日時 平成27年3月28日(土)
会場 ルネこだいら大ホール(小平市)
演目 神歌 梅若万佐晴
狂言「柿山伏」 山伏 野村萬斎
畑主 高野和憲
能「恋重荷」 山科荘司 梅若万三郎
女御 長谷川晴彦
臣下 高井松男
従者 石田幸雄
西武新宿線小平駅南口にあるルネこだいらは1229名収容の大ホールがある。
西武新宿線小平駅南口にあるルネこだいらは1229名収容の大ホールがある。
こんな大きなホールで能楽や狂言が果たして楽しめるものだろうか。後方の席から演者のこまかい所作や表情や小道具の扱いが見えるものだろうか。演者の声は届くだろうか。
――といった心配は杞憂であった。
たしかに自席の2階席後方までは演者の発する‘気’は十分には届かなかった。が、ステージ上につくられた能舞台を、下手の揚げ幕から橋掛かり、四つの柱に囲まれた舞台全体まで隈なく見下ろすことができ、演者の動きも声もちゃんと確かめることができた。
――といった心配は杞憂であった。
たしかに自席の2階席後方までは演者の発する‘気’は十分には届かなかった。が、ステージ上につくられた能舞台を、下手の揚げ幕から橋掛かり、四つの柱に囲まれた舞台全体まで隈なく見下ろすことができ、演者の動きも声もちゃんと確かめることができた。
というのも、このホールは客席が相当の急傾斜になっていて、一番後ろの席でも舞台が真近に感じられるのである。そのぶん場内は急な階段が多く、今日のような高齢者の観客の多い催し物のときには足の弱い来場者は苦労することになる。痛し痒し。
会場は9割がた埋まっていた。例によって中高年の女性が多い。日本の男が風流を解せなくなって久しい。定年離婚が増えるわけだ。
用意してきた双眼鏡を手に、ここぞというところでアップにし、またロングに戻し、十分に舞台を堪能した。
狂言「柿山伏」はたしか学校で習ったおぼえがある。中学だったか高校だったか。平成23年度からは光村図書の小学6年生の国語の教科書に採用されているそうだ。
さもありなん。はじめて狂言にふれる人にはこれは恰好の作品だろう。筋がわかりやすく、面白くて、セリフもやさしく、子どもでも十分楽しめる。犬の鳴き声をあらわす擬音語「びょう~、びょう~、びょう~」なぞ、クラスで流行りそうだ。
狂言や落語など伝統芸能の面白さは、今日のテレビ的面白さとはまったく異なる。
昨今のテレビは、タレントの磨かれた芸を見せるという機能をすっかり失ってしまった。ドラマに役者の演技力は求められない。歌番組は廃れてしまった。お笑いは漫才や落語やコントよりもバラエティ番組の中で追求されるようになった。そのお笑いも、出演者同士の中傷合戦、暴露合戦を中心とする内輪ネタと下ネタばかり。下品だの子供には見せたくないだのと世の母親たちの不興を買ったドリフターズの『8時だよ、全員集合!』のほうがまだ芸があった。
こうした流れは80年代漫才ブームあたりから顕著になったように思うのだが、テレビの影響はやはりバカにできない。若者たちの会話スタイルや集団内におけるコミュニケーションの様式などは、バラエティ番組の出演者たちのそれらが模倣されている。‘受け’狙い至上主義とか、話題の転換の速さとか、同調性を大切する(たとえばKY)とか・・・。そこでの面白さとは、より新奇な話題、珍キャラ、気の利いた即座のレスポンス、沈黙の拒否(あたりまえだ。テレビでの音声途切れは放送事故であるから)、それに深刻さの回避である。仲間との飲み会だけでならそれも結構だが、これ以外の会話スタイルやコミュニケーションの様式を学ばずに成人となる人々が増えているような気がする。バラエティ番組の功罪といったら大げさか。
ともあれ、落語や狂言など伝統芸能の面白さは、バラエティ番組の面白さの対極にある。
