ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価A-

● 神がなければ  映画:『イノセント』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)

1976年イタリア、フランス制作
原作 ガブリエーレ・ダヌンツィオ
上映時間 129分

 『家族の肖像』に続くヴィスコンティの遺作である。
 これもまた20代で観たときはよくわからなかった。上流階級の特殊な夫婦関係、西洋の中年達のドロドロした恋愛模様といった内容で、上流階級でも既婚でも西洋人でも中年でもなかった自分には遠い話に思えた。

 中年の色男トゥリオ(=ジャンカルロ・ジャンニーニ)は、美しく従順な妻ジュリアーナ(=ラウラ・アントネッリ)を言いくるめて妻公認のもと、美しく奔放な女性テレーザ(=ジェニファー・オニール)とつき合っている。ところが、心寂しいジュリアーナがふとしたきっかけで知り合った当代の人気作家フィリッポ・ダルボリオ(=マルク・ポレル)と恋に落ちたことを知るや、焼けぼっくいに火がついて、狂ったように妻を愛し始める。
 すでにフィリッポの子を宿していたジュリアーナは、トゥリオと別れて子供を産む決心をする。一方、トゥリオは子供を堕すよう妻に迫る。
 フィリッポが旅先で客死したことを知ったトゥリオは子供を産むことを許すが、むろん生まれた赤ん坊を腕に抱くことすらできない。ジュリアーナが赤ん坊に注ぐ愛情を、亡きフィリッポへの愛と重ね、嫉妬に身もだえる。
 苦悩の果てにトゥリオは、雪の降る晩、家の者がミサに出かけている間に赤ん坊を戸外のテラスに置き去りにする。 
 そして・・・・

 一言で筋をまとめると、「自分勝手な中年男の節操のない恋愛模様と自業自得の末路」ということになろう。そこに主人公トゥリオの独り善がりな哲学風の自己正当化モノローグがしばしば入る。共感できなければ、ただうざったいばかり。
 20代のソルティは共感できなかったので、うざったかった。それでも、貴族の邸宅を舞台とする映像は豪華そのもので、家具や調度や衣装はもとよりちょっとした小道具まで本物の香りが漂い、ヨーロッパの上流階級の贅沢で典雅な生活ぶりに酔わされた。その贅沢は、「贅沢を贅沢と思わない域に達している」贅沢である。これみよがしのところがまったくない。むろん、監督のヴィスコンティが生まれながらの貴族であるがゆえ、彼にとっては「これが自然」「これが茶の間」なのである。
 配役もこれまでのヴィスコンティ映画と違って面白いと思った。
 ジャンカルロ・ジャンニーニは『流されて…』(1974)で女主人をレイプする野性的な使用人の役で一躍有名になった男で、当時のイメージとしては貴族の役柄は180度真逆であった。ラウラ・アントネッリと来た日には、全世界共通の少年の夢想映画『青い体験』(1973)のメイドである。当時、押しも押されぬヨーロッパのセックスシンボルだった。明らかに、ヴィスコンティはこの遺作にエロティックなる生命力を吹き込みたかったのであろう。

 年はとるものである。
 20代の時によくわからなかったこの映画が、今見ると非常にリアルに感じられる。
 ヴィスコンティにしては「静謐な地味な映画」という印象を持っていたが、とんでもない誤解だった。これは、自らの死を目前にしたヴィスコンティが、覚悟を決めた透徹した視点から、「神の非在と罪」について切り込んだ深遠なる意欲作だったのである。

 主人公トゥリオを理解するうえで欠かしていけないのが「無神論者」という点である。
 どのような育ちでそうなったのか作中で語られないが、無神論者のトゥリオは天国や地獄を信じない。この現世がすべてである。(うざったいと思った)モノローグに「この世のことはこの世で」というセリフがあるように、現世至上主義というか現世唯一主義なのである。となると、自ずから刹那主義・快楽至上主義に導かれる。
 道徳観念についても、現世での利害や体面のからむ「社会の法」を犯さないようには心砕いても、「神の法」は斟酌しない。だから、「社会の法」にふれないやり方で浮気や子殺しという罪を犯すトゥリオは、社会的にも神的にも「罪なき人間=イノセント」なのである。
 彼には神という掟、人の行動を律するモラル(良心)がはなからない。そのうえで、自分のしたいことが自由にできるだけのルックスや財産や教養や地位を持っている。結果、きわめて自己中心的な人間ができあがる。
 無神論で、快楽主義で、エゴイストの男。現代風に言うならサイコパスに近いかもしれない。そんな男が最後はどうなるかを描いたのが、この映画なのである。その意味では、きわめて近・現代的な、平成の日本の庶民でも十分に通じるテーマである。

 考えてみると、ヴィスコンティの映画には神なり宗教なりの影が希薄である。『家族の肖像』も『ベニスに死す』も、いやいや、デビュー作の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』からしてそうだった。
 神の非在。
 この観点からヴィスコンティを見直してみるのも面白いかもしれない。

 それにしても、やっぱりヴィスコンティは凄いや。



評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● フラジャイル、あるいは僕の瞳が失禁した 映画:『紀ノ川』(中村登監督)

1966年松竹。

 原作は有吉佐和子の同名小説。紀州和歌山の素封家を舞台に、有吉の祖母、母親、そして有吉自身をモデルに女三代の生きざまを描いた自伝的小説。映画では、祖母にあたる花(=司葉子)の嫁入りから死までを、明治・大正・昭和の時代背景の推移に重ねながら描いている。
 とりわけ中心となるのが、花とその娘・文緒(=岩下志麻)の愛憎関係である。その意味では、別記事で書いた有吉原作&木下恵介監督『香華』に通じる。美空ひばり母子と同様に、売れっ子作家であった有吉とその敏腕なマネージャーであった母親との実際の関係が投影されているのかもしれない。

 監督の中村登はよく知らなかった。岩下志麻主演の『古都』(1963)、『智恵子抄』(1967)、萬屋錦之介主演の『日蓮』(1979)が代表作らしいが、ソルティ未見である。前2作はアカデミー外国語映画賞にノミネートされており、国際的評価も高い。「端正かつ鮮やかな作風は映画の教科書と評されている」とウィキに紹介されている。実際、この作品も一部の隙も見られない見事な‘映画’に仕上がっている。
 特に素晴らしいのが冒頭の嫁入りシーンである。
 
 川霧の立ち昇る初夏の早朝の紀ノ川を、川下にある嫁ぎ先に向かう婚礼衣装の花や付き人たちを乗せた何艘かの舟が滑るように進んで行く。滔々とした流れは川辺の緑を映し、晴れ上がった空と山は鮮やかな紀州の風景を観る者の目に焼き付ける。夜の帳の下りる頃、川面に映る篝火とたくさんの提灯に迎えられ、花は嫁ぎ先に仰々しく迎えられる。武満徹の因習的でありながらドラマチックにして雄大な音楽と共に、タイトルバックが極めてスマートに挿入される。
 このシークエンスこそ映画そのもの。「映画とは何か、映画的時間・空間とは何か、映画の快楽とは何か」をまさに教科書のように真正面から教えてくれる。大きなスクリーンで観たら、全身を震わす愉悦に瞳が失禁しそうである。

 主演の司葉子も、これまであまり注目していなかった。小津安二郎作品『秋日和』(1960)、『小早川家の秋』(1961)に原節子の娘役としてキャスティングされていたのと、市川箟監督の金田一耕助シリーズにおける着物姿の控え目なたたずまいが印象に残っている。それと、もちろん、元代議士夫人の肩書きである。
 彼女の女優としての格付けがよく分からなかったのだが、この『紀ノ川』こそが彼女の代表作であり、役者として一世一代の演技であるのは間違いない。この作品でブルーリボン主演女優賞はじめ、いろいろな賞をもらっている。

家柄や家風の違う他家に嫁いだ花は、自己を滅却して亭主に仕え、家を盛り立てていこうと献身する。亭主の浮気や娘の反抗、戦火を乗り越えて、賢く逞しく忍耐強く生きていくも、時の流れに逆らえず、家は没落し財産は奪われる。最後は、娘と孫娘・華子(=有川由紀)に見守られながら、息を引き取っていく。
 
 20代の初々しい娘から、家制度に積極的に殉じる賢婦の誉れ高い議員夫人、そして夫亡き後「家」の束縛から逃れた自由を味わいつつ来し方を振り返る老いたる女まで、明治・大正・昭和を凛として生き抜いた一人の女を実に見事に造形化している。
 調べてみると、司葉子は鳥取県のある村の大庄屋の分家の娘であり、「祖先が後醍醐天皇の密使を務めた」との伝説をもつほどの格式の高い家柄。芸能界に入るにあたって、本家から「そんな河原乞食のようなマネは許さん」と諌められたそうだ。結婚した相手は、弁護士で元自由民主党衆議院議員の相澤英之。親類縁者にも著名人が多い。
 つまり、『紀ノ川』は、作者有吉佐和子の家系の話であると同時に、司葉子自身の家系や半生と通じているのである。主役・花の置かれた環境についてよく理解し得るところであったろうし、感情移入もしやすかっただろう。後年、同じように代議士夫人になったところを見ると、性格的にも花に近いものがあったかもしれない。司葉子は、この作品と運命的な出会いをしたわけである。
 
 娘・文緒を演じる岩下志麻も強い印象を残す。
 岩下は、気の強い剛毅な女性や、ちょっとファナティック(狂気)なところのある女性を演じるとはまる。
 前者の代表は、言うまでもなく『極妻』シリーズ、ほかにNHK大河ドラマ『草燃える』の北条政子や『霧の子午線』(1999)で犯罪者を演じる桃井かおりの顔面に赤ワインをぶっ掛けた有能弁護士役がすぐに思い浮かぶ。演技上のことだとしても、桃井かおりにワインをぶっ掛けることのできる、そしてそれを桃井が許さざるを得ない女優が志麻さまのほかにいるだろうか。
 後者の代表は、『鬼畜』(1978)、『悪霊島』(1981)、『魔の刻』(1985)あたりが浮かぶ。
 『紀ノ川』公開時、彼女は25歳。水仙のように清らかで凛とした美貌が匂ってくる。絣の着物に袴姿、長く垂らした髪に大きなリボンといった大正時代のハイカラ女学生が、自転車を乗り回し、権力横暴を訴え女学生の先頭に立って校長室に直談判しに行く。まさにここで見られるのは‘気の強い’岩下志麻さまである。
 クレジットを見ると、彼女の実の父親である野々村潔の名前があった。新劇出身の役者である。どこに出ているのだろう?と探したら、なんと面白いことに、主人公・花の父親役、つまり岩下志麻演じる文緒の祖父役で出ていた。

 花の亭主(=田村高廣)の弟役で丹波哲郎が出ている。
 やっぱり演技はうまくない。が、存在感は抜群である。
 同じようなタイプの役者を挙げると、ターキーこと水の江滝子がいる。
 丹波はほんとうに作品に恵まれている。出会いの天才だったのだろう。

 173分の長尺を二夜に分けて十全に楽しんだ。
 つくづく思ったのは、「こういう映画はもう二度と作れないんだなあ~」
 お金の問題ではない。題材の問題でもない。
 華のある存在感ある役者がいなくなった。演出や撮影やセット製作や編集の技術も低下した。日本全土開発されて、歴史ドラマのロケ地が見つけられなくなった。なによりも、このような本格的な3時間近い大河ドラマを望んで映画館に足を運ぶ観客がいなくなってしまった。
 むろん、平成時代には平成ならではの映画が撮れるはずである。
 だが、この映画の冒頭シーンに見る美しさを再現することはもう絶対に不可能であろうと思うとき、映画というものがいかにフラジャイルで奇跡的な現象なのかを痛感せざるをえない。
 


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 70年覚えてる 映画:『無法松の一生』(稲垣浩監督)

1958年東宝

 『無法松の一生』(原作は岩下俊作の小説)は、映画で4回、テレビで4回、制作されている。国民的人気のストーリーであり、無法松は愛されキャラなのである。村田英雄の歌でもよく知られている。
 が、ソルティはタイトルから森の石松みたいな任侠もの、あるいは子連れ狼みたいな殺陣中心の時代劇と勘違いしていたので、これまで食指が動かなかった。
 先日職場の老人ホームで利用者らとお茶を飲みながら雑談しているときに、なぜか和太鼓の話になった。と、90歳を超えた女性利用者Kさんが、「和太鼓と言えば、『無法松の一生』は素晴らしい映画だから、あなたぜひ観なさい」とおっしゃる。Kさんによれば、「若い頃に学校の先生に薦められ友人らと観に行って、とても感動した」のだそうだ。とすれば、1943年版(74年前)の阪妻主演の映画だろう。
 どうやらソルティの想像とは違い、人情物で‘忍ぶ恋’がテーマらしい。(だから、当時キャピキャピの女学生であったKさんは今もストーリーを空で言えるほど感動したのである)
 Kさんと同じ阪東妻三郎主演の1943年版を観たかったが、近所のTUTAYAには置いてなかった。同じ稲垣浩監督が撮ってベネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)に輝いた三船敏郎主演の1958年版を鑑賞した。

