ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価B-

● 虚無への供物 映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督)

2013年スタジオジブリ制作。

 宮崎駿の生涯最後の長編アニメ映画である。(今のところ)
 いわば白鳥の歌、辞世の句、老いの入舞ってことになるのだろうか。
 
 この作品を観ている途中からずっとある言葉が頭にリフレインしていた。
 その言葉とは--虚無への供物。

 『虚無への供物』は1964年に刊行された中井英夫の推理小説で、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』とともに、日本探偵小説史上の三大奇書と並び称されている。
 読んだのは30年以上前のことなので内容はあらかた忘れてしまった。が、この印象的なタイトルだけは忘れることがない。
 なので、『風立ちぬ』と『虚無への供物』が作品として似ているというのではなくて、『風立ちぬ』のテーマが全般として「虚無への供物」、すなわち「無意味(0)に還元される生の営み」といった感じを受けたのである。
 
 主人公の二郎(零戦を設計した実在の堀越二郎がモデル)は、少年のころから飛行機が大好きでパイロットに憧れたが、目が悪いため諦めざるをえず、設計家を志す。優秀な成績で学業を終え、飛行機の開発会社に就職する。挙国一致で戦争に向かっているご時世、二郎が設計するのは戦闘機である。試行錯誤の末、二郎は素晴らしい性能を持つ零戦の開発に成功する。その間に、関東大震災時に知り合った少女・菜穂子と再会し、菜穂子の結核を知りつつも結婚する。 
 といったあらすじなのだが、「虚無への供物」という言葉が途中から浮かんでくるのは、二郎が一生懸命とりくんでいる戦闘機の設計が戦争という大いなる殺戮の為の仕事であること、そして二郎が終戦後の荒れた焦土を前に「自分の作った零戦は一機も戻らなかった」と呟いた通り戦闘機として何の役にも立たなかったこと、むしろ無駄死にした大量の若者の棺おけとなってしまったことを、観る者が登場人物である二郎より先に知っているからである。青春の情熱をかけて二郎がやったことは、文字通り「ゼロ」に帰したのである。
 しかも、最愛の菜穂子を二郎は戦後の平和を待たずに失ってしまう。
 物語の最後で、二郎が目にする焦土はまさに「虚無」の体現であり、二郎の半生は「虚無への供物」となったわけである。
 むろん、二郎はこう言うかもしれない。
「自分はただ性能がよくて美しい飛行機を作りたかっただけ。戦争も敗戦も大量死も関係ない。それは国がやったことで、自分には責任はない。これからも自分は性能がよくて美しい飛行機を作るために生きていく」と。
 奇妙なことに、作中で二郎が自らの戦闘機作りという仕事について、葛藤したり、罪悪感を抱いたり、嫌悪したりというシーンはまったくない。かといって、逆にお国の為に尽くせることに誇りを持っている風でもなければ、敵国の兵隊を殺戮する武器の製作に関わることにサディスティックな悦びを抱いている風でもない。二郎は最後まで子供のように‘無自覚’なのだ。
 むしろ、二郎の同僚であり親友でもある本庄のほうがこのあたりは自覚的である。「俺たちは武器を作っているわけではない」と自己韜晦をはかっている。二郎はそれに対して何の返答もしない。
 こうした二郎の子供のような無意識(状況への鈍感さ)こそは、ある意味「天才」の証なのかもしれないが・・・。

 戦争が終わり、すべてを無に帰した二郎の前に広がる虚無の大地。
 もはや高性能戦闘機作りという‘崇高な’目的もなければ、愛する菜穂子もいない。
 さあ、どうやって生きていこうか。
 そのときにはじめてこの作品のタイトルが重要な意味を持つ。

 風が吹いている。
 生きることを試みなければならない。
 
 これはフランスの詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓場』という詩の中の一節である。
 
 生きることを「試みなければならない(try to live)」ような生とはなんだろうか。
 「風が吹いている。さあ生きていこう」ではなぜいけないのか。
 ヴァレリーにとっての生とは、海辺に広がる墓場に象徴されるような「すべてを無に帰す虚無」なのであろう。ほうっておくと「死」の誘いに引き込まれるような・・・。
 だから、あえて「生きることを試みよう」と自らを鼓舞する必要があるのだ。
 
 すべてを失った二郎は、菜穂子の後を追い、死ぬこともできた。
 でも、生きることを引き受けた。
 そのとき、無意識的に(流されるように)生きてきた人生と決別して、意識的に「虚無への供物」を捧げる決心をしたのであろう。
 というのも、人殺しと戦勝のための戦闘機を作るのも、ビジネスと観光のための飛行機を作るのも、自己表現と子供たちの為にアニメ映画を作るのも、すべからく、「虚無」の前の営みという点では等しいからである。
 この映画のキャッチコピー「生きねば!」が含意するもの、そしてアニメの神様にたくさんの良質の供物を捧げてきた宮崎監督が最終的に言いたかったのは、そのあたりではないか。
 
 調べてみたら、「虚無への供物」という言葉もまた、ポール・ヴァレリーの詩『失われた美酒』の一節であった。


失われた美酒

一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」に捧ぐる供物にと。

おお酒よ、誰か汝が消失を欲したる?
あるはわれ易占に従ひたるか?
あるはまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密の為にせしなるか?

つかのまは薔薇いろの煙たちしが
たちまちに常の如〔ごと〕すきとほり
清げにも海はのこりぬ・・・

この酒を空〔むな〕しと云ふや?・・・波は酔ひたり!
われは見き潮風のうちにさかまく
いと深きものの姿を!

(堀口大学訳)
 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 仏教徒の踏み絵  映画:『沈黙ーSilenceー』(マーティン・スコセッシ監督)

2016年アメリカ映画

原作 遠藤周作
脚本 マーティン・スコセッシ、ジェイ・コックス
出演
ロドリゴ神父: アンドリュー・ガーフィールド
ガルペ神父: アダム・ドライヴァー
通辞: 浅野忠信
キチジロー: 窪塚洋介
井上筑後守: イッセー尾形
モキチ: 塚本晋也
イチゾウ: 笈田ヨシ
フェレイラ神父: リーアム・ニーソン
上映時間 159分

 キリシタン禁令下の江戸時代初期、隠れキリシタン百姓や拷問覚悟のうえ海外からやって来た宣教師に対する弾圧、および彼らの殉教や犠牲や裏切りや転向の姿を描き、キリスト教の神とは何か、信仰とは何か、日本人とは何か、宗教とは何か、救いとは何か・・・・といったことを追求した深遠にして骨太の作品である。159分という長さを感じさせない脚本と演出と役者の演技が見事である。

