ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

笹崎榮一

● ゲイチックな週末2 チャイコフスキー交響曲5番(戸田交響楽団第62回定期演奏会)

todaオケ


日時 2017年4月16日(日)14:00~
会場 戸田市文化会館大ホール(埼玉県)
曲目
  • チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」より抜粋(序奏とリラの精、パノラマ、薔薇のアダージョ)
  • ストラヴィンスキー: バレエ音楽「妖精の口づけ」―ディベルティメント
  • チャイコフスキー: 交響曲第5番
  • アンコール チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」よりワルツ
指揮 笹崎榮一

 戸田交響楽団は2回目である。前回はコンマスをつとめたNHK交響楽団の降旗貴雄の『白鳥の湖』の素晴らしいヴァイオリン独奏に陶酔した。
 今回もまたチャイコフスキープログラム。
 
 日本のメディアにおけるオネエタレント人気を思うと、日本人のチャイ子好きも不思議でも何でもないのだけれど、ではなんで日本人はオネエタレントが好きなんだろうか?
 歌舞伎における女形の伝統?
 美輪明宏の長年の薫陶の賜物?
 言いたいことをズバリと言ってくれるご意見番としての価値?
 欧米マッチョ文化への反発?
 性別を超越した存在に対する呪術的期待?

 ともあれ。
 チャイコフスキーの典雅で感傷的なメロディとゴージャスかつ華麗なるオーケストレイションは、今回もまた見事ソルティのツボにはまった。あちこちのチャクラが活性化し、身体がまんまオーケストラのようだった。
 チャイコフスキーが交響曲5番を作ったのは48歳のとき。亡くなる5年前である。
 いまやソルティはその年齢を超えたわけであるが、5番を聴いていると40代の時の自分よりも10代20代の自分を思い出すのである。おのれのセクシュアリティに気づき悩んでいた青春の頃である。
 当時の自分が味わった様々な感情的要素――否認や恐れ、孤立や不安、怒りや反発、自己嫌悪や逆転した形の優越感(選ばれしことの恍惚)、悲観や絶望、虚無や満たされない欲求、祈りや諦め、性愛の悦びと苦しみe.t.c――が次々と体の奥から浮かび上がってきて、再現フィルムのように追体験した。
 だが、それは苦痛というよりも懐かしさを伴った哀感である。
 
 自分の30代(1990年代)は、ゲイリブや市民活動や精神世界(スピリチュアリズム)の季節であって、それらを通じて多様性の価値を認める素晴らしい人々と出会ったことが、今の自分を作る礎となった。自己受容と自己肯定が拓かれた。それが40代半ばで原始仏教と出会い、「物語」や「自己」そのものの欺瞞と弊害を見るようになった。言うならば、「近代」に対する懐疑を抱くようになった。

 チャイコフスキーの音楽、つまりチャイコが囚われている世界は、まさにソルティが10代20代で味わった近代的ゲイの喜びと苦悩そのものという気がする。それは彼の生きた時代と場所が必然的にもたらした限界であろう。ゲイリブを知らぬチャイコは近代的個人として「自己肯定」するのは困難であったろうし、かと言って、偉大な先輩たるベートーヴェンのように、苦しみを超越し喜びに至る道(=神への帰依)を辿ることもかなわなかった。キリスト教における同性愛の位置づけゆえに。
 チャイコフスキーの音楽、とくに交響曲を聴くと、《第九》のように「暗」から「明」へと突き抜けたいと頑張っているのに、なかなか辿り着けないでいる魂のもどかしさを感じ取るのである。
 もしや日本人はチャイ子のそこを、できの悪い子供を愛するように愛しているのだろうか。











 


 

● コンマスの偉力 :マーラー交響曲第4番ほか(戸田交響楽団第61回定期演奏会)

降旗コンマス 006

日時 2016年9月11日(日)14:00~
会場 戸田市文化会館・大ホール(埼玉県)
指揮 笹崎榮一
管弦楽 戸田交響楽団
ソプラノ独唱 東城弥恵
ゲストコンサートマスター 降旗貴雄(NHK交響楽団)
曲目
  • チャイコフスキー:バレエ音楽『白鳥の湖』より抜粋
  • マーラー:交響曲第4番 ト長調
  • アンコール チャイコフスキー:『白鳥の湖』よりチャルダッシュ

