ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価B+

● デビ夫人の受難、またはバイスティクの7原則 映画:『アクト・オブ・キリング』(ジョシュア・オッペンハイマー、クリスティーヌ・シン監督)

2014年イギリス、デンマーク、ノルウェ製作。

犯した罪は罰せられる
鼓笛を鳴らして大勢を殺す場合を除いて

 ・・・というヴォルテールの言葉から映画は始まる。
 
 外乱や内乱の時には多くの命が奪われる。
 「勝てば官軍」で、勝ち残って権力を得た側は、戦時中の敵方への仕打ちについて、それがどんなに残虐非道なものであっても罰せられることはない。‘戦争犯罪人’は立場が逆転すれば‘祖国の英雄’である。英雄は殺した敵の数が多いほど讃えられ尊敬される。
 だが、ベトナム戦争よりこのかた、兵士のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が大きな社会問題になっているように、法治国家に暮らし、命と人権と平等の価値を教え込まれている現代人にとって、たとえそれが‘合法的’であろうとも、愛する祖国や同胞を守るためであろうとも、人を殺傷することには抵抗が伴う。罪の意識や死後の行く先の恐怖から逃れることは至難の業である。

 この映画は、1965年9月30日深夜にインドネシアで発生した「9・30事件」後の大虐殺を描いたドキュメンタリーである。
 これは、大統領親衛隊の一部が、陸軍トップの6人の将軍を誘拐・殺害し、革命評議会を設立したが直ちに粉砕されたというクーデター未遂事件であるが、それだけでは終わらず、未曾有の大混乱をインドネシア社会に呼び起こした。
 9・30事件そのものは未だにその真相が明らかになっておらず、陸軍内部の権力争いという説も強いが、当時クーデター部隊を粉砕し事態の収拾にあたり、その後第2代の大統領になったスハルト少将らは、背後で事件を操っていたのは共産党だとして非難し、それに続く1、2年間にインドネシア各地で、100万とも200万ともいわれる共産党関係者を虐殺したのである。
 それまで、容共的なスカルノ大統領のもとでインドネシア共産党は350万人もの党員と、傘下に多くの大衆団体をかかえる有力な政治勢力のひとつであった。しかしかねてからそれを快く思っていなかった陸軍はその力を削ぐ機会を伺っており、この9月30日の事件を口実にそれに乗り出した。
 とはいえ、当時共産党は合法政党であったから、国軍が前面に出るのではなく、イスラーム勢力やならず者など反共の民間勢力を扇動し、密かに彼らに武器を渡して殺害させたのである。ごく普通の民間人が武器を握らされ、国軍からにわか仕立ての訓練を受けて殺害に手を染めた。イデオロギーの違いから近隣の者はおろか肉親にさえ手をくださねばならない場合もあった。
 スハルトによる新体制が確立した後の1973年に、この一連の虐殺の中で共産主義者の命を奪ったものに対しては法的制裁が課されないことが検事総長によって正式に決定されたが、その記憶は多くの人にとってトラウマとなって残っている。
(『アクト・オブ・キリング』公式サイトより抜粋)

 100万人以上の共産主義者の虐殺。
 当時幼少だったとは言え、インドネシアでこんな凄まじい事件があったなんて知らなかった。スカルノ大統領の第3夫人であったデビ夫人が夫が失脚したあとにフランスへ亡命したことは、もちろんテレビや雑誌で知っていたが、こんな地獄を生き延びた人なのだ。下手すると、スカルノ大統領ともども、ルイ16世とマリー・アントワネット同様の最期が待っていたのかもしれない。 

 上記サイトによると、オッペンハイマー監督は、はじめ人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していた。が、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更した。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのを目にして、「あなたたち自身で、カメラの前で当時の模様を演じてみませんか」と持ちかけた。これに「待ってました」とばかり応じたのが、上記のならず者(作品中では‘ブレマン’と言っている)の一人であり、かつて虐殺を実行した殺人部隊のリーダーであり、おそらく今や80歳近くになるであろうアンワル・コンゴであった。
 当時メダン市の映画館でダフ屋をやっていたアンワルは、軍の要請で共産主義者の捕獲と暗殺を手がけることになる。もともと暴力的気質を持ちサディスティックな一面もあるアンワルにとって、これはまたとない欲望充足の機会となった。軍(体制側)の後ろ楯と‘愛国精神’という錦の御旗を得て、彼の残虐性はとどまるところを知らない。独自で編み出した針金を用いた絞殺方法で1000人近くをその手にかけたのである。

 「歴史を正しく伝えるべき」という据わりのいい使命感(=建て前)の裏に透けて見える、若い頃見たハリウッドのアクション映画に出てきたようなヒーローを演じられるという快感(=本音)を隠しようもなく、クランクインしたばかりのアンワルはダンディなスーツに身を包み意気揚々のスター気取りである。自ら行った殺人シーンをまさに当時の殺戮現場で、饒舌に説明を加えながら、捕らえられた共産主義者役の役者を楽しそうに絞殺するその様子は、釣り好きのオヤジが大物との奮闘を自慢げに語るのに似て、まったく‘罪悪感ゼロ’である。観る者は、アンワルのいかりや長介とオバマ大統領を足して2で割ったような愛嬌のある風貌と、二人の可愛い孫を相手にしているときの市井の人と変わらない好々爺ぶりと、一方の‘血も涙もない’快楽大量殺人者の前歴に、どう埋めていいのか分からないギャップを感じることになる。
 
 メルヘンチックで寓意的な美しい映像を合間にはさみながら、アンワルがからんだ過去の事件を、大掛かりな野外ロケやハリウッドのギャング映画まがいのセットやカメラアングルを用いて忠実に再現しつつ、撮影は滞りなく進んでいく。
 共産党関係者の住む村に火をつけて、男を殴り殺し、女を暴行し、子どもを道端に放り出す。捕獲した男を一室に閉じ込めて、取調べと称して複数人でリンチを加えていく。そのとき現場にいた当事者(加害者)の記憶と助言によって演出がなされ、まさに加害者本人によって暴行シーンが演じられるだけあって、これらのシーンの迫力はプロの俳優顔負けである。被害者役のエキストラたちが本当に泣き出してしまうほどに。
 一方、撮影が進んでいくにつれて、アンワルの表情に微妙な変化が表れる。それは内面の変化を映し出している。最初の頃の陽気な自信満々の表情は消え去り、複雑な陰りを帯びるようになる。出演を了解したことを次第に後悔し始める。とりわけ、監禁されてリンチされる共産主義者の役を自らが演じたことで、彼のアイデンティティには大きな揺らぎが生じる。
 苦痛に満ちたシーンを演じ終えたあと、アンワラは監督に向かってこう問いかける。
「尊厳が奪われたときに恐怖が起こった。自分が捕まえた連中も同じ気持ちだったのか?」
 監督は淡々と答える。
「いや、それは違うでしょう。彼らはまもなく死ぬことを知っていたのですから」

 最後の撮影(クランクアップ)は、最初の撮影と同じシーンである。
 アンワルが共産主義者たちを絞め殺すのにいつも使っていたビルの屋上。セリフも同じ、演技も同じ。
 しかし、アンワルはもはや最初の時のようには気軽に自分自身を演じることができない。セリフを言うたびに強烈な吐き気が襲い、内臓がえぐられているかのような苦痛の叫びが夜空にこだまする。

 カメラ(演出)の干渉の仕方にポイントがある。
 オッペンハイマー監督は、この唾棄すべきサディストであるアンワルに対して、またアンワルや仲間のブレマン達のしたことに対して、一定の距離を保ち続ける。責めるでなし、非難するでなし、批判するでなし、軽蔑するでなし、解釈するでなし、説教するでなし、反省や後悔を求めるでなし、怒りをぶつけるでなし、恐れおののくでなし、あきれかえるでなし、反対に、持ち上げるでなし、おだてるでなし、やったことに賛同するでなし・・・。終始、友好的で客観的な態度を保ち続ける。(そうでなければ撮影は途中で頓挫したであろう。)
 それは、たとえば、『行き行きて、神軍』(原一男監督、1987年)において奥崎謙三が戦時の元上官の家に押しかけて武力行使でもって罪を告発するようなスタンスとも違うし、薬害エイズ事件の際に桜井よし子が血友病の権威である安部英医師を自宅前に待ち伏せて、出てきたところをカメラともども追っかけて、堅い口を開かせようと喰らいついたスタンスとも違う。
 アンワル当人が撮影に際して何の圧迫も義務も感じず、自由に語り、自由に演じ、自己表現することが可能な状況に置かれたことによって、被写体であり演技者でもある本人の中で自由な感情の発露が起こり、演じることで役柄と同化し、自己省察が自動的に始まったように思われる。
 その結果として、自己変容が生じたのではないだろうか。アンワルたちのしたことを一方的に責め、反省と謝罪を求めるようなスタンスからは、決してこのような変容は生まれなかったに違いない。
 
 このスタンス、自分が今勉強している社会福祉の分野で、ケースワーカーの基本的な対人援助の行動規範としてよく推奨される「バイスティックの7原則」を連想させる。

バイスティックの7原則
①個別化の原則
 利用者を個人としてとらえ、利用者の問題状況に応じて個別的な対応をすること
②意図的な感情表出の原則
 利用者の考えや感情(肯定的な感情も否定的な感情も)を自由に表現できるように働きかけなければならない。そして、その利用者の感情表現を大切に扱わなければならない
③制御された情緒関与の原則
 援助者は自身の感情を自覚し吟味しながら、援助者が利用者の表出した感情を受容的・共感的に受け止めること
④非審判的態度の原則 
 援助者は利用者の言動や行動を、一般の価値基準や援助者自身の価値基準から良いとか悪いとか評価する態度を慎まねばならない。利用者のあるがままを受け入れれるように努め、利用者を一方的に非難してはならない
⑤自己決定の原則
 援助者は利用者の意思に基づく決定ができるように援助していく。
⑥秘密保持の原則
 利用者から信頼を得るためには、援助関係のなかで利用者の言動や状況を秘密(プライバシー)として守らねばならない。
⑦専門的援助関係の原則
 援助者は、個人的な関心・興味から利用者に関わってはならない。援助者は、常に専門職としての態度で臨まなければならない。

 もっとも、まったくの‘成り行きまかせ’の撮影というわけではない。
 作り手の企みはそこかしこに存在している。
 たとえば、加害者であったアンワルにあえて被害者の役をやらせる(ロールプレイ)ところ。
 たとえば、殺害された共産主義者の養子をエキストラに持ってきて、アンワルたち加害者の前で――アンワルや国家をまったく責めることなしに――親亡き後の悲惨な半生を涙ながら語らせるところ。
 こうしたカメラと演出とちょっとした仕掛けとが触媒となって、アンワルの変容――罪の意識の芽生え――が起こったのである。
 刑務所の更生プログラムよりよっぽど効果的かもしれない。

 それにしても気になるのは、撮影終了後、アンワルはどうなったのだろう?
 罪悪感が高じて病気(鬱病とか)にでもなっていないだろうか。
 自害してはいないだろうか。
 よもや元の能天気なブレマン(ならず者)に返り咲いてはいないと思うが・・・。
 いまでも悪夢を見てうなされているだろうか。

 いったん開いた心の扉を閉ざすことはできない。
 多くの無辜の民の血で染まったその老いた両手で、可愛い孫を今でも抱けているだろうか?



