ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価A-

● 映画:『歌行燈』(衣笠貞之助監督)

 1960年大映。

 衣笠監督といえば1954年にカンヌグランプリを受賞している『地獄門』(京マチ子、長谷川一夫主演)が名高い。が、それ以外の作品についてはほとんど知られていない。上映される機会も少ない。レンタルビデオ店にも置かれていない。
 『地獄門』以外は観たことがなかった。
 『地獄門』は見事な色彩表現と京マチ子の美貌に感嘆はしたけれど、黒澤や小津や溝口といった大監督の傑作群にくらべれば印象に残るものではない。監督としての知名度も評価も上記3人はもちろんのこと、同じ国際的な賞をもらっている市川昆や大島渚や今村昌平などに比べても低い。少なくとも国内では。
 これは個人的な見解ではない。
日本映画150 文藝春秋『大アンケートによる日本映画ベスト150』(1989年発行)を見ても、衣笠貞之助の名前は監督ベスト20にも入っていない(49位)。その作品でベスト150に挙がっているのは『地獄門』ではなく『狂った一頁』(1926年)のみで、それも113位である。
 1920年から66年まで実に60本以上の作品を世に送り出し、長谷川一夫や山本富士子といった大スターの育ての親であることを考えると、この評価の低さは不可解というか不当である。まさか若い頃女形役者であったことで低く見られているとも思えんが・・・。

 最近昭和キネマ横丁からリリースされた『歌行燈』は、『地獄門』を軽く超える衣笠監督の最高傑作であるばかりでなく、おそらく日本映画史上20指に入る大傑作である。これほどの名画がこれまで埋もれていたとはなんとも由々しきばかり。

 全編を覆う、目眩き美・美・美の氾濫!
 どのシーンで画面を一時停止させても「絵」になるショットの美しさ。アップでもバストショットでもロングショットでもなく、あたかも縁先の庭の木陰から屋内を覗くような中間距離の撮影方法(まさにその通りのシーンが最後に出てくる)が、色彩と陰影と構図によって瞬間瞬間の美を生む出すことを可能にし、観る者は映画的陶酔に引きずり込まれる。その距離は「節度ある近しさ」とも「覗きの快楽」とも言い得るような、まさに映画でなければできない物語の視点を醸成している。

 主演の市川雷蔵の美しさは、造形的なものとは別にその「暗さ」にある。部落差別を描いた『破戒』(1962年)や、三島由紀夫『金閣寺』を原作とした同じ市川昆監督の『炎上』(1958年)の主役を好演したことが表すように、雷蔵の美は「暗さの美、哀しみの美、疎外される者の美」であり、ブラッド・ピットよりアラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーブよりグレタ・ガルボ、浅田真央よりキム・ヨナに近い。元来、日本人はこのような翳りのある美が好きなのではないかと思う。
 一方の主役である山本富士子の美は、その名(本名だと言うから驚く)の示す通り、日本的な美の極致である。何といっても「第一回ミス日本」なのだ。
 ただし、女優の美しさというのは造形的なものだけでは不足する。それは同じミス日本グランプリである藤原紀香が、女優としては輝けないのを見ればよく分かる。女優として一級になるには、造形美プラス「何か」が必要なのである。単純に演技力ではない。
 この映画の中の山本富士子は、最初のうちその「何か」が不足しているように思える。地方の謡曲師の娘お袖としてなるほど鄙には稀な美人である。だが、雷蔵の相手役を張れるほどのタマではない。父の自殺を機に家が潰れ、芸者に身を落としたあとも、まだまだ主役になりきれていない。
 ところが、喜多八(雷蔵)と再会し恋を知ったその日をさかいに、お袖は一気に艶を増す。山本富士子は、堂々の主演女優に化ける。その変化があっけに取られるほど素晴らしい。つまり、山本富士子は「おぼこ娘」を演じていたのである。
 この変化(へんげ)は、自身女形だった衣笠の演出の腕が冴えていることももちろんだが、それに応えてオーラーを自在に開花させることのできる山本富士子はやはり単なる美人女優ではない。

 原作は泉鏡花の同名小説。
 だから、ハッピーエンドに終わるのにケチはつけられないものの、もし悲劇的結末が用意されていたら、「A+」をつけてしまったかも。




評価:A-



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
        
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● かかわらなければ 映画:『デタッチメント 優しい無関心』(トニー・ケイ監督)

 2011年アメリカ映画。

 観ているうちに傑作の予感がじわじわと湧いてきて背筋がゾクゾクする体験など、そうしょっちゅうあるものではない。100本観て1本くらい、いや200本かもしれない。
 そんな映画たち――例えば、『父、帰る』(アンドレイ・ズビャギンツェフ)、『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(原恵一)、『フィアレス』(ピーター・ウィア)、『馬鹿宣言』(イ・チャンホ)e.t.c――との出会いは、映画を観ること、観続けることの歓びを教えてくれる。
 『デタッチメント』もまたその一つである。


 何が素晴らしいといって、まず役者が素晴らしい。
 主役の教師ヘンリーを演じるエイドリアン・ブロディの慈愛の向こうに哀しみを湛えたまなざし。この人はイエス・キリストを演じられると思う。
 ヘンリーと同居する不良少女エリカを演じる無名のサミ・ゲイルも素晴らしい。生まれてはじめての‘家族’ヘンリーを得た喜びと、ヘンリーのデタッチメント(優しい無関心)ゆえにその絆を奪われる悲嘆を、体当たりで演じていて思わず涙を誘われる。
 生徒や親になめられ、上部機関(理事会or教育委員会?)によって運営方針を左右される教員たちを演じる個性派俳優たち(ジャームズ・カーン、ルーシー・リュー、マーシャ・ゲイ・ハーデン)も素晴らしい。

 素晴らしい俳優たちによって演じられるドラマの中味は、アメリカの教育現場のありのままの姿である。落ちこぼれ、いじめ、風紀紊乱、校内暴力、動物虐待、学級崩壊、モンスターペアレント、自殺・・・・。現代の先進国の多くが直面している教育の荒廃が描かれている。それはまた現代の少年少女の置かれている状況そのものでもある。
 日本の戦中のような軍国主義スパルタ教育や80年代愛知県の徹底した管理教育が良いとは言わないが、西欧個人主義(権利の徹底的主張)と資本主義(欲望の追求)の結婚から生まれた‘自由放任教育’が、若者の成長に益するとは到底思われない。
 とくに西洋の場合、個人主義の行きすぎに歯止めをかけるのに役立っていた宗教(キリスト教)とそこから来る倫理が今や地に堕ちてしまった。それにとって代わるものは未だ見つからない。個人の行動を制御するものがない。
 日本の場合、宗教は個人の行動規範とは十分なりえなかった。「悪いことをしたら地獄に落ちる」「閻魔様に舌を抜かれる」といった子供への脅し文句はあったが、それよりも日本人の行動を制御するのは昔も今も‘世間(体)’である。だから、日本の学校は荒廃しているとはいえ、欧米ほど末期的ではない。
 とはいえ、現場で働く教員たちのストレスはたいへんなものであろう。実際、教職を希望する若者のいることが、介護職を希望する若者のいることよりも、自分には不思議である。どちらもケアに関わる仕事だが、対象者のパワーが桁違いだ。それに、作品中のセリフにあるように、介護職はまだ感謝されるが、教職は感謝されなくなった。「仰げば尊し」は昔の話である。