 ソルティは原作を読んでいない。遠藤周作はカトリックであるが、長いことソルティは「キリスト教を信仰する日本人」という存在が理解の外、関心の外にあったからである。
 これには二つの柵がある。
 一つ目の柵は、宗教そのものに対して懐疑的であり距離を置いていた。現代科学を学んだ者が、キリスト教も大乗仏教も信を置くに値しないという思考を持つようになるのは自然であろう。処女懐胎や復活や56億7千万年後の弥勒到来や念仏による極楽往生は非科学的な世迷言以外のなにものでもない。その上に、統一教会やオウム真理教など新興宗教団体が起こした数々の事件があって、「宗教=胡散臭い=うかつに近寄るべからず」という図式を脳みそに植え付けられた。これはほとんどの現代日本人に共通する心性であろう。
 もう一つの柵は、「同じ宗教でもなぜキリスト教?」という不思議があった。たとえ宗教が非科学的な世迷言であるとしても、それを信じて依拠することでその人が安らぎや落ち着きや救いを得るのであれば、それは他人が否定すべきところではない。人間が抱く苦しみや虚しさや恐れや不安や孤独は、科学やお金や人間関係ではなかなか解決できないものなので、心に安定を与えてくれる何か確かなものを求める気持ちは、遅かれ早かれ、誰もが身内に発見するであろう。そこを補うところに宗教本来の役目はある。
 しかし、同じ宗教でも、日本に生まれ育った日本人がなぜ仏教はもとより神道でも道教でもなくキリスト教を選ぶ必然があるのだろう?——というのが疑問であった。善悪の審判をする全能の唯一絶対神を求める心性というのが理解できなかった。なんとなくエディプス・コンプレックスと関係しているようにも思うのだが、よく分からない。翻って言えば、ソルティのもともとの心性は神道的・大乗仏教的土壌に培われた典型的日本人の域を出ないのであろう。
 現代日本のクリスチャンについてさえそのように理解困難なのだから、江戸時代の庶民と来た日にはまったくもって意味不明である。なぜ神道・仏教全盛の江戸時代の庶民がキリスト教に改宗したのか、いったいどこまでキリスト教を深く理解できたのか、なぜ厳しい弾圧を受け残酷極まる拷問で命を失ってまで外国から来た司祭を守り抜こうとしキリスト教を捨てることをしなかったのか。換言するなら、彼ら江戸時代のクリスチャンは、キリスト教のどこに感応し、何を期待していたのか。(単に「死んだら天国に行ける」だったら浄土真宗でも良いはずである)
 既存の仏教や神道では満たされないものがあったというのは一つの理由であろう。が、その場合、満たされなかった理由が問題となる。「もしかしたら、仏教では救いがないとされた殺生を生業とする人々、いわゆる被差別部落の人々がキリスト教に救いを見出したのかもしれない」と思ったのだが、どうもそういうわけでもないらしい。
 まあ、今後の研究テーマとしよう。

 この映画を観てまず何より感じるのは、弾圧の嵐の中でもキリスト教に帰依しひたすら神(デウス)に祈る庶民の信仰の強さである。宣教師らが次々捕まって殺されていく逆境にもめげず、百姓らは司祭なしでも秘密の礼拝所に集い、十字架に祈り、生まれた子に洗礼を授ける。最後の司祭であるロドリゴとガルペが世闇に紛れて上陸すると、歓喜の表情で迎え入れ、二人をかくまい、食事の世話をし、礼拝を執り行ってもらい、告解する。役人に褒賞で誘惑されようが命を脅かされようが、決して口を割らない。
 この異端カタリ派のような純粋な信仰の強さに観る者は知らず涙する。それは信仰の強さとはすなわち苦しみの大きさを示すバロメータにほかならないと知るからである。江戸時代の最下層の百姓たちの生活ぶりは作中でも幾度か「獣のよう」と叙述されているが、飢えと重労働と圧政と年貢に苦しみ、来る日来る日も朝から晩まで身を粉にして働くばかり。この世にはなんの希望も期待も持てない。息子も孫もまた同じ生を送るしかない。そこからの唯一の出口がパライソすなわちキリストが約束するパラダイス(神の国)なのである。「この世」より「あの世」を重視すればこそ、彼らは潔く殉教していくことができる。
 
 親友であるガルベを失い最後の司祭となったロドリゴは筑後守井上に捕まって、棄教を強要される。目の前で自分を慕う信者たちが惨殺され、自らの拷問も間近に迫るロドリゴは、神に問いかける。
「なぜあなたは黙っているのですか?」
 ロドリゴは自らをゲッセマネのイエス、十字架上のイエスになぞらえる。

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 イエス・キリストの受難の際に神が黙っていた理由、カタリ派虐殺の際に神が黙っていた理由、アウシュビッツのユダヤ人虐殺の際に神が黙っていた理由、あらゆる戦場や虐待の場において神が今も黙っている理由を神学的知識ゼロのソルティは知らない。正直、「神なんかいない。人間が愚かなだけ」と思う。
 が、ここでマーティン・スコセッシは、遠藤周作は、神の「沈黙」の理由を用意する。
 自らの代わりに逆さ吊りの拷問を受けている日本人信者の苦痛のうめきを前に、ロドリゴの苦悩は頂点に達する。自分が棄教すれば彼らは助かる。自分が信仰を守り通せば、次々と信者が目の前で殺されていく。自分の頑なな信仰ゆえに!
 まさに悪魔のジレンマである。
 ついにロドリゴは目の前の地面に置かれたキリストの踏み絵に足をかける。 
 と、そのときはじめてキリストの声を聴く。

「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」 
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
(新潮文庫『沈黙』より引用)

 非常に感動的なシーンである。
 裁く神、犠牲や従順や信仰の証を求める神から、弱き者らと共に苦しむ神への転換である。父性的な神から母性的な神への変身である。
 この遠藤周作の解釈は小説発表当時カトリック教会からの批判を招いたそうだ。

 登場人物の一人キチジローの扱いもまた賛否のわかれるところである。
 ロドリゴをイエスに比した時にユダにあたるのがキチジローである。怯懦な性向を持つキチジローはキリストへの信仰を持ちながらも、信念を貫き通すことができない。家族全員が踏み絵を拒否して殉教したのにキチジローだけが裏切って一人命拾いした。ロドリゴとガルペを隠れキリシタンの村に案内する役目を立派に果たすも、あとにはロドリゴを役人に売り、役人に疑われれば何度も平気で踏み絵に足を乗せ、十字架のキリスト像に唾を吐きかけさえする。それでも、本心か演技か知らぬが神を信仰する気持ちは持ち続け、ロドリゴの行く先行く先追いかけ、たびたび許しを乞う。キリスト教信者としてでなくても、唾棄すべき虫けらのような人間として描かれている。取柄はせいぜい「どうしようもない己の弱さ」を知っていること。
 そのキチジローを最後にロドリゴは許し受け入れる。「ずっと一緒にいてくれてありがとう」とさえ言う。ユダを許しユダに感謝するイエス。棄教した者、裏切り者、弱い心をもつ者を見放さない神。これが真正キリスト教徒のカンにさわらぬわけがあるまい。
 ここに見えるのは、悪人正機説の親鸞である。浄土真宗である。
 で、冒頭の問いに戻る。
 なぜ、遠藤周作は、マーティン・スコセッシは、キリスト教でなければいけないのだろう?
 
