ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

田中絹代

● 滝沢修という名優 映画:『新釈 四谷怪談』(木下恵介監督)

1949年松竹

原作 鶴屋南北「東海道四谷怪談」
音楽 木下忠司
撮影 楠田浩之
上映時間 158分
キャスト
  • 伊右衛門 : 上原謙
  • 伊右衛門の妻・お岩/お岩の妹・お袖 : 田中絹代(二役)
  • 直助 : 滝沢修
  • 小仏小平 : 佐田啓二
  • お梅 : 山根寿子
  • お梅の乳母・お槇 : 杉村春子
  • お袖の夫・与茂七 : 宇野重吉

 四谷怪談と言えば数ある怖い話の最たるものであるが、この映画は全然怖くない。お岩の幽霊は実際に現れる――この言い方は矛盾しているが――のではなく、お岩を殺めた夫・伊右衛門の罪悪感が見せる幻覚として表現される。そのことが象徴しているように、物語の主軸は、直助の甘言に乗って欲に負け罪を犯してしまう伊右衛門の心理と末路を描くところにある。欲に翻弄される人間の愚かさをテーマに据えたあたりが‘新釈’なのだろう。事実、この作品は怪談というよりもシェイクスピアばりの人間ドラマである。
 
 とにもかくにも役者の魅力が尋常でない。
 主役の伊右衛門演じる上原謙は、これが時代劇初出演だったらしい。撮影当時40歳、水もしたたる色男ぶりである。女房役をつとめる田中絹代がブスに見えるほどの美貌の輝きは、ひとえに木下恵介のイケメン愛ゆえであろう。欲と罪悪感に揺れる気の小さい侍を見事に演じて、たんなる美男スターだけではないことを立証する。
 お岩およびお岩の妹・お袖を演じる田中絹代は言うまでもない芸達者。一人二役を見事に演じ分けている。お岩はおそらくスッピンだと思うが、やっぱり美人女優とは言えない。素材の凡さを演技でカバーしているところは同じ松竹で活躍する田中裕子に引き継がれたか。
 ブスと言えば杉村春子である。口八丁手八丁の直助にコマされて、伊右衛門を自らの主人であるお梅とくっつけるお側仕いの女・お槇を、いつもながらの上手さと庶民臭さで演じている。あろうことか直助に言い寄られて「おんな」を見せるシーンがあるものだから「怖い、怖い」。作中、一番怪談じみているのは杉村春子の媚態である。
 さて、以上3人の名優によるハイレベルの演技合戦を見るだけでも相当面白いのだが、なんとまあ、ここで3人を凌ぐ役者がいたのである。
 滝沢修がその人である。
 
 どこかで聴いた名前と思ったら、吉村公三郎監督の屈指の名作『安城家の舞踏会』(1947年)で安城家当主を演じていた人である。美貌の令嬢・原節子の父親役である。元華族の役だけあって、気品とインテリジェンスあるプライド高い当主を見事に演じていた。
 『新釈 四谷怪談』での滝沢のキャラクターやイメージは、『安城家』とは180度異なる。
 直助は根っからの悪人である。人をだますことも利用することも盗みを働くことも命を奪うことも‘へ’とも思わない。悪事を働くことがそのまま適職にして天職となっている男である。目的のためには手段を選ばない。直助の唆しによって小平(=佐田啓二)は人妻お岩を手篭めにしようとし、直助の誘惑に負けて伊右衛門は女房殺しを行い、直助の口車に乗ってお槇は自らが仕える一文字家の滅亡に手を貸してしまう。直助はこの悲劇の種を蒔き、水を注いで育て、花を咲かせる狂言回しのような役を果たす。その意味で、シェイクスピア『オセロ』に登場するイアーゴを思わせる。(新劇の役者である滝沢はもちろん舞台で何度もイアーゴを演じているだろう)
 直助を演じる滝沢の表情、目つき、動作、姿勢、口調、声色、たたずまい、オーラー。どれもが完璧に計算し尽くされた上にリアリティにも不足なく、全体として一人の人間、一つのキャラクターとして息をし命が吹き込まれている。「この役者は悪役専門か」と思ってしまうほど、役者の地金めいている。
 舞台での演技は消えてしまう(消えてしまった)ので、この作品の直助こそが滝沢修という役者の歴史的名演と言っていいだろう。この演技が記録されているだけでもこの映画には十分な価値があり、この演技を観るだけでもこの作品は十二分の価値がある。田中絹代、杉村春子を食うとは、いやはや凄い役者がいたものだ。
 
