ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

西村公朝

● 知らぬが仏 本:『仏像の声』(西村公朝著、新潮文庫)

仏像の声1995年佼成出版社より刊行。
1999年新潮文庫より発行。

 著者は高名な仏師にして天台宗の僧侶。読むのは、『仏像は語る』に次いで2冊目となる。
 前著同様、やはり読んでいて感じるのは、文章からにじみ出る著者の飾らない謙虚な人柄、仏教への深い信心、仏師という仕事に対する真剣さと矜持、である。 

仏像を鑑賞するときに、その仏像について、造られた年代や作者、材質などに関する知識は大切です。仏教美術や仏像を研究している人たちはもちろんですが、特に専門の研究者でなくても、単に仏像を見る人々にとっても大切なことです。ところが仏像を、仏教における信仰の対象として造られたもの、ととらえるとき、また、現代人の眼からあらためて仏像の存在価値をとらえ直してみようとするときには、むしろ白紙のままのほうが、その本質にふれやすいのではないかと思うのです。
 
 今回は、仏像に関する資料的なお話はなるべく出さないで、ありのままの仏像の「形」や「心」を紹介することを心掛けました。そうすることによって、仏像が本来もっている、その形を通して私たちに語りかけてくる「教え」について、きちんとまとめてみたかった。 

 という趣旨の通り、本書の一番の特色は、さまざまな仏像の形象の違いがいったい何を表しているかを、仏像作者の立場から教えてくれるところにある。いわば、「これだけ知っておけば観仏が10倍奥深く、楽しくなる」といった本である。
 昨今、観仏ブームなので、その手の本やガイドブックはあまた出ているけれど、この本は先鞭をつけたものと言えるのではないか。
 そして、後続のビジュアル的には格段に優れた仏像ガイドブックと一線を画すのは、本書が研究者や美術評論家ではなく、本物の仏師、僧侶によって書かれているところにあろう。つまり、美術工芸品の図像解読的なガイドブックの役割を超えて、仏師の意図するところ=仏像に託された思いを通して、信仰とは何か、仏教とは何かを伝えてくれている。(正しく言えば、「大乗仏教とは何か」であるが・・・)

 たとえば、座っている仏像と立っている仏像の違いは何か。
 あぐらを組んだとき、右足が上にある像と、左足が上にある像との違いは何か。
 右手を挙げている像と、左手を挙げている像との違いは何か。
 仏像の手の指の形は、何を伝えてくれるのか。
 阿弥陀如来の印相とはなんぞや。
 
 たとえば歌舞伎座に行った場合、その座席には、特等席、一等、二等席、それから立ち見席と、それぞれ段階があります。同じ芝居を見るのですが、入場料金を多く出すかどうかで座席に違いがあるのです。これと同じように極楽の世界の座席も、阿弥陀如来の印相で示された「品」と「生」の組み合わせによって、九種類表現されているのです。
 まず「品」というのは、どれだけ深く信仰しているかという違いを手の指の組み合わせ方で示したもので、三種類あります。まず信仰の深い順に、手を開いて、人さし指と親指の両指先をくっつけたのを「上品」といいます。次は同じく中指と親指をくっつけたのを「中品」。薬指と親指をくっつけたのを「下品」といいます。
 一方「生」というの、生前どれだけ善行を積んだかという違いを、品で組んだ手を置く位置によって示したもので、身体のどこに置くかによってこれも三種類あります。まず積んだ善行の多い順に、お腹のあたりに手を置けば「上生」になり、次が旨の辺りで「中生」、そして腰より下が「下生」になります。
 

 「品」が三種類。「生」が三種類。掛けると九種類の組み合わせができる。
 これによって、信仰の深さと、善行の実践度によって、どんな極楽に行けるのかを表現している。同時に、その仏像の持つ法力(=ご利益)が示されているのである。
  これから寺社めぐりの際には、この本を携えていこう。

 偶像崇拝は、本来はまったく仏教的ではない。
 お釈迦様は「自らを拠りどころにせよ」「法を拠りどころにせよ」と言ったのである。
 自分や弟子たちの姿が造型されて拝まれることなど、おそらく予期しても望んでもいなかっただろう。ましてや、初期仏教には出てこない「阿弥陀如来」や「弥勒菩薩」や「千手観音」や「不動明王」や「毘沙門天」など、文字通り「知らぬが仏」である。本来の仏教徒が目指すのは、六道(「極楽」も含む)からの解脱であるから、九種類の極楽ワールドの話もナンセンスである。(「より快適なランクの高い浄土に行きたい」というその欲こそ、まさに仏教徒が警戒すべきものであろう。)

