ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

橋本治

● 追悼・橋本治 平成と共に去る

作家橋本治さんを追悼し、以前ソルティが書いた『巡礼』(2009年刊行)の書評を再掲します。

巡礼


 本小説は、作家橋本治最良の仕事の一つであり、10年いや20年に一冊出るか出ないかの傑作である。
 完成度の高さ、テーマの今日性と掘り下げの深さ、魂を揺るがす感動の結末。
 最近の小説は興味が湧かなくて全然読んでいない自分。論ずる資格のないことは重々承知の上、あえて言おう。
 平成文学の金字塔である
 実際、この小説一冊読めば、昭和・平成を生きてきた日本人の何たるかを知ることができる。橋本の筆は、それをも超えて人間存在の本質にまで達している。誰もが眉を顰め目をそむけ鼻を覆うゴミ屋敷の主という醜怪な題材を扱って、まさにゴミの中から宝を探り当てた。真実という宝を。

 いまはひとりゴミ屋敷に暮らし、周囲の住人達の非難の視線に晒される男・下山忠市。戦時中に少年時代を過ごし、昭和期日本をただまっとうに生きてきたはずの忠市は、どうして、家族も道も、見失ったのか――。(裏表紙の紹介文より)


 『巡礼』『』『リア家の人びと』の昭和三部作を読み終えて思うのは、橋本が描き出そうとしてきたものは、つまるところ「家族」であり、その終焉であったということだ。豊かさの実現の先に待っていた「関係の不毛」と「生の虚妄」にあったのだ。
 その意味で、橋本三部作はまるで、戦後間もない頃に『晩春』『東京物語』『麦秋』という傑作三部作を撮った小津安二郎がそれらの作品を通じて予言していたものの具現であるように思われる。小津の透視力の凄さを証明しているかのように思われる。
「小津監督、あなたは正しかった。日本は、日本人は、こんなふうになりました」と。
 文体そのものも、小津のそれのように、対象から適度な距離をおいて淡々と、しかし無関心でも冷淡でもなく、あくまで慈悲深い。‘諦念’とでも言いたいような境地に達している。

 最も感動的な場面は、ご近所界隈の騒動に過ぎなかったものがマスコミに取り上げられ、しまいには「名所」にまでなった忠一のゴミ屋敷に、テレビ報道を見た弟の修次が母親の葬儀以来9年ぶりに帰ってくるシーンである。

 「兄ちゃん!」と言われて、忠市は振り向いた。長い歳月がその二人の間にはあって、忠市には、自分が「いつの時間」にいるのかが分からなかった、目の前には、見知らぬ白髪頭の男が汗を流して立っていて、それを見る自分の耳には、誰とも知れぬ少年の声が聞こえて来る。それが不思議だった。


 この場面、映画にしたらまさにクライマックス。涙なしで観られない名場面になろう。
 忠市役は蟹江敬三がベストだと思うのだが、亡くなってしまったのが返す返すも残念。西島秀俊なんかどうだろう。修次役は土田晃之がいい。あるいは高島兄弟で共演というのもありか。監督は天願大介か石井岳龍(聰亙)。
 ああ、観たいなあ。


 ゴミ屋敷の主人・忠市にとってゴミとは何だったのか。

 自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かってはいる。しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう? 自分には、もうなにもすることがない。片付けられて、すべてがなくなって、元に戻った時、生きて来た時間もなくなってしまう。生きて来た時間が、「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
「無意味」は薄々分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった。「自分のして来たことには、なにかの意味がある」――そう思う忠市は、人から自分のすることの「無意味」を指摘されたくはなかった。「それは分かっているから、言わないでくれ」――そればかりを思って、忠市は一切を撥ねつけていた。


 ゴミとは、不必要なもの・役に立たないもの・意味を失ったもの――の象徴である。
 ただ一人老いた忠市は、自分の人生が無意味で、自分という存在が誰からも必要とされないものであることを、心の奥底で感じている。だけど、それは認めたくない。認められない。
 だから、自分の分身であるゴミを、あたかも意味あるもののごとく収集する。人生意気に感じていた「日々」を、家族の中で役割を持っていた「過去」を、ひたすら回収して積み上げる。ゴミという壁を幾重にも周囲に巡らして、今現在のありのままの孤独と空虚を覆い隠す。
 読む者は、忠市の姿に他人行儀でいることは許されない。
 なぜならそれは、物資的豊かさの追求の果てに希望や目的を喪失し、個人主義の成就の果てに関係性を喪失した、我々平成人の姿にほかならないからである。