あらかじめ決まった筋書き、決まった衣装と道具立て、大方決まった所作とセリフと表情、決まったオチ、笑いのツボさえはじめから観客は熟知している。ある意味、偉大なるマンネリズムだ。
しかし、なぜそれが何百年と命脈を保ってきたのかと言えば、演者の磨きぬかれた優れた‘芸’を味わう面白さが根本にあるからである。
声の出し方や抑揚、セリフ回し、共演者との呼吸や間合い、沈黙と殷賑の緩急、観客の視線や気持ちのリズムを心憎いまでに分析し計算したうえで効果的に練り上げられた所作や表情や小道具の使用・・・。
山伏役の野村萬斎はいまもっとも人気のあるメディアへの露出度の高い狂言師だが、名に恥じぬ実力のさまを見せつけてくれた。
能「恋重荷」は初見である。
時は平安末期。白河院の若く美しい女御に一目惚れした下仕えの老いた男の物語。
男は菊畑の世話が仕事というから、おそらくは非人であろう。仕事の合間にふと御簾の内の女御を見る光栄に浴した。それからというもの仕事も手につかず、恋の病に苦しんでいる。
身分違いに加え、年齢差もある。相手は美しく自分は醜い。叶わぬ恋ははじめから分かっている。だけど、もう一度その姿を拝めたら・・・。
そんな老人の苦しみを知ってか知らずか、善意からか戯れからか、女御は「恋をあきらめさせようと」老人に難題をふっかける。美しい布で包んだ荷を持ち上げて、庭を百度も千度も回って見せれば、もう一度姿を見せましょう、と。
それを本気にした老人は、重荷を持ち上げようと苦難し、力尽きて命を落とす。
男の死を聞いて哀れんだ女御の前に、老人は怨霊となって現れるが・・・。
ともすれば滑稽に終わりそうな、喜劇として扱われそうな‘老いらくの恋’というテーマを、ここまで真面目に、ここまで深く掘り下げた世阿弥の凄さに驚嘆する。
老人・山科荘司を演じるのは梅若万三郎。1941年生まれだから、現在74歳。むろん、‘老いらくの恋’の何たるかを十二分に体験し知っているであろう。長年の厳しい鍛錬で身についた至高の芸に加えて、人生経験がものを言う舞台である。
叶わぬ恋に身を灼く男の身の捩られるような苦しみ、老残の身で感情に負けてしまった愚かさと羞恥、その背後に隠れた密やかなる生のよろこび。そんな複雑な感情を、梅若は実にこまやかに丁寧に表現する。それも、ほんのちょっとした所作と声の抑揚だけで!
足を半歩引く、上体をほんの少し揺らす、首を傾ける、着物の袂を払う・・・そんな観客がともすれば気づかずに見逃してしまうような、ささいな所作一つ一つが、山科荘司の心のうちをありありと映し出す。鋭い観客はそこに読みとった感情を、梅若のかぶる能面に映し出す。すると、能面が生きてくる。
実に高度な技である。
後半(後ジテ)、怨霊となった山科荘司は、自分をからかった憎き女を前にして今こそ取り憑いて仕返ししてやろうと猛り狂う。が、哀れみの情を浮かべる女御をひとたび目にするや、恨みの念は凍結し、やっぱりそこは愛しい人、憎みきれずに許してしまう。この感情の変化(怒り→恨み→報復の機会を得たよろこび→躊躇→葛藤→断念→放擲→放心→ふたたびの恋慕→あきらめ→受容→許し→女御の幸せを祈る思い)を、顔の表情にも頼らず、過剰な演技にも頼らず、セリフにも頼らず(というのも能面でくぐもった声では何を言っているかわからない)、まったく無駄のない最小限度の所作と謡いの調子だけで表現しきっていくのだから、ほんとうに凄い。
双眼鏡で覗いている目から、はからずも落涙した。
報復をやめた山科の霊は、女御を残し橋掛かりをひとり静かに去っていく。その後姿の気高さこそ、いかなる身分をも超えた「人としての高み」であろう。
恋よ恋。我が中空(なかぞら)になすな恋。恋には人の死なぬものかは。(はずみで恋などしてはならない、恋で人が死ぬこともあるのだから。)