本:平穏死のすすめ 著者は、東京世田谷区にある特別養護老人ホーム「芦花ホーム」に常勤の医師として勤めるベテラン外科医である。
 
 いま日本人の8割は病院で亡くなっている。事故や手術の結果、病院で亡くなるのは仕方ないとしても、老衰で亡くなる場合も病院がほとんどである。自宅から‘終の棲家’として入居したはずの老人ホームでは死ねないのである。

 なぜか。

 それは、老人ホームには医師がいないからである。
 たいていの老人ホームには常勤の看護師はいても常勤の医師はいない。別の医療機関に所属している医師が週に1回とか派遣されて往診に来るのが一般なのである。
 死ぬには死亡診断書が必要であり、死亡診断書は医師か歯科医師だけが作成できる。
 もちろん、医師や歯科医師の手を借りずに死ぬことはできるけれど、その場合は警察医が入って検死が行われ、解剖が必要となることもある。面倒くさいのである。
 老人ホームなど施設管理側は、できるならホームの中では死んでほしくない。施設内に警察が入ってくるのは外聞悪いし、そうでなくとも忙しい業務が煩雑な手続きや調査によって逼迫されるのは避けたいところである。
 だから、施設の利用者に急変があった場合、たとえば誤燕とか意識喪失とかで生命が危ぶまれる場合、何は置いても救急車を呼ぶのである。なんとか病院に着くまでは、いや少なくとも救急車に乗せるまでは生きていてほしい、というところであろう。

 では、著者のような常勤の医師がいれば万事解決かと言えば、これもまた違う。
 常勤の医師には保険診療の請求ができない決まりになっているからである。これではせっかく医師がいても、利用者に医療行為が行えない。施設側も、わざわざ高い給料を払って専属の医師を置こうとは思わないだろう。
 実に愚かなシステムである。


 著者は、これまで何名もの利用者をホームで看取ってきた体験をもとに、老人ホームでの看取りの意義を訴える。
 それ、すなわち「平穏死」なのだ。
 苦しまないで、安らかに死ぬ、ということである。

 その最たる例として挙げられているのは、もう口から物が食べられなくなっている終末期の高齢者のケースである。
 栄養学が言うように、一日何カロリーの摂取が必要だからと、無理に食べさせれば誤燕のリスクが高まる。それは誤燕性肺炎を誘発し、苦しみながらの死に至ることも多い。
 病院で胃瘻(いろう)を付けて経管栄養をほどこせば、栄養失調は回避され、老人ホームや自宅に戻って、とりあえず生きられる。
 しかし・・・・・と著者は語る。

 もはや物事を考えること、喜怒哀楽を感じることさえできなくなった人に対して、強制的に栄養を補給することは本当に必要なことなのでしょうか。
 我々はとかく、栄養補給や水分補給は、人間として最低限必要な処置だと反射的に考えますが、それはまだ体の細胞が生きていくための分裂を続ける場合の話です。老衰の終末期を迎えた体は、水分や栄養をもはや必要としません。無理に与えることは負担をかけるだけです。苦しめるだけです。・・・・・・・ 
 我々にとって、家族にとって、何もしないことは心理的負担を伴います。口から食べられなくなった人に、胃瘻という方法があるのに、それを付けないことは餓死させることになる、見殺しだと考えます。栄養補給や水分補給は人間として最低限必要な処置だ、それを差し控えるのは非人道的だと思ってしまうのです。しかしよく考えてみて下さい。自然死なのです。死なせる決断はすでに自然界がしているのです。

 もちろん、これは当人にしっかり意識があって、胃瘻の造設を自己選択できる場合は除外される。本人が「生きたい」のであれば、それをサポートするのは医療の役目である。
 本人がすでに意思表示できない場合、あるいは、本人が意思表示できて「もう延命はしないで」と頼んできた場合、家族が決断を迫られることになる。
 ここで家族は迷うのである。
 
 本書の中でも、96歳の末期の母親を看取る覚悟ができない子供たち(と言っても60歳は超えているはずだ!)と、著者をはじめとする施設関係者との壮絶なたたかいの模様が語られている。
 その背景にあるのは、戦後日本人が看取りに象徴される「死の文化」を失ってしまったことにあろう。自宅での死が激減したということは、新しい世代もまた身近な人を看取った経験がないままに成人しているということである。

 これと対比して興味深いエピソードが語られている。

 ある特養の施設長が、オランダのホームを見学した時の話です。認知症の老人の口を開けてスプーンを入れようとしたところ、現地のワーカーから「あなたは何て恐ろしいことをするのか。この人は食べたくないのに。あなたは老人の自己決定を侵している」と怒鳴りつけられたそうです。さらに、この施設長は帰国後にも、追いかけるようにそのワーカーから、「私たちは、食事は並べるが、無理に食べさせたり、チューブを入れたりしない。そのままでも安らかに死ねる」と手紙を送られたそうです。

 キリスト教圏の死生観と、仏教圏の死生観は異なる。前者のそれは、より個人の尊厳とか自己決定を重視する傾向がある。
 日本人の問題は、しかし、仏教的な死生観さえ、もはや宿していないところにある。
 死生観がないのだ

 
 むろん、自分は延命処置を望まない。
 自分が恐れるのは「死ぬこと」そのものよりも「苦しんで死ぬこと」である。
 肉体的な苦しみだけではない。精神的な苦しみこそ辛かろう。「いっそ殺してほしい」と思いながら、そのことを周囲に告げる手立てもいっさい持たずに「生かされ続けている」のは、生き地獄としか思われない。
 そしてまた、命の終わりは自然に任せたいとも思う。
 自然とは、あらゆる動物は食べられなくなったら死ぬ、という宿命である。


 親にもまた最期は安らかに往ってほしいと思う。
 だが、すでに後期高齢者(75歳~)となった両親と、これまでにこういったことを話し合ったことがない。
 いざというときのために、話し合っておくべきだろう。