 修次との再会によって忠市は関係性を取り戻し、修次と共にゴミ屋敷の掃除を始める。忠一の孤独を誰よりも良く知る実の弟だからこそ、それは可能だった。近所の人々もホッと胸を撫でおろす。
 しかし、橋本が凄いのはそこで「終わり」としないところである。
 忠市とは対照的に良い家族に恵まれ、孤独とは無縁な幸福な人生を送ってきたかに見える修次もまた、子供たちが独立し、妻を失い、老年を迎えた今、人生に迷いを感じている。 

長男は結婚し、長女の望も結婚した。気がついたら、一人になっていた。孫も生まれ、父となった長男の輝義は、「一緒に住もう」と言ったが、修次は迷っていた。自分が何者で、なぜこの世に生まれて来たのかを、ふっと思った。なぜそれを考えたのか分からない。ただ、「それを知りたい」と思って、「四国へ行きたい」と思った。

 家を片付け終えた忠市と修次は、連れ立って四国八十八ヶ所の遍路に出る。
 その二日目の夜に泊まった宿で、忠市は何の前ぶれもなく、あっけなく逝ってしまう。
 おそらくは、日本文学史上まれに見る途轍もない重みを持つ一節が、せせらぎのような透明感ある文章に乗せられて、物語はつと終わる。


「自分はもう、ずいぶん昔から、ただ意味もなく歩き回っていたのかもしれない」と思った時、忠市の体は、深い穴に呑まれるようにしてすっと消えた。「生きる」ということの意味を探るため、弟と共に歩き始め、「自分がなにをしている」とも理解しなかった忠市は、自分が巡るあてもない場所を巡り歩いていたと理解した時、仏の胸の中に吸い込まれていった。 
 
 弟との再会によって忠市の「関係性」は復活した。
 けれど、「意味」は最後まで見出せなかった。

自分で自分を救えぬ者の前に(仏は)現れるというわけか?
(山岸涼子『日出処の天子』より聖徳太子のセリフ)



橋本治さんのご冥福を祈ります。







● プレイボーイの報復 本:『バカになったか、日本人』(橋本治著)

2014年集英社刊行
2017年集英社文庫化

 橋本治が、東日本大震災以降の天下国家を読み解いた社会評論である。
 と言うと、難しく堅苦しいものを想像するかもしれないが、そこは橋本らしく、ドジョウのようにつかみどころの無いぬらりくらりした平易な文章で、重要なことをさらりと言ってのける。データや専門用語や理屈を駆使する評論(たとえば桜井よしこ)とは一線を画している。評論と言うより「巫女の宣託」に近いかもしれない。

 内容はともかく、ちょっと意外に思ったことが二つ。

 一つは、橋本治が東日本大震災の数ヶ月前から病気を患って入院していたこと。それも4ヶ月近くの入院というから大病である。毛細血管が炎症を起こしてただれるという数万人に一人の難病らしい。
 なんとなく、橋本治のような柔軟な知性を持つ人間は大病しないんじゃないかという勝手なイメージがあった。というより大病してほしくないという願望か。ソルティもまた、心(性格)と病には無視できない深い関連があると思っている一人なので、それを覆すようなケースに出遭うと違和感を持ってしまうのだ。といって、橋本治のことをよく知っているわけでもないのだが・・・。

