ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

田部井剛

● 仮面舞踏会 東京薬科大学ハルモニア管弦楽団 第42回定期演奏会

日時 2017年11月19日(日)17:30~
会場 オリンパスホール八王子
指揮 田部井 剛
曲目
  • ドヴォルザーク: 序曲「謝肉祭」
  • ハチャトリアン: 組曲「仮面舞踏会」
  • カリンニコフ: 交響曲第1番 ト短調
  • アンコール チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」第1幕ワルツ


 入場時にもらったプログラムを見ると、広告ページには薬局の名前がずらり。さすが薬科大学である。
 田部井の指揮は「マーラー第6番」に次いで2回目。やはり、迫力があって音にツヤがある。アンコールでは舞台上の女性演奏者らが花嫁のベールや花輪を頭につけたところに、王子様の格好をして袖から登場した。眠れる美女達を愛のKissで目覚めさせる色男か。あいかわらずのサービス&エンターテインメント精神である。
 ハルモニアの演奏はよくまとまっていて上手であった。学生オケのレベルの高さには今さらながら感心する。

 ところで、2曲目の「仮面舞踏会」と言えば引退した浅田真央(+振付タラソワ)であるが、実をいうとソルティはこの曲を聴くとある映画を想起するのである。
 杉本彩主演、石井隆監督、団鬼六原作の『花と蛇』(2004年東映ビデオより公開)である。
 成人指定のSM映画で、当時花盛りの美貌と姿態を誇り「エロスの伝道師」と言われた杉本彩が文字通り‛体当たり’の演技をさらしている。石井隆の名前に惹かれて観たのであったが、スクリーンで繰り広げられるなんとも猥雑で忌まわしい世界に毒気を当てられた。
 この映画でBGMとして使われていたのがハチャトリアン「仮面舞踏会」のワルツだったのである。

 成人映画とクラシック音楽のマッチングということでは、ちょっと他に例を見ないほどの相乗効果を生んでいた。縄で天井から吊るされた杉本彩が男たちに延々といたぶられるシーンに、「永遠に続く煉獄の旋回舞踏」とでも形容すべきこの暗く不吉なロシアンワルツが恐いほどはまっていた。
 それ以来「仮面舞踏会」のワルツを聴くと、どうしても青い照明の下で苦痛と(快楽?)に歪んだ杉本彩の白い顔が浮かんでくるのである。
 真央ちゃんの登場でこの淫靡な連想は一時払拭されたものの、彼女が引退した今、また彩ねえさんが復活したようである。
 困ったもんだ。


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● 「破壊せよ」とマーラーは言った :ザッツ管弦楽団第15回定期演奏会

日時 2016年10月9日(日)14:00~
会場 すみだトリフォニーホール大ホール(東京都墨田区)
曲目
  • ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調(ヴァイオリン:佐藤 舞)
  • マーラー/交響曲第6番「悲劇的」イ短調
アンコール
  • 服部隆之/NHK大河ドラマ『真田丸』のメインテーマ
  • ジョン・ウィリアムズ/『スター・ウォーズ』のテーマ
指揮 田部井 剛

 すみだトリフォニーホールは、JR総武線「錦糸町」駅から、スカイツリーを右手に見ながら歩いて10分ほどのところにある。音響効果にすぐれた、とても良いホールである。外観は普通のオフィスビルのようでそっけないが、内装はシックでお洒落で好感が持てる。ちょっとした飾りのデザインが目を引いた。

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ザッツ管弦楽団は2002年に発足。メンバーは、駒場高校オーケストラ部卒業生・成蹊大学・学習院大学・青山学院大学・法政大学・立教大学などの各大学学生、卒業生によって構成されており、平均年齢は20代後半。「熱く!楽しく!」をモットーに、年に1度(10月)の演奏会を行っている。(公式ホームページ参照)

