ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価B+

● 映画:『草原の実験』(アレクサンドル・コット監督)

2014年ロシア映画。

 美しい映画である。
 セリフが一切ないことが観る者の意識を、その美しい映像にのみ惹きつける。
 真の意味で‘衝撃的な’ラストシーンをのぞく、あらゆるシーン、あらゆるカットが、世界の豊饒と生のエロスを謳い上げていて、観る者の官能を悦ばせ、映画を観ることの根源的な至福を追認する。
 とりわけ美しいのは主役の少女を演じるエレーナ・アン。
 韓国人の父とロシア人の母を持つモスクワ生まれの17歳(撮影当時14歳)。アレクサンドル・コット監督の目にとまり、一切の演技経験がなかったにもかかわらず主役に抜擢されたとのこと。JK(女子高生)には関心なくても美少女にはコロリと参ってしまうソルティなのだが、エレーナの美少女ぶりには完オチした。少女時代の浅丘ルリ子や吉永小百合、後藤久美子や沢口靖子、エリザベス・テーラーやジェニファー・コネリー・・・・・といった系列に連なる正統派美少女。今後どのような美女に成長していくか楽しみである。

 怖ろしい映画である。
 川床から砂金を拾い集めるようにして90分淡々とデリケートに積み重ね磨き上げてきた「美」の結晶を、最後のシーンで、観る者に心の準備を与えることなく、完膚なきまでに破壊してしまう。その残酷さは比類ないものである。
 よくよく観れば、伏線はあった。セリフは一切なくとも、いくつかのシーンから少女を中心とする登場人物たちの置かれている状況は、推測することが可能であった。なにより、『草原の実験』という変わったタイトルから、この映画が単なる家族ドラマや思春期の恋愛ドラマではないことは予測してしかるべきであった。(原題Ispytanieは「実験」の意)
 しかし、映像はあまりにも美しく、物語はあくまでも牧歌的で、よもやこのように壊滅的なラストが観る者を待ち受けているとは思いの外であった。
 観る者は、映画を観終わったあと、登場人物同様、まったく言葉を失うことになる。



評価:B+ 

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 東海テレビに「あっぱれ!」 映画:『ヤクザと憲法』(東海テレビ制作)

 2015年3月30日(1年前)深夜に東海テレビで放映したドキュメンタリーを、数日前にポレポレ東中野で鑑賞した。クチコミや雑誌記事等で話題となっていたせいか満席であった。

 ヤクザは社会のガンであるとよく言われる。ほうっておくと次々と隣りの細胞を蝕み、患部を広げ、あるいは血液に乗って転移し、体全体を駄目にする恐れがあるから、早めに発見して切除するに限る。ガンが悪性新生物と呼ばれるのと同様、ヤクザ=悪の権化という見方である。
 この見方に沿って、昨今のヤクザ対策すなわち暴力団対策法や暴力団排除条例は制定され、マスコミ報道もなされている。清原元プロ野球選手の覚醒剤使用や激化している山口組の分裂抗争などの報道を見ても、ヤクザ=悪の権化というイメージを視聴者にいっそう強く植え付けるものとなっている。
 だが、「紋切り型」は思考停止のスタートである。
「ヤクザは悪の権化だ。怖い。庶民は近づかないに限る。警察にまかせておけばいい。警察が一掃してくれるのに期待しよう。自分たちとは関係ない」
 そこから先は思考停止となり、想像力は遮断される。
 すると、人々が見失うのはヤクザの「実質」である。「実態」ではない。ヤクザ・暴力団と呼ばれている人々の素顔が見えなくなる。
 いったい、どういう人たちがヤクザになるのだろう?
 なぜヤクザになったのだろう?
 どうしてヤクザで居続けるのだろう?
 ヤクザでいて幸せなんだろうか?
 更正することは可能なのだろうか? 
 どんなことを考えて生きているんだろう?

 単純に考えても、ヤクザでいることで得することよりも損することのほうが圧倒的に大きいだろう。一般市民からは嫌われ恐れられ排除され、警察からはマークされ、対立するグループあれば常時身の危険にさらされ、当節ではたいした贅沢もできない(資金繰りに困っているヤクザ事務所は少なくない)と聞く。そのうえ、家族ができたら家族にも不利が生じる。愛する我が子が「ヤクザの子供」として周囲から扱われることになる。就学、就職、結婚、友達づきあい等々、いろいろなことに負荷がかかる。「子供を自分のような立派なヤクザに育てたい」と思う親はまずいないだろうから、結局ここでも社会との摩擦に悩むことになる。
 それでもヤクザになりたい、居続けたいと思うのはなぜだろう?
 それとも、ヤクザになるしかない、ヤクザで居続けるより道はないというのが、正味のところなのだろうか?
 としたら、それは何故だろう?

 このドキュメンタリーをつくった東海テレビのプロデューサー阿武野勝彦は次のように制作理由を語っている。

「暴力団排除条例以降、ヤクザと接触ができなくなり、実態がつかめない」「ヤクザは地下にもぐり始めている」「ヤクザのかわりに半グレやギャングなど面倒な連中が蔓延してきた」
 この番組のディレクターは最近まで事件・司法担当記者で、捜査関係者からそんな話を聞いていました。テレビドラマや映画などで描かれるヤクザは縄張りをめぐって抗争を繰り返す輩たちで、拳銃を所持し、地上げに介入し、覚せい剤を密売する犯罪集団…。しかし、現実はそうではなさそうだ…。ディレクターは、暴力団対策法、続く、暴力団排除条例以降のヤクザの今を知りたいと考えました。
 「取材謝礼金は支払わない」「収録テープ等を放送前に見せない」「顔のモザイクは原則しない」。これは、私たちがこの取材の際に提示する3つの約束事です。しかし、この条件に応えるヤクザはいません。彼らにとって、姿をさらしても、何の得もないし、警察に睨まれたくないのです。
 そんな中、大阪の指定暴力団「東組」の二次団体「清勇会」に入ることになりました。