 4回の映画化における主要スタッフとキャストを並べてみよう。

1943年版(大映)
監督 稲垣浩
脚本 伊丹万作
音楽 西悟郎
撮影 宮川一夫
出演者
  • 無法松(富島松五郎) 阪東妻三郎
  • 奥さん(吉岡良子) 園井恵子
  • ボン(吉岡敏雄の少年時代) 沢村アキラ
  • ボンの父 永田靖
  • 結城重蔵 月形龍之介
上映時間 99分(現存78分)

 脚本の伊丹万作は、『お葬式』『マルサの女』の伊丹十三監督の父親である。宮川一夫は、言うまでもなく日本が世界に誇る名カメラマン。『羅生門』『雨月物語』『近松物語』『破戒』など手がけた傑作は枚挙の暇が無い。園井恵子は宝塚出身の女優。作品公開の2年後に広島で被爆して亡くなっている。ボンの沢村アキラは長じての長門裕之。地域の顔役・結城重蔵を演じる月形龍之介は、往年の時代劇スターだが、水戸黄門役でも名を馳せている。モノクロ撮影で、戦時下のため検閲により20分程度削除されている。(どうやら肝心の恋にまつわるシーンがカットされたらしい)
 阪東妻三郎主演の『破れ太鼓』(木下恵介監督、1949)は、この作品屈指の名シーンである‘祇園太鼓の暴れ打ち’のパロディーだったのだな。 

1958年版(東宝)
監督 稲垣浩
脚本 稲垣浩、伊丹万作
音楽 團伊玖磨
撮影 山田一夫
出演者
  • 無法松 三船敏郎
  • 奥さん 高峰秀子
  • ボン .松本薫
  • ボンの父 芥川比呂志
  • 結城重蔵 笠智衆
上映時間 104分

 三船敏郎の演技達者ぶりに感心する。どんな役でもこなせる俳優、すなわち名優だったのだと今さらながら痛感する。高峰秀子も同様。銀幕スターとしてはけっして美人なほうではないが、深く印象に刻まれる。最も田中絹代に近づいた女優は高峰秀子なのかもしれない。芥川比呂志は作家芥川龍之介の長男である。笠智衆の出演はソルティのような笠爺ファンにはうれしいサプライズ。

1963年版(東映)
監督 村山新治
脚本 伊藤大輔
音楽 三木稔
撮影 飯村雅彦
出演者
  • 無法松 三國連太郎
  • 奥さん 淡島千景
  • ボン 島村徹
  • ボンの父 中山昭二
  • 結城豊蔵 松本染升
上映時間 104分

 三國連太郎&淡島千景の「無法松」も非常に気になる。ナイーブな芸術家気質の三國は豪快で竹を割ったような性格の無法松には向かないと思うが、鬼のような演技力でどこまでカバーしているか見物である。淡島の奥さんははまり役だろう。中山昭二はむろんウルトラセブンの隊長である。

1965年版(大映)
監督 三隅研次
脚本 伊丹万作
音楽 伊福部昭
出演者
  • 無法松 勝新太郎
  • 奥さん 有馬稲子
  • ボン .松本薫
  • ボンの父 宇津井健
  • 結城重蔵 宮口精二
上映時間 96分

 伊福部昭がどんな音楽をつけているかが気になる。ゴジラのテーマで有名な人だが、『日本誕生』で見る(聴く)ように民族的なオーケストレイションが冴える作曲家である。勝新はまんま無法松だな。三隅研次のスタイリッシュな映像も気にかかる。

 大映、東宝、東映と当時の大手映画会社がこぞって手がけているところに、『無法松』の絶大な人気を感じる。松竹が撮っていないのは路線が違うからか? 

 無法松のような男が、いまいったい日本のどこにいるんだろう?
 無法松が奥さんに抱いたような献身的な秘めたる恋が、どこを探せばあるんだろう?

 なんだか胸が痛くなるような切ない映画で、Kさんが70年間忘れずにいたことに納得した。
 ソルティは今から40年後、覚えている映画があるだろうか?
 そもそもそこまで生きているだろうか? 


 
評価:A-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 日本のシェイクスピア 映画:『日本の悲劇』(木下恵介監督)

1953年松竹。

 木下恵介監督の撮った49本の映画うち、ベスト5に入る傑作である。
 ソルティが選ぶ今のところの残りベスト4は、『香華』、『陸軍』、『永遠の人』、『破れ太鼓』。
 だが、まだ『楢山節考』、『喜びも悲しみも幾歳月』、『惜春鳥』はじめ未見が多いので、今後ベスト5がどう変わっていくか楽しみである。 黒澤明の凄さは観る者が若いうちでも分かるけれど、小津安二郎や木下恵介の凄さはある程度歳をとらないと分からない。とくに、木下映画の真髄はフェミニズムを通過しないと分からないものが多い。日本でも世界でも、まだまだ発見を待たれる監督と言えよう。

 この『日本の悲劇』も大上段なタイトルから社会派ドラマをイメージするが、実際は、戦後の混乱期に苦労して育てた子供に老いてのち冷たくされる一人の母親の半生を通して、「母の悲劇」「親子の悲劇「家庭の悲劇」を克明に描いた骨太にして非常に繊細な人間ドラマである。その意味で、「日本の悲劇」というのはむしろ狭い見方である。日本という地域性、敗戦後という時代性を超えて、「人間の悲劇」「生きることの悲劇」を描く深みに達している。
 大胆に言ってしまおう。
 
 木下恵介作品は、その最良のものにおいて、古代ギリシア悲劇あるいはシェイクスピア作品と匹敵すべきレベルにある。

 母親・春子を演じる望月優子がピカイチ。これがアメリカだったらオスカー間違いなし。とにかく上手い。
 二人の子供(歌子と清一)の為に自らを犠牲にして生きる、情が濃くて逞しくて愚かな母親を、圧倒的な存在感をもって演じている。この存在感に近いのは2時間ドラマの市原悦子か・・・。観る者は、最初から最後まで春子に共感し、母の気持ちになって、母の視点から、二人の子供をはじめとする周囲の人間ドラマを見ることになる。
 春子は夫亡き後、焼け跡で闇屋をやり、子供を親戚に預けて熱海の料亭で身を粉にして働き、時には売春まがいもし、子供の養育費を工面してきた。その甲斐あって、歌子は洋裁と英語が得意な才媛に育ち、清一は前途洋洋たる医学生となる。母の悩みと苦しみ、母の喜びと悲しみ、母の苛立ちと寂しさ、母の希望と絶望、母の強さと弱さ・・・・・。観る者はこの映画を通して一人の「母」を体験する。なので、その行き着く先にある飛び込み自殺という選択は、決して唐突でも不思議なものでもない。自分のすべてを捧げてきた当の子供から軽蔑され冷たくされ見捨てられ、生き甲斐を失った春子が自暴自棄になるのは悼ましくはあっても理不尽ではない。
 そこで観る者のやるかたなさは怒りとなって二人の子供たちへと向かう。
 何と冷たい恩知らずの子供たちか! 戦後教育はこんな自己中心的な若者を育てたのか! これが自由と権利を主張する民主主義の正体か!
 しかし、木下監督の凄さは物語をそんな紋切り型に収斂させないところにある。母親の苦労を描く一方で、母親と離れて暮らす二人の子供の成長も平行して描いているのである。
 熱海に出稼ぎに行く春子は、口車に乗せられて亡夫の弟夫婦に家を貸して、結果乗っ取られてしまう。思春期の歌子と清一は、生まれ育った自分の家に住みながら、伯父夫婦のもと肩身の狭い思いをして暮らすことになる。こき使われ、いじめられ、罵倒され、ひもじい思いをする。ある晩、辛さ寂しさに耐え切れず、二人は春子に会うため熱海に行く。そこで見たのは、酔客と体を寄せ合いながらしどけない格好で艶笑する母。二人は春子に声をかけずに通り過ぎ、駅で夜を明かして家に帰る。そのうち春子が体を売っているという噂も二人の耳に入ってくる。清一は偉くなること金持ちになることを決意し、一身に勉強に打ち込むようになる。歌子は、叔父夫婦の息子(いとこ)に病床を襲われ暴行されトラウマを背負う。縁談もあるが、トラウマと母の悪評がついて回り、希望は見出せない。(成人した歌子の描き方が凄すぎる! 女のさがをここまでリアルに多面的に描いた男性監督は世界中探してもペドロ・アルモドバル監督くらいしか見当たらない・・・)
 清一と歌子の生い立ちを描いていくことで、二人の子供が長じてどんな思いを母親に対して抱くようになるか、どんな人生観・価値観を身に着けていくかが観る者に了解される。それは十分な説得力を持っている。木下は冷たい無情な子供を描いているのではない。子供には子供の事情があり、そのような考え方や生き方を身につけざるを得ない背景があると伝えているのである。
 その点で、同じようなテーマを扱った小津安二郎の『戸田家の兄妹』や『東京物語』とは似て非なるものである。『戸田家の兄妹』は善悪がはっきりしていた。親に冷たく当たる子供たち=悪、最後まで親を見捨てず大切にする子供たち=善であった。そこから時を隔てた『東京物語』では小津監督も成熟して、親子の確執は善悪では捉えきれないことを示した。「子供には子供の生活があり事情がある。親世代は静かに去り行くのみ。子供に迷惑をかけてはいけない」というように。もはや利己的な子供世代を責める風はなかった。「老いたものは静かに去りゆくのが世の習い、それが生き物のさだめ」といった‘もののあわれ’あるいは‘無常性’が獲得された。その透徹した視点、達観した境地を、禅寺の風景のような静的スタイルで描き切ったことが、『東京物語』の傑作たるゆえんであろう。
 『日本の悲劇』は、『東京物語』の一歩先を描いている。
 一歩先というのが適切でないなら、高踏的でブルジョワで清潔志向の小津が『東京物語』で描かなかった泥々とした内幕を木下は描いている。つまり、「子供には子供の生活があり事情がある」ことを微に入り細に穿ち、観る者に提示して見せたのである。
 だから、観る者は単純に子供世代を責めることはできない。歌子や清一の立場に立てば、母・春子への冷たい仕打ちはどうにもこうにも仕方ないのだと理解できる。他人ならまだしも、実の親だからこそ許せないものがある。すべてを知って、すべてを許すには二人は若すぎる。 親には親の言い分(正当性)があり、子供には子供の言い分(正当性)がある。それぞれが頑張って厳しい時代を生き抜いてきたのである。どちらを責めることもできない。問責は洞察力(智慧)と思いやり(慈悲)に欠ける行為である。
 
 春子は春子の因縁を持ち、因縁に支配されて、世に投げ出されている。歌子は歌子の、清一は清一の因縁を持ち、因縁に支配されて、世に投げ出されている。両者の因縁がぶつかり合って齟齬が生じる。両者ともに、自分自身の因縁を見抜いて、そこから抜け出す方法を知らないので、結局、織り成す因縁が生む出す定めのまま行く着くところまで運ばれてしまう。それが最後には母・春子の自殺という最悪な‘果’を生んでしまい、それがまた新たな‘因’となって、この先の歌子と清一の人生に影を落としていくことになる。
 
 この映画は「因縁にとらわれた人間の悲劇」を圧倒的なリアリティのもとに語っている。
 ギリシア悲劇、シェイクスピアと比較しても少しも遜色なかろう。
 


評価:A-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。 
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 武士道を‘斬る’! 映画:『切腹』(小林正樹監督)

1962年松竹。

 小林正樹作品は『怪談』(1965年)に次ぎ、二作目の鑑賞となる。
 やっぱり日本が世界に誇る名監督である。小津、黒澤、溝口、木下に並んで、もっと評価・称賛されても良いと思う。名前が平凡なのが割を食っている一因だろうか。
 
 この作品も一級のサスペンスドラマに仕上がっている。黒澤の『天国と地獄』に勝るとも劣らない。
 二人の男の会話の応酬を中心としながら、ラストの謎の解明と破壊的悲劇に向けて、次第に募りゆく圧倒的緊迫感。三國連太郎と仲代達矢の重厚にして凄みある演技。丹波哲郎の独特の風格。この役者は演技そのものは決して巧くないのだが、演出家が使いたくなるような‘何かもっている’人だ。霊的な‘何か’?
 何より称賛すべきは、脚本の巧みさ。謎の解明と同時に‘生きて’くる伏線をそれとなく張り巡らしながら、緊迫感を醸成するセリフや構成でドラマを形作っていく。さすが空前絶後の天才脚本家・橋本忍。橋本と小林が組んだ時点で、この作品の成功は決まったというべきだろう。 

 『怪談』で魅せた様式美はここでも健在である。
 武家屋敷の簡素で清潔な建築美。侍達の無駄のない振る舞いの美しさ。殺陣の美しさ。それらを十全に生かす演出と照明とカメラワーク。ウィキによると、小林監督は大学時代東洋美術を専攻していたらしい。美的センスは生来のものなのだろう。
 