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
    

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 

● カンヌ女優の演技力 映画:『汚れなき祈り』(クリスティアン・ムンジウ監督)

2012年ルーマニア・フランス・ベルギー合作。

 クリスティアン・ムンジウ監督は2007年発表の『4ヶ月、3週と2日』でルーマニア映画初のカンヌ・パルムドール(最高賞)を受賞している。(ソルティ未見)
 当作品でもまた、カンヌ脚本賞および二人の主演女優コスミナ・ストラタンとクリスティナ・フルトゥルがカンヌ女優賞を受賞している。
 国際的評価の高い監督なのである。

 オカルト心理サスペンス悲劇といったところであろうか。
 DVDパッケージの紹介を読むと、修道院の中で行われるエクソシスト(悪魔祓い)という話なので「オカルトホラーなのかな?」と思って観始めたのだが、心理劇の色合いが強い。もっとも、怖さとサスペンスにおいては並みのホラー映画を凌駕している。

 ルーマニアの同じ孤児院で育った二人の若い女性ヴォイキツァとアリーナ。ヴォイキツァはその後ルーマニア正教会の修道院に入って「従順・貞節・清貧」の日々を送っている。アリーナは里親に引き取られたあとドイツに出稼ぎに行き、人に言えないような苦労を重ねてきた。アリーナが、ヴォイキツァと会うために帰郷するところから物語は始まる。
 ‘物語’と言ったが、これは実話をもとにしているとのこと。そこが何とも興味深く、かつ背筋が凍る。
 アリーナはヴォイキツァとのドイツでの自由な同棲生活を夢見ている。身も心も神に捧げたヴォイキツァにはそれは許されない。誓願して世俗を捨て心の拠り所を見つけたヴォイキツァ自身も修道院を離れることは望まず、むしろアリーナに信仰の道に入ってもらえたらと願っている。が、複雑な性格と強い‘我’を持つアリーナにはそれができない。この二人の埋められようのないギャップが悲劇の下地となる。
 修道院での集団生活に馴染めないアリーナはいろいろなトラブルを巻き起こす。挙句の果てに自殺未遂を起こし精神科病院に入院する。いったん回復して、修道院から去るよう司祭から命じられるも、アリーナはどうしてもヴォイキツァと離れることができない。そうこうするうちにアリーナはいよいよ精神のコントロールを失い、なにものかにとり憑かれたような人格崩壊の様相を示し、神を冒涜し、手のつけられない暴力を起こす。困り果てた修道女たちは司祭に「悪魔祓い」するよう懇願する。
 在家の信者たちには気づかれないよう、アリーナを監禁拘束した司祭と修道女たちは、‘彼女のためを思い’秘儀を遂行する。
 その結果は、見るも無残なものであった・・・・。

 作品の一番のポイントは、アリーナの性格造型にある。
 アリーナがレズビアンであることは誰でもすぐ指摘できよう。彼女のヴォイキツァに対する愛情は友情を超えて、執着や依存のレベルにある。おそらく、孤児院にいる間に肉体関係もあったかもしれない。
 それも普通の恋愛感情ではない。アリーナは、ヴォイキツァが修道院を離れて俗世に戻ることができないという現実を‘どうしても’受け入れることができない。だから、無神論である自分にはまったく合わない修道院の生活を、そこに留まる義理も義務もしがらみもまったくないのにかかわらず、幾度も司祭から出て行くよう命じられたにかかわらず、ルーマニアの里親の家に身を置くことができるよう司祭らに手配してもらったにもかかわらず、修道院を離れようとはしない。ありていに言えば、‘失恋を受け入れることができない’のである。
 アリーナのヴォイキツァへの固執はストーカーレベルである。
 なぜアリーナはそのようにしか振る舞えないのか。
 レズビアンということは理由にはならない。ヴォイキツァをあきらめて、別の女性を――神様になんか興味を持たない女性を――ルーマニアよりずっと自由なドイツで見つければよいのだから。(おそらくそれを出稼ぎ先のドイツでやって失敗しているのだろうが。)
 孤児院育ちが、親に見捨てられた孤独感や劣等意識を彼女のうちに育んだかもしれない。そこで出会った唯一の友であるヴォイキツァは、家族のような存在、この世でただ一人の理解者であったのかもしれない。が、すべての孤児院育ちの人間が彼女のように振る舞うわけではない。
 アリーナの父親が子供の頃に自殺しているというのは主因の一つであろう。親の自殺は、子どもの心に、無視できないほど大きな、長じても簡単には癒えないような傷(トラウマ)を残すと思われる。「自分をこの世に迎え入れてくれた人間が、この世を否定し、自分を残して去っていく」という筋書きは、子どもにとって、自らの存在価値を見失うに十分な逆説である。自己肯定の難しさが、他者への依存となって表れている可能性はある。
 それだけではない。
 実際に――この事件(ノンフィクション)の事実関係において――そうであったかどうかは定かではないが、ムンジウ監督の演出およびアリーナ役の女優の演技から、鋭い観察者は彼女が「性同一性障害」であり「境界性人格障害」であることを見抜くであろう。
 アリーナのいつも着ている上下のスポーツウェア、化粧っ気のない角張った顔立ち、無造作に束ねられたポニーテール、こうした表面的なアイテムから彼女のセクシュアリティを云々するのは無謀かもしれない。単なるソルティの‘深読み’かもしれない。だが、どうもムンジウ監督の隠された意図はそこらにあるような気がしてならない。
 レズビアンで、性同一性障害で、父親が自殺して、孤児院育ち。加えて弟(兄?)がどうやら知的障害を持っている。アリーナの‘精神障害’なり‘人格障害’なりの基底を作るには十分ではないだろうか。神への信仰を受け入れられなくても無理からぬ話ではないか。
 むろん、レズビアンや性同一性障害者や自殺遺児が即、精神障害や人格障害になりやすい、無神論者になりやすいと言いたいのではない。それらの属性を不当に価値づけて貶めて抑圧する、世間の、社会の、文化の、宗教の、不寛容(intolerance)こそが問題なのである。
 アリーナを演じた女優クリスティナ・フルトゥルは、観る者を刺激してこういった想像を働かせしめるほどの高度な表現力に達している。
 一方のヴォイキツァ。
 単純な鑑賞者は、彼女に‘非’を見出すことはないだろう。友達思いの、信仰心の厚い、友情と信仰の狭間で心揺れる‘人間らしい’女性と見るかもしれない。
 しかし、ここでも自分(ソルティ)はつむじまがりである。
 アリーナがヴォイキツァに依存しているのなら、逆もまた真なりである。
 二人は共依存である。
 たとえば、ヴォイキツァが面と向かってはっきりと、「アリーナ、私は信仰を捨てることはできません。あなたと別れます。ここから立ち去ってください。あなたはあなたの道を進んで幸福になって下さい」と伝えたならば、そしてもう二度と会わないと心に決め、そのように振る舞ったならば、少なくともここまでの惨劇は起こらなかったであろう。アリーナが再び自殺未遂する可能性はある。どこかで自殺する可能性もある。だが、修道院全体が巻き込まれることはなかった。
 ヴォイキツァは終始、優柔不断な言動をアリーナに対して示している。修道院から離れられないと言う一方で、アリーナのドイツへの出立を邪魔している。アリーナにビザの手続きを依頼されたにかかわらず、それを反故にしている。明らかに、彼女に去って欲しくないのだ。
 このヴォイキツァの優しさ、弱さ、信仰への愛の裏側に隠された依存心を、コスミナ・ストラタンという女優がまた繊細に演じている。
 両女優のカンヌ同時受賞は正当であろう。

 なるほど、この作品から狂信的で独善的で孤立したカルト教団の持つ危なさやいびつさを指摘するのは正しい。異端者を裁く偏狭な‘神’とは何か、と問うのは間違っていない。閉鎖された環境における集団心理の怖さを読み解くのも「あり」だろう。
 だが、より本質的なのは、アリーナとヴォイキツァ、二人の孤独な女性の依存関係のドラマである。
 その意味で、パッケージの文句から想像されるところとは違い、非常に現代的なテーマである。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」    

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 映画:『お嬢さん乾杯!』(木下恵介監督)

1949年松竹。

 自動車修理工場を経営する商売上手な34歳の石津圭三(=佐野周二)は、没落した元華族の令嬢・池田泰子(=原節子)とお見合いする。圭三は泰子に一目惚れし、デートを重ねる。が、そう簡単には事は運ばない。
 ラブコメディと言ったところか。
 新藤兼人が脚本、監督の弟である木下忠司が音楽を担当している。
 
 原節子が木下恵介作品に出演したのは、後にも先にもこれ一本だけだったとか。
 どんな理由があったか知らないが、もったいない話である。
 そのくらい、ここでの原節子は美しく、演技達者で、重すぎも軽すぎもせず、木下色に見事に染まっている。没落した一家を救うために半ば打算的に付き合い始め、単なる‘好意’から始まった圭三への思いが、徐々に‘愛情’へと変わり、しまいには‘惚れております’と口走るようになる。その女心の変容をまったく過不足なく、品を損ねることなく演じている。この芝居は主演女優賞ものである。
 
 途中、圭三と弟分の五郎(=佐田啓二)とがバーで肩を組んでダンスを踊るシーンが出てくる。関口宏と中井貴一が踊っているようなものか。
 こういうシーンを見ると、「やっぱり木下恵介はゲイだったんだなあ。男女の恋愛を描くだけでは自身物足りなくて、自分のためのサービスショットが欲しかったんだろうなあ。」と想像する。
 
 安心して楽しめる、文句なしにいい映画である。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 映画:『下妻物語』(中島哲也監督)

 『嫌われ松子の一生』があまりに良かったので、中島監督の作品をさかのぼってみた。

 うん、うん、やっぱり凄い監督だ。
 天才と言っていいのではなかろうか。
 コメディセンスが抜群で、感動のツボを映画的に――セリフや表情ではなく映像そのもので――押さえる手腕もたいしたものである。よっぽどたくさんの新旧の映画を観ているのだろう。
 主演の深田恭子、土屋アンナはじめ、脇役陣(宮迫博之、阿部サダヲ、岡田義徳、荒川良々、樹木希林ほか)も端役に至るまで‘生き生きと’演技をしている。そうさせるだけの磁力を中島監督が現場で醸し出しているのだろう。