 日本の自然、文化、風習、建築、着物など、江戸時代の日本の風物がきちんと描かれているところはさすがスコセッシである。考証がしっかりしていて、まったく違和感がない。
 外国の監督が日本を撮るとき、英語の喋れる中国人俳優を日本人役に起用することがよくあるが、ここでは日本人俳優を使っているので、これも違和感がない。中でも、弾圧側のトップである筑後守井上を演じるイッセー尾形は、単なる権威主義でも官僚主義でもない複雑な内面を匂わす個性的なお偉方を造形して見事の一語。隠れキリシタン村の長老イチゾウ役の笈田ヨシ、十字架にはり付けられ波に呑まれて殉教するモキチ役の塚本晋也も、年輪を感じさせる表情と渋さが光っている。日本には渡辺謙以外にも「いい役者」がいるということを世界に知らしめたのではないか。
 
 この映画にたびたび登場する踏み絵のシーンを見て思ったのだが、もし自分だったらどうするだろう?
 むろん、仏教徒であるソルティにとって踏み絵の対象となるのはブッダの御姿である。あるいは仏像なり経典である。
「命が惜しければ、この仏像を叩き壊せ。この経典を引き破れ」と言われたら、躊躇なくやるだろう。仏像はたんなる土のかけら、経典はたんなる紙に過ぎない。手塚治虫の『ブッダ』全巻を燃やせと言われたら、もったいないとは思いつつもやるだろう。
 それよりも「五戒を破れ」と言われるほうが抵抗あるかもしれない。「エッチをしろ(不邪淫戒)、酒を飲め(不飲酒)」と言われたら平気でやっちゃうと思うが、「お前は仏教徒か?」と聞かれて「そうでない」と嘘をつくのは(不妄語)、いささか難しい。それでも自分や他人の命がかかっていたら破るに雑作ない。「いや、自分はイスラム教徒です」「ヒンズー教徒です」とか相手が期待するままに言うだろう。
 仏像や経典や仏舎利や儀式を有難がる偶像崇拝は本来の仏教ではないと思うし、戒律は修行をスムーズに進展させると同時にサンガや社会の安定運営のためにあると思うので、それらを必要以上に重視しすぎるのも違うと思われる。
 仏教徒にとって重要なのは神でも仏でもなく仏法(ダンマ)である。ダンマとは「諸行無常、諸法無我、一切行苦、因縁」の真理である。
 この真理はそもそも「私のもの」ではないので、誰にも奪うことができない。
 ダンマを見ている限り、転ぶ(=仏教徒を辞める)ことはできなさそうだ。

P.S. 「神の沈黙」についてはマザー・テレサの伝記も参考になる。


鋸山20161207 036



評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
   

● 換骨奪胎、抱腹絶倒! 映画:『高慢と偏見とゾンビ』(バー・スティアーズ監督)

公開 2016年
製作国 イギリス、アメリカ
原作 セス・グレアム=スミス、ジェーン・オースティン(原案)
出演者
エリザベス: リリー・ジェームズ
ダーシー大佐: サム・ライリー
ウィカム: ジャック・ヒューストン
ジェーン: ベラ・ヒースコート
ビングリー: ダグラス・ブース
上映時間 108分

 あの奇天烈に面白い二次創作がどんなふうに映画化されているのだろう?
 期待と不安を抱いて観たら、期待のほうが凱歌を上げた。
 よくできている。

 19世紀初頭のイギリス上流階級の生活を女性視点で描いた古典文学と、20世紀怪奇映画の古典的シロモノであるゾンビの融合は、上品と下品、高踏と下劣、優美とグロ、洗練と野蛮、陽光と陰惨、牧歌的と墓場的、淑女的とアマゾネス的、の結合である。主役の美しき淑女たちの優美なドレスの裾をまくると、その太ももにはソンビ退治のための切っ先鋭い短剣が仕込まれているように、相反する二つの要素が同居するところにこのパスティーシュの面白さがある。
 ゆえに、オースティン原作で表現される上流階級の様相や雰囲気がしっかりと描かれれば描かれるほどに、二極の対比がくっきりと浮かび上がり、痛快なるおかしさにつながる。
 この映画製作者はそこがよく分かっている。ゾンビとの戦闘シーンこそCGが多用されているものの、上流階級の日常シーンではそれなりにちゃんとした時代考証のもと、それなりに見栄えするロケーションを行い、それなりに納得できる貴族の贅沢ぶりと優雅さとが表現されている。これがB級的に貧乏臭かったら設定が台無しになっただろう。

 ジェーン・オースティンが目にしたら腰を抜かしそうな換骨奪胎(ゾンビだけに!)な二次創作なのだが、不思議と主要なオースティン文学のエレメンツはちゃんと残っている。
 ユーモアと恋愛である。
 これあるから、いまや手垢やカビがついてマンネリと退屈の極致となっている‛死にぞこない’のゾンビ映画に終わっていない。
 主役の2カップル(ジェーン&ビングリー、エリザベス&ダーシー)+悪役ウィカムは、オースティン原作から抜け出てきたような適役ぶり。ポイント高い。


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 仏教的。 映画:『イレブン・ミニッツ』(イエジー・スコリモフスキ監督)

英題 11 Minutes
公開 2015年
脚本 イエジー・スコリモフスキ
上映時間 81分
製作国 ポーランド、アイルランド

 アガサ・クリスティの作品に『ゼロ時間へ』(原題:Towards Zero)というのがある。これは、殺人事件がまず最初に起こって、それから真犯人とトリック解明という解決に向けて時間が(叙述が)流れていく通常の推理小説とは趣向を異にし、様々なエピソードや閉塞した人間関係のもたらす結節点として殺人事件が最後に起こる――というクリスティの着想のユニークさの光る作品である。「ゼロ時間へ」とはすなわち、殺人事件(ZERO)に向かって秒読みされていく時間の流れのことである。名探偵ポワロもミス・マープルも登場しない地味な作品であるが、間違いなくクリスティの傑作のひとつに数えられる。ソルティの大好きな作品である。
 人間性に関心ある読者にとって真に興味深いのは、殺人事件が起こってからの名探偵の活躍ではなくて、事件が起こるまでの複雑な経緯や殺人犯の動機の成り立ちや「そのような悲劇にしか決着し得なかった」因縁を知ることにある。
 この映画を見ていて『ゼロ時間へ』が思い出されたのは、まさにこれが、機械仕掛けの時計のごとく正確に無慈悲に時を刻んでいく複数の物語(=因縁)が、一つの圧倒的な悲劇に結実していくさまを描いているように思えるからである。
 
 ワルシャワを舞台に、17時から17時11分までの11分間に起こる複数の出来事が並列的に描かれていく。
① 役を得るべく大物プロデューサーとの面接に出かける美人女優。その夫は結婚したばかりの妻の動向にやきもきし面接現場であるホテルに駆け付ける。
② 同じホテルの階下では不倫カップルがポルノビデオを観ている。休憩時間が終了すると男は窓から外に出て窓ふき掃除用のゴンドラに乗る。女はホテル前のバス停に向かう。
③ 明日結婚を控えているにもかかわらず、配達先の人妻との情事にふけるバイク便の青年。その父親は何の罪か知らぬがムショから出たばかりで公園でホットドッグの屋台をやっている。親子は約束通りホテル前で落ち合う。
④ その屋台でホットドッグを購入したのは朗らかなシスターたちと犬を連れた若い女性。その女性はいまさっき恋人と喧嘩別れしたばかり。
⑤ 下町の古いアパートメントで命がけの救命活動を行う救命士たち。現場には破水した妊婦と騒ぐ子供ら、いましも息を引き取った老いた男がいる。救急車は患者を乗せてホテル前を通過する。
⑥ 孤独な少年は質屋に強盗に入るが、質屋の主人は首を吊って死んでいた。パニックった少年は何も盗まずに質屋を立ち去り、やって来たバスに乗る。少年を追うように年老いた男も同じバスに乗る。男はついさっきまで川原で風景画を描いていた。
⑦ 少年と年老いた男を乗せたバスは、ホテル前のバス停で不倫中の女とシスターたちを乗せる。
⑧ そして、ゼロ時間がやって来る・・・・・・

