ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価B-

● 虚無への供物 映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督)

2013年スタジオジブリ制作。

 宮崎駿の生涯最後の長編アニメ映画である。(今のところ)
 いわば白鳥の歌、辞世の句、老いの入舞ってことになるのだろうか。
 
 この作品を観ている途中からずっとある言葉が頭にリフレインしていた。
 その言葉とは--虚無への供物。

 『虚無への供物』は1964年に刊行された中井英夫の推理小説で、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』とともに、日本探偵小説史上の三大奇書と並び称されている。
 読んだのは30年以上前のことなので内容はあらかた忘れてしまった。が、この印象的なタイトルだけは忘れることがない。
 なので、『風立ちぬ』と『虚無への供物』が作品として似ているというのではなくて、『風立ちぬ』のテーマが全般として「虚無への供物」、すなわち「無意味(0)に還元される生の営み」といった感じを受けたのである。
 
 主人公の二郎(零戦を設計した実在の堀越二郎がモデル)は、少年のころから飛行機が大好きでパイロットに憧れたが、目が悪いため諦めざるをえず、設計家を志す。優秀な成績で学業を終え、飛行機の開発会社に就職する。挙国一致で戦争に向かっているご時世、二郎が設計するのは戦闘機である。試行錯誤の末、二郎は素晴らしい性能を持つ零戦の開発に成功する。その間に、関東大震災時に知り合った少女・菜穂子と再会し、菜穂子の結核を知りつつも結婚する。 
 といったあらすじなのだが、「虚無への供物」という言葉が途中から浮かんでくるのは、二郎が一生懸命とりくんでいる戦闘機の設計が戦争という大いなる殺戮の為の仕事であること、そして二郎が終戦後の荒れた焦土を前に「自分の作った零戦は一機も戻らなかった」と呟いた通り戦闘機として何の役にも立たなかったこと、むしろ無駄死にした大量の若者の棺おけとなってしまったことを、観る者が登場人物である二郎より先に知っているからである。青春の情熱をかけて二郎がやったことは、文字通り「ゼロ」に帰したのである。
 しかも、最愛の菜穂子を二郎は戦後の平和を待たずに失ってしまう。
 物語の最後で、二郎が目にする焦土はまさに「虚無」の体現であり、二郎の半生は「虚無への供物」となったわけである。
 むろん、二郎はこう言うかもしれない。
「自分はただ性能がよくて美しい飛行機を作りたかっただけ。戦争も敗戦も大量死も関係ない。それは国がやったことで、自分には責任はない。これからも自分は性能がよくて美しい飛行機を作るために生きていく」と。
 奇妙なことに、作中で二郎が自らの戦闘機作りという仕事について、葛藤したり、罪悪感を抱いたり、嫌悪したりというシーンはまったくない。かといって、逆にお国の為に尽くせることに誇りを持っている風でもなければ、敵国の兵隊を殺戮する武器の製作に関わることにサディスティックな悦びを抱いている風でもない。二郎は最後まで子供のように‘無自覚’なのだ。
 むしろ、二郎の同僚であり親友でもある本庄のほうがこのあたりは自覚的である。「俺たちは武器を作っているわけではない」と自己韜晦をはかっている。二郎はそれに対して何の返答もしない。
 こうした二郎の子供のような無意識(状況への鈍感さ)こそは、ある意味「天才」の証なのかもしれないが・・・。

 戦争が終わり、すべてを無に帰した二郎の前に広がる虚無の大地。
 もはや高性能戦闘機作りという‘崇高な’目的もなければ、愛する菜穂子もいない。
 さあ、どうやって生きていこうか。
 そのときにはじめてこの作品のタイトルが重要な意味を持つ。

 風が吹いている。
 生きることを試みなければならない。
 
 これはフランスの詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓場』という詩の中の一節である。
 
 生きることを「試みなければならない(try to live)」ような生とはなんだろうか。
 「風が吹いている。さあ生きていこう」ではなぜいけないのか。
 ヴァレリーにとっての生とは、海辺に広がる墓場に象徴されるような「すべてを無に帰す虚無」なのであろう。ほうっておくと「死」の誘いに引き込まれるような・・・。
 だから、あえて「生きることを試みよう」と自らを鼓舞する必要があるのだ。
 
 すべてを失った二郎は、菜穂子の後を追い、死ぬこともできた。
 でも、生きることを引き受けた。
 そのとき、無意識的に(流されるように)生きてきた人生と決別して、意識的に「虚無への供物」を捧げる決心をしたのであろう。
 というのも、人殺しと戦勝のための戦闘機を作るのも、ビジネスと観光のための飛行機を作るのも、自己表現と子供たちの為にアニメ映画を作るのも、すべからく、「虚無」の前の営みという点では等しいからである。
 この映画のキャッチコピー「生きねば!」が含意するもの、そしてアニメの神様にたくさんの良質の供物を捧げてきた宮崎監督が最終的に言いたかったのは、そのあたりではないか。
 
 調べてみたら、「虚無への供物」という言葉もまた、ポール・ヴァレリーの詩『失われた美酒』の一節であった。


失われた美酒

一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」に捧ぐる供物にと。

おお酒よ、誰か汝が消失を欲したる?
あるはわれ易占に従ひたるか?
あるはまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密の為にせしなるか?

つかのまは薔薇いろの煙たちしが
たちまちに常の如〔ごと〕すきとほり
清げにも海はのこりぬ・・・

この酒を空〔むな〕しと云ふや?・・・波は酔ひたり!
われは見き潮風のうちにさかまく
いと深きものの姿を!

(堀口大学訳)
 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 仏教徒の踏み絵  映画:『沈黙ーSilenceー』(マーティン・スコセッシ監督)

2016年アメリカ映画

原作 遠藤周作
脚本 マーティン・スコセッシ、ジェイ・コックス
出演
ロドリゴ神父: アンドリュー・ガーフィールド
ガルペ神父: アダム・ドライヴァー
通辞: 浅野忠信
キチジロー: 窪塚洋介
井上筑後守: イッセー尾形
モキチ: 塚本晋也
イチゾウ: 笈田ヨシ
フェレイラ神父: リーアム・ニーソン
上映時間 159分

 キリシタン禁令下の江戸時代初期、隠れキリシタン百姓や拷問覚悟のうえ海外からやって来た宣教師に対する弾圧、および彼らの殉教や犠牲や裏切りや転向の姿を描き、キリスト教の神とは何か、信仰とは何か、日本人とは何か、宗教とは何か、救いとは何か・・・・といったことを追求した深遠にして骨太の作品である。159分という長さを感じさせない脚本と演出と役者の演技が見事である。

 ソルティは原作を読んでいない。遠藤周作はカトリックであるが、長いことソルティは「キリスト教を信仰する日本人」という存在が理解の外、関心の外にあったからである。
 これには二つの柵がある。
 一つ目の柵は、宗教そのものに対して懐疑的であり距離を置いていた。現代科学を学んだ者が、キリスト教も大乗仏教も信を置くに値しないという思考を持つようになるのは自然であろう。処女懐胎や復活や56億7千万年後の弥勒到来や念仏による極楽往生は非科学的な世迷言以外のなにものでもない。その上に、統一教会やオウム真理教など新興宗教団体が起こした数々の事件があって、「宗教=胡散臭い=うかつに近寄るべからず」という図式を脳みそに植え付けられた。これはほとんどの現代日本人に共通する心性であろう。
 もう一つの柵は、「同じ宗教でもなぜキリスト教?」という不思議があった。たとえ宗教が非科学的な世迷言であるとしても、それを信じて依拠することでその人が安らぎや落ち着きや救いを得るのであれば、それは他人が否定すべきところではない。人間が抱く苦しみや虚しさや恐れや不安や孤独は、科学やお金や人間関係ではなかなか解決できないものなので、心に安定を与えてくれる何か確かなものを求める気持ちは、遅かれ早かれ、誰もが身内に発見するであろう。そこを補うところに宗教本来の役目はある。
 しかし、同じ宗教でも、日本に生まれ育った日本人がなぜ仏教はもとより神道でも道教でもなくキリスト教を選ぶ必然があるのだろう?——というのが疑問であった。善悪の審判をする全能の唯一絶対神を求める心性というのが理解できなかった。なんとなくエディプス・コンプレックスと関係しているようにも思うのだが、よく分からない。翻って言えば、ソルティのもともとの心性は神道的・大乗仏教的土壌に培われた典型的日本人の域を出ないのであろう。
 現代日本のクリスチャンについてさえそのように理解困難なのだから、江戸時代の庶民と来た日にはまったくもって意味不明である。なぜ神道・仏教全盛の江戸時代の庶民がキリスト教に改宗したのか、いったいどこまでキリスト教を深く理解できたのか、なぜ厳しい弾圧を受け残酷極まる拷問で命を失ってまで外国から来た司祭を守り抜こうとしキリスト教を捨てることをしなかったのか。換言するなら、彼ら江戸時代のクリスチャンは、キリスト教のどこに感応し、何を期待していたのか。(単に「死んだら天国に行ける」だったら浄土真宗でも良いはずである)
 既存の仏教や神道では満たされないものがあったというのは一つの理由であろう。が、その場合、満たされなかった理由が問題となる。「もしかしたら、仏教では救いがないとされた殺生を生業とする人々、いわゆる被差別部落の人々がキリスト教に救いを見出したのかもしれない」と思ったのだが、どうもそういうわけでもないらしい。
 まあ、今後の研究テーマとしよう。

 この映画を観てまず何より感じるのは、弾圧の嵐の中でもキリスト教に帰依しひたすら神(デウス)に祈る庶民の信仰の強さである。宣教師らが次々捕まって殺されていく逆境にもめげず、百姓らは司祭なしでも秘密の礼拝所に集い、十字架に祈り、生まれた子に洗礼を授ける。最後の司祭であるロドリゴとガルペが世闇に紛れて上陸すると、歓喜の表情で迎え入れ、二人をかくまい、食事の世話をし、礼拝を執り行ってもらい、告解する。役人に褒賞で誘惑されようが命を脅かされようが、決して口を割らない。
 この異端カタリ派のような純粋な信仰の強さに観る者は知らず涙する。それは信仰の強さとはすなわち苦しみの大きさを示すバロメータにほかならないと知るからである。江戸時代の最下層の百姓たちの生活ぶりは作中でも幾度か「獣のよう」と叙述されているが、飢えと重労働と圧政と年貢に苦しみ、来る日来る日も朝から晩まで身を粉にして働くばかり。この世にはなんの希望も期待も持てない。息子も孫もまた同じ生を送るしかない。そこからの唯一の出口がパライソすなわちキリストが約束するパラダイス(神の国)なのである。「この世」より「あの世」を重視すればこそ、彼らは潔く殉教していくことができる。
 
 親友であるガルベを失い最後の司祭となったロドリゴは筑後守井上に捕まって、棄教を強要される。目の前で自分を慕う信者たちが惨殺され、自らの拷問も間近に迫るロドリゴは、神に問いかける。
「なぜあなたは黙っているのですか?」
 ロドリゴは自らをゲッセマネのイエス、十字架上のイエスになぞらえる。

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 イエス・キリストの受難の際に神が黙っていた理由、カタリ派虐殺の際に神が黙っていた理由、アウシュビッツのユダヤ人虐殺の際に神が黙っていた理由、あらゆる戦場や虐待の場において神が今も黙っている理由を神学的知識ゼロのソルティは知らない。正直、「神なんかいない。人間が愚かなだけ」と思う。
 が、ここでマーティン・スコセッシは、遠藤周作は、神の「沈黙」の理由を用意する。
 自らの代わりに逆さ吊りの拷問を受けている日本人信者の苦痛のうめきを前に、ロドリゴの苦悩は頂点に達する。自分が棄教すれば彼らは助かる。自分が信仰を守り通せば、次々と信者が目の前で殺されていく。自分の頑なな信仰ゆえに!
 まさに悪魔のジレンマである。
 ついにロドリゴは目の前の地面に置かれたキリストの踏み絵に足をかける。 
 と、そのときはじめてキリストの声を聴く。