 女性の友情ものとしては群を抜いた出来である。
 というか、女性の友情を描いた映画ってあんまり記憶にない(『テルマ&ルイーズ』『Dot.ドット』くらい)ってことに、この映画を観て気づいた。
 自分が興味ないだけか・・・。

 だがこの映画は、単に女性の友情を描いたというよりも、他人とかかわることを拒んでいたオタクな人間が、まったくの「他者」の出現による衝撃とその強引な介入によって、心を次第に開いてゆく過程が、実に丁寧に描けている。コミカルで、漫画チックで、遊び感覚横溢の映像にもかかわらず、登場人物たちの感情の流れについては、丁寧に、自然に、説法臭くなく、追っている。その絶妙なバランス感覚が素晴らしい。

 人は常に自分を開いてくれる「他者」を待っているのだろう。
 同性だろうと異性だろうと。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」 

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『青春残酷物語』(大島渚監督)


 1960年松竹。

 

 著者が嫌いなので読んでいないのだが、『太陽の季節』ははたして傑作なのだろうか。

 芥川賞を獲ったという事実は、この小説が時代や風俗を超えたあるレベルの普遍性に達している、人間の真実の一面を突いている、すなわち一級の純文学として認められた、と解釈したいところであるが、実際どうなんだろう?(芥川賞を買いかぶり過ぎ?)

 『太陽の季節』も、同じく芥川賞を獲った村上龍の『限りなく透明に近いブルー』も、その時代時代の若者の姿を生々しく描いたことで評判となった。それは、体制に組み入られた大人達の知らない「今の」若者像であり、古い世代の価値観を震撼とさせる反社会的、反道徳的な登場人物たちの言動の数々が、世間に衝撃を与え、ベストセラーになった。

 現時点で(2014年)両作品を読むときに、作品が発表されたときの衝撃はもはや感じられまい。ペニスで障子を突き破る青年も、腕にヒロポンを突き刺すうら若き女性も、当節では斬新さはない。つまり、発表当時に世間が受けた衝撃や目新しさはもはや薄れている。両作品は平成時代の我々が持つ価値観では、もはや体感できるほどの震度を持たないであろう。

 そうした「スキャンダラスで勝負」というレベルを超えて、両作品が平成時代の読者に感動をもたらすとしたら、それは普遍性を獲得したということになるのだが、はたしてどうなのだろう?

 いつの時代でも変わることのない「青春の蹉跌」を描くことに成功しているのだろうか。

 

 『青春残酷物語』は明らかに成功している。

 松竹ヌーベルバーグという言葉を知らない世代が観ても、夜道をバイクで飛ばすことや、助平親父を手玉にとって美人局まがいの恐喝をすることや、性の相手をすることで年増女を金づるにすることなんかに、かほどの目新しさも覚えないであろう今の若い世代が見ても、この映画で描き出されている「青春の息苦しさ」「やり場のない怒り」「煮えたぎる欲望」「根拠のない楽天主義と不安と挫折」は共感できるところであろう。

 いつの時代でも変わらぬ「若さの受難」をあますところなく描ききっている。

 主人公の学生・清(=川津祐介)が、堕胎させた恋人マコ(=桑野みゆき)の寝姿を前に、ただひたすら林檎を齧るシーンがある。何のセリフもない、何の脈絡もない、ただポリポリと林檎を齧る音だけが暗闇に響く。

 観る者は、なんてことないそのシーンに「若さの受難」のすべてを感得する。

 こんな芸当ができる大島渚はやはり偉大な監督である。

 

 食わず嫌いしないで『太陽の季節』を読んでみるか。

 

 

評価:B+



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

 

 

● 男には決して分からない 映画:『香華』(木下恵介監督)

 1964年松竹。

 奇矯な関係にある母と娘の波乱の生涯を描いた有吉佐和子同名小説の映画化である。

 木下恵介と有吉作品がこれほど相性が良いとは意外であった。
 二人の女--母と娘--が実に良く描けていて、実に面白かった。前後編あわせて202分を一気に観てしまった。
 女性が主役の、女性視点の物語を、かくも上手に、かくも細やかに撮れるのは、木下監督のゲイセクシュアリティゆえであろうか。その意味で、木下監督の本領がもっとも良く発揮されている作品の一つと言えるのではなかろうか。

 母親と娘の関係というものは、男たちのまったくわからない世界である。
 それは、父親と息子の関係を世間の女性たちがよくは理解できないのと照応するわけであるが、後者については『巨人の星』をはじめ典型的な物語がたくさんあるし、男同士の関係はなんだかんだいって単純で劇画調でわかりやすいので、謎というほどのことはない。
 しかるに、母親と娘の関係は、世間の男たちにとって謎の中の謎と言っていいだろう。
 まず、一般に男たちは単体の「女」を理解できない。理解するためのプログラム言語を持っていない。母と娘の関係と来た日には、「女」の二乗である。わからなくってあったりまえだのクラッカー。というか、そもそもそこに興味を持つ男はそういまい。理解できないことには興味を持たないのが「男」という生き物である。
 だから、この作品を映画化できた木下恵介は偉大なのである。

 娘を生計のたつきにしか思っていない身勝手な母親・郁代と、その母を終生慕い続けるしっかり者の娘・朋子。観る者は母親の冷酷さ、その人非人ぶりに怖気を奮いつつ観ることになるのだが、唯一母と娘の心が通い合う場面がある。
 ほかならぬ実の母によって遊郭に芸妓として売られた娘。こともあろうに亭主に捨てられた母親は同じ遊郭で女郎として雇われるはめになる。芸は売れども体は売らぬ娘と、年をごまかして体を売る母親。娘は周囲に知られぬようにこっそりと母親の元に通い、食べ物を差し入れる。
 そんなある日、娘は初潮を迎える。点々と床に滴る徴からそれを見知った母親は、娘を思わず掻き抱く。
 それは決して娘の成長を喜ぶ母親の喜びではない。同じ「女」になってしまった娘に対する憐憫なのである。
『ああ、お前もこれから男社会の中で、一人の女として、「女であること」を弱みとも武器ともして、生きていかなければならないんだ』

 こんなシーンをまともに撮れる男性監督なんて、滅多いない。
 溝口健二にも市川昆にもできなかったであろう。形だけは原作どおり(脚本どおり)に作れたかもしれないが、母と娘の一見‘共依存’の陰に隠された、切っても切れない女同士の絆は、木下の細やかなる女性的感性によってしか表現されえなかったと思われる。


 年端の行かない娘を遊郭に売ってしまうひどい母親を乙羽信子が演じ、その母を終生面倒見続けるしっかり者の娘を岡田茉莉子が演じている。甲乙つけがたい好演である。
 現代ならこの母娘の関係は、児童虐待とかストックホルム症候群とか共依存とか指摘されてしまうのであろうが、なんだかそんな精神医学的解釈が味気なく感じられるほど、この母娘は花柳界の現実をなまなましく逞しく生きて、個人主義という言葉が冷たく感じられるほど、強い縁で結ばれている。
 岡田茉莉子の気丈な視線を観ていると、外野が文句つける筋合いはないなあ、とくに男はうかつに近寄るべからず、とつい思ってしまうのである。

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 橋本忍礼讃! 映画:『霧の旗』(山田洋次監督)

 1965年松竹。

 松本清張のこの小説は、映画で2回、テレビドラマで数回、映像化されている。
 ミステリーとしては特段、推理部分で優れているわけでも、トリックがユニークなわけでもない。なんと言ったって、真犯人が捕まらないまま、真相が明らかにされないまま、ドラマは終わってしまうのだから、推理ドラマとしては不完全と言っていい。
 この作品の人気はひとえに主人公柳田桐子の特異なキャラクターにある。


 殺人容疑で捕まった兄・正夫を救うために、有名弁護士大塚欽三(=滝沢修)のもとを訪れた桐子(=倍賞千恵子)は、大塚が要求する弁護費用を支払えないため、大塚への依頼を断念せざるを得なくなる。正夫は死刑判決を受け、獄中で病死する。
 そこから桐子の大塚への復讐が始まる。


 という話なのだが、どう考えてみても、これは逆恨みである。
 桐子が本当に恨むべきは、無実の兄に自白強要した警察であり、何よりも真犯人であろう。大塚を恨むのは筋違いである。しかも、桐子の罠にはめられ窮地に陥った大塚は、真犯人を見つけ出して正夫の無実を証明することを桐子に約束さえするのだが、桐子はそれを拒否し、大塚の人生を破滅へと導くのである。
 貧乏なゆえに質の高い弁護が受けられず、愛する兄を殺されてしまった妹の心情に、最初のうち共感していた観る者も、しまいには桐子の性格異常にあきれることだろう。

 この鋼の強さと哀しみと屈折した心を秘めた若い女性を、その後「さくら」と言う日本の男たちにとっての理想の妹像を造り上げた倍賞千恵子が、実に存在感たっぷりに魅力的に演じている。昔のフランス映画に出てくる悪女を思わせる氷のような美しさと冷たさ。
 この倍賞と、途中でちょこっと出てくる三崎千恵子がいなければ、この映画を山田洋次の作品とは誰も思わないだろう。
 そのくらい『寅さん』をはじめとする他の山田作品とは毛色が違うし、雰囲気も違うし、出来も違う。
 その秘密は、脚本にある。
 あの『羅生門』『生きる』『七人の侍』『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』『私は貝になりたい』ほかあまたの傑作映画を生み出した天才、橋本忍なのである。
 別記事『おとうと』で書いたように、山田監督の作品の多くは監督自身の脚本によるが、それが山田監督の映画作家としての質の低下を招いている。演出家としての腕は確かだし、ショットも素晴らしいのである。この『霧の旗』で証明されるように、光と影の交差でモノクロを生かす技術も見事なものである。正夫が老婆の死体を発見するシーンでの、家の外を通過する列車の影と音の入れ方など、思わず「う、うまい!」と呟かざるを得ない。
 脚本がいつも悪いのだ。
 こうして脚本を他人に、それも一流の脚本家に任せ、撮影と演出だけに能力を傾注させてみると、山田洋次が本当はすぐれた映画作家であることが判明する。

 専門家受けする映画作家であることよりも、大衆のためのエンターテイナーたることを、どこかで山田監督は自分に課したのかもしれない。

 


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 原節子の美の秘密 映画:『安城家の舞踏会』(吉村公三郎監督)

