ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価A-

● 神がなければ  映画:『イノセント』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)

1976年イタリア、フランス制作
原作 ガブリエーレ・ダヌンツィオ
上映時間 129分

 『家族の肖像』に続くヴィスコンティの遺作である。
 これもまた20代で観たときはよくわからなかった。上流階級の特殊な夫婦関係、西洋の中年達のドロドロした恋愛模様といった内容で、上流階級でも既婚でも西洋人でも中年でもなかった自分には遠い話に思えた。

 中年の色男トゥリオ(=ジャンカルロ・ジャンニーニ)は、美しく従順な妻ジュリアーナ(=ラウラ・アントネッリ)を言いくるめて妻公認のもと、美しく奔放な女性テレーザ(=ジェニファー・オニール)とつき合っている。ところが、心寂しいジュリアーナがふとしたきっかけで知り合った当代の人気作家フィリッポ・ダルボリオ(=マルク・ポレル)と恋に落ちたことを知るや、焼けぼっくいに火がついて、狂ったように妻を愛し始める。
 すでにフィリッポの子を宿していたジュリアーナは、トゥリオと別れて子供を産む決心をする。一方、トゥリオは子供を堕すよう妻に迫る。
 フィリッポが旅先で客死したことを知ったトゥリオは子供を産むことを許すが、むろん生まれた赤ん坊を腕に抱くことすらできない。ジュリアーナが赤ん坊に注ぐ愛情を、亡きフィリッポへの愛と重ね、嫉妬に身もだえる。
 苦悩の果てにトゥリオは、雪の降る晩、家の者がミサに出かけている間に赤ん坊を戸外のテラスに置き去りにする。 
 そして・・・・

 一言で筋をまとめると、「自分勝手な中年男の節操のない恋愛模様と自業自得の末路」ということになろう。そこに主人公トゥリオの独り善がりな哲学風の自己正当化モノローグがしばしば入る。共感できなければ、ただうざったいばかり。
 20代のソルティは共感できなかったので、うざったかった。それでも、貴族の邸宅を舞台とする映像は豪華そのもので、家具や調度や衣装はもとよりちょっとした小道具まで本物の香りが漂い、ヨーロッパの上流階級の贅沢で典雅な生活ぶりに酔わされた。その贅沢は、「贅沢を贅沢と思わない域に達している」贅沢である。これみよがしのところがまったくない。むろん、監督のヴィスコンティが生まれながらの貴族であるがゆえ、彼にとっては「これが自然」「これが茶の間」なのである。
 配役もこれまでのヴィスコンティ映画と違って面白いと思った。
 ジャンカルロ・ジャンニーニは『流されて…』(1974)で女主人をレイプする野性的な使用人の役で一躍有名になった男で、当時のイメージとしては貴族の役柄は180度真逆であった。ラウラ・アントネッリと来た日には、全世界共通の少年の夢想映画『青い体験』(1973)のメイドである。当時、押しも押されぬヨーロッパのセックスシンボルだった。明らかに、ヴィスコンティはこの遺作にエロティックなる生命力を吹き込みたかったのであろう。

 年はとるものである。
 20代の時によくわからなかったこの映画が、今見ると非常にリアルに感じられる。
 ヴィスコンティにしては「静謐な地味な映画」という印象を持っていたが、とんでもない誤解だった。これは、自らの死を目前にしたヴィスコンティが、覚悟を決めた透徹した視点から、「神の非在と罪」について切り込んだ深遠なる意欲作だったのである。

 主人公トゥリオを理解するうえで欠かしていけないのが「無神論者」という点である。
 どのような育ちでそうなったのか作中で語られないが、無神論者のトゥリオは天国や地獄を信じない。この現世がすべてである。(うざったいと思った)モノローグに「この世のことはこの世で」というセリフがあるように、現世至上主義というか現世唯一主義なのである。となると、自ずから刹那主義・快楽至上主義に導かれる。
 道徳観念についても、現世での利害や体面のからむ「社会の法」を犯さないようには心砕いても、「神の法」は斟酌しない。だから、「社会の法」にふれないやり方で浮気や子殺しという罪を犯すトゥリオは、社会的にも神的にも「罪なき人間=イノセント」なのである。
 彼には神という掟、人の行動を律するモラル(良心)がはなからない。そのうえで、自分のしたいことが自由にできるだけのルックスや財産や教養や地位を持っている。結果、きわめて自己中心的な人間ができあがる。
 無神論で、快楽主義で、エゴイストの男。現代風に言うならサイコパスに近いかもしれない。そんな男が最後はどうなるかを描いたのが、この映画なのである。その意味では、きわめて近・現代的な、平成の日本の庶民でも十分に通じるテーマである。

 考えてみると、ヴィスコンティの映画には神なり宗教なりの影が希薄である。『家族の肖像』も『ベニスに死す』も、いやいや、デビュー作の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』からしてそうだった。
 神の非在。
 この観点からヴィスコンティを見直してみるのも面白いかもしれない。

 それにしても、やっぱりヴィスコンティは凄いや。



評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● フラジャイル、あるいは僕の瞳が失禁した 映画:『紀ノ川』(中村登監督)

1966年松竹。

 原作は有吉佐和子の同名小説。紀州和歌山の素封家を舞台に、有吉の祖母、母親、そして有吉自身をモデルに女三代の生きざまを描いた自伝的小説。映画では、祖母にあたる花(=司葉子)の嫁入りから死までを、明治・大正・昭和の時代背景の推移に重ねながら描いている。
 とりわけ中心となるのが、花とその娘・文緒(=岩下志麻)の愛憎関係である。その意味では、別記事で書いた有吉原作&木下恵介監督『香華』に通じる。美空ひばり母子と同様に、売れっ子作家であった有吉とその敏腕なマネージャーであった母親との実際の関係が投影されているのかもしれない。

 監督の中村登はよく知らなかった。岩下志麻主演の『古都』(1963)、『智恵子抄』(1967)、萬屋錦之介主演の『日蓮』(1979)が代表作らしいが、ソルティ未見である。前2作はアカデミー外国語映画賞にノミネートされており、国際的評価も高い。「端正かつ鮮やかな作風は映画の教科書と評されている」とウィキに紹介されている。実際、この作品も一部の隙も見られない見事な‘映画’に仕上がっている。
 特に素晴らしいのが冒頭の嫁入りシーンである。
 