 もう一つは、本書に納められている評論の半分くらいが集英社の雑誌『週刊プレイボーイ』に掲載されたものであるという点。
 まず、2017年現在における『週刊プレイボーイ』の意味というのがソルティにはようわからん。列車の中吊り広告を見るたびに、「よく続くよな~」「だれが買うのか?」「集英社さんはもはや意地で出しているんだろうな~」と思う。現に、広告の吊ってある列車内でも、若い男がいるソルティの職場でも、『週刊プレイボーイ』を読んでいる奴なんて見たことない! いるとしても家でこっそり読んでいるのだろう。それは「エロが恥ずかしい」というのではなくて、「週刊誌を読む、週刊プレイボーイを読む」若い男というのがいまやマイノリティに転じてしまったためである。
 エロ、車、スポーツを3大柱とし若い男のズリネタ兼「男社会」の通過儀礼的存在だったかつての『週プレ』黄金時代を知る者にとっては、この凋落は凄まじい。書籍・雑誌など活字文化の衰退の原因はネットの登場がもちろん大きいのだろうが、男も変わったのである。
 で、どこの誰が読んでいるのかよく見えない『週刊プレイボーイ』に橋本治の連載コーナーがある(あった)というのが意外である。橋本治と『週刊プレイボーイ』の座標上の位置はまったく逆、というイメージがあるからだ。

 橋本治は文壇登場の最初から「男社会の異端児、はぐれ鳥、超越者、反逆者、アウトサイダー」といったような立脚点を武器にして創作活動を行ってきた。それゆえ、これまた一つの男社会の縮図である文壇において決して主流にはなれなかった。1977年デビューの橋本が、『桃尻語訳 枕草子』や『窯変 源氏物語』など数々の話題作やベストセラーを発表してきたにもかかわらず、大きな賞をもらうようになったのは2000年代に入ってからだというのがその証拠であろう。男社会の外側に立って男社会の奇矯さや欺瞞性を打つ橋本治が、男社会において‘正当な’評価を受けるはずはなかった。

 バブル崩壊の頃だったと思うが、橋本治が何の雑誌だったか忘れたが青年コミック誌に評論を書いているのを読んだことがある。よっぽどの大作家でなければ自分から発表媒体を選ぶのは難しいであろうから、編集サイドが橋本に原稿を依頼したのであろう。読者層とその傾向を知悉している編集サイドは「橋本治の書いたものを読者の男たちに読んで貰いたい」と思ったのである。なので、同じ若い男をターゲットにする『週刊プレイボーイ』掲載は、唐突なものではなく、この延長上にある。そう考えれば意外なことではない。編集サイドに橋本治のシンパがいるのだろう。
 「ず~っと男社会の鬼っ子であった橋本治が、少しずつその牙城を突き崩し、ついに週プレという男社会の本丸に入り込んだ」と考えると、ある種の小気味よさにも似た感慨をソルティは抱くのであるが、一方で、「いったい青年コミック誌や『週プレ』の若い男の読者が橋本治の書くものを理解できるのだろうか? 共感できるのだろうか?」という不思議もある。
 失礼を言っているだろうか。
 たぶん、この不思議の解明は、「今や青年コミック誌や『週プレ』の一番の購読層は若い男ではなくて、若い時分からそれらをずっと読み続けている30代、40代以上のオジサンだ」というところにあるような気がする。男社会で働いてきて、妻や子供に日々なじられて、いい加減「男」であることに疲れてきたオジサンたちが、他の論理を求めているということではないだろうか?

 では、若い男はどこにいるか。
 若い男はネットの中に散り散りになった。そこでは「エロ」も「車」も「スポーツ」もそれぞれ十分な供給源が用意されていて、なにも3点セットでまとめて購入する必要などない。彼らにとって、「男」としての連帯意識や主流プライドももはや鬱陶しいだけであろう。
 

 以下、引用。

 「初めに結論ありき」の国では、危機対策が中途半端にしか出来ません。なにしろ初めに「結論」と言う形で全体像を想定しちゃっているんだから、その範囲を超えた事態になると、もうなんともならない。危機に直面した現場で体を張っている人にすべてをまかせるしかなくなってしまう。「まかせる」ならまだいい表現だけど、実態は「丸投げ」に近くなる。
 「初めに結論ありき」の国では、まともな議論が提出出来ない。まず、「へんな人だからそういうことを言うのだろう」という目で見られる。その異議が理解されても、「これを受け入れるとめんどくさいことになるな」というのが分かった場合、放っとかれる。放っとかれてる間に、「そういうことを言うのはへんな人だから排除してOK」という免疫機能が作動して、「めんどくさい異議」は取り上げなくてもいいようになる。


