情況をみて、一番の安全牌にして鉄板のネタを持ってきたのかもしれない。
 そんなふうに思えるほど、安定した芸と笑いを提供した。
  そう、これが正解だ。
 遅刻した上に出来の悪い落語を披露したのでは、木戸銭払った観客に愛想つかされても仕方あるまい。遅刻したからこそ、気持ちを切り替えて、いつもより気の入った落語を提供すべきである。 
 意外に大物だよ、この人は。
 
 本日一番ウケていたのは三番手の瀧川鯉八であった。自分も一番笑った。
 登場した瞬間に会場の雰囲気を変えてしまうその独特の顔、独特の動き、独特の存在感、独特の間。オタク系とでもいうのか。片桐ハイリ系か。この濃いキャラは希少価値だ。一度聴いたら、決して忘れられない。
 演目(暴れ牛奇譚)も新作落語、つまり本人が自分で作ったものらしい。
 村を救うために暴れ牛の生贄に選ばれた「それほどでもない(=ブス)」キャラたみちゃん。
 これが強烈にツボにはまる。ゲイ的感性を持つ人なら、このノリはたまんないだろう。
 すごい二ツ目がいたもんだ。同じ二ツ目仲間のみならず、真打ちの落語家連中をも青ざめさせるに十分な才能と思われる。
 イチヤとは別の意味でファンになりそう。(ちなみに遅刻の理由は「二度寝」だと)
 
 トリは喬の字。
 前回池袋演芸場で聞いて、その実力のほどは知っていた。
 が、今日は調子が良くなかったのか、前回ほどの集中力を欠いていたようだ。(顔もなんだか浮腫んでいた・・・) 
 また、この「うなぎの幇間」という演目は、難しいわりには面白くない。
 どうしてこの演目を選んだのか奇妙な気がした。 
 自分に合ったネタ、その日の調子に合ったネタ、会場に合ったネタ、その日の観客に合ったネタ、他の出演者の演目とバランスのとれたネタ、いろんな条件に合った演目を選ぶのは難しいものだろうな。
 
 終演後は、とげぬき地蔵通りを巣鴨駅まで歩いた。
 昔懐かしい昭和の商店街の風景に心がほぐれた。

とげぬき地蔵通り 009

とげぬき地蔵通り 003

とげぬき地蔵通り 004
 
とげぬき地蔵通り 006

 
とげぬき地蔵通り 007
 
 

 

● いちやクンとの一夜♥ :落語二ツ目勉強会(池袋演芸場)

池袋演芸場とき  2015年1月27日(火)18時~
ところ 池袋演芸場
演目  「猫と金魚」    柳家花いち
     「たまげぼう」   柳家かゑる
     「三方一両損」  柳家鬼〆
     「鮑のし」     柳家喬の字
     「妾馬」      柳亭市弥

 晩飯を食う店を探して池袋西口(東武側)をウロウロしているところ、演芸場の前を通りかかり、何かに惹かれるように入ってしまった。入場料(木戸銭)1000円という価格も魅力であった。
 これまでプロの噺家によるナマの落語は見たことあるし、吉本のなんばグランド花月にも足を運んだことはある。だが、落語専門館いわゆる‘寄席’に入るのは人生初めて。
 体が笑いを必要としていたのか。
 それとも・・・・。

 途中からの入場。地下2階への階段を下りるとロビーには今やっている高座の音声が漏れ聞こえている。
 そっと扉を開けて場内を見渡すと、驚いたことに場内(93席)は8割がた埋まっていた。
 平日の夜でもあるし、現在落語がそんなに人気だなんて思っていなかった。それに、本日は「二ツ目勉強会」と銘打っている通り、前座と真打ちの中間に位置する「一人前ではあるがまだトリをつとめる力量はない。『笑点』をはじめとするテレビ出演にもそう簡単にはお声がかからない」若手たちの勉強会。落語ファンはともかく一般には名前や顔の知られている演者はいないはず。
 ?????
 空いている席を探す。舞台向かって右側、いわゆる上手の後ろのほうに腰かける。
 
 現在かかっているのは3人目の柳家鬼〆という若手の落語家。
 タカ&トシの片方のようないがぐり頭の威勢のよいアンチャン。口角泡を飛ばし一所懸命つとめている。ネタ(三方一両損)の内容も知らないし、途中からなので、いまひとつノレない。
 場内を見渡す。
 中高年が多いのは予想していたが、意外にも女子高校生と見まがうような若い女性もちらほらいる。勤め帰りのサラリーマン、OL、カップルの夫婦(愛人?)、しきりにメモを取る常連らしき人々。時折笑い声が上がって、なるほどさすが寄席。映画館とも芝居小屋ともコンサートホールとも異なるリラックスしたムードである。
 仲入り(休憩)をはさんで、残り二人の出番。
 
