1995年佼成出版社より刊行。
1999年新潮文庫より発行。
著者は高名な仏師にして天台宗の僧侶。読むのは、『仏像は語る』に次いで2冊目となる。
前著同様、やはり読んでいて感じるのは、文章からにじみ出る著者の飾らない謙虚な人柄、仏教への深い信心、仏師という仕事に対する真剣さと矜持、である。
仏像を鑑賞するときに、その仏像について、造られた年代や作者、材質などに関する知識は大切です。仏教美術や仏像を研究している人たちはもちろんですが、特に専門の研究者でなくても、単に仏像を見る人々にとっても大切なことです。ところが仏像を、仏教における信仰の対象として造られたもの、ととらえるとき、また、現代人の眼からあらためて仏像の存在価値をとらえ直してみようとするときには、むしろ白紙のままのほうが、その本質にふれやすいのではないかと思うのです。
今回は、仏像に関する資料的なお話はなるべく出さないで、ありのままの仏像の「形」や「心」を紹介することを心掛けました。そうすることによって、仏像が本来もっている、その形を通して私たちに語りかけてくる「教え」について、きちんとまとめてみたかった。
という趣旨の通り、本書の一番の特色は、さまざまな仏像の形象の違いがいったい何を表しているかを、仏像作者の立場から教えてくれるところにある。いわば、「これだけ知っておけば観仏が10倍奥深く、楽しくなる」といった本である。
昨今、観仏ブームなので、その手の本やガイドブックはあまた出ているけれど、この本は先鞭をつけたものと言えるのではないか。
そして、後続のビジュアル的には格段に優れた仏像ガイドブックと一線を画すのは、本書が研究者や美術評論家ではなく、本物の仏師、僧侶によって書かれているところにあろう。つまり、美術工芸品の図像解読的なガイドブックの役割を超えて、仏師の意図するところ=仏像に託された思いを通して、信仰とは何か、仏教とは何かを伝えてくれている。(正しく言えば、「大乗仏教とは何か」であるが・・・)
たとえば、座っている仏像と立っている仏像の違いは何か。
あぐらを組んだとき、右足が上にある像と、左足が上にある像との違いは何か。
右手を挙げている像と、左手を挙げている像との違いは何か。
仏像の手の指の形は、何を伝えてくれるのか。
阿弥陀如来の印相とはなんぞや。
たとえば歌舞伎座に行った場合、その座席には、特等席、一等、二等席、それから立ち見席と、それぞれ段階があります。同じ芝居を見るのですが、入場料金を多く出すかどうかで座席に違いがあるのです。これと同じように極楽の世界の座席も、阿弥陀如来の印相で示された「品」と「生」の組み合わせによって、九種類表現されているのです。
まず「品」というのは、どれだけ深く信仰しているかという違いを手の指の組み合わせ方で示したもので、三種類あります。まず信仰の深い順に、手を開いて、人さし指と親指の両指先をくっつけたのを「上品」といいます。次は同じく中指と親指をくっつけたのを「中品」。薬指と親指をくっつけたのを「下品」といいます。
一方「生」というの、生前どれだけ善行を積んだかという違いを、品で組んだ手を置く位置によって示したもので、身体のどこに置くかによってこれも三種類あります。まず積んだ善行の多い順に、お腹のあたりに手を置けば「上生」になり、次が旨の辺りで「中生」、そして腰より下が「下生」になります。
「品」が三種類。「生」が三種類。掛けると九種類の組み合わせができる。
これによって、信仰の深さと、善行の実践度によって、どんな極楽に行けるのかを表現している。同時に、その仏像の持つ法力(=ご利益)が示されているのである。
これから寺社めぐりの際には、この本を携えていこう。
偶像崇拝は、本来はまったく仏教的ではない。
お釈迦様は「自らを拠りどころにせよ」「法を拠りどころにせよ」と言ったのである。
自分や弟子たちの姿が造型されて拝まれることなど、おそらく予期しても望んでもいなかっただろう。ましてや、初期仏教には出てこない「阿弥陀如来」や「弥勒菩薩」や「千手観音」や「不動明王」や「毘沙門天」など、文字通り「知らぬが仏」である。本来の仏教徒が目指すのは、六道(「極楽」も含む)からの解脱であるから、九種類の極楽ワールドの話もナンセンスである。(「より快適なランクの高い浄土に行きたい」というその欲こそ、まさに仏教徒が警戒すべきものであろう。)
とは言うものの、仏像を見ると気持ちが落ち着き、心安らぐのは事実。
観仏や拝仏を、仏教に親しむきっかけにする、三毒(貪・瞋・痴)の誘惑から心を守る手立てにする、修行に際して心を調える手段とする、というのなら、まっとうなのではなかろうか。