 この映画の妙味は、昨今の教育現場を描くのと兼ねて、ヘンリーという一人の教員のパーソナリティと心のドラマを描いているところにある。タイトルから言えば、むしろこちらが主筋と言えよう。
 デタッチメント(Detachment)は「距離を置くこと、無関心」という意。これを「優しい無関心」と訳したのはなかなかうまいと思う。
 子供時代のトラウマ――母親の自殺を目撃――から、人と深く関わるのを避けるようになったヘンリーは、一歩距離を置くことで相手の感情に巻き込まれずにいられるがゆえに、不良生徒の扱いがうまい。臨時教員として赴任した高校でも、生徒の反発を食らいながらも徐々にその手腕を発揮していく。
 だが、私生活においてヘンリーは孤独である。家族も恋人もなく、老人ホームで暮らしている祖父を見舞うのが唯一の「関係」である。
 売春をして暮らしている少女エリカとの出会いは、ヘンリーに「関わって」生きることの楽しさや喜びをつかの間味あわせてくれる。それは母親との間に確かにあった幼いころの楽しい思い出をよみがえらせる。
 しかし、ヘンリーは超えることができない。鋭い感性を持った女子生徒メレディスに孤独を見抜かれるが、周囲から深い関わりを求められれば求められるほど、自らのトラウマの大きさにたじろぐばかり。結果、ヘンリーを愛するようになったエリカを福祉の手に渡し児童養護施設に入れてしまう。
 そうして、いつものようにヘンリーが学校を去る日がやってきた。
 生徒に慕われ、同僚に惜しまれながら、デタッチメントのまま去ろうとするヘンリー。
 まさにそのとき、悲劇が起こる。


 テーマの今日性、その展開の仕方(脚本、演出)が優れているだけではない。
 ショットが素晴らしい。
 事件を振り返って語る「今」のヘンリー、事件に至るまでの過程としての主筋、フラッシュバックするヘンリーの過去、教室の黒板にチョークで描かれるイラスト、生徒たちの顔・顔・顔、そして誰もいない教室や廊下を写す「空ショット」。これら様々なショットがコラージュのように散りばめられて、心地よいリズムを作っていく。そのリズムが作品に統一された印象とどこか懐かしい寂寥感をもたらしていく様は、小津映画を想起させる。空ショットがここまで胸に食い入る映画は滅多にない。
 それは観る者の「空ろ」を投影するからだろうか。


 ハンセン病の詩人塔和子の詩を思い出した。


胸の泉に

かかわらなければ
  この愛しさを知るすべはなかった
  この親しさは湧かなかった
  この大らかな依存の安らいは得られなかった
  この甘い思いや
  さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
  子は親とかかわり
  親は子とかかわることによって
  恋も友情も
  かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
  私の胸の泉に
枯れ葉いちまい
落としてくれない




 
評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● リアルとリアリティ 映画:『アンダーグラウンド』(エミール・クストリッツァ監督)

 1995年フランス、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリア共同制作。

 170分の長尺。
 よほど面白くなければ最後まで見通せない長さである。
 が、退屈することなく見終えてしまった。それだけでも監督の力量は明らかだ。黒澤明レベルの語りの力、エンターテインメント性を持っている。

 何よりまずキャラクターの面白さが飛び抜けている。
 主役の二人の男――パルチザンの義賊にして詩人、世渡り上手な共産党員のマルコ(=ミキ・マノイロヴィッチ)と、陽気で豪放磊落でカリスマ性ある元電気工のクロ(=ラザル・リフトフスキー)――の個性的なキャラと奇天烈な友情関係が見ものである。二人はナチスに抵抗する愛国者であり町のヒーローであるのだが、ストイックで清廉潔白なところなどみじんもない。盗みをはたらき、同じ女を取り合い、武器を密造し、いつも酔っぱらって専属のブラスバンドを引き連れて踊っている。文字通り「酔狂」。非常に人間くさい、というかゴロツキに近い。
 彼等が生きる世界は、非日常を日常とする戦時下。非日常でこそ輝く二人のキャラとその破天荒な行動、ストーリー展開の突飛さが、あたかもピカレスク(悪漢)小説のような爽快感をもたらす。いわばルパン三世の世界だ。
 全編に横溢する諧謔精神もたまらない。
 ナチスのユーゴ侵略からユーゴ内戦、事態は深刻で悲惨でこの上なく悲劇的。なのにベタな悲壮感がない。登場人物の個性的なキャラや奇想天外なストーリーとあいまって全体としてスラップスティックコメディ(ドタバタ喜劇)となっている。途中、何度も吹き出してしまうシーン、にんまりしてしまうシーン、ご都合主義な展開に喝采をあげたくなるシーンがあった。実際に起こったことを考えれば、ある意味不真面目な描き方である。が、それで失敗しているかといえばそんなことはない。しっかりと監督のメッセージは伝わってくる。
 悲劇的なことを喜劇で語るのは、相当の天才無くしてできなかろう。“凡庸”とは遠く離れた才能、作品と言える。

 この映画を観ると、「リアル」と「リアリティ」の違いについて考えさせられる。
 原義(英語)ではどういう差があるのか正確なところ知らないが、自分で勝手に意味づける両者の違いは次のようなものである。

 リアル   =現実、写実主義、真に迫っている
 リアリティ =本当らしさ、真実の香り

 リアルとは、本物そっくりの造花、食品サンプル、精密な写生画、一分の隙もない時代考証、ストーリーの見事な整合性。事実、現実を正確に映している様である。
 一方、リアリティとは必ずしも事実や現実の再現、複製ではない。その現実を見て聞いて体験した作者が、そこから読み取った「世界」の真実、「ものごと」の本質の表現である。バラの造花よりは本物のバラから作った香水、食品サンプルの寿司よりはネタの旨さを想像させる酢飯、スーパーリアリズムで描かれたリンゴよりはピカソのリンゴ、ストーリーの整合性よりは人間心理のもっともらしさ、といったところか。
 人が感動するのは、必ずしもリアルに対してではない。日常生活においても、芸術作品についても、事実や現実をどう調理したか、その包丁さばきに対してより深く感動するのである。さばき方にこそ、作者の汲み取った真実が表れる。人はそこに共感するのである。