 入り組んだように見える筋を見抜くためには一度観るだけでは不十分であろう。ソルティは倍速なしで2回観てしまった。
 入り組んだように見えるのは、脚本のせいでも、演出のせいでも、出来事自体の複雑さのせいでもない。11分の間に同時進行している複数の物語が、代わる代わる小出しに語られていくためである。本当なら、画面(スクリーン)を物語の数だけ分割して、ありのままにリアルタイムで表現され、かつ複眼的に観られるべきなのである。実際、すべては同時進行で起こっているのだから。

 それぞれの因縁によって、特定の「時」×特定の「場」に集められてしまった人々にもたらされる惨劇。天罰のごとき悲劇に見合うだけの罪を犯した者は、登場人物の中にどれだけいるのか。この作品はそんな運命の不可解さを描いている。
 映画のラストは、画面(スクリーン)がまさに細胞分裂のように無限に細かく分割されていく。物語は無数にあり、因縁は無限に生じ、我々は因縁の網の中にがんじがらめに取り込まれている。いかなる「時」のいかなる「場」も、因縁によって規定されている。そんな世のありようを示唆しているように感じた。

 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





 

● ディケンズと手塚治虫 映画:『われらが友』(ジュリアン・ファリノ監督)

1988年イギリス製作

 上映時間352分(6時間!)に及ぶBBC(英国放送)文芸ドラマ。原作はもちろん国民的文豪チャールズ・ディケンズの Our Mutual Friend (ちくま文庫『我らが共通の友』、間二郎訳)。ディケンズが完成させた生涯最後の長編小説である。このあとに別記事で取り上げた諸説紛々たる未完のミステリー『エドウィン・ドルードの謎』が来る。

 さすがBBCというべきか。CGを多用せず、丁寧にじっくりと、テムズの流れのように悠々たる物語展開をもって作られている。視聴者の忍耐強さを信用しているのか、無視しているのか。これが全米だったら、CG中心の映像で目まぐるしく場面転換し、エピソードが其処ここで端折られ、全編120分以内に収められてしまうことだろう。結果、本編というよりもダイジェスト版か予告編を観たかのような気がすることであろう。むろん、ディケンズ文学の香りや味わいなど一片も残るまい。
 ディケンズが創造した(端役に至るまで)ユニークな登場人物はむろんのこと、19世紀末のロンドンの風景や下層階級の風俗が見事に活写・再現されている。制作者のディケンズに対する愛情と尊敬の念が伝わってくる良心的な仕上がりである。
 
 この小説、社会派ミステリーと紹介されることが多い。
 巨額な遺産をめぐる殺人がらみのミステリーと階級社会への批判が話の核にあるのでそれで間違ってはいないのだが、このBBCドラマに関して言えば、明確に「ミステリータッチの恋愛ドラマ」である。
 主軸となるのは、二組の若い男女(ジョンベラ、ユージンリジー)が様々な障害を乗り越えて結ばれるまでの道のりを描くことにあり、置かれた環境と共に移り変わっていく4人それぞれの心模様を映し出すことにある。それ以外にも作中で結ばれるカップルが二組いるので、都合四組の男女が最後にはハッピーエンドを迎える大団円。恋愛万歳!
 ディケンズは作家人生最後についに恋愛至上主義を打ち出したのだろうか。それとも圧倒的に多いであろう女性視聴者を意識したBBCが、やはりお国の女流文豪ジェーン・オースティン風に、あるいはハーレクイン的に脚色した結果であろうか。原作を読んでいないのでなんとも言えない。
 
 ディケンズ小説の登場人物たちはとにかく個性的で面白い。
 お決まりの口癖や習い性となった奇矯な言動、肌身離さず持っている所有物などによって、当の人物の個性をくっきりと浮かび上がらせるのがディケンズの人物描写の手法というか得意技なのである。漫画的に言えば‘キャラが立って’いる。その意味でまさに映像にあつらえ向きである。
 この作品でも、人骨を含む骨董品屋を経営するネガティヴ思考の中年男Mr.ヴィナスや、主人公リジーの女友達で頭は弱いが気は強い人形作りのジェニーなど、個性的で愉快で愛すべきキャラがたびたび登場し、シリアスな物語の息抜きの役を果たしている。それぞれのキャラに対するディケンズの強い愛情を感じる。(同様の手法を駆使した天才を今一人挙げるなら我らが手塚治虫であろう。実際、ストーリーテリングの上手さ、魅力あるキャラクター創造、扱うテーマの広さと博識、社会正義、あふれる人間愛など、ディケンズと手塚治虫は双子と言っていいくらい似ている。)

 一方、キャラクターに典型性を付与した結果、ディケンズ作品の登場人物たちは「ステロタイプ、書き割りっぽい、紋切り型、深みがない」という評価にさらされることもある。たとえば、善玉は最後まで善玉(本作のボフィン夫妻のように)、悪玉はあくまで悪玉(ライダーフッドやサイラス・ウェッグのように)、善と悪はきっちり分けられ最後は勧善懲悪で幕を閉じる。つまり、登場人物の性格や心理に深みや複雑さがなく、表面的な(少年漫画的な)人間理解に留まっている・・・・。
 この評価は当たっていなくもないとは思うが、ディケンズがこれだけ大衆的人気を博した(博している)秘密の一つはまさに典型化されたキャラクターの魅力が発するユーモア&ペーソスと、水戸黄門のごとく分かりやすいストーリーにあるのだから、「ないものねだり」というべきだろう。手塚治虫の作品をして「漫画的だ!」とけなすようなものである。

 ただ一方、ディケンズにはダークサイド(人間心理の暗黒面)に対する偏愛のようなものがあったことは見逃せない。物語の最後で、世間や法や宗教倫理に合わせて犯罪者や異端者を断罪し相応の罰を与え、市井の百万読者の溜飲を下げ快哉を叫び起こすのを忘れないだけのプロ意識は当然持ってはいるものの、犯罪者の内面について共感にも似た深い関心を抱いていたことが筆致からうかがえる。それはプロ作家として当然持つ人間心理に対する興味であると同時に、社会から疎外され孤独に苛まれ屈折した者のうちにこそ、その社会のいびつさが凝縮されて顕われるということを感じ取っていたゆえだと思う。本DVDで解説をほどこしている著名な英文学者の小池滋はこう指摘している。

 一方で彼(ソルティ注:ディケンズ)は健全明朗な市民道徳の立場に立って、明晰な論理や推理の力によって悪を追跡し罰する姿勢も見せているが、それと同時に彼は、追跡される悪人、善良な社会から追放され指弾される者の立場に立って、その心理を鋭く分析するとともに、「健全」であると自負している一般社会の偽善と虚偽を痛烈に批判するのである。(創元推理文庫『エドウィン・ドルードの謎』解説P.434)