 「熱く!楽しく!」は当たっている。
 今回初めて聴いたが、何よりも「音楽を楽しもう!観客を楽しませよう!」という心意気&サービス精神が感じられた。指揮者・田部井剛は過去15回のザッツのコンサートのうち13回を振っている。常任指揮者のような存在であろう。彼もまたザッツのモットーを体現している。あるいは彼の音楽や演奏会に対する考え方および性格が、オケのスピリットに反映しているのかもしれない。
 分かりやすいところでは、本番が始まる前に楽団員の数名が舞台に登場してプレコンサートをしてくれる。せわしない日常から離れて会場入りした聴衆たちは、徐々に音楽を聴く体勢に入っていく。
 そして、アンコールの選曲。
 マーラー6番の直後にこの2曲を持ってくるのはなかなか勇気のいることだろう。が、プロなら臆することもアマチュアなればこそできる。「観客を楽しませる」ことを優先するのなら、これは大正解。しかも、『スター・ウォーズ』のテーマでは、指揮の田部井が黒マントを羽織りダースベイダーのマスクをかぶって登場するわ、会場の照明を完全に落として舞台上の楽団員が掲げるペンライトで宇宙空間を表現するわ、と演出が憎い。
 1800席ほどの客席は8割方埋まっていた。おそらくリピーターが多いのだろう。特定ファンがついているのだろう。ソルティもまた聴きに来たいと素直に思った。
 そしてまた、このオケのチラシのデザインが毎回とても素晴らしい。アールヌーボーとゴシック風の折衷みたいな感じ。誰の作品だろう?

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 サービス精神だけでなく演奏も素晴らしかった。技術的にかなりのレベルで、マーラーの難解な曲をやるのに十分及第点に達している。音に熱がこもっている。切れ味の鋭さと迫力は、ザッツ(Sats)という歯切れのいいオケ名にふさわしい。(どういう意味があるのか or なんの略語なのかは知らないが・・・)
 田部井はプロフィールの写真を見る限りは、若かりし頃の田村正和みたいなクールな二枚目風の印象であるが、指揮台に立つと一変、情熱的で細かい身体表情は‘炎のマエストロ’コバケンを思わせる。今後注目したい人である。
 
 名曲である。ヴァイオリン協奏曲としては、チャイコフスキーやベートーヴェンやメンデルスゾーンやブラームスの有名曲に決して引けを取らないと思う。全体にドラマティックで美しいメロディーがふんだんにあふれている。ヴェルディのオペラの序曲や間奏曲を聴いているような華やかさと荘厳さも感じられた。
 ブルッフの名がほとんど知られていないのはいったいなぜ?
 ・・・と不思議に思ったが、今回配布されたパンフレットによると、マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ(1838-1920)はドイツのケルン生まれ。民族的な題材を活用した音楽で当時名声を博していたが、
 
彼の死後から15年経った、1935年、ドイツはアドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党の支配下に置かれ、ユダヤの音楽が禁じられました。
 
 ブルッフの作曲した『コル・ニドライ』という曲がユダヤ教の典礼歌に基づいていたため、彼はユダヤの血を引いているのではないかと疑われてしまう。
 
そして、ナチスの政権下では彼の作品の上演が禁止に。そのため、彼の音楽は以降演奏されることもなく、人々の記憶から急速に忘れ去られていったのです。
 
 音楽も芸術も政治とは無関係でいられないのである。
 でも、こうやって没後100年近く経って極東の国で頻繁に演奏されているのだから、政治より芸術のほうが生命力は強い。
 
 マーラー6番は『悲劇的』というタイトルで知られている。マーラー自身がつけたものではないらしいが、曲自体がまさに「悲劇的」な印象を聴く者に与えるので固有名詞のようになってしまった。
 このイメージの形成に与っている原因の一つは、ほかの多くの交響曲が「暗から明へ」という曲調の展開を持っている――代表的なのはベートーヴェン『第九』――のに比べ、マーラー6番は「明から暗へ」と展開し、最後は「暗」も「暗」たる運命の一撃(フォルティシモ)と気息奄々たるピアニシモのピチカート(弦を弾く)で曲が終焉するからである。
 もう一つは、この曲の第4楽章にはなんとハンマー(槌)が楽器として登場し、苦悩から立ち直ってポジティブ志向で勢いをつけた曲が凱歌を上げようとする瞬間に、舞台上に設置された木の台に「ガン!」と打ち下ろされるのである。
 2度も!
 それは日本の正月の餅つきみたいに活気ある目出度いものではむろんない。村の鍛冶屋が「しばしも休まず」打ち続ける槌(つち)の響きのように賑やかで生産的なものでもない。しいて言えば、中世ヨーロッパの死刑執行人が打ち下ろす首切りの斧に近いイメージである。(ここは一つの見どころ、聴きどころになっている)
 2度のハンマーと最後の運命の一撃によって、希望を打ち砕かれ、完膚なきまで叩きのめされ、再起不能となり、暗い絶望のうちに息絶えていく人間――というイメージが「悲劇的」でなくてなんだろう。