 『アンダーグラウンド』がリアルを目指していないことは一目瞭然である。
 クロとマルコが窃盗に成功し村に凱旋する冒頭シーンからそれは宣言されている。二人には専属のブラスバンドがついている。物語が佳境に入ると、どこからかそれは現れて二人の周りで景気のいい民族音楽風BGMを演奏する。二人が雇っているのか、村の英雄に対する町民有志のボランティアなのか、いっさい説明はない。まあ、ありえない。
 ヨーロッパの地下深くに根を張るパルチザンによって掘りめぐらされた都市間をつなぐ大通路なんて設定も妄想かナンセンスである。ありえない。
 対独戦争が続いているとだまされたまま20年間地下に潜伏して武器を作り続ける一団なんてのもギャグか不条理劇の世界である。ありえない。(もっとも日本には横井庄一や小野田寛郎の例があるから、なんとも言えないが。)
 つまり、クストリッツァ監督は最初から状況をリアルに描こうなどと思っていない。いくらナチスや連合軍の爆撃やユーゴスラビア連邦人民共和国の誕生やトリエステ紛争やチトー大統領の葬儀のシーンなどの実際の記録映像が、合成カットによって取り入れられていようが、それは決して物語にリアルさをもたらすことを目指してはいない。(その合成手法も、ゴルバチョフと永瀬正敏が共演していたちょっと前のカップヌードルのCMを思い出させる稚拙さである。)


 2003年に国家消滅するまでの70年間強、ユーゴスラビアとそこで暮らす人々が体験したのは、まともに語るも虚しい馬鹿げた出来事の連続である。そこにあるのは、壮大なアホらしさである。
 だから、クストリッツア監督はまともに(リアルに)語ることを拒否したのである。虚しく馬鹿げた形式(スラップスティック)で語らざるを得なかったのである。
 状況に対する監督自身の見方や思いが、物語を語る上での表現形式を自ずから決定した。観る者はその表現形式の内にこそ、監督のメッセージを読み取るべきであろう。人間のどうしようもない愚かさという真実(リアリティ)を、笑いながら悟るべきであろう。その点で、第二次世界大戦のドレスデン爆撃を舞台にしたカート・ヴォネガットのスラップスティック小説『スローターハウス5』を思い起こすのはあながち間違ってはいまい。

 マルコ、クロはじめ主要登場人物は最後には皆死んでしまう。
 亡くなった人々(の霊?)は、海上に浮かぶ緑の島に漂着し、そこで昔の仲間が一斉に会し、お互いの裏切りや罪を許し合う。ブラスバンドの賑やかな演奏の中、仲間の結婚式を祝う。古き良き日々の再来。
 その島では地上にいた頃の肉体的苦痛も消え失せている。カタワの青年バタは芝の上を自由に歩き回っており、どもりの薄のろイヴァンは言葉を取り戻し知性のきらめきを瞳に宿している。
 イヴァンは最後にカメラに向かって(観る者に向かって)独語する。
『苦痛と悲しみと喜びなしでは、子供たちにこう伝えられない。・・・・昔、あるところに国があった。』
 この瞬間、映画の冒頭からどもりの薄のろであり続けたイヴァンが、実はシェイクスピアにおける道化同様の狂言回しであったことに観る者は気づかされる。
 この映画が、『フォルスタッフ』や『テンペスト』同様の壮大なる人間喜劇であったことを悟るのである。


評価:A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● オクタビウスの謎 映画:『クレオパトラ』(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ監督)

クレパトラ 1963年アメリカ映画。

 最初に言及すべきは、リズことエリザベス・テイラーの美しさ。
 撮影当時31歳、共演のリチャード・バートンとの始まったばかりの恋に身も心も潤って、匂い立つような女らしい艶やかなオーラーを発散している。リズが出ているシーンでは、リズしか目に入らないほどである。古代エジプト最期の女王、史上随一の美女の役だけあって、どんなに着飾っても、どんなにメイクアップしても、どんなに宝石で身を固めても、どんなに尊大に振る舞っても、やりすぎることはない。その保証を手にしてリズは自らの人生の美しさの頂点をここに焼き付けた。
 自分はブラウン管でしか観たことないが、スクリーンの大画面で見たら、この美は世界遺産ものだろう。

 物語のスケールの大きさ、豪華な衣装やセット、エキストラの多さ、制作会社(20世紀フォックス)を破産寸前まで追い込んだ巨額な制作費、美貌の大スターをめぐるゴシップや逸話の数々。女優を主役とした映画では『風と共に去りぬ』(ヴィクター・フレミング監督、1939年)と並び、バビロンの如き栄華を極めた大ハリウッドの威光を伝える作品と言えるであろう。

 とりわけそれが顕著に表れているのが、クレオパトラのローマ入城シーンである。

 クレオパトラがシーザーとの間にできた未来のアレキサンダーたる(とクレオパトラは目している)息子シザリオンを、初めてローマ市民に披露するこのシーンは、物語全体からすればどうってことない一つのエピソードに過ぎない。シーザーの暗殺、アクティウムの海戦、クレオパトラの自殺・・・など、物語的に重要な、絵になるシーンは他にある。
 だが、作品中おそらく最も豪奢を極め、手間も金もかかっていて、エキストラも多く、シーン自体も一番長く、もっとも印象に残るのが、このローマ入城なのである。
 最初に登場のファンファーレがあって門が開かれてから最後にクレオパトラ(とシザリオン←添え物)が登場するまで何分かかっているだろう。延々とアフリカ風の踊りやら、槍を使った戦闘の舞いやら、火を使ったリンボーダンス風な曲芸やら、カラフルな煙幕やら、これでもかとばかりに見せ物が続く。映画では当然それぞれの見せ物は部分的に紹介されカットつなぎで次の見せ物にバトンタッチされるわけだが、おそらく実際の時間にすると軽く2時間はかかるのではないだろうか。
 観ていて連想するのは、昨今のオリンピック開会式である。
 各国の選手入場の直前まで延々と開催国をアピールする催し物が行われるのが定番となっている。その国の成り立ちを伝える神話の再現とか、歴史上の有名な出来事とか、伝統舞踊や伝統工芸や民族衣装とか、果てはその国出身の世界的歌手やスポーツマンが花を添える。オリンピックがなりふり構わぬ商業主義に走ったロス五輪以降、それがどんどんエスカレートして明らかな国力の誇示ショーになっている。
 それはどうでもいいんだが、開会式の演出家たちは、演出家を志した少年時代か青年時代にまず間違いなく、リズの『クレオパトラ』を観ていることだろう。「ローマ入城シーン」に影響されていることだろう。
 で、「ローマ入城シーン」自体は、まず間違いなく、マンキーウィッツ監督がそれまでに観たオペラ『アイーダ』第二幕の「凱旋の場」の演出を意識してつくられたはずだ。
 逆に、この『クレオパトラ』から影響を受けて、その後の『アイーダ』演出家は「凱旋の場」をつくることにもなったであろう。(とりわけフランコ・ゼフィレッリあたり。)
 『アイーダ』と『クレオパトラ』と『オリンピック開会式』は、相互に影響し合って手に手を取ってゴージャスと拝金主義とナショナリズム高揚を推し進めていると言えよう。(昨今はそこにサッカー競技も加わっている。)