 映画の冒頭の牢破りのシーン、クライマックスの炎の中での立ち回りシーン。木下恵介がアクション映画の監督としても勝れていることを十分感じさせる。木下が関心を抱いていたのは、見た目の派手さやカッコよさや観客への訴求力より、人間心理の深みや陰影にこそあったのだとつくづく思う。大人の監督なのである。



評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 機知と狡知 映画:『陸軍』(木下恵介監督)

1944年陸軍省後援 情報局国民映画。

 朝日新聞に連載された火野葦平の小説を原作に、幕末から日清・日露の両戦争を経て満州事変に至る60年あまりを、ある家族の三代にわたる姿を通して描いた作品である。
 時期的に考えても、当然、国策に沿った戦意高揚・銃後の意識を鼓舞するという目的が、映画製作を依頼した側にはあったはずである。ストーリー展開もキャラクター設定も、そういう意図から外れてはいない。しかし、細部の描写はときどきその本来の目的を逸脱しがちであり、最後のシークエンスで大きく違う方向へと展開する。その場面を見る限り、この作品を国策映画と呼ぶことは難しい。結果として、木下は情報局から「にらまれ(当人談)」終戦時まで仕事が出来なくなったと言われている。(ウィキペディア「陸軍(映画)」)

 ‘最後のシークエンス’とは、息子伸太郎が大陸に出陣する当日、「泣くから見送りに行かない」と家に一人残った母わか(田中絹代)の、家事の手が止まり、物思いに沈み、進軍ラッパの響きと人々の歓声にはっと腰を上げ、家を抜け出し、家並みや街をひたすら走り抜け、見送る人々の盛大な歓声のなかを華々しく行進する隊列の中に息子の姿を必死に探し求め、ついには息子を見つけ、その名を呼び、目と目を合わせ、混雑にもまれて道に倒れるまでの一連のシーンである。
 このシークエンスは、おそらく日本映画史上五指に入る名場面と言ってよいだろう。持続する緊張感が凄まじい。演じる田中絹代を見れば、誰もが否応無く、「日本映画史上最高の名女優は、吉永小百合でも原節子でも杉村春子でも樹木希林でも田中裕子でもなく、田中絹代その人だ」と認めざるをないだろう。実際、この映画の主役は途中まで笠智衆なのだが、最後の最後の5分間で田中絹代にすべて持っていかれてしまう。
 これは、しかし、軍国主義に反感を持つ木下恵介監督の策略のなせるわざで、笠智衆演じる父親が象徴する父権主義が、田中絹代が象徴する母性の前に色褪せていく刹那でフィルムは終了するわけである。
 なるほど、「戦争反対」のメッセージはつゆほども打ち出していない。陸軍の要望に沿うよう、「(戦時下の)日本国民(≒日本男児)たるものどうあるべきか」を笠智衆ら登場する父親たちのセリフの中で繰り返し表現し、天皇陛下への報恩と恭順を徹頭徹尾強調している。
 だが、この映画はやはり「戦意高揚映画」ではない。立派な「反戦映画」である。

 上記の見送りのシーンと同じくらい衝撃的なシーンがある。
 それは、上等兵として大陸への出兵が決まった息子伸太郎を祝う最後の晩餐シーン。家族一同がご馳走の並ぶ座卓を囲んで、和気藹々と団欒する。「やっぱり家族っていいな~」と思うシーンである。ホームドラマの名手として名を馳せた木下恵介の真骨頂である。
 しかるに、座卓を包む、内に別れの悲しみを宿しながらもほのぼのとしたあたたかい雰囲気とは裏腹に、そこで語られる会話――主に一家の主である父=笠智衆によって先導される――は、背筋が凍るほどナショナリスティックでマッチョイズムなのだ。聞いていて吐き気がしてくる。この一見‘ホームドラマ’、しかし中味は‘国家主義’という矛盾というかギャップが驚くべき効果を発揮している。
 