 戦後というのは、旧来の考え方から離れて、日本人が「市民」になろうとして、「市民社会」なるものを形成しようとした時代だったはずだ。メディアも教育もその方向へ進んでいて、だからこそ1960年代が終わったら、内実は別として、日本は「市民社会」になってしまっていた。であるにもかかわらず、戦後の日本には「市民の社会」に立脚した政党がない。端的に言えば、日本の社会にサラリーマンの数がどんどん増えて、「サラリーマンが日本社会を支えている」というような状況になっても、「サラリーマンを支持基盤とする政党」がなかった。それは、生まれてもあっさりと消える弱小政党で、「サラリーマンを支持基盤とする政党」がないからこそ、その支持者になるであろうはずの人間達は「支持政党なしの無党派層」という最大会派を形成する。「サラリーマンは会社に所属して会社を支持し、会社は保守政党を支える」という間接民主主義みたいなことになっていたからそうなるんだろう。戦後の日本にあった政党は、戦前由来の「政府系政党」を引き継ぐ保守政党と、左翼政党、それと宗教団体をバックにする中道政党だけだった。


 安倍政権の不思議さは、安倍政権よりも、これを支持する国民のほうにあるのだと思う。
 安倍政権が高い支持率を得ている理由はいたって分かりやすい。この内閣がその目標を「景気回復」の一点に絞っているからだ。おそらく国民は、その点で「内閣支持」を表明している。しかし、当の安倍内閣の目標は「景気回復」だけではない。「景気回復」と「憲法改正」の二つがセットとなった目標のはずだ。
 それでは国民は、憲法改正をどのように考えているのだろうか? 考えられる選択肢は、「改正した方がいい」「絶対反対」と「よく分からない」の三つだろうが、そこに至る前に「なんでそれを考えなければいけないのだろう?」という気分が大きく立ちふさがっているような気がする。憲法改正に関する考え方で一番大きいのは、「問われれば考えてもみるが、今なぜそれを考えなければいけないのかがよく分からない」なのではないかと思う。

 女・子供の我儘に疲れ切った中年男たち、ネットに散った若い男たち、をふたたび一つにまとめて連帯感や主流プライドを回復させて「男」にする、最も有効な手段は何だろうか?
 それは口にするのも憚られる。




● ゴミの中の宝 本:『巡礼』(橋本治著、新潮社)

巡礼 2009年刊行。

 本小説は、作家橋本治最良の仕事の一つであり、10年いや20年に一冊出るか出ないかの傑作である。
 完成度の高さ、テーマの今日性と掘り下げの深さ、魂を揺るがす感動の結末。
 最近の小説は興味が湧かなくて全然読んでいない自分。論ずる資格のないことは重々承知の上、あえて言おう。
 平成文学の金字塔である
 実際、この小説一冊読めば、昭和・平成を生きてきた日本人の何たるかを知ることができる。橋本の筆は、それをも超えて人間存在の本質にまで達している。誰もが眉を顰め目をそむけ鼻を覆うゴミ屋敷の主という醜怪な題材を扱って、まさにゴミの中から宝を探り当てた。真実という宝を。

 いまはひとりゴミ屋敷に暮らし、周囲の住人達の非難の視線に晒される男・下山忠市。戦時中に少年時代を過ごし、昭和期日本をただまっとうに生きてきたはずの忠市は、どうして、家族も道も、見失ったのか――。(裏表紙の紹介文より)


 『巡礼』『』『リア家の人びと』の昭和三部作を(発表順とは逆に)読み終えて思うのは、橋本が描き出そうとしてきたものは、つまるところ「家族」であり、その終焉であったということだ。豊かさの実現の先に待っていた「関係の不毛」と「生の虚妄」にあったのだ。
 その意味で、橋本三部作はまるで、戦後間もない頃に『晩春』『東京物語』『麦秋』という傑作三部作を撮った小津安二郎がそれらの作品を通じて予言していたものの具現であるように思われる。小津の透視力の凄さを証明しているかのように思われる。
「小津監督、あなたは正しかった。日本は、日本人は、こんなふうになりました」と。
 文体そのものも、小津のそれのように、対象から適度な距離をおいて淡々と、しかし無関心でも冷淡でもなく、あくまで慈悲深い。‘諦念’とでも言いたいような境地に達している。