「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」 
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
(新潮文庫『沈黙』より引用)

 非常に感動的なシーンである。
 裁く神、犠牲や従順や信仰の証を求める神から、弱き者らと共に苦しむ神への転換である。父性的な神から母性的な神への変身である。
 この遠藤周作の解釈は小説発表当時カトリック教会からの批判を招いたそうだ。

 登場人物の一人キチジローの扱いもまた賛否のわかれるところである。
 ロドリゴをイエスに比した時にユダにあたるのがキチジローである。怯懦な性向を持つキチジローはキリストへの信仰を持ちながらも、信念を貫き通すことができない。家族全員が踏み絵を拒否して殉教したのにキチジローだけが裏切って一人命拾いした。ロドリゴとガルペを隠れキリシタンの村に案内する役目を立派に果たすも、あとにはロドリゴを役人に売り、役人に疑われれば何度も平気で踏み絵に足を乗せ、十字架のキリスト像に唾を吐きかけさえする。それでも、本心か演技か知らぬが神を信仰する気持ちは持ち続け、ロドリゴの行く先行く先追いかけ、たびたび許しを乞う。キリスト教信者としてでなくても、唾棄すべき虫けらのような人間として描かれている。取柄はせいぜい「どうしようもない己の弱さ」を知っていること。
 そのキチジローを最後にロドリゴは許し受け入れる。「ずっと一緒にいてくれてありがとう」とさえ言う。ユダを許しユダに感謝するイエス。棄教した者、裏切り者、弱い心をもつ者を見放さない神。これが真正キリスト教徒のカンにさわらぬわけがあるまい。
 ここに見えるのは、悪人正機説の親鸞である。浄土真宗である。
 で、冒頭の問いに戻る。
 なぜ、遠藤周作は、マーティン・スコセッシは、キリスト教でなければいけないのだろう?
 
 日本の自然、文化、風習、建築、着物など、江戸時代の日本の風物がきちんと描かれているところはさすがスコセッシである。考証がしっかりしていて、まったく違和感がない。
 外国の監督が日本を撮るとき、英語の喋れる中国人俳優を日本人役に起用することがよくあるが、ここでは日本人俳優を使っているので、これも違和感がない。中でも、弾圧側のトップである筑後守井上を演じるイッセー尾形は、単なる権威主義でも官僚主義でもない複雑な内面を匂わす個性的なお偉方を造形して見事の一語。隠れキリシタン村の長老イチゾウ役の笈田ヨシ、十字架にはり付けられ波に呑まれて殉教するモキチ役の塚本晋也も、年輪を感じさせる表情と渋さが光っている。日本には渡辺謙以外にも「いい役者」がいるということを世界に知らしめたのではないか。
 
 この映画にたびたび登場する踏み絵のシーンを見て思ったのだが、もし自分だったらどうするだろう?
 むろん、仏教徒であるソルティにとって踏み絵の対象となるのはブッダの御姿である。あるいは仏像なり経典である。
「命が惜しければ、この仏像を叩き壊せ。この経典を引き破れ」と言われたら、躊躇なくやるだろう。仏像はたんなる土のかけら、経典はたんなる紙に過ぎない。手塚治虫の『ブッダ』全巻を燃やせと言われたら、もったいないとは思いつつもやるだろう。
 それよりも「五戒を破れ」と言われるほうが抵抗あるかもしれない。「エッチをしろ(不邪淫戒)、酒を飲め(不飲酒)」と言われたら平気でやっちゃうと思うが、「お前は仏教徒か?」と聞かれて「そうでない」と嘘をつくのは(不妄語)、いささか難しい。それでも自分や他人の命がかかっていたら破るに雑作ない。「いや、自分はイスラム教徒です」「ヒンズー教徒です」とか相手が期待するままに言うだろう。
 仏像や経典や仏舎利や儀式を有難がる偶像崇拝は本来の仏教ではないと思うし、戒律は修行をスムーズに進展させると同時にサンガや社会の安定運営のためにあると思うので、それらを必要以上に重視しすぎるのも違うと思われる。
 仏教徒にとって重要なのは神でも仏でもなく仏法(ダンマ)である。ダンマとは「諸行無常、諸法無我、一切行苦、因縁」の真理である。
 この真理はそもそも「私のもの」ではないので、誰にも奪うことができない。
 ダンマを見ている限り、転ぶ(=仏教徒を辞める)ことはできなさそうだ。

P.S. 「神の沈黙」についてはマザー・テレサの伝記も参考になる。


鋸山20161207 036



評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
   

● 換骨奪胎、抱腹絶倒! 映画:『高慢と偏見とゾンビ』(バー・スティアーズ監督)

公開 2016年
製作国 イギリス、アメリカ
原作 セス・グレアム=スミス、ジェーン・オースティン(原案)
出演者
エリザベス: リリー・ジェームズ
ダーシー大佐: サム・ライリー
ウィカム: ジャック・ヒューストン
ジェーン: ベラ・ヒースコート
ビングリー: ダグラス・ブース
上映時間 108分

 あの奇天烈に面白い二次創作がどんなふうに映画化されているのだろう?
 期待と不安を抱いて観たら、期待のほうが凱歌を上げた。
 よくできている。

 19世紀初頭のイギリス上流階級の生活を女性視点で描いた古典文学と、20世紀怪奇映画の古典的シロモノであるゾンビの融合は、上品と下品、高踏と下劣、優美とグロ、洗練と野蛮、陽光と陰惨、牧歌的と墓場的、淑女的とアマゾネス的、の結合である。主役の美しき淑女たちの優美なドレスの裾をまくると、その太ももにはソンビ退治のための切っ先鋭い短剣が仕込まれているように、相反する二つの要素が同居するところにこのパスティーシュの面白さがある。
 ゆえに、オースティン原作で表現される上流階級の様相や雰囲気がしっかりと描かれれば描かれるほどに、二極の対比がくっきりと浮かび上がり、痛快なるおかしさにつながる。
 この映画製作者はそこがよく分かっている。ゾンビとの戦闘シーンこそCGが多用されているものの、上流階級の日常シーンではそれなりにちゃんとした時代考証のもと、それなりに見栄えするロケーションを行い、それなりに納得できる貴族の贅沢ぶりと優雅さとが表現されている。これがB級的に貧乏臭かったら設定が台無しになっただろう。

 ジェーン・オースティンが目にしたら腰を抜かしそうな換骨奪胎(ゾンビだけに!)な二次創作なのだが、不思議と主要なオースティン文学のエレメンツはちゃんと残っている。
 ユーモアと恋愛である。
 これあるから、いまや手垢やカビがついてマンネリと退屈の極致となっている‛死にぞこない’のゾンビ映画に終わっていない。
 主役の2カップル(ジェーン&ビングリー、エリザベス&ダーシー)+悪役ウィカムは、オースティン原作から抜け出てきたような適役ぶり。ポイント高い。


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 仏教的。 映画:『イレブン・ミニッツ』(イエジー・スコリモフスキ監督)

英題 11 Minutes
公開 2015年
脚本 イエジー・スコリモフスキ
上映時間 81分
製作国 ポーランド、アイルランド

 アガサ・クリスティの作品に『ゼロ時間へ』(原題:Towards Zero)というのがある。これは、殺人事件がまず最初に起こって、それから真犯人とトリック解明という解決に向けて時間が(叙述が)流れていく通常の推理小説とは趣向を異にし、様々なエピソードや閉塞した人間関係のもたらす結節点として殺人事件が最後に起こる――というクリスティの着想のユニークさの光る作品である。「ゼロ時間へ」とはすなわち、殺人事件(ZERO)に向かって秒読みされていく時間の流れのことである。名探偵ポワロもミス・マープルも登場しない地味な作品であるが、間違いなくクリスティの傑作のひとつに数えられる。ソルティの大好きな作品である。
 人間性に関心ある読者にとって真に興味深いのは、殺人事件が起こってからの名探偵の活躍ではなくて、事件が起こるまでの複雑な経緯や殺人犯の動機の成り立ちや「そのような悲劇にしか決着し得なかった」因縁を知ることにある。
 この映画を見ていて『ゼロ時間へ』が思い出されたのは、まさにこれが、機械仕掛けの時計のごとく正確に無慈悲に時を刻んでいく複数の物語(=因縁)が、一つの圧倒的な悲劇に結実していくさまを描いているように思えるからである。
 
 ワルシャワを舞台に、17時から17時11分までの11分間に起こる複数の出来事が並列的に描かれていく。
① 役を得るべく大物プロデューサーとの面接に出かける美人女優。その夫は結婚したばかりの妻の動向にやきもきし面接現場であるホテルに駆け付ける。
② 同じホテルの階下では不倫カップルがポルノビデオを観ている。休憩時間が終了すると男は窓から外に出て窓ふき掃除用のゴンドラに乗る。女はホテル前のバス停に向かう。
③ 明日結婚を控えているにもかかわらず、配達先の人妻との情事にふけるバイク便の青年。その父親は何の罪か知らぬがムショから出たばかりで公園でホットドッグの屋台をやっている。親子は約束通りホテル前で落ち合う。
④ その屋台でホットドッグを購入したのは朗らかなシスターたちと犬を連れた若い女性。その女性はいまさっき恋人と喧嘩別れしたばかり。
⑤ 下町の古いアパートメントで命がけの救命活動を行う救命士たち。現場には破水した妊婦と騒ぐ子供ら、いましも息を引き取った老いた男がいる。救急車は患者を乗せてホテル前を通過する。
⑥ 孤独な少年は質屋に強盗に入るが、質屋の主人は首を吊って死んでいた。パニックった少年は何も盗まずに質屋を立ち去り、やって来たバスに乗る。少年を追うように年老いた男も同じバスに乗る。男はついさっきまで川原で風景画を描いていた。
⑦ 少年と年老いた男を乗せたバスは、ホテル前のバス停で不倫中の女とシスターたちを乗せる。
⑧ そして、ゼロ時間がやって来る・・・・・・

 入り組んだように見える筋を見抜くためには一度観るだけでは不十分であろう。ソルティは倍速なしで2回観てしまった。
 入り組んだように見えるのは、脚本のせいでも、演出のせいでも、出来事自体の複雑さのせいでもない。11分の間に同時進行している複数の物語が、代わる代わる小出しに語られていくためである。本当なら、画面(スクリーン)を物語の数だけ分割して、ありのままにリアルタイムで表現され、かつ複眼的に観られるべきなのである。実際、すべては同時進行で起こっているのだから。

 それぞれの因縁によって、特定の「時」×特定の「場」に集められてしまった人々にもたらされる惨劇。天罰のごとき悲劇に見合うだけの罪を犯した者は、登場人物の中にどれだけいるのか。この作品はそんな運命の不可解さを描いている。
 映画のラストは、画面(スクリーン)がまさに細胞分裂のように無限に細かく分割されていく。物語は無数にあり、因縁は無限に生じ、我々は因縁の網の中にがんじがらめに取り込まれている。いかなる「時」のいかなる「場」も、因縁によって規定されている。そんな世のありようを示唆しているように感じた。

 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





 

● ディケンズと手塚治虫 映画:『われらが友』(ジュリアン・ファリノ監督)