 カメラは、東海テレビのスタッフが清勇会事務所にはじめて入って行くところから回りだす。
 住宅地の中にある窓の少ない堅牢な造りの3階建てのビル。道路に向けて取り付けられた巨大な監視カメラ。外階段を上がって2階にある事務所の入口は、ぶ厚い鋼鉄製の扉で厳重に守られている。中に入ったとたん目にするのは、巨大なグロテスクな木彫りのオブジェ。
 カメラと共に侵入しはじめて目にする現実のヤクザ事務所の光景になんだかドキドキする。映画に出てくる暴力団事務所のセットに似ているような、似ていないような。ソファセットがあって、観葉植物があって、テーブルの上に灰皿があって、事務机があって、電話があって、机の上に現金の入った茶封筒があって、壁に‘読売新聞の’カレンダーがあって、中年の腹の出た目つきの鋭いおっさん達がタバコをぷかぷか吹かしていて、立派な会長(親分)の部屋があって・・・・・。どちらかと言えば、昔ながらの不動産屋の事務所に似ている。明らかに違うのは、壁に掲げられた墨痕鮮やかなる「任侠道」の木のパネル。
 カメラが奥に入ると、部屋住みの舎弟たちが居住する畳の部屋があって、布団があって、服役中の組員に差し入れられていた文庫本や漫画がいっぱい詰まった本棚があって、お勝手があって、風呂があって、洗濯物が干してあって・・・・・。このへんは体育会の合宿所みたいだ。
 大阪という土地柄もあるのだろうか。想像したよりもずっとざっかけない庶民的な雰囲気である。
 この事務所を中心に、半年ほどのヤクザの生活の断片が映し出される。そして、数名の組員の素顔が垣間見られる。

 清勇会が取材をOKしたのは、それなりの理由があってのこと。
 バブルの頃の石田純一はたまたJリーグの初代チェアマン川淵三郎を髣髴とさせるお洒落で二枚目の親分は、スタッフを自室に招き入れ、資料を見せる。それは、全国の組関係者から収集した「ヤクザとその家族に対する人権侵害の事例」である。子供の入園が拒否された、銀行口座がつくれず子どもの給食費が引き落とせない、生命保険に入れない、刑事事件の弁護を断られた・・・。
 撮影中にも、自動車事故に遭った組員の一人が通常通り自動車保険の請求をしたところ、警察が出てきて詐欺容疑で逮捕されるという一幕がある。また、日本最大の暴力団山口組の顧問弁護士が登場するが、彼は自ら被告になった裁判やバッシングに疲れ果て引退を考えている。
 こうした事態に憤り、世に訴えたいというのが取材許可の背景にあるようだ。
「俺たちヤクザに人権ってないのか!」

 もちろん、カメラに映されたものは、一面に過ぎない。本当にまずいところは撮影許可が下りないし、組員たちも口を閉ざす。
 たとえば、「この事務所に銃は置いてないんですか?」「あれ、今のシノギですよね? もしかしてクスリですか?」「いま茶封筒に入れた札束は賭けの配当ですか?」等々。
 スタッフもむろん、彼らが答えられないと分かっていて尋ねている。正直に肯定されたら、今度は自分たちが法的に困った立場になるだろう。
 その意味では、このフィルムが映しているのは地球の側を向いた月の半面である。陰になった部分は隠されている。テレビ放映を前提として制作されている以上、放送できないものはここでは省かれている。撮影の段階でも、編集の段階でも。
 なので、これがヤクザの真実の姿だとか、ヤクザもつき合ってみれば普通の市民と変わらないとか、ヤクザにも人権があるのだから差別はやめようとか、安易に結論づけることはできない。このフィルムだけからヤクザの実質を云々するのは、あまりに軽率、あまりにナイーブだろう。

 しかし、見ようと思ってみれば見えてくるものがある。
 フィルムの中でのスタッフによる説明や注釈は、過去にあった実際の事件のあらましやヤクザの組織構成についてなど、一般とは異なる独特の世界の背景理解を視聴者に促し、鑑賞上の混乱を避けるための最低限のものに限られている。つまり、スタッフの意見や主張は表面には出てこない。せいぜいがタイトルで示唆されている「ヤクザの人権について問題提起してみましたが、どうでしょう?」くらいである。他の多くのすぐれたドキュメンタリー同様、これをどのように見て、どう思い、どう判断するかは視聴者に任されている。
 我々は何を見なければならないのだろう?

 部屋住みの青年がいる。まだ19歳である。ヤクザに憧れて東組本家の門を叩いたところ、清勇会に預けられたという。事務所の電話番、掃除や買い物などの雑用を、水を得た魚のように喜々としてやっている。話し出してすぐに分かるが、何らかの発達障害を疑わせる。当たり前に考えれば分かるようなことができなくて兄貴分に叱られてばかりいる。その彼がたどたどしい言葉でカメラに向かって熱弁する。「ヤクザが変わり者だからといって排除するのではなくて、人と違うところがある者とそうでない者とが両方存在できるほうがいい」といったようなことを真剣な面持ちで言う。
 観る者は思うのだ。教室の中で彼はどんな存在だったのだろう? 学校は彼にとって居心地良かっただろうか? 親はなぜ十代の息子がヤクザの道に入るのを阻止しなかったのか? 教育機関は、福祉は、何をしていたのか?

 ヤクザの事務所に電話が入る。某政党からの投票のお願いだ。電話に出た組員は、卑屈なほど丁重に答える。「はい。みんなに(投票するように)言っておきます」
 いまさら暴力団と某政党との癒着を言いたいわけではない。ヤクザも選挙に行くことに驚いているわけでもない。
 スタッフがそこにいた組員一人一人に問いかける。「あなたも選挙に行きますか?」
 肯定の返答が続く中、一人の組員が答える。「行かない。自分は選挙権がないから」
 一瞬わけが分からず絶句するスタッフ。「それはどういう意味ですか?」
 どう見ても日本人(関西人)の組員が答える。「国籍のことがあるから。帰化しない限りできない」
 在日のこの男が前述の部屋住みの青年の面倒を親のように見ている。
 
 ある組員は妻子と別れてヤクザになった。貧乏の家に育った彼はもともと工場で働いていたが、労働環境のあまりの酷さに窮して、どうしようもなくなった。
「誰も助けてくれなかった。どうにもしようもなくて追い詰められていた時に、声をかけて救ってくれたのが親分だった」
 
 フィルムでは触れられていないが、やはり考慮に入れるべきは部落差別問題だろう。
 東組の本部がある大阪市西成は、かつて被差別部落の多いところであった。(「ふらっと人権情報ネットワーク」記事参照)
 差別がいかに人の心を踏みつけ、萎縮させ、屈折させ、蝕み、絶望や自暴自棄に追いやっていくか。環境の劣悪さがそこに住む人にどれほど不健全な影響を及ぼすか。
 被差別部落出身のノンフィクションライター角岡伸彦はこう述べている。
 