 最も感動的な場面は、ご近所界隈の騒動に過ぎなかったものがマスコミに取り上げられ、しまいには「名所」にまでなった忠一のゴミ屋敷に、テレビ報道を見た弟の修次が母親の葬儀以来9年ぶりに帰ってくるシーンである。

 「兄ちゃん!」と言われて、忠市は振り向いた。長い歳月がその二人の間にはあって、忠市には、自分が「いつの時間」にいるのかが分からなかった、目の前には、見知らぬ白髪頭の男が汗を流して立っていて、それを見る自分の耳には、誰とも知れぬ少年の声が聞こえて来る。それが不思議だった。

 この場面、映画にしたらまさにクライマックス。涙なしで観られない名場面になろう。
 忠市役は蟹江敬三がベストだと思うのだが、亡くなってしまったのが返す返すも残念。西島秀俊なんかどうだろう。修次役は土田晃之がいい。あるいは高島兄弟で共演というのもありか。監督は天願大介か石井岳龍(聰亙)。
 ああ、観たいなあ。


 ゴミ屋敷の主人・忠市にとってゴミとは何だったのか。

 自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かってはいる。しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう? 自分には、もうなにもすることがない。片付けられて、すべてがなくなって、元に戻った時、生きて来た時間もなくなってしまう。生きて来た時間が、「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
「無意味」は薄々分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった。「自分のして来たことには、なにかの意味がある」――そう思う忠市は、人から自分のすることの「無意味」を指摘されたくはなかった。「それは分かっているから、言わないでくれ」――そればかりを思って、忠市は一切を撥ねつけていた。

 ゴミとは、不必要なもの・役に立たないもの・意味を失ったもの――の象徴である。
 ただ一人老いた忠市は、自分の人生が無意味で、自分という存在が誰からも必要とされないものであることを、心の奥底で感じている。だけど、それは認めたくない。認められない。
 だから、自分の分身であるゴミを、あたかも意味あるもののごとく収集する。人生意気に感じていた「日々」を、家族の中で役割を持っていた「過去」を、ひたすら回収して積み上げる。ゴミという壁を幾重にも周囲に巡らして、今現在のありのままの孤独と空虚を覆い隠す。
 読む者は、忠市の姿に他人行儀でいることは許されない。
 なぜならそれは、物資的豊かさの追求の果てに希望や目的を喪失し、個人主義の成就の果てに関係性を喪失した、我々平成人の姿にほかならないからである。


 修次との再会によって忠市は関係性を取り戻し、修次と共にゴミ屋敷の掃除を始める。忠一の孤独を誰よりも良く知る実の弟だからこそ、それは可能だった。近所の人々もホッと胸を撫でおろす。
 しかし、橋本が凄いのはそこで「終わり」としないところである。
 忠市とは対照的に良い家族に恵まれ、孤独とは無縁な幸福な人生を送ってきたかに見える修次もまた、子供たちが独立し、妻を失い、老年を迎えた今、人生に迷いを感じている。 
長男は結婚し、長女の望も結婚した。気がついたら、一人になっていた。孫も生まれ、父となった長男の輝義は、「一緒に住もう」と言ったが、修次は迷っていた。自分が何者で、なぜこの世に生まれて来たのかを、ふっと思った。なぜそれを考えたのか分からない。ただ、「それを知りたい」と思って、「四国へ行きたい」と思った。

 家を片付け終えた忠市と修次は、連れ立って四国八十八ヶ所の遍路に出る。
 その二日目の夜に泊まった宿で、忠市は何の前ぶれもなく、あっけなく逝ってしまう。
 おそらくは、日本文学史上まれに見る途轍もない重みを持つ一節が、せせらぎのような透明感ある文章に乗せられて、物語はつと終わる。


「自分はもう、ずいぶん昔から、ただ意味もなく歩き回っていたのかもしれない」と思った時、忠市の体は、深い穴に呑まれるようにしてすっと消えた。「生きる」ということの意味を探るため、弟と共に歩き始め、「自分がなにをしている」とも理解しなかった忠市は、自分が巡るあてもない場所を巡り歩いていたと理解した時、仏の胸の中に吸い込まれていった。 
 
 弟との再会によって忠市の「関係性」は復活した。
 けれど、「意味」は最後まで見出せなかった。

自分で自分を救えぬ者の前に(仏は)現れるというわけか?
(山岸涼子『日出処の天子』より聖徳太子のセリフ)