 リズにばかりに目がいってしまう『クレオパトラ』であるが、今回改めて面白さを感じたのは、クレオパトラをめぐる3人の男――シーザー、アントニウス、オクタビウスーーのキャラクターの違いである。クレオパトラにとって、シーザーは父のような庇護者的存在、アントニウスは自分をひたすら賛美崇拝してくれるアッシー君(古い!)みたいな存在、そしてオクタビウスは・・・? オクタビウスとの関係が謎である。
 歴史上の権力争いの観点から言えば、次のように比較できるだろう。

 シーザー   =織田信長(最初の国家統一者)
 アントニウス =豊臣秀吉(その跡を継いだ者)
 オクタビウス =徳川家康(最終的に長期政権の基盤をつくった者) 

 ついでに
 ブルータス  =明智光秀(言わずもがな・・・)

 すると、クレオパトラは誰だろう? 
 淀君か、ネネか?

 3人の男のうちクレオパトラが最も(真に)愛したのはアントニウスらしい。自らが大将をつとめる闘いで、逃げる女の後を追って船をも部下をも見捨てるアントニウスは、天下のうつけ者(やっぱ織田信長?)であるが、「私と仕事とどっちが大事なの?」という女の究極の問いに迷わず「お前に決まっている」と答えられる男は、世の女にとってはアレキサンダー以上の英雄なのかもしれない。
 名優リチャード・バートンは、実に人間くさいアントニウスを好演して、リズでなくとも母性本能をくすぐられる。


 オクタビウスはクレオパトラの毒牙にかからなかった(フェロモンに迷わされなかった)。結果として、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなった。
 なぜだろう?
 
1.男色家説


 この説は結構好まれている。 
 この映画でも、当時のハリウッドの規制もあって、はっきりそうとは描かれていないが、オクタビウスが女に興味がないことを示すシーンがところどころ出てくる。


アントニウス 「君も仕事ばかりしないで少し遊んだらいい。あそこにいる女達はどうだ。よりどりみどりだぞ。」
オクタビウス 「無駄なことです。」

 手塚治虫の『クレオパトラ』(1970年)ではもっと顕わである。
 朋友アントニウスを殺されたクレオパトラは、次の手段としてオクタビウス籠絡に取り掛かろうとする。フェロモン100%放射。

 オクタビウス「お前の魅力など私にはまったく効かない。」
 戸惑うクレオパトラ。 
 そこへ、クレオパトラの家臣である力自慢の闘志(グラデュエイター)が現れる。
 とたんに目の色を変え、オカマキャラ丸出しになってしまうオクタビウス。
 「きゃあー。素敵な肉体。あの日あなたを見て以来、この体に抱かれることを夢見ていたのよ。あとで、連絡先教えてね~?」
 すべてを諦めるクレオパトラ。

 男色家説は話としては面白いが、実際にはどうだろう。
 オクタビウス=アウグストゥスは、生涯に何度も結婚して子供も作っている。もちろん、後継者を作るための、あるいは勢力基盤を磐石にするための政略的結婚であったとは思う。病弱であったためかどうか、血を享けた子供は結局一人しかできなかった。それも娘だった。あまり子作りには積極的でなかったようだ。
 生涯の友であったアグリッパとの篤い関係から同性愛の匂いを嗅ぎ取ることもできる。自分の娘ユリアとアグリッパを結婚させて(アグリッパを義理の息子にして)、そこにできた息子に帝位を継がせようとしたところなんか、現代の大物ホモ政治家がやりそうな手口である。
 ともあれ、なんと言ってもキリスト誕生以前(BC)である。この時代のローマ人にとって同性愛はタブーではなかったはず。若きジュリアス・シーザーも「すべての男の妻」と呼ばれていたのである。
 曰く「オクタビウスがゲイでなかったら、世界の歴史は変わっていただろう。」 


2.クレオパトラが本気を出さなかった説


 里中満智子の漫画『クレオパトラ』がそうである。
 シーザーとの世紀の恋に破れ、アントニウスとの運命の恋の成就と死別を経験した女王はもはや政略的な結婚などしたくなかった。人生にも野望にも疲れていた。愛するエジプトを守るためでも、もう奥の手を使う気にはなれなかった。
 リズの『クレオパトラ』もアントニウスとの真実の恋に目覚めたために、後を追って自害するのである。


3.クレオパトラの魅力に翳りが・・・・説


 さて、ここで主要人物の生年没年である。


シーザー  (紀元前100年――紀元44年) 56歳で死去
アントニウス(紀元前83年――紀元30年)  53歳で死去
オクタビウス(紀元前63年――紀元14年)  76歳で死去
そして、
クレオパトラ(紀元前69年――紀元30年)  39歳で死去


 クレオパトラとシーザーの年齢差は31、アントニウスとは14、オクタビウスとは6つでクレオパトラが年上である。
 クレオパトラが3人の男をたらしこもうとした時のそれぞれの年齢を推定する。


 シーザー(52)×クレオ(21)
 アントニウス(41)×クレオ(27)
 オクタビウス(33)×クレオ(39)


リズ シーザーとアントニウスは、クレオから見れば「すっかりおじさん」だったのである。若さと美貌と奸智とエジプトの富とで彼等をたらしこむのは赤子の手をひねるようなものであったろう。また、中年クライシスを感じていたであろう「両おじ」にとって、若く夢に燃えるクレオはまたとないオアシスであり活力源であったろう。
 一方、オクタビウスから見れば、アラフォーのクレオは「もうおばさん」である。とくに、女性の容姿とフェロモンは35を過ぎると急速に衰えていく(by幸田來未)。自身「ローマ一の美少年」と言われ年上の男女からもてはやされたオクタビウスにしてみれば、クレオの美貌なぞ「どうってことない」「なに若作りしてんだか」「首の皺は隠せねえぞ」だったのかもしれない。
 証拠がある。リズがクレオパトラを演じたのは31歳の時である。それからわずか3年後『ヴァージニア・ウルフなんか恐くない』(マイク・ニコルズ監督、1966年)のリズを見よ。もはや美の衰えは隠しようもない。その代わりに演技派女優としての名声を確立していくのだが。(この作品でオスカーを獲っている。)