 多くの場合、国家と家庭は対置するものとして表現される。国家=戦争、家庭=平和の象徴で映像化されるのが一般である。家庭を崩壊し、家族を離散する‘巨悪’として、国家が起こす戦争は描かれるものである。とくに、アメリカの反戦映画にその傾向が強い。
 しかしこの映画では、木下監督は、そんな杓子定規、紋切り型に乗らない。国家と家族を対置させずに、家庭的なるものの中に戦争に繋がるエレメントを描いて、家族主義と国家主義が同一線上にあるものと喝破するのである。
 国家の思想は、家族を洗脳する。その家庭内で育てられた子供たちはまた親によって洗脳され、国家主義を身につける。家庭が戦争の温床になって、人を殺し人を死に追いやる装置として働いている。その装置が自動化していく恐ろしさを、幕末からの三代にわたる家族の歴史の中で、描き出しているのである。
 別の観点からすれば、国家は男達(世の父親)を洗脳し、父親は食卓に代表される家庭内において妻と子供たちを洗脳する。夫に従順たることを意識付けられ洗脳されたはずの妻(=母)は、それでも息子を戦場に追いやることを夫のようには誇りとは思えない。だから、「天子様のために立派に闘ってくるのだよ」とは口が裂けても言えない。「天子様にいただいた命なのだから大切にするのだよ」
 対置すべきは、国家と家庭ではなく、父権主義と母性。そんなあたりが木下監督の深意なのかもしれない。
 『お嬢さん乾杯』や『破れ太鼓』で魅せたユーモア(=機知)以上に高く評価すべきは、木下監督の狡知である。


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● 田中絹代、絶賛!! 映画:『武蔵野夫人』(溝口健二監督)

1951年東宝。

 大岡昇平原作のメロドラマである。
 あらすじを簡単に言うなら、
「壊れた夫婦関係の中で、夫・忠雄は近所の派手な人妻と浮気して駆け落ち。残された妻・道子は、同居する年下の親類のイケメン・勉から熱い思いを寄せられる。貞淑を貫くべきか、真実の愛に生くるべきか。迷う道子の取った行動は、思い切った、驚くべきものであった・・・。」
 昼メロレベルのどうってことない陳腐なストーリーである。
 が、迷う人妻が田中絹代で、駆け落ちする夫が森雅之で、監督が溝口健二で、舞台が武蔵野の森と来れば、見事、文芸調に昇華される。

 とにかく田中絹代の演技が巧い。
 美人でないのに主役を張り続けられたのは、この演技力の賜物。
 駆け落ちした忠雄に家の権利書を持ち逃げされた道子は、両親から受け継いだ家屋敷を守るためには、自分が死ぬ以外にないことを知る。一方、勉の若々しい情熱に戸惑い、貞淑であり続けることに揺らぎを感じてもいる。
 思い悩む道子(=田中絹代)は、両親の墓の前で途方にくれる。
 この短いシーンの田中の演技が途轍もない。
 道子が、逡巡の末に自殺を決意するに至る過程を、刻一刻の表情と所作の変化を通して、観る者に伝えることに成功している。
 あまりの素晴らしさに、DVDプレイヤーを一時停止し、繰り返し見てしまった。

 武蔵野の自然も素晴らしい。
 舞台となるのは、国分寺の「はけ」と呼ばれる、崖線の下を野川が流れる地域である。散策する二人の会話から、どうやら今の中央線の武蔵小金井駅付近から国分寺、恋ヶ窪、東村山あたりの場景らしい。
 今ではすっかり住宅地になってしまったが、50年代初頭にはこんなに豊かで麗しい森と水圏が残っていたのだ。なんともったいない・・・。
 道子と勉が野川の水源を求めて散策するシーンがある。二人がたどり着いたのは、恋ヶ窪にある小さな美しい池であった。
 それは今、国分寺駅の近くの日立中央研究所の敷地内にあって、毎年、桜と紅葉の時期の2回、研究所の門が一般に開放されている。

 喪われた貞淑という徳を偲びながら、今度の休みは「はけの道」をたどってみようかな。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」 

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 日本映画の最高の演技 映画:『サンダカン八番娼館 望郷』(熊井哲監督)

 1974年東宝、俳優座。

 からゆきさん(唐行きさん)とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のこと。長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、ばくぜんと「外国」を指す言葉である。(ウィキペディア「からゆきさん」より)