 1947年松竹。

 明治初期から日本国憲法制定までの約80年間続いた華族制度の終焉を描いた作品。
 楽しみどころはいろいろある。
 たとえば、同様のテーマを扱ったチェーホフの『桜の園』やヴィスコンティの『山猫』(1963年)と比較する愉しみ。西欧を真似た豪奢な屋敷や調度やファッションや上流ならではの流儀などを眩しく見る、あるいは猿真似と気恥ずかしく思う愉しみ。時代の波に翻弄され落ちぶれゆく者の悲哀を見る愉しみ。身分違いを乗り越えて結ばれる恋模様を見る愉しみ。絵に描いたような森雅之のデカダンスぶりに酔う愉しみ。
 だが、一番の愉しみはまぎれもない。令嬢敦子を演じるうら若き(当時27歳)原節子を見る愉しみ、歓びである。
 
原節子 ほんとうに、原節子だけは特別である。
 美しい女優、演技の達者な女優、品のある女優、スタイルのいい女優、笑顔の素敵な女優、セクシーな女優、頭のいい女優、本邦には素晴らしい女優がたくさんいた。が、原節子のような女優はあとにもさきにも存在しない。
 彼女を評した「永遠の処女」という言い方は、今となってみれば、えげつなくて、無礼で、はしたない。しかも差別的である。「永遠の処女・浅田真央」なんてフレーズが、フィギアスケートの試合中継で電波に乗ろうものなら、その解説者は袋叩きをまぬがれまい。時代は変わった。
 しかし、この映画の原節子を見ていると、なんのいやらしさも嘲笑もためらいもなく、「永遠の処女」という言葉が浮かんでくる。
 原節子の美しさは、たとえば顔の造詣とか、意外になまめかしい声の魅力とか、言葉遣いや所作の気品とか、喜怒哀楽一つ一つの表情のアルカイックな深みとか、圧倒的な清潔感、といったところに存するわけであるが、それ以上でもある。その秘密を一言で言うならば「両性的」。
 
 原節子の演じる「女」は、普通の女が持つ「女性性」、他の女優が体現する「女らしさ」、――いわゆる「おんな」を、どういうわけか感じさせない。希薄である。と言って「男っぽい」わけでもない。性別やジェンダーを超えたところにあって、輝いている。だから、彼女を評する「処女」という言葉は「性体験のない女」を意味するのではなく、「性を超越した存在」という意味合いなのである。
 彼女と比較すべき人物を探すなら、やっぱりグレタ・ガルボ。あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画に描かれた美女や美少年。
 この映画でも、ストーリーとはあまり関係ないところで、彼女がボーっと外の風景を眺めてたたずんでいるシーンがある。観る者は、ダ・ヴィンチの絵を彷彿とさせる一瞬の神秘的な美にドキッとさせられる。
 その不思議な色気にゲイであるはずの自分も惑溺するのである。

 
評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」      

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」 

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
 
 

● 映画:『未来を生きる君たちへ』(スサンネ・ピア監督)

2010年デンマーク、スウェ-デン製作。

 原題は「復讐」という意味のデンマーク語。邦題はずいぶんと明るく前向きで、文科省推薦映画のごとく魅力に欠いたものになってしまった。
 が、内容はディープで現実的かつ現代的である。アカデミー賞とゴールデングローブ賞の外国語映画賞を受賞しているのも道理と思える。
 テーマとなるのは、暴力と復讐と赦し。舞台は、土埃煙るアフリカ難民キャンプと豊かなデンマークの一都市。主人公は同じクラスの二人の少年――いじめられっ子エリアスとクールな美少年クリスチャン。エリアスの父親アントンは医師であり、仕事場であるアフリカ難民キャンプと別居中の妻子のいるデンマークを行ったり来たりして、対照的な二つの世界を、二つの国を、二つのシーンをつなぐ役目を果たしている。この巧みな設定によって、二つの世界が「暴力」という言葉でつながっている様が描き出されていく。
 戦闘地域の真ん中にある難民キャンプでは連日のように残虐非道の暴力が吹き荒れる。アントンは瀕死状態で運び込まれる怪我人を、最低限の設備もないような吹きさらしのテントの中で手術・治療し続ける。その姿は崇高でカッコいい。ここでの彼は難民たち(特に子供たち)のヒーローである。
 だが、物質的に豊かな法治国家であるデンマークにも理不尽な暴力は日常茶飯に見られる。アントンは、クラスでいじめられている息子エリアスが、友人クリスチャンにそそのかされ、いじめっ子に暴力による復讐を果たしたことを知る。アントン自身もまた、自動車整備工に因縁をつけられ、子供たちの前で二度も殴られる。殴り返さないアントンを、子供たちは理解できない。ここでの彼は、妻との関係破綻、息子の教育に悩む普通の父親である。
 二つの世界の暴力は、その規模や頻度や残虐さこそ違えど、怒り・不寛容・無知・欲望・劣等感・関係齟齬といった同じ温床から生まれ、暴力に対して暴力で返せば決して終わりはないという点で、まったく同じ。世界は一つ、人の無明は不変である。

 世界に共通する暴力の構造や連鎖を表現した優れた映画として『ビフォア・ザ・レイン』や『バベル』を挙げることができる。
 その意味で、この映画は二番煎じ、三番煎じという評価も免れない気はするのだが、上記二つの映画では希望は描かれなかった。暴力の連鎖からの抜け道は示されず、見終わったあとの後味は重かった。
 スサンネ・ピア監督は、かすかな希望の光を照らす。それは巨大な暴力の嵐の前では、簡単に吹き飛んでしまう土にまいた種のようなものだが、たくさんの種が根気よくまかれれば、生き残って苗と育ちゆく種もあるだろう。

 この映画を観て連想したもう一つの映画は、なんと『エクソシスト』であった。
 70年代アメリカの「エクソシスト(悪魔祓い)」は、悪魔に取り憑かれた少女リーガンを祓った。その悪魔は遠いアフリカの大地からやって来たという設定であった。映画では、アメリカの裕福な家庭から、一転して、未開の大地にシーンは飛んで、合理主義の光のささない古くからの蛮習にいそしんでいる原地人の姿を映し出した。
 だが、こと現代に巣食う「暴力」という悪魔を鑑みたときに、その真の出生地は途上国ではなく、アメリカや日本をはじめとする先進国にあるように思う。開発という名で行われた環境破壊、伝統文化蹂躙、信仰剥奪、共同体解体、物質主義の横行、西欧的価値観の押し付け・・・・・。
 アントンがやっているように、先進国は途上国支援のための様々なプロジェクトを官民問わず実施している。(日本で有名なのはJICA)
 だが、その本質は泥棒が自ら荒らした現場を片付けるのを手伝っているようなものである。悪魔を祓う力なぞ、もとよりあるわけない。
 
 

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」       

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

 
 
 

● 田中絹代、絶賛!! 映画:『武蔵野夫人』(溝口健二監督)

1951年東宝。

 大岡昇平原作のメロドラマである。
 あらすじを簡単に言うなら、
「壊れた夫婦関係の中で、夫・忠雄は近所の派手な人妻と浮気して駆け落ち。残された妻・道子は、同居する年下の親類のイケメン・勉から熱い思いを寄せられる。貞淑を貫くべきか、真実の愛に生くるべきか。迷う道子の取った行動は、思い切った、驚くべきものであった・・・。」
 昼メロレベルのどうってことない陳腐なストーリーである。
 が、迷う人妻が田中絹代で、駆け落ちする夫が森雅之で、監督が溝口健二で、舞台が武蔵野の森と来れば、見事、文芸調に昇華される。

 とにかく田中絹代の演技が巧い。
 美人でないのに主役を張り続けられたのは、この演技力の賜物。
 駆け落ちした忠雄に家の権利書を持ち逃げされた道子は、両親から受け継いだ家屋敷を守るためには、自分が死ぬ以外にないことを知る。一方、勉の若々しい情熱に戸惑い、貞淑であり続けることに揺らぎを感じてもいる。
 思い悩む道子(=田中絹代)は、両親の墓の前で途方にくれる。
 この短いシーンの田中の演技が途轍もない。
 道子が、逡巡の末に自殺を決意するに至る過程を、刻一刻の表情と所作の変化を通して、観る者に伝えることに成功している。
 あまりの素晴らしさに、DVDプレイヤーを一時停止し、繰り返し見てしまった。

 武蔵野の自然も素晴らしい。
 舞台となるのは、国分寺の「はけ」と呼ばれる、崖線の下を野川が流れる地域である。散策する二人の会話から、どうやら今の中央線の武蔵小金井駅付近から国分寺、恋ヶ窪、東村山あたりの場景らしい。
 今ではすっかり住宅地になってしまったが、50年代初頭にはこんなに豊かで麗しい森と水圏が残っていたのだ。なんともったいない・・・。
 道子と勉が野川の水源を求めて散策するシーンがある。二人がたどり着いたのは、恋ヶ窪にある小さな美しい池であった。
 それは今、国分寺駅の近くの日立中央研究所の敷地内にあって、毎年、桜と紅葉の時期の2回、研究所の門が一般に開放されている。

 喪われた貞淑という徳を偲びながら、今度の休みは「はけの道」をたどってみようかな。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」 

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『山谷(やま) やられたらやりかえせ』(佐藤満夫、山岡強一監督)

 1985年。

 『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督、1987年)と並ぶ伝説的なドキュメンタリー映画である。

 尋常な映画ではない。
 まず二人の監督、佐藤満夫は撮影中に、あとを継いだ山岡強一は撮影完成後に、日本国粋会金町一家――いわゆる暴力団の手にかかって亡くなっている。なんの誇張も修飾もなく命がけの撮影だったのである。
 二人が殺された理由はまさにこの映画の中心テーマに関わる。
 安価で大量の使い捨て労働力が手に入る山谷(寄せ場)を牛耳って、日雇い労働者を搾取することで私腹を肥やそうとする大手建設会社、その手先である手配師や暴力団に対して、地域の労働者たちが連帯し闘い抜いた姿を描いたものなのである。
 その点で、正直この映画のタイトルは誤解を招く。「やられたらやりかえせ」では「目には目を」のハムラビ法典と変わりない。単なる無法者の仁義なき戦いを想像させる。自分も見るまではそう思っていた。
 しかし、山谷の日雇い人夫たちのやったことは、争議団を結成してビラを配ったり行政や相手企業と団体交渉したり組合をつくったりの、れっきとした労働運動なのである。大勢で手配師を取り囲んで吊るし上げる、暴力団の情宣車をひっくり返し火を放つなど、手荒な部分はあるものの、全体的に言えば「まっとうな喧嘩」である。暴力団同士の血で血を洗う抗争とはわけが違う。