 以前、関西の大手ヤクザ組織を取材したことがある。会長の話によれば千人以上いるメンバーのうち、半分以上は部落出身者だという。この比率は、いかにも多い。もっとも、年齢が若くなればなるほど部落出身のヤクザは少なくなる。これは就学、就労の機会がここ数十年、部落民にも開かれた結果であろう。一方、在日韓国・朝鮮人のヤクザは若い世代でも減っていない。在日に対する差別が、いまなお厳しいことの証左である。
 
 部落出身のヤクザが多いと書いたり発言したりすると、「誤解を生むからやめてくれ」と言われることがある。冗談ではない。なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない。
(角岡伸彦著『はじめての部落問題』、文藝春秋2005年刊)

 障害のある青年(そうとは限らないと一応言っておく)、ブラック企業の被害者、在日朝鮮人、部落出身者・・・・・。こういった者たちが集められているヤクザ事務所とはいったいなんだろう?
 日本社会の「負」の終着駅か。
 病巣部か。
 福祉の網に引っかからなかった者たちの最後のセーフティネットか。
 
川と芥


 知り合いにいくつもの難病を抱えた人がいた。その人は不自由極まりない、いつ倒れても不思議ではない体で、障害者支援の活動に身を捧げていた。左目はガンに侵され失明し、右目の視力も良くはなかった。
 あるとき、医者が言った。「左目をそのままにしておくとガンが転移する可能性があるから、眼球摘出したほうがいい」
 その人は手術を断ったのだが、その理由をこう教えてくれた。
「左目があるおかげで、ガンが広がらないで済んでいます。左目を取ってしまったら、きっと今度は右目をやられるでしょう。そしたら全盲になるでしょう。左目は自らを犠牲にして、防波堤のように他のところを守ってくれているのです」
 この言葉が医学的にどれだけ妥当性があるのかどうかは知らない。だがそれは、何十年もの間、いくつもの難病を持ちながら専門医の余命宣告を裏切って奇跡的に生き伸びてきた者の知恵だったのは間違いない。その人にとってガンは闘うべき悪ではなかった。命の防波堤だったのである。

 ヤクザは社会のガンだと言われる。病巣部という点ではその通りであろう。
 だが、それを実質も知らず、因果関係も見ず、結果も考えず、善後策も講じず、何の考えもなしに切除してしまった時に、いったい何が起こるだろう?
 清流の中の岩でできた自然の堰には、枯葉や生き物の死骸などの芥が集まる。堰を壊すと、芥は川全体に広がって清流を一気に汚す。同じように、やくざ組織を切除すれば、そこに吸収され「同類相食む」抗争ゆえにカタギ社会への流出を免れていた「負の怨霊」は、社会全体に広がることになろう。放たれた怨霊は、市民に憑依することだろう。市民のヤクザ化が始まるだろう。否、前述のプロデューサーの言葉が示しているとおり、それはすでに始まっている。
 そしてまた、ヤクザを「悪」とする紋切り型の言説が氾濫する裏で、我々はいま本当に憂えるべき・阻止すべき事態の進行を見過ごしているのではないか。闘うべき「巨悪」を見逃しているのではないか。国家権力の巨大化と、それを企む連中とを。(そのうちに「暴力団を一掃するために自衛隊を出動させます」と言う政治家が出てくるやもしれない)


 フィルムの最後のほうで、事務所内をただ漠然と映しているカットがある。
 暇な午後らしく、組員たちは思い思いにあちこちに座って、退屈そうに煙草をふかしている。最初のうちスタッフとの間にあった「壁」も半年の取材ですっかり消えたようで、何ら構えることなく、緊張することなく、無防備な表情を晒している。あたかも母親の帰りを待っている留守番の中学生のような。
 そのカットを観たときに、事務所の入口の分厚い鉄の扉の意味を理解したのである。
 あの分厚い鉄の扉は、あの巨大な監視カメラは、この窓の少ない堅牢な作りの建物は、「砦」なのだと。対立するグループや警察の急襲から彼らを守る「砦」であるばかりでなく、どこにも居場所のない彼らがかつて自分に冷たかった「世間」から身を守り立て籠もるための最後の「砦」なのだと――。



評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
 

● 映画:『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(スティーヴン・ナイト監督)

2013年イギリス。

 登場人物は男一人きり。(声のみの出演は複数あり。)
 舞台は夜のハイウェイ、男が運転する車の中。
 男が車に乗り込みエンジンをかける音と共に物語はスタートし、男が目的地に到着する寸前に物語は終わる。映画の経過時間がそのままドライブの経過時間と重なる。つまり、86分の上映時間、観る者は男の86分のドライブに徹頭徹尾付き合うことになる。(なので、夜仕事が終わってから観ると臨場感が増すこと間違いなし。)
 なんとも画期的な手法である。前例としてはヒッチコックの名作『ロープ』(1948年)がある。が、一人芝居という点ではこの映画は前代未聞ではなかろうか。
 しかも、スリルとサスペンスと人間ドラマが堪能できる上質な作品に仕上がっている。
 一人の有能な役者(トム・ハーディ)と一つの簡単なセット(車)と優れた脚本さえあれば、十分に面白い映画は作れるという見本のような作品。制作費150万ドル(約1億8000万円)、撮影日数8日間とは! ちなみに『スター・ウォーズ フォースの覚醒』は2億ドル(約240億円)をつぎ込んでいる。
 
 この映画の成功はひとえにスティーヴン・ナイト監督自身による脚本の巧さとトム・ハーディーの演技に拠っている。
 トム・ハーディーはイギリス出身の1977年生まれの38歳。レオナルド・ディカプリオ主演の『インセプション』(2010年)やクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト ライジング』(2012年)に出演している。(ソルティ未見) 
 この一作で演技派としての名声を確立したと言っていいだろう。
 
 この映画を観ると、ドラマを生み出すのは‘枷’であるという基本的事実を思い起こす。CGでも豪華なセットでも人気スターのオーラーでもない。派手なアクションシーンでも残虐なスプラッタシーンでもエロティックシーンでもない。ましてや、複雑難解なパズルストーリーでもアっと驚くどんでん返しでもない。
 人間が背負っている‘枷’こそが、ドラマを生み出すのである。
 
 主人公アイヴァン・ロックが嵌まっている‘枷’は3つある。
 一つは、有能な建築現場監督としての責任。明朝は巨大ビルディングの土台作りのため現場を仕切らなければならない。男一世一代のビッグな仕事が待っている。仕損じたらクビだ。
 一つは、愛する妻と息子たちの待つ家庭。彼らは、サッカー試合を一緒にテレビ観戦するためアイヴァンの帰りを今や遅しと待っている。
 残る一つは、アイヴァンが一夜限りの心の隙から孕ませてしまった孤独な女性。彼女はいまアイヴァンの子供を生むためにたった一人で病院のベッドに伏している。アイヴァンが夜の道路を猛スピードで走りながら向かっているのは、彼女とベイビーの待つ病院である。
 アイヴァンは3つの‘枷’のすべてを上手く乗り切ろうと、車内電話を駆使しながら孤軍奮闘する。
 だが、そうは問屋がおろさない。
 二兎追うものは一兎も得ず。
 では、三兎追うものは・・・?
 
