日時 2017年3月5日(日)14:00~
会場 一橋大学兼松講堂(国立市)
指揮 田中一嘉
曲目
- ディーリアス:二枚の水彩画
- ムソグルスキー(ラヴェル編):展覧会の絵
- ラフマニノフ:交響曲第2番
- アンコール ラヴェル:マ・メール・ロア「妖精の園」
一橋大学はJR中央線国立駅南口から歩いて10分のところにある。
駅前広場から続く並木通りと中央線沿線にしては小洒落たお店の並びが、落ち着きと品の良さを醸し出している。国立にはたしか百恵さんが住んでいたはず。
大学正門を入ると、正面に時計塔のあるレンガ仕立ての建物が見える。いかにも伝統と学究の象徴といった風情だが、それもそのはず、図書館である。
その右手前に国の登録有形文化財となっている兼松講堂がある。築地本願寺や平安神宮や東京大学正門を設計した建築家・伊東忠太によるもので、1927年創建、ロマネスク様式の鉄筋コンクリート2階建。均衡のとれた美しく優しく安定したフォルムは、イタリアの田舎町の教会のような庶民的な親しみやすさを抱かせる。つまり、キリスト教会という、大方の日本人にしてみれば非日常的空間でありながらも、取っつきにくい感じ、堅っ苦しい感じはしない。それがロマネスクだ。ゴチック建築とは違う。
ここで演奏できる・ここでクラシックを聴けるというだけで、幸せな気分になろうというものだ。
オーケストラ・イストリアは一橋大学管弦楽団の若手OB・OGを中心に2015年7月に結成されたそうで、それゆえのこの場所なのである。
フレデリック・ディーリアス(1862-1934)という名前も、もちろんその曲も、はじめて耳にした。面白いのは、この人はイギリス商家に生まれ、オレンジのプランテーションを運営するためにアメリカのフロリダ州に送られ、24歳にして正式な音楽教育を受けるためにドイツに渡り、その後パリに移って亡くなるまで作曲家として活動した。同じ西洋圏であるとはいえ、ずいぶん足の軽い人だ。当然、彼の音楽にもこれらの国々の影響が見出されるのであろう。
美しい曲だが、やや眠くなった。
『展覧会の絵』は、「オーケストラの魔術師」と呼ばれるラヴェル編曲によって一躍有名になった。もともとはピアノ組曲だったのである。
ソルティは原曲を聴いたことがないので、ラヴェルの魔術がいかほどのものか正味のところ分からないのだが、単純に耳を傾けるだけでも、このラヴェル版が管弦楽という形式の持つ可能性や魅力を存分に感じさせるものであるのは疑い得ない。「管弦楽とはどのようなものですか」という中学生の質問に、実物によって答えを示すとしたら、この曲に如くはなかろう。一つ一つの楽器の個性や、金管楽器・木管楽器・打楽器・弦楽器それぞれの特徴や効果や役割、それらの楽器が組み合わさり、追っかけあい、重なり合っていくことでもたらされる劇的効果の質というものを学ぶのに、この曲は恰好のテキストになろう。
さらに、音楽のヴィジュアル性という点でも、ベルリオーズ『幻想交響曲』と双璧をなす。聴いているとどうしたっていろいろな情景が浮かんでくる。世はCG全盛である。ディズニーの『ファンタジア』のように、この曲の生演奏を聴きながら、クリエーターによってテーマごとに映像化されたスクリーン動画を観るという企画があったら面白いと思う。
休憩中、キャンパス内を散策する。
日曜日のキャンパスは閑散として、のどかである。近所に住んでいる人たちが、暇な午後の憩いの場所として利用しているらしい。広々と気持ちよい空間で、緑が多く、ベンチも多く、売店や自動販売機もあり、安全で、なにより静かである。池の周りのベンチで読書や瞑想したり、芝に座ってランチしたり、休日を静かに過ごしたい人には恰好のアジールだ。
ラフマニノフ交響曲第2番。
とにかく美しい曲だ。
なので、大きな瑕疵なく、平均レベルに演奏してくれれば、それなりに感動できる。ここのところまでイストリアの演奏はまさにそうで、可もなく不可もなく、他のアマオケと較べてとりたてて秀でているでも、かといってレベルが低いわけでもなく、良くも悪くも期待を裏切らない出来であった。そのまま最後まで終了しても、(招待券で来ていることは置いといて)、別段クレームのつけようもない。
が、若いオケというのは怖いものである。若者というのは、ちょっとしたきっかけで、持てる以上の力を発揮してしまうからあなどれない。
楽章が進むにつれて、ぐんぐん集中力が増していき、ステージ上の気が高まっていった。あまりにも甘美な第3楽章のあたりからそれは始まって、一つに凝縮された‘気’は白熱しスパークした。第4楽章は完璧にミューズ(音楽の女神)の手の内にあった。
おそらく、第4楽章を演奏している間、奏者の誰一人として――とくに管楽器パートのメンバーらは――「失敗する」「音をはずすかも」という恐れやリスクが頭に浮かばなかったに違いない。‘演奏している’自分を忘れ、音楽によって‘演奏させられている’自分を発見していたことであろう。それくらい、ステージ上には音楽しかなかった。
音楽が息づき、流麗な生き物となって、ロマネスクな会場を逍遥した。
ラフマニノフが開示された。
ラフマニノフが開示された。
いったいなぜそんなことが起きたのだろう?
指揮の田中一嘉の実力?(たしかに熱演だった)
オケメンバーの精神状態が良かった?
観客のせい?
それとも素晴らしい建築物の持つ影響力?
分からないから、音楽は面白い。