 80年代半ばと言えばバブル突入。日本人が浮かれていた頃である。
 軽いこと、明るいこと、万事を浅いノリで受け流すことが時代の空気であった。重くて、暗くて、深刻なテーマや人は敬遠された、どころか馬鹿にされた。(そんな時代の空気をいち早く読んで「軽・明・浅」のモードを身に付け大衆を煽動したのが、タモリでありユーミンではなかったか。自分が基本的にこの二人を好きになれないのは、この時代の記憶があるからだ。)
 そんななか、日雇い労務者はフリーターと名称を変えた。労働運動は「ダサい、かっこ悪い、うざったい」の代表になった。
 バブル期の日本人のどれだけが、そのとき山谷で起こっていたことを知っていただろうか。興味を持って追っていただろうか。
 自分は知らなかった。おそらくマスコミも、立て続けに二人の監督が殺されるという異常な事件を大きくは取り上げなかったのではないか。


 とにもかくにも、久方ぶりに見る熱い映画であった。
 熱さの一因は、もちろん、命を賭した制作者の情熱がフィルムに漲っているからである。あるいは、亡くなった監督の念が焼き付けられているからである。観ているうちに、過去の出来事という気がしなくなる。臨場感がすさまじい。
 出演者のパワーも熱い。このような「本気」の大衆を今や日本のどこに見ることができようか。反原発デモにないのはまさにこの熱さなのだ。管理社会がそこに住む人々から奪った熱さ――やみくもに生きる意志――がここにはある。
 熱さはまた上映会場にあった。
 上映されたのは中野にあるPlan-Bという施設である。30年も前の山谷をテーマにした映画にそれほど人が集まるとは思っていなかった。いたとしても、左翼系活動家か労働問題に関心ある市民運動家で、中高年ばかりと思っていた。
 若い人が多かったのである。
 というより、20~70代くらいまでこれほど幅広い年代が男女問わず揃っている上映会は昨今珍しい。
 そして、観客たちは――自分も含めて――スクリーンに流れている物語を受身的に観ているのではなかった。スクリーンと客席との間に、気の交換とも言える不思議な対話があった。積極的視聴がなされていた。上映終了後に起こった拍手はなによりの証拠である。優れたドキュメンタリーとは、そういうものなのだろうか。
 
 この作品は、山谷での闘いを軸に据えながら、戦中・戦後の日本の様々な問題が盛り込まれている。路上手配と暴力支配、強制連行、被差別部落問題、在日朝鮮人問題、精神病院での虐待、先行的保安処分、地域排外主義、下層差別、台頭するファシズムの芽・・・・・。
 見ようによっては、詰め込み過ぎで脈絡がない。消化不良を起こす。初めて知ることばかりで免疫のない人は、知恵熱を出すかもしれない。日本の暗部に呆然となるかもしれない。
 このフィルムは常に待っているのだ。
 全編を咀嚼できる人間との出会いを。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● まわれ、まわれ 映画:『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)

 2013年スタジオジブリ。

 物語の祖(おや)と言われ、日本人の心の源泉とも言えるこの不朽の名作を、スタジオジブリがどう脚色したのかが見所である。
 絵についてはもう評するまでもなかろう。


 思いもかけない展開だった。
 しかも自分の最近の関心テーマと深くからんでいたものだから、驚いてしまった。
 心がざわついてうまく文章にまとめる自信がない。
 いくつか思い浮かんだことを書きとめるのみにする。


○ かぐや姫の出自
 誰でも知っているように、かぐや姫の育ての親は竹取の翁・嫗である。 

今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつゝ、萬(よろず)の事につかひけり。名をば讃岐造麿となんいひける。
 翁は讃岐の造麿(みやつこまろ)という名であり、竹を取り様々な竹細工をつくることを生業としている。
 そのことは子供の頃に絵本で接したときから、高校時代に古典の授業で原文に接したときから、とりたてて不思議に思うこともなく、そのまま受け入れてきた。
 しかし、ここ数年被差別部落のことを学んできて、はじめて「おや?」と気づいたことがある。
 竹細工は昔から被差別部落がもっぱらとする仕事だったのである。特にこの物語の舞台である関西ではそうであった。
 映画の中で、竹取の翁と嫗が、赤ん坊のかぐや姫のために近所の木地師の家まで乳をもらい受けに行く場面がある。そのお礼として嫗が用意したのは、翁がこしらえた箕であった。
 
箕 箕は、農作業において穀物を主とする収穫物から不要な小片を吹き飛ばして選別するために古くから用いられてきた道具であり、また、とりあえずの容器としても使えることから、様々な伝統的労働における採り入れや運搬などにも流用されてきた。(ウィキペディアより)

 筒井功の『新・忘れられた日本人』にも箕作りを専業とするサンカと呼ばれた人々の話が出てくる。箕作りは被差別の象徴であったのだ。
 ちなみに、山から山へと渡り歩き、木を伐採してお盆やお椀の素地をつくりだす木地師もまた古来差別された民であった。
 かぐや姫の幼馴染で初恋の人である木地師一家の息子に「捨丸」というぞんざいな名前を与えている。
 竹取一家と木地師一家は、他の民衆(たとえば百姓)との交流をいっさい持たないで山奥に暮らしている。
 これらのエピソードはもちろん原作にはない。
 高畑監督はどうやら、かぐや姫の出自として被差別の民を意識したのではないか。見る人が見ればわかるように。
 賤民の家に育った娘が、身分社会の最上位である貴族や皇族を袖にし、あまつさえ時の帝の求婚さえピシャリとはねつける。そんな胸のすくような筋書きなのである。(ただし、竹取物語の書かれた時代に部落差別、職業差別が存在したかどうかは不明)
 一方、かぐや姫の幸せを願う翁は、竹取の仕事も家も山も捨てて「高貴な人々」の住まう都に居を構え、高貴な暮らしを装う。『マイ・フェア・レディ』のイライザよろしく、かぐや姫も女官の相模の躾のもと高貴な姫としての教育を受ける。礼儀やしきたりだらけの窮屈な生活で、かぐや姫の生来の活気や陽気さは次第に失われていく。翁を悲しませまいと自分を偽った生活が、かぐや姫も周囲の人間をも結局は不幸にする。
 ここにまた一つのテーマが見える。
 自分の幸せについて、他人に任せてはいけない。他人の価値観に合わせてはいけない。
 
○ かぐや姫の罪と罰
 かぐや姫は月から来た迎えの者たちと共に地上から去っていく。
 この天人降臨と翁・嫗との別れの場面がこの物語のクライマックス。涙に袖を濡らすところである。
 どんなふうに演出してくれるだろうか。どんなゴージャスで神秘的な絵を見せてくれるだろうか。
 期待して見ていたら、度肝を抜かれた。
 天女たちの奏でる軽妙な調べとともに雲に乗って来迎したのは、天人に取り巻かれたお釈迦様だったのである。
 優美な天蓋の下で悠然と微笑んで立ちあそばすのは、だれがどう見たって手塚治虫によってアニメ的に典型化されたブッダである。
 これで物語の結構が露わになった。
 
 月の世界とは悟りの世界、輪廻転生(生まれ変わり)から解脱した者たち(=聖者)の住む世界である。
 そこには苦しみも悩みも争いもない。永遠の浄福に支配される楽土である。
 一方、この地上は苦しみや悩みや争いの絶えない娑婆である。生き物は悟りを得ない限り、人や獣や虫や草木や霊や鬼に形を変えながら、永遠に輪廻転生を繰り返す。無明をエネルギーとして。
 かぐや姫の罪とは、浄土にいながら輪廻転生のある地上の世界を望んだことであった。
 かぐや姫の罰とは、その罪ゆえに穢土たる地上に下ろされたことであった。
 幾度生まれ変わって、苦しみから苦しみへと何億の生を紡いでもかまわない。
 差別されても、殺されても、病や老いに苦しんでも、親しい者との別れに心引き裂かれても、死の恐怖に何億回さらされてもかまわない。
 それでもこの世に生き続けたいという願い。
 この世に生を受けて、自然の美しさ、子供の笑い声、人を好きになる喜び、人の情けにふれる嬉しさ・・・を味わいたいという思い。(ブッダ側から見れば「無明」)
 
 なんとも驚いたことに、この映画は仏教に対するオブジェクションなのである。
 
 そう解釈したときに、映画の中でかぐや姫らによって繰り返し歌われるテーマソングが、輪廻転生を唄っているものであることに気づく。
 
 物語の祖に仏教への懐疑を託す。
 すごいことかもしれない。
 だが、よく考えてみると、物語の誕生こそが「自我」の誕生なのであるから、物語と仏教は本質的に背反するものなのだ。
 
 天人たちの調べがいまだに頭の中をぐるぐるしている。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 老老介護の悲劇 映画:『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ監督)

 2012年オーストリア、フランス、ドイツ制作。

 脳梗塞を起こして入院、車椅子姿で自宅に帰ってきた妻は、長年連れ添った夫に言う。
「もう二度と病院には連れていかないで」
 その有無を言わさぬ調子、我儘が通せると分かっている相手にだけ向けられる強い懇願の眼差しに、夫は反論する言葉を失う。
 この時から、在宅での老老介護が始まる。
 音楽への愛と積み重ねて来た歳月によって結ばれたジョルジュ(=ジャン・ルイ・トランティニャン)とアンヌ(=エマニュエル・リヴァ)の深く固い絆。二人を心配し、しばしば訪れてくる娘。二人の薫陶を受けて音楽の世界で活躍する孫や弟子たち。雑用を快く引き受けてくれる隣人。定期的に訪問するヘルパーや看護士や医師。こうした生活を可能にするだけの二人の資産や人徳。
 これらすべてによっても、妻アンヌの病状は回復する見込みもなく、夫ジョルジュにのしかかる肉体的・精神的負担は日増しに大きくなっていく。
「何で入院させないの?」
 娘はなじる。
 だが、ジョルジュはあの日交わした妻との約束を裏切ることができない。約束(=妻の一世一代の願い)を守り通すことが妻への愛の証であり、それを破ったら長年築き上げてきた信頼がふいになってしまうからである。
 寝たきりとなり、シモの世話も入浴も他人まかせで、意味不明の言葉をわめき、「痛い、痛い」と大声で繰り返すアンヌ。
 ジョルジュの介護疲れは限界に達する。