 この映画は、明治時代にからゆきさんとしてボルネオのサンダカンという街に連れて行かれ、少女時代・青春時代を娼婦として生きた実在の女性の話をもとに作られている。「八番娼館」とは一番から数えて八番目ということであるから、当時相当数の少女が売られ、相当数の娼館が現地にはあったのだろう。

 からゆきさん時代の北川サキの役を高橋洋子が体当たりで演じている。
 賞讃に値する演技である。
 が、時代が明治・大正から昭和に移り、今や老女となった北川サキを演じる田中絹代の演技が圧倒的に素晴らしいので、どうしても観る者の目は「過去の生々しい悲惨な物語」よりも「現在の穏やかだけれど濃密な時間」に向いてしまう。筆舌に尽くしがたい悲惨な過去を背負って生きている老女の姿に、その喜怒哀楽の表情、話しぶり、立ち居ふるまい、歩く姿、横に寝ころぶ姿、田中絹代の演技のすべてに魅了される。田中絹代と北川サキが一心同体のように思える。
 日本一の映画女優、田中絹代の最終的に達した高みがここにある。
 それは、つまり、日本映画の最高の演技ということである。


 からゆきさんのことを本にしようと目論み、北川サキの家におしかけ同居する女性史研究家、三谷圭子の役を20代の栗原小巻が演じている。
 こちらも魅力的である。演技の巧さもあるが、何より匂い立つような美しさに心を許してしまう。
 「クリームみたいな石けん♪花王石鹸ホワイト」
 栗原小巻の昔出ていたCMソングが頭にリフレインする。
 こんな品が良くて女らしく、心ばえ良く、凛として、清潔感のある女優が当節いなくなったな~とつくづく思う。そういう日本女性がいなくなったのか・・・。


 もう一人忘れちゃいけないのは、ターキーこと水の江滝子である。
 はっきり言って、この人の演技を上手いとは思わない。セリフなんか棒読みに近い感じである。
 しかし、貫禄が違う。
 かつて「からゆきさん」のはしりとしてサンダカンで体を売り、今はサンダカンの若い娼婦達から「お母さん」と頼りにされる娼館の女将おキクを、スター役者の圧倒的貫禄と存在感だけをもって演じきっている。お見事!


 年老いた北川サキから昔の話を聞き出そうとする三谷圭子は、結局半月あまりもサキの家に居候することになる。日に日にサキと親しくなり、信頼を得て、ついにはサキの過去を聞くことに成功する。
 自分の正体をいっさい語らない三谷を、サキは最初から信用して家に泊め、貧しいながらも精一杯もてなす。三谷がどこのだれで、何の仕事をしているか、なぜ女一人の身で天草くんだりまでやってきたのか。なぜサキに興味を持つのか。サキはいっこうに尋ねようとしない。
 一通り取材し終えて別れの日が来た時、三谷はサキに問いかける。
「なぜ、どこの馬の骨ともわからない私を三週間も家に泊めてくださったんですか。私がどういう身元の女だか、それを知りたいと思わなかったんですか。」
 サキは答える。
「そりゃあ、どんなに知りたかったことか。でも、人にはその人その人の都合がある。話してよいことなら、わざわざ聞かなくても自分から話している。でも、当人が言えんことを、他人の私がどうして聞いてよいものかね。」


 このセリフは、まさに過去のある人間だから、過去を探られることの痛みが分かる人間だからこそ言えるセリフである。
 この映画では語られていないが、若いサキ(高橋洋子)と老いたサキ(田中絹代)の間にある人生半ばのサキが、そのどこかで、自ら受けた深い傷を他者への思いやりへと転換させる契機を持ったことを知らしめるセリフである。
 だからこそ、老いたサキの笑顔はすがすがしいまでに慈悲深いのである。