 平和な江戸の世、仕官先を失い生活に窮した武士が、大名屋敷を訪れて「切腹したいから庭先を貸してくれ」と迫る。困った屋敷方は、彼に金子を与えて引き取り願う。これが世に広まって、引取り料目当ての狂言切腹が横行する。
 こうした世相の中、一人の武士津雲半四郎(仲代達矢)が名門井伊家を訪れて、庭先での切腹許可を申し出る。井伊家の家老斎藤勘解由(三國連太郎)は「その手には乗らず」と、本人の要望のままに切腹を許可する。
 だが、半四郎はただの金子目当ての狂言切腹ではなかった。
 いったい彼の目的は何か。
 
 謎が明かされるにしたがい、観る者は武家社会(封建制)の残酷さや本質的矛盾――武家社会が安定したら武士の存在(出番)は必要で無くなる――を察することになる。武士道の非情や‘張子の虎’のようなくだらないプライドばかりの上っ面加減を知ることになる。
 そしてまた、組織や制度というものが持つ人間性への抑圧を痛感することになる。
 社会のすべての矛盾の一番の犠牲となって苦しむのは常に弱者である。
 この映画では、出演者中ただ一人の女優であるうら若き岩下志麻(半四郎の娘の美保役)が、結核に侵され、乳飲み子と共にあばら家で死んでいく。美保の夫もまた井伊家の犠牲となった一人であった。
 単なる時代劇ではない。現代にも十分通用する社会派ドラマである。

 2011年に三池崇史監督が3Dで再映画化している。
 が、これほど最高のスタッフ陣を揃えた、これほど完成度の高い傑作を前に、はたしてその必要があったのだろうか。疑問である。


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 高峰秀子、礼讃!! 映画:『永遠の人』(木下恵介監督)

1961年松竹映画。

  米国アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた評価の高い作品である。
 オスカー受賞=いい映画というわけでは全然ないけれど、この映画は間違いなく傑作である。

 主演の高峰秀子の演技は、伝説的名女優・田中絹代ばりのリアリティと集中力の域に達していて、これまでに見た高峰秀子の作品の中では文句なく最高級の賛辞に値する。十代の小作人の生娘から、孫を腕に抱く白髪・皺まじりの老けこんだ地主の奥様までを、昭和期の5つの時代を5幕仕立てで描く構成の妙を天才的勘と知性とでのみこんで、歳ふるとともに変わってゆく女の姿と、何十年という歳月を経てもなお変わらない女心とを、ものの見事に演じ切っている。
 人々の愛憎を悠然と眺める阿蘇の雄大な風景も効果的。日本の農村の因習に満ちた土着文化の息苦しさや忌まわしさ--横溝正史のミステリーに代表されるような--を、のびやかな空間でもって解放している。
 監督の実弟である木下忠司の音楽も素晴らしい。暗く陰惨になりがちなストーリーを、フラメンコという異質なものをかけ合わせることでラテン的に救い上げ、一方で情熱と哀愁に満ちたギターとカスタネットの調べが、「生娘だった自分を無理やり犯し、好きな男との間を切り裂いた憎き男(=仲代達矢が演じている)」の妻として生き続けなければならない一人の女の悲しい物語を、国や文化を越えた‘女の一生’ドラマにまで引き揚げている。
 センスが良い。

  この作品を観ると、木下恵介が同時代に活躍した黒沢明にも小津安二郎にもない、あるいは現代活躍する多くの映画監督にもなかなか見られない、極めて優れたオリジナリティ(=天才性)を持っていたことが理解できる。
 それは、一言でいえば、写実主義にも等しい人間の心理描写の細やかさである。
 とりわけ、この作品のほか『香華』や『女の園』に見られる女の心理描写について、まるで女性作家のごとき繊細にして執拗な心の綾をたどるのに長けている。
 むろん、あくまでも「女性的資質を多分に持つ男性作家が想像する女性の心理」の域はどうしたって出ることは叶わないものの・・・。

  日本が生んだ偉大なる‘ゲイ’術家の一人であることは、もはや疑いようがない。
 今後ますます国際的な評価は高まるものと推測される。
 「永遠の人」とは木下自身である。


 評価:A-


 A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 機知と狡知 映画:『陸軍』(木下恵介監督)

1944年陸軍省後援 情報局国民映画。

 朝日新聞に連載された火野葦平の小説を原作に、幕末から日清・日露の両戦争を経て満州事変に至る60年あまりを、ある家族の三代にわたる姿を通して描いた作品である。
 時期的に考えても、当然、国策に沿った戦意高揚・銃後の意識を鼓舞するという目的が、映画製作を依頼した側にはあったはずである。ストーリー展開もキャラクター設定も、そういう意図から外れてはいない。しかし、細部の描写はときどきその本来の目的を逸脱しがちであり、最後のシークエンスで大きく違う方向へと展開する。その場面を見る限り、この作品を国策映画と呼ぶことは難しい。結果として、木下は情報局から「にらまれ(当人談)」終戦時まで仕事が出来なくなったと言われている。(ウィキペディア「陸軍(映画)」)

 ‘最後のシークエンス’とは、息子伸太郎が大陸に出陣する当日、「泣くから見送りに行かない」と家に一人残った母わか(田中絹代)の、家事の手が止まり、物思いに沈み、進軍ラッパの響きと人々の歓声にはっと腰を上げ、家を抜け出し、家並みや街をひたすら走り抜け、見送る人々の盛大な歓声のなかを華々しく行進する隊列の中に息子の姿を必死に探し求め、ついには息子を見つけ、その名を呼び、目と目を合わせ、混雑にもまれて道に倒れるまでの一連のシーンである。
 このシークエンスは、おそらく日本映画史上五指に入る名場面と言ってよいだろう。持続する緊張感が凄まじい。演じる田中絹代を見れば、誰もが否応無く、「日本映画史上最高の名女優は、吉永小百合でも原節子でも杉村春子でも樹木希林でも田中裕子でもなく、田中絹代その人だ」と認めざるをないだろう。実際、この映画の主役は途中まで笠智衆なのだが、最後の最後の5分間で田中絹代にすべて持っていかれてしまう。
 これは、しかし、軍国主義に反感を持つ木下恵介監督の策略のなせるわざで、笠智衆演じる父親が象徴する父権主義が、田中絹代が象徴する母性の前に色褪せていく刹那でフィルムは終了するわけである。
 なるほど、「戦争反対」のメッセージはつゆほども打ち出していない。陸軍の要望に沿うよう、「(戦時下の)日本国民(≒日本男児)たるものどうあるべきか」を笠智衆ら登場する父親たちのセリフの中で繰り返し表現し、天皇陛下への報恩と恭順を徹頭徹尾強調している。
 だが、この映画はやはり「戦意高揚映画」ではない。立派な「反戦映画」である。

 上記の見送りのシーンと同じくらい衝撃的なシーンがある。
 それは、上等兵として大陸への出兵が決まった息子伸太郎を祝う最後の晩餐シーン。家族一同がご馳走の並ぶ座卓を囲んで、和気藹々と団欒する。「やっぱり家族っていいな~」と思うシーンである。ホームドラマの名手として名を馳せた木下恵介の真骨頂である。
 しかるに、座卓を包む、内に別れの悲しみを宿しながらもほのぼのとしたあたたかい雰囲気とは裏腹に、そこで語られる会話――主に一家の主である父=笠智衆によって先導される――は、背筋が凍るほどナショナリスティックでマッチョイズムなのだ。聞いていて吐き気がしてくる。この一見‘ホームドラマ’、しかし中味は‘国家主義’という矛盾というかギャップが驚くべき効果を発揮している。
 
 多くの場合、国家と家庭は対置するものとして表現される。国家=戦争、家庭=平和の象徴で映像化されるのが一般である。家庭を崩壊し、家族を離散する‘巨悪’として、国家が起こす戦争は描かれるものである。とくに、アメリカの反戦映画にその傾向が強い。
 しかしこの映画では、木下監督は、そんな杓子定規、紋切り型に乗らない。国家と家族を対置させずに、家庭的なるものの中に戦争に繋がるエレメントを描いて、家族主義と国家主義が同一線上にあるものと喝破するのである。
 国家の思想は、家族を洗脳する。その家庭内で育てられた子供たちはまた親によって洗脳され、国家主義を身につける。家庭が戦争の温床になって、人を殺し人を死に追いやる装置として働いている。その装置が自動化していく恐ろしさを、幕末からの三代にわたる家族の歴史の中で、描き出しているのである。
 別の観点からすれば、国家は男達(世の父親)を洗脳し、父親は食卓に代表される家庭内において妻と子供たちを洗脳する。夫に従順たることを意識付けられ洗脳されたはずの妻(=母)は、それでも息子を戦場に追いやることを夫のようには誇りとは思えない。だから、「天子様のために立派に闘ってくるのだよ」とは口が裂けても言えない。「天子様にいただいた命なのだから大切にするのだよ」
 対置すべきは、国家と家庭ではなく、父権主義と母性。そんなあたりが木下監督の深意なのかもしれない。
 『お嬢さん乾杯』や『破れ太鼓』で魅せたユーモア(=機知)以上に高く評価すべきは、木下監督の狡知である。


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● 犬神人とは何者か 映画:『親鸞 白い道』(三國連太郎監督)

1987年松竹。

 浄土真宗の生みの親である親鸞上人の半生を描いた伝記映画。
 と同時に、中世の下層社会に生きる‘賤民’と言われる人々を、精密な考証に基づきリアリティ豊かに活写した日本映画史上稀に見る歴史&風俗ドラマとして、かけがえのない価値を持つ作品と言える。
 カンヌ映画祭審査員賞も十分頷けるのだが、国内においては公開当時も今も評価芳しくなく、残念なことである。観る前の自分がそうだったように、「功成り名を遂げた大物俳優の道楽」「信者の大量動員をねらった布教映画」と軽んじて敬遠していたら、大層もったいない。監督としての、いやいや芸術家としての三國連太郎の凄さに感嘆した。
 実際、これだけ見応えのある魅力的な映画は滅多あるものじゃない。140分の長尺を早送りもスキップもせず2回観てしまった。
 
 親鸞上人は、1173年京都の日野の里で公家の流れを汲む家系に生まれた。源平の争いが激しさを増す中、9歳で出家、名を範宴(はんねん)と改める。以後20年にわたり比叡山で厳しい修行を積むも、悟りに至ること叶わず、29歳で山を下り、専修念仏を説かれていた法然上人を訪ねる。
 法然上人の教えに目が開かれた親鸞は、「法然上人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」と他力本願、専修念仏の道を選ぶ。
 33歳のとき、名を善信と改める。
 専修念仏の教えが盛んになるに連れ、当時の仏教界を支配していた延暦寺、興福寺など既存仏教組織からの弾圧が激しくなる。1206年法然の門弟が開催した念仏集会に参加した後鳥羽院の女官が出家騒ぎを起こす。それが院の逆鱗にふれ、ついに1207年に専修念仏は禁止、関係した僧侶らは死罪となる。法然上人は還俗させられ土佐に、35歳の親鸞は藤井善信と名を改めさせられ越後に流罪となる。
 越後では、非僧非俗の立場で民衆に専修念仏の布教に励まれる。39才のとき越後の豪族三善為教の娘恵信と結婚、6人の子をもうける。
 1214年、他宗からの迫害を逃れるため妻子とともに越後を離れ、東国を点々とした挙句、常陸(茨城県)の稲田の草庵に落ちつく。
 
 映画では、親鸞らが越後を脱出するシーンから始まって、稲田に落ち着くまでを描く。つまり、親鸞の生涯における最大の苦境の時である。
  
 まず、親鸞(この時期はまだ‘善信’)を演じる無名の新人森山潤久が素晴らしい。
 親鸞の人の良さ、やさしさ、誠実さ、謙虚さ、芯の強さ、悟りきれない迷いなどが、作為なく顔つきに投影されている。三國監督が演技力でなく、雰囲気や顔立ちで森山を抜擢したのは間違いあるまい。
 この映画以後、森山はいくつかの映画や芝居に出たらしいが、ほとんど話題になることはなかった。現在は札幌の浄土真宗大谷派のお寺で住職をしているそうである。なんという因縁!
 他の役者たちも適材適所で素晴らしい。
 妻・恵信を演じた大楠道代をはじめ、泉谷しげる、ガッツ石松、小松方正、盲目の老女を演じた原泉はまさに助演女優賞級の名演、小沢栄太郎、蟹江敬三、丹波哲郎、フランキー堺・・・。一癖も二癖もある個性的な役者たちが、中世の身分社会のそれぞれの階層に似つかわしい雰囲気と表情と所作とでもって、人間臭さを撒き散らしている。これを観ると、昨今のNHK大河ドラマの出演者を含めるスタッフたち、そして視聴者が、いかに浅い人間理解と平板な演技に満足しているかを、つくづく感じる。

 親鸞を取り巻き、膝と膝とを突きあわせ、説法に耳を傾けるのは、化外の民、被差別の民である。
 太子信仰の猟師、葬送人(泣き男)、ハンセン病患者、盲目の琵琶法師(『怪談』で耳なし芳一を演じた中村嘉葎雄が演じている!)、「はいち」と呼ばれる巫女から転落した遊女、皮剥ぎ職人、渡し守、「たたらもの」と呼ばれる製鉄職人、そして特筆すべき・・・犬神人(いぬじにん)。
 
 中世、京都祇園八坂神社に隷属して、社領内の治安警察ならびに清掃などの雑役に従事した者。鴨の河原に近い祇園あたりに集居。日頃は弓弦や矢の製作、販売などを業とし「弦召 (つるめそ) 」とも呼ばれた。また、境内、社頭、祇園祭の神幸路の清掃のほか、戦乱、飢饉などの際の死体の処理権、葬送権をもち、死者の衣服や副葬品を取って利益としており、応安4(1371)年には、類似の権利を主張する河原者と衝突している。(ブリタニカ国際大百科「犬神人」)

 映画に出てくる犬神人・宝来は、既存の体制派仏教の手先として親鸞や念仏衆の動向を探り、スパイのごとく暗躍する役目を果たしている。法師姿で赤い布衣、白い布で眼だけ出して覆面し、八角棒を持つ。つまり、被差別者(=非人)であることを衆目にさらしながら生活することを宿命づけられている。
 この宝来がなんとも光っている。覆面からのぞく不気味な目の光が、差別され、忌み嫌われる者の卑屈さ、悲しみ、抑えつけられた怒り、諦め、狡知さ・・・といった様々な感情を映し出していて、そんじょそこらの役者じゃ、到底つとまらない難役である。
 いったい誰が演じているんだろう???