 ソルティは6番をナマで聴いた(見た)ことがなかった。
 今回聴くにあたって、繰り返しバーンスタインのCDを聴いて予習した。
 「ところどころ非常に切なく美しい部分はあるけれど、まさに‘悲劇的’で、夢も希望もない暗澹たる曲だなあ」と思った。
 なぜ、マーラーはこんな曲を作ったんだろう?
 なぜ、こんな不吉な、気持ちが暗くなって、聴いた後しばらくは落ち込みそうな曲が人気あるんだろう?
 チャイコの6番『悲愴』とどっこいどっこいのネガティブエンディング――と思った。
 
 ところが――である。
 聴くと見るとは大違い。
 家で一人でCDで聴いているのと、実際のコンサート会場で100名以上のオケの姿を目の前にしながら聞いているのとでは、まったく違った印象を受けたのである。
 何よりもまず実演では迫力が違う!
 100名の(若い)演奏者が所狭しと舞台に並んでいるのは壮観であり、華がある。その大所帯が生み出す音の奔流、音の嵐、音の壁、音の色彩、音の爆発、音の豊穣たるや、パワフルというほかなく、生命力が漲っている。それは「死」のイメージとはほど遠いものである。
 次に、この曲で使用される楽器の多彩さ。
 マーラーは交響曲に変わった楽器を取り入れることで有名だったのだが、ここでもハンマー以外にも、ムチ、カウベル(牛の首につける鐘)、鐘などが使われ、チェレスタ、木琴、鉄琴、銅鑼なども登場する。聴覚的に賑々しく愉快なのである。
 おかげで打楽器チームの忙しいこと! 舞台を見ていると、面白いように出たり入ったり、前後左右に動いたりしている。
 そして、ハンマー場面が近づいてくるときの期待感。打ち手(今回は女性!だった)がどこからともなく現れ、重そうなハンマーを振り上げ、木の台に向かって打ち下ろすシーンは、演劇的ですらある。
 この曲は、視覚的効果が無視できないほど大きいのだ。自身、高名な指揮者でもあったマーラーが、上演における視覚的効果を考えなかったはずがあるまい。(ハンマーシーンでは誰だって打ち手に視線が行くだろう) そこから受ける印象は‘エネルギッシュ’に尽きる。
 家で聴いていた時とは違い、「悲劇的」「破滅的」という印象は受けなかったのである。
 
 別のコンサート会場でもらった今回のザッツのチラシに、指揮の田部井のメッセージが載っていた。
 
「伝統とは怠惰のことだ」と喝破したマーラーにとって、鉄槌の轟音は希望が無残に打ち砕かれる音なのか、それとも悪しき伝統を断ち切る希望の一閃なのか。
 
 この一文を読んだとき、ソルティはあまり共感できないと思った。
「いくらなんでも、この暗い6番に‘悪しき伝統を断ち切る希望の一閃’を聴くのは行き過ぎ、田部井の牽強付会だろう」と思った。
 しかし、実際の生演奏に接して、この田部井の言葉、解釈に納得がいった。
 6番は、死とか絶望とか破滅とか悲劇とかいったネガティヴな言葉で収めるには、あまりにパワフルで、エネルギッシュで、面白い! 高層ビルをダイナマイトで破壊するのを見るような爽快感すらある。(たとえ、アンコール2曲がなくても自分はすっきり満足したと思う)
 
 この曲は「悲劇的」でも「破滅的」でもない。
 「破壊的」なのだ。
 その点、チャイコの6番『悲愴』とは似て非なるものである。考えてみれば、チャイコが6番の初演のわずか9日後に亡くなった、つまり6番が実質的な遺言になったのにくらべ、マーラーは6番を発表した後も次々と傑作交響曲をものにし、名声を高め、7年余りを充実のうちに生きるのである。6番で破滅しているわけがない。
 
 破壊とは、新しいものを生むために、古いものを打ち壊すことである。
 いったい、マーラーは何を破壊せんとしたのだろう?
 ベートーヴェンに代表される古典的な交響曲か。
   それに連なるロマン派の感傷的な交響曲か。 
 19世紀という時代の遺物か。(6番の完成は1904年である)
 それとも、運命のパートナーたるアルマ・シントラーと出会う前の‘青臭い’自分か。(二人は1902年に結婚し、翌年第一子をもうけている)
 
 その答えは、6番の曲の中に秘められているのだろう。
 (いずれ、ソルティ流解釈をお目にかけたい)


ハンマー








 


 
 
 
 

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