 自分の過去や思い出を、例えば初対面の他人に堂々と語れる人は幸せな人である。隠しておきたいことや触れてほしくないことを持っていない人は、陽気で天真爛漫に振る舞える。子供のように。
 だが人は長ずるに及んで、他人には簡単には言えないことを持つようになる。
 あるいは、当人が話せても(話したくとも)、聞く側の気持ちに配慮して話さないでいることもある。「相手を混乱させるだけ」「場をシラケさせるだけ」「話しても通じそうにない」等々。
 そうして、本当に語られるべきことが語られずに、人と人との関係が上っ面のまま流れていくのが日常なのかもしれない。
 あるいは、好奇心からの、考え無しの‘無邪気な’質問が、人の心を閉ざしてしまうこともある。 
「いや、自分にはもとより差別や偏見はない。相手を理解したいからこそ聞くのだ。」と言う人もいるだろう。
 だが、相手を理解したいと思えばこその問いかけも、当の相手が「この人には別に理解してほしくない」と思っているとしたら、その問いかけは相手にとって単なる領海侵犯に過ぎない。
 
 相手のことを聞くというのは、かくも繊細な、かくも想像力と思いやりを要する、大人の技芸なのである。
(こんなことが分かるまでに50年近くもかかるとは・・・・!)


  

評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『宗方姉妹』(小津安二郎監督)

 1950年新東宝。

 日本映画の至宝女優たる田中絹代と、元祖銀幕アイドルたる高峰秀子の共演、撮るは名匠小津安二郎、と来ては期待せずにはいられまい。
 が、どことなくちぐはぐな印象が残る作品である。

 面白くないわけじゃない。むろん、演技や演出が下手なわけでもない。

 古い価値観、倫理観を大切にしながら妻として凜と生きる姉・節子を演じる田中絹代も、新しい時代の風を柔軟に受け入れながら自分に正直に自由に生きようとする妹・満里子を演じる高峰秀子も、ともにすこぶる魅力的で、それぞれの役に生き生きとした個性とリアリティを与えることに成功している。
 加えて、節子の夫・三村を演じる山村聡のうらぶれた、すさんだ、しかし最後まで矜持を捨てない男の造型も見事である。「よくできた、理想的な」妻を持つがゆえにかえって、無職の不甲斐ない家長でいることが桎梏となって心の休まる場所を持たない男の心理を、山村はあますところなく演じ切っている。節子がかつての恋人である田代(上原謙)と実際に不倫していたのであれば、むしろそのほうが楽だったかもしれない。節子を責める口実ができるし、不道徳な妻に対してもはや引け目を感じる必要はないからである。 
 三人の役者の演技合戦は見物である。

 ちぐはぐなのは、暗くドロドロした人間関係の生み出すダイナミズム(活力)と、すでに完成されている小津安二郎のスタティックでユーモラスな演出スタイルとが噛み合わない為と思われる。

 映画冒頭の大学教授(齋藤達雄)のとぼけた感じの講義シーンから始まって、笠智衆のあいもかわらぬ飄々とした趣き、新薬師寺境内の美しいショット、豪華な応接セットの中での田代と満里子のユーモラスなやりとり、真下頼子(高杉早苗)が箱根の旅館の窓から見上げる白い雲・・・・。『晩春』や『東京物語』ですっかり馴染みとなったこれら一連の小津印のついた流れの中で、三村が登場するシーンは息苦しいまでの重さと生真面目さとで流れを堰き止め、澱みをつくっている。三村が飼い猫を抱き上げる本来なら幾分の愛らしさを感じさせるはずのシーンですら、なんだか戦前の肺病持ちの売れない文筆家の生活を描いたリアリズム作品みたいで、貧乏臭さばかりが匂ってくる。
 それは、前者の流れの持つ品のある晴朗感と対比されることで燦然たる効果を発揮するという方向には向かわず、お互いの世界のリアリティを打ち消しあう結果となってしまっている。


 小津監督が自分のスタイルを確立した時、それは何を撮るのかが自ずから限定されてしまった時なのであろう。より正確に言えば、何を撮るべきでないかが決まってしまったのである。
 そのスタイルは、たとえば黒澤監督のスタイルとは違って、さまざまな素材を自由に料理して盛りつけることのできる器ではなかった。黒澤の器が何にでも使える大きな平皿だとしたら、小津のそれは醤油を入れるスペースまで付いた刺身専用の皿みたいなものである。素材が刺身である時は、ほかの誰も真似できない至高の高みまで到達するが、肉料理を盛り込むとどうしてもちぐはぐにならざるをえない。せいぜい馬肉の刺身までが許容範囲である。

 ドロドロした男女関係は肉料理の最たるものであろう。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 田中絹代と市原悦子の共通項 映画:『お遊さま』(溝口健二監督)