犬神人_本願寺聖人伝絵
 
--と思っていたら、宝来、最後の最後に親鸞の前で覆面を取って素顔を晒した。
 真っ白く塗った顔に黒々した髭、額には「犬」の文字の入れ墨。
 三國連太郎その人であった。
 なるほど、この役を演じるのに三國連太郎以上にふさわしい者はいまい。
 三國の養父は被差別部落の出身であり、三國自身、差別問題に関する著作、講演活動等を行っている。民俗研究者の沖浦和光との対談本『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)を読めば、三國がいかに広く深く被差別の民について研究し、そこで得たものを演技や演出に生かしているかが伺える。
 宝来こそは、三國連太郎の分身なのであろう。
「親鸞の半生を描くことは、すなわち、被差別の民を描くことにほかならない」と、三國監督は教えてくれる。

 それにしても、親鸞が比叡山での20年に及ぶ修行で悟れなかったのは、末法の世(1052年が元年とされる)に入ったからではない。それが大乗仏教の限界だったからである。
 悟りに至る方法をブッダはちゃんと説いていて、その経典も残っているのだが、それが日本に伝わらなかった。中国を通して伝えられたのは、阿弥陀如来が極楽浄土にいてどうのこうの・・・とか、56億7千万年後に弥勒菩薩が現われてどうのこうの・・・とか、悟りとは関係ない壮大なお伽噺ばかりであった。
 親鸞が迷ったのも無理はなかった。
 親鸞がもしブッダの教えをそのまま伝える原始仏教の経典の数々を目にしていたら、日本の宗教史はどれほど変わっていただろう。日本人の宗教観はどれほど今と違っていたことだろう。
 それを思うと「歴史とは因果で残酷なものよ」と思うけれど、それもまた因縁なのだろう。
 今日我々は親鸞が見たら驚喜で卒倒するような原始経典を邦訳で読むことができる。悟りに至る瞑想法を修することができる。

サードゥ、 サードゥ、サードゥ
 


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● お~い、そこの人! 映画:『怪談』(小林正樹監督)

1965年東宝

 梅雨明けして本格的な夏になったから・・・・というわけではないが、TUTAYAの棚を渉猟していたら『怪談』にすっと手が伸びた。
 第18回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した名作である。
 小林正樹は、『人間の条件』(1959-1961)、『切腹』(1962)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967)を撮った日本が世界に誇る名監督の一人なのだが、自分はまったく観ていない。真野響子が主演した『燃える秋』(1978)はハイ・ファイ・セットが唄った主題歌のみ覚えている。
 これからおいおい観ていくつもりだ。 

 本作は、小泉八雲原作『怪談』に収録されている「黒髪」「雪女」「耳なし芳一」「茶碗の中」の4編を映像化したものである。日本人ならどこかで耳にしたことのある馴染みある物語である。その意味で、ストーリーそのものへの関心ではなく、どんなふうに演出されているか、どんなふうに映像化されているか、に焦点を当てて楽しむことができる。つまり、純然と‘映画的’に・・・。

 4編とも完成度の高い見応えのある‘映画’に仕上がっている。
 なんと言っても讃えるべきは、映像美。ダリやキリコを思わせるシュールレアリズム風の幻想的な色彩と表象(たとえば空に浮かぶ目の模様)と構図とが、観る者の無意識を刺激して、怪奇と共に不安を抱かせ、非日常へと誘う。
 「ああ、これこそ映画だ」と思わず唸り、嬉しくなってくる。
 とりわけ、『耳なし芳一』で壇ノ浦に滅んだ平家の武者や女房たち一門の亡霊が正装して居並ぶシーンの美しさは、黒澤明の後期カラー作品群(『影武者』『こんな夢を見た』ほか)を軽く凌駕し、日本映画史における最高美を焼き付けている。これ一編だけでも観る価値が十分ある。
 いや、日本映画を語る者なら観なくてはなるまい。
 役者の魅力も尋常(ハンパ)でない。
 「黒髪」の三國連太郎の凄絶な老醜ぶりと鬼気迫る演技、「雪女」の岸恵子の清潔感と直感的な語りの冴え、「耳なし芳一」の中村嘉津雄と丹波哲郎の他の役者が考えられないほどの適役ぶり。ほかにも新珠三千代、仲代達矢、田中邦衛、村松英子、中村翫右衛門、杉村春子が強い印象を残す。
 脚本は水木洋子、音楽が武満徹。
 これだけ贅沢なスタッフを集めた映画は、もう作れないだろう。
 傑作である。 

 ときに、小泉八雲の『怪談』は子どもの頃、少年少女講談社文庫ふくろうの本シリーズで読んだ。
 これがとても怖かったのである。
 「耳なし芳一」「むじな」「鳥取のふとん」など小泉八雲の代表的作品のほか、上田秋成「雨月物語」、岡本綺堂「すいか」など、寝小便が止まらぬほどの名作・怪作ぞろいであった。
 だが、もっとも怖かったのは日本の怪談ではなかった。
 一緒に収録されていたウィリアム・ジェイコブス「猿の手」、チャールズ・ディケンズ「魔のトンネル」といった初めて接する海外の怪談が眠れなくなるほどに怖かった。とくに、「魔のトンネル」は、これまでに自分が読んだり観たり聞いたりした数知れぬ怪談・ホラー・怪奇ドラマの中で、今に至るまでトップの座を譲らない‘鉄板’の悪魔的傑作である。ユーモア小説の大家ディケンズは、ホラー小説の名手でもあったのだ。
 ディケンズは最後の小説『エドゥイン・ドルードの謎』を未完のまま亡くなった。数年後、アメリカに住む無学の一青年が何かに取付かれたようにその続きを書き始め、いわゆる‘自動書記’によって作品を完成させた。書かれたものは、文体も綴り方の癖もディケンズそのままで、事情を知らない人が読んだら別人が書いたものとはわからないと言う。(ソルティ未読)
 やっぱり大作家は何か違う。


評価:A-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


 

● 白雪姫みたいなわたし 映画:『嫌われ松子の一生』(中島哲也監督)

 2006年東宝。

 映画を観ながら‘噎び泣く’という経験は滅多にあるものじゃない。
 ほろりとする、涙が自然と頬を伝わる、洟をすすりながら泣く快感に身をゆだねる――などはたまにある。ご多聞に漏れず、歳をとるにつれ涙腺が緩くなってきたので、「お涙頂戴」ドラマとはじめから分かっていても、意外と簡単に刺激されてしまう。
 だが、‘噎び泣く’はそんなにない。
 ‘噎び泣く’には何か魂の根幹に触れるような、映画の主人公やテーマが観る者に特別なシンパシー(共感)が生じさせるような、そんな代替不可能な関係がなくてはならない。

 『嫌われ松子の一生』を観て、自分は噎び泣いた。
 この映画を観た2014年8月3日は自分の人生にとって貴重な一日となった。
 そしてまた、この映画が公開された年から、やっとDVDをツタヤで借りて観ることになった2014年までの8年間というブランクこそが、自分の人生における‘真実’に対する遅滞を表しているような気がするのである。あるいは、表現の先端に対する鈍感ぶりを現しているような気がするのである。
 と、大げさなことをつい思ってしまうほど、この映画を観なかった歳月がもったいない。
 評判は聞いていたのに、どうして観ようとしなかったのであろう????
 いや、そうではなくて、2014年8月3日に観ることに意味があったのかもしれない。それより前に観たならば、これほど感動することはなかったのかもしれない。

 この映画は『西鶴一代女』(溝口健二)、『道』(フェデリコ・フェリーニ)、そして『オズの魔法使い』(ヴィクター・フレミング)を足して3で割ったような印象を受ける。これだけで、凄いキッチュで豊饒だ。
 一人の女性の転落人生を容赦なく描いた点では『西鶴一代女』のパロディーのようである。主人公の川尻松子(=中谷美紀、絶賛!)は、中学校の音楽教師→売れない破滅型作家に貢ぐ女→平凡なサラリーマンの愛人→トルコ嬢→ヒモのチンピラを刺した殺人者→受刑者→ヤクザの情婦→ゴミ屋敷の怪物→河原の死体、と転落の一途を辿る。転落の傾斜角と底の深さでは「西鶴一代女」を上回る(下回る)かもしれない。
 だが、世間的には転落人生でありながらも、本人が常に幸せを求め、絶望的な境遇の中にも希望を求め、愛や友情を信じて立ち直っていくあたりは、『道』に出てくるジェルソミーナ(=ジュリエッタ・マシーナ)を彷彿させる。ここが感動を呼ぶ部分である。
 そして、CGを駆使したメルヘンタッチの映像、安っぽいけれど煌くように心躍る音楽たちをコラージュしたミュージカル仕立てのストーリーテーリングは、『オズの魔法使い』。そこでは松子はドロシーで、松子に暴力を振るう恋人たちは‘ハートのない案山子さん’、‘頭の空っぽなブリキの人形さん’、‘臆病なライオンさん’である。死んだ松子の帰還先は、まさにドロシーの帰還先同様である。
 There is no place like home.
  我が家にまさるところなし

 とりわけ、CGの使い方が素晴らしい。
 ここではCGは、ロケでできない撮影を代替するための手段でもなく、映像美というアーティストの自己満足を達成する手段でもなく、コメディ(お笑い)のための技巧でもなく、中島監督が松子の波乱万丈の人生(=物語)をどう捉え、どう観る者に伝えようとしているかを規定する枠組みとして使われている。すなわち、文体(スタイル)として選び取られている。
 それが可能となるだけの、CGを自家薬籠中のものとして駆使できる能力を中島監督は持っている。
 これは凄いことだ。
 世界を見渡しても、これほどCG技術と物語(テーマ)とを有機的に結び付けられる監督はそれほど多くないのではなかろうか。(って言っても自分には8年のブランクがあるからまったく保証できないが・・・)
 松子の悲惨このうえない転落人生を、溝口のように高踏的にリアリスティックに描くのではなく、フェリーニのように庶民的にユーモアとペーソス込めて描くのでもなく、あえてV.フレミングのようにメルヘンチックに寓話風に描く。
 そのアプローチによってはじめて松子は、「貧乏でデブで臭くて頭がおかしくて周囲から嫌われるだけのグロテスクな年増の怪物」から、「ひたすら愛を求め続け自らに正直に生きたお伽噺上のヒロイン」に成り変るのである。俗から聖へ転身を遂げるのである。
 世間的価値観から外れたゴミのような人間をフィルムで掬い上げ、美しい蝶に変えてしまう中島監督の魔術的な手さばき、すなわち中島監督の松子への愛にこそ、観る者は噎び泣くのである。
 ちなみに自分が一番噎び泣いたのは、天地真理の『水色の恋』が流れたシーンである。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」  

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『歌行燈』(衣笠貞之助監督)

 1960年大映。

 衣笠監督といえば1954年にカンヌグランプリを受賞している『地獄門』(京マチ子、長谷川一夫主演)が名高い。が、それ以外の作品についてはほとんど知られていない。上映される機会も少ない。レンタルビデオ店にも置かれていない。
 『地獄門』以外は観たことがなかった。
 『地獄門』は見事な色彩表現と京マチ子の美貌に感嘆はしたけれど、黒澤や小津や溝口といった大監督の傑作群にくらべれば印象に残るものではない。監督としての知名度も評価も上記3人はもちろんのこと、同じ国際的な賞をもらっている市川昆や大島渚や今村昌平などに比べても低い。少なくとも国内では。
 これは個人的な見解ではない。
日本映画150 文藝春秋『大アンケートによる日本映画ベスト150』(1989年発行)を見ても、衣笠貞之助の名前は監督ベスト20にも入っていない(49位)。その作品でベスト150に挙がっているのは『地獄門』ではなく『狂った一頁』(1926年)のみで、それも113位である。
 1920年から66年まで実に60本以上の作品を世に送り出し、長谷川一夫や山本富士子といった大スターの育ての親であることを考えると、この評価の低さは不可解というか不当である。まさか若い頃女形役者であったことで低く見られているとも思えんが・・・。