 川霧の立ち昇る初夏の早朝の紀ノ川を、川下にある嫁ぎ先に向かう婚礼衣装の花や付き人たちを乗せた何艘かの舟が滑るように進んで行く。滔々とした流れは川辺の緑を映し、晴れ上がった空と山は鮮やかな紀州の風景を観る者の目に焼き付ける。夜の帳の下りる頃、川面に映る篝火とたくさんの提灯に迎えられ、花は嫁ぎ先に仰々しく迎えられる。武満徹の因習的でありながらドラマチックにして雄大な音楽と共に、タイトルバックが極めてスマートに挿入される。
 このシークエンスこそ映画そのもの。「映画とは何か、映画的時間・空間とは何か、映画の快楽とは何か」をまさに教科書のように真正面から教えてくれる。大きなスクリーンで観たら、全身を震わす愉悦に瞳が失禁しそうである。

 主演の司葉子も、これまであまり注目していなかった。小津安二郎作品『秋日和』(1960)、『小早川家の秋』(1961)に原節子の娘役としてキャスティングされていたのと、市川箟監督の金田一耕助シリーズにおける着物姿の控え目なたたずまいが印象に残っている。それと、もちろん、元代議士夫人の肩書きである。
 彼女の女優としての格付けがよく分からなかったのだが、この『紀ノ川』こそが彼女の代表作であり、役者として一世一代の演技であるのは間違いない。この作品でブルーリボン主演女優賞はじめ、いろいろな賞をもらっている。

家柄や家風の違う他家に嫁いだ花は、自己を滅却して亭主に仕え、家を盛り立てていこうと献身する。亭主の浮気や娘の反抗、戦火を乗り越えて、賢く逞しく忍耐強く生きていくも、時の流れに逆らえず、家は没落し財産は奪われる。最後は、娘と孫娘・華子(=有川由紀)に見守られながら、息を引き取っていく。
 
 20代の初々しい娘から、家制度に積極的に殉じる賢婦の誉れ高い議員夫人、そして夫亡き後「家」の束縛から逃れた自由を味わいつつ来し方を振り返る老いたる女まで、明治・大正・昭和を凛として生き抜いた一人の女を実に見事に造形化している。
 調べてみると、司葉子は鳥取県のある村の大庄屋の分家の娘であり、「祖先が後醍醐天皇の密使を務めた」との伝説をもつほどの格式の高い家柄。芸能界に入るにあたって、本家から「そんな河原乞食のようなマネは許さん」と諌められたそうだ。結婚した相手は、弁護士で元自由民主党衆議院議員の相澤英之。親類縁者にも著名人が多い。
 つまり、『紀ノ川』は、作者有吉佐和子の家系の話であると同時に、司葉子自身の家系や半生と通じているのである。主役・花の置かれた環境についてよく理解し得るところであったろうし、感情移入もしやすかっただろう。後年、同じように代議士夫人になったところを見ると、性格的にも花に近いものがあったかもしれない。司葉子は、この作品と運命的な出会いをしたわけである。
 
 娘・文緒を演じる岩下志麻も強い印象を残す。
 岩下は、気の強い剛毅な女性や、ちょっとファナティック(狂気)なところのある女性を演じるとはまる。
 前者の代表は、言うまでもなく『極妻』シリーズ、ほかにNHK大河ドラマ『草燃える』の北条政子や『霧の子午線』(1999)で犯罪者を演じる桃井かおりの顔面に赤ワインをぶっ掛けた有能弁護士役がすぐに思い浮かぶ。演技上のことだとしても、桃井かおりにワインをぶっ掛けることのできる、そしてそれを桃井が許さざるを得ない女優が志麻さまのほかにいるだろうか。
 後者の代表は、『鬼畜』(1978)、『悪霊島』(1981)、『魔の刻』(1985)あたりが浮かぶ。
 『紀ノ川』公開時、彼女は25歳。水仙のように清らかで凛とした美貌が匂ってくる。絣の着物に袴姿、長く垂らした髪に大きなリボンといった大正時代のハイカラ女学生が、自転車を乗り回し、権力横暴を訴え女学生の先頭に立って校長室に直談判しに行く。まさにここで見られるのは‘気の強い’岩下志麻さまである。
 クレジットを見ると、彼女の実の父親である野々村潔の名前があった。新劇出身の役者である。どこに出ているのだろう?と探したら、なんと面白いことに、主人公・花の父親役、つまり岩下志麻演じる文緒の祖父役で出ていた。

 花の亭主(=田村高廣)の弟役で丹波哲郎が出ている。
 やっぱり演技はうまくない。が、存在感は抜群である。
 同じようなタイプの役者を挙げると、ターキーこと水の江滝子がいる。
 丹波はほんとうに作品に恵まれている。出会いの天才だったのだろう。

 173分の長尺を二夜に分けて十全に楽しんだ。
 つくづく思ったのは、「こういう映画はもう二度と作れないんだなあ~」
 お金の問題ではない。題材の問題でもない。
 華のある存在感ある役者がいなくなった。演出や撮影やセット製作や編集の技術も低下した。日本全土開発されて、歴史ドラマのロケ地が見つけられなくなった。なによりも、このような本格的な3時間近い大河ドラマを望んで映画館に足を運ぶ観客がいなくなってしまった。
 むろん、平成時代には平成ならではの映画が撮れるはずである。
 だが、この映画の冒頭シーンに見る美しさを再現することはもう絶対に不可能であろうと思うとき、映画というものがいかにフラジャイルで奇跡的な現象なのかを痛感せざるをえない。
 


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 70年覚えてる 映画:『無法松の一生』(稲垣浩監督)

1958年東宝

 『無法松の一生』(原作は岩下俊作の小説)は、映画で4回、テレビで4回、制作されている。国民的人気のストーリーであり、無法松は愛されキャラなのである。村田英雄の歌でもよく知られている。
 が、ソルティはタイトルから森の石松みたいな任侠もの、あるいは子連れ狼みたいな殺陣中心の時代劇と勘違いしていたので、これまで食指が動かなかった。
 先日職場の老人ホームで利用者らとお茶を飲みながら雑談しているときに、なぜか和太鼓の話になった。と、90歳を超えた女性利用者Kさんが、「和太鼓と言えば、『無法松の一生』は素晴らしい映画だから、あなたぜひ観なさい」とおっしゃる。Kさんによれば、「若い頃に学校の先生に薦められ友人らと観に行って、とても感動した」のだそうだ。とすれば、1943年版(74年前)の阪妻主演の映画だろう。
 どうやらソルティの想像とは違い、人情物で‘忍ぶ恋’がテーマらしい。(だから、当時キャピキャピの女学生であったKさんは今もストーリーを空で言えるほど感動したのである)
 Kさんと同じ阪東妻三郎主演の1943年版を観たかったが、近所のTUTAYAには置いてなかった。同じ稲垣浩監督が撮ってベネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)に輝いた三船敏郎主演の1958年版を鑑賞した。