 「アイヴァンのこれからの人生に幸あれ!」
 86分間助手席で見守ってきた観る者はそう思わざるを得ないだろう。
 
 
評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
 
 
 
 
  
 

● 映画:『元禄忠臣蔵』(溝口健二監督)

前編 1941年12月1日公開
後編 1942年2月11日公開
製作 松竹、興亜映画

 まずは公開日に着目。
 赤穂浪士の吉良邸への討入りは元禄15年(1703年)12月14日であるから、12月公開は何ら不思議なことではない。重要なのは1941年という年。この年の12月8日は日本がハワイオアフ島の真珠湾を攻撃した日。この映画は太平洋戦争開戦直前に封切られたのである。
 さらに、後編の封切りは、紀元節(今の建国記念日)であり大日本帝国憲法の発布日(1889年)である。むろん、紀元節とは神武天皇の即位日とされている。
 製作は松竹だが、金の出所は情報局すなわち大日本帝国。
 忠臣蔵の主要テーマである「報復と忠義」「武士道」を、忠心愛国・大和魂に結びつけ、戦意高揚をはかったわけである。

 なにぶん古いフィルムの上に、話される言葉も時代劇調(歌舞伎調)なので、登場人物が何を言っているのかよくわからない。あらすじが分かっていなければ、途中で観るのを断念しただろう。(字幕があったらいいのに・・・)
 それでも観続けざるを得ないのは、徹頭徹尾、この映画が‘本物’だからである。
 綿密な時代考証に基づいたセットや風俗や衣装(松の廊下は原寸大だという)はもとより、格調高い演出、役者の重厚な演技、撮影技術・・・・・どれも当時の日本映画産業のなし得る最高レベルの贅沢を誇っている。
 それを可能ならしめたのは出資者がほかならぬ日本国だったから。DVD特典映像の新藤兼人監督――この作品で建築監督を務めた――へのインタビューによると、当時映画一本の製作費が6-8万円のところ、この映画はセット代だけで38万円使ったとのこと。内容以外のところでは、費用や期間に頭を悩ますことなく、やりたいことが全部できたのである。

 なにより特筆すべきは、主人公大石内蔵助を演じた四代目河原崎長十郎の存在感たっぷりの風格ある演技である。本当に昔の役者は‘格が違う’と言わざるを得ない。鷹揚とした表情はむろんのこと、身のこなしも口振りも威厳があって、「この男になら命をあずけよう」と家臣たちが思うのも無理もないと感じさせる。(この人の息子は一昔前にテレビドラマでよく温厚な父親役を演じていた河原崎長一郎である。)
 内蔵助の妻おりくを演じている山岸しづ江は、実生活上でも長十郎の連れ添いであった。なので、二人の演技の息がぴったりなのも当然である。しづ江の姉の山岸美代子もまた役者であったが、その娘が岩下志麻である。(つまり、河原崎長一郎と岩下志麻はいとこ同士になる。) フィルムの山岸しづ江の姿に志麻姐さんの面影を探したが、それほど似ていない。志麻姐さんは父親似(野々村潔)なのだな。

 キャストのうち知っている役者がほぼ皆無という中で、当時23歳の高峰三枝子が最後の最後に登場し、ミスキャストぶりを発揮している。切腹が迫っている恋する浪士と最期に一目会うために小姓姿に身をやつす一途な娘の役は、冷徹な大人の美貌をもつ高峰には似合わない。しかも、恋人の自死を前に自らの命を絶って操を捧げるとは・・・。
 おそらく当時国民的スターであった高峰の登用を決めたのは溝口ではなく、情報局だろう。高峰は溝口映画には、後にも先にもこれ一本しか出ていない。
 溝口が選びそうにない女優だもの。

 前後編あわせて3時間40分もあるこの映画には、なんと肝心要の吉良邸への討入りシーンが出てこない。40分くらいはそこに使われるだろうと思っていたので、肩すかしの感があった。
 自分(ソルティ)は時代劇のチャンバラシーンや西部劇の銃撃シーンが昔から好きではないので、別にがっかりということはなかったのだが、世間一般的には「なぜ一番大事な、一番心湧き立つシーンを撮らなかったの?」であろう。
 上記の新藤兼人のインタビューによれば、「リアリズムを重視した溝口監督が討入りシーンを撮るなら、本当に人を斬らなければならないから」とか、「映画全体のトーンを配慮して」とか、「あくまで原作(青山青果)にしたがったまで」とか、確たる理由は明らかでない。
 ここからは推測だが、溝口監督はやはり国策映画を撮らされることに内心忸怩たるものがあったのではなかろうか。
 だから、もっとも観客を興奮させ戦意を奮い立たせる討入りシーンをあえて挿入しないことで、秘めたる抵抗を示したのではないだろうか。
 溝口健二と反戦思想は馴染まない気もするが、孤高の芸術至上主義者で個人主義的であった溝口監督とファシズム(情動に煽られた全体主義)は、まったく相容れない関係のように思うのである。
 
 だとしたら、木下恵介とはまた異なったふるまいによる戦時の芸術家の世過ぎと言うべきか。 


評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 



● 日本で一番高い山は? ドキュメンタリー映画:『台湾人生』(酒井充子監督)

2008年日本。

台湾人生

 勤め先の老人ホームのレクリエーションでクイズをやったとき、「日本で一番高い山は?」という問いかけに、90歳の男性Kさんが瞬時に自信ありげにこう答えた。
「ニイタカヤマ!」

 現在の日本では、むろんこの答えは間違っている。
 しかしKさんが子供の頃、それが正解だった。
 台湾にある新高山(現・玉山3,997m)は、富士山(3,776m)より高い。Kさんが学校教育を受けた時代を含む1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間、台湾は日本の統治下にあった。子供たちは、「日本で一番高い山はニイタカヤマ」と習ったのである。(ちなみに新高山という名称は明治天皇がつけたということだ。)
 他の利用者が出した「富士山」という答えを聞いて、Kさんは「ああ、そうか。そうだったな」と納得した。
 子供の頃に受けた教育の影響というものを実感する機会であった。