 都民交響楽団による『マーラー3番』を聴いてからというもの、ソルティの頭の中は(というより)耳の中はマーラーでいっぱいである。毎晩、バーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニックによる1961年録音の『3番』第6楽章をプレイヤーにかけて床に入る日々が続いている。
 だいたい15分くらいで寝入ってしまうので、最後までは聴けない。クライマックスの大音量のところで半ば目が覚めて、意識の奥のほうでフィナーレの大太鼓打ち鳴らしを心臓の鼓動のように感じながら、また寝入ってしまう。
 しばらくは、機会あればマーラーを聴きに行って、その音楽の不思議な魅力の理由を探りたいと思う。

降旗コンマス 004


 戸田市文化会館はJR埼京線戸田駅から歩いて7分。
 1210席ある大ホールは、ほぼ満員であった。
 ソルティは2階席の舞台向かって右手の袖に陣取った。

 
降旗コンマス 003
 
降旗コンマス 002


 『4番』はマーラーの交響曲の中では短くて(と言っても60分弱)、オケの規模も小さくて、ソプラノの声楽で美しくしめやかに終わるという、他とちょっと異なるところがある。
 鈴の音を取り入れた第一楽章は、どことなく牧歌的で親しみやすい雰囲気がある。第二楽章のヴァイオリン・ソロによるいわゆる‘死神のメロディ’も恐ろしいというよりどこかユーモラスで奇妙な味わいがある。第三楽章はひたすら美しい。天上の聖人たちの愉しい生活を歌った第四楽章は、ソルティが聖書に出てくる人々にそれほど親しんでいないからなのか、どうにも共感できない。なんとなく地上に置き去りされた感を味わい、淋しい気持ちの入り混じった拍手を送ることになる。
 
 今回はしかし、メインのマーラーよりも『白鳥の湖』のほうが断然良かった!
 壮麗で、美しく、哀しく、ドラマチックだった。
 「やっぱりチャイコは天才的メロディメーカーだなあ~」とつくづく思った。
 立役者は、何と言っても、ゲストコンマスの降旗貴雄である。
 
 オーボエ・ソロによる有名な主旋律(情景)のあと、主役オデッタは追ってきた王子に自らの悲しい身の上を打ち明ける。親の犯した罪が原因で、昼は白鳥になり、夜の間だけ人間に戻れるというさだめを背負ったのである。このストーリーをヴァイオリン・ソロが語る。
 降旗が第一音を発した瞬間から、舞台上の空気が変わり、劇場内の空気が一変した。
 
 音色が違う!
 
 なんというノーブル(高貴)で、生命力に満ちた、浸透力ある響きだろう!
 なんという表現力か!
 
 もちろんNHK交響楽団に所属するプロの使っているヴァイオリンは、アマチュアの使っているものとは、質も(値段も)比較にならないに違いない。弦も弓も最高級のものだろう。
 だが、この音色は楽器の質自体の問題ではない。
 たとえば、『白鳥の湖』という話をまったく知らない人でも、この曲がどういう場面に使われているかを知らない人でも、降旗のヴァイオリンを聴いて涙することだろう。「物語」で泣かせるのではない。音色と表現力によって心を打つのである。
 しかも、降旗の演奏が突出していることで、他の演奏者たちとの距離がプリマと群舞くらいに開いてしまい、アマチュアたちの素人ぶりが目立ってしまうかと思えば、そんなことはなかった。
 逆に、降旗の見事な演奏による感化により楽団全体のレベルが一気に上昇したのである。技巧があがったのではない。想像力と集中力が焚きつけられて「物語世界」への突入を可能ならしめたのだ。当然、客席もそれに続いた。

 これがコンサートマスターの偉力か。
 これがプロか。
 痺れた。

 

降旗コンマス 001
 
 

 
 

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