 4回の映画化における主要スタッフとキャストを並べてみよう。

1943年版(大映)
監督 稲垣浩
脚本 伊丹万作
音楽 西悟郎
撮影 宮川一夫
出演者
  • 無法松(富島松五郎) 阪東妻三郎
  • 奥さん(吉岡良子) 園井恵子
  • ボン(吉岡敏雄の少年時代) 沢村アキラ
  • ボンの父 永田靖
  • 結城重蔵 月形龍之介
上映時間 99分(現存78分)

 脚本の伊丹万作は、『お葬式』『マルサの女』の伊丹十三監督の父親である。宮川一夫は、言うまでもなく日本が世界に誇る名カメラマン。『羅生門』『雨月物語』『近松物語』『破戒』など手がけた傑作は枚挙の暇が無い。園井恵子は宝塚出身の女優。作品公開の2年後に広島で被爆して亡くなっている。ボンの沢村アキラは長じての長門裕之。地域の顔役・結城重蔵を演じる月形龍之介は、往年の時代劇スターだが、水戸黄門役でも名を馳せている。モノクロ撮影で、戦時下のため検閲により20分程度削除されている。(どうやら肝心の恋にまつわるシーンがカットされたらしい)
 阪東妻三郎主演の『破れ太鼓』(木下恵介監督、1949)は、この作品屈指の名シーンである‘祇園太鼓の暴れ打ち’のパロディーだったのだな。 

1958年版(東宝)
監督 稲垣浩
脚本 稲垣浩、伊丹万作
音楽 團伊玖磨
撮影 山田一夫
出演者
  • 無法松 三船敏郎
  • 奥さん 高峰秀子
  • ボン .松本薫
  • ボンの父 芥川比呂志
  • 結城重蔵 笠智衆
上映時間 104分

 三船敏郎の演技達者ぶりに感心する。どんな役でもこなせる俳優、すなわち名優だったのだと今さらながら痛感する。高峰秀子も同様。銀幕スターとしてはけっして美人なほうではないが、深く印象に刻まれる。最も田中絹代に近づいた女優は高峰秀子なのかもしれない。芥川比呂志は作家芥川龍之介の長男である。笠智衆の出演はソルティのような笠爺ファンにはうれしいサプライズ。

1963年版(東映)
監督 村山新治
脚本 伊藤大輔
音楽 三木稔
撮影 飯村雅彦
出演者
  • 無法松 三國連太郎
  • 奥さん 淡島千景
  • ボン 島村徹
  • ボンの父 中山昭二
  • 結城豊蔵 松本染升
上映時間 104分

 三國連太郎&淡島千景の「無法松」も非常に気になる。ナイーブな芸術家気質の三國は豪快で竹を割ったような性格の無法松には向かないと思うが、鬼のような演技力でどこまでカバーしているか見物である。淡島の奥さんははまり役だろう。中山昭二はむろんウルトラセブンの隊長である。

1965年版(大映)
監督 三隅研次
脚本 伊丹万作
音楽 伊福部昭
出演者
  • 無法松 勝新太郎
  • 奥さん 有馬稲子
  • ボン .松本薫
  • ボンの父 宇津井健
  • 結城重蔵 宮口精二
上映時間 96分

 伊福部昭がどんな音楽をつけているかが気になる。ゴジラのテーマで有名な人だが、『日本誕生』で見る(聴く)ように民族的なオーケストレイションが冴える作曲家である。勝新はまんま無法松だな。三隅研次のスタイリッシュな映像も気にかかる。

 大映、東宝、東映と当時の大手映画会社がこぞって手がけているところに、『無法松』の絶大な人気を感じる。松竹が撮っていないのは路線が違うからか? 

 無法松のような男が、いまいったい日本のどこにいるんだろう?
 無法松が奥さんに抱いたような献身的な秘めたる恋が、どこを探せばあるんだろう?

 なんだか胸が痛くなるような切ない映画で、Kさんが70年間忘れずにいたことに納得した。
 ソルティは今から40年後、覚えている映画があるだろうか?
 そもそもそこまで生きているだろうか? 


 
評価:A-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 日本のシェイクスピア 映画:『日本の悲劇』(木下恵介監督)

1953年松竹。

 木下恵介監督の撮った49本の映画うち、ベスト5に入る傑作である。
 ソルティが選ぶ今のところの残りベスト4は、『香華』、『陸軍』、『永遠の人』、『破れ太鼓』。
 だが、まだ『楢山節考』、『喜びも悲しみも幾歳月』、『惜春鳥』はじめ未見が多いので、今後ベスト5がどう変わっていくか楽しみである。 黒澤明の凄さは観る者が若いうちでも分かるけれど、小津安二郎や木下恵介の凄さはある程度歳をとらないと分からない。とくに、木下映画の真髄はフェミニズムを通過しないと分からないものが多い。日本でも世界でも、まだまだ発見を待たれる監督と言えよう。

 この『日本の悲劇』も大上段なタイトルから社会派ドラマをイメージするが、実際は、戦後の混乱期に苦労して育てた子供に老いてのち冷たくされる一人の母親の半生を通して、「母の悲劇」「親子の悲劇「家庭の悲劇」を克明に描いた骨太にして非常に繊細な人間ドラマである。その意味で、「日本の悲劇」というのはむしろ狭い見方である。日本という地域性、敗戦後という時代性を超えて、「人間の悲劇」「生きることの悲劇」を描く深みに達している。
 大胆に言ってしまおう。
 