 映画の結末は悲惨なものである。
 しかし不幸かと言うと、ちょっと違う気がする。
 はたから見たら不幸そのものだろう。閉鎖した老老介護の果てに、妻が夫を、夫が妻を(もちろんこちらの方が多い)、手にかけたニュースは昨今よく聞く。第三者の論調はだいたいこうである。
「なんて悲惨なことだろう」
「長年頑張ってきたのに、どうしてそんな不幸な最期を迎えなければならないのか」
「なんで周囲に相談しなかったのか、頼らなかったのか」
「なぜ介護保険を、生活保護を使わなかったのか」
 だが、夫婦二人の内実は他の誰にもわからない。長年一緒に暮らし、悲喜こもごも様々なことを共に体験し、愛し合ったり憎みあったり、冷却したり熱くなったり、いがみあったり許し合ったり、お互いの性格や肉体の癖を誰よりも深く知り、人生の荒波を共に乗り越え辿り着いた二人の関係性は、周囲の善意(たとえそれが実の娘や息子であろうとも)や制度によって咀嚼できるものではあるまい。
 ジョルジュが約束を破って、アンヌを入院させたり、老人ホームに入れていたらどうなっていたか。
 アンヌはより長生きできたかもしれない。より苦痛のない最期を迎えられたかもしれない。ジョルジュの介護負担は減り、自分の生活のペースを守りながら、施設にいるアンヌを毎日訪問し、最期を看取ることもできただろう。
 だが、それで二人が幸福なのかといえばその保証はない。
 アンヌは、認知の程度にもよるが、約束を裏切ったジョルジュを憎み軽蔑することだろう。ジョルジュの面会を謝絶するかもしれない。最愛の人を憎み、人生に失望しながら、死を迎えるかもしれない。
 ジョルジュは、妻を裏切った罪悪感で自分を責めさいなむことだろう。病院のベッド上でいろいろな管につながれたアンヌの目を直視できないことだろう。「絶対に入院はさせないで」と言ったアンヌの言葉が死ぬまで耳にこだまするかもしれない。
 二人が積み重ねてきた愛おしい歳月、この世の生きた証とも言える二人の絆。そのすべてがふいになる。
 こちらの結末のほうが当人にとってよっぽど不幸なのではあるまいか。

 人は生きてきたように老い、生きてきたように死ぬ。
 芸術家としてのアンヌの高いプライド、頑固さは、赤の他人の世話になること、(彼女にとって)屈辱的な仕打ちを受けることを許さない。だから入院を拒む。そんな妻に逆らえない気弱さと優しさを持つジョルジュはまた、男ならではの責任感ゆえにすべて一人で背負ってしまう。
 たとえば、まだアンヌの意識がしっかりしているうちに、同じような(ピアな)立場の人(半身不随の妻、それを介護する夫)と出会い、体験や感情を分かち合う機会があったなら、二人の視野は広がっていたかもしれないが、そもそもの二人の性格のうちにその選択肢は許されていなかった。(二人を教師という設定にしたハネケの凄さ!)
 ジョルジュとアンヌの悲劇の結末は、結局、二人の性格と関係性のうちに萌芽していたのである。


 二人の性格と関係性が最期までそのままの形で尊重されるように、医療や福祉の制度が機能し、そこで働く専門職(医師や看護師や介護士)の質の向上がはかられるのが一番良いのであるけれど、公的な部分にはやはり限界がある。そこからはみ出す部分で、人はそれぞれの生で蒔いたものを、自ら刈り取らなければならない。

 それは不幸ではなく、「仕合せ」である。

 主役の二人のべテランの演技、圧巻である。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
  
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● ナタリー・デセイ礼賛! 映画:『椿姫ができるまで』(フィリップ・ペジア監督)

椿姫ができるまで 004 2012年フランス映画。
 渋谷のイメージフォーラムにて観賞。


 現代最高のソプラノ歌手と言われるナタリー・デセイと、気鋭の演出家ジャン・フランソワ・シヴァディエとが、がっぷり四つに組んだオペラ『椿姫』(byヴェルディ)の稽古風景を、ほぼ時間軸に沿って、つまりドラマの流れの順序で撮影し編集したドキュメンタリー。本番の舞台は、2011年のエクサン・プロヴァンス音楽祭で上演された。

 文学と演劇と美術と音楽と映像とデザインとの総合芸術であるところのオペラの作られていく舞台裏を覗く面白さ、そして各々の分野で才能豊かなプロたちが、共同して一つのものを作り上げていく過程で当然のごとく起こる心理的緊張。「メイキングもの」の醍醐味を存分に味わうことができる。
 とりわけ、現代のオペラでは、本番に至るまではやはり演出家こそが王様なのだと分かる。一家言ある個性的なプロたちの集団をまとめるコーディネート力、そして何世紀も前に書かれた脚本の古臭さを、現代人の感性と心理とでふるいにかけてもなお深い感動を呼び起こすことを可能にする演出(=解釈)のマジック。時代が経るごとに演出家が重要視されていくのも無理ない。
 
 メイキングとしてのみ見てもこの映画はよく出来ていると思うが、それ以上の益がある。
 あたかもオペラ『椿姫』の舞台を丸々観賞したような気持ちにさせてくれるのである。
 一つには、最初に書いたようにドラマの流れに沿って『椿姫』の序曲から幕切れまでの主要な場面と主要な歌(アリア、デュエット、合唱)を見せて聴かせてくれるからである。『椿姫』を読んだことも観たこともない人がこの映画を見ても、どんなストーリーかを言い当てることができるだろう。
 より大きな理由は、タイトルロール(主役)を演じるナタリー・デセイの圧巻の演技と歌にある。稽古でありながら本番さながらの迫真の演技を披露している。
 まさか、『椿姫』のメイキングフィルムを観て涙を流すことになるとは思わなかった。
 
 考えてみれば、本当に凄いことである。
 正しい発声・発音、正確な音程で、譜面どおりに歌うだけでも大変な努力と才能が要る。そこに持って生まれた美しくよく響く声と端麗な容姿とがあれば、地方の劇場でデビューくらいはできるかもしれない。
 頭角を現すためには、声で演技できなければならない。そのためのテクニックを身につけなければならない。それができて、ようやく世界の檜舞台へのパスポートを手に入れたってところだろう。
 歌手(=音楽家)としての本分で言えば、そこまで辿り着けば合格といえるかもしれない。あとは運と経験を積むだけだ。実際、多くの歌手はこのレベルで安定飛行に入る。
 ナタリー・デセイはしかしそこで止まらない。
 女優としても一流なのだ。オスカーを貰ってもおかしくないほどの演技力である。
 抜群の美声と驚異のテクニックと入神の演技。
 世界最高と言われるのも当然であろう。

 

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
  
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(アン・リー監督)

 2012年アメリカ映画。

 動物園を経営していた一家は生まれ故郷のインドを離れ、動物と共に日本の貨物船でカナダに向かう。その途中で嵐に巻き込まれ船は沈没。救命ボートで脱出し生き残ったのは、主人公の青年パイと4匹の動物たち。シマウマ、オランウータン、ハイエナ、ベンガルトラの壮絶なバトルの挙句、当然トラが勝ち残る。パイはトラと共存しながら救いを求めて大洋を漂流する。

 勇気と知恵と根性と信心とによって苦難を乗り越えた青年のサバイバルストーリーであると同時に成長物語でもある。と同時に、海上や海中の自然が織り成す美しいシーンと、牙を剥く猛獣や大自然の猛威など迫力あるシーンが次から次へと繰り広げられる海洋冒険ファンタジーである。これはぜひ映画館で3Dで観たかった。
 子供が見ても絶対に楽しめる面白い映画であるが、最後の最後にただのファンタジーや冒険物語ではないかも・・・と思わせるひねりが待っている。
 トラと漂流した青年の奇跡を描いたこの物語をファンタジーととるか、寓意ととるか。選択は見る者にまかされている。大人になったパイが取材に来た記者に語るように、「そこから先はあなたの物語」である。


 防ぎようのない運命の仕掛けによって途方もないトラウマを持たされてしまった人が、前向きに生きることを否定する過去の事実の記憶よりは、ポジティブな生をもたらしてくれる夢物語(ファンタジー)を主体的に選ぶのは、自己欺瞞ではなくて賢さなのかもしれない。


評価:B+ (3Dで観たらA-かも)



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『ウンベルト・D』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)

 1951年イタリア映画。

 年金暮らしのウンベルト・Dは20年来住み慣れたアパートで愛犬と暮らしている。安い年金では値上がりした家賃を払うことができず、所有物を売って何とか工面しようとするが、なかなかうまくいかない。冷酷な家主から最後通牒を突き付けられる。このままいけばホームレスか、施設に収容されるしかない。
 体調もすぐれないなか、なんとかして部屋=最後の砦を守ろうとするウンベルトの死にものぐるいの孤独な闘いをリアルに描く。

 このままいけば孤独な貧困老人になるであろう自分にとって、身につまされる話である。
 とりわけ身につまされるのは、ウンベルトがあくまで施設に収容されることを拒み続ける点である。その最悪を避けるために、路上で物乞いすらしようと試みるのである。(結局、人目が気になってできなかったのだが) 愛犬を道連れに列車に飛び込もうとすらするのである。(結局、愛犬に逃げられてできなかったのだが。) それほどまでに施設収容を厭うウンベルトの姿を見ると、老人介護施設で働く自分としては複雑な気持ちにならざるを得ない。
 もちろん、施設にもよる。
 1950年代のイタリアのホームレス収容施設がどのようなものであるか分からないが、おそらく‘刑務所より幾分マシ’というレベルではないかと思われる。個人の尊厳など弊履のごとく捨て去られるだろう。ペットを飼うことなどできるわけない。(それは現在の日本の介護施設も同様だが・・・。)
 そのような「生」より、物乞いや死を選ぶウンベルトの気持ちは痛いほど分かる。
 現在の介護施設は50年代に比べれば天国であると思う。人権意識が世界的に高まっているし、周囲の視線(行政監査やマスコミなど)も厳しい。介護施設に入れる=姥捨て山、とは言い難い。
 しかし、介護施設で働いている職員の間でよく話題になるのは、「自分が年を取って介護が必要になったとき、自分の働いている施設に入りたいと思うか」あるいは「自分の年老いた親を入れたいと思うか」ということである。たいていの場合、答えは「NO」である。

 自分はどうだろう?
 排泄や食事が自分でできて認知症がなければ、なんとかやっていけると思う。決められた施設のスケジュールやルールをできる限り守りながら、一日を快適に過ごす方法を見つけるだろう。居室で読書したり、持ち込んだパソコンで映画を見たり、ブログを書いたり、瞑想したり、若いイケメン介護職員をからかったり・・・。(今とあまり変わらないか・・・・・)
 介護度が進んで排泄も食事もままならなくなったら、どうしよう。
 目や耳が悪くなって、楽しみである読書も映画鑑賞もブログもできなくなって、瞑想しかできることがなくなったら? 何十歳も年下の職員に失禁や頻尿を叱られ、フロアでトイレや就寝介助の順番を待たされていることに耐えられるだろうか。
 仏教と瞑想が支えてくれれば何とかなるかもしれない。
 認知が進んで瞑想すらできなくなったらどうだろう。
 自分がどこの誰で、今日が何月何日で、ここが何処だか分からない、そんな不安定なアイデンティティと付き合っていけるだろうか。夕刻になると「家に帰りたい」と徘徊する、そんな自分を受け入れられるだろうか。受け入れるも何も最早、外側から自分を観察することなどできないだろう。ただただ、わけも分からず不安で苦しいだけだろう。

