
この本は、聖徳太子爾来1400年以上の脈々たる伝統を持つ日本仏教界に投げ込まれた手榴弾、いや時限爆弾である。これほど革新的な書はそうそうになかろう。その影響は、単に出版直後に「日本仏教界に物議をかもした」とか「ネットで炎上」といったレベルではなく、この書がいずれ新書化され、文庫化され、電子書籍化され、英訳され、時を重ね版を重ねていくに連れて、患部に貼ったサロンパスのようにじわじわと効き目を顕わし、日本大乗仏教の滔々たる流れを変えた最初の杙の一本として、著者の類いまれなる勇気と仏教への揺ぎ無い信心に対する賛嘆の念とともに、その真価を唱えられ称えられることであろう。
本当は、日本仏教はどうなってるの?どころではないのです。日本には、はじめから仏教がなかったのです。仏教と名の付くものは以前からありました。しかしそれは、お釈迦様の仏教とは別ものだったのです。より正確に言えば、日本仏教には、僧(サンガ)と持戒の念がはじめからなかったのです。何らかの形の仏と法とは言えるかもしれませんが、それを支えるサンガ、そしてサンガの構成員たる所以である戒がなかったのです。平たく言えば、「仏教徒」がいなかったのです。(ゴチック:ソルティ付す)
仏教の証拠といえば、悟りです。世界の果てのどの文化の宗派であっても、「仏教」を名乗るなら、お釈迦様が人類ではじめて発見した悟りがあるはずなのです。悟りを表す言葉がどのように変わっていても、その説明を聞いたら、「ああ、悟りをなんとかして説明しているのだ」と分かるはずなのです。
お釈迦様の仏教では身近であった悟りが、日本仏教を含む大乗仏教にはほとんど引き継がれませんでした。お釈迦様が説かれた悟りは、凡夫かブッダに等しい覚者かという二者択一の雲の上のようなものではありません。煩悩とそれがもたらす苦を厭い発心した凡夫が、学び修行し、やがて完全な覚者となるまでの悟りに、まだ凡夫とほとんど差のない預流果から一来果、不還果、そして完全な悟り・阿羅漢果実までの四段階(四沙門果)があると明らかにされました。しかし、その内容はおろか四沙門果という言葉さえも、大乗経典にはほとんど見られないのです。
現代の真宗僧侶は、自分が納得した正しい教えを、自信を持って伝えているでしょうか。そもそも、自分自身が納得して心が変わっているでしょうか。親鸞聖人の求道と伝道には、生死を乗り越える真剣さがありました。何らかの真実に達した自信と安心がありました。浄土真宗にも、その母体となった浄土教にも、仏教の真実の断片が伝わっています。正しく受け取り、正しく伝えれば、悟りとそこに至る道筋も見えてくるのです。私たち一人一人が、狭い見方を振り捨てて、お釈迦様の正しい道に入るかどうかだけが、安心を得られるかどうかの違いなのです。自分が本当に安心して生きて死ねるのかと、自分と正直に向き合う道ですから、ごまかしはききません。他人の目はごまかせても、自分だけはごまかせないのです。自分の安心は、自分で得るしかないのです。親鸞聖人や、現代に続くたくさんの妙好人たちが示してくれたように、正直に自分の心を見据えて、仏陀の悟りと教えを目標に、自分が一歩ずつ歩むものです。それが仏道です。その道は、浄土真宗にもしっかり根付いています。