1988年イギリス製作

 上映時間352分(6時間!)に及ぶBBC(英国放送)文芸ドラマ。原作はもちろん国民的文豪チャールズ・ディケンズの Our Mutual Friend (ちくま文庫『我らが共通の友』、間二郎訳)。ディケンズが完成させた生涯最後の長編小説である。このあとに別記事で取り上げた諸説紛々たる未完のミステリー『エドウィン・ドルードの謎』が来る。

 さすがBBCというべきか。CGを多用せず、丁寧にじっくりと、テムズの流れのように悠々たる物語展開をもって作られている。視聴者の忍耐強さを信用しているのか、無視しているのか。これが全米だったら、CG中心の映像で目まぐるしく場面転換し、エピソードが其処ここで端折られ、全編120分以内に収められてしまうことだろう。結果、本編というよりもダイジェスト版か予告編を観たかのような気がすることであろう。むろん、ディケンズ文学の香りや味わいなど一片も残るまい。
 ディケンズが創造した(端役に至るまで)ユニークな登場人物はむろんのこと、19世紀末のロンドンの風景や下層階級の風俗が見事に活写・再現されている。制作者のディケンズに対する愛情と尊敬の念が伝わってくる良心的な仕上がりである。
 
 この小説、社会派ミステリーと紹介されることが多い。
 巨額な遺産をめぐる殺人がらみのミステリーと階級社会への批判が話の核にあるのでそれで間違ってはいないのだが、このBBCドラマに関して言えば、明確に「ミステリータッチの恋愛ドラマ」である。
 主軸となるのは、二組の若い男女(ジョンベラ、ユージンリジー)が様々な障害を乗り越えて結ばれるまでの道のりを描くことにあり、置かれた環境と共に移り変わっていく4人それぞれの心模様を映し出すことにある。それ以外にも作中で結ばれるカップルが二組いるので、都合四組の男女が最後にはハッピーエンドを迎える大団円。恋愛万歳!
 ディケンズは作家人生最後についに恋愛至上主義を打ち出したのだろうか。それとも圧倒的に多いであろう女性視聴者を意識したBBCが、やはりお国の女流文豪ジェーン・オースティン風に、あるいはハーレクイン的に脚色した結果であろうか。原作を読んでいないのでなんとも言えない。
 
 ディケンズ小説の登場人物たちはとにかく個性的で面白い。
 お決まりの口癖や習い性となった奇矯な言動、肌身離さず持っている所有物などによって、当の人物の個性をくっきりと浮かび上がらせるのがディケンズの人物描写の手法というか得意技なのである。漫画的に言えば‘キャラが立って’いる。その意味でまさに映像にあつらえ向きである。
 この作品でも、人骨を含む骨董品屋を経営するネガティヴ思考の中年男Mr.ヴィナスや、主人公リジーの女友達で頭は弱いが気は強い人形作りのジェニーなど、個性的で愉快で愛すべきキャラがたびたび登場し、シリアスな物語の息抜きの役を果たしている。それぞれのキャラに対するディケンズの強い愛情を感じる。(同様の手法を駆使した天才を今一人挙げるなら我らが手塚治虫であろう。実際、ストーリーテリングの上手さ、魅力あるキャラクター創造、扱うテーマの広さと博識、社会正義、あふれる人間愛など、ディケンズと手塚治虫は双子と言っていいくらい似ている。)

 一方、キャラクターに典型性を付与した結果、ディケンズ作品の登場人物たちは「ステロタイプ、書き割りっぽい、紋切り型、深みがない」という評価にさらされることもある。たとえば、善玉は最後まで善玉(本作のボフィン夫妻のように)、悪玉はあくまで悪玉(ライダーフッドやサイラス・ウェッグのように)、善と悪はきっちり分けられ最後は勧善懲悪で幕を閉じる。つまり、登場人物の性格や心理に深みや複雑さがなく、表面的な(少年漫画的な)人間理解に留まっている・・・・。
 この評価は当たっていなくもないとは思うが、ディケンズがこれだけ大衆的人気を博した(博している)秘密の一つはまさに典型化されたキャラクターの魅力が発するユーモア&ペーソスと、水戸黄門のごとく分かりやすいストーリーにあるのだから、「ないものねだり」というべきだろう。手塚治虫の作品をして「漫画的だ!」とけなすようなものである。

 ただ一方、ディケンズにはダークサイド(人間心理の暗黒面)に対する偏愛のようなものがあったことは見逃せない。物語の最後で、世間や法や宗教倫理に合わせて犯罪者や異端者を断罪し相応の罰を与え、市井の百万読者の溜飲を下げ快哉を叫び起こすのを忘れないだけのプロ意識は当然持ってはいるものの、犯罪者の内面について共感にも似た深い関心を抱いていたことが筆致からうかがえる。それはプロ作家として当然持つ人間心理に対する興味であると同時に、社会から疎外され孤独に苛まれ屈折した者のうちにこそ、その社会のいびつさが凝縮されて顕われるということを感じ取っていたゆえだと思う。本DVDで解説をほどこしている著名な英文学者の小池滋はこう指摘している。

 一方で彼(ソルティ注:ディケンズ)は健全明朗な市民道徳の立場に立って、明晰な論理や推理の力によって悪を追跡し罰する姿勢も見せているが、それと同時に彼は、追跡される悪人、善良な社会から追放され指弾される者の立場に立って、その心理を鋭く分析するとともに、「健全」であると自負している一般社会の偽善と虚偽を痛烈に批判するのである。(創元推理文庫『エドウィン・ドルードの謎』解説P.434)

 ディケンズの小説には、そうした異端者が時折登場し、大方の読者の理解を拒むような複雑で不可解な人間性の一面を垣間見せる。本作にも、単なる悪役のための悪役ではない、悪役の典型性に収斂されない非常に複雑で屈折した性格を持つ男が登場する。堅物教師ブラッドリー・ヘッドストンがその人である。(Head Stoneとはまさに「石頭」だ)
 ヘッドストンは貧乏で恵まれない家庭環境の中、苦学して進学の道を切り開き、今は周囲に尊敬される教師となっている。このまま行けば、彼を愛する同僚女性教師と結婚し、いよいよ出世し順風満帆のはずであった。それが、担当する生徒の姉リジーに出会って一目惚れしたのがきっかけで、人生を狂わせてしまう。リジーのことがどうしても忘れられず、生徒をダシにして会う機会を作るが好意は得られない。諦めること叶わず、つきまとい、しまいにはストーカーのようになっていく。リジーと相思相愛の関係にあるユージンの存在を知り、嫉妬にかられ、ユージンを夜毎つけ回した挙句、ついに殺人を決行する。
 実を言えば、この堅物教師ヘッドストンの壊れていく精神、憑かれたように狂おしさを増していく表情、転落していく人生が、作中もっとも強い印象を残すのである。主人公たちの恋愛ゲームなんか蹴散らすほどに。
 演じているのはデビッド・モリシーという名の俳優だが、オスカー級の名演である。情緒不安定でプライドが高く自己中心的なヘッドストンが、愛によって理性を失い、次第に狂気を増していく様を、役柄への深い理解を持って怖いほどリアルに演じている。単なる紋切り型の悪役の範疇を超えて、愛情のない家庭に生まれ育ち、社会的成功だけを目的として生きてきた孤独な人間の魂の飢餓と危機と破綻を好演している。
 間違いなく、才能ある男優にとって、このヘッドストンこそ登場人物中最もやりがいのある、一度はやりたい役であろう。『レ・ミゼラブル』のジャベール警部同様に。

 ここまで来てようやく、『われらが友』のブラッドリー・ヘッドストンこそ、遺作となった『エドウィン・ドルードの謎』のジョン・ジャスパーに転生するのだと、大作家ディケンズが最後に書きたかったのは単なる恋愛ドラマではなく人間心理のミステリーだったのだと納得しうるのである。(「そのへんもまた手塚治虫と似ている」と最近『MW ムウ』を読み返して思った・・・)


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 映画:『オリバー・ツイスト』(ロマン・ポランスキー監督)

2005年イギリス、チェコ、フランス、イタリア制作。
上映時間 128分 

出演
  • オリバー・ツイスト: バーニー・クラーク  
  • フェイギン: ベン・キングズレー
  • アートフル・ドジャー: ハリー・イーデン  
  • ビル・サイクス: ジェイミー・フォアマン  

 近所のTUTAYAで見かけて気になっていたのだが、慎泰俊の『ルポ 児童相談所』を読んだのが後押しした。
 チャールズ・ディケンズ原作の19世紀ロンドン下町が舞台の少年の成長物語である。下層社会の人々に多大なる関心と愛情を持ち、上流階級の作る社会制度の欠陥や腐敗に厳しい批判の目を向けたディケンズの面目躍如たる代表作。
 登場人物一人一人がユニークで生き生きと描かれているのはディケンズ最大の特徴であるが、この映画でもそこがうまく踏襲されている。
 見どころの一番は役者の演技合戦にある。
 
 主演のバーニー・クラークは、純粋で気高い心と生まれついての賢さを持つ美少年としてオリバーを造型しているが、これは演技力というよりも‘地’であろう。
 
 虐待を受けて田舎からロンドンに逃げてきたオリバーが市場で出会い、オリバーを少年窃盗団の親方であるフェイギンに引き合わせるのがドジャー少年である。演じるハリー・イーデンが素晴らしい。周囲の大人役者を食う存在感とふてぶてしい魅力を放っている。THE END 後も「あの子はその後どうなったんだろう?」と気になってしまうほどの愛着を観る者に抱かせる。ウィキによると、イーデンはミュージカル『オリバー!』でまさにこのドジャー役を見たのがきっかけで役者を目指すことにしたそうだ。入魂の演技もうなづける。
 
 オリバー、ドジャーら少年たちに寝床と食事を与え、泥棒として教育し、老後の資金をしこたま貯めているのがフェイギン。原作でも最も印象に残るキャラクターである。演じるベン・キングズレーは、『ガンジー』(1982)でアカデミー主演男優賞を受賞した名優。さすがに凄い役作りである。人懐っこさと残忍さ、優しさと卑劣さ、楽天主義と悲観主義、したたかさと愚かさ、明るさと暗さ・・・光線の具合によって複雑な色合いを見せる織物のように、一見矛盾し合う人間性の様々な面を包含する人物としてフェイギンを描き出している。悪党なのに憎めない。
 
 そして、こちらは紛れもない悪党ビル・サイクス。怒りにまかせて自分の情婦を殴り殺し、最後はオリバーを人質にとって追っ手からの逃走を図るも事故死してしまう。単純な‘善悪図式’にはまる悪役であり、『レ・ミゼラブル』のジャベール警部ほどの、あるいは同じディケンズの『エドゥイン・ドルードの謎』に出てくるジョン・ジャスパーほどの複雑な心理的背景や意味深なセリフは与えられていない。2012年の『レ・ミゼ』におけるラッセル・クロウばりの心理描写や性格造型を期待される余地はない。
 だが、ここでのジェイミー・フォアマンの演技は神がかっている。とくに、情婦を殺し、人生ただ一人(一匹)の相棒であった飼い犬に逃げられてからのサイクスの鬼気迫る表情は、それまでどことなく牧歌的であった画面を一気にサスペンス方向にしめる。警察の探索から身を隠すフェイギンと少年たちの家に、陰気なオーラーをまとったサイクスが一人戻ってくる場面は、オリバーやドジャーならずともゾッとする。ここから主役は完全にサイクスになる。最終的にロープが首にからまって空中で縊死する衝撃的シーンまで、オリバーはもとよりドジャーやフェイギンも抑えて、観る者にもっとも強いインパクトを与える役者はジェイミー・フォアマンである。

