●歩いた日 3月9日(土)
●天気 晴
●タイムスケジュール
8:28 中央本線「上野原」駅発、山梨急行バス乗車 9:13 「浜沢」バス停着
まんじゅう屋「つるや」
9:30 歩行開始
10:00 あずまや
10:30 眺めの良い露岩
11:20 登頂
昼食・昼寝
13:00 下山開始
14:10 「下尾崎」バス停
14:20 「寺下」バス停
歩行終了
14:48 山梨急行バス乗車
15:30 「上野原」駅着
●所要時間 4時間50分(歩行2時間30分+休憩2時間20分)

なんともゆかしい名前の山である。
二十六夜というのは新月(朔)から数えて26番目の夜のことである。古く(一説によると平安時代)から、この夜の月の出を待って山頂付近でまつりを行う慣習があったことから、この名が付いたらしい。 二十六夜の月は有明の月。夜明け前に月が昇ると、全員で月を拝みながら無病息災や農作物の豊作、養蚕の成功などを祈願したと伝えられている。この地域(秋山村)ではその名残である二十六夜碑あるいは十三夜碑をあちらこちらの路傍で見かけることができる。
たまたまこの山に登ろうと思い立ったのであったが、あとから調べてみると、なんと3月9日はまさに二十六夜にあたっていた。しかも、旧暦の1月26日である。正月二十六夜の月を拝むと幸運が訪れるという。
今回も山に呼ばれていたとしか言いようがない。 浜沢バス停で降りたのは自分を含めて4名。今日も静かな山歩きが楽しめそうだ。
3人はさっさと近道を使って姿を消してしまったが、自分はバス停の近くのまんじゅう屋「つるや」に寄る。
上野原は江戸時代から酒まんじゅうで有名である。「つるや」のまんじゅうは通常の3倍くらいの大きさ(150円)を誇る。素通りできるわけがない。店内を覗くと、立派な石の竈から勢いよく吹き上げる炎の上で、大きな鉄鍋がふつふつと湯気を上げている。店先の床几に腰掛け、地元の人の方言会話を聞きながらゆっくりと頬張る。程良い甘さの粒あんが美味しい。 エネルギーを充填し、歩行開始。
バンガローが建ち並ぶキャンプ場を抜けて山道に取りつく。いきなりの急登、しかもほぼ直線である。これがずっと山頂近くまで続く。アキレス腱が痛くなった。途中途中で適宜に休憩を取るのが利口である。ちょうど良い具合に30分ごとに、気持ちの良い風が抜ける東屋、眺めの良い露岩と現れる。露岩からは、白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)が望めた。

途中、非常に危険なところがあった。
右側は表面が滑らかな(つかみどころのない)大岩がせり出し、左側は急斜面の崖、その間を人一人やっと通れるくらいの幅の山道が3メートルほど続く。ただでさえ注意が必要な箇所なのに、なんと岩の影になっている道全体に厚い氷が張っている。試しに片足を置いてみると見事に滑る。普通に歩いたら間違いなく崖に落ちるだろう。
どうやって向こう側に行くか?
10分ほど呻吟し、まずリュックを下ろし向こう側にほうり投げ身を軽くしてから、抱きつくように岩に捕まって腰を低くし、一歩一歩足の置き位置を確かめカニ歩きしながら、どうにか脱出した。
思い出したのは、小さい頃に見たジュール・ベルヌ原作の冒険映画『地底探検』の1シーンである。あのとき感じたハラハラドキドキが山登りの趣味につながっているのだな。 山頂はそれほど広くない。木々に遮られて眺望もいま一つ。
だが、春風の爽やかな陽当たりの良い、気持ちの良い空間である。
反対側から登ってきた中高年の一団が賑やかであった。
山頂近くに雑木林の広場がある。その一角に卵を立てたような形の二十六夜碑があった。この広場で昔の人は月の出を待って酒を飲み博打に興じたのであろう。
その姿を思い浮かべつつ、誰もいない広場の片隅で昼食を広げる。
今日は、おにぎり(しゃけと昆布)、ゆで卵、漬け物、イワシの缶詰、緑茶。
腹がふくれたら、空を仰いで横になる。
至福の時・・・。

最近とある会合で知り合ったSの姿を思い浮かべる。
結ばれる確率はゼロに近いが、思うのは勝手だからな~。と言うより、「勝手に思ってしまう」のだ。
旧正月二十六夜詣での威力はどんなもんだろう?
ぽかぽかの陽光にあたって一眠りしたら13時になっていた。
1時間40分も山頂にいた。
もっとも帰りのバスが午後は一本しかないので、早く降りすぎても仕方ない。
下山はつづら折りが続き、登りほど急ではない。
下りきったところに沢があるが、今は水が枯れている。
というか付近一帯崖崩れか地滑りでもあったようで、崩れた岩や木の残骸で流れが断ち切られている。四方八方に枯枝が散乱し、森の中のあちこちに裸の岩が捨て置かれたように周囲との調和無く転がっている。
全体に「山が崩壊している」という印象。無惨な光景であった。
信仰が廃れると、こんな風になるのだろうか。

バスの時刻まで時間があるので一区間歩く。
寺下のバス停の前にも立派な二十六夜碑が建っていた。
碑の下に座って、秋山村の日常風景を眺める。
家の改築をしている男達の姿が目に入る。建築屋に頼まず自分たちの手で建て増ししているらしい。息子、父親、祖父、ご近所さん(?)、いろいろな世代の男達が上野原弁であれこれ言い合う姿が面白い。


帰りは藤野駅で下車し、やまなみ温泉に浸かる。
露天にいた3人の男が「会派がどうの」「地域活性化がどうの」「パーティーがどうの」と盛んに話していた。どうやら相模原の市会議員らしかった。
聞いていると、「前の相模原」という言葉が会話のはしばしに出てくる。
そう、1955年に誕生した藤野町は、2007年に相模原市に編入されたのであった。
(風呂の入口にかけてある大きな凧はそのときの記念のものらしい。)
風呂上がりの生ビールの一杯と共に、下界に降りてきたなあと感じた瞬間であった。