 木下恵介作品は、その最良のものにおいて、古代ギリシア悲劇あるいはシェイクスピア作品と匹敵すべきレベルにある。

 母親・春子を演じる望月優子がピカイチ。これがアメリカだったらオスカー間違いなし。とにかく上手い。
 二人の子供(歌子と清一)の為に自らを犠牲にして生きる、情が濃くて逞しくて愚かな母親を、圧倒的な存在感をもって演じている。この存在感に近いのは2時間ドラマの市原悦子か・・・。観る者は、最初から最後まで春子に共感し、母の気持ちになって、母の視点から、二人の子供をはじめとする周囲の人間ドラマを見ることになる。
 春子は夫亡き後、焼け跡で闇屋をやり、子供を親戚に預けて熱海の料亭で身を粉にして働き、時には売春まがいもし、子供の養育費を工面してきた。その甲斐あって、歌子は洋裁と英語が得意な才媛に育ち、清一は前途洋洋たる医学生となる。母の悩みと苦しみ、母の喜びと悲しみ、母の苛立ちと寂しさ、母の希望と絶望、母の強さと弱さ・・・・・。観る者はこの映画を通して一人の「母」を体験する。なので、その行き着く先にある飛び込み自殺という選択は、決して唐突でも不思議なものでもない。自分のすべてを捧げてきた当の子供から軽蔑され冷たくされ見捨てられ、生き甲斐を失った春子が自暴自棄になるのは悼ましくはあっても理不尽ではない。
 そこで観る者のやるかたなさは怒りとなって二人の子供たちへと向かう。
 何と冷たい恩知らずの子供たちか! 戦後教育はこんな自己中心的な若者を育てたのか! これが自由と権利を主張する民主主義の正体か!
 しかし、木下監督の凄さは物語をそんな紋切り型に収斂させないところにある。母親の苦労を描く一方で、母親と離れて暮らす二人の子供の成長も平行して描いているのである。
 熱海に出稼ぎに行く春子は、口車に乗せられて亡夫の弟夫婦に家を貸して、結果乗っ取られてしまう。思春期の歌子と清一は、生まれ育った自分の家に住みながら、伯父夫婦のもと肩身の狭い思いをして暮らすことになる。こき使われ、いじめられ、罵倒され、ひもじい思いをする。ある晩、辛さ寂しさに耐え切れず、二人は春子に会うため熱海に行く。そこで見たのは、酔客と体を寄せ合いながらしどけない格好で艶笑する母。二人は春子に声をかけずに通り過ぎ、駅で夜を明かして家に帰る。そのうち春子が体を売っているという噂も二人の耳に入ってくる。清一は偉くなること金持ちになることを決意し、一身に勉強に打ち込むようになる。歌子は、叔父夫婦の息子(いとこ)に病床を襲われ暴行されトラウマを背負う。縁談もあるが、トラウマと母の悪評がついて回り、希望は見出せない。(成人した歌子の描き方が凄すぎる! 女のさがをここまでリアルに多面的に描いた男性監督は世界中探してもペドロ・アルモドバル監督くらいしか見当たらない・・・)
 清一と歌子の生い立ちを描いていくことで、二人の子供が長じてどんな思いを母親に対して抱くようになるか、どんな人生観・価値観を身に着けていくかが観る者に了解される。それは十分な説得力を持っている。木下は冷たい無情な子供を描いているのではない。子供には子供の事情があり、そのような考え方や生き方を身につけざるを得ない背景があると伝えているのである。
 その点で、同じようなテーマを扱った小津安二郎の『戸田家の兄妹』や『東京物語』とは似て非なるものである。『戸田家の兄妹』は善悪がはっきりしていた。親に冷たく当たる子供たち=悪、最後まで親を見捨てず大切にする子供たち=善であった。そこから時を隔てた『東京物語』では小津監督も成熟して、親子の確執は善悪では捉えきれないことを示した。「子供には子供の生活があり事情がある。親世代は静かに去り行くのみ。子供に迷惑をかけてはいけない」というように。もはや利己的な子供世代を責める風はなかった。「老いたものは静かに去りゆくのが世の習い、それが生き物のさだめ」といった‘もののあわれ’あるいは‘無常性’が獲得された。その透徹した視点、達観した境地を、禅寺の風景のような静的スタイルで描き切ったことが、『東京物語』の傑作たるゆえんであろう。
 『日本の悲劇』は、『東京物語』の一歩先を描いている。
 一歩先というのが適切でないなら、高踏的でブルジョワで清潔志向の小津が『東京物語』で描かなかった泥々とした内幕を木下は描いている。つまり、「子供には子供の生活があり事情がある」ことを微に入り細に穿ち、観る者に提示して見せたのである。
 だから、観る者は単純に子供世代を責めることはできない。歌子や清一の立場に立てば、母・春子への冷たい仕打ちはどうにもこうにも仕方ないのだと理解できる。他人ならまだしも、実の親だからこそ許せないものがある。すべてを知って、すべてを許すには二人は若すぎる。 親には親の言い分(正当性)があり、子供には子供の言い分(正当性)がある。それぞれが頑張って厳しい時代を生き抜いてきたのである。どちらを責めることもできない。問責は洞察力(智慧)と思いやり(慈悲)に欠ける行為である。
 
 春子は春子の因縁を持ち、因縁に支配されて、世に投げ出されている。歌子は歌子の、清一は清一の因縁を持ち、因縁に支配されて、世に投げ出されている。両者の因縁がぶつかり合って齟齬が生じる。両者ともに、自分自身の因縁を見抜いて、そこから抜け出す方法を知らないので、結局、織り成す因縁が生む出す定めのまま行く着くところまで運ばれてしまう。それが最後には母・春子の自殺という最悪な‘果’を生んでしまい、それがまた新たな‘因’となって、この先の歌子と清一の人生に影を落としていくことになる。
 
 この映画は「因縁にとらわれた人間の悲劇」を圧倒的なリアリティのもとに語っている。
 ギリシア悲劇、シェイクスピアと比較しても少しも遜色なかろう。
 


評価:A-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。 
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 武士道を‘斬る’! 映画:『切腹』(小林正樹監督)

1962年松竹。

 小林正樹作品は『怪談』(1965年)に次ぎ、二作目の鑑賞となる。
 やっぱり日本が世界に誇る名監督である。小津、黒澤、溝口、木下に並んで、もっと評価・称賛されても良いと思う。名前が平凡なのが割を食っている一因だろうか。
 
 この作品も一級のサスペンスドラマに仕上がっている。黒澤の『天国と地獄』に勝るとも劣らない。
 二人の男の会話の応酬を中心としながら、ラストの謎の解明と破壊的悲劇に向けて、次第に募りゆく圧倒的緊迫感。三國連太郎と仲代達矢の重厚にして凄みある演技。丹波哲郎の独特の風格。この役者は演技そのものは決して巧くないのだが、演出家が使いたくなるような‘何かもっている’人だ。霊的な‘何か’?
 何より称賛すべきは、脚本の巧みさ。謎の解明と同時に‘生きて’くる伏線をそれとなく張り巡らしながら、緊迫感を醸成するセリフや構成でドラマを形作っていく。さすが空前絶後の天才脚本家・橋本忍。橋本と小林が組んだ時点で、この作品の成功は決まったというべきだろう。 