 ところが、どっこい。
 
 物語の最後、オリバーが死刑囚の獄屋を訪れるシーンで、どんでん返しが起こる。死刑を待つ狂ったフェイギンの、なんとも哀れな、なんとも苦痛に満ちた、なんとも痛ましい言動に、観る者は胸を射抜かれる。それはユダヤ人であり、泥棒であり、老残の身であり、今や死刑囚である孤独なフェイギンの全生涯が凝縮された、フェイギンという一人の人間の精神と肉体の履歴をまざまざと映し出す瞬間であり、ベン・キングズレーの役者としての力量のまぎれもない証明である。

 最後の最後にテーブルの札をさらっていったのはガンジーであった。



評価:B-
 
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 勝気と狂気、あるいはマクベス夫人がここにいた! 映画:『悪霊島』(篠田正浩監督)

公開 1981年
原作 横溝正史
製作 角川春樹事務所
撮影 宮川一夫
上映時間 131分
キャスト
  • 金田一耕助/鹿賀丈史
  • 磯川警部/室田日出男
  • 三津木五郎/古尾谷雅人
  • 越智竜平/伊丹十三
  • 巴御寮人・ふぶき/岩下志麻
  • 真帆・片帆/岸本加世子
  • 刑部守衛/中尾彬
  • 刑部大膳/佐分利信
  • 吉太郎/石橋蓮司

 実に35年ぶりに観たのだが、そんなに久しぶりの気がしない。
 
 それはこの映画のあるシーンのインパクトが強すぎて、その後の35年間、何気ないきっかけからふとそのシーンが眼前に蘇えることが度々あったからである。そのシーンを悪夢でも見るかのように反芻してきた結果、映画『悪霊島』の記憶はソルティの中で、鮮烈なままにある。
 
 そのシーンとは・・・・・
 耳について離れない不吉で忌まわしい調子のコピー「鵺(ぬえ)の泣く夜は恐ろしい」――ではない。
 切り離された裸の片腕を咥えて犬が村中を走り回るシーン、でもない。
 目を背けたくなるほどにグロい岸本加世子の惨殺死体、でもない。
 気の触れたふぶきを演じる岩下志麻がしどけなく開いた着物の裾から片手を入れて自慰にふけるシーン、でもない(こんな衝撃的な場面があったことを今回見るまで忘れていた!)。
 むろん、とっちゃん坊や風の角川春樹が端役で登場する冒頭のジョン・レノンの死を伝えるニュースのシーン、でもない。
 
 ラストの岩下志麻の‘狂乱の場’がそれである。

 海水がひたひたと底を洗う、岩壁に幾たりかの男の骸(むくろ)が蜘蛛の餌食のごとく飾られた洞窟の暗闇。20年前に自らが産み落とし発作的に殺めた赤子――腰のところでくっ付いたシャム双生児――の骸骨を、いささか鼻にかかった粘着質な甲高い声で、「太郎丸~、次郎丸~」と狂おしく叫びながら、髪も着物も振り乱し、地面に這い蹲り、血眼になって探し回る巴御寮人(=ふぶき)の姿が、そして役に没入した岩下志麻の一線を超えた鬼気迫る演技が、強烈な印象を残したのである。

 岩下志麻と言えば、『極道の妻たち』、『鬼畜』、『紀ノ川』、『切腹』ほか沢山の名作に出演し、たくさんの印象に残る演技を披露している大女優である。ソルティは、彼女の代表作とされる『心中天網島』および『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』を観ていないので断言は控えるが、今のところ、岩下志麻の女優としての凄さを一番感じてしまうのが、この『悪霊島』なんである。
 おそらく彼女自身の中では、あるいは実生活上のパートナーでもある篠田監督の中では、70年代末に降って湧いたように訪れた横溝正史ブームに便乗するように企画・製作されたこの映画について、記憶の底のほうに埋もれてしまうほどのマイナーな価値しか感じていないかもしれない。実際、映画の出来自体は、たとえ往年の名キャメラマン宮川一夫の安定した職人技による支えがあるにしても、あるいは、佐分利信の存在感、室田日出男のいぶし銀、石橋蓮司の殺気、岸本加世子の天真爛漫をもって味付けに工夫しているにしても、成功作とは言い難い。同じ金田一耕助ものなら、野村芳太郎の『八つ墓村』(1977)や市川崑の『犬神家の一族』(1976)のほうが断然面白く、完成度が高い。
 
 しかし、岩下志麻という日本映画史に残る大女優の美貌と貫禄、「勝気と狂気」の演技において存分に発揮される他の女優には替えがたい個性的魅力を、40歳の円熟した色気が発散するままに艶やかにフィルムに移し撮った記念碑的作品として、『悪霊島』は決して軽んじてはならないと思うのである。
 
 勝気と狂気――。
 岩下志麻なら、理想的なマクベス夫人を演じられたであろうに・・・。




評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 愛ではどうにもならないこともある 映画:『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン監督)

2014年カナダ映画(フランス語)
上映時間 138分

 グザヴィエ・ドランは1989年カナダ生まれ。今もっとも世界から注目され、惜しみない喝采と賞賛に浴し、次回作が期待される映画監督である。「映画界の救世主」という声すらある。
 ちなみにゲイである。

 未亡人のダイアン(=アンヌ・ドルヴァル)には、15歳の可愛い息子スティーヴ(=アントワーヌ・オリヴィエ・ピロン)がいる。スティーヴは入居している施設で放火騒ぎを起こし強制退所させられてしまう。ダイアンは息子を引き取り、母子2人の生活が始まった。ありあまる若さと持って生まれた障害ゆえのスティーヴの型破りな行動に、ほとほと手を焼くダイアン。
 二人の家の向かいに住むカイラ(=スザンヌ・クレマン)は、夫の仕事の都合で転々とする生活を送っている。元高校教師だったカイラは精神的なストレスのため言語障害となり、現在静養中である。ひょんなことから知り合った3人は仲良くなり、スティーヴを中心に笑いの絶えない関係が育くまれてゆく。
 生きる希望を取り戻すダイアンだったが、スティーヴの放火で火傷を負った施設の入居者家族から治療費を支払うよう訴えを起こされ、窮地に陥る・・・・

 第67回カンヌ国際映画祭において審査員賞を受賞しただけあって、確かに傑出した才能に圧倒される。とても20代の青年が撮ったものと思われない。技術的にも内容的にも。早熟の天才か、幼形成熟(ネオテニー)か、あるいは‘アンファンテリブル(おそるべき子供)’か。(この‘アンファンテリブル’という言葉を聞くと、いつも『ティファーニで朝食を』で有名なアメリカの小説家トルーマン・カポーテを思い出す。そう言えばカポーテもゲイだった)

 この映画のテーマは「母と息子の愛」。陳腐にして永遠なる催涙テーマである。
 が、そこにひとひねり加えている。スティーヴは注意欠陥・多動性障害(ADHD)なのである。

注意欠陥・多動性障害(attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性(過活動)、不注意(注意障害)、衝動性を症状の特徴とする神経発達症もしくは行動障害。
次のような症状が特徴的である。
  • 簡単に気をそらされる、細部をミスする、物事を忘れる
  • ひとつの作業に集中し続けるのが難しい
  • その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる
  • じっと座っていることができない
  • 絶え間なく喋り続ける
  • 黙ってじっとし続けられない
  • 結論なしに喋りつづける
  • 他の人を遮って喋る
  • 自分の話す順番を待つことが出来ない
  (以上、ウィキペディア『注意欠陥・多動性障害』より抜粋)

 日本では、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害などと共に発達障害の一つに含まれ、発達障害者支援法(2005年成立)により、障害の早期診断・療育・教育・就労・相談など様々な公的支援が受けられるようになった。

 ただでさえ子育ては大変なものであるが、発達障害の子供を育てるのはどんなにしんどいものだろう。

 ソルティは社会福祉士の資格を取るための実習で障害者施設(生活介護)に行き、そこではじめて発達障害者(大人である)と近しく関わった。むろん、それまでも自分がそうとは気づかないだけで発達障害者(児)は周囲にいたであろうし、たまに電車の中で不可思議な言動をしている人に気づくと、他の乗客同様、見て見ぬフリ聞いて聞かぬフリをしていた。発達障害と統合失調症の区別すら、よく分かっていなかった。
 実習で出会ったのは、自閉症の人たちだった。

 まあ、大変であった。
  • 奇声を上げる。
  • 忙しい職員を捕まえて同じ質問を一日中し続ける。(職員はそのたび同じ答えを返す)
  • 部屋の中でぴょんぴょん飛び跳ねる。
  • 一つところでイスラム舞踏のように旋回し続ける。
  • いきなり自分の顔面を拳骨で思いっきり叩きだす。
  • 床に頭をゴンゴン打ち付ける。
  • コマーシャルの文句をオウムのように繰り返し言い続ける。
  • 大の男が急にぼろぼろ泣き出し、自らの腕を血が出るほどに噛む。
  • 突発的に他人に突っかかって、容赦なく殴り始める。
  • いきなり服を脱ぎ、全裸になる。
  • てんかん発作を起こす。 

 正直に告白する。
 最初に自閉症フロアに入ったとき、「いったいここは動物園か?」と思った。
 「この人たちとコミュニケーションなんかできるのだろうか?」
 「いや、それよりも身の危険はないだろうか?」

 ソルティは、職場(老人ホーム)で認知症高齢者のケアをしているので、わけのわからない言動には慣れていた。わけのわからない言動でも、本人の中ではちゃんと筋が通っていてそれなりの意味があるのだ、ということは知っていた。だから、本人の表情や仕草から、「いまどんな気持ちでいるのか」「何をしたいのか」「何がほしいのか」を読み取るよう努め、気持ちに沿うように介入する。なによりも本人の感情(不安や怒りや焦燥感や寂しさ)を受容し共感することが大切であり、その地点に立ってはじめて適切な介助もコミュニケーションも可能となる、と学んでいた。基本、同じ人間である以上、自閉症の人もそこは同じであろう。
 結論から言えば、確かに同じであった。受容・共感・傾聴・自己覚知の姿勢は対人援助の黄金律であり、相手が誰であろうと通用する。最終的には、自閉症の人たちに受け入れられ、仲良くなることができた。(誤解を恐れず言えば、自閉症の人はピュアで感情表現がまっすぐで何とも言えず可愛いらしかった。40歳のヒゲ面のおっさんでさえ!)
 ただ、認知症高齢者と違うのは、自閉症の彼らはまだ若く(20~40代)、エネルギーにあふれていて、腕力も脚力も人一倍強く、感情の起伏も激しいという点。そして、おそらく、自らが置かれている状況について、認知症の人よりもクリアに理解できている点。それだけに、当人も介助者も大変なのである。(自閉症スペクトラムという言葉があるように、自閉症にもいろいろなタイプが存在する。自閉症の作家東田直樹の本を読むと、外見からは見誤ってしまわれがちだが、多くの自閉症の人が高い知性と深い感情と瑞々しい感性を持っているらしいことが推測される)
 ともあれ、ソルティも慣れるまでは、彼らの破壊的なパワーと感情の暴発ぶりと予測のつかない行動に圧倒された。
 と同時に、彼らと毎日一緒に過ごしケアをしている職員に頭が下がった。
 本当に、並みの体力、並みの腕力、並みの精神力ではつとまらない仕事である。
 一例を挙げると、自閉症の人たちの行っているプログラムに「散歩」があった。毎日午後、隊列を組んで、近くの公園まで数時間かけての散歩に出かけるのである。自閉症の人は一般に自然に触れるのが好きだと言うこともあるし、若い彼らのエネルギーを幾分でも発散させて疲れさせ、家に帰って暴れないよう、つまり家族支援としても散歩は有効なのである。ソルティも毎日のように散歩に付き添った。
 毎日公園を散歩できるなんて、なんて楽な仕事かと思ったら大間違い。はしゃいだ彼らは、道中いろいろやらかすのである。ピンポンダッシュしたり、帽子を脱いでよその家の中に投げ込んだり、興味を示した看板の前で立ちどまって石のように動かなくなったり・・・。こういう一群を、来る日も来る日も、安全に気をつかいながら引率する職員の気力というかモチベーションはどこからくるのだろう? 給料だけでは到底つとまるまい。(まあ、認知症高齢者の介護の仕事も外野からはそう思われているのかもしれない・・・)

