ケアの本質 介護の仕事をしている友人から教えられた本である。その友人もまた介護の仕事に携わっている看護師さんから薦められたのだそうだ。自分も読み終わって、参加しているボランティア団体のメーリングリストに紹介した。こうやって本当に良い本は、クチコミを中心に広がって、いつの間にか古典の地位を獲得していくのだろう。(初版発行1971年)

 自分は18年間エイズのボランティアを通してケアの活動に関わって、多くのことを学んできた。エイズという病気の知識は言うまでもないが、エイズを通して見える社会のありよう(医療現場の欠陥、福祉の不備、教育現場の無責任、行政の限界、企業の良心の欠如、南北問題、根深い女性差別、売買春、そして感染者に対する差別e.t.c)、あるいは感染不安に陥った人々の状況、感染した人々の状況、支援する人々の心意気、NPO活動の意義と運営の難しさ、仲間と共に活動することの楽しさ・・・。数え上げればきりがない。
 しかし、活動の当初から今に至るまで、一番自分が考え続けてきたこと、折りあるごとに自らの心に問いかけ続けてきたこと、答えを探し続けてきたのは何かといえば、「人が人を助ける、ケアするとは一体どういうことか」ということであった。
 活動を始めたばかりの「自分がやっていることは偽善ではないか」という問いから始まって、「自分に何ができるのだろう」「自分に人をケアする資格があるのか」「助けることは本当に相手のためになっているのか」「何が本当に相手の役に立つのだろう」「結果がうまくいかなかったとしても、助けに関わったという行為そのものに意味はあるのだろうか」「自分の人生において他人をケアする意味はなんだろうか」などなど、様々な問いが立ち現れては、明確な解答も見出せずに時が過ぎていった。いや、おそらく言葉にはできないままに、仲間と一緒に心の中でそれなりに納得して、一つ一つクリアしながら、次なる新たな問いへと向かっていったのだろう。
 その証拠に、最初の問い「ボランティアは偽善ではないか」については、それを口にする者が目の前に現れたら、鼻で笑って答えてやる。
「お前は偽善を口にできるほど善なのか」と。

 この本は、自分がボランティアをやってきて言葉にできずに感じていたことのすべてを、適確な言葉にしてくれた。一読、心の中が整理され、これまで心という花器の離れた地点にばらばらに活けられていた概念たちが、それぞれを包括するより大きな視点のもとに統合され、全体として見事なデザインをもった生け花となるのを実感した。
 その全体像は、本書の序章で簡潔に惜しみなくまとめられている。

 一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。

 一人の人間の生涯の中で考えた場合、ケアすることは、ケアすることを中心として彼の他の諸価値と諸活動を位置づける働きをしている。彼のケアがあらゆるものと関連するがゆえに、その位置づけが総合的な意味を持つとき、彼の生涯には基本的な安定性が生まれる。すなわち、彼は場所を得ないでいたり、自分の場所を絶え間なく求めてたださすらっているのではなく、世界の中にあって“自分の落ち着き場所にいる”のである。他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。


 この要旨を柱に、訳者まえがきにある通り、「読者自身をケアの動態に巻き込んで展開する稀有な著作」である。
 ケアに関わったことのない人、あるいはケアに関わりながらも「ケアとは何か」を自身に問いかけたことのない人にとっては、おそらくこの本に書いてあることはチンプンカンプンだろう。
 その意味では、読者を選ぶ本と言える。

 とりわけ、自分が「ああ、これだ」と思わず膝を打ったのは、自分の中で雲のようにもやもやと存在していた概念を見事に言葉にしてくれたと胸のすく思いをしたのは、次の3つの表現である。

①「場の中にいる」

 私たちは全面的・包括的なケアによって、私たちの生を秩序だてることを通じて、この世界で“場の中にいる”のである。・・・・前もって、ある“場”というものが私たちのために用意されているわけではない。私たちは、コインが箱にあるような具合に、ある場にいるのではない。むしろこう言うべきだ。つまり、自らを“発見する”人が、自らを“創造する”ことについて大いに力をつくしたと同様なやり方で、私たちは自分たちの場を発見し、つくり出していくのである。
 ・・・・成長していこうという他者の要求にこたえて私たちが応答すること、これこそ私たちに場を与えてくれるものだからである。