 最近昭和キネマ横丁からリリースされた『歌行燈』は、『地獄門』を軽く超える衣笠監督の最高傑作であるばかりでなく、おそらく日本映画史上20指に入る大傑作である。これほどの名画がこれまで埋もれていたとはなんとも由々しきばかり。

 全編を覆う、目眩き美・美・美の氾濫!
 どのシーンで画面を一時停止させても「絵」になるショットの美しさ。アップでもバストショットでもロングショットでもなく、あたかも縁先の庭の木陰から屋内を覗くような中間距離の撮影方法(まさにその通りのシーンが最後に出てくる)が、色彩と陰影と構図によって瞬間瞬間の美を生む出すことを可能にし、観る者は映画的陶酔に引きずり込まれる。その距離は「節度ある近しさ」とも「覗きの快楽」とも言い得るような、まさに映画でなければできない物語の視点を醸成している。

 主演の市川雷蔵の美しさは、造形的なものとは別にその「暗さ」にある。部落差別を描いた『破戒』(1962年)や、三島由紀夫『金閣寺』を原作とした同じ市川昆監督の『炎上』(1958年)の主役を好演したことが表すように、雷蔵の美は「暗さの美、哀しみの美、疎外される者の美」であり、ブラッド・ピットよりアラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーブよりグレタ・ガルボ、浅田真央よりキム・ヨナに近い。元来、日本人はこのような翳りのある美が好きなのではないかと思う。
 一方の主役である山本富士子の美は、その名(本名だと言うから驚く)の示す通り、日本的な美の極致である。何といっても「第一回ミス日本」なのだ。
 ただし、女優の美しさというのは造形的なものだけでは不足する。それは同じミス日本グランプリである藤原紀香が、女優としては輝けないのを見ればよく分かる。女優として一級になるには、造形美プラス「何か」が必要なのである。単純に演技力ではない。
 この映画の中の山本富士子は、最初のうちその「何か」が不足しているように思える。地方の謡曲師の娘お袖としてなるほど鄙には稀な美人である。だが、雷蔵の相手役を張れるほどのタマではない。父の自殺を機に家が潰れ、芸者に身を落としたあとも、まだまだ主役になりきれていない。
 ところが、喜多八(雷蔵)と再会し恋を知ったその日をさかいに、お袖は一気に艶を増す。山本富士子は、堂々の主演女優に化ける。その変化があっけに取られるほど素晴らしい。つまり、山本富士子は「おぼこ娘」を演じていたのである。
 この変化(へんげ)は、自身女形だった衣笠の演出の腕が冴えていることももちろんだが、それに応えてオーラーを自在に開花させることのできる山本富士子はやはり単なる美人女優ではない。

 原作は泉鏡花の同名小説。
 だから、ハッピーエンドに終わるのにケチはつけられないものの、もし悲劇的結末が用意されていたら、「A+」をつけてしまったかも。




評価:A-



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
        
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● かかわらなければ 映画:『デタッチメント 優しい無関心』(トニー・ケイ監督)

 2011年アメリカ映画。

 観ているうちに傑作の予感がじわじわと湧いてきて背筋がゾクゾクする体験など、そうしょっちゅうあるものではない。100本観て1本くらい、いや200本かもしれない。
 そんな映画たち――例えば、『父、帰る』(アンドレイ・ズビャギンツェフ)、『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(原恵一)、『フィアレス』(ピーター・ウィア)、『馬鹿宣言』(イ・チャンホ)e.t.c――との出会いは、映画を観ること、観続けることの歓びを教えてくれる。
 『デタッチメント』もまたその一つである。


 何が素晴らしいといって、まず役者が素晴らしい。
 主役の教師ヘンリーを演じるエイドリアン・ブロディの慈愛の向こうに哀しみを湛えたまなざし。この人はイエス・キリストを演じられると思う。
 ヘンリーと同居する不良少女エリカを演じる無名のサミ・ゲイルも素晴らしい。生まれてはじめての‘家族’ヘンリーを得た喜びと、ヘンリーのデタッチメント(優しい無関心)ゆえにその絆を奪われる悲嘆を、体当たりで演じていて思わず涙を誘われる。
 生徒や親になめられ、上部機関(理事会or教育委員会?)によって運営方針を左右される教員たちを演じる個性派俳優たち(ジャームズ・カーン、ルーシー・リュー、マーシャ・ゲイ・ハーデン)も素晴らしい。

 素晴らしい俳優たちによって演じられるドラマの中味は、アメリカの教育現場のありのままの姿である。落ちこぼれ、いじめ、風紀紊乱、校内暴力、動物虐待、学級崩壊、モンスターペアレント、自殺・・・・。現代の先進国の多くが直面している教育の荒廃が描かれている。それはまた現代の少年少女の置かれている状況そのものでもある。
 日本の戦中のような軍国主義スパルタ教育や80年代愛知県の徹底した管理教育が良いとは言わないが、西欧個人主義(権利の徹底的主張)と資本主義(欲望の追求)の結婚から生まれた‘自由放任教育’が、若者の成長に益するとは到底思われない。
 とくに西洋の場合、個人主義の行きすぎに歯止めをかけるのに役立っていた宗教(キリスト教)とそこから来る倫理が今や地に堕ちてしまった。それにとって代わるものは未だ見つからない。個人の行動を制御するものがない。
 日本の場合、宗教は個人の行動規範とは十分なりえなかった。「悪いことをしたら地獄に落ちる」「閻魔様に舌を抜かれる」といった子供への脅し文句はあったが、それよりも日本人の行動を制御するのは昔も今も‘世間(体)’である。だから、日本の学校は荒廃しているとはいえ、欧米ほど末期的ではない。
 とはいえ、現場で働く教員たちのストレスはたいへんなものであろう。実際、教職を希望する若者のいることが、介護職を希望する若者のいることよりも、自分には不思議である。どちらもケアに関わる仕事だが、対象者のパワーが桁違いだ。それに、作品中のセリフにあるように、介護職はまだ感謝されるが、教職は感謝されなくなった。「仰げば尊し」は昔の話である。


 この映画の妙味は、昨今の教育現場を描くのと兼ねて、ヘンリーという一人の教員のパーソナリティと心のドラマを描いているところにある。タイトルから言えば、むしろこちらが主筋と言えよう。
 デタッチメント(Detachment)は「距離を置くこと、無関心」という意。これを「優しい無関心」と訳したのはなかなかうまいと思う。
 子供時代のトラウマ――母親の自殺を目撃――から、人と深く関わるのを避けるようになったヘンリーは、一歩距離を置くことで相手の感情に巻き込まれずにいられるがゆえに、不良生徒の扱いがうまい。臨時教員として赴任した高校でも、生徒の反発を食らいながらも徐々にその手腕を発揮していく。
 だが、私生活においてヘンリーは孤独である。家族も恋人もなく、老人ホームで暮らしている祖父を見舞うのが唯一の「関係」である。
 売春をして暮らしている少女エリカとの出会いは、ヘンリーに「関わって」生きることの楽しさや喜びをつかの間味あわせてくれる。それは母親との間に確かにあった幼いころの楽しい思い出をよみがえらせる。
 しかし、ヘンリーは超えることができない。鋭い感性を持った女子生徒メレディスに孤独を見抜かれるが、周囲から深い関わりを求められれば求められるほど、自らのトラウマの大きさにたじろぐばかり。結果、ヘンリーを愛するようになったエリカを福祉の手に渡し児童養護施設に入れてしまう。
 そうして、いつものようにヘンリーが学校を去る日がやってきた。
 生徒に慕われ、同僚に惜しまれながら、デタッチメントのまま去ろうとするヘンリー。
 まさにそのとき、悲劇が起こる。


 テーマの今日性、その展開の仕方(脚本、演出)が優れているだけではない。
 ショットが素晴らしい。
 事件を振り返って語る「今」のヘンリー、事件に至るまでの過程としての主筋、フラッシュバックするヘンリーの過去、教室の黒板にチョークで描かれるイラスト、生徒たちの顔・顔・顔、そして誰もいない教室や廊下を写す「空ショット」。これら様々なショットがコラージュのように散りばめられて、心地よいリズムを作っていく。そのリズムが作品に統一された印象とどこか懐かしい寂寥感をもたらしていく様は、小津映画を想起させる。空ショットがここまで胸に食い入る映画は滅多にない。
 それは観る者の「空ろ」を投影するからだろうか。


 ハンセン病の詩人塔和子の詩を思い出した。


胸の泉に

かかわらなければ
  この愛しさを知るすべはなかった
  この親しさは湧かなかった
  この大らかな依存の安らいは得られなかった
  この甘い思いや
  さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
  子は親とかかわり
  親は子とかかわることによって
  恋も友情も
  かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
  私の胸の泉に
枯れ葉いちまい
落としてくれない




 
評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● リアルとリアリティ 映画:『アンダーグラウンド』(エミール・クストリッツァ監督)

 1995年フランス、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリア共同制作。

 170分の長尺。
 よほど面白くなければ最後まで見通せない長さである。
 が、退屈することなく見終えてしまった。それだけでも監督の力量は明らかだ。黒澤明レベルの語りの力、エンターテインメント性を持っている。

 何よりまずキャラクターの面白さが飛び抜けている。
 主役の二人の男――パルチザンの義賊にして詩人、世渡り上手な共産党員のマルコ(=ミキ・マノイロヴィッチ)と、陽気で豪放磊落でカリスマ性ある元電気工のクロ(=ラザル・リフトフスキー)――の個性的なキャラと奇天烈な友情関係が見ものである。二人はナチスに抵抗する愛国者であり町のヒーローであるのだが、ストイックで清廉潔白なところなどみじんもない。盗みをはたらき、同じ女を取り合い、武器を密造し、いつも酔っぱらって専属のブラスバンドを引き連れて踊っている。文字通り「酔狂」。非常に人間くさい、というかゴロツキに近い。
 彼等が生きる世界は、非日常を日常とする戦時下。非日常でこそ輝く二人のキャラとその破天荒な行動、ストーリー展開の突飛さが、あたかもピカレスク(悪漢)小説のような爽快感をもたらす。いわばルパン三世の世界だ。
 全編に横溢する諧謔精神もたまらない。
 ナチスのユーゴ侵略からユーゴ内戦、事態は深刻で悲惨でこの上なく悲劇的。なのにベタな悲壮感がない。登場人物の個性的なキャラや奇想天外なストーリーとあいまって全体としてスラップスティックコメディ(ドタバタ喜劇)となっている。途中、何度も吹き出してしまうシーン、にんまりしてしまうシーン、ご都合主義な展開に喝采をあげたくなるシーンがあった。実際に起こったことを考えれば、ある意味不真面目な描き方である。が、それで失敗しているかといえばそんなことはない。しっかりと監督のメッセージは伝わってくる。
 悲劇的なことを喜劇で語るのは、相当の天才無くしてできなかろう。“凡庸”とは遠く離れた才能、作品と言える。

 この映画を観ると、「リアル」と「リアリティ」の違いについて考えさせられる。
 原義(英語)ではどういう差があるのか正確なところ知らないが、自分で勝手に意味づける両者の違いは次のようなものである。

 リアル   =現実、写実主義、真に迫っている
 リアリティ =本当らしさ、真実の香り

 リアルとは、本物そっくりの造花、食品サンプル、精密な写生画、一分の隙もない時代考証、ストーリーの見事な整合性。事実、現実を正確に映している様である。
 一方、リアリティとは必ずしも事実や現実の再現、複製ではない。その現実を見て聞いて体験した作者が、そこから読み取った「世界」の真実、「ものごと」の本質の表現である。バラの造花よりは本物のバラから作った香水、食品サンプルの寿司よりはネタの旨さを想像させる酢飯、スーパーリアリズムで描かれたリンゴよりはピカソのリンゴ、ストーリーの整合性よりは人間心理のもっともらしさ、といったところか。
 人が感動するのは、必ずしもリアルに対してではない。日常生活においても、芸術作品についても、事実や現実をどう調理したか、その包丁さばきに対してより深く感動するのである。さばき方にこそ、作者の汲み取った真実が表れる。人はそこに共感するのである。