 しかし、職員は結局のところ赤の他人である。当事者と関わる時間と場所は限定されている。休日には自由な時間を満喫できる。仕事が嫌になったら辞めることもできる。
 それが許されないのは家族、とくに親である。
 実習施設には毎日、自閉症の子供(すでに大人であるが)を送迎する親たちが来ていた。ほぼ母親だった。中には自分がそろそろ介護施設の世話に・・・という年代の母親もいた。みな明るく、逞しく、実習生に過ぎない自分にも丁寧に挨拶してくれた。
 わが子が他の子供とどこか違うと気づいてから、あるいは自閉症と診断されてから、どれだけ苦労してきたことだろう。どれだけ周囲を気遣い、謝ってきたことだろう。
 若くして亡くなった戸部けいこ(1957 - 2010)の漫画『光とともに・・・ ~自閉症児を抱えて~』(秋田書店)を読むと、自閉症の子供を持った親御さんがどれだけ苦労するかがよくわかる。それだけに、わが子の成長を実感したり周囲から理解を得られたときは喜びも一入(ひとしお)であり、そこにドラマがあるわけだが・・・。この漫画の描かれた頃(2001~2010年)には日本でも自閉症についての研究や支援が進み、主人公光君の母親は然るべく場所に相談に行って専門家から自閉症児の育て方のコツなんかを伝授されている。同じ自閉症の子を持つ親たちと知り合い、励ましあいもする。それでも、やっぱり苦労の連続には違いない。
 ましてや、自閉症の原因が脳の障害にあることが判明していなかった時代、親の育て方に原因があるなどと誤解されていた時代は、針の筵を這いつくばって暗闇を手探りで進むような状況だったのではないかと想像する。

公園


 さて、映画の主人公スティーヴは、最終的には閉鎖病棟に入れられてしまう。母親の愛だけではどうにもならなかったのである。
 ある日、「旅行に行く」とスティーヴを騙して病院に車を乗り入れたダイアン。建物から3人の屈強な看護士が出てくるのを見て事態を悟ったスティーヴ。
 逃げるスティーヴ。
 追う看護士。
 泣き喚くダイアン。
 あっけにとられるカイラ。
 映画のクライマックスであり、おそらくほとんどの観客を泣かせるシーンであろう。
 たしかに切なすぎる。
 しかし、ソルティは泣けなかった。
 なぜなら、老人ホームで働くソルティの立ち位置は、上の「屈強な看護士」にあたるからだ。愛し合う家族を力づくで切り離す無情で無慈悲な塀の中のケアラー。映画の中で看護師が着ていたグレーの制服に象徴されるように、自由を希求する者を束縛する、事務的で非人間的な法(福祉制度)の手先。
 しかしなあ~。
 『カッコーの巣の上で』は75年のアメリカ映画である。法だって、福祉制度だって、施設だって、治療法だって、施設利用に対する世間の価値観だって、当時とはずいぶん変わっているだろうに。「家族を施設に入れること=家族を見捨てること」という固定観念こそ、当事者を苦しめる枠だろうに。
 母と息子の絆を表現するために施設収容による離別の悲劇を利用するというステレオタイプな筋書きが、映画界の新しい旗手にしては‘あまりにアナクロ’という気がした。



評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● ひがしむらや~まぁ♪ 映画:『あん』(河瀬直美監督)

製作年 2015年
製作国 日本・フランス・ドイツ合作
配給 エレファントハウス
監督 河瀬直美
原作 ドリアン助川
脚本 河瀬直美
キャスト
  • 樹木希林(徳江)
  • 永瀬正敏(千太郎)
  • 内田伽羅(ワカナ)
  • 市原悦子(佳子)
  • 浅田美代子(千太郎の店のオーナー)
視聴日 2015年12月31日

 昨秋多磨全生園を散策したときからこの映画を見ることは運命づけられていた(大げさ)。
 主人公徳江がその生涯のほとんどを暮らしてきた国立ハンセン病療養所多磨全生園が映画の最後のほうで出てくる。散策のときに歩いた道、眺めた木々や建物、買い物したショップ、昼食を食べたお店が映し出され、親近感を持った。実際、自分が見た風景がほとんど変わらない空気感と雰囲気(印象)で撮影されているのが不思議な気がした。

 樹木希林の上手さは言を重ねるまでもない。メリル・ストリープ同様、上手すぎて鼻につくのが欠点と思っていたのだが、この映画に限っては全体に漂白されたような‘はかなさ’を帯びて、名演というよりも好演(好ましい演技)というにふさわしい。目の中に入れても痛くない可愛い孫娘(内田伽羅)との共演の影響だろうか。
 その内田伽羅が素晴らしい。父親のモックン(本木雅弘)から譲り受けた涼しげで切れ長の目が魅力的である。『キューポラのある街』の吉永小百合を彷彿させる頑固な美少女ぶり。これからが楽しみな女優である。
 永瀬正敏、市原悦子、浅田美代子もそれぞれにイイ味を出している。これだけの役者を集めて、これだけの演技を引き出す川瀬監督が「なにか持っている(←古い)」のは間違いなかろう。

 この映画のロケは東京都東村山市で行われた。
 なので市民の名誉のために一言。
 ハンセン病患者であったことが周囲に知られて、徳子の働くどら焼き屋は閑古鳥が鳴くようになる。ハンセン病患者への偏見と差別を語るエピソードである。
 だが、東村山市民ならそんなことあり得ないと思う。少なくとも現代では。
 そんなことがあった日には志村けんが許すまい。 
 
 
 
評価:B-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● Oh,キャプテン 映画:『シークレット・ロード』(ディート・モンティエル監督)

2014年アメリカ映画。

 原題はBoule vard
 パリのシャンゼリゼや原宿の表参道のような「街路樹の植わった広い大通り」を言う。
 それを反転させた邦題「秘密の道」は、「人生の裏街道」といった意味合いだろう。テーマに沿った邦訳ではあるが、なんだかスパイミステリーと勘違いさせる。

 主演のロビン・ウィリアムズは2014年8月11日に自死した。
 この作品および同年に公開された『余命90分の男』(フィル・アルデン・ロビンソン監督)が彼の最後の主演作となった。ソルティ未見であるが、『余命90分の男』というタイトルそのものが彼の近い死を予告しているようで怖い気がするし、「限られた時間で今までの人生を少しでも挽回するために行動に出る(ウィキペディア参照)」という内容そのものも、この『シークレット・ロード』と重なるものがあり、ロビンはいったいどんな思いで撮影に臨んでいたのだろうと思い馳せざるを得ない。

 ロビン・ウィリアムズと言えば、20代に観た『いまを生きる』(ピーター・ウィアー監督、1989年)の教師役がもっとも印象に残っている。それが彼を知った最初でもあった。

名門高校でエリートとしての将来を周囲から押し付けられ、規則だらけの息の詰まるような寮生活を送っている生徒たちに、型破りな英語教師キーティング(=ロビン・ウィリアムズ)は詩の素晴らしさを教え、自分らしく生きることの大切さを訴える。彼の感化を受けた生徒の一人は、役者になりたいという自らの本心に気づくが、父親に猛反対され、命を絶ってしまう。学校側は生徒たちを扇動した責任をなじり、キーティングは退職に追い込まれる。クライマックスとなる最後の授業のシーン。校長の制止も聞かず、生徒たちは一人また一人と机の上に立ち、「Oh,キャプテン、マイ・キャプテン」と去り行くキーティングに呼びかける。
 
 
 ロビン・ウィリアムズは間違いなく成功した俳優の一人であるし、『いまを生きる』に限らず彼の出演作品は、前向きなエンディングで観る者の心に希望を灯すものか、あるいは彼の本領とも言えるコメディが多いので、自殺は意外であった。
 数ヶ月前から鬱病だったとか、レビー小体型認知でパーキンソン病だったとか、いろいろと原因は推測されている。ウィキペディアのプロフィールを読むと、20代の頃にアルコール依存症で苦しんでいる。おそらく、依存症とのたたかいの半生だったのだろう。
 
 『シークレット・ロード』は、クローゼットの初老のゲイの物語である。

 真面目で平凡な銀行員のノーランは、学生時代に知り合った妻ジョイ(=キャシー・ベイカー)と二人、何不自由ない穏やかな生活を送っている。子供はいないが夫婦仲はよく、友人にも恵まれ、職場では上司や同僚からの信頼も厚い。順風満帆の人生、安定した老後、誰が見ても幸福な男である。
 しかし、ノーランには誰にもいえない秘密があった。
 12歳のときに家族と遊びに行ったビーチで自分の同性愛傾向を自覚し、それ以後、それを押し隠して「ストレート(異性愛者)」のふりをして生きてきたのである。ジョイへの愛情は決して偽りではないけれど、真実、心(と体)の満たされる関係ではなかった。
 職場である銀行に訪れた若いゲイのカップル――二人は一緒に住む家のためのローンの相談をする――の姿に心乱れるノーラン。そんな折、上司から別の土地での支店長昇格の話を切り出される。
 
 職場から家に帰る途中、ノーランは‘裏通り’に寄り道し、男相手に売春している青年レオとふとしたきっかけで知り合いになる。たちまち真剣な恋に落ちてしまうノーラン(うぶい!) 繰り返しレオを買い(セックスはせず!)、携帯をプレゼントし、自らの連絡先を教え、友人に頼みレオにまともな仕事を斡旋しようとする。
 年齢違い、属する世界の違う二人のリスキーな関係は、破滅の予感十分である。
 でも、ノーランの開かれた感情の蓋はもはや閉ざすことができない。寝たきり状態で入院中の父親の枕元で、ついに彼はカミングアウトする。
「自分の心はビーチにいた12歳のままなんだ」
 
 最終的には、職場にも妻にも友人にも関係がばれて、ノーランはすべてを失う。妻も、仕事も、出世も、評判も、安定した老後も、愛するレオさえも・・・・・。
 
 ロビン・ウィリアムズの演技は真に迫っている。
 おそらく生涯一番の演技であろう。観ていると、実はこれは脚本でも演技でもなくて、ロビンの本当の姿なのではないか、本心の吐露ではないかと思えてくるほどだ。
 むろん、3度結婚して3人の子供を持ったロビンはゲイではなかったと思う。撮影時のロビン、すなわち死の直前のロビンが抱えていた心の陰影が、こうした彫りの深い見事な演技を可能にしたのであろうか。
 
「やり直すのに遅すぎることはない」
ノーランは新しい土地で新たな人生を生き始める。

 
 ロビン・ウィリアムズの冥福を祈る。

ハスの花ピンク
 
 
 
評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 映画:『黒部の太陽』(熊井啓監督)