瞑目。




● 昭和という時代 本:『リア家の人々』(橋本治著、新潮文庫)

リア家の人々 2010年刊行。

 実に20年ぶりくらいに読む橋本治。
 20代の終わりに一時はまって、刊行されているものを手当たり次第読み漁った。
 『桃尻娘』も『蓮と刀』もいくつかの評論も本当に面白かった。よく分からない「社会」というものに圧し潰され洞穴のサンショウウオの如く鬱屈していた自分を、橋本治はアメノウズメの傍若無人の舞で暗がりから誘い出して、「社会」の正体、社会を作っている「男」の正体を教えてくれた。これまでとは違った「社会」の見方、時代の読み方を示して蒙を拓いてくれた。それは自分にとって一種の悟りのような、解放感あふれる経験であった。
 『窯変・源氏物語』以降は追わなくなった。
 なぜだろう?
 一つには、上記のような意識のパラダイムシフトを経た結果、橋本の作品自体を必要としなくなったからである。あとは自分の目で見て、自分の頭で考え続ければよい。
 もう一つは、橋本の文体がまどろっこしさを増していき、『蓮と刀』ではあんなに明晰だった論理も次第にたどりにくいものとなり、文章がどんどん歯切れが悪く読みづらくなったためである。
 これにはそれなりの理由が存在するのだと思うが、今はそれを語る場ではない。

 20年ぶりに橋本を読もうと思ったのは、たぶん三島由紀夫原作の映画『愛の渇き』を観たためである。三島文学の中心テーマである「関係の不可能性」をつらつらと考え「他者」というキーワードが浮上し、そんなときたまたま入った古本屋で『リア家の人々』を見つけ購入した。もちろん、「他者」は橋本文学の根幹を成すキーワードだからである。
 こんなふうにして、人は作品から作品へと渡り歩いて自らの因縁を辿っていくのであろうか。


 閑話休題。
 久しぶりに読む橋本治は、やっぱりとっても面白かった。小説の快楽を存分に堪能した。
 文章も水の流れのように淡々と気負いのない、読みやすいものになった。登場人物たちの書き分け=性格描写が実にうまい。男も女もこれだけ細やかに描ける作家はそういまい。 
 昭和という時代を、時代を彩る大小さまざまの事件や風俗を通して描き出しながら、その時代に生きる平凡な一家庭の瓦解を重ねていく。「公(社会)」と「私(家庭)」の按配が実に巧みである。
 「公」と「私」は別々に存するのではない。「私」は、「公」の影響を受けながら家族一人一人の心のうちに変化をもたらしていく。「私」で起こっていることは、「公」において事件として誇張的に外在化し、さらにより広範囲の「私」を時代の流れの中へ巻き込んで変容へと導いていく。それはあたかも意識と無意識の関係のようである。

 ある作家の小説を面白く感じるのは、つまるところ、その作家の視点が自分と似通っているからである。作家のものの見方や考え方に共感し、普段自分の感じていること・考えていることを登場人物の言動やその解釈を通してうまく表現してくれるから、読者は「面白い」と感じる。「ここに自分と同じように世界を見ている人間がいる」とエンパワされる。自分がまったく理解できない、共感できないテーマや主張や視点をもった小説など、面白くあろうはずがない。そもそも本屋でそれを手に取ろうと思わないのが一般であろう。本棚を見ればその「人」が分かるというのは、ある程度当たっている。
 その意味では、小説を読むことそのものは作者との出会い(=「自分」との出会い)ではあっても、「他者」との出会いとは言えないのかもしれない。
 自分もまた本好きではあるが、文芸評論家ではないから、自分が楽しめそうもない分野の本ははなから敬遠している。たとえば、企業小説とかバイオレンス小説とか渡辺淳一先生とか・・・。
 しかし、まったく「他者」との出会いがないかといえば、それも違う。
 読む者は、作者が描く登場人物を通じて「他者」と出会える。
 たとえば、自分にとって、この『リア家の人々』における一番の「他者」は主人公たる栃波文三、戦前生まれの元官僚で一家のあるじにして三人の娘をもつ寡黙な父親である。「他者」とは、「私が理解できかねる観念によって規定され生を営んでいる他の人間である」と定義するならば、この文三は自分(ソルティ)にとって他者である。
 その文三の内実を、橋本はじっくりと丁寧に解きほぐし、読む者の前に絵巻物を広げるようにさらけ出す。それによって、読む者は文三という「他者」と出会う=理解するのである。
 橋本の小説が面白いのは、作品中にこのように「他者」をしっかりと存在させ、意識し、理解しようとする姿勢が貫かれているからである。それを可能とする他者性感覚と世界認識と洞察力と描写力と愛を、橋本が持っているからである。