 子供の頃この映画をテレビで見たとき、リズのアテレコは小川真由美だった。
 これが実に素晴らしかったのである。まろやかで、色っぽくて、品があって、知性を感じさせ、女王としての風格に不足はない。しかも小川真由美は、声で芝居をすることのできる芸達者。
 お蝶夫人やオードリー・ヘップバーンの声が池田昌子で決まりであるように、クレオパトラの声は小川真由美で決まりというのが実感である。
 うれしいことに、DVDの日本語音声は小川真由美である。
 日本でのテレビ放映時の録音テープを使ったためか、テレビ放映の際にカットされたシーン(特にお色気シーン)では突然英語になる、つまりリズの肉声に切り替わるという面白いことになっている。
 ぜひぜひ日本語音声で観て(聞いて)ほしい。
 絶世の美女エリザベス・テイラーも決して声は美しくないんだなあ、喋りに品がないんだなあ、と知ることができる。声や話し方がいかにその人の魅力を引き立てるかをまざまざと知ることができる。
 小川真由美という女優を語る上で、欠かすことのできない作品である。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
     
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 映画:『塀の中のジュリアス・シーザー』(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟監督)

塀の中のシーザー 2012年イタリア映画。

 一分の隙もない傑作。
 さすがタヴィアーニ兄弟。老いの入舞、白鳥の歌と言ったら失礼か。


 ローマ郊外のレビッビア刑務所で行われている演劇実習。毎年様々な戯曲を囚人たちが演じ、所内の劇場で一般市民に向け披露する。
 今年の演目はシェイクスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』。まぎれもなくイタリア人にとって祖国の英雄である。日本で言ったら、ヤマトタケルか平将門か源義経か織田信長か。原作は知らなくても「ブルータス、お前もか」というセリフは、「あなたはどうしてロミオなの?」と並んで、もっともよく知られているシェイクスピア劇中のセリフであろう。「殿中にござる」と並んで、もっともよく日本人に知られている刃傷沙汰における名文句であろう。


 シーザー暗殺という古代ローマ随一の劇的事件を描いた作品を、末裔であるイタリア人がイタリア語で演じるというところがまず見物、というか聞き物である。
 イタリア語は何と美しくリズミカルで芝居に向いているのだろう。オペラがイタリアで誕生し花開いたことを思えば当然なのだが、感情をきわめて豊かに音楽的に相手に伝えることのできる言語なのだなあと感心する。原作の英語より良いかもしれない。
 イタリア人が演じていることも非常にプラスに感じられる。実際にシーザー暗殺に関わった人たちの風貌や挙措挙動はこんな風だったのだろうなあと思わせてくれる。日本人に日本人特有の動きや表情や姿勢や目つきがあるように、イタリア人にもそれがある。もちろん現代イタリア人と古代ローマ人とでは違っているだろう。でも、他の国の役者が古代ローマ人を演じるよりもやっぱりふさわしいように思うのである。オペラ『蝶々夫人』を見るとき、主役が日本人かそうでないかで全然舞台の雰囲気が違ってくることに似ているかもしれない。 

 血なまぐさいドラマを演じるのが正真正銘の犯罪者たちであるという点がまた面白い。
 陰謀、腹の探り合い、裏切り、仲間割れ、権力争い、二枚舌、大義名分、血で血を洗う殺戮・・・。
 こういった要素がこの劇のエッセンスであるが、これらはまさに演者である囚人たちの半生を彩ってきたものである。それだけに、劇中のセリフの一つ一つがそれぞれの演者の人生とオーバーラップしていく。稽古の最中、ある一つのセリフで過去の出来事を思い出し苦痛で芝居が続けられなくなってしまう。相手役の弄する甘言セリフを、その役者の性格とダブらせてしまい、普段押し殺していた怒りに火がついて稽古場で喧嘩が起こる。
 芝居と現実とが入り混じって、そのたびにリアリティを増していく芝居の質、本物になっていく囚人たちの演技。この演目を選んだ人間の鋭さに感心するが、それよりも何よりもやっぱりシェイクスピアの凄さである。本物の犯罪者に「これとまったく同じセリフを死んだ仲間は言っていた」などと言わせて心のひだに入り込んでしまうシェイクスピアの人間理解、洞察力。よく言われるシェイクスピア複数説も、そのあたりの「何回人生、生きてんだ~?」と思わせる幅広い世間知から導き出されるのであろう。 

 シェイクスピアの凄さに負けず劣らず、囚人たちの役への没入ぶり、芝居への熱中ぶりも凄い。
 獄中の退屈さをつかの間忘れられるという点はあろう。
 が、おそらくそれだけではない。
 元来、才能ある役者と犯罪者には共通したものがあると思う。それは洗脳のされやすさ、自分でない何かに簡単に仮託してしまう「自我」のもろさである。より適確な言葉で言えば「憑依体質」である。この映画はそのことを実証する。稽古が進むに連れ、本番が近づくに連れ、役に同化していき表情まで変わっていく囚人たちの様子は、鏡ノ間で面と向き合いながら役が乗り移るのに身をゆだねる能役者の姿を連想させる。
 演じている間は、自分はシーザーでありブルータスでありアントニウスである。そして役者である。殺害犯でもポン引きでも強盗でもない。犯罪者、社会の落伍者、人生の失敗者、故郷からも家族からも友人からも見放された孤独な男、という現実をしばし忘れることができる。「自分ではない何か」になれる喜びと救いは、彼らにとって強烈なエクスタシーであろう。
 囚人たちのこのつかの間の夢、栄光を支えるかのように、石造りの監獄はあたかも古代ローマの城塞のように、広場のように、路地のように姿を変えていく。モノクロ撮影がそれをバックアップする。


 この映画を老タヴィアーニ兄弟は何故撮ったのだろうか?
 観る者は映画の最後にその答えを知らされる。成功裡に終わった一般市民への公演のあと、看守の手によって独房に戻された一人の役者、一人の囚人、一人の殺害者の口を通して。
 そのセリフこそ、『ジュリアス・シーザー』の中のどの名文句にも劣らないくらいの圧倒的な真実の苦さに満ちている。
 そして、人生における芸術の意味、人類の歴史におけるシェイクスピアやダ・ヴィンチやベートーヴェンの意味を教えてくれる。
 きっとタヴィアーニ兄弟は、自らの長い映画人生を総括したかったんだろう。