1968年日活。

 黒部ダム建設の苦闘を描いた骨太の人間ドラマ。上映時間196分(3時間以上!)は破格の長さであるが、長さをまったく感じさせない脚本のうまさ、役者たちの演技の熱さ、セットのリアルさ、撮影技術や演出の見事さに舌を巻く。さすが、『地の群れ』、『サンダカン八番娼館』の熊井啓。
 ダム建設自体も大変な苦労だったろうが、この映画の撮影もまた相当な苦労だったろう。当時(50年代後半)の日本社会が持っていた人的・財的・技術的資源と巨大ダム建設に賭ける男たちのほとばしる情熱は、そのまま当時(60年代後半)の日本映画界が持っていた人的・財的・技術的資源と映画制作に賭ける男たちのみなぎる情熱そのものである。これが戦後の復興を可能ならしめたパワーというものだろう。
 ・・・どこかに消えて久しい(いい悪いは別として)。
 
 役者陣の充実ぶりも凄い。 
 石原裕次郎演じるキザな熱血男児・岩岡と、あこぎで破天荒なその父・源三(辰巳柳太郎)の父子相克は、『美味しんぼ』の山岡士郎と海原雄山のそれとダブる。リアリティあふれる辰巳柳太郎の土方の演技を見るだけでもこの映画を見る価値はある。
 父子と言えば、なんと宇野重吉・寺尾聰親子が共演している。これは寺尾聰(『ルビーの指輪』)の映画デビュー作(当時21歳)なのだ。
 
当時、石原プロの元にはスタッフ・キャスティングに必要な人件費が500万円しか無かった。石原裕次郎はこの500万円を手に、劇団民藝の主宰者であり、俳優界の大御所である宇野重吉を訪ね、協力を依頼した。宇野は民藝として全面協力することを約束し、宇野を含めた民藝の所属俳優、スタッフ、必要な装置などを提供。以降、裕次郎は宇野を恩人として慕うようになった。(ウィキペディア「黒部の太陽」より抜粋)
 
 この宇野重吉の相貌がいまの寺尾聰そっくりである――順序から言えば逆か。いまの寺尾聰が当時の宇野重吉そっくりなのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、映画撮影当時はここまで相似するとは予期できなかっただけに、なんだか感動する。
 
 三船敏郎と石原裕次郎。
 やはり昭和が生んだ大スターの名に恥じない存在感である。
 相性も悪くない。
 二人を一緒に並べて観ることで、俳優としての二人の資質の違いを実感した。
 石原裕次郎は、何をやっても石原裕次郎である。それ以外にはなれない。裕次郎としての個性が強すぎて、役柄よりも個性が前に出てしまう。吉永小百合や高倉健と同じである。
 一方、国際的俳優でアクの強さでは本邦随一とも言える三船敏郎は、演じる役に同化することができる。‘大スター三船敏郎’はスクリーンのうちに存在を消して、役柄になりきることができる。この映画でも、誠実で娘思いで渋さの際立つ建設会社管理職そのものになりきっている。たとえば、三船が出演していることを知らずにこの映画を観た人が、「あれ?この役者確かにどっかで見たことあるけれど、だれだったかなあ?」と思ってしまうほどの、確かな役の造形力、演技力である。
 三船敏郎は演技派だったのだ。 
 
 それから、気になったのは音楽。
 ソルティが最近はまっているマーラーの交響曲になんだか似ている。いつくかの主要な動機(=メロディ)もそうだし、様々な楽器の――特に金管楽器の使い方がマーラー風である。
 「誰だ? 音楽担当は?」
 クレジットを見直したら、黛敏郎だった。
 なるほど、大自然を相手の人間の涙ぐましい死闘、人知を尽くして苦難を克服した輝かしい一瞬の栄光、その裏に隠された幾多の犠牲と悲劇、そしてその後(バブル崩壊後)わが国に訪れることになる、生きるパワーの停滞と不安と虚しさ・・・・・。これらを表現するのにマーラーの音楽ほど適したものはないかもしれない。トンネル開通の浮かれ騒ぎの中で娘の死を知った三船敏郎の深い苦悩の表情とともに、この音楽もまた、黒部ダム建設が「人間の勝利、技術の光輝」という単純な‘プロジェクトX’図式に回収される話ではないことを物語っているようだ。

 

 
評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 


C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

●  奇跡の年 映画:『花咲く港』(木下恵介監督)

1943年松竹。

 木下監督のデビュー作。30歳の時の作品である。
 同じ年に世界のクロサワが『姿三四郎』でデビューしている。
 まさに奇跡の年だったのだ。
 
 どうってことのないコメディ映画なのであるが、新人のデビュー作とはやはり思えない。東山千栄子、小沢栄太郎、上原謙、水戸光子、笠智衆、東野英治郎、坂本武といった並み居るベテラン役者、人気役者を見事に使いこなしている。カメラワークも達者。テンポも絶妙。
 この翌年に世界映画史上まれに見る傑作反戦映画『陸軍』を撮っていることを思えば、木下は映画監督としては早熟の天才タイプだったのだろう。
 黒澤明に比べると、扱うテーマが日常を舞台とした恋愛や友情や家族ドラマなど地味なものが多かったためもあってか、現在に至るまで世界的には知名度も評価も低い。
 しかし、こと女性を描く力量に関して言えば、黒澤明は木下恵介の足元にも及ばない。木下作品に登場する女性たちのリアル感から見ると、黒澤作品の女性たちはまるで書割りである。『陸軍』の田中絹代、『華香』の岡田茉莉子と乙羽信子、『女の園』の高峰三枝子、『永遠の人』の高峰秀子を観れば、現代にも通用する木下のフェミニズムに賛嘆の念を禁じえない。

 黒澤明の作品が今以上に深く理解されることも高く評価されることもないであろう。
 が、木下恵介の作品は、これからますます理解される度を深めてゆくであろうし、それにつれて評価も高まってゆくであろうことは想像に難くない。
 むろん、自分は木下派である。


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


 
 

● 今さらのレリゴー♪ 映画:『アナと雪の女王』(監督クリス・バック、ジェニファー・リー)

2013年アメリカ(製作ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ)

 遅ればせながら、2014年に日本で主題歌ともども大ヒットしたアニメを鑑賞。
 ブーム真っ只中の時は乗りたくないという昔からのソルティの天邪鬼ゆえである。おかげでリアルタイムの話題にいつもついていけない。
 どうでもいいか。

 アニメだから、ディズニーだから、と馬鹿にしていたわけではないが、予想外に面白かった。
 子供たちを楽しませる分かりやすいストーリー、マジカルでビューティフルでファンタジーな映像、ユニークな脇のキャラクター(雪だるまのオラフ)、ミュージカルとして舞台にかけても十分通用するであろう高レベルの音楽表現・・・。
 さすがディズニーである。
 
 ソルティが「面白いな」と思ったのは、この物語はもともとアンデルセン童話『雪の女王』が下敷きになっていて、少年と少女の友情物語なわけである。それがエルサ(雪の女王)とアナの姉妹愛の物語に転換されている点がまず一つのポイント。
 姉妹愛の物語って考えてみると、あまりないのである。『若草物語』くらいしか思い浮かばん。『細雪』は姉妹愛とはちょっと違うしな。
 えっ、『美徳の不幸』? 
 ・・・・・。
 とりわけ、この物語のように妹が自分の命を犠牲にして姉を助けるといった話は聞いたことがない。
 姉エルサの魔力で全身が凍りついてしまったアナを救うには、「真実の愛の接吻」が要る。この仕掛けは、同じくディズニー映画になっている童話『眠れる森の美女』や『白雪姫』と変わりない。少女が夢見る「白馬に乗った王子様のキス」という永遠にして凡庸なファンタジーである。「壁ドン」はそのヴァリエーションだろう。
(むろん最後には、アナを本当に愛している勇敢な山男クリストフの熱いキスが、アナの氷を溶かし蘇らせるのだろう。二人はめでたく結ばれるのだろう。)
と、タカをくくって観ていた。(だってディズニーだもん。)
 が、アナを救ったのは恋人ではなかった。男ではなかった。
 姉に対する自らの「真実の愛」だったのである。
 自分で自分を救ったのだ。
 ここが新鮮で面白い。
 「もう少女たちには、救ってくれる男なんて必要ありません」という、ある意味フェミニズム的な匂いがしたのである。
 そう、アナの性格はまさに、従来のディズニー的な夢見る少女、魔法使いや王子様が現れて窮地を救ってくれるのをただ待っているだけの女性とは違っている。自分の手で人生を切り開いていく気概と勇気にあふれている。
 エルサもまた同様に男を必要としていない。魔法使いであることを隠して自分自身を閉じ込めて生きてきたエルサは、自らに備わった特別なパワーを恐れ、それがバレることで起こる周囲からの攻撃に怯えている。が、全国民を前にした戴冠式の日に、あっけなく正体がばれてしまう。パニックになって山奥に逃避するエルサ。
 ここで有名な「レリゴー(Let It Go)」が歌われる。
 観る者は「おやっ?」と思うのだ。
 エルサの気持ちを想像するに、自分の正体がばれたこと、周囲から「モンスター」と恐れられたこと、妹と決別したこと、女王の座を失ったこと、国を捨てて孤独に生きざるをえなくなったこと、そんな宿命を背負うよう生まれついたこと・・・等々を、哀しみ、怒り、嘆き、呪い、恥じているのではないかと普通なら考える。共同体から追放されるあぶれ者(男が多い)を描く従来の物語であれば、それが普通だろう。
 だが、エルサが歌に籠めるのは、世間体から解放された自由であり、「ありのままの」自分自身を何の遠慮なく生きることができる喜びであり、自らのパワーを思いのままに発揮できる高揚感なのである。
 やっぱり、フェミニズムっぽい。
 同年(2013年)に公開された『かぐや姫の物語』とくらべると、主人公の女性たちのベクトルが正反対であることに思い至る。かぐや姫は、山の中で男女の別なく自由奔放に育った楽しい幼年時代を捨てて、世間体と窮屈なしきたりや習慣に支配される貴族社会(=男社会)に身を置くことになり、自らのパワーを押し殺していった。嫁ぐべき男を選ばなくてはならない羽目に陥ったわけである。
 どっちの映画のほうが、現代の女性観客に受けるかといったら、それはもう言うまでもない。
 
 昨今のディズニーがこんなにフェミニズムだなんてびっくりした。
 まあ、そうでもなければ、女性たちにそっぽを向かれるだろう。 


評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 

● 映画:『ザ・ヴァンパイア ~残酷な牙を持つ少女~』(アナ・リリー・アミールポアー監督)

2014年アメリカ。

 原題はA GIRL WALKS HOME ALONE AT NIGHT.
 「深夜少女は一人帰宅する」といったところか。
 女ヴァンパイア(吸血鬼)を主人公とするホラー映画なのだが、まったく怖くもグロくもエロくもない。スリルもサスペンスもない。物語的な感動もない。
 では、失敗作なのか?
 そんなことはない。
 むしろ、新鮮な驚きに満ちたかなりの傑作である。
 
 モノクロの乾いた画面と抑えたセリフが初期のジム・ジャームッシュを彷彿させる。と思えば、幻想的なライティングと絵画的構図によりジャン・コクトーの『美女と野獣』ほかを想起する。と思えば、バッドシティという架空の町に漂う閉塞感、登場人物の虚無感は、まさにフィルム・ノワールこそがこの作品の出自と睨ませる。
 映画でしかできない表現の追求は、めくるめく体験である。
 これが女性監督によるデビュー作とは驚くほかない。

 次回作に期待。



評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





 

● 三國連太郎は立派な男です 映画:『善魔』(木下惠介監督)