 『怪談』で魅せた様式美はここでも健在である。
 武家屋敷の簡素で清潔な建築美。侍達の無駄のない振る舞いの美しさ。殺陣の美しさ。それらを十全に生かす演出と照明とカメラワーク。ウィキによると、小林監督は大学時代東洋美術を専攻していたらしい。美的センスは生来のものなのだろう。
 
 平和な江戸の世、仕官先を失い生活に窮した武士が、大名屋敷を訪れて「切腹したいから庭先を貸してくれ」と迫る。困った屋敷方は、彼に金子を与えて引き取り願う。これが世に広まって、引取り料目当ての狂言切腹が横行する。
 こうした世相の中、一人の武士津雲半四郎(仲代達矢)が名門井伊家を訪れて、庭先での切腹許可を申し出る。井伊家の家老斎藤勘解由(三國連太郎)は「その手には乗らず」と、本人の要望のままに切腹を許可する。
 だが、半四郎はただの金子目当ての狂言切腹ではなかった。
 いったい彼の目的は何か。
 
 謎が明かされるにしたがい、観る者は武家社会(封建制)の残酷さや本質的矛盾――武家社会が安定したら武士の存在(出番)は必要で無くなる――を察することになる。武士道の非情や‘張子の虎’のようなくだらないプライドばかりの上っ面加減を知ることになる。
 そしてまた、組織や制度というものが持つ人間性への抑圧を痛感することになる。
 社会のすべての矛盾の一番の犠牲となって苦しむのは常に弱者である。
 この映画では、出演者中ただ一人の女優であるうら若き岩下志麻(半四郎の娘の美保役)が、結核に侵され、乳飲み子と共にあばら家で死んでいく。美保の夫もまた井伊家の犠牲となった一人であった。
 単なる時代劇ではない。現代にも十分通用する社会派ドラマである。

 2011年に三池崇史監督が3Dで再映画化している。
 が、これほど最高のスタッフ陣を揃えた、これほど完成度の高い傑作を前に、はたしてその必要があったのだろうか。疑問である。


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 高峰秀子、礼讃!! 映画:『永遠の人』(木下恵介監督)

1961年松竹映画。

  米国アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた評価の高い作品である。
 オスカー受賞=いい映画というわけでは全然ないけれど、この映画は間違いなく傑作である。

 主演の高峰秀子の演技は、伝説的名女優・田中絹代ばりのリアリティと集中力の域に達していて、これまでに見た高峰秀子の作品の中では文句なく最高級の賛辞に値する。十代の小作人の生娘から、孫を腕に抱く白髪・皺まじりの老けこんだ地主の奥様までを、昭和期の5つの時代を5幕仕立てで描く構成の妙を天才的勘と知性とでのみこんで、歳ふるとともに変わってゆく女の姿と、何十年という歳月を経てもなお変わらない女心とを、ものの見事に演じ切っている。
 人々の愛憎を悠然と眺める阿蘇の雄大な風景も効果的。日本の農村の因習に満ちた土着文化の息苦しさや忌まわしさ--横溝正史のミステリーに代表されるような--を、のびやかな空間でもって解放している。
 監督の実弟である木下忠司の音楽も素晴らしい。暗く陰惨になりがちなストーリーを、フラメンコという異質なものをかけ合わせることでラテン的に救い上げ、一方で情熱と哀愁に満ちたギターとカスタネットの調べが、「生娘だった自分を無理やり犯し、好きな男との間を切り裂いた憎き男(=仲代達矢が演じている)」の妻として生き続けなければならない一人の女の悲しい物語を、国や文化を越えた‘女の一生’ドラマにまで引き揚げている。
 センスが良い。

  この作品を観ると、木下恵介が同時代に活躍した黒沢明にも小津安二郎にもない、あるいは現代活躍する多くの映画監督にもなかなか見られない、極めて優れたオリジナリティ(=天才性)を持っていたことが理解できる。
 それは、一言でいえば、写実主義にも等しい人間の心理描写の細やかさである。
 とりわけ、この作品のほか『香華』や『女の園』に見られる女の心理描写について、まるで女性作家のごとき繊細にして執拗な心の綾をたどるのに長けている。
 むろん、あくまでも「女性的資質を多分に持つ男性作家が想像する女性の心理」の域はどうしたって出ることは叶わないものの・・・。

  日本が生んだ偉大なる‘ゲイ’術家の一人であることは、もはや疑いようがない。
 今後ますます国際的な評価は高まるものと推測される。
 「永遠の人」とは木下自身である。


 評価:A-


 A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 機知と狡知 映画:『陸軍』(木下恵介監督)

1944年陸軍省後援 情報局国民映画。

 朝日新聞に連載された火野葦平の小説を原作に、幕末から日清・日露の両戦争を経て満州事変に至る60年あまりを、ある家族の三代にわたる姿を通して描いた作品である。
 時期的に考えても、当然、国策に沿った戦意高揚・銃後の意識を鼓舞するという目的が、映画製作を依頼した側にはあったはずである。ストーリー展開もキャラクター設定も、そういう意図から外れてはいない。しかし、細部の描写はときどきその本来の目的を逸脱しがちであり、最後のシークエンスで大きく違う方向へと展開する。その場面を見る限り、この作品を国策映画と呼ぶことは難しい。結果として、木下は情報局から「にらまれ(当人談)」終戦時まで仕事が出来なくなったと言われている。(ウィキペディア「陸軍(映画)」)

 ‘最後のシークエンス’とは、息子伸太郎が大陸に出陣する当日、「泣くから見送りに行かない」と家に一人残った母わか(田中絹代)の、家事の手が止まり、物思いに沈み、進軍ラッパの響きと人々の歓声にはっと腰を上げ、家を抜け出し、家並みや街をひたすら走り抜け、見送る人々の盛大な歓声のなかを華々しく行進する隊列の中に息子の姿を必死に探し求め、ついには息子を見つけ、その名を呼び、目と目を合わせ、混雑にもまれて道に倒れるまでの一連のシーンである。
 このシークエンスは、おそらく日本映画史上五指に入る名場面と言ってよいだろう。持続する緊張感が凄まじい。演じる田中絹代を見れば、誰もが否応無く、「日本映画史上最高の名女優は、吉永小百合でも原節子でも杉村春子でも樹木希林でも田中裕子でもなく、田中絹代その人だ」と認めざるをないだろう。実際、この映画の主役は途中まで笠智衆なのだが、最後の最後の5分間で田中絹代にすべて持っていかれてしまう。
 これは、しかし、軍国主義に反感を持つ木下恵介監督の策略のなせるわざで、笠智衆演じる父親が象徴する父権主義が、田中絹代が象徴する母性の前に色褪せていく刹那でフィルムは終了するわけである。
 なるほど、「戦争反対」のメッセージはつゆほども打ち出していない。陸軍の要望に沿うよう、「(戦時下の)日本国民(≒日本男児)たるものどうあるべきか」を笠智衆ら登場する父親たちのセリフの中で繰り返し表現し、天皇陛下への報恩と恭順を徹頭徹尾強調している。
 だが、この映画はやはり「戦意高揚映画」ではない。立派な「反戦映画」である。