 ダニエル・シュミットは『トスカの接吻』(1984年)で、引退した音楽家たちが住む老人ホームを訪れた。シュミットの魔術的なカメラは、灰色の隠遁生活を送っていた老人たちを薔薇色の過去の中に甦らせ、オペラへの愛、芸術への愛、生きることの喜びを回復させてしまう。それはかつて老人たちが持っていたものである。
 『塀の中のジュリアス・シーザー』は、灰色の監獄生活を送っていた囚人たちに、つかの間の喜びをもたらす。
 一方、彼らは芸術を通してはじめて気づくのである。自分たちが人生で手にできなかったものの大きさに。

 彼らが更正しますように。


評価:A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
           
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● あまりにも猥褻 映画:『マドモアゼル』(トニー・リチャードソン監督)

 1966年フランス・イギリス合作。

 「女にも性欲があるのよ」と発言したのは五月みどりであった。
 70年代半ばくらいだったろうか。
 思春期真っ盛りで男の性欲に関しては嫌でも(嫌でなかったが)付き合わざるを得なくなっていた自分は、「へえ~、そうなんだ」と素直に驚いたものである。いま自分が、自分と同じ世の男たちが、四六時中振り回されている強烈な物狂おしい欲求を、女もまた持っているのだと初めて知った瞬間であった。
 数々の浮名を流し酸いも甘いも噛み分けた五月みどりがわざわざ声を大にしてのたまわなければならなかったほどに、そしてその発言が衝撃を持って世間に受け止められたほどに、世の大人の男たちもまた「女に性欲がある」ということに思春期の自分同様無知だったのである(だよね?)。
 女は「待っている」存在であり、男によって「求められ一方的に抱かれる」存在であり、「開発される」存在であり、商売女や一部の西欧かぶれの芸術家はともかくとして、女が自分から「欲しい」と言うなど「はしたないこと」であった。倫理が生理を規定してしまった結果、長らく男たちは女に押し付けた倫理を女の生理と思い込んでいたふしがある。そのうちに、当事者である女たちさえもそう信じ込んでしまったのではないだろうか。
 いつからかは分からない。やっぱり、文明開化以降の流れであろうか。

 もう一つの衝撃は、「一億人の妹」というデビュー当時のキャッチフレーズ通りの清純派アイドルの気配を残していた大場久美子が、週刊誌のインタビューでぶちかました「わたし、オナニーしてます」発言である。
 80年代初頭くらいだったろうか。
 これには完全にノックアウトされた。
 自分にとっての大場久美子の意味は「スプリングサンバ」でも「コメットさん」でも「パニック障害」でもなく、「日本で最初にオナニーをカミングアウトした女性アイドル」である。それだけで十分彼女は芸能史に残る。どころか日本の女性史に残る。
 「女のオナニー」という男にとっては最大の謎、女にとっては最後の秘密を、いとも簡単に白日の下にさらしてしまったのが、女流作家でもフェミニストでもお笑い系の女性タレントでもなく、清純で売っていたアイドルであったという、そのギャップが強烈であった。
 それは五月みどりの発言の真実をより強く男たちに知らしめた。性体験豊富な熟女だけではない。姿可愛いうら若き乙女もまた性欲を宿している。満たされない欲望に悶えて夜になれば煩悶と一人遊びしている。結局、女も男と変わらないのだ。

 この二人の発言を個人的に「戦後日本女性の性解放史における二大インパクト」としたい。

 以後なし崩し的に事態は進んでいく。

 処女の頃押入れで欲求不満を慰めていたという塩沢とき(『笑っていいとも』)、「セックスは清く正しく気持ちよく」と歌い上げた小森のおばちゃま(『オールナイトフジ』)、シャワーを浴びる若い男の裸体によだれを流す山田邦子、圧倒的な下品さを笑いに換えてお茶の間に通じさせることに成功したマチャミ、ananの「セックスできれいになる」特集、メンズを従えて若いエキスを補填しまくる叶恭子、そしてゴールデンタイムに「びっちょんこ(=おまたの涙)」を連呼する大久保佳世子と友近。
 もはや「女にも性欲があるのよ」発言が、鶴太郎の「私は女優よ」と同程度の陳腐なジョークに思えるほどである。


 かくして、今やっとこの映画を見るときが到来したのである。
 66年に日本公開されているが、当時の批評家や観客はこの映画をどう受け止めたのだろう? 気になるところである。評判にならなかったところを見ると、どう解釈したらいいのかお手上げ状態だったのではないだろうか。


 村人から「マドモアゼル(生娘)」と呼ばれている中年の独身女教師の性的欲求不満がテーマである。欲求不満が高じて、生徒に八つ当たりするわ、放火はするわ、水門を開けて洪水を引き起こすわ、家畜殺しをするわ、と次々と犯罪を重ねていく。とんでもない女である。彼女にくらべれば、八百屋お七や阿部定が可愛く思える。
 そんなにムラムラするなら、とっととやってしまえばいいのに・・・と思うのであるが、インテリならではのプライドの高さからなのか、厳格な育ちゆえなのか、宗教上の束縛のせいなのか、周囲の男から秋波を送られても冷たく遮断するのである。屈折したセクシュアリティの持ち主なのだ。
 であるがゆえに、渡り者として村人から疎んじられている逞しいイタリア人と彼女が初めてまぐわうことになった時、そのエネルギーの放出は凄まじいばかりである。

 この野外での数分間のセックスシーンは、映画史上もっとも官能的な場面の一つに上げられるだろう。観ていて「こんなシーンを撮ってもいいのか?」「観てもいいのか?」「これは絶対R指定だな」と思ったものである。凡百のポルノ映画よりもずっと淫らで、エロチックで、生々しい。ヌードシーンなどほとんどないのに。
 エロスとはなんなのかを知るには、この映画を観るに如くはない。設定が極端だからこそ、状況が切羽詰っているからこそ、抑圧が一通りでないからこそ、エロスの真髄が暴き出されるのである。


 つまるところそれは「魂の咆哮」。
 観る者をして、「こんなシーンを目撃してしまってもいいのだろうか?」と気恥ずかしさと多少の居心地の悪さを感じさせるのは、他人の裸の肉体がそこにさらけ出されているからではない。裸の魂が剥きだしに映し出されているからである。
 それを覗き見る行為こそが「猥褻」にほかならない。


 さすが、ジャン・ジュネ(原案)である。
 さすが、マルグリット・デュラス(脚本)である。
 さすが、ジャンヌ・モロー(主役)である。


 
 

評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 日本映画の最高の演技 映画:『サンダカン八番娼館 望郷』(熊井哲監督)

 1974年東宝、俳優座。

 からゆきさん(唐行きさん)とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のこと。長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、ばくぜんと「外国」を指す言葉である。(ウィキペディア「からゆきさん」より)