 この小説の本当の主人公は「昭和」であると評する者がいる。
 たしかにそれは間違いではない。
 だが、それだけでは何も説明したことにはならない。
 「では、昭和とはどんな時代なのか」という問いに答えていない。
 橋本文学の中心テーマは『桃尻娘』や『蓮と刀』の頃から基本的には変わっていないように自分には思われる。
 「父権」の失墜、「男」の空洞化、「秩序」の崩落。そして「他者」の浮上。
 それこそ『源氏物語』の昔から日本社会をすっぽり覆って、「女・子供」を生き難くさせてきた「そうしたもの」の正体が透け始め、失墜し、崩落し、空洞化へと向ってゆく時代――それが昭和だったのではないだろうか。
 橋本が、主人公の文三の設定を官僚としたのは、まさに「官僚」という体質にこそ、「父権・男・秩序・他者の不在」が集約されていると考えたからではないだろうか。
 「そうしたもの」の正体に気づいた新しい世代は、既存の体制にもはや「寄らば大樹の陰」的安心を得ることができなくなった。
 そこで「自分探し」の旅に出る。
 文三の三女である静が、結婚を一人決めする強引な石原(この姓も暗示的だ)を蹴って、かといって実家で文三の世話に明け暮れする生活も良しとせず、家から出て就職口を探す姿は、父の手から夫の手へと身を任す『リア王』の三女コーディリアとも、男達の庇護を拒んで世を捨てる『源氏物語』の浮舟とも違う。
 「女子供」の人間宣言――それが「昭和」という時代の今一つの意味であろう。


 以下は、思わず息を止めた含蓄あるアフォリズム(警句または叡知)の数々。


● 官僚、秩序について(=男について)

 学生時代の彼は、もう典型的な官僚だった。自分がどう思うかではなく、「どう思えばよいのか」を第一に考えていた。

 なにも考えず出省して、なにも考えずに一日を終える。それは官僚にとって理想的な一日のあり方だった。

 どのように扱ってよいのかが分からないことを押し付けて来るのは、分限を超えた悪なのだ。父親の文三は、秩序というものを、そのように考えていた。

 出来上がってしまった秩序の中に、思想の対立などという煩わしいものはない。あるのは、利権の奪い合いという分かりやすいものだけである。

 それは政治でもない、思想でもない。政治や思想の言葉を使ってバラバラに訴えられたものは、その社会の秩序を形成する人間達の「体質」である。だからこそ、東京大学の教授達は、学生達から罵られ、嗤われ、困惑し怒っても、なにが問われているのかが分からなかった。秩序を形成する者の「体質」、形成された秩序の「体質」が問われるようなことは、かつて一度もなかった。なにが問われているのかが分かったとしても、事の性質上、それはたやすく改められることがなかった。(60年代末の全共闘について)

●女について 

 女達は強い。やることがある。自分達のなすべきことにすべてを集中して、自身のあり方を揺るがすような無意味な不安を斥ける。


● 人について

 年寄りにとって、「年寄りであること」は、既にそれ自体で娯楽なのだ。だから、年寄りを敬う人間達は、嬉々としてその年齢を数え上げる。

 ずるい考え方は人を楽にさせる。ずるい考え方が見つかるまで、人は無意味な苦しみ方をする。

 「なんのために?」ではない。ただ人は、「失われたものの回復」を求めるのだ。

 人は「空気」に反応して、身を強張らせたり細らせたりする。自分の頭で考えるように思えて、まず、自分を取り囲む「空気」に反応する。

 人は、納得して了解するのではない。了承せざるをえない状況の中で、その状況に押されて、ただ了承するのである。 
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