2011年発刊。
「葬式仏教」批判がかまびすしくなって久しいが、一方でこうした状況を打開し閉鎖的で因循姑息たる日本仏教界に新しい風を吹き込もうとする、意欲も能力も意識も社会性も高いお坊さまたちも少なからずいる。このブログでも紹介した長野県松本市の神宮寺の高橋卓志はその代表格であるが、他にも父親から先祖代々の寺を継いだ若い僧侶たちの中にも、宗派を問わず、今の時代にあった、社会や庶民のニーズにあった、しかし仏教という根幹から反れることのない、お寺のあり方を模索している人は多い。
應典院住職の秋田光彦もその一人であり、改革の‘成功例’というかモデルケースとして筆頭に上げられよう。
應典院は大阪の繁華街ミナミから徒歩10分の距離にある。
應典院は、檀家不在の寺として廃寺同然であったものを、1997年に建物ごと新しく再建しました。コンクリート打ちっぱなしの外観、鉄骨二階建てという近代建築は、伝統的なお寺のイメージを覆すものでした。二階にある本堂は、音響・照明施設を備えた劇場型の円形ホールで、一階にはセミナー・ルームやオープン・ギャラリーを付設する、姿カタチも新しいスタイルで、初めて訪れた人はまずここがお寺だとはわかりません。
父親が住職をつとめる大蓮寺の敷地内にある付属寺院・應典院をまかされることになった当時30代の秋田は、再建のためのプロジェクトチームを同世代の仲間たちと立ち上げ、人間と情報の集積した「開かれたお寺」づくりを志す。
そのコンセプトは次の通り。
應典院は、広く都市に開かれていなくてはならない。たとえば目的意識もなく年を漂う若者のためにも。そのためには、應典院という場所は予測できないものに出会えるという期待感が必要だ。いわば『遊び』。
また開かれた心をしぼませないためにも、常に人と人との関係性が開かれている場所であることも大切です。そこに行けば、必ず誰かと出会えるという、開かれた場所。そこに『気づき』がある。
そして、それぞれの段階に合わせた『学び』により、我を超えたかかわりあいが得られ、深い連帯感も生まれていく。これは順を追って体験していくのではなく、それぞれが在る、ということ。
こうして應典院は、1997年に「檀家もいない、葬式・法事もしない、運営はNPO」の劇場型寺院として再出発する。
マスコミに好意的に取り上げられ意気揚々と船出したものの、最初の一年くらいは地域の人も遠巻きに様子を見ているだけで、お寺を訪ねてくるのは鬱病やコミュニケーション障害を抱えた人たちだった。その後、お寺の本堂である劇場を、稽古場かつ上演の場として利用する演劇青年たちが押し寄せてきた。
いまや、日本一若者が訪れる(年間3万人!)お寺である。
だが、秋田氏はお寺を演劇専門館にはしなかった。
應典院にしかない「場」の力とは、異質性と多様性に尽きます。
演劇公演の最中に、別の部屋ではNPOのワークショップや子ども向け箱庭療法の教室が、また、ギャラリーでは死刑囚の描いた絵画展が同時に開催されていたりします。墓地には墓参りの家族連れの点景が窺え、ロビーに安置された観音さまに、ご老人が線香を手向けている。一定の様式にまとまった、わかりやすい場所ではなく、違和感を抱えながら異質なもの、多様なものと対峙を続ける。「他者と出会う広場」として、劇場と寺院は互いの存在を擦り合わせるようにして、應典院というカオスの広場を形作っていた、と思います。
そこに行けば誰かに会える、何か新しいものと出会える、何が起こるか分からない、誰であろうとありのまま受け入れられ、はじかれない・・・。
そういったカオス空間の持つエネルギーは自然たくさんの人を吸収し、いろいろな新しいことを生み出す。その渦に巻き込まれて、人は変わっていく自分を経験する。
人は基本的に変化を恐れ、安定を志向する一方で、その停滞の中で「小さくまとまってしまう」自分に苛立ちを覚える。そこで、自我の崩れるリスクを予感しながらも自らカオスに身をさらす。その繰り返しを成長と呼ぶのかもしれない。
どこに行けばそういう‘場’に出会えるのか。
ある場合は、飲み屋なのかもしれない。ある場合は、ボランティア団体なのかもしれない。近所のお店(たとえばカフェや自然食品店やリサイクルショップなど)なのかもしれない。要は、普段のルーティンな、一元化された目的に染められた日常空間(職場や学校)では出会えないような人、発現できないような関係が、そこに行けば「ある!」というところがポイントである。
自分(ソルティ)の場合、30歳のときに出会った仙台の自然食品店&出版社「ぐりん・ぴいす&カタツムリ社」がまさにそんな場所であった。
お客さんやお店の関係者(いわゆる仕入れ業者や農家の人)をはじめ、多種多様な人が出入りしていた。様々な分野やテーマで市民活動(NPOという言葉は当時まだ一般的でなかった)する人びと、チラシやチケットを預けに来る演劇やアート系の人びと、ストリートミュージシャン、店主やスタッフが企画・主催するユニークなイベントを手伝う人びと、世間話やディープな相談にやってくる人びと・・・。お店に足を運べば、いつもお客さんや業者以外の誰かがいて、店主やスタッフらと熱く楽しい会話をはずませていた。毎晩のように、何らかの催しや実行委員会が開かれていた。