 上記の見送りのシーンと同じくらい衝撃的なシーンがある。
 それは、上等兵として大陸への出兵が決まった息子伸太郎を祝う最後の晩餐シーン。家族一同がご馳走の並ぶ座卓を囲んで、和気藹々と団欒する。「やっぱり家族っていいな~」と思うシーンである。ホームドラマの名手として名を馳せた木下恵介の真骨頂である。
 しかるに、座卓を包む、内に別れの悲しみを宿しながらもほのぼのとしたあたたかい雰囲気とは裏腹に、そこで語られる会話――主に一家の主である父=笠智衆によって先導される――は、背筋が凍るほどナショナリスティックでマッチョイズムなのだ。聞いていて吐き気がしてくる。この一見‘ホームドラマ’、しかし中味は‘国家主義’という矛盾というかギャップが驚くべき効果を発揮している。
 
 多くの場合、国家と家庭は対置するものとして表現される。国家=戦争、家庭=平和の象徴で映像化されるのが一般である。家庭を崩壊し、家族を離散する‘巨悪’として、国家が起こす戦争は描かれるものである。とくに、アメリカの反戦映画にその傾向が強い。
 しかしこの映画では、木下監督は、そんな杓子定規、紋切り型に乗らない。国家と家族を対置させずに、家庭的なるものの中に戦争に繋がるエレメントを描いて、家族主義と国家主義が同一線上にあるものと喝破するのである。
 国家の思想は、家族を洗脳する。その家庭内で育てられた子供たちはまた親によって洗脳され、国家主義を身につける。家庭が戦争の温床になって、人を殺し人を死に追いやる装置として働いている。その装置が自動化していく恐ろしさを、幕末からの三代にわたる家族の歴史の中で、描き出しているのである。
 別の観点からすれば、国家は男達(世の父親)を洗脳し、父親は食卓に代表される家庭内において妻と子供たちを洗脳する。夫に従順たることを意識付けられ洗脳されたはずの妻(=母)は、それでも息子を戦場に追いやることを夫のようには誇りとは思えない。だから、「天子様のために立派に闘ってくるのだよ」とは口が裂けても言えない。「天子様にいただいた命なのだから大切にするのだよ」
 対置すべきは、国家と家庭ではなく、父権主義と母性。そんなあたりが木下監督の深意なのかもしれない。
 『お嬢さん乾杯』や『破れ太鼓』で魅せたユーモア(=機知)以上に高く評価すべきは、木下監督の狡知である。


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● 犬神人とは何者か 映画:『親鸞 白い道』(三國連太郎監督)

1987年松竹。

 浄土真宗の生みの親である親鸞上人の半生を描いた伝記映画。
 と同時に、中世の下層社会に生きる‘賤民’と言われる人々を、精密な考証に基づきリアリティ豊かに活写した日本映画史上稀に見る歴史&風俗ドラマとして、かけがえのない価値を持つ作品と言える。
 カンヌ映画祭審査員賞も十分頷けるのだが、国内においては公開当時も今も評価芳しくなく、残念なことである。観る前の自分がそうだったように、「功成り名を遂げた大物俳優の道楽」「信者の大量動員をねらった布教映画」と軽んじて敬遠していたら、大層もったいない。監督としての、いやいや芸術家としての三國連太郎の凄さに感嘆した。
 実際、これだけ見応えのある魅力的な映画は滅多あるものじゃない。140分の長尺を早送りもスキップもせず2回観てしまった。
 
 親鸞上人は、1173年京都の日野の里で公家の流れを汲む家系に生まれた。源平の争いが激しさを増す中、9歳で出家、名を範宴(はんねん)と改める。以後20年にわたり比叡山で厳しい修行を積むも、悟りに至ること叶わず、29歳で山を下り、専修念仏を説かれていた法然上人を訪ねる。
 法然上人の教えに目が開かれた親鸞は、「法然上人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」と他力本願、専修念仏の道を選ぶ。
 33歳のとき、名を善信と改める。
 専修念仏の教えが盛んになるに連れ、当時の仏教界を支配していた延暦寺、興福寺など既存仏教組織からの弾圧が激しくなる。1206年法然の門弟が開催した念仏集会に参加した後鳥羽院の女官が出家騒ぎを起こす。それが院の逆鱗にふれ、ついに1207年に専修念仏は禁止、関係した僧侶らは死罪となる。法然上人は還俗させられ土佐に、35歳の親鸞は藤井善信と名を改めさせられ越後に流罪となる。
 越後では、非僧非俗の立場で民衆に専修念仏の布教に励まれる。39才のとき越後の豪族三善為教の娘恵信と結婚、6人の子をもうける。
 1214年、他宗からの迫害を逃れるため妻子とともに越後を離れ、東国を点々とした挙句、常陸(茨城県)の稲田の草庵に落ちつく。
 
 映画では、親鸞らが越後を脱出するシーンから始まって、稲田に落ち着くまでを描く。つまり、親鸞の生涯における最大の苦境の時である。
  
 まず、親鸞(この時期はまだ‘善信’)を演じる無名の新人森山潤久が素晴らしい。
 親鸞の人の良さ、やさしさ、誠実さ、謙虚さ、芯の強さ、悟りきれない迷いなどが、作為なく顔つきに投影されている。三國監督が演技力でなく、雰囲気や顔立ちで森山を抜擢したのは間違いあるまい。
 この映画以後、森山はいくつかの映画や芝居に出たらしいが、ほとんど話題になることはなかった。現在は札幌の浄土真宗大谷派のお寺で住職をしているそうである。なんという因縁!
 他の役者たちも適材適所で素晴らしい。
 妻・恵信を演じた大楠道代をはじめ、泉谷しげる、ガッツ石松、小松方正、盲目の老女を演じた原泉はまさに助演女優賞級の名演、小沢栄太郎、蟹江敬三、丹波哲郎、フランキー堺・・・。一癖も二癖もある個性的な役者たちが、中世の身分社会のそれぞれの階層に似つかわしい雰囲気と表情と所作とでもって、人間臭さを撒き散らしている。これを観ると、昨今のNHK大河ドラマの出演者を含めるスタッフたち、そして視聴者が、いかに浅い人間理解と平板な演技に満足しているかを、つくづく感じる。