 ディケンズの小説には、そうした異端者が時折登場し、大方の読者の理解を拒むような複雑で不可解な人間性の一面を垣間見せる。本作にも、単なる悪役のための悪役ではない、悪役の典型性に収斂されない非常に複雑で屈折した性格を持つ男が登場する。堅物教師ブラッドリー・ヘッドストンがその人である。(Head Stoneとはまさに「石頭」だ)
 ヘッドストンは貧乏で恵まれない家庭環境の中、苦学して進学の道を切り開き、今は周囲に尊敬される教師となっている。このまま行けば、彼を愛する同僚女性教師と結婚し、いよいよ出世し順風満帆のはずであった。それが、担当する生徒の姉リジーに出会って一目惚れしたのがきっかけで、人生を狂わせてしまう。リジーのことがどうしても忘れられず、生徒をダシにして会う機会を作るが好意は得られない。諦めること叶わず、つきまとい、しまいにはストーカーのようになっていく。リジーと相思相愛の関係にあるユージンの存在を知り、嫉妬にかられ、ユージンを夜毎つけ回した挙句、ついに殺人を決行する。
 実を言えば、この堅物教師ヘッドストンの壊れていく精神、憑かれたように狂おしさを増していく表情、転落していく人生が、作中もっとも強い印象を残すのである。主人公たちの恋愛ゲームなんか蹴散らすほどに。
 演じているのはデビッド・モリシーという名の俳優だが、オスカー級の名演である。情緒不安定でプライドが高く自己中心的なヘッドストンが、愛によって理性を失い、次第に狂気を増していく様を、役柄への深い理解を持って怖いほどリアルに演じている。単なる紋切り型の悪役の範疇を超えて、愛情のない家庭に生まれ育ち、社会的成功だけを目的として生きてきた孤独な人間の魂の飢餓と危機と破綻を好演している。
 間違いなく、才能ある男優にとって、このヘッドストンこそ登場人物中最もやりがいのある、一度はやりたい役であろう。『レ・ミゼラブル』のジャベール警部同様に。

 ここまで来てようやく、『われらが友』のブラッドリー・ヘッドストンこそ、遺作となった『エドウィン・ドルードの謎』のジョン・ジャスパーに転生するのだと、大作家ディケンズが最後に書きたかったのは単なる恋愛ドラマではなく人間心理のミステリーだったのだと納得しうるのである。(「そのへんもまた手塚治虫と似ている」と最近『MW ムウ』を読み返して思った・・・)


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 映画:『オリバー・ツイスト』(ロマン・ポランスキー監督)

2005年イギリス、チェコ、フランス、イタリア制作。
上映時間 128分 

出演
  • オリバー・ツイスト: バーニー・クラーク  
  • フェイギン: ベン・キングズレー
  • アートフル・ドジャー: ハリー・イーデン  
  • ビル・サイクス: ジェイミー・フォアマン  

 近所のTUTAYAで見かけて気になっていたのだが、慎泰俊の『ルポ 児童相談所』を読んだのが後押しした。
 チャールズ・ディケンズ原作の19世紀ロンドン下町が舞台の少年の成長物語である。下層社会の人々に多大なる関心と愛情を持ち、上流階級の作る社会制度の欠陥や腐敗に厳しい批判の目を向けたディケンズの面目躍如たる代表作。
 登場人物一人一人がユニークで生き生きと描かれているのはディケンズ最大の特徴であるが、この映画でもそこがうまく踏襲されている。
 見どころの一番は役者の演技合戦にある。
 
 主演のバーニー・クラークは、純粋で気高い心と生まれついての賢さを持つ美少年としてオリバーを造型しているが、これは演技力というよりも‘地’であろう。
 
 虐待を受けて田舎からロンドンに逃げてきたオリバーが市場で出会い、オリバーを少年窃盗団の親方であるフェイギンに引き合わせるのがドジャー少年である。演じるハリー・イーデンが素晴らしい。周囲の大人役者を食う存在感とふてぶてしい魅力を放っている。THE END 後も「あの子はその後どうなったんだろう?」と気になってしまうほどの愛着を観る者に抱かせる。ウィキによると、イーデンはミュージカル『オリバー!』でまさにこのドジャー役を見たのがきっかけで役者を目指すことにしたそうだ。入魂の演技もうなづける。
 
 オリバー、ドジャーら少年たちに寝床と食事を与え、泥棒として教育し、老後の資金をしこたま貯めているのがフェイギン。原作でも最も印象に残るキャラクターである。演じるベン・キングズレーは、『ガンジー』(1982)でアカデミー主演男優賞を受賞した名優。さすがに凄い役作りである。人懐っこさと残忍さ、優しさと卑劣さ、楽天主義と悲観主義、したたかさと愚かさ、明るさと暗さ・・・光線の具合によって複雑な色合いを見せる織物のように、一見矛盾し合う人間性の様々な面を包含する人物としてフェイギンを描き出している。悪党なのに憎めない。
 
 そして、こちらは紛れもない悪党ビル・サイクス。怒りにまかせて自分の情婦を殴り殺し、最後はオリバーを人質にとって追っ手からの逃走を図るも事故死してしまう。単純な‘善悪図式’にはまる悪役であり、『レ・ミゼラブル』のジャベール警部ほどの、あるいは同じディケンズの『エドゥイン・ドルードの謎』に出てくるジョン・ジャスパーほどの複雑な心理的背景や意味深なセリフは与えられていない。2012年の『レ・ミゼ』におけるラッセル・クロウばりの心理描写や性格造型を期待される余地はない。
 だが、ここでのジェイミー・フォアマンの演技は神がかっている。とくに、情婦を殺し、人生ただ一人(一匹)の相棒であった飼い犬に逃げられてからのサイクスの鬼気迫る表情は、それまでどことなく牧歌的であった画面を一気にサスペンス方向にしめる。警察の探索から身を隠すフェイギンと少年たちの家に、陰気なオーラーをまとったサイクスが一人戻ってくる場面は、オリバーやドジャーならずともゾッとする。ここから主役は完全にサイクスになる。最終的にロープが首にからまって空中で縊死する衝撃的シーンまで、オリバーはもとよりドジャーやフェイギンも抑えて、観る者にもっとも強いインパクトを与える役者はジェイミー・フォアマンである。

 ところが、どっこい。
 
 物語の最後、オリバーが死刑囚の獄屋を訪れるシーンで、どんでん返しが起こる。死刑を待つ狂ったフェイギンの、なんとも哀れな、なんとも苦痛に満ちた、なんとも痛ましい言動に、観る者は胸を射抜かれる。それはユダヤ人であり、泥棒であり、老残の身であり、今や死刑囚である孤独なフェイギンの全生涯が凝縮された、フェイギンという一人の人間の精神と肉体の履歴をまざまざと映し出す瞬間であり、ベン・キングズレーの役者としての力量のまぎれもない証明である。

 最後の最後にテーブルの札をさらっていったのはガンジーであった。



評価:B-
 
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 勝気と狂気、あるいはマクベス夫人がここにいた! 映画:『悪霊島』(篠田正浩監督)

公開 1981年
原作 横溝正史
製作 角川春樹事務所
撮影 宮川一夫
上映時間 131分
キャスト
  • 金田一耕助/鹿賀丈史
  • 磯川警部/室田日出男
  • 三津木五郎/古尾谷雅人
  • 越智竜平/伊丹十三
  • 巴御寮人・ふぶき/岩下志麻
  • 真帆・片帆/岸本加世子
  • 刑部守衛/中尾彬
  • 刑部大膳/佐分利信
  • 吉太郎/石橋蓮司