 1951年大映。

 見るべきは田中絹代の気品ある姉様ぶりと、宮川一夫のカメラ。どちらも際立った瑞々しさと風格がある。この二人は日本映画の至宝として、あまたの名匠や名優を措いても「いの一番」に殿堂入りすべき二人であろう。

 それにしても、飛びぬけて美人でも華があるでもない田中絹代がなぜこうも存在感があるのだろう。
 美しさという点では、映画の中の妹・お静役の音羽信子の方が「べっぴん」だろう。だが、観る者は劇中の慎之助(堀雄二)同様、お静よりも後家である姉のお遊(田中絹代)に惹きつけられる。
 もちろん、田中の演技の巧さがある。宮川のカメラマジックも預かって力ある。

 観る者を惹きつけて止まないのは、実は田中絹代の喋りにあるのではないだろうか。
 あの余分な力がいっさい入っていない自然な(自然のように聞こえる)なだらかな口調と、声音に含まれる郷愁をそそるような深い滋味ある響きこそ、彼女の魅力の秘密にして武器ではなかろうか。同じタイプの女優を挙げるなら・・・そう、市原悦子である。
 市原が『まんが日本昔話』のナレーターとしてその真価を示したように、田中の語り口もまたどこか昔話の語り部のような響きがある。それは、観る者(聴く者)を母親の膝で物語を聞いた幼子の昔に戻す。幾重の時代も受け継がれてきた日本の庶民の哀しみと貧しさと大らかさを耳朶に甦らせる。
 その快楽に惹きつけられない者があろうか。
 幼くして母親を亡くした慎之助が惹かれるのも無理はない。

 我々は映画の中の役者を見るときに、どうしても視覚的魅力にこだわってしまうけれど、サイレント映画でない以上、聴覚的魅力というものも実は馬鹿にならない。気がつかないだけで、役者の魅力の半分は占めているのである。
 いやいや、映画の中だけではない。日常生活においても、自分で思っている以上に、声の魅力、口調の魅力、話し方の魅力に我々は影響されているはずである。
 
 史書によると、クレオパトラは確かに美女であった。けれど、周囲の男たちの心をとらえたのは、彼女のまろやかな話し声と、人の話を楽しそうに聞いてくれるその笑顔であったという。

 田中絹代や市原悦子はまさに「声美人」なのである。




評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● ダイナミズムを演じる女優 映画:『夜の女たち』(溝口健二監督)

 1948年松竹。

 溝口健二はフェミニストだろうか?
 社会派だろうか?

 もちろんこの質問は反語である。
 溝口健二はフェミニストでも社会派でもない。


 『祇園囃子』『赤線地帯』そしてこの『夜の女たち』と並べると、どの作品も共通して、(男)社会の中で弱い立場に置かれ虐げられている悲惨な女たち―売春婦―を描いているので、一瞬、溝口は「女の味方」であり、こういった不平等で残酷な社会に対して現実を示すことで一石を投じているのだと思いたくなる。
 しかし、『西鶴一代女』を挙げるまでもなく、溝口はこういった女たち、女性群像を好んで描いているのである。つまり、「転落する女の姿」に対するフェチズムがあるのではないかと思うのだ。
 であるから、これらの映画に出てくる女たちが売春業から足を洗って更正する姿は決して書き込まれることはなく、一等底に落ちた地点で物語は終わるのである。女たちを更正させようと目論む善意の人々のかけ声のなんとしらじらしいことか。溝口は更正を信じていないかのようである。
 しかるに、なぜか不快な印象を与えないのは、溝口がこれらの女たちに向ける視線にはまぎれもない愛情と讃嘆の念が宿っているからである。自分が愛し讃美するものの転落する姿を悦ぶというのは倒錯に違いない。それとも、転落してはじめてその女を愛することが可能となるのか。としたら、溝口の劣等感は強烈である。

 例によって、田中絹代が圧倒的に見事である。
 きまじめな戦争未亡人が、ひょんなことから夜道で客を獲るパンパンに身を落としていく、その変わり様をまったく不自然を感じさせず、いずれの役をもリアリティを持って演じている。これを観ると、小津安二郎が『風の中のめんどり』においていかに田中絹代を生かせなかったかが非常に良くわかる。どちらも普通に暮らしていた未亡人が春を売らざるをえなくなるという設定であるのに、小津には溝口のようなダイナミズムが感じられない。そう、小津が描いたのは「喪失」であって「転落」ではなかった。(→ブログ記事参照http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5091416.html )
 そして、田中絹代はなによりダイナミズムを演じる女優なのである。