 元新聞記者の日本女性(撮影当時30代)によるこのドキュメンタリーは、日本国が無視し、戦争を知っている世代が口を噤み、グルメやエステや自然観光をエンジョイするきょうびの台湾好きの若い女性たちが知らない、台湾と日本の切っても切れない深い関係を浮き彫りにする。かつては日本だった現代の台湾で、かつては日本人だった老人たちを取材し、彼らの日本に対する複雑な感情を見事に映し出して見せた、非常に質の高い、かつ面白い、力作である。
 自分(ソルティ)もまた、このあたりの事情に疎かった。最も好きな映画監督が台湾出身の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)であるにも関わらず・・・。最も好きな映画がヴェネツィア映画祭金獅子賞を獲った彼の『悲情城市』(1989年)であるにも関わらず・・・。
 『悲情城市』は、1945年の敗戦による日本統治の終わりから、1949年12月に蒋介石率いる中国国民党政府が台北に遷都するまでの動乱の台湾社会を描いている。あまり歴史や時代背景に詳しくない自分のような者でも感動させてしまうあたりが傑作中の傑作たるゆえん、と言えばいいわけがましいか・・・。
 
 酒井監督は、台湾に住む5人の老人たち(1925~1928年生まれ)を取材し、彼らの穏やかな日常を映しながら、日本統治時代の話や忘れられないエピソード、日本と日本人に対する思いなどを、‘日本語で’聴いていく。日本語教育を受けた5人は、日本語ができるから通訳は要らない。
 日本人の経営するコーヒー農園で働いていた仕事好きのヤン婆さん。
 同世代の夫との会話は今も日本語、「台湾独立」の運動をしている男勝りのチンさん。
 映画完成後の2008年に癌で亡くなった台湾原住民のタリグさん(最期の言葉は日本語で、家族の誰も理解できなかったという)。
 日本から赴任してきた小学校の担任の先生の恩を終生忘れることなく、毎年日本まで墓参りに来るソウさん。
 ビルマ戦線で日本兵として戦い、今は日本人観光客のためガイドボランティアをしているショウさん。
 個性豊かで、誠実で、義理堅く、人懐こい笑顔の5人の元日本人の姿を見ると、「ああ、昔の日本人はこんな風だったんじゃないかな~」という感慨を覚える。戦後のアメリカ文化や日本国憲法や経済成長ありきの価値観に洗脳される以前の‘古き日本人’が、台湾という土地に隔離されていたおかげで、しかも1972年日本が中華人民共和国と国交を結び、中華民国(台湾)とは国交断絶したおかげで、奇跡的に(ガラパゴス的に)残っている、という印象を持った。チンさんが言う「私たちは、今の若い日本人より、よっぽど日本人よ」というセリフは、まさにその辺の事情を表しているのだろう。
 彼らの日本人としての誇り、日本に対する愛着は、今の日本社会に置かれたら、相当なナショナリスト(=右翼)の範疇に入るだろう。
 「三つ子の魂百まで」である。
 
 彼らはみな、日本に生まれ、日本人としての教育を受け、日本の為に戦い、友や家族を戦争で失い、本土の日本人と同じように玉音放送を聴き、敗戦を迎えた。
 そこから事態は一変する。
 日本だった祖国が中華民国(国民党)になった。為政者による弾圧が続いた。反体制運動を抑えるため、1949年から1987年まで、実に38年間にわたる戒厳令が敷かれた。およそ6万人が殺され、15万人が投獄されたと言われている。
 その間に中華民国は国際的地位を失い、日本を含む多くの先進国から国家として承認されなくなった。
 いわば彼らは、日本に二度見捨てられたのである。
 なんという宿命、なんという変転の人生だろうか。
 だが、5人は激動の歴史に翻弄されながらも、力強く、前向きに、それぞれの生を生きてきた。
 
 いつの時代に、どこの国に、どういう家庭に生まれるか、人は選ぶことができない。どういう政治・経済体制の下、どんな文化や価値観や法や宗教に制約されるかも、ほとんど選び取ることができない。とりわけ、子供の頃に受けた教育やしつけの影響を自力で脱するのは困難である。それがその人のアイデンティティの核となっている場合はなおさらに。
 様々な因縁が合い絡まった結節点に、人は生まれてくる。
 周囲に氾濫する‘物語’を内面化して、自己は生まれる。 
 人間はなんと不自由なものだろうか。
 生涯、戒厳令に敷かれ続けているようなものだ。
 「条件付け」という戒厳令に。
 
 終始穏やかな笑顔をカメラに向ける話し好きのショウさんが、長年のつき合いで心を許した酒井監督を前に、ほとばしる怒りを抑えきれず、思いのたけをぶちまけるシーンがある。
「自分は日本人には親しみを感じる。が、日本という国は許すことができない。自分たちは、日本に捨てられたのだ。」

 彼らも高齢である。
 亡くなる前に、天皇・皇后両陛下の訪台が実現できないものなのか。



評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 



● シャフクへの道5 映画:『ショート・ターム』(ディスティン・ダニエル・クレットン監督)

2013年アメリカ。

 現在、自分(ソルティ)は社会福祉士国家試験の受験資格を得るために、障害者施設で実習中である。
 馴染んだ職場を離れて、約一ヶ月(180時間以上)の他施設での現場研修は、緊張と戸惑いの連続であり、結構疲れるものである。指導担当者(イケメン!)は自分の息子世代であるし、スタッフの9割は間違いなく自分より年下である。変なプライドがあったら、とうてい続くものではない。
 我ながらよくやってる
 スクーリングの時の先生が言っていたが、「実習から一番傷ついて戻ってくるのは、児童養護施設に行った学生たち」だそうである。
 さもありなん。
 親に虐待されたり育児放棄されたりした子供たちの可愛そうな姿に若く純粋な心が傷つくのではない。ケアの対象者であるほかならぬ子供たちに苛められて傷つくのである。言葉をかけても無視されるのはまだいいほうで、暴言・暴行・持ち物を隠される・帰りがけに下駄箱から靴を取り出したら、中にウンコが詰まっていた、なんて学生もいたそうだ。
 「恵まれない子供たちのために、私はマザーテレサのような無辺の愛を注ぐ」なんて気高い志を持って入っていったら、みじんに打ち砕かれることだろう。