 実に35年ぶりに観たのだが、そんなに久しぶりの気がしない。
 
 それはこの映画のあるシーンのインパクトが強すぎて、その後の35年間、何気ないきっかけからふとそのシーンが眼前に蘇えることが度々あったからである。そのシーンを悪夢でも見るかのように反芻してきた結果、映画『悪霊島』の記憶はソルティの中で、鮮烈なままにある。
 
 そのシーンとは・・・・・
 耳について離れない不吉で忌まわしい調子のコピー「鵺(ぬえ)の泣く夜は恐ろしい」――ではない。
 切り離された裸の片腕を咥えて犬が村中を走り回るシーン、でもない。
 目を背けたくなるほどにグロい岸本加世子の惨殺死体、でもない。
 気の触れたふぶきを演じる岩下志麻がしどけなく開いた着物の裾から片手を入れて自慰にふけるシーン、でもない(こんな衝撃的な場面があったことを今回見るまで忘れていた!)。
 むろん、とっちゃん坊や風の角川春樹が端役で登場する冒頭のジョン・レノンの死を伝えるニュースのシーン、でもない。
 
 ラストの岩下志麻の‘狂乱の場’がそれである。

 海水がひたひたと底を洗う、岩壁に幾たりかの男の骸(むくろ)が蜘蛛の餌食のごとく飾られた洞窟の暗闇。20年前に自らが産み落とし発作的に殺めた赤子――腰のところでくっ付いたシャム双生児――の骸骨を、いささか鼻にかかった粘着質な甲高い声で、「太郎丸~、次郎丸~」と狂おしく叫びながら、髪も着物も振り乱し、地面に這い蹲り、血眼になって探し回る巴御寮人(=ふぶき)の姿が、そして役に没入した岩下志麻の一線を超えた鬼気迫る演技が、強烈な印象を残したのである。

 岩下志麻と言えば、『極道の妻たち』、『鬼畜』、『紀ノ川』、『切腹』ほか沢山の名作に出演し、たくさんの印象に残る演技を披露している大女優である。ソルティは、彼女の代表作とされる『心中天網島』および『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』を観ていないので断言は控えるが、今のところ、岩下志麻の女優としての凄さを一番感じてしまうのが、この『悪霊島』なんである。
 おそらく彼女自身の中では、あるいは実生活上のパートナーでもある篠田監督の中では、70年代末に降って湧いたように訪れた横溝正史ブームに便乗するように企画・製作されたこの映画について、記憶の底のほうに埋もれてしまうほどのマイナーな価値しか感じていないかもしれない。実際、映画の出来自体は、たとえ往年の名キャメラマン宮川一夫の安定した職人技による支えがあるにしても、あるいは、佐分利信の存在感、室田日出男のいぶし銀、石橋蓮司の殺気、岸本加世子の天真爛漫をもって味付けに工夫しているにしても、成功作とは言い難い。同じ金田一耕助ものなら、野村芳太郎の『八つ墓村』(1977)や市川崑の『犬神家の一族』(1976)のほうが断然面白く、完成度が高い。
 
 しかし、岩下志麻という日本映画史に残る大女優の美貌と貫禄、「勝気と狂気」の演技において存分に発揮される他の女優には替えがたい個性的魅力を、40歳の円熟した色気が発散するままに艶やかにフィルムに移し撮った記念碑的作品として、『悪霊島』は決して軽んじてはならないと思うのである。
 
 勝気と狂気――。
 岩下志麻なら、理想的なマクベス夫人を演じられたであろうに・・・。




評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 愛ではどうにもならないこともある 映画:『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン監督)

2014年カナダ映画(フランス語)
上映時間 138分

 グザヴィエ・ドランは1989年カナダ生まれ。今もっとも世界から注目され、惜しみない喝采と賞賛に浴し、次回作が期待される映画監督である。「映画界の救世主」という声すらある。
 ちなみにゲイである。

 未亡人のダイアン(=アンヌ・ドルヴァル)には、15歳の可愛い息子スティーヴ(=アントワーヌ・オリヴィエ・ピロン)がいる。スティーヴは入居している施設で放火騒ぎを起こし強制退所させられてしまう。ダイアンは息子を引き取り、母子2人の生活が始まった。ありあまる若さと持って生まれた障害ゆえのスティーヴの型破りな行動に、ほとほと手を焼くダイアン。
 二人の家の向かいに住むカイラ(=スザンヌ・クレマン)は、夫の仕事の都合で転々とする生活を送っている。元高校教師だったカイラは精神的なストレスのため言語障害となり、現在静養中である。ひょんなことから知り合った3人は仲良くなり、スティーヴを中心に笑いの絶えない関係が育くまれてゆく。
 生きる希望を取り戻すダイアンだったが、スティーヴの放火で火傷を負った施設の入居者家族から治療費を支払うよう訴えを起こされ、窮地に陥る・・・・

 第67回カンヌ国際映画祭において審査員賞を受賞しただけあって、確かに傑出した才能に圧倒される。とても20代の青年が撮ったものと思われない。技術的にも内容的にも。早熟の天才か、幼形成熟(ネオテニー)か、あるいは‘アンファンテリブル(おそるべき子供)’か。(この‘アンファンテリブル’という言葉を聞くと、いつも『ティファーニで朝食を』で有名なアメリカの小説家トルーマン・カポーテを思い出す。そう言えばカポーテもゲイだった)

 この映画のテーマは「母と息子の愛」。陳腐にして永遠なる催涙テーマである。
 が、そこにひとひねり加えている。スティーヴは注意欠陥・多動性障害(ADHD)なのである。

注意欠陥・多動性障害(attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性(過活動)、不注意(注意障害)、衝動性を症状の特徴とする神経発達症もしくは行動障害。
次のような症状が特徴的である。
  • 簡単に気をそらされる、細部をミスする、物事を忘れる
  • ひとつの作業に集中し続けるのが難しい
  • その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる
  • じっと座っていることができない
  • 絶え間なく喋り続ける
  • 黙ってじっとし続けられない
  • 結論なしに喋りつづける
  • 他の人を遮って喋る
  • 自分の話す順番を待つことが出来ない
  (以上、ウィキペディア『注意欠陥・多動性障害』より抜粋)

 日本では、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害などと共に発達障害の一つに含まれ、発達障害者支援法(2005年成立)により、障害の早期診断・療育・教育・就労・相談など様々な公的支援が受けられるようになった。

 ただでさえ子育ては大変なものであるが、発達障害の子供を育てるのはどんなにしんどいものだろう。

 ソルティは社会福祉士の資格を取るための実習で障害者施設(生活介護)に行き、そこではじめて発達障害者(大人である)と近しく関わった。むろん、それまでも自分がそうとは気づかないだけで発達障害者(児)は周囲にいたであろうし、たまに電車の中で不可思議な言動をしている人に気づくと、他の乗客同様、見て見ぬフリ聞いて聞かぬフリをしていた。発達障害と統合失調症の区別すら、よく分かっていなかった。
 実習で出会ったのは、自閉症の人たちだった。

 まあ、大変であった。
  • 奇声を上げる。
  • 忙しい職員を捕まえて同じ質問を一日中し続ける。(職員はそのたび同じ答えを返す)
  • 部屋の中でぴょんぴょん飛び跳ねる。
  • 一つところでイスラム舞踏のように旋回し続ける。
  • いきなり自分の顔面を拳骨で思いっきり叩きだす。
  • 床に頭をゴンゴン打ち付ける。
  • コマーシャルの文句をオウムのように繰り返し言い続ける。
  • 大の男が急にぼろぼろ泣き出し、自らの腕を血が出るほどに噛む。
  • 突発的に他人に突っかかって、容赦なく殴り始める。
  • いきなり服を脱ぎ、全裸になる。
  • てんかん発作を起こす。 

 正直に告白する。
 最初に自閉症フロアに入ったとき、「いったいここは動物園か?」と思った。
 「この人たちとコミュニケーションなんかできるのだろうか?」
 「いや、それよりも身の危険はないだろうか?」

 ソルティは、職場(老人ホーム)で認知症高齢者のケアをしているので、わけのわからない言動には慣れていた。わけのわからない言動でも、本人の中ではちゃんと筋が通っていてそれなりの意味があるのだ、ということは知っていた。だから、本人の表情や仕草から、「いまどんな気持ちでいるのか」「何をしたいのか」「何がほしいのか」を読み取るよう努め、気持ちに沿うように介入する。なによりも本人の感情(不安や怒りや焦燥感や寂しさ)を受容し共感することが大切であり、その地点に立ってはじめて適切な介助もコミュニケーションも可能となる、と学んでいた。基本、同じ人間である以上、自閉症の人もそこは同じであろう。
 結論から言えば、確かに同じであった。受容・共感・傾聴・自己覚知の姿勢は対人援助の黄金律であり、相手が誰であろうと通用する。最終的には、自閉症の人たちに受け入れられ、仲良くなることができた。(誤解を恐れず言えば、自閉症の人はピュアで感情表現がまっすぐで何とも言えず可愛いらしかった。40歳のヒゲ面のおっさんでさえ!)
 ただ、認知症高齢者と違うのは、自閉症の彼らはまだ若く(20~40代)、エネルギーにあふれていて、腕力も脚力も人一倍強く、感情の起伏も激しいという点。そして、おそらく、自らが置かれている状況について、認知症の人よりもクリアに理解できている点。それだけに、当人も介助者も大変なのである。(自閉症スペクトラムという言葉があるように、自閉症にもいろいろなタイプが存在する。自閉症の作家東田直樹の本を読むと、外見からは見誤ってしまわれがちだが、多くの自閉症の人が高い知性と深い感情と瑞々しい感性を持っているらしいことが推測される)
 ともあれ、ソルティも慣れるまでは、彼らの破壊的なパワーと感情の暴発ぶりと予測のつかない行動に圧倒された。
 と同時に、彼らと毎日一緒に過ごしケアをしている職員に頭が下がった。
 本当に、並みの体力、並みの腕力、並みの精神力ではつとまらない仕事である。
 一例を挙げると、自閉症の人たちの行っているプログラムに「散歩」があった。毎日午後、隊列を組んで、近くの公園まで数時間かけての散歩に出かけるのである。自閉症の人は一般に自然に触れるのが好きだと言うこともあるし、若い彼らのエネルギーを幾分でも発散させて疲れさせ、家に帰って暴れないよう、つまり家族支援としても散歩は有効なのである。ソルティも毎日のように散歩に付き添った。
 毎日公園を散歩できるなんて、なんて楽な仕事かと思ったら大間違い。はしゃいだ彼らは、道中いろいろやらかすのである。ピンポンダッシュしたり、帽子を脱いでよその家の中に投げ込んだり、興味を示した看板の前で立ちどまって石のように動かなくなったり・・・。こういう一群を、来る日も来る日も、安全に気をつかいながら引率する職員の気力というかモチベーションはどこからくるのだろう? 給料だけでは到底つとまるまい。(まあ、認知症高齢者の介護の仕事も外野からはそう思われているのかもしれない・・・)

 しかし、職員は結局のところ赤の他人である。当事者と関わる時間と場所は限定されている。休日には自由な時間を満喫できる。仕事が嫌になったら辞めることもできる。
 それが許されないのは家族、とくに親である。
 実習施設には毎日、自閉症の子供(すでに大人であるが)を送迎する親たちが来ていた。ほぼ母親だった。中には自分がそろそろ介護施設の世話に・・・という年代の母親もいた。みな明るく、逞しく、実習生に過ぎない自分にも丁寧に挨拶してくれた。
 わが子が他の子供とどこか違うと気づいてから、あるいは自閉症と診断されてから、どれだけ苦労してきたことだろう。どれだけ周囲を気遣い、謝ってきたことだろう。
 若くして亡くなった戸部けいこ(1957 - 2010)の漫画『光とともに・・・ ~自閉症児を抱えて~』(秋田書店)を読むと、自閉症の子供を持った親御さんがどれだけ苦労するかがよくわかる。それだけに、わが子の成長を実感したり周囲から理解を得られたときは喜びも一入(ひとしお)であり、そこにドラマがあるわけだが・・・。この漫画の描かれた頃(2001~2010年)には日本でも自閉症についての研究や支援が進み、主人公光君の母親は然るべく場所に相談に行って専門家から自閉症児の育て方のコツなんかを伝授されている。同じ自閉症の子を持つ親たちと知り合い、励ましあいもする。それでも、やっぱり苦労の連続には違いない。
 ましてや、自閉症の原因が脳の障害にあることが判明していなかった時代、親の育て方に原因があるなどと誤解されていた時代は、針の筵を這いつくばって暗闇を手探りで進むような状況だったのではないかと想像する。

公園


 さて、映画の主人公スティーヴは、最終的には閉鎖病棟に入れられてしまう。母親の愛だけではどうにもならなかったのである。
 ある日、「旅行に行く」とスティーヴを騙して病院に車を乗り入れたダイアン。建物から3人の屈強な看護士が出てくるのを見て事態を悟ったスティーヴ。
 逃げるスティーヴ。
 追う看護士。
 泣き喚くダイアン。
 あっけにとられるカイラ。
 映画のクライマックスであり、おそらくほとんどの観客を泣かせるシーンであろう。
 たしかに切なすぎる。
 しかし、ソルティは泣けなかった。
 なぜなら、老人ホームで働くソルティの立ち位置は、上の「屈強な看護士」にあたるからだ。愛し合う家族を力づくで切り離す無情で無慈悲な塀の中のケアラー。映画の中で看護師が着ていたグレーの制服に象徴されるように、自由を希求する者を束縛する、事務的で非人間的な法(福祉制度)の手先。
 しかしなあ~。
 『カッコーの巣の上で』は75年のアメリカ映画である。法だって、福祉制度だって、施設だって、治療法だって、施設利用に対する世間の価値観だって、当時とはずいぶん変わっているだろうに。「家族を施設に入れること=家族を見捨てること」という固定観念こそ、当事者を苦しめる枠だろうに。
 母と息子の絆を表現するために施設収容による離別の悲劇を利用するというステレオタイプな筋書きが、映画界の新しい旗手にしては‘あまりにアナクロ’という気がした。



評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● ひがしむらや~まぁ♪ 映画:『あん』(河瀬直美監督)

製作年 2015年
製作国 日本・フランス・ドイツ合作
配給 エレファントハウス
監督 河瀬直美
原作 ドリアン助川
脚本 河瀬直美
キャスト
  • 樹木希林(徳江)
  • 永瀬正敏(千太郎)
  • 内田伽羅(ワカナ)
  • 市原悦子(佳子)
  • 浅田美代子(千太郎の店のオーナー)
視聴日 2015年12月31日

 昨秋多磨全生園を散策したときからこの映画を見ることは運命づけられていた(大げさ)。
 主人公徳江がその生涯のほとんどを暮らしてきた国立ハンセン病療養所多磨全生園が映画の最後のほうで出てくる。散策のときに歩いた道、眺めた木々や建物、買い物したショップ、昼食を食べたお店が映し出され、親近感を持った。実際、自分が見た風景がほとんど変わらない空気感と雰囲気(印象)で撮影されているのが不思議な気がした。

 樹木希林の上手さは言を重ねるまでもない。メリル・ストリープ同様、上手すぎて鼻につくのが欠点と思っていたのだが、この映画に限っては全体に漂白されたような‘はかなさ’を帯びて、名演というよりも好演(好ましい演技)というにふさわしい。目の中に入れても痛くない可愛い孫娘(内田伽羅)との共演の影響だろうか。
 その内田伽羅が素晴らしい。父親のモックン(本木雅弘)から譲り受けた涼しげで切れ長の目が魅力的である。『キューポラのある街』の吉永小百合を彷彿させる頑固な美少女ぶり。これからが楽しみな女優である。
 永瀬正敏、市原悦子、浅田美代子もそれぞれにイイ味を出している。これだけの役者を集めて、これだけの演技を引き出す川瀬監督が「なにか持っている(←古い)」のは間違いなかろう。

 この映画のロケは東京都東村山市で行われた。
 なので市民の名誉のために一言。
 ハンセン病患者であったことが周囲に知られて、徳子の働くどら焼き屋は閑古鳥が鳴くようになる。ハンセン病患者への偏見と差別を語るエピソードである。
 だが、東村山市民ならそんなことあり得ないと思う。少なくとも現代では。
 そんなことがあった日には志村けんが許すまい。 
 
 
 
評価:B-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● Oh,キャプテン 映画:『シークレット・ロード』(ディート・モンティエル監督)

2014年アメリカ映画。

 原題はBoule vard
 パリのシャンゼリゼや原宿の表参道のような「街路樹の植わった広い大通り」を言う。
 それを反転させた邦題「秘密の道」は、「人生の裏街道」といった意味合いだろう。テーマに沿った邦訳ではあるが、なんだかスパイミステリーと勘違いさせる。

 主演のロビン・ウィリアムズは2014年8月11日に自死した。
 この作品および同年に公開された『余命90分の男』(フィル・アルデン・ロビンソン監督)が彼の最後の主演作となった。ソルティ未見であるが、『余命90分の男』というタイトルそのものが彼の近い死を予告しているようで怖い気がするし、「限られた時間で今までの人生を少しでも挽回するために行動に出る(ウィキペディア参照)」という内容そのものも、この『シークレット・ロード』と重なるものがあり、ロビンはいったいどんな思いで撮影に臨んでいたのだろうと思い馳せざるを得ない。

 ロビン・ウィリアムズと言えば、20代に観た『いまを生きる』(ピーター・ウィアー監督、1989年)の教師役がもっとも印象に残っている。それが彼を知った最初でもあった。

名門高校でエリートとしての将来を周囲から押し付けられ、規則だらけの息の詰まるような寮生活を送っている生徒たちに、型破りな英語教師キーティング(=ロビン・ウィリアムズ)は詩の素晴らしさを教え、自分らしく生きることの大切さを訴える。彼の感化を受けた生徒の一人は、役者になりたいという自らの本心に気づくが、父親に猛反対され、命を絶ってしまう。学校側は生徒たちを扇動した責任をなじり、キーティングは退職に追い込まれる。クライマックスとなる最後の授業のシーン。校長の制止も聞かず、生徒たちは一人また一人と机の上に立ち、「Oh,キャプテン、マイ・キャプテン」と去り行くキーティングに呼びかける。
 
 
 ロビン・ウィリアムズは間違いなく成功した俳優の一人であるし、『いまを生きる』に限らず彼の出演作品は、前向きなエンディングで観る者の心に希望を灯すものか、あるいは彼の本領とも言えるコメディが多いので、自殺は意外であった。
 数ヶ月前から鬱病だったとか、レビー小体型認知でパーキンソン病だったとか、いろいろと原因は推測されている。ウィキペディアのプロフィールを読むと、20代の頃にアルコール依存症で苦しんでいる。おそらく、依存症とのたたかいの半生だったのだろう。
 
 『シークレット・ロード』は、クローゼットの初老のゲイの物語である。

 真面目で平凡な銀行員のノーランは、学生時代に知り合った妻ジョイ(=キャシー・ベイカー)と二人、何不自由ない穏やかな生活を送っている。子供はいないが夫婦仲はよく、友人にも恵まれ、職場では上司や同僚からの信頼も厚い。順風満帆の人生、安定した老後、誰が見ても幸福な男である。
 しかし、ノーランには誰にもいえない秘密があった。
 12歳のときに家族と遊びに行ったビーチで自分の同性愛傾向を自覚し、それ以後、それを押し隠して「ストレート(異性愛者)」のふりをして生きてきたのである。ジョイへの愛情は決して偽りではないけれど、真実、心(と体)の満たされる関係ではなかった。
 職場である銀行に訪れた若いゲイのカップル――二人は一緒に住む家のためのローンの相談をする――の姿に心乱れるノーラン。そんな折、上司から別の土地での支店長昇格の話を切り出される。
 
 職場から家に帰る途中、ノーランは‘裏通り’に寄り道し、男相手に売春している青年レオとふとしたきっかけで知り合いになる。たちまち真剣な恋に落ちてしまうノーラン(うぶい!) 繰り返しレオを買い(セックスはせず!)、携帯をプレゼントし、自らの連絡先を教え、友人に頼みレオにまともな仕事を斡旋しようとする。
 年齢違い、属する世界の違う二人のリスキーな関係は、破滅の予感十分である。
 でも、ノーランの開かれた感情の蓋はもはや閉ざすことができない。寝たきり状態で入院中の父親の枕元で、ついに彼はカミングアウトする。
「自分の心はビーチにいた12歳のままなんだ」
 
 最終的には、職場にも妻にも友人にも関係がばれて、ノーランはすべてを失う。妻も、仕事も、出世も、評判も、安定した老後も、愛するレオさえも・・・・・。
 
 ロビン・ウィリアムズの演技は真に迫っている。
 おそらく生涯一番の演技であろう。観ていると、実はこれは脚本でも演技でもなくて、ロビンの本当の姿なのではないか、本心の吐露ではないかと思えてくるほどだ。
 むろん、3度結婚して3人の子供を持ったロビンはゲイではなかったと思う。撮影時のロビン、すなわち死の直前のロビンが抱えていた心の陰影が、こうした彫りの深い見事な演技を可能にしたのであろうか。
 
「やり直すのに遅すぎることはない」
ノーランは新しい土地で新たな人生を生き始める。

 
 ロビン・ウィリアムズの冥福を祈る。

ハスの花ピンク
 
 
 
評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





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