 老人ホームで働いていながら、利用者が少しでも長く生きられるようサポートすることを使命としながら、こんなことを言うのは何だと思うが、「どこか適当なところでコロリと逝きたい」と思ってしまう自分がいる。

 どう老いるか。
 どう死ぬか。
 やはりこれからの最大のライフワーク、もといデスワークである。


評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
  
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 無間地獄はどこにあるのか 映画:『インファナル・アフェア』(アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督)

 2002年香港映画。

 Infernal Affairs とは「地獄の出来事」といった意。原題は「無間道」。
 映画の冒頭、金色の仏像を背景にクレジットタイトルが流れ、続いて以下の文言が浮かび上がる。

涅槃経第19巻
「八大地獄の最たるを無間地獄という。“絶え間無く責め苦にあう”ゆえに、そう呼ばれる。」


 警察学校に同時に入学した二人の優秀な青年。
 一人はヤン(=トニー・レオン)。警察の密偵として、サム率いるマフィアの一味に子分として潜入することになる。
 もう一人はラウ(=アンディ・ラウ)。サムの命を受けてスパイとして警察に入り込んだのである。
 それぞれが潜入先で相応の手柄を立てて出世し、ボスに気に入られ、なくてはならない組織の一員として足場を固めていく。
 警察v.s.マフィアの血で血を洗う壮絶なたたかい。その中で、周囲にばれないように神経を尖らせながら、本来の組織の利益のために情報漏洩に苦心する二人。

 設定の面白さが成功の一因であるのは間違いない。
 携帯電話やモールス信号、インターネットを駆使した情報合戦はスリリングであるし、二人の素性がいつばれるのかというハラハラ感も味わえる。それぞれのボス――サム(=エリック・ツァン)とウォン警視(=アンソニー・ウォン)――の演技も風格と貫禄があって作品に重厚感を与えている。世界的ヒットも、ハリウッド(『ディパーテッド』)や日本(『ダブルフェイス』)でのリメイクも当然と思われる。

 二人の主人公のどちらが無間地獄にいるかと言えば、本当は悪人なのに善人になりすましているラウである。本当は善人なのにマフィアの一味として汚い仕事をこなさなければならないヤンも辛いにゃ辛い。だが、それもマフィアの摘発という、世のため人のため、善なる目的である。自分のやりきれない立場に苦悩するヤンはカウンセリングのお世話になっている。
 一方、善なる仮面をかぶって警察組織の中に入り込み、自分の婚約者にすらも本当の素性を隠しているラウには、良心すらも余計である。そんなものが入り込んだ日には、ラウの仮面は一挙に壊れてしまうだろう。その意味で、ラウが地獄に値する一番の罪は、「自分自身を裏切っていること」に尽きる。
 その矛盾、葛藤を正すために、悪人から善人になるために、最後にラウは自らの本来のボスであるサムを殺して、自分の正体を知る仲間をも殺して、過去を葬る。「本当の」警察官になるために。
 しかし、それでラウは地獄から脱したのだろうか。
 さらなる地獄へと駒を進めただけではないだろうか。

 
 映画の終わりに、冒頭の言葉と呼応するように次の文言が現れる。


仏陀いわく、「無間地獄に死はない。長寿は無間地獄の最大の苦しみなり」

 
 さて、この言葉を本当に仏陀は言ったのだろうか。
 『涅槃経』と言えば、仏陀の最後の旅と涅槃(死)の様子を描いた経典のことであるが、手元にある『ブッダ最後の旅(大般涅槃経)』(中村元訳、岩波文庫)を調べても、このような記述は見当たらない。そもそも19巻などという巻数を持つような大著ではない。
 調べてみると、『涅槃経』には2種類あるらしい。

 仏教経典には編纂された経典と創作された経典がある。
 編纂された経典とは、釈尊が四十五年間に遊行先で説法したものを、釈尊の死後、弟子たちが編集したものを言う。
 ・・・・・・・・・・・・
 紀元後になると、大乗仏教思想を謳歌した経典が数えきれないほど出現した。これらは編纂された経典の内容をもとにまったく新しい思想を展開し、その教えをすでに亡くなっている釈尊に語らせた。本当は作者の考えを披瀝しているのに、いかにも釈尊の説であるかのように書かれているのである。
 これが創作された経典である。別言すれば偽の経典である。これを偽経と言う。
 このように仏教経典には編纂経典と創作経典があるが、編纂経典はパーリ語という一種の俗語で著されていて、しかも釈尊が身近な人々を相手に説法した内容であることから、現代語訳で読んでもすぐに理解できるほどわかりやすい。一方、創作経典は雅語であるサンスクリット語で著されていて、内容は高度な哲学書ではないかと思われるほど難しく、現代語訳を読んでもなかなかわからない。わが国の寺院で読まれ、親しまれてきた経典はこの創作経典ばかりである。(『「涅槃経」を読む』(田上太秀著、講談社学術文庫)


 そう。「涅槃経」にも編纂経典と創作経典の二種類あるのだ。
 香港もまた大乗仏教圏であるから、上記の「涅槃経」とは創作経典のことなのだ。
 つまり、仏陀の言葉では、ない。

 むろん、編纂経典にも六道(天界、阿修羅会、人間界、畜生道、餓鬼道、地獄)の一つとして地獄の記述はあり、細分化された地獄の階層を描写する経典はあるらしい。
 だが、仏陀自身はあまり地獄については語らなかったようである。

 それにしても偽経であるとは言え、「長寿は無間地獄の最大の苦しみ」とはよく言ったものである。
 「生きることは苦(一切皆苦)」は間違いなく仏陀の言葉であるのだから、「長く生きれば生きるほど苦しみが大きくなる」というのは論理的に正解である。

 長寿は喜ぶべきことか、憂えるべきことか。
 老人ホームで働く自分にしてみれば、正直実に悩ましい問いである。




評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 父性と母性 映画:『パーフェクト・ワールド』(クリント・イーストウッド監督)

 1993年アメリカ映画。

 クリント・イーストウッド監督の映画について、別記事で「ジェンダー映画である」と定義した。それは「男」を問う物語である、と。
 『パーフェクト・ワールド』もまた、その定義の妥当性を補強する作品である。

 仲間と共に刑務所から脱走したブッチ(=ケヴィン・コスナー)は、仲間の愚行がもとで、ある母子家庭に侵入し、その家の少年フィリップを人質として誘拐するハメになる。瞬く間に広がる警察の捜査網。陣頭指揮を執るのは警察署長のレッド(=クリント・イーストウッド)。かつて娼婦の母親に暴力を振るった男を殺めた十代のブッチを、少年刑務所に送り込んだ人間である。
 かくして、ブッチとフィリップの幾台も車を乗り換えての逃避行、レッド達の追跡が始まる。

 ブッチとフィリップには共通点がある。
 父親の不在である。二人とも幼い頃に父親と生き別れた経験がある。父親との触れ合いを知らない。
 フィリップはそれでも賢くしっかりした母親の愛情を受けて育った。女だらけの家庭、「エホバの証人」を信仰する母親のせいで他の家の男の子たちと自由に遊べない、外で立小便もできない柔弱な男の子になってしまったけれど。
 ブッチの母親は首吊り自殺をしている。ブッチは母親の愛情も十分に受けなかったに違いない。

 これがジェンダー映画であるのは、ブッチとフィリップの関係性に依る。
 逃走犯と人質でありながら、二人の関係は「父と息子」なのである。
 旅の途中ブッチは、缶詰のアスパラガスのように柔弱なフィリップを「男」にしようと訓練する。それは、まさにアメリカンな父親の役割、父性の発露である。その点で、この作品は同じイーストウッド監督の『グラン・トリノ』(2008年)に類似している。ほうっておいたらオカマかゲイになってしまいそうな隣家のアジア系の少年を、頑陋な退役軍人を演じるイーストウッドが矯正しようとする話である。(イーストウッドが勘違いしているなあと思うのは、父親のいないこと=父性の欠如がゲイやオカマをつくるわけではない、という点である。) 
 ブッチは、フィリップに対して父親としての役割を果たすことによって自らの中の父性を確認し、家族を捨ててアラスカに去った自分の父親の罪を代償しているかのようだ。彼の心の声が聞こえてくる。
「俺はこんなふうに親父に接してほしかったんだ。」
 一方、母や姉のいるあたたかい家庭から連れ出され、見知らぬ男に誘拐されたフィリップがそれを恐れているかといえば、そうでもない。道中フィリップは家に帰られる機会が何度か与えられたにもかかわらず、ブッチに付いていく決心をしている。それはフィリップがブッチに父親の姿を見ているからである。自分の成長に必要な「父性」の洗礼を無意識に求めているからである。
 その意味で、これはアンドレイ・ズヴャギンツェフ監督『父、帰る』(2003年)同様、男の子にとっての父親の存在意義、「父性」の意味を問う物語でもある。

 故河合隼雄が、次のようなことを述べている。 

 母性の原理は「包合する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこでは全てのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。
 しかしながら、母親は子供が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子供の危険を守るためでもあるし、母ー子・一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を呑みこんでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には呑みこみ、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている。
・・・・中略・・・・
 これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供を能力や個性に応じて分類する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子供を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。
 父性原理はこのようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊に至る面と、両面をそなえている。
(河合隼雄著『母性社会日本の病理』中公選書)