 親鸞を取り巻き、膝と膝とを突きあわせ、説法に耳を傾けるのは、化外の民、被差別の民である。
 太子信仰の猟師、葬送人(泣き男)、ハンセン病患者、盲目の琵琶法師(『怪談』で耳なし芳一を演じた中村嘉葎雄が演じている!)、「はいち」と呼ばれる巫女から転落した遊女、皮剥ぎ職人、渡し守、「たたらもの」と呼ばれる製鉄職人、そして特筆すべき・・・犬神人(いぬじにん)。
 
 中世、京都祇園八坂神社に隷属して、社領内の治安警察ならびに清掃などの雑役に従事した者。鴨の河原に近い祇園あたりに集居。日頃は弓弦や矢の製作、販売などを業とし「弦召 (つるめそ) 」とも呼ばれた。また、境内、社頭、祇園祭の神幸路の清掃のほか、戦乱、飢饉などの際の死体の処理権、葬送権をもち、死者の衣服や副葬品を取って利益としており、応安4(1371)年には、類似の権利を主張する河原者と衝突している。(ブリタニカ国際大百科「犬神人」)

 映画に出てくる犬神人・宝来は、既存の体制派仏教の手先として親鸞や念仏衆の動向を探り、スパイのごとく暗躍する役目を果たしている。法師姿で赤い布衣、白い布で眼だけ出して覆面し、八角棒を持つ。つまり、被差別者(=非人)であることを衆目にさらしながら生活することを宿命づけられている。
 この宝来がなんとも光っている。覆面からのぞく不気味な目の光が、差別され、忌み嫌われる者の卑屈さ、悲しみ、抑えつけられた怒り、諦め、狡知さ・・・といった様々な感情を映し出していて、そんじょそこらの役者じゃ、到底つとまらない難役である。
 いったい誰が演じているんだろう???

犬神人_本願寺聖人伝絵
 
--と思っていたら、宝来、最後の最後に親鸞の前で覆面を取って素顔を晒した。
 真っ白く塗った顔に黒々した髭、額には「犬」の文字の入れ墨。
 三國連太郎その人であった。
 なるほど、この役を演じるのに三國連太郎以上にふさわしい者はいまい。
 三國の養父は被差別部落の出身であり、三國自身、差別問題に関する著作、講演活動等を行っている。民俗研究者の沖浦和光との対談本『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)を読めば、三國がいかに広く深く被差別の民について研究し、そこで得たものを演技や演出に生かしているかが伺える。
 宝来こそは、三國連太郎の分身なのであろう。
「親鸞の半生を描くことは、すなわち、被差別の民を描くことにほかならない」と、三國監督は教えてくれる。

 それにしても、親鸞が比叡山での20年に及ぶ修行で悟れなかったのは、末法の世(1052年が元年とされる)に入ったからではない。それが大乗仏教の限界だったからである。
 悟りに至る方法をブッダはちゃんと説いていて、その経典も残っているのだが、それが日本に伝わらなかった。中国を通して伝えられたのは、阿弥陀如来が極楽浄土にいてどうのこうの・・・とか、56億7千万年後に弥勒菩薩が現われてどうのこうの・・・とか、悟りとは関係ない壮大なお伽噺ばかりであった。
 親鸞が迷ったのも無理はなかった。
 親鸞がもしブッダの教えをそのまま伝える原始仏教の経典の数々を目にしていたら、日本の宗教史はどれほど変わっていただろう。日本人の宗教観はどれほど今と違っていたことだろう。
 それを思うと「歴史とは因果で残酷なものよ」と思うけれど、それもまた因縁なのだろう。
 今日我々は親鸞が見たら驚喜で卒倒するような原始経典を邦訳で読むことができる。悟りに至る瞑想法を修することができる。

サードゥ、 サードゥ、サードゥ
 


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● お~い、そこの人! 映画:『怪談』(小林正樹監督)

1965年東宝

 梅雨明けして本格的な夏になったから・・・・というわけではないが、TUTAYAの棚を渉猟していたら『怪談』にすっと手が伸びた。
 第18回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した名作である。
 小林正樹は、『人間の条件』(1959-1961)、『切腹』(1962)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967)を撮った日本が世界に誇る名監督の一人なのだが、自分はまったく観ていない。真野響子が主演した『燃える秋』(1978)はハイ・ファイ・セットが唄った主題歌のみ覚えている。
 これからおいおい観ていくつもりだ。 

 本作は、小泉八雲原作『怪談』に収録されている「黒髪」「雪女」「耳なし芳一」「茶碗の中」の4編を映像化したものである。日本人ならどこかで耳にしたことのある馴染みある物語である。その意味で、ストーリーそのものへの関心ではなく、どんなふうに演出されているか、どんなふうに映像化されているか、に焦点を当てて楽しむことができる。つまり、純然と‘映画的’に・・・。

 4編とも完成度の高い見応えのある‘映画’に仕上がっている。
 なんと言っても讃えるべきは、映像美。ダリやキリコを思わせるシュールレアリズム風の幻想的な色彩と表象(たとえば空に浮かぶ目の模様)と構図とが、観る者の無意識を刺激して、怪奇と共に不安を抱かせ、非日常へと誘う。
 「ああ、これこそ映画だ」と思わず唸り、嬉しくなってくる。
 とりわけ、『耳なし芳一』で壇ノ浦に滅んだ平家の武者や女房たち一門の亡霊が正装して居並ぶシーンの美しさは、黒澤明の後期カラー作品群(『影武者』『こんな夢を見た』ほか)を軽く凌駕し、日本映画史における最高美を焼き付けている。これ一編だけでも観る価値が十分ある。
 いや、日本映画を語る者なら観なくてはなるまい。
 役者の魅力も尋常(ハンパ)でない。
 「黒髪」の三國連太郎の凄絶な老醜ぶりと鬼気迫る演技、「雪女」の岸恵子の清潔感と直感的な語りの冴え、「耳なし芳一」の中村嘉津雄と丹波哲郎の他の役者が考えられないほどの適役ぶり。ほかにも新珠三千代、仲代達矢、田中邦衛、村松英子、中村翫右衛門、杉村春子が強い印象を残す。
 脚本は水木洋子、音楽が武満徹。
 これだけ贅沢なスタッフを集めた映画は、もう作れないだろう。
 傑作である。 