 とは言うものの、仏像を見ると気持ちが落ち着き、心安らぐのは事実。
 観仏や拝仏を、仏教に親しむきっかけにする、三毒(貪・瞋・痴)の誘惑から心を守る手立てにする、修行に際して心を調える手段とする、というのなら、まっとうなのではなかろうか。

● 仏直して魂入れる 本:『仏像は語る』(西村公朝著、新潮文庫)

 1996年刊行。

仏像は語る

 著者は仏師・仏像修理技師にして、天台宗の僧侶。2003年に88歳で亡くなっている。
 美術院国宝修理所に所属し、京都・三十三間堂で十一面千手観音千体像の修理に携わったのを皮切りに、日本全国の仏像を修理してきた。
 本書では、著者の長い仏像修理人生において体験した様々な興味深いエピソードが語られている。一つ一つの語りが興味深く、文章にユーモアと味わいがあり、謙虚でまっすぐな著者の性格が表れている。
 不思議な糸に引かれるように、中学の美術教師から仏像修理の道へと入り込んでいって、無事戦地から戻って復職し、しまいには廃寺同然だった京都・愛宕念仏寺の住職になって寺を再建してしまう著者の人生は、まさに仏縁に導かれているとしか言いようがない。謙虚さはその自覚から来るのであろう。
 戦地(中国)に4年間もいたにもかかわらず、著者は敵兵を一度も見たことがなく、もちろん弾一発も撃たないですんだと言う。つまり、人殺しをしないですんだのである。
 人を殺した手で仏像をつくったり、修繕したりすることは、到底できないだろう。
 まるで本土で修理を待つ仏像たちが西村を守ってくれたかのよう。


 はじめて知った面白い話はいろいろあるが、仏像に御魂を入れる話(開眼)、抜く話(撥遣)が興味深かった。 

 仏像が仏像になるためにはある儀式が必要です。仏像を造ったからといって、すぐにそれが仏の法力を発揮するわけではありません。仏像が完成して、祭壇に安置し、御魂入れの儀式、つまり開眼式というものを行なって、はじめて仏像は本来の仏像になるのです。

 仏像に御魂を入れるのは僧侶の役目であるが、その御魂をしっかりと仏像に結びつけるのは信者の信仰の力だそうだ。


 信者と仏の関係が真剣であればあるほど、いかに仏像そのものが壊れていても、御魂はその全身に、すみずみまで入りこんでいるのです。仏像の修理はごく頻繁に行なわれていますが、しかし修理するからといって、御魂が抜けているわけではありません。ですから修理するときには、まず御魂を抜いておかなければなりません。そうしないと御魂のある仏像に直接鑿をあてることになってしまうからです。

 撥遣式のやり方は、これも宗派によって異なりますが、天台宗の場合ですと、御魂を自分の手の中に取り上げてそれを空中に散らし、本宮へ帰っていただく、というやり方をします。手の中に取り上げるとは、まず両手を合掌の形にします。これは蓮華の蕾の形です。次に両親指と両小指はくっつけたままで他の指を開き、蓮弁が八葉にひらいた形にします。その八葉の蓮華の上に、これから修理する仏の御魂を乗せたと観想して、本宮へ帰っていただくのです。そして、
「あなたは今までここに御魂を宿し、私たちに多大なご利益を与えて下さいました。しかし長年の歳月の間に、あなたが宿っていた館が破損してしまいました。そこで修理をして完全なお姿にしたいと思います。その間、御魂は本宮へお帰り下さい。修理が終わりましたら必ず勧請いたします。お呼びいたします。そして開眼の式を行ないます。その後は今まで以上のご利益を私たちにお与え下さい」というような意味の誓いの言葉を唱え、さらに「オン、アソハカ」と呪文を唱えて、八葉の蓮華上に乗せたと観想した御魂を空中に散らします。

 そして、修理が終わった後に、再び御魂を入れる法要を行なうのである。


 御魂とは何なのだろう?
 迷信、気のせいと片付けてしまえば済むのだけれど、修理技師である西村には「抜けているか抜けていないか」が当然分かるのだろう。


 永久保貴一の漫画『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅①』にも、主人公たる秋月慈童が二十年間封鎖していたお堂の本尊の魂抜きをして、開眼しなおすエピソードが出てくる。大体、上記の記述と同じような方法を用いている。

 世の中にはどうもまだ良く分からない、不思議なことがある。

 
P.S.今日テレビでたまたま観たが、起訴後、刑が確定しない段階で保釈金を支払って身柄の拘束を解く制度がある。この保釈金は本人に返還される、ということを自分は知らなかった。てっきり、国庫に没収されるものだと思っていた。まだ良く分からないことがある。
 

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文