 この映画は、そんな子供たち――家庭環境に恵まれず行き場を失ったティーンエイジャーが、次の行く先が決まるまでの短期間(ショートターム)を仲間とともに過ごす寮が舞台となっている。深い傷を負い‘ぐれた’子供たちの起こす様々な問題行動と、怒りの裏側に彼らが抱える孤独や絶望や悲しみを描くことが、一つのテーマとなっている。
 主人公は、この寮で働く若く有能な女性グレイス(=ブリー・ラーソン)と、彼女の同僚かつ恋人である優しく剽軽なメイソン(=ジョン・ギャラガー・Jr)。二人は、互いを信頼し尊敬し愛し合っているかに見える。が、グレイスはメイソンには言えない子供の頃の深い傷を抱えている。それが二人が結婚し親になる上での障害となっている。これがもう一つのテーマ。
 二つのテーマをうまく絡ませながら、大団円に導いていく脚本が優れている。
 子役を含め演技者も良い。とくにブリー・ラーソンは存在感があって、美しく知的で、かつてのジョディ・フォスターを髣髴とさせる。(もしやレズビアン?) 休学して施設に研修に来た学生ネイトを演じるラミ・マッレクは、オリエンタルな風貌のキュートなイケメン。息詰まりそうなディープな物語の中で、“箸休め”のような役割を果たしている。
 
 グレイスやメイソンは、なぜこのように大変な骨の折れる仕事をユーモアを持ってできるのだろうか。囚人を見張るサディスティックな看守のようでもなく、慈愛あふれる(しかし子供たちに裏切られる)教会のシスターのようでもなく、なぜ子供たちの心に入り込み、信頼を得られるのだろうか。
 メイソンは、孤児院育ちであることが明かされる。素晴らしい養父母に出会えて、愛されることの喜びを知ったことで、「今の自分がある」と自覚している。彼の経歴が、仕事のモチベーションになっているのである。
 一方、グレイスはどうか。彼女が、どうしようもない両親のもとに育ったことが少しずつ明かされていく。男をひっかえとっかえする母親。刑務所に収容されている父親。子供の頃から続く自傷癖。
 しかし、彼女が悲惨な身の上をはじめて打ち明けたのは恋人のメイソンではなかった。怖くてそれはできない。彼女が気を許せた相手は、寮にやってきたばかりの少女、父親の虐待を受けているジェイデンだったのである。自分と同じ境遇に置かれている少女を目の前にし、救いたいという一心が、グレイスに勇気をもたらしたのであった。

 すべからく、人を助ける人間は、助けられる相手によって、また助けられている。
 そんな真実を教えてくれる一本である。
 (自分の実習も利用者に助けられている部分が大きい。) 


評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● あまりに映画的な病 映画:『レインマン』(バリー・レビンソン監督)

1988年アメリカ映画。

 ダスティン・ホフマンの‘いかにも上手な’演技があまり好きでなくて、この有名なオスカー作品を観ていなかった。
 社会福祉士養成過程の実習で障害者施設に行くことになり、そこで自閉症の利用者と接することになって俄然興味を持ち、遅ればせながらDVDを借りた。
 むろん、この映画は自閉症患者を描いた作品としてもっとも有名だからである。

 自閉症は、通常生後30ヶ月までに発症する先天的な脳の機能障がいです。 視線が合わなかったり、1人遊びが多く、関わろうとするとパニックになったり、 特定の物に強いこだわりが見られたり、コミュニケーションを目的とした言葉が出ないなどといった行動特徴から明らかになります。 その障がい名から、「心の病気」という誤った印象をもたれがちですが、自閉症は心の病気ではありません。
 自閉症とは、先天的な脳の中枢神経の機能障がいで、自分を取り巻く様々な物事や状況が、定型発達者と呼ばれる私たちと同じようには脳に伝わらないために、 結果として対人関係の問題やコミュニケーションの困難さ、特定の物事への執拗なこだわりを呈するという障がいです。(特定非営利活動法人ADDS-Advanced Developmental Disorders Support-ホームページより抜粋)

 一口に自閉症と言ってもいろいろである。知的障害を伴う人もいれば、通常あるいは通常以上の知的能力をもち社会生活を送っている人もいる。この映画の主人公レイモンド(=ダスティン・ホフマン)のように特定の分野で驚異的な才能を発揮する人もいる。
 最近ではこうしたグラデュエーションのような多様性を表すために、「自閉症スペクトラム障害(Autistic Spectrum Disorder)」と称するのが一般になってきているらしい。
 多様性はあるものの、そこに何がしかの共通した特性が見られるからこそ、「自閉症」という名のもとに統合される。
 共通した特性、すなわち自閉症スペクトラムの診断基準はなにか。
 以下の三つが上げられる。
1.対人関係の形成が難しい「社会性の障害」
2.ことばの発達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」
3.想像力や柔軟性が乏しく、変化を嫌う「想像力の障害」

 レイモンドはまさにこの3つの特徴を兼ね備えている。
 実習先の自閉症患者たちもまったく同様である。「定型発達者」と呼ばれる自分から見れば、一番の特徴と思えるものは、「何を考えているのかわからない」ということに尽きる。彼らの表情や行動から、「いま喜んでいるんだな(手を叩きながら笑顔でそこらじゅう飛び跳ねる)」とか、「いま悲しいんだな(手の甲を噛んで涙を流している)」とか、「いま怒っているんだな(血走った目で壁やいすを何度も蹴る)」とか、「いまパニックに陥っているんだな(自分の両頬を手加減なく血が出るまで叩く)」といった人間の基本的な喜怒哀楽の感情こそ分かるものの、「じゃあ、なんで喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、パニックに陥っているのか」が分からない。彼ら自身、それを他者に説明することもできない。
 いや、そもそも彼らにとって「他者」は存在しているのか。

 自閉症患者は、我々「定型発達者」が共有する「物語」を内面化していない、それをもとに生きていない、というふうに見える。
 この映画で象徴的にそれが表れているのは、最後のシーンである。
 アメリカ縦断の車の旅を通して‘心が通じ合った’かに見える兄レイモンドと弟チャーリー(=トム・クルーズ)は、停車場で別れることになる。チャーリーは住まいと職場のあるロサンゼルスに、レイモンドは子供の頃から過ごしてきた施設に--。
 別れの抱擁を終えて、レイモンドは列車に乗り込む。チャーリーは名残惜しそうに、窓際の席に収まった車上のレイモンドを見やる。
 が、レイモンドはすでに無関心に前を見ているだけで、窓外のチャーリーの存在はすでに蚊帳の外だ。レイモンドに対するチャーリーの思いは一方通行。というより、チャーリーが持っている(我々通常の社会人が持っていることが期待される)‘兄弟愛’という物語を、レイモンドはそもそも共有できないのである。
 上記3つの特徴がその通りだとすれば、それは自閉症患者が、「物語」を形成する能力に欠いているということになるのではなかろうか。
 あるいは、こうも言える。
 自閉症患者は、我々「定型発達者」を苦しめている「物語」の呪縛から解放されている。
 本当かどうかは知らん。
 少し前に話題になった当事者の東田直樹の書いたものを読むと、「物語」を理解する能力はすこぶる高い。というか彼はプロの童話作家なのだ。「物語」を理解するどころか、創作できるのだ。
 彼が特別なのか。それとも、自閉症患者は「物語」を十分理解しているけれど、出力が困難(稚拙)だから理解していないように見えるだけなのか。それとも、これもまた多様性のグラデュエーションのどこに位置するかの問題なのか。
 いずれにせよ、「物語」の呪縛からいい加減脱出したい自分にとって、世間一般の「物語」をはぐらかすかのように見える彼らの行動は魅力的に映るのである。 
 