 この映画は、明治時代にからゆきさんとしてボルネオのサンダカンという街に連れて行かれ、少女時代・青春時代を娼婦として生きた実在の女性の話をもとに作られている。「八番娼館」とは一番から数えて八番目ということであるから、当時相当数の少女が売られ、相当数の娼館が現地にはあったのだろう。

 からゆきさん時代の北川サキの役を高橋洋子が体当たりで演じている。
 賞讃に値する演技である。
 が、時代が明治・大正から昭和に移り、今や老女となった北川サキを演じる田中絹代の演技が圧倒的に素晴らしいので、どうしても観る者の目は「過去の生々しい悲惨な物語」よりも「現在の穏やかだけれど濃密な時間」に向いてしまう。筆舌に尽くしがたい悲惨な過去を背負って生きている老女の姿に、その喜怒哀楽の表情、話しぶり、立ち居ふるまい、歩く姿、横に寝ころぶ姿、田中絹代の演技のすべてに魅了される。田中絹代と北川サキが一心同体のように思える。
 日本一の映画女優、田中絹代の最終的に達した高みがここにある。
 それは、つまり、日本映画の最高の演技ということである。


 からゆきさんのことを本にしようと目論み、北川サキの家におしかけ同居する女性史研究家、三谷圭子の役を20代の栗原小巻が演じている。
 こちらも魅力的である。演技の巧さもあるが、何より匂い立つような美しさに心を許してしまう。
 「クリームみたいな石けん♪花王石鹸ホワイト」
 栗原小巻の昔出ていたCMソングが頭にリフレインする。
 こんな品が良くて女らしく、心ばえ良く、凛として、清潔感のある女優が当節いなくなったな~とつくづく思う。そういう日本女性がいなくなったのか・・・。


 もう一人忘れちゃいけないのは、ターキーこと水の江滝子である。
 はっきり言って、この人の演技を上手いとは思わない。セリフなんか棒読みに近い感じである。
 しかし、貫禄が違う。
 かつて「からゆきさん」のはしりとしてサンダカンで体を売り、今はサンダカンの若い娼婦達から「お母さん」と頼りにされる娼館の女将おキクを、スター役者の圧倒的貫禄と存在感だけをもって演じきっている。お見事!


 年老いた北川サキから昔の話を聞き出そうとする三谷圭子は、結局半月あまりもサキの家に居候することになる。日に日にサキと親しくなり、信頼を得て、ついにはサキの過去を聞くことに成功する。
 自分の正体をいっさい語らない三谷を、サキは最初から信用して家に泊め、貧しいながらも精一杯もてなす。三谷がどこのだれで、何の仕事をしているか、なぜ女一人の身で天草くんだりまでやってきたのか。なぜサキに興味を持つのか。サキはいっこうに尋ねようとしない。
 一通り取材し終えて別れの日が来た時、三谷はサキに問いかける。
「なぜ、どこの馬の骨ともわからない私を三週間も家に泊めてくださったんですか。私がどういう身元の女だか、それを知りたいと思わなかったんですか。」
 サキは答える。
「そりゃあ、どんなに知りたかったことか。でも、人にはその人その人の都合がある。話してよいことなら、わざわざ聞かなくても自分から話している。でも、当人が言えんことを、他人の私がどうして聞いてよいものかね。」


 このセリフは、まさに過去のある人間だから、過去を探られることの痛みが分かる人間だからこそ言えるセリフである。
 この映画では語られていないが、若いサキ(高橋洋子)と老いたサキ(田中絹代)の間にある人生半ばのサキが、そのどこかで、自ら受けた深い傷を他者への思いやりへと転換させる契機を持ったことを知らしめるセリフである。
 だからこそ、老いたサキの笑顔はすがすがしいまでに慈悲深いのである。



 自分の過去や思い出を、例えば初対面の他人に堂々と語れる人は幸せな人である。隠しておきたいことや触れてほしくないことを持っていない人は、陽気で天真爛漫に振る舞える。子供のように。
 だが人は長ずるに及んで、他人には簡単には言えないことを持つようになる。
 あるいは、当人が話せても(話したくとも)、聞く側の気持ちに配慮して話さないでいることもある。「相手を混乱させるだけ」「場をシラケさせるだけ」「話しても通じそうにない」等々。
 そうして、本当に語られるべきことが語られずに、人と人との関係が上っ面のまま流れていくのが日常なのかもしれない。
 あるいは、好奇心からの、考え無しの‘無邪気な’質問が、人の心を閉ざしてしまうこともある。 
「いや、自分にはもとより差別や偏見はない。相手を理解したいからこそ聞くのだ。」と言う人もいるだろう。
 だが、相手を理解したいと思えばこその問いかけも、当の相手が「この人には別に理解してほしくない」と思っているとしたら、その問いかけは相手にとって単なる領海侵犯に過ぎない。
 
 相手のことを聞くというのは、かくも繊細な、かくも想像力と思いやりを要する、大人の技芸なのである。
(こんなことが分かるまでに50年近くもかかるとは・・・・!)


  

評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『修羅雪姫』(藤田敏八監督)

 1973年東宝。

 文句なしに滅茶面白い。

 雪の降る寒い晩に、母の命と引き換えに牢獄で生まれた娘。
 その母は殺人犯にして男と見れば相手選ばぬ淫乱女。
 故に父は知らず。
 復讐の為にのみこの世に生み落とされた因果な娘。
 その名は雪。
 負×負×負× ・・・・・

 舞台となるは文明開化華やかなりし明治の日本。
 しかし、親の敵を探して雪のさすらう人生行路に見える景色は、血のにじむような修行の日々、強姦、売春、遊郭、博打、部落、血しぶき、魑魅魍魎の権力者、欺瞞と欲望の象徴たる鹿鳴館(もちろん仮面舞踏会あり)・・・。
 負×負×負× ・・・・

 日本的な「負」の追求の果てに咲いた一輪の花が、雪(=梶芽衣子)である。
 このまさに劇画的に大仰な、メリハリのある、刺激的な舞台設定こそ、映画を輝かせる。
 そう。テレビでは「負」は描けない。
 もちろん、すべての「負」をひっくり返す雪の美貌があっての話である。(これで、雪がブスだったら救いようがないではないか)

 主演の梶芽衣子の美しさ・かっこよさは言うまでもないが、敵役の一人・北浜おこのを憎憎しげに演じる中原早苗のえぐみ、若き宮沢りえを思い出させる若き中田喜子(『渡る世間』の文子)の可憐さも、インパクト大。
 大映テレビドラマにも似た過剰な演出の中に、藤田監督の美学が散りばめられていて、圧倒的な「負の豊饒性」に酔いしれること間違いなし。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『わが谷は緑なりき』(ジョン・フォード監督)