1951年松竹。

 昭和の名優三國連太郎のデビュー作。このときの役名がそのまま芸名になった。
 共演は、やはり名優にして暗き瞳のダンディな森雅之と、名優にしてコケティッシュな瞳が蠱惑的な淡島千景。そして、永遠の朴訥にして泰然自若たる笠智衆。
 この存在感抜群な4人の演技合戦が最大の見物である。物語自体は出来は良くないし、一瞬社会派ドラマあるいはドストエフスキーばりの形至上学を匂わせる「善魔」というテーマの描き方も不発で、木下恵介の得意とするのは喜劇や風刺劇や人情劇であっても社会派ドラマや不条理劇ではない、ということを改めて認識する。ちなみに、善魔とは「人は善を貫くために時に魔の心を必要とする」といった意味合いの造語である。
 
 4人の演技合戦と書いたが、勝負ははじめから明白である。森雅之と淡島千景が圧倒的にいい。演技は巧いし、滴るようなデカダンの魅力に終始惹きつけられる。
 新人の三國連太郎が演技下手なのは仕方ないが、驚くのは我らが笠智衆も匹敵するくらい下手なんである。まったく、この作品が小津安二郎『晩春』(1949年)のあとに撮られているとは信じられない。『晩春』における笠の名演がウソのよう。小津マジックによって‘名優’と勘違いされたのは、実は原節子以上に笠智衆なのだと思う。
 もちろんソルティは原節子も笠智衆も大好き。三國連太郎も。
 スターの一番の魅力とは、演技力でなくて、醸し出す雰囲気(=個性)にある。
 新人の三國連太郎がまれに見るスター性を有しているのを確認できること。それがこの作品を観る価値あるものにしている最大の理由である。



評価:B-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
 

● 鉄の女に涙はあるか 映画:『パレードへようこそ』(マシュー・ワーカス監督) 

2014年イギリス映画。

 ゲイと炭鉱夫。
 片や、「男らしく」ない代表格と見下され、ファッションやアートやダンスやお喋りにうつつを抜かすナヨナヨした連中。片や、「男らしさ」の権化のように見做され、命を賭した危険な重労働を黙々とこなし、酒と博打と女と喧嘩に誇りをかける逞しい連中。
 ステレオタイプは無論承知。が、まあ、両者に抱く大方の最大公約イメージはこんなところだろう。つまり、「男」の両極に位置する、正反対の種族というわけだ。
 むろん、社会的な上下関係ははっきりしている。知性や収入の差はともかくとして、社会的に受け入れられ信頼を得ているのは炭鉱夫である。ジェンダーの既成価値を強烈になぞっているがゆえに・・・。
 そんな相反する2つの種族が出会い、戸惑い、衝突し、認め合い、共闘し、友情を育む。そんな‘他者との出会い’の一部始終を丁寧に描いたのがこの映画である。実話をもとに作られたというから驚く。

 時は1984年。新自由主義の御旗のもと「弱い者いじめ」政策を断行する‘鉄の女’サッチャー政権下、炭鉱労働者たちがストライキを起こす。それを支援すべく、ロンドンに住むレズビアンとゲイの若い活動家グループが勝手に街頭での募金活動を開始する。
 しかし、全国炭鉱労働者組合は同性愛者の集めた寄付金を快く受け取ってはくれない。活動家たちはウェールズにある小さな炭鉱町オンルウィンに直接寄付することにする。同性愛者のグループとは知らずに寄付を受け取った町の人々は、感謝の意を示すべく、活動家たちを町に招待する。バスを仕立て意気揚々と炭鉱町に向かうゲイ&レズビアンご一行。
 かくして、異質の者との邂逅が始まる・・・。
 
 テーマが現代的で面白い。
 というより、あらゆる‘物語’は基本的に「異質との出会い」を描いたものなんである。恋愛小説しかり、青春小説(ビルディングもの)しかり、ホラーしかり、SFしかり、ミステリーしかり、戦闘ものしかり、ジェネレーションギャップを描いたものしかり、純文学しかり・・・。
 はじめ「異質」であったものが、だんだんとその正体が明らかになってきて、主人公がその実質を‘理解できる’ことが分かってコミュニケーションへの道が開かれるか、あるいは‘理解できない’ことが顕わになって断絶して戦いに突入するか、というのが‘物語’の定石なのである。
 なので、もろ‘異質との出会い’をテーマに据えたこの映画が面白くないわけがない。両者間に芽生えた友情がセクシュアリティの違いを超えてゆく感動のクライマックスは、鉄の女と同族でなければ涙することであろう。
 日本語字幕だと分りにくいけれど、主人公のゲイの青年マーク(=ベン・シュネッツァー)がストライキをしている炭鉱労働者をテレビで見て突如支援しようと思い立ったのは、サッチャー政権に対する反感が共通することもあるけれど、それ以上に、炭鉱夫(miner)が少数者(minor)と同じ音(マイナー)を持つことから閃いたのである。マークが自分たちのグループにつけたLGSM(Lesbian & Gay Supporting Miners)という名前は、「炭鉱夫/少数者を支援するゲイ&レズビアン」という、ちょっとブラックユーモア風の意味があるわけである。
 
 役者の魅力も満載である。
 まず、炭鉱町オンルウィンの組合の中心人物クリフを演じるビル・ナイが印象的である。別記事でもこの俳優に注目したが、やっぱり名バイプレイヤーである。炭鉱町に生まれ育ち、今や町の中心人物として町民の尊敬と信頼を集めながら実は‘隠れゲイ’であるという、複雑なキャラクターをリアリティ豊かに演じている。
 同様に、‘隠れビアン’であったことをクリフ相手に告白するヘフィナ演じるイメルダ・スタウントンも、その研ナオコかギボアイコにも似た特異な顔立ちと女丈夫(じょじょうふ)なキャラとあいまって、愛すべき強烈な印象を残す。
 その他、LGSM結成当初唯一のレズビアンとして気を吐くダイ(=パディ・コンシダイン)のカッコよさ、両親に内緒で活動にかかわるも最後にはバレて家を離れる決心をする二十歳の青年ジョー(=ジョージ・マッケイ)の清潔感が光っている。この二人、きっといい役者になるだろう。

 異質な者との関わりにおいて重要なのはまずは‘勇気’である、とこの映画は教えてくれる。相手と関わろうとする勇気、自分をさらけ出す勇気、衝突を恐れない勇気、真実の自分および自分の感情を素直に認める勇気。道はそこから開けるのだ。
 そして、その‘勇気’をくれる最大のものが仲間であることも教えてくれる。
 ゲイやレズビアンといったホモセクシュアルは、当然ながらヘテロセクシャルな男と女から生まれ、その影響下に育つわけだから、基本的に親は仲間(=理解者)になりえない。どんなに理解ある進歩的で寛容な親であっても、ヘテロである限り‘仲間’にはなれない。そこには越え難い溝がある。
 ゲイやレズビアンは親との関係をある意味で‘あきらめる’ところから、自分の生きる場所を見つけざるをえない。ソルティ自身も、思えば「親に理解してほしい」なんて感情は二十代に捨ててしまっている。よく言えば、精神的に自立せざるをえない。そのぶん、仲間の存在が重要になってくる。悩みを打ち明け希望を共にする仲間が。自分の生きるモデルとなってくれる先達が。(日本の多くのゲイにとって最大にして最強の先達は美輪サマだろう。三島由紀夫では決してない。レズビアンにとっては誰だ? ジョディ・フォスター?)
 
 この映画を観てもう一つ実感することは、女という性の役割である。
 子供を産む性、子供を育てる性、家庭を亭主や子供にとって安心できる場所として維持する性、やりくりする性といった意味ももちろん馬鹿にならない。
 けれど、思うに、大きな声では指摘されないけれど無視することのできない女の大きな役割は、「男を教育する」ことにあるように思う。一人の男を教育しその価値観をも変えさせるほど力を持ち得るのは、世間広しと言えども、男の‘母である女’、‘妻である女’、‘娘である女’だけではないか。彼女らは、‘息子である男’、‘夫である男’、‘父親である男’の急所を握っている。なればこそ、世間相手に百戦錬磨の荒らぶる男たちも、彼女らの前では青菜に塩のごとくシュンとなってしまうのだろう。
 男尊女卑のイメージが強い炭鉱町が実のところ女性天下であるという逆説を、この映画は描いていて小気味よい。
 結論として、世の中は最終的に女性を味方につけた者の勝ちなのだろう。
 その秘密を知っているがゆえに、ソルティはフェミニストなのである。 

 さあて、もうすぐパレードがやって来る。
 今年はcharaが来るらしい。
 すげえ~!
 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 差別との出会い 映画:『人間の証明』(佐藤純彌監督)

1977年東映。

 八杉恭子(岡田茉莉子)は、戦後の混乱期、生きるためにパンパン(米兵相手の売春)をやっていて、知り合った黒人兵との間に男の子をもうけた。これが事件の発端となる。
 数十年後、大物政治家の妻となり、ファッションデザイナーとして頭角を現していた恭子のもとに、過去の亡霊が現れる。捨てたはずの息子ジョニーが、アメリカから恭子を慕ってやって来たのである。
 過去が世間に暴露されスキャンダルになれば、今の幸せが崩壊する。
 思い余った恭子はジョニー殺しを決行する。

 30年以上ぶりに観た。
 やっぱり、見ごたえある。
 主演の岡田茉莉子は当時44歳。10代のソルティの目には‘派手で年増のおばさん’という印象だったが、自分がその年齢を上回った今見ると、まぎれもなく美貌と貫禄あふれる大女優がそこにいる。三船敏郎、夏八木勲、長門裕之、鶴田浩二、峰岸徹、地井武男、ハナ肇、ジョージ・ケネディ・・・錚々たる豪華男優陣を足元にも寄せ付ず独り高みで輝いている。
 唯一匹敵すべき存在感を発揮しているのが松田優作。やはり子供の目には‘むさくるしい怖そうなオジサン’という印象だったが、当時28歳。今見ると青春の香りがふんぷんとするではないか。岡田茉莉子と互角に渡り合うのだから、やっぱり稀代の名優と言うべきだろう。
 そうそう。当時26歳の岩城滉一が岡田の息子役で出演している。本来の‘族’上がりの硬派イメージとは異なる「甘やかされ駄目になったお坊ちゃん」役で、そのギャップが楽しい。
 
 この『人間の証明』と並んで、少年ソルティが強い刻印を受けた70年代の日本映画に、松竹の『砂の器』(野村芳太郎監督、1974年)と、東宝の『犬神家の一族』(1976年)がある。いずれも大ヒットを記録し、森村誠一、松本清張、横溝正史の原作本は飛ぶように売れた。この3つの作品が、それまで『ゴジラ』や『モスラ』などの怪獣映画や、『地底探検』『人類SOS!』などの海外B級SF映画にしか興味なかったソルティが、日本の本格的大人映画に目覚めたきっかけであり、そこに共通して響いている重くて暗いテーマに愕然とし、「生きるって大変なのかも・・・」と洗礼を受けた最初であった。
 重くて暗いテーマとは、ずばり「過去」である。
 
 『人間の証明』『砂の器』『犬神家の一族』は、人に言えない悲惨な過去が、安穏にまた華やかに生きている現在の人間達を不意打ちする。主人公は、現在の生活と体面を守るために闇から立ち現れた過去を封じ込めようとして、殺人を犯す。そこが、単なる痴情のもつれや遺産をめぐる争いや衝動殺人とは違った、深い業とでも言うべき動機を主人公に担わせ、「犯人が捕まってよかった」「自業自得だ」という単純な勧善懲悪に終わらずに、観る者の胸のうちに犯人に対する哀れみと同情の念を催すのである。謎の解明は、決してすっきりした気分のいいものではなく、背景にある戦争・差別・偏見・因習に縛られた家制度などの不条理を浮かび上がらせ、映画館を出る観客たちは「人が歴史の中を生きることの重さ・不自由さ」について思いをめぐらせたのである。当時の大人たちは、その過去を、犯人たちの「物語」をリアルタイムで共有してもいた。
 