 『アンダーグラウンド』がリアルを目指していないことは一目瞭然である。
 クロとマルコが窃盗に成功し村に凱旋する冒頭シーンからそれは宣言されている。二人には専属のブラスバンドがついている。物語が佳境に入ると、どこからかそれは現れて二人の周りで景気のいい民族音楽風BGMを演奏する。二人が雇っているのか、村の英雄に対する町民有志のボランティアなのか、いっさい説明はない。まあ、ありえない。
 ヨーロッパの地下深くに根を張るパルチザンによって掘りめぐらされた都市間をつなぐ大通路なんて設定も妄想かナンセンスである。ありえない。
 対独戦争が続いているとだまされたまま20年間地下に潜伏して武器を作り続ける一団なんてのもギャグか不条理劇の世界である。ありえない。(もっとも日本には横井庄一や小野田寛郎の例があるから、なんとも言えないが。)
 つまり、クストリッツァ監督は最初から状況をリアルに描こうなどと思っていない。いくらナチスや連合軍の爆撃やユーゴスラビア連邦人民共和国の誕生やトリエステ紛争やチトー大統領の葬儀のシーンなどの実際の記録映像が、合成カットによって取り入れられていようが、それは決して物語にリアルさをもたらすことを目指してはいない。(その合成手法も、ゴルバチョフと永瀬正敏が共演していたちょっと前のカップヌードルのCMを思い出させる稚拙さである。)


 2003年に国家消滅するまでの70年間強、ユーゴスラビアとそこで暮らす人々が体験したのは、まともに語るも虚しい馬鹿げた出来事の連続である。そこにあるのは、壮大なアホらしさである。
 だから、クストリッツア監督はまともに(リアルに)語ることを拒否したのである。虚しく馬鹿げた形式(スラップスティック)で語らざるを得なかったのである。
 状況に対する監督自身の見方や思いが、物語を語る上での表現形式を自ずから決定した。観る者はその表現形式の内にこそ、監督のメッセージを読み取るべきであろう。人間のどうしようもない愚かさという真実(リアリティ)を、笑いながら悟るべきであろう。その点で、第二次世界大戦のドレスデン爆撃を舞台にしたカート・ヴォネガットのスラップスティック小説『スローターハウス5』を思い起こすのはあながち間違ってはいまい。

 マルコ、クロはじめ主要登場人物は最後には皆死んでしまう。
 亡くなった人々(の霊?)は、海上に浮かぶ緑の島に漂着し、そこで昔の仲間が一斉に会し、お互いの裏切りや罪を許し合う。ブラスバンドの賑やかな演奏の中、仲間の結婚式を祝う。古き良き日々の再来。
 その島では地上にいた頃の肉体的苦痛も消え失せている。カタワの青年バタは芝の上を自由に歩き回っており、どもりの薄のろイヴァンは言葉を取り戻し知性のきらめきを瞳に宿している。
 イヴァンは最後にカメラに向かって(観る者に向かって)独語する。
『苦痛と悲しみと喜びなしでは、子供たちにこう伝えられない。・・・・昔、あるところに国があった。』
 この瞬間、映画の冒頭からどもりの薄のろであり続けたイヴァンが、実はシェイクスピアにおける道化同様の狂言回しであったことに観る者は気づかされる。
 この映画が、『フォルスタッフ』や『テンペスト』同様の壮大なる人間喜劇であったことを悟るのである。


評価:A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● オクタビウスの謎 映画:『クレオパトラ』(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ監督)

クレパトラ 1963年アメリカ映画。

 最初に言及すべきは、リズことエリザベス・テイラーの美しさ。
 撮影当時31歳、共演のリチャード・バートンとの始まったばかりの恋に身も心も潤って、匂い立つような女らしい艶やかなオーラーを発散している。リズが出ているシーンでは、リズしか目に入らないほどである。古代エジプト最期の女王、史上随一の美女の役だけあって、どんなに着飾っても、どんなにメイクアップしても、どんなに宝石で身を固めても、どんなに尊大に振る舞っても、やりすぎることはない。その保証を手にしてリズは自らの人生の美しさの頂点をここに焼き付けた。
 自分はブラウン管でしか観たことないが、スクリーンの大画面で見たら、この美は世界遺産ものだろう。

 物語のスケールの大きさ、豪華な衣装やセット、エキストラの多さ、制作会社(20世紀フォックス)を破産寸前まで追い込んだ巨額な制作費、美貌の大スターをめぐるゴシップや逸話の数々。女優を主役とした映画では『風と共に去りぬ』(ヴィクター・フレミング監督、1939年)と並び、バビロンの如き栄華を極めた大ハリウッドの威光を伝える作品と言えるであろう。

 とりわけそれが顕著に表れているのが、クレオパトラのローマ入城シーンである。

 クレオパトラがシーザーとの間にできた未来のアレキサンダーたる(とクレオパトラは目している)息子シザリオンを、初めてローマ市民に披露するこのシーンは、物語全体からすればどうってことない一つのエピソードに過ぎない。シーザーの暗殺、アクティウムの海戦、クレオパトラの自殺・・・など、物語的に重要な、絵になるシーンは他にある。
 だが、作品中おそらく最も豪奢を極め、手間も金もかかっていて、エキストラも多く、シーン自体も一番長く、もっとも印象に残るのが、このローマ入城なのである。
 最初に登場のファンファーレがあって門が開かれてから最後にクレオパトラ(とシザリオン←添え物)が登場するまで何分かかっているだろう。延々とアフリカ風の踊りやら、槍を使った戦闘の舞いやら、火を使ったリンボーダンス風な曲芸やら、カラフルな煙幕やら、これでもかとばかりに見せ物が続く。映画では当然それぞれの見せ物は部分的に紹介されカットつなぎで次の見せ物にバトンタッチされるわけだが、おそらく実際の時間にすると軽く2時間はかかるのではないだろうか。
 観ていて連想するのは、昨今のオリンピック開会式である。
 各国の選手入場の直前まで延々と開催国をアピールする催し物が行われるのが定番となっている。その国の成り立ちを伝える神話の再現とか、歴史上の有名な出来事とか、伝統舞踊や伝統工芸や民族衣装とか、果てはその国出身の世界的歌手やスポーツマンが花を添える。オリンピックがなりふり構わぬ商業主義に走ったロス五輪以降、それがどんどんエスカレートして明らかな国力の誇示ショーになっている。
 それはどうでもいいんだが、開会式の演出家たちは、演出家を志した少年時代か青年時代にまず間違いなく、リズの『クレオパトラ』を観ていることだろう。「ローマ入城シーン」に影響されていることだろう。
 で、「ローマ入城シーン」自体は、まず間違いなく、マンキーウィッツ監督がそれまでに観たオペラ『アイーダ』第二幕の「凱旋の場」の演出を意識してつくられたはずだ。
 逆に、この『クレオパトラ』から影響を受けて、その後の『アイーダ』演出家は「凱旋の場」をつくることにもなったであろう。(とりわけフランコ・ゼフィレッリあたり。)
 『アイーダ』と『クレオパトラ』と『オリンピック開会式』は、相互に影響し合って手に手を取ってゴージャスと拝金主義とナショナリズム高揚を推し進めていると言えよう。(昨今はそこにサッカー競技も加わっている。)

 リズにばかりに目がいってしまう『クレオパトラ』であるが、今回改めて面白さを感じたのは、クレオパトラをめぐる3人の男――シーザー、アントニウス、オクタビウスーーのキャラクターの違いである。クレオパトラにとって、シーザーは父のような庇護者的存在、アントニウスは自分をひたすら賛美崇拝してくれるアッシー君(古い!)みたいな存在、そしてオクタビウスは・・・? オクタビウスとの関係が謎である。
 歴史上の権力争いの観点から言えば、次のように比較できるだろう。

 シーザー   =織田信長(最初の国家統一者)
 アントニウス =豊臣秀吉(その跡を継いだ者)
 オクタビウス =徳川家康(最終的に長期政権の基盤をつくった者) 

 ついでに
 ブルータス  =明智光秀(言わずもがな・・・)

 すると、クレオパトラは誰だろう? 
 淀君か、ネネか?

 3人の男のうちクレオパトラが最も(真に)愛したのはアントニウスらしい。自らが大将をつとめる闘いで、逃げる女の後を追って船をも部下をも見捨てるアントニウスは、天下のうつけ者(やっぱ織田信長?)であるが、「私と仕事とどっちが大事なの?」という女の究極の問いに迷わず「お前に決まっている」と答えられる男は、世の女にとってはアレキサンダー以上の英雄なのかもしれない。
 名優リチャード・バートンは、実に人間くさいアントニウスを好演して、リズでなくとも母性本能をくすぐられる。


 オクタビウスはクレオパトラの毒牙にかからなかった(フェロモンに迷わされなかった)。結果として、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなった。
 なぜだろう?
 
1.男色家説


 この説は結構好まれている。 
 この映画でも、当時のハリウッドの規制もあって、はっきりそうとは描かれていないが、オクタビウスが女に興味がないことを示すシーンがところどころ出てくる。


アントニウス 「君も仕事ばかりしないで少し遊んだらいい。あそこにいる女達はどうだ。よりどりみどりだぞ。」
オクタビウス 「無駄なことです。」

 手塚治虫の『クレオパトラ』(1970年)ではもっと顕わである。
 朋友アントニウスを殺されたクレオパトラは、次の手段としてオクタビウス籠絡に取り掛かろうとする。フェロモン100%放射。

 オクタビウス「お前の魅力など私にはまったく効かない。」
 戸惑うクレオパトラ。 
 そこへ、クレオパトラの家臣である力自慢の闘志(グラデュエイター)が現れる。
 とたんに目の色を変え、オカマキャラ丸出しになってしまうオクタビウス。
 「きゃあー。素敵な肉体。あの日あなたを見て以来、この体に抱かれることを夢見ていたのよ。あとで、連絡先教えてね~?」
 すべてを諦めるクレオパトラ。

 男色家説は話としては面白いが、実際にはどうだろう。
 オクタビウス=アウグストゥスは、生涯に何度も結婚して子供も作っている。もちろん、後継者を作るための、あるいは勢力基盤を磐石にするための政略的結婚であったとは思う。病弱であったためかどうか、血を享けた子供は結局一人しかできなかった。それも娘だった。あまり子作りには積極的でなかったようだ。
 生涯の友であったアグリッパとの篤い関係から同性愛の匂いを嗅ぎ取ることもできる。自分の娘ユリアとアグリッパを結婚させて(アグリッパを義理の息子にして)、そこにできた息子に帝位を継がせようとしたところなんか、現代の大物ホモ政治家がやりそうな手口である。
 ともあれ、なんと言ってもキリスト誕生以前(BC)である。この時代のローマ人にとって同性愛はタブーではなかったはず。若きジュリアス・シーザーも「すべての男の妻」と呼ばれていたのである。
 曰く「オクタビウスがゲイでなかったら、世界の歴史は変わっていただろう。」 


2.クレオパトラが本気を出さなかった説


 里中満智子の漫画『クレオパトラ』がそうである。
 シーザーとの世紀の恋に破れ、アントニウスとの運命の恋の成就と死別を経験した女王はもはや政略的な結婚などしたくなかった。人生にも野望にも疲れていた。愛するエジプトを守るためでも、もう奥の手を使う気にはなれなかった。
 リズの『クレオパトラ』もアントニウスとの真実の恋に目覚めたために、後を追って自害するのである。


3.クレオパトラの魅力に翳りが・・・・説


 さて、ここで主要人物の生年没年である。


シーザー  (紀元前100年――紀元44年) 56歳で死去
アントニウス(紀元前83年――紀元30年)  53歳で死去
オクタビウス(紀元前63年――紀元14年)  76歳で死去
そして、
クレオパトラ(紀元前69年――紀元30年)  39歳で死去


 クレオパトラとシーザーの年齢差は31、アントニウスとは14、オクタビウスとは6つでクレオパトラが年上である。
 クレオパトラが3人の男をたらしこもうとした時のそれぞれの年齢を推定する。


 シーザー(52)×クレオ(21)
 アントニウス(41)×クレオ(27)
 オクタビウス(33)×クレオ(39)


リズ シーザーとアントニウスは、クレオから見れば「すっかりおじさん」だったのである。若さと美貌と奸智とエジプトの富とで彼等をたらしこむのは赤子の手をひねるようなものであったろう。また、中年クライシスを感じていたであろう「両おじ」にとって、若く夢に燃えるクレオはまたとないオアシスであり活力源であったろう。
 一方、オクタビウスから見れば、アラフォーのクレオは「もうおばさん」である。とくに、女性の容姿とフェロモンは35を過ぎると急速に衰えていく(by幸田來未)。自身「ローマ一の美少年」と言われ年上の男女からもてはやされたオクタビウスにしてみれば、クレオの美貌なぞ「どうってことない」「なに若作りしてんだか」「首の皺は隠せねえぞ」だったのかもしれない。
 証拠がある。リズがクレオパトラを演じたのは31歳の時である。それからわずか3年後『ヴァージニア・ウルフなんか恐くない』(マイク・ニコルズ監督、1966年)のリズを見よ。もはや美の衰えは隠しようもない。その代わりに演技派女優としての名声を確立していくのだが。(この作品でオスカーを獲っている。)

 子供の頃この映画をテレビで見たとき、リズのアテレコは小川真由美だった。
 これが実に素晴らしかったのである。まろやかで、色っぽくて、品があって、知性を感じさせ、女王としての風格に不足はない。しかも小川真由美は、声で芝居をすることのできる芸達者。
 お蝶夫人やオードリー・ヘップバーンの声が池田昌子で決まりであるように、クレオパトラの声は小川真由美で決まりというのが実感である。
 うれしいことに、DVDの日本語音声は小川真由美である。
 日本でのテレビ放映時の録音テープを使ったためか、テレビ放映の際にカットされたシーン(特にお色気シーン)では突然英語になる、つまりリズの肉声に切り替わるという面白いことになっている。
 ぜひぜひ日本語音声で観て(聞いて)ほしい。
 絶世の美女エリザベス・テイラーも決して声は美しくないんだなあ、喋りに品がないんだなあ、と知ることができる。声や話し方がいかにその人の魅力を引き立てるかをまざまざと知ることができる。
 小川真由美という女優を語る上で、欠かすことのできない作品である。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
     
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 映画:『塀の中のジュリアス・シーザー』(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟監督)

塀の中のシーザー 2012年イタリア映画。

 一分の隙もない傑作。
 さすがタヴィアーニ兄弟。老いの入舞、白鳥の歌と言ったら失礼か。


 ローマ郊外のレビッビア刑務所で行われている演劇実習。毎年様々な戯曲を囚人たちが演じ、所内の劇場で一般市民に向け披露する。
 今年の演目はシェイクスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』。まぎれもなくイタリア人にとって祖国の英雄である。日本で言ったら、ヤマトタケルか平将門か源義経か織田信長か。原作は知らなくても「ブルータス、お前もか」というセリフは、「あなたはどうしてロミオなの?」と並んで、もっともよく知られているシェイクスピア劇中のセリフであろう。「殿中にござる」と並んで、もっともよく日本人に知られている刃傷沙汰における名文句であろう。


 シーザー暗殺という古代ローマ随一の劇的事件を描いた作品を、末裔であるイタリア人がイタリア語で演じるというところがまず見物、というか聞き物である。
 イタリア語は何と美しくリズミカルで芝居に向いているのだろう。オペラがイタリアで誕生し花開いたことを思えば当然なのだが、感情をきわめて豊かに音楽的に相手に伝えることのできる言語なのだなあと感心する。原作の英語より良いかもしれない。
 イタリア人が演じていることも非常にプラスに感じられる。実際にシーザー暗殺に関わった人たちの風貌や挙措挙動はこんな風だったのだろうなあと思わせてくれる。日本人に日本人特有の動きや表情や姿勢や目つきがあるように、イタリア人にもそれがある。もちろん現代イタリア人と古代ローマ人とでは違っているだろう。でも、他の国の役者が古代ローマ人を演じるよりもやっぱりふさわしいように思うのである。オペラ『蝶々夫人』を見るとき、主役が日本人かそうでないかで全然舞台の雰囲気が違ってくることに似ているかもしれない。 

 血なまぐさいドラマを演じるのが正真正銘の犯罪者たちであるという点がまた面白い。
 陰謀、腹の探り合い、裏切り、仲間割れ、権力争い、二枚舌、大義名分、血で血を洗う殺戮・・・。
 こういった要素がこの劇のエッセンスであるが、これらはまさに演者である囚人たちの半生を彩ってきたものである。それだけに、劇中のセリフの一つ一つがそれぞれの演者の人生とオーバーラップしていく。稽古の最中、ある一つのセリフで過去の出来事を思い出し苦痛で芝居が続けられなくなってしまう。相手役の弄する甘言セリフを、その役者の性格とダブらせてしまい、普段押し殺していた怒りに火がついて稽古場で喧嘩が起こる。
 芝居と現実とが入り混じって、そのたびにリアリティを増していく芝居の質、本物になっていく囚人たちの演技。この演目を選んだ人間の鋭さに感心するが、それよりも何よりもやっぱりシェイクスピアの凄さである。本物の犯罪者に「これとまったく同じセリフを死んだ仲間は言っていた」などと言わせて心のひだに入り込んでしまうシェイクスピアの人間理解、洞察力。よく言われるシェイクスピア複数説も、そのあたりの「何回人生、生きてんだ~?」と思わせる幅広い世間知から導き出されるのであろう。 

 シェイクスピアの凄さに負けず劣らず、囚人たちの役への没入ぶり、芝居への熱中ぶりも凄い。
 獄中の退屈さをつかの間忘れられるという点はあろう。
 が、おそらくそれだけではない。
 元来、才能ある役者と犯罪者には共通したものがあると思う。それは洗脳のされやすさ、自分でない何かに簡単に仮託してしまう「自我」のもろさである。より適確な言葉で言えば「憑依体質」である。この映画はそのことを実証する。稽古が進むに連れ、本番が近づくに連れ、役に同化していき表情まで変わっていく囚人たちの様子は、鏡ノ間で面と向き合いながら役が乗り移るのに身をゆだねる能役者の姿を連想させる。
 演じている間は、自分はシーザーでありブルータスでありアントニウスである。そして役者である。殺害犯でもポン引きでも強盗でもない。犯罪者、社会の落伍者、人生の失敗者、故郷からも家族からも友人からも見放された孤独な男、という現実をしばし忘れることができる。「自分ではない何か」になれる喜びと救いは、彼らにとって強烈なエクスタシーであろう。
 囚人たちのこのつかの間の夢、栄光を支えるかのように、石造りの監獄はあたかも古代ローマの城塞のように、広場のように、路地のように姿を変えていく。モノクロ撮影がそれをバックアップする。


 この映画を老タヴィアーニ兄弟は何故撮ったのだろうか?
 観る者は映画の最後にその答えを知らされる。成功裡に終わった一般市民への公演のあと、看守の手によって独房に戻された一人の役者、一人の囚人、一人の殺害者の口を通して。
 そのセリフこそ、『ジュリアス・シーザー』の中のどの名文句にも劣らないくらいの圧倒的な真実の苦さに満ちている。
 そして、人生における芸術の意味、人類の歴史におけるシェイクスピアやダ・ヴィンチやベートーヴェンの意味を教えてくれる。
 きっとタヴィアーニ兄弟は、自らの長い映画人生を総括したかったんだろう。


 ダニエル・シュミットは『トスカの接吻』(1984年)で、引退した音楽家たちが住む老人ホームを訪れた。シュミットの魔術的なカメラは、灰色の隠遁生活を送っていた老人たちを薔薇色の過去の中に甦らせ、オペラへの愛、芸術への愛、生きることの喜びを回復させてしまう。それはかつて老人たちが持っていたものである。
 『塀の中のジュリアス・シーザー』は、灰色の監獄生活を送っていた囚人たちに、つかの間の喜びをもたらす。
 一方、彼らは芸術を通してはじめて気づくのである。自分たちが人生で手にできなかったものの大きさに。

 彼らが更正しますように。


評価:A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
           
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● あまりにも猥褻 映画:『マドモアゼル』(トニー・リチャードソン監督)

 1966年フランス・イギリス合作。

 「女にも性欲があるのよ」と発言したのは五月みどりであった。
 70年代半ばくらいだったろうか。
 思春期真っ盛りで男の性欲に関しては嫌でも(嫌でなかったが)付き合わざるを得なくなっていた自分は、「へえ~、そうなんだ」と素直に驚いたものである。いま自分が、自分と同じ世の男たちが、四六時中振り回されている強烈な物狂おしい欲求を、女もまた持っているのだと初めて知った瞬間であった。
 数々の浮名を流し酸いも甘いも噛み分けた五月みどりがわざわざ声を大にしてのたまわなければならなかったほどに、そしてその発言が衝撃を持って世間に受け止められたほどに、世の大人の男たちもまた「女に性欲がある」ということに思春期の自分同様無知だったのである(だよね?)。
 女は「待っている」存在であり、男によって「求められ一方的に抱かれる」存在であり、「開発される」存在であり、商売女や一部の西欧かぶれの芸術家はともかくとして、女が自分から「欲しい」と言うなど「はしたないこと」であった。倫理が生理を規定してしまった結果、長らく男たちは女に押し付けた倫理を女の生理と思い込んでいたふしがある。そのうちに、当事者である女たちさえもそう信じ込んでしまったのではないだろうか。
 いつからかは分からない。やっぱり、文明開化以降の流れであろうか。

 もう一つの衝撃は、「一億人の妹」というデビュー当時のキャッチフレーズ通りの清純派アイドルの気配を残していた大場久美子が、週刊誌のインタビューでぶちかました「わたし、オナニーしてます」発言である。
 80年代初頭くらいだったろうか。
 これには完全にノックアウトされた。
 自分にとっての大場久美子の意味は「スプリングサンバ」でも「コメットさん」でも「パニック障害」でもなく、「日本で最初にオナニーをカミングアウトした女性アイドル」である。それだけで十分彼女は芸能史に残る。どころか日本の女性史に残る。
 「女のオナニー」という男にとっては最大の謎、女にとっては最後の秘密を、いとも簡単に白日の下にさらしてしまったのが、女流作家でもフェミニストでもお笑い系の女性タレントでもなく、清純で売っていたアイドルであったという、そのギャップが強烈であった。
 それは五月みどりの発言の真実をより強く男たちに知らしめた。性体験豊富な熟女だけではない。姿可愛いうら若き乙女もまた性欲を宿している。満たされない欲望に悶えて夜になれば煩悶と一人遊びしている。結局、女も男と変わらないのだ。

 この二人の発言を個人的に「戦後日本女性の性解放史における二大インパクト」としたい。

 以後なし崩し的に事態は進んでいく。

 処女の頃押入れで欲求不満を慰めていたという塩沢とき(『笑っていいとも』)、「セックスは清く正しく気持ちよく」と歌い上げた小森のおばちゃま(『オールナイトフジ』)、シャワーを浴びる若い男の裸体によだれを流す山田邦子、圧倒的な下品さを笑いに換えてお茶の間に通じさせることに成功したマチャミ、ananの「セックスできれいになる」特集、メンズを従えて若いエキスを補填しまくる叶恭子、そしてゴールデンタイムに「びっちょんこ(=おまたの涙)」を連呼する大久保佳世子と友近。
 もはや「女にも性欲があるのよ」発言が、鶴太郎の「私は女優よ」と同程度の陳腐なジョークに思えるほどである。


 かくして、今やっとこの映画を見るときが到来したのである。
 66年に日本公開されているが、当時の批評家や観客はこの映画をどう受け止めたのだろう? 気になるところである。評判にならなかったところを見ると、どう解釈したらいいのかお手上げ状態だったのではないだろうか。


 村人から「マドモアゼル(生娘)」と呼ばれている中年の独身女教師の性的欲求不満がテーマである。欲求不満が高じて、生徒に八つ当たりするわ、放火はするわ、水門を開けて洪水を引き起こすわ、家畜殺しをするわ、と次々と犯罪を重ねていく。とんでもない女である。彼女にくらべれば、八百屋お七や阿部定が可愛く思える。
 そんなにムラムラするなら、とっととやってしまえばいいのに・・・と思うのであるが、インテリならではのプライドの高さからなのか、厳格な育ちゆえなのか、宗教上の束縛のせいなのか、周囲の男から秋波を送られても冷たく遮断するのである。屈折したセクシュアリティの持ち主なのだ。
 であるがゆえに、渡り者として村人から疎んじられている逞しいイタリア人と彼女が初めてまぐわうことになった時、そのエネルギーの放出は凄まじいばかりである。

 この野外での数分間のセックスシーンは、映画史上もっとも官能的な場面の一つに上げられるだろう。観ていて「こんなシーンを撮ってもいいのか?」「観てもいいのか?」「これは絶対R指定だな」と思ったものである。凡百のポルノ映画よりもずっと淫らで、エロチックで、生々しい。ヌードシーンなどほとんどないのに。
 エロスとはなんなのかを知るには、この映画を観るに如くはない。設定が極端だからこそ、状況が切羽詰っているからこそ、抑圧が一通りでないからこそ、エロスの真髄が暴き出されるのである。


 つまるところそれは「魂の咆哮」。
 観る者をして、「こんなシーンを目撃してしまってもいいのだろうか?」と気恥ずかしさと多少の居心地の悪さを感じさせるのは、他人の裸の肉体がそこにさらけ出されているからではない。裸の魂が剥きだしに映し出されているからである。
 それを覗き見る行為こそが「猥褻」にほかならない。


 さすが、ジャン・ジュネ(原案)である。
 さすが、マルグリット・デュラス(脚本)である。
 さすが、ジャンヌ・モロー(主役)である。


 
 

評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 日本映画の最高の演技 映画:『サンダカン八番娼館 望郷』(熊井哲監督)

 1974年東宝、俳優座。

 からゆきさん(唐行きさん)とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のこと。長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、ばくぜんと「外国」を指す言葉である。(ウィキペディア「からゆきさん」より)


 この映画は、明治時代にからゆきさんとしてボルネオのサンダカンという街に連れて行かれ、少女時代・青春時代を娼婦として生きた実在の女性の話をもとに作られている。「八番娼館」とは一番から数えて八番目ということであるから、当時相当数の少女が売られ、相当数の娼館が現地にはあったのだろう。