 1941年アメリカ映画。

 いい映画である。

 西部劇はあまり好きでないのでジョン・フォード作品は敬遠していたのだが、これは西部劇ではないので借りてみた。
 やはり、ジョン・フォードは偉大だ。素晴らしい。これぞまさしく映画だ、と最初から最後まで唸りながら観ていた。

 題材の扱いも上手い。
 ヒュー少年の成長物語を軸に、ヒューを取り巻くモーガン一家の物語、ヒューの姉であるアンハラド(モーリン・オハラ)と町の牧師グリフィードとの悲恋物語、そしてモーガン家の男達が働く炭坑とその盛衰に影響され変わってゆく町の物語。いくつもの物語を交差させ、緩急をつけて、感動を生み出していく手腕が見事である。これを観ていると、スピルバーグはジョン・フォードの正統の後継者なのだなあと納得する。
 とりわけ、炭坑町の光と影の描き方が秀逸である。
 町全体に活気のあった古き良き時代が、ストライキを決行せざるを得ないような労使問題を通過して次第に廃れていき、仕事を失った人々が町を離れていくに至る。それに合わせるように、モーガン一家も両親への愛と敬意により結ばれていた子供たちが、父親と衝突して家を出て行き、最後は故郷を離れ散り散りになってしまう。歌と信仰によって固い絆で結ばれていたかに見えた町の人々も、実は心の中には不寛容と噂話を簡単に信じる悪意を抱いていることが暴露される。かくして、最後は炭坑に爆発が起こり、モーガン家の大黒柱たる父親は亡くなっていく。
 あたかも古き良き時代の終焉を告げるように。
 ヒューの少年時代の終わりを告げるように。

 よく考えると、ヒュー少年の思い出はつらく悲しいことばかりである。「わが谷は緑なりき」とは美化しすぎではないか?

 炭坑のオーナーの息子と結婚したアンハラドが立派な車に乗って町を出て行くシーン。
 祝いの歌を歌う町の人々の背後で一人離れて物陰から姿を現すグリフィード牧師。二人は本当は愛し合っているのだ・・・。
 普通の凡庸な監督ならグリフィードのアップを撮るだろう。嫉妬とも後悔とも哀しみとも諦めとも悲痛ともつかない表情のグリフィードを、あるいは木の枝をつかんで震える手を撮るかもしれない。スピルバーグでさえそうするかもしれない。
 ジョン・フォードはそんなことしない。
 ただ、物陰から出てきて立ちすくむ姿を、大衆の背後にさらっと撮すのである。
 このもったいないと思えるほどの慎み深さ。抑制。
 この演出姿勢こそが、古き良き時代の良心であろう。大人になったヒューが「わが谷は緑なりき」と懐かしがるのも無理もないと観る者を納得させる魔法であろう。



評価: A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 日本女性の美の2つの極北 映画:『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督)

 1950年アメリカ映画。

 今さら評価する必要もない名作である。

 主演のグロリア・スワンソンの一世一代の怪演は、同レベルのものを挙げるとしたら、『ジェーンに何が起こったか』のベティ・デイヴィス、『狩人の夜』のロバート・ミッチャム、『シャイニング』のジャック・ニコルソン、『羊たちの沈黙』のアンソニー・ホプキンズ、『ダークナイト』のヒース・レジャーなどを持って来るほかない。サイレント時代のスワンソンを知らないが、これ一作だけでも彼女は映画王国の殿堂入りを十分果たしている。ポーズをつけながら階段をゆっくり降りてくる最後の場面などは、風邪で寝込んだ夜の夢に出てきそうである。
 エリッヒ・フォン・シュトロハイムの抑制された存在感たっぷりの演技、ウィリアム・ホールデンの適役ぶり、そしてビリー・ワイルダーの見事な脚本と気の利いた科白の数々。実に見ごたえがある。この作品をこれを上回るレベルでリメイクするのは絶対に不可能であろう。

 美貌の大女優が老いて世間に忘れられることの残酷さをテーマにしたものであるが、ひるがえって日本の芸能界を見ると、本邦の往年の大女優たちは老いても結構頑張っているなあと感心する。
 もちろん、グレタ・ガルボのひそみにならって40才の若さで引退した「永遠の処女」たる原節子さまがいるけれど、CMで見ない日のない吉永小百合はもとより、若尾文子、藤(富司)純子、浅丘ルリ子、岩下志麻、岸恵子などなど、かつての銀幕のヒロインたちはさすがに映画の主役こそ張らないけれど、今でも現役で高い人気を保ちながら活躍している。たいしたものだ。
 思うに、銀幕のスターという存在がもはやいなくなってしまったことが一つにはあるのだろう。彼女たちは、今やすっかり消滅してしまった一つの文化、夢と神秘と憧れとに包まれた銀幕の彼方にあった輝ける世界、の栄光とオーラを背負っている希少な存在なのである。
 一つには、日本の文化ひいては日本人が、アメリカナイズされたとはいえ、なんだかんだ言って「わび」「さび」に示されるような枯淡の境地に対する嗜好を持っているからではないだろうか。整形を繰り返し、変に若作りする故エリザベス・テーラーやカトリーヌ・ドヌーブより、それなりに枯れて落ち着いていく八千草薫(「香醇」)に、年経るごとに苔むして渋みを増していく日本庭園を見るような好ましさを感じているのではないだろうか。
 もちろん、女優たちもそれぞれ美貌を保つため、美しく見せるための奮闘はしているだろう。撮影技術やCG等による編集技術の向上も無視できないところではある。

 とつおいつ考えていたら、思い当たったことがある。
 日本の女優の(女性の、と言ってもいいが)美を語る上で、二つの極が存在する。
 この極があるがために、この極の不動の気高さ、有無を言わさぬ輝きのために、日本の女優たち(女性たち)は、老いによる美の消失を怖れる必要など決してない。この極の方向へと自らを高めていけばよいのである。

 一つの極は、美智子皇后である。
 若い頃のあの方は類い希なる美貌の持ち主だったが、年老いた今、「老けて美しくなくなった」などという人がいるだろうか。むしろ、内面からにじみ出る慈しみの輝きはいや増す一方ではないか。ブランドの衣装も皇室伝統の宝石も、あの永年の忍耐と祈りとによって刻まれた皺ほどの美しさはなかろう。

 もう一つの極は・・・・・・・美輪明宏である。
 神武以来の美少年とうたわれたのははるか昔である。だが、やはり「美」の代名詞であり続けている。ひとえに、芸術と潔い生き方と品格の力とによって。

 こうした二つの極を持つ日本の女性は幸せである。


 さて、日本の男はどう老いたらいいのだろう?
 


評価: A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!










 

 
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