店主の加藤哲夫さんは、その後日本のNPO業界でその名を知らない人のいない立役者になっていくが、この人と若いスタッフたちの魅力が大きかった。‘カオス’を‘カオス’のままに受け入れる(むしろ面白がる)柔軟な精神、人を‘ありのまま’に受け入れる度量の大きさ、世間的価値に盲従しない(そこからある意味はずれた者の)潔さが、店内を楽天的な明るさと諧謔精神、その底に流れる寛容と慈しみとで満たし、仙台の街中で不思議な光と磁力を放っていた。
ハチが蜜に惹かれるように、自分も足繁く通うようになり、巻き込まれていった。
こういう場所は作ろうと思っても意図的に作れるものではない。
やっぱり、中心となる人物のキャラが大きい。
その意味で、秋田光彦は‘器の大きい’人物なのであろう。若い頃に、映画のプロデューサーをやっていたと言うが、やっていることはまさにお寺を舞台に展開する‘人と地域’活性のためのプロデュースである。
さて、應典院での活動と合わせて、秋田は浄土宗大蓮寺の住職としての仕事を継ぐことになる。こちらは、350軒の檀家と墓地を有する「葬式仏教」をやってきたお寺である。
もちろん、これまで通りの運営はできない。
秋田は、「人の最期をどう見送るか」=「いかに自分らしい死を迎えるか」というテーマ、いわゆる‘終活’にも乗り出す。
仏教が説いてきたのは、葬式のノウハウではありません。死を見据え、現在をどう生きるのかという生死決定の哲学であり、生老病死を通していのちの尊厳に学ぶことであったはずです。その意味で考えれば、超高齢化が進み、人生の後半期が著しく間延びした今日では、葬式とはひとつの儀礼というよりも、死から紡ぎだされた生涯のプロセス全体をさすのではないでしょうか。葬式の一点だけに拘泥されていては、逆に葬式仏教は自滅することになります。
葬儀社は死の一点を扱うだけですが、仏教は生涯全体にわたって関与するものでなくてはならない。葬送だけでなく、医療や看取り、介護、あるいは住まい、相続などの生活課題も見落とせません。僧侶はそのプロセスをともに生きる併走者の立場ではないでしょうか。寺だけの力で無理ならば、地域の人たちにも協力を呼びかければいい。
私にとって、葬式仏教の再生には、葬式の一点によりかかるものではなく、お寺を中心とした生老病死のコミュニティを想像することが急務だったのです。
という理念を胸に、秋田は「大蓮寺・エンディングを考える市民の会」を立ち上げ、関心をもつ中高年の市民らと対話や勉強会、「模擬葬儀」や「お墓ツアー」などのユニークなイベントを重ね、その延長上に大蓮寺境内に生前個人墓「自然(じねん)」を設ける。一基88万円の墓の申し込みは200件以上を超える。
また、NPOとの共同でエンディングサポート事業を開始し、医療・ホスピス・住まい・相続・生きがいの創造等に関する相談やサポートを目的にした社会的支援機構を作り上げる。
理念をもとに現状を分析し、「何が必要か」を推論し、対話によって人を巻き込み、人脈を広げ、NPO活用で「思い」を形にしていく。しかもそれが経営的にペイする。
秋田が、市民事業家として実にすぐれた視点と手腕を持っているのには感心する。
しかも、どんなに活動が発展しようとも、社会参加が進もうとも、仏教という根っこは忘れていない。僧侶である自分を忘れてはいない。
・・・・・僧侶や寺の社会参加が進むと、宗派や教団への帰属意識はゆっくりと後退していくことになります。教化宗団を束ねてきたたすきを失い、布教という王冠を奪われた僧侶は、何を存在の拠り所とするのか。そもそも僧侶である必然はどこにあるのか。僧侶の自明性が問われることになります。
そうなのだ。秋田が應典院や大蓮寺においてやってきたことは、換言すればNPO活動であり、ソーシャルワークである。そこでは秋田は市民活動家であり、NPO代表であり、ソーシャルワーカーであり、起業家である。僧侶である必然性は見当たらない。多くの場合、対象は仏教徒ではないから、活動中に布教も説法もことさら必要とされない。(とくにNPO法では布教は禁じられている。)
では、どのように僧侶としてのアイデンティティを保つのか。
このような僧侶の社会活動があったから、それで教団の威信が上がるわけではありません。信者が増えるわけでもない。強いて言えば、「関係性としての仏教」には、まずこれまでのような「布教の成果」を挙げることはできない、という断念から出発しなくてはなりません。しかし、その断念の上になお、目の前の社会の状況に何かしないではいられない、と強く願うむき出しの信心に出会います。そこから、僧侶を生きるという、発心のエネルギーが、放出してくるのだと思います。まず寺が先行すべきは、社会問題を端緒として、それぞれの地域に積極的に分け入って、「苦」に喘ぐ人々の声に謙虚に耳を傾けていくことだと思います。苦しみを分かち合い、それを取り除くために何ができるのか。問題解決にはNPOとの協働が有効ですが、同時に、一人ひとりの人間の魂の問題として、どう寄り添っていくのか。また、そのために互いに凡夫として、根源的な弱さを軸に、どのような信頼や連帯を育むべきか。日本仏教の社会参加には、そういう「人間としての生き方」に対する気づきが伴わなくてはならないはずです。
大阪ミナミは應典院――。
一度訪ねてみましょうか。