 からゆきさん時代の北川サキの役を高橋洋子が体当たりで演じている。
 賞讃に値する演技である。
 が、時代が明治・大正から昭和に移り、今や老女となった北川サキを演じる田中絹代の演技が圧倒的に素晴らしいので、どうしても観る者の目は「過去の生々しい悲惨な物語」よりも「現在の穏やかだけれど濃密な時間」に向いてしまう。筆舌に尽くしがたい悲惨な過去を背負って生きている老女の姿に、その喜怒哀楽の表情、話しぶり、立ち居ふるまい、歩く姿、横に寝ころぶ姿、田中絹代の演技のすべてに魅了される。田中絹代と北川サキが一心同体のように思える。
 日本一の映画女優、田中絹代の最終的に達した高みがここにある。
 それは、つまり、日本映画の最高の演技ということである。


 からゆきさんのことを本にしようと目論み、北川サキの家におしかけ同居する女性史研究家、三谷圭子の役を20代の栗原小巻が演じている。
 こちらも魅力的である。演技の巧さもあるが、何より匂い立つような美しさに心を許してしまう。
 「クリームみたいな石けん♪花王石鹸ホワイト」
 栗原小巻の昔出ていたCMソングが頭にリフレインする。
 こんな品が良くて女らしく、心ばえ良く、凛として、清潔感のある女優が当節いなくなったな~とつくづく思う。そういう日本女性がいなくなったのか・・・。


 もう一人忘れちゃいけないのは、ターキーこと水の江滝子である。
 はっきり言って、この人の演技を上手いとは思わない。セリフなんか棒読みに近い感じである。
 しかし、貫禄が違う。
 かつて「からゆきさん」のはしりとしてサンダカンで体を売り、今はサンダカンの若い娼婦達から「お母さん」と頼りにされる娼館の女将おキクを、スター役者の圧倒的貫禄と存在感だけをもって演じきっている。お見事!


 年老いた北川サキから昔の話を聞き出そうとする三谷圭子は、結局半月あまりもサキの家に居候することになる。日に日にサキと親しくなり、信頼を得て、ついにはサキの過去を聞くことに成功する。
 自分の正体をいっさい語らない三谷を、サキは最初から信用して家に泊め、貧しいながらも精一杯もてなす。三谷がどこのだれで、何の仕事をしているか、なぜ女一人の身で天草くんだりまでやってきたのか。なぜサキに興味を持つのか。サキはいっこうに尋ねようとしない。
 一通り取材し終えて別れの日が来た時、三谷はサキに問いかける。
「なぜ、どこの馬の骨ともわからない私を三週間も家に泊めてくださったんですか。私がどういう身元の女だか、それを知りたいと思わなかったんですか。」
 サキは答える。
「そりゃあ、どんなに知りたかったことか。でも、人にはその人その人の都合がある。話してよいことなら、わざわざ聞かなくても自分から話している。でも、当人が言えんことを、他人の私がどうして聞いてよいものかね。」


 このセリフは、まさに過去のある人間だから、過去を探られることの痛みが分かる人間だからこそ言えるセリフである。
 この映画では語られていないが、若いサキ(高橋洋子)と老いたサキ(田中絹代)の間にある人生半ばのサキが、そのどこかで、自ら受けた深い傷を他者への思いやりへと転換させる契機を持ったことを知らしめるセリフである。
 だからこそ、老いたサキの笑顔はすがすがしいまでに慈悲深いのである。



 自分の過去や思い出を、例えば初対面の他人に堂々と語れる人は幸せな人である。隠しておきたいことや触れてほしくないことを持っていない人は、陽気で天真爛漫に振る舞える。子供のように。
 だが人は長ずるに及んで、他人には簡単には言えないことを持つようになる。
 あるいは、当人が話せても(話したくとも)、聞く側の気持ちに配慮して話さないでいることもある。「相手を混乱させるだけ」「場をシラケさせるだけ」「話しても通じそうにない」等々。
 そうして、本当に語られるべきことが語られずに、人と人との関係が上っ面のまま流れていくのが日常なのかもしれない。
 あるいは、好奇心からの、考え無しの‘無邪気な’質問が、人の心を閉ざしてしまうこともある。 
「いや、自分にはもとより差別や偏見はない。相手を理解したいからこそ聞くのだ。」と言う人もいるだろう。
 だが、相手を理解したいと思えばこその問いかけも、当の相手が「この人には別に理解してほしくない」と思っているとしたら、その問いかけは相手にとって単なる領海侵犯に過ぎない。
 
 相手のことを聞くというのは、かくも繊細な、かくも想像力と思いやりを要する、大人の技芸なのである。
(こんなことが分かるまでに50年近くもかかるとは・・・・!)


  

評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『修羅雪姫』(藤田敏八監督)

 1973年東宝。

 文句なしに滅茶面白い。

 雪の降る寒い晩に、母の命と引き換えに牢獄で生まれた娘。
 その母は殺人犯にして男と見れば相手選ばぬ淫乱女。
 故に父は知らず。
 復讐の為にのみこの世に生み落とされた因果な娘。
 その名は雪。
 負×負×負× ・・・・・

 舞台となるは文明開化華やかなりし明治の日本。
 しかし、親の敵を探して雪のさすらう人生行路に見える景色は、血のにじむような修行の日々、強姦、売春、遊郭、博打、部落、血しぶき、魑魅魍魎の権力者、欺瞞と欲望の象徴たる鹿鳴館(もちろん仮面舞踏会あり)・・・。
 負×負×負× ・・・・

 日本的な「負」の追求の果てに咲いた一輪の花が、雪(=梶芽衣子)である。
 このまさに劇画的に大仰な、メリハリのある、刺激的な舞台設定こそ、映画を輝かせる。
 そう。テレビでは「負」は描けない。
 もちろん、すべての「負」をひっくり返す雪の美貌があっての話である。(これで、雪がブスだったら救いようがないではないか)

 主演の梶芽衣子の美しさ・かっこよさは言うまでもないが、敵役の一人・北浜おこのを憎憎しげに演じる中原早苗のえぐみ、若き宮沢りえを思い出させる若き中田喜子(『渡る世間』の文子)の可憐さも、インパクト大。
 大映テレビドラマにも似た過剰な演出の中に、藤田監督の美学が散りばめられていて、圧倒的な「負の豊饒性」に酔いしれること間違いなし。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『わが谷は緑なりき』(ジョン・フォード監督)

 1941年アメリカ映画。

 いい映画である。

 西部劇はあまり好きでないのでジョン・フォード作品は敬遠していたのだが、これは西部劇ではないので借りてみた。
 やはり、ジョン・フォードは偉大だ。素晴らしい。これぞまさしく映画だ、と最初から最後まで唸りながら観ていた。

 題材の扱いも上手い。
 ヒュー少年の成長物語を軸に、ヒューを取り巻くモーガン一家の物語、ヒューの姉であるアンハラド(モーリン・オハラ)と町の牧師グリフィードとの悲恋物語、そしてモーガン家の男達が働く炭坑とその盛衰に影響され変わってゆく町の物語。いくつもの物語を交差させ、緩急をつけて、感動を生み出していく手腕が見事である。これを観ていると、スピルバーグはジョン・フォードの正統の後継者なのだなあと納得する。
 とりわけ、炭坑町の光と影の描き方が秀逸である。
 町全体に活気のあった古き良き時代が、ストライキを決行せざるを得ないような労使問題を通過して次第に廃れていき、仕事を失った人々が町を離れていくに至る。それに合わせるように、モーガン一家も両親への愛と敬意により結ばれていた子供たちが、父親と衝突して家を出て行き、最後は故郷を離れ散り散りになってしまう。歌と信仰によって固い絆で結ばれていたかに見えた町の人々も、実は心の中には不寛容と噂話を簡単に信じる悪意を抱いていることが暴露される。かくして、最後は炭坑に爆発が起こり、モーガン家の大黒柱たる父親は亡くなっていく。
 あたかも古き良き時代の終焉を告げるように。
 ヒューの少年時代の終わりを告げるように。

 よく考えると、ヒュー少年の思い出はつらく悲しいことばかりである。「わが谷は緑なりき」とは美化しすぎではないか?

 炭坑のオーナーの息子と結婚したアンハラドが立派な車に乗って町を出て行くシーン。
 祝いの歌を歌う町の人々の背後で一人離れて物陰から姿を現すグリフィード牧師。二人は本当は愛し合っているのだ・・・。
 普通の凡庸な監督ならグリフィードのアップを撮るだろう。嫉妬とも後悔とも哀しみとも諦めとも悲痛ともつかない表情のグリフィードを、あるいは木の枝をつかんで震える手を撮るかもしれない。スピルバーグでさえそうするかもしれない。
 ジョン・フォードはそんなことしない。
 ただ、物陰から出てきて立ちすくむ姿を、大衆の背後にさらっと撮すのである。
 このもったいないと思えるほどの慎み深さ。抑制。
 この演出姿勢こそが、古き良き時代の良心であろう。大人になったヒューが「わが谷は緑なりき」と懐かしがるのも無理もないと観る者を納得させる魔法であろう。



評価: A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 日本女性の美の2つの極北 映画:『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督)

 1950年アメリカ映画。

 今さら評価する必要もない名作である。

 主演のグロリア・スワンソンの一世一代の怪演は、同レベルのものを挙げるとしたら、『ジェーンに何が起こったか』のベティ・デイヴィス、『狩人の夜』のロバート・ミッチャム、『シャイニング』のジャック・ニコルソン、『羊たちの沈黙』のアンソニー・ホプキンズ、『ダークナイト』のヒース・レジャーなどを持って来るほかない。サイレント時代のスワンソンを知らないが、これ一作だけでも彼女は映画王国の殿堂入りを十分果たしている。ポーズをつけながら階段をゆっくり降りてくる最後の場面などは、風邪で寝込んだ夜の夢に出てきそうである。
 エリッヒ・フォン・シュトロハイムの抑制された存在感たっぷりの演技、ウィリアム・ホールデンの適役ぶり、そしてビリー・ワイルダーの見事な脚本と気の利いた科白の数々。実に見ごたえがある。この作品をこれを上回るレベルでリメイクするのは絶対に不可能であろう。

 美貌の大女優が老いて世間に忘れられることの残酷さをテーマにしたものであるが、ひるがえって日本の芸能界を見ると、本邦の往年の大女優たちは老いても結構頑張っているなあと感心する。
 もちろん、グレタ・ガルボのひそみにならって40才の若さで引退した「永遠の処女」たる原節子さまがいるけれど、CMで見ない日のない吉永小百合はもとより、若尾文子、藤(富司)純子、浅丘ルリ子、岩下志麻、岸恵子などなど、かつての銀幕のヒロインたちはさすがに映画の主役こそ張らないけれど、今でも現役で高い人気を保ちながら活躍している。たいしたものだ。
 思うに、銀幕のスターという存在がもはやいなくなってしまったことが一つにはあるのだろう。彼女たちは、今やすっかり消滅してしまった一つの文化、夢と神秘と憧れとに包まれた銀幕の彼方にあった輝ける世界、の栄光とオーラを背負っている希少な存在なのである。
 一つには、日本の文化ひいては日本人が、アメリカナイズされたとはいえ、なんだかんだ言って「わび」「さび」に示されるような枯淡の境地に対する嗜好を持っているからではないだろうか。整形を繰り返し、変に若作りする故エリザベス・テーラーやカトリーヌ・ドヌーブより、それなりに枯れて落ち着いていく八千草薫(「香醇」)に、年経るごとに苔むして渋みを増していく日本庭園を見るような好ましさを感じているのではないだろうか。
 もちろん、女優たちもそれぞれ美貌を保つため、美しく見せるための奮闘はしているだろう。撮影技術やCG等による編集技術の向上も無視できないところではある。

 とつおいつ考えていたら、思い当たったことがある。
 日本の女優の(女性の、と言ってもいいが)美を語る上で、二つの極が存在する。
 この極があるがために、この極の不動の気高さ、有無を言わさぬ輝きのために、日本の女優たち(女性たち)は、老いによる美の消失を怖れる必要など決してない。この極の方向へと自らを高めていけばよいのである。

 一つの極は、美智子皇后である。
 若い頃のあの方は類い希なる美貌の持ち主だったが、年老いた今、「老けて美しくなくなった」などという人がいるだろうか。むしろ、内面からにじみ出る慈しみの輝きはいや増す一方ではないか。ブランドの衣装も皇室伝統の宝石も、あの永年の忍耐と祈りとによって刻まれた皺ほどの美しさはなかろう。

 もう一つの極は・・・・・・・美輪明宏である。
 神武以来の美少年とうたわれたのははるか昔である。だが、やはり「美」の代名詞であり続けている。ひとえに、芸術と潔い生き方と品格の力とによって。

 こうした二つの極を持つ日本の女性は幸せである。


 さて、日本の男はどう老いたらいいのだろう?
 


評価: A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!










 

 
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