 柳家喬の字(やなぎやきょうのじ)。
 ちょっとふてぶてしい、と言うかしたたかな顔つきの実力派。
 演目に入る前の客席との‘波長あわせ’いわゆる‘まくら’がうまい。「自分の出番中にいつも携帯電話が鳴るんです」といった日常的な話で親しみ感・一体感を作り出す。そこからおもむろに演目に入る。
 うまい。
 声の出し方、登場人物の演じ分け、抑揚、大小、緩急、間の取り方。
 表情の変化、無駄のない・観る者を疲れさせない動き、扇子の使い方。
 最初から最後まで客を飽きさせないリズムを知っている。
 日夜、相当研究を重ね、稽古を積んでいるのだろう。
 さすが二ツ目である。
 調べてみると、彼は柳家さん喬の門下で、もともとはなんと(!)福祉畑で働いていた。福祉施設で8年間勤務し、介護福祉士・ケアマネ・社会福祉士を持つ三冠王、自分(ソルティ)の先輩である。ボケ役の上手いのも頷ける。しっかり認知症老人を観察していたのだろう。レクリエーションの名人だったことだろう。
 老人ホームや自治体主催の介護予防教室等でも講演(落語や漫談)をしているらしい。次は、そういったネタを聞きたいものだ。
 
 柳亭市弥(りゅうていいちや)。
 四代目柳亭市馬(りゅうていいちば)の弟子である。
 喬の字がかなり出来が良かったので、「このあとに出るのはつらいだろうな」と思った。
 お囃子にのって現れたのは、なんとまあ、紋付はかま姿も初々しい、人の良さそうなイケメン。しっかりして頼りがいがあるというより、支えてあげたくなるような母性本能をくすぐるような、いいとこの坊ちゃんタイプあるいは与太郎タイプ。
「へえ~、彼がトリか、大丈夫かな・・・」(すでに母性本能くすぐられている)
 ‘波長あわせ’はうまい。自分の足りなさ加減をネタにして笑いをとっていく。観客を味方に引き入れる。

 喬の字が技巧と計算の努力家とすれば、市弥は素材と才能に恵まれた天才肌ではないだろうか。
 たぶん、喬の字は何をやっても常に質の高いレベルの高座が保てると思う。安定した笑いを生み出せると思う。一方、市弥は技術も客席との駆け引きもうまいことはうまい。が、それ以上に何か神がかり的なものを感じさせる。噺の最高潮の場面で、どうも登場人物が市弥に‘憑依’しているのではないかと思わせるような、役への没入が感じられる。その瞬間こそ、市弥がもっともオーラに包まれる時であり、観客が演者の姿以外まったく目に入らなくなる時である。(目がはなせない!)
 演目の「妾馬」は、殿様に見初められて輿入れし目出度く懐妊した妹に会いに行く、やくざでちょと抜けている兄貴・八五郎の話である。礼儀も作法も口の利きかたも知らない貧乏長屋の八五郎が、立派なお屋敷に出向いて殿様にお目にかかり、ご馳走になる。この対極的な世界のギャップが笑いを生み出す。
 八五郎が普段呑んだことのないような極上の酒を口にしたあたりから、‘憑依’は始まる。
 お坊ちゃま風情(世田谷生まれ、玉川大学出身、広告代理店で働いていた)で、31歳(1984年生まれ)にしてあどけなさの残る市弥が、貧乏で酒飲みで礼儀知らずで不調法な(だが母親と妹思いの)八五郎として、まったく違和感ない。八五郎がそこにいてくだを巻いているのに観客はつきあってしまう。
 なぜなら八五郎の心が演じられているからである。
 これは計算や稽古ではなかなかできないことであろう。
 喬の字が姫川亜弓とすると、市弥は北島マヤである。(だから、彼の欠点はおそらくうまく仮面がかぶれなくなった時であろう。)
柳亭市弥 噺が済んだあと、客席の中年女性が舞台上におひねりを乗っけていた。特定ファンがついている。若い女子たちもそうなのだろう。
 
 この容姿。この芸。
 おじさん(ソルティ)もすっかりファンになってしまった。
 また、会いに行くからな~。
  (from 紫の薔薇族の人) 

紫の薔薇

  
    

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