 “場の中にいる”ということにより、私は人生に十分没頭できると同時に、私たちの社会に広く存在している成長を妨げるような生き方から自由でいられるのである。


 活動中、「自分はこのためにここにいるな」とか「今までのすべての経験は、失敗や挫折も含めて、これをやるためにあったんだな」と思う瞬間がある。その時、自分は“場の中にいた”のだろう。



②「私と“補充関係にある”対象」


 ・・・・自分が“場の中にいる”ことができるほど十分包括的なケアについて、その対象となっているものを、私と“補充関係にある対象”と呼ぶことにしよう。・・・私と補充関係にある対象は、私の不足を補ってくれ、私が完全になることを可能にしてくれるのである。


 私と補充関係にある対象を見い出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて“場の中にいる”ことにおいて、私は私の生の意味を十全に生きるのである。


 長いこと、自分にとっての“補充関係にある対象”とは、性に悩んでいる人、差別に苦しんでいる人であった。
 これからは・・・・。



③「了解性」

 私が自己の生の意味を生きているとき、自分の生の中へしだいに了解性が浸透してくる。・・・・了解性とは、私の生活に関連しているものは何か、私が何のために生きているのか、いったい私は何者なのか、何をしようとしているのか、これらを抽象的なかたちではなく、毎日の実生活の中で理解していくことなのである。


 同様に、了解性は、存在の持つはかり知れない性格を排除するのではなく、むしろ私たちがもっとそれに気づくようにするのである。存在の持つはかり知れない性格とは、解決すべき無知という事柄でもないし、知識を増やしたり、特別な知識を持つことによって克服すべき事柄を指すのでもない。では何かというと、それは驚きと全く同じなのだが、経験し、理解し、感得するものなのである。・・・・私は、存在の持つ神秘そのものについて言っているのであり、そもそも森羅万象がここに存在しているという壮大な神秘、驚異について言っているのである。




 ところで、著者は、ケアとは「その人が成長することをたすけること」と定義しているのであるが、では、そもそも「成長とは何か」という疑問が湧いてこよう。
 それにも著者は答えている。

ある人が成長するのを援助することは、少なくともその人が何かあるもの、または彼以外の誰かをケアできるように援助することにほかならない。またそれは、彼がケアできる親しみのある対象を発見し創造することを、励まし支えることでもある。そればかりでなく、その人が自分自身をケアすることになるように援助することであり、ケアしたいという自分自身の要求に目を閉じず、応答できるようになることをとおして、彼自身の生活に対して責任を持つように彼を援助することである。(下線はソルティ)


 極めて明快である。ここまで成長についてはっきりと定義した文章を、西洋の哲学や心理学や教育学の書の中にこれまでに見たことがない。もちろん、日本のそれらにも。
 つまり、こうなる。
 我々は人をケアすることを通して、その対象自身が別の誰かをケアできるようにしていく。
 人の生きる意味は、ケアの輪を広げていくこと。
 なんという思想だろうか。


 最後に、この本で触れられていないケアの領域について指摘したい。
 それは死にゆく者のケアに関してである。
 死を前にした90歳の寝たきりの老婆をケアすることの意味はなんだろうか。
 目も見えない、耳も聞こえない。彼女はもはや成長とは無縁の存在である。他の誰かを、あるいは何かをケアすることもできない。穏やかに死ぬのを待っているだけである。
 彼女にとっての自己実現とはなんだろう?
 彼女をケアする者にとっての「了解性」とはなんだろう?


 著者がこの領域に触れなかったのは、この件に関して何らかの見解がなかったからではあるまい。おそらく、どうしてもそれを語るに宗教がからんでくるからであろう。西洋の著書であってみれば、キリスト教を持ち出さずにはおれないだろう。となると、天国とか地獄とか復活とか最後の審判というナンセンスを語らざるを得ない。あるいは否定せざるを得ない。
 賢い著者のこと、もちろん、そんなことするわけがない。

 あるいは、キューブラ・ロス『死ぬ瞬間』(1969年)に譲ったのか。