 自閉症患者は、視覚優位の世界に住んでいると言われる。また、通常の人とは幾分違った‘物の見方’をしているらしい。たとえば、景色や物を全体として見ずに、10円玉くらいの範囲の一点のみしか見えていない。規則正しく流れるもの・並んでいるものに惹かれる。(だから列車がすきなのかな?) キラキラしたもの・光るものが好き。
 
 物語からの解放、視覚優位、クローズアップ、列車愛好、光に対する感受性・・・・。
 こうしてみると、まさに映画的感性そのものではないか。
 自閉症患者は世界を「映画的に」見ているのではないだろうか。
 
 『レインマン』において、観る者はたびたびレイモンドの視界を共有することになる。チャーリーの運転するスポーツカーの助手席からレイモンドが見る景色(=ショット)がしばしば挿入される。
 それはまさに自閉症患者の‘物の見方’なのである。と同時に、ダスティン・ホフマンの過剰な演技でつい物語化――兄弟愛という名の―されてしまいそうなこの作品を、すんでのところで‘映画’に引き留めている鮮烈な楔なのである。
 


評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● 戦後は終わった! 映画:『地の群れ』(熊井啓監督)

1970年ATG制作。
 
 原作は井上光晴の同名小説。
 熊井哲は『サンダカン八番娼館 望郷』の監督。 

 ともかく暗く、重く、忌まわしさに満ちた映画である。
 「地の群れ」というタイトルが示すとおり、日本社会の最下層を鼠のように蠢く者たちの恥と苦しみと抑圧された怒りと呪い、貧困と差別と絶望と無明とが、全編から漂っている。よくこんな映画が撮れたなあと感心するほかない。表現の自由に関しては今より70年のほうがよっぽど進んでいる。
 
 戦前戦後の佐世保を舞台に、炭鉱、在日朝鮮人、被差別部落、被爆者、米軍基地、水上生活者、アカ(共産党)、強姦、リンチ、暴徒・・・・といったトピックが、何らわかりやすい説明もないままに次々と描き出されていく。(ストーリーを理解するには2回は観なければならない。) 
 日本社会の負の部分を抉り出したという点では、ドキュメンタリー映画『山谷 やられたらやりかえせ』(1985年)に近い。
 しかし、圧倒的に『地の群れ』のほうが暗くて重い。
 なぜなら、『山谷』には労働条件の向上をもとめるドヤ(低額宿泊所)の男たちの連帯と勇気に満ちた闘いがあった。一方、『地の群れ』には差別された者同士の足の引っ張り合いのようなネガティブないさかいがあるばかりで、そこになんの希望も見出せないからである。後味悪い。
 
 物語の最後、主人公の青年・信夫は、生まれ育った被爆者の隠れ住む村・海塔新田を飛び出し、佐世保が包含するすべての負から逃げ出すように、何処へかに向って走り去る。被差別部落を抜け、米軍基地を抜け、港を抜け、河原を抜け、教会を尻目にする。いつのまにか、白い団地が整然と並ぶ新興住宅地にやってくる。樹木に囲まれた美しい公園、ベンチで談笑する子連れの主婦たち、明るく屈託のない笑顔、豊かさを感じさせる整った身なり・・・。これまでの画面にはまったくなかった眩いばかりに清潔なカットが続く。主婦たちは不思議そうに、団地の中を懸命に走りぬける信夫に目を向ける。なかば無関心な目を。
 信夫が駆け抜けたこの二つの世界こそ、「地」と「天」であり、戦中および戦後の貧しい日本から、「もはや戦後は終わった」高度経済成長時代の日本への転換であり、アメリカから輸入された近代消費社会という毛皮によって日本人がいかにしておのが恥部を隠したかの象徴である。
 「地の群れ」を生きる人びとがいなくなったわけではない。『山谷』に見るとおり、それはバブルの頃でさえ、わが国の重低音として地の底から響いていたのだ。多くの日本人はそれを聴かなかった。「暗さ、重さ、忌まわしさ」に蓋をして、「明るさ、軽さ、屈託のなさ」ばかり追求してきた。一億総「躁」状態になっていたのである。
 バブル崩壊、ホームレス増加、雇用の崩壊、格差社会、ヘイトクライムの増加、少子化と高齢者の孤独死、原発事故、安保・・・・・・。
 そのつけが今になって回ってきた。
 --なんて、うがったことを高みから言うつもりは毛頭ない。
 むしろ、自分はこう思う。
 いまやっと、戦後が終わったのだ。
 アメリカナイズされた個人主義の大量消費社会という夢(=呪縛)から解けて、いまやっと、日本人はおのれが抱える「暗さ、重さ、忌まわしさ」を、否認することなく、怯えることなく、地の底に引き摺り込まれることなく、冷静に向き合えるときがやって来たのだ、と。
 戦後70年にしてPTSD(トラウマ)は消失した。
 
 この映画はいまこそ観るにふさわしい。



評価:B+


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● バンツマ絶賛!!  映画:『破れ太鼓』(木下恵介監督)

1949年松竹。

 往年の大スター阪東妻三郎主演のホームドラマコメディ。
 ――なのだが自分はバンツマをよく知らない。田村高廣、田村正和、田村亮の父親であるということ以外に・・・。
 映画代表作の『雄呂血』(1925年、二川文太郎監督)も『無法松の一生』(1943年、稲垣浩監督)も観ていない。「殺陣が一番巧かった」と評される時代劇にいたっては皆無である。
 ウィキで調べると、なんと51歳という若さで1953年に亡くなっている。代表作のほとんどは戦前に撮られていて、『無法松』を含むいくつかの作品は国家検閲により無残にもカットされて、上映機会も少ないため、バンツマの何たるかを知らないのも無理はない。
 手元にある文春文庫ビジュアル版『大アンケートによる日本映画ベスト150』(1989年刊行)によれば、高倉健、笠智衆、三船敏郎を退けて、「好きな男優ベストテン」の第1位に選ばれている。凄いことではないか。短い役者人生で、いかに強い鮮烈な印象を観客に与えたかが伺われる。その点では、市川雷蔵(享年37歳)や石原裕次郎(享年52歳)――しかし若いな――と似ている。いや、短い人生だったからこそ、かえって印象に残るのだろう。
 