 ときに、小泉八雲の『怪談』は子どもの頃、少年少女講談社文庫ふくろうの本シリーズで読んだ。
 これがとても怖かったのである。
 「耳なし芳一」「むじな」「鳥取のふとん」など小泉八雲の代表的作品のほか、上田秋成「雨月物語」、岡本綺堂「すいか」など、寝小便が止まらぬほどの名作・怪作ぞろいであった。
 だが、もっとも怖かったのは日本の怪談ではなかった。
 一緒に収録されていたウィリアム・ジェイコブス「猿の手」、チャールズ・ディケンズ「魔のトンネル」といった初めて接する海外の怪談が眠れなくなるほどに怖かった。とくに、「魔のトンネル」は、これまでに自分が読んだり観たり聞いたりした数知れぬ怪談・ホラー・怪奇ドラマの中で、今に至るまでトップの座を譲らない‘鉄板’の悪魔的傑作である。ユーモア小説の大家ディケンズは、ホラー小説の名手でもあったのだ。
 ディケンズは最後の小説『エドゥイン・ドルードの謎』を未完のまま亡くなった。数年後、アメリカに住む無学の一青年が何かに取付かれたようにその続きを書き始め、いわゆる‘自動書記’によって作品を完成させた。書かれたものは、文体も綴り方の癖もディケンズそのままで、事情を知らない人が読んだら別人が書いたものとはわからないと言う。(ソルティ未読)
 やっぱり大作家は何か違う。


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


 

● 白雪姫みたいなわたし 映画:『嫌われ松子の一生』(中島哲也監督)

 2006年東宝。

 映画を観ながら‘噎び泣く’という経験は滅多にあるものじゃない。
 ほろりとする、涙が自然と頬を伝わる、洟をすすりながら泣く快感に身をゆだねる――などはたまにある。ご多聞に漏れず、歳をとるにつれ涙腺が緩くなってきたので、「お涙頂戴」ドラマとはじめから分かっていても、意外と簡単に刺激されてしまう。
 だが、‘噎び泣く’はそんなにない。
 ‘噎び泣く’には何か魂の根幹に触れるような、映画の主人公やテーマが観る者に特別なシンパシー(共感)が生じさせるような、そんな代替不可能な関係がなくてはならない。

 『嫌われ松子の一生』を観て、自分は噎び泣いた。
 この映画を観た2014年8月3日は自分の人生にとって貴重な一日となった。
 そしてまた、この映画が公開された年から、やっとDVDをツタヤで借りて観ることになった2014年までの8年間というブランクこそが、自分の人生における‘真実’に対する遅滞を表しているような気がするのである。あるいは、表現の先端に対する鈍感ぶりを現しているような気がするのである。
 と、大げさなことをつい思ってしまうほど、この映画を観なかった歳月がもったいない。
 評判は聞いていたのに、どうして観ようとしなかったのであろう????
 いや、そうではなくて、2014年8月3日に観ることに意味があったのかもしれない。それより前に観たならば、これほど感動することはなかったのかもしれない。

 この映画は『西鶴一代女』(溝口健二)、『道』(フェデリコ・フェリーニ)、そして『オズの魔法使い』(ヴィクター・フレミング)を足して3で割ったような印象を受ける。これだけで、凄いキッチュで豊饒だ。
 一人の女性の転落人生を容赦なく描いた点では『西鶴一代女』のパロディーのようである。主人公の川尻松子(=中谷美紀、絶賛!)は、中学校の音楽教師→売れない破滅型作家に貢ぐ女→平凡なサラリーマンの愛人→トルコ嬢→ヒモのチンピラを刺した殺人者→受刑者→ヤクザの情婦→ゴミ屋敷の怪物→河原の死体、と転落の一途を辿る。転落の傾斜角と底の深さでは「西鶴一代女」を上回る(下回る)かもしれない。
 だが、世間的には転落人生でありながらも、本人が常に幸せを求め、絶望的な境遇の中にも希望を求め、愛や友情を信じて立ち直っていくあたりは、『道』に出てくるジェルソミーナ(=ジュリエッタ・マシーナ)を彷彿させる。ここが感動を呼ぶ部分である。
 そして、CGを駆使したメルヘンタッチの映像、安っぽいけれど煌くように心躍る音楽たちをコラージュしたミュージカル仕立てのストーリーテーリングは、『オズの魔法使い』。そこでは松子はドロシーで、松子に暴力を振るう恋人たちは‘ハートのない案山子さん’、‘頭の空っぽなブリキの人形さん’、‘臆病なライオンさん’である。死んだ松子の帰還先は、まさにドロシーの帰還先同様である。
 There is no place like home.
  我が家にまさるところなし

 とりわけ、CGの使い方が素晴らしい。
 ここではCGは、ロケでできない撮影を代替するための手段でもなく、映像美というアーティストの自己満足を達成する手段でもなく、コメディ(お笑い)のための技巧でもなく、中島監督が松子の波乱万丈の人生(=物語)をどう捉え、どう観る者に伝えようとしているかを規定する枠組みとして使われている。すなわち、文体(スタイル)として選び取られている。
 それが可能となるだけの、CGを自家薬籠中のものとして駆使できる能力を中島監督は持っている。
 これは凄いことだ。
 世界を見渡しても、これほどCG技術と物語(テーマ)とを有機的に結び付けられる監督はそれほど多くないのではなかろうか。(って言っても自分には8年のブランクがあるからまったく保証できないが・・・)
 松子の悲惨このうえない転落人生を、溝口のように高踏的にリアリスティックに描くのではなく、フェリーニのように庶民的にユーモアとペーソス込めて描くのでもなく、あえてV.フレミングのようにメルヘンチックに寓話風に描く。
 そのアプローチによってはじめて松子は、「貧乏でデブで臭くて頭がおかしくて周囲から嫌われるだけのグロテスクな年増の怪物」から、「ひたすら愛を求め続け自らに正直に生きたお伽噺上のヒロイン」に成り変るのである。俗から聖へ転身を遂げるのである。
 世間的価値観から外れたゴミのような人間をフィルムで掬い上げ、美しい蝶に変えてしまう中島監督の魔術的な手さばき、すなわち中島監督の松子への愛にこそ、観る者は噎び泣くのである。
 ちなみに自分が一番噎び泣いたのは、天地真理の『水色の恋』が流れたシーンである。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」  

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

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