評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:風の中のめんどり(小津安二郎監督)

 風の中の雌鳥1948年松竹。

 日本が無条件降伏してから3年後に撮った映画である。
 映画の中の時代背景も舞台も状況設定も、そのまま当時の日本(東京)とみていいだろう。
 その意味では、リアリズム映画と言える。よくあったであろう話。

 出来としては、当時の批評家の評した通り、そして小津監督自身が言った通り、「失敗作」なのだろう。84分という短い上映時間にかかわらず、長く感じてしまったあたりにそれが表れている。

 見るべきは、主役の田中絹代の演技となる。
 この人はぜんぜん美人じゃないけど、存在感は尋常じゃない。この人とからむと、あの京マチコでさえ食われてしまう。(『雨月物語』) 女の情念や愚かさや一途さを演じたら、この人の右に出る女優は昔も今もそうそういないだろう。
 そして、なんとなく小津監督もこの人の演技にひきずられてしまったのではないかという感じがする。
 というのは、小津映画にあっては役者の過剰な演技力は‘余分’であるからだ。それは、もっとも小津映画で輝いたのが、笠智衆と原節子であったことからも知られる。笠も原もなんだかんだいって、決して上手い役者ではない。少なくとも、同様に小津映画の常連であった杉村春子や『東京物語』の東山千栄子のように新劇的な意味で演技できる役者では、全然ない。
 だが、小津が自らのスタイルを確立する上で必要としたものを二人は持っていた。
 立体的で虚ろな顔と、純潔なたたずまい。
 言ってみれば、二人のありようこそが、真っ白なスクリーンかキャンバスみたいなもので、あとは小津マジックで、場面場面で必要な様々な感情や印象を二人の役者に投影して見せることができたのだ。そこで変に演技されると、小津スタイルを壊してしまう。

 病気になった子供の看病をするシーン。布団に横たわっている子供の顔をしゃがんでのぞき込む田中絹代は、スクリーンの中心から左半分にいる。子供の姿はそのまた左側なのでスクリーンに入っていない。凡庸な監督ならば、心配する母親の顔が画面中央に来るようにして、子供の寝姿と共に撮すだろう。
 この不思議な構図で我々の目が惹きつけられるのは、スクリーンの右半分、小卓に置かれたビールかなにかの瓶である。表面の光沢と物体としての重さ。その異様なまでの存在感。
 「物(自然を含む」)と「人」とが等価値で、時には「物」の方が尊重されて、スクリーン上に配置される。語ることなく動じることなく、ただそこにある「物」の世界の中に、ほんの一時、顕れてはドラマを演じ消えていく人間達。  
 「物」と「人」との絶妙なバランスこそが、小津スタイルの刻印である。

 杉村も東山も日本の演劇史に大きな足跡を残す名優ではあるが、微妙なところで、小津スタイルを壊すことなく、むしろ、持ち前の演技力によって逆に小津スタイルを浮きだたせる役割りを担っている。それは、小津の使い方がよかったのか、杉村や東山の呑み込みがよかったのか。きっと、もともとそれほど芝居をさせてもらえるようなテーマや脚本や役柄ではなかったことが大きいのだと思う。(杉村春子主演で小津が監督したら、やっぱり失敗作になると思う。)
 この映画での田中絹代は、小津スタイルにはまりきれていない。容貌ももちろんそうだが、何より本気で芝居している。この脚本と状況設定とでは、そうするよりほかないだろう。そう撮るよりほかないだろう。
 田中絹代は、役者に十分演技させながら独特の美を造形していく溝口スタイルにこそ向いているのだ。(『西鶴一代女』) 


 結論として、テーマ自体が小津スタイルには向いていなかったということである。

 それにしても、この翌年に『晩春』を撮っていることが驚きである。
 なんとなく、60年代くらいの映画と思ってしまうのだが、『晩春』も無条件降伏からたった4年後の話なのだ。




 評価:C+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!





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