日本映画150
 
 最盛期の、時代劇役者としてのバンツマを知らない人間でも、この映画を観ればその魅力の片鱗を窺い知ることができる。
 圧倒的な存在感、天衣無縫の演技、画面からあふれ出る人間味。他の役者が一丸となって向かっても太刀打ちできないほどの抗し難い磁力を発している。それが、家族全員を支配下におく粗野で無教養な頑固親父というキャラクター設定とあいまって、もう魅力全開である。誰がどう観たって、この映画の成功はバンツマの功績、そして彼を縦横無尽に走らせた木下恵介監督の手腕にある。
 
 バンツマの他の映画を探してみようっと。


評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 

● 高峰三枝子礼讃! 映画:『女の園』(木下恵介監督)

1954年松竹映画。

 戦後、時代錯誤で封建的な私立女子大学の寄宿舎。厳しい規則でがんじがらめになっている女子学生たちの学校(教師たち)への反乱の一部始終を描いている。
 ストーリーそのものも面白いし、当時の風俗や街の様子を知るのも楽しいけれど、なんと言っても最大の見所は戦後を代表する4人の大女優の競演に尽きる。
 
 女子大生に扮するは、久我美子、岸恵子、高峰秀子
 岸恵子の切れ長のパッチリした目の美しさは、パリジェンヌの自由奔放さとともに中山美穂に受け継がれたのか。もっとも岸恵子のほうが意志が強くて気風がいい。高峰秀子は泥臭くて個人的にはどうも好きにはなれないが、演技力はピカイチ。情緒不安定で鬱っぽくヒステリー気質の女性を確かな演技で表現している。久我美子は蝶になる前のサナギといった感じ。
 一方の敵役、冷酷な舎監に扮するは高峰三枝子。
 これが素晴らしい。上記3人の人気女優を含む多数の女子学生たちを一人で相手にし、いささかも臆するところのない圧倒的な存在感。能面のように上品で無感情な美しさを、一部の隙ない日本髪と着物姿で引き立てて、女子学生の模範たるべき見事な言葉遣いで、規則違反の学生たちを容赦なく叱責する。これははまり役と言っていいだろう。この映画の主役は誰かと聞かれたら、高峰三枝子である。
 
高峰三枝子3 高峰三枝子と言えば、まず想起するのは思春期の頃に観た『犬神家の一族』(市川崑監督、1976年)の真犯人・犬神松子である。信州の片田舎の広いお屋敷のきれいに目の揃った畳の上に、隣りに白い覆面をしたスケキヨをはべらせて怖い顔で正座している着物姿が目に浮かぶ。
 そして、同じ金田一耕介シリーズ『女王蜂』(1978年)でのほんの脇役にすぎないのに強い印象に残る元宮様の奥方役。事件の隠された真の根源は「この女か」と思わせるほどの悪役高慢キャラであった。
 とどめに同年公開された手塚治虫原作『火の鳥』の邪馬台国女王ヒミコ。
 この3作連打で自分の中の高峰三枝子の印象はほぼ決まった。
 鉄面皮で高慢な女王様。
高峰三枝子2 その後、夏目雅子が三蔵法師を演じたテレビドラマ『西遊記』でお釈迦さまに扮したり、国鉄(現・JR)「フルムーン」のCMで夫役の上原謙と共に温泉に入り豊満な乳房を披露して話題になったりと、上記イメージを覆すようなお茶の間路線を打ち出したが、どうにも印象は変わらなかった。フルムーンのCMなど、確かに谷間くっきりのたわわな乳房がお湯の中で浮いているけれど、少年にとっては見たくもない「ババアの谷間」である。むしろ、当時国会議員であった山東昭子がそれをシリコン入りの贋物と中傷し、それに高峰が怒り心頭となって反論したことのほうが愉快なエピソードとして受け取られ、既存の高峰イメージを固定化させるのに役立った。
 
 鉄面皮で高慢。
 一番の原因は、やはり顔立ちにある。目尻のこころもち釣り上がった細長い目、若干の三白眼、すっと長くて先の尖った鼻、自然に結ぶと両端の垂れ下がる唇、がっちりした顎。これらのパーツが集まると、美しく高貴だけれど人を寄せ付けない風情が漂う。
 だから、自分が物心つく前の若い時分の高峰三枝子の人気のほどを聞くと、意外な気がする。
 松竹の清純派シンデレラから看板スターへ。
 歌う映画女優の草分け。(『湖畔の宿』はじめ、いくつものヒット曲を出している)
 戦地慰問の花形。
 フジテレビのワイドショー「3時のあなた」の人気司会者(1968-1973年)。
 この流れがあって、「フルムーン」の巨乳に世の中高年男性大はしゃぎという現象がはじめて理解できるのだ。

 高峰三枝子の昔の映画は小津安二郎の『戸田家の兄妹』(1941年)くらいしか観ていない。
 たしかに美しかったけれど、あまり印象は残っていない。他のどの女優がやっても構わない。高峰じゃなければこの役は映えないという域には達していなかったように思う。 
 一方、『犬神家』の松子夫人、『女王蜂』の東小路隆子、それにこの『女の園』の五條真弓は、高峰でなければ面白くない。‘鉄面皮’の美貌を持つ高峰だからこそ、ここまでの存在感とドラマ性を醸し出せる。キャラが立っている。
高峰三枝子1 高峰秀子ら演じる女子学生の前に絶壁のように立ちはだかる五條真弓は、自由と人権を求める若者に共感する観る者にしてみれば、実に憎らしく、手強く、取り付く島のない女ヒトラーのようなキャラである。しかも無類の美人ときては、どこからも崩しようがない。
 それが映画の最後には、実は悲しい過去を持つ一人の弱き女であることが明らかにされる。鬼の目にも涙、五條の能面から大粒の涙がほとばしる。 
 鉄面皮の下に隠された女の業や哀しみが一瞬かいま見られるとき、女優としての高峰三枝子の素晴らしさが光り輝くのである。



評価:B+

+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

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