 子供は無条件に自分を受け入れ肯定してくれる存在をまず必要とする。それによって、ひとの中で自信を持って生きていくのに必要な自己信頼(=セルフエスティーム)、および自分を取り巻く周囲の世界に対する信頼感が得られる。それがないと、長じてから他者との信頼と愛情に満ちた関係を築くことができなくなる。それを与えるのが母性の役目である。(河合が言っているように、必ずしも父性=父親、母性=母親とは限らない。)
 だが、母性だけでは十全でない。母性は育ち始める子供の自我を下手すると「飲み込んで」しまう。とくに、母親と男の子の組み合わせの場合、コントロールが効かなくなる危険がある。母親は、本来なら夫に求めるべき優しさを息子に求め、夫に与えるべき愛情を息子に向ける。幼い男の子はそれを拒否する手立てを知らない。どこか「このままではいけない」と思いながら、居心地の良い関係性から抜け出すことができないまま、いつの間にか自立する力を失っていく。砂糖でできた蟻地獄のようなものだ。イーストウッドはこの陥穽にはまった男の姿を『エドガー』(2011年)で描いた。
 父性の役目とは、ほうっておいたらそのような母子一体の共依存に陥ってしまう関係を「切る」ところにあると言えるかもしれない。少年を「男」にするとか、マッチョイズムとかは全然関係ない。
 そこのところがマッチョの国アメリカでは誤解されているような気がする。
 そもそも「男」になるということが、暴力的になる、好戦的になる、女性蔑視を身につける、千人切りを達成する、多様性を認めない狭量な心を持つ、ということとイコールであるなら、なんと愚かな価値観だろう。なんて醜い「勲章」だろう。「女子供を守る」という幾分マシな価値観でさえ、守られている側からすればハタ迷惑な、独りよがりなものである。子供はともかく、男に本当に守られなければならない女など果たしているものだろうか。

 閑話休題。
 誘拐されたフィリップは父親代わりを果たしてくれたブッチになつき、母子一体の繭からの脱出をなし、最後にはすっかりブッチの味方になってしまう。
 これは「ストックホルム症候群」であろうか。『スノータウン』のジェイミー少年ように、加害者に洗脳されてしまった結果だろうか。
 そうではなかろう。
 ここがイーストウッドの凄いところと思うのだが、フィリップは最後にブッチに銃口を向けるのである。ブッチになつき、親しみを持ってはいるが、決してブッチの共犯にも仲間にもならなかった。ブッチに心酔するあまり、善悪の判断をなくすことはなかったのである。
 それを可能ならしめたもの、『スノータウン』のジェイミーとの決定的な相違ーーそれこそがフィリップの自己信頼、すなわち母親から与えられた愛情ではないかと思うのである。

 人が育つのには母性と父性、両方必要だ。
 (少なくとも男の子は・・・)


 

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『少年と自転車』(ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督)

 2012年ベルギー、フランス、イタリア制作。

 父親に捨てられた少年の話である。
 養護施設から抜け出した少年シリルが、父親と住んでいた家に自分の自転車を取り戻しに行くところから物語は始まる。
 自転車は・・・・・父親によって売られていた。

 父、息子、自転車の三題噺と来れば、どうしたってヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948年)を想起せずにはいられない。実際、ネオレアリズモ(新写実主義)のかの名作と合わせ観ることによって、この作品はより深い感慨をもたらす。単品として観ても素晴らしいものではあるが・・・。

 『自転車泥棒』で盗まれた自転車は父親のものであった。
 仕事を得るためになくてはならない自転車を取り返すために、父と息子は必至に街を走り回る。自転車も盗人もなかなか見つからず、親子は途方に暮れる。絶望の淵に追いやられた父は、ふと魔が差して、放置してあった他人の自転車を盗み、息子の目の前で捕まってしまう。
 第二次大戦後のイタリアを舞台に、貧困にあえぐ庶民を活写したこの作品は、社会の厳しさをリアルに映し出す一方で、父と子の強い絆を描き出し、その対比が涙を誘うのである。父親は貧しくとも一家の長としての責任と誇りを担い、息子に対して毅然たる態度で接しつつ、強い愛情を持っている。息子は父親を尊敬し、自転車泥棒を捜すのに進んで協力する。目の前で大衆に捕らえられた父親の姿にショックを受けるが、それでもなお父親を愛することに躊躇しない。
 社会は厳しい。世間は厳しい。
 けれど、親子の絆は生きていた。

 60年以上経った現在、家族をめぐる事情はどれほど変わってしまったことか。
 『少年と自転車』では、少年の自転車を盗む(勝手に売ってしまう)のは父親である。それを知ってもなお父親と一緒に暮らすことを願うシリルは、週末だけの里親となったサマンサと共に父親を探しに行く。面会の約束さえ守らない父親。やっと居所を探し当てて会ってみれば、「連絡するな。もう二度とここには来るな」と息子を切り捨てる。
 もはや社会や世間の厳しさが問題なのではない。親子の絆は完全に断ち切れている。責任も誇りも愛情もない父親の姿には、観る者も、里親のサマンサ同様、怒りを通りこしてあきれるばかり。
 現代の子供たちの生きる環境はかくも過酷なのである。

 様々に揺れ動くシリルの心情が、役者の演技ではなく、シリルの乗り回す自転車の軌跡やスピード、そのハンドル操作によって見事に表現されている。画面を縦横無尽に引っ掻く自転車の運動は、少年の心のもがきそのままである。
 少年の着ている赤いジャケットも印象的である。あたかも、対象物の位置を示すレーダーの赤い点を見ているかのように、観る者は少年の居所を追尾している気になる。肉親に捨てられ自暴自棄となったシリルの、どこにも落ち着くことのできない心の行方を、ハラハラしながら見守ることになる。

 シリルは最後にはサマンサの元に落ち着く。
 新しい家族の誕生である。
 里親制度というのはフランスではありふれているのだろうか。
 サマンサは、普段は養護施設で過ごすシリルを週末だけ預かり、親代わりをする。別に、親戚でも何でもないのだが。
 このサマンサの関わり、というか忍耐がすごい。自分勝手で礼儀知らずで言うことを聞かない強情なシリルに振り回され、「自分の時間」を奪われ、恋人と別れることになり、取っ組み合いの挙げ句に腕を傷付けられる。それでもシリルを見捨てない。シリルがケガをさせた親子の賠償金を肩代わりすることも厭わない。
 なぜ、ここまで・・・? と思うのである。

 おそらく、サマンサにもシリルのような少年を見守りたいという欲望というかカルマ(業)があるのだろう。恋人よりもシリルを選ぶのだから。単なる善意だけではできない話である。
 だが、サマンサがその関係に依存している(例えば、自分の母性本能を満たすためにシリルを利用している)かと言えば、そういうふうでもない。あくまでサマンサは「大人」である。
 サマンサの姿を見ていると、人が人に「関わる」ことの大変さを思う。一過性の、その場限りの関係ではない。自分の気が向いた時だけ可愛がればいい愛玩動物を飼うのとも違う。
 それは互いに対して「愛情」だけでなく、「責任」を持つということなのである。
 言葉を換えて言えば、互いの成長を願うということである。

 それこそこれからの「家族」の定義なのかもしれない。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
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● 日本人の顔 映画:『阿賀に生きる』(佐藤真監督)

阿賀に生きる 1992年日本映画。

 評判の高いドキュメンタリーを渋谷ユーロスペースでやっと観ることができた。
 新潟・阿賀野川流域に暮らす人々の逞しくも快活な暮らしぶりを描いたものである。


 中心となるのは、三組の老夫婦。
 鮭漁の名人で川べりの田んぼを守り続ける長谷川芳男さんとミヤエさん、川舟づくりの孤高の達人遠藤武さんとミキさん、餅つき職人でおしどり夫婦の加藤作二さんとキソさん。愛すべき老人たちである。
 20年前の作品であるから、いまもうこの人たちはこの世にいない可能性が高い。そのことの意味がまず骨身にしみる。
 というのも、この映画を観ながら湧き上がったのは、「自分はいったい日本を、日本人を知っているだろうか」という問いであるからだ。


 自分は五十手前である。三組の夫婦は祖父母世代にあたる。が、都会の核家族のサラリーマン家庭に育った自分は祖父母のことをよく知らない。一緒に住んでいなかったせいもあるが、父方も母方も自分が成人する前に亡くなってしまったので昔話を聞くことができなかった。父の実家はまさにこの映画の舞台と同じ新潟県で百姓兼大工をしていた。小さい頃夏休みなどに遊びに行った記憶があるけれど、祖父母の暮らしぶりとか土地の文化などに興味を持つべくもなかった。


 いま自分は老人ホームで働いている。昨年ヘルパーの資格を取るために実習先の老人ホームに行った時、車椅子姿の齢八十、九十のじいさん、ばあさんが仰山うごめいているフロアを見て、思わず心の中で叫んだ。
「こんなところにいたのか!」

 そうだった。小さい頃(60年代)は、よれよれになったじいさん、ばあさんが近所の農家の縁側に着物の前をはだけて日がな一日座っているのを見かけたものである。なかばあの世に逝っているかのようにポケーッとして目の焦点も合っていないのに、自分たち子供らが何か危ないことをしていると「そんなことすんじゃねえ」と黄泉からとどろくような大声で叱りつけるのであった。
 いつの間にかこういった老人の姿を近所でも街でも見かけなくなった。街で見かける老人は、列車の中のシルバーシートに腰掛けている人たちや病院の待合室にいる人たち、つまり杖をついたり腰が曲がっていたり若干の故障はあるけれど基本自分で出歩くことのできる「元気な」老人たちである。「老人」「高齢者」と言った場合、自然思い浮かべるのはその人たちであった。
 公的介護が充実する、自活できなくなった老人を施設に入れるのが当たり前になる、というのは、「街の風景から老いぼれがいなくなる」ことであったのだ。そのことに自分は実習先で気づいたのである。
 老人ホームで働いていなければ、自分の知っている老人はほとんど親世代(昭和二桁生まれ)以降に限られてしまったであろう。


 この映画を観ても分かるように、日本人の暮らしぶりは戦後大きく変わった。
 自分の親世代は田舎から都会に出てサラリーマンになる人が多かった。日本人の仕事の本流も、第一次産業(農業、漁業、林業)から、第二次産業(加工業)、第三次産業(情報・サービス業)へと移行していった。それはつまり、何百年と続いてきた職業文化が絶えることを、それを生業としてきた日本人が消えていくことを意味する。
 職業文化こそは、その国の民の本質であろう。それは、生活スタイルをつくってきたものであり、コミュニティをつくってきたものであり、祭りや掟や迷信や流行り唄などの風習を作ってきたものであり、何にもまして「顔」をつくってきたものである。
 そのことを思う時、自分がよく知っている日本人は「第二次産業、第三次産業に従事する、古来の職業文化から断絶された日本人」でしかないことにあらためて気づかされたのである。
 当然、「顔」も違う。


 老人ホームで働いていると、農業や漁業をやってきた人、伝統工芸の職人だった人の「顔」は、明らかにそれ以外の仕事に従事してきた人の「顔」と異なることに気づく。なんというか滋味のある「いい顔」なんである。他の老人同様、認知もあるし徘徊もするし時に声を荒げてこちらの行う介護を拒否することもあるが、何だか憎めない存在なのである。


 この映画の一番の美点は、今や失われてしまった「日本人の顔」をフィルムに焼き付けて残したというところに尽きる。



 追記:佐藤真監督は2006年に自死している。ご冥福を祈る。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
       

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
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