 パンパンもハンセン病もよくは知らなかった十代のソルティは、おそらく『人間の証明』や『砂の器』の真犯人の動機を十全に理解してはいなかった。主人公が過去を隠さなければならない理由を、大人の観客のようにはわかっていなかった。
 でも、差別というものがいかに残酷で、差別される人をどれほど苦しめ生きにくくするものなのかを、おぼろげながら感じとり、お茶の間ロードショーが終わって枕に頭をつけてもまだ物語を反芻していたのであった。
 後年自分もまた、差別を受ける側(マイノリティ)になるとは思いもせずに・・・。 

 そう、真の問題は「過去」ではない。「差別」だった。
 

評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


 

● 閻魔帳、あるいは映画:『クラウド アトラス』(ウォシャウスキー姉妹、トム・ティクヴァ監督)

2012年ドイツ、アメリカ、中国、シンガポール製作。

 不滅の魂の本質は言葉や行いによって決定され、その因果の中、我々は永遠に生き続ける。命は自分のものではない。子宮から墓場まで、人々は他者とつながる。過去も現在も。すべての罪が、あらゆる善意が、未来をつくる。

 登場人物の一人、未来社会に生きるクローン少女ソンミ451の上記のセリフに見るように、この映画の中心テーマは「輪廻転生、因果応報」である。
 『マトリックス』のウォシャウスキー姉妹(←姉弟←兄弟)が「輪廻転生」をテーマとした映画に挑んだと来れば、もう期待するなと言うほうが無理である。
 案の定、172分の長尺をものともせずに、3回繰り返して観てしまった。
 1度目は、筋を追い、登場人物を見極め、複雑な構成を見抜くのに手一杯で、「あれよあれよ」という間に終わってしまった。ウィキペディアクラウド アトラスで蓄えた知識をもとに臨んだ2度目は、構成の巧みさ、俳優たちに施されたメイキャップ技術の凄さ、テーマ曲『クラウド・アトラス六重奏』の美しさ――坂本龍一の『エナジー・フロー』に似ている――などに感心しつつ、ソンミの言葉に涙した。2倍速で観た3度目で、巧緻に編まれたこの作品の綻びが顕わになった。
 
 原作はデイヴィッド・ミッチェルというイギリス生まれの作家の同名小説である。日本に数年間住んでいたことがあり、日本人女性と結婚し、今は二人の子供とともにアイルランドに住んでいる。子供の一人は自閉症であり、その息子を理解したいと願っているところに出会ったのが、東田直樹の書いた『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』であった。東田の本を読んでいたく感激したミッチェルは、夫人と共に東田の本を英訳し、世界に紹介した。
 なんだか『クラウド アトラス』を地で行くような因縁めいた話である。
 
 この映画は、時代と場所の異なる6つの物語からできている。登場人物も、ただ一人(物理学者のルーファス・シックススミス)をのぞき、それぞれの物語間で合い重なることはない。
 ただ、それぞれの物語の主人公には共通の特徴がある。体のどこかに流れ星型の小さい痣(あざ)がついているのである。6人は、生きる時代・場所はむろん、性別も階級も性格も人種も様々であるけれど、この痣の存在を通じて、そして共通して与えられた使命――自由を求めて抑圧的な力と闘う――を通じて、同じ一つの魂の分離体であることが知られる。つまり、輪廻転生している。
 この仕掛けは、おそらくデイヴィッド・ミッチェルが敬愛する三島由紀夫の最後の小説『豊饒の海』4部作にヒントを得ているのだろう。あの小説では、転生する主人公の徴となったのは、脇の下の三つの黒子(ほくろ)であった。
 
 スピリチュアルの世界でよく言われるように、今生で深い関係を持つ人間とは前世でも出会っている。来世でも出会うことになる。前世で夫婦であった二人は、今生では兄弟であるかもしれない、来世では親子であるかもしれない、その次はライバルであるかもしれない・・・・とその都度間柄は変わるのだが、濃い因縁は継続するので、必ず近い関係性をもって転生し、出会うのである。だから、転生するときは個人ではなく、グループで、あたかも同じ船に乗った「運命共同体」として転生する。これをソウルグループ(魂の仲間)と言う。ソウルグループのうち、もっとも近しい、味方となる関係(夫婦や恋人になる場合が多い)をソウルメイトと呼ぶ。
 ソウルグループの成員は、各自がそれぞれ与えられたテーマ(役割)を有しており、そのテーマの成就・克服・繰り返しを目的に多生を生きることになる。これが「宿命」というやつだ。
 第6の物語の舞台が韓国のネオソウル(魂)であるのは偶然ではあるまい。

第1の物語「波乱に満ちた航海の物語」
●とき 1849年
●ところ 南洋の植民地~帰りの船中~アメリカ
●主人公が乗り越えるべきテーマ 奴隷制
●ソウルグループの人間模様
主人公 アダム・ユーイング(弁護士)=ジム・スタージェス
天敵 ヘンリー・グース(医師)
抑圧者 ハスケル・ムーア(奴隷商人、主人公の義理の父)
ソウルメイト オトゥア(逃亡奴隷)、ティルダ(主人公の妻)
●ソルティが連想した映画 『ルーツ』

第2の物語「幻の名曲の誕生秘話」
●とき 1931年
●ところ イギリス
●主人公が乗り越えるべきテーマ 同性愛への偏見
●ソウルグループの人間模様
主人公 ロバート・フロビッシャー(駆け出しの作曲家)=ベン・ウィショー
天敵 ヴィヴィアン・エアズ(有名な作曲家)
抑圧者 フロビッシャーの父親?(登場せず)
ソウルメイト ルーファス・シックススミス(物理学を専攻する学生、主人公の恋男)、ジョカスタ・エアズ(ヴィヴィアンの妻、ユダヤ人)
●第1の物語から継承するキー ユーイングの手記
●連想した映画 『アマデウス』『アナザー・カントリー』 

第3の物語「巨大企業の陰謀」
●ところ 1973年
●ところ アメリカ
●主人公が乗り越えるべきテーマ 資本主義の闇
●ソウルグループの人間模様
主人公 ルイサ・レイ(女性ジャーナリスト)=ハル・ベリー
天敵 ロイド・フックス(原発企業の社長)
抑圧者 ビル・スモーク(殺し屋)
ソウルメイト アイザック・サックス(フックスの会社の社員)、ジョー・ネピア(フックスの用心棒、ルイサの父親の戦友)、ルーファス・シックススミス(物理学者)
●第2の物語から継承するキー フロビッシャーの曲「クラウド・アトラス六重奏」
●連想した映画 『大統領の陰謀』『チャイナ・シンドローム』

第4の物語「ある編集者の大脱走」
●ところ 2012年
●ところ イギリス
●主人公が乗り越えるべきテーマ 管理施設の束縛
●ソウルグループの人間模様
主人公 ティモシー・カベンディッシュ(編集者)=ジム・ブロードベント
天敵 デニー・カベンディッシュ(ティモシーの実兄)
抑圧者 ノークス(老人ホームの女看護師)
ソウルメイト アーシュラ(ティモシーのかつての恋人)、ミークスほか(ホームからの脱走仲間)
●第3の物語から継承するキー 原稿『ルイサ・レイ事件』
●連想した映画 『大脱走』『グリーンマイル』

第5の物語「伝説のクローン少女と革命」
●ところ 2144年
●ところ ネオソウル(韓国)
●主人公が乗り越えるべきテーマ 人間性を剥奪する官僚システム
●ソウルグループの人間模様
主人公 ソンミ451(クローン人間)=ペ・ドゥナ
天敵 リー師(ソンミの雇用者)
抑圧者 メフィ評議員に代表される官僚制度
ソウルメイト ヘジュ・チャン(革命派の闘士)、ユナ939(ソンミの親友)
●第4の物語から継承するキー 映画『カベンディッシュの大災難』
●連想した映画 『マトリックス』『ブレードランナー』『未来世紀ブラジル』

第6の物語「崩壊した地球での戦い」
●ところ 2321年
●ところ どこかの島
●主人公が乗り越えるべきテーマ 心の中の悪魔
●ソウルグループの人間模様
主人公 ザックリー(平和的部族の一員)=トム・ハンクス
天敵 コナ族(食人する部族)
抑圧者 オールド・ジョージ(主人公の心の闇の顕現)
ソウルメイト メロニム(プレシエント族)、アダム(主人公の義弟)
●第5の物語から継承するキー ソンミの遺した言葉
●連想した映画 『ロード・オブ・ザ・リング』『猿の惑星』

 6つの物語の主人公が輪廻転生しているように、天敵や抑圧者やソウルメイトもまた一緒に転生している。
 天敵のテーマは「弱肉強食」である。なので、大概、成功者、権威、金持ちで生まれてくる。第6の物語に至っては、コナ族は文字通り「食人」を習慣としている。
 抑圧者のテーマは「この世には序列がある(差別主義)」。抑圧者は、既存体制を守るため、自由と平等を希求する主人公の意志をくじき、あの手この手を使って抑圧し虐げる。
 ソウルメイトは、理不尽な体制の中で自身虐待されながらも、主人公が真実に目覚めるきっかけをつくる(黒人のオトゥア、ユダヤ人のジョカスタ、アイザック・サックス、クローンのユナ939など)。あるいは、主人公の実質上のパートナーとなる(ティルダ、シックススミス、アーシュラ、ヘジュ・チャン、メロニムなど)。

 こんなふうに解析すると、この壮大な物語の構造が明瞭になってこよう。
 第6の物語は、「コナ族に食べられた部族の歯の化石」と「ザックリーが森の中で発見したアダム・ユーイングの翡翠色のボタン」というキーを介して、第1の物語に回帰する円環構造になっている。輪廻転生は時空を超えて永劫回帰するというわけだ。

 実際よくできているなあ~、面白いなあ~と感心するのだが、一方、どうしても綻びが目に付くのである。
 一つは、第3の物語(1973年)と第4の物語(2012年)が近すぎて、生まれ変わりに支障が生じている点である。
 第3の物語の主人公ルイサ・レイ(想定30代)と第4の物語の主人公ティモシー・カベンディッシュ(想定60代)は、たとえルイサが1973年に突然死したとしても、生まれ変わることができない。39年の時間差では不可能だ。第3の物語の‘天敵’ロイド・フックスから、第4の物語の‘天敵’デニー・カベンディッシュ――どちらの役もヒュー・グラントが演じている--もまた、生まれ変わるには時間が近すぎる。どうしたって同時代に生存している。
 むろん、生まれ変わりのルールの中には、一つの魂が必ずしも単独の個体(人間)に生まれ変わるのではなく、二人や複数の個体に分裂して生まれ変わることもある、という変則も唱えられている。そう理解すれば、第2の物語の主人公ロバート・フロビッシャーの魂が、第3の物語のルイサ・レイと第4の物語のティモシー・カベンディッシュの二人に分かれて転生したと考えることも不可能ではない。(二人は同年生まれと言う可能性はあり得る)
 しかし、それはどうにも苦しすぎる。何らかの説明の要するところだ。 
 時代設定は原作でも同様であるらしいから、これは多分、原作時点における設定ミスではないかと思う。

 今一つの綻び、というか失策は、同一の俳優を6つの物語通して出演させたことである。
 たとえば、トム・ハンクスは、
① 医師ヘンリー・グース(天敵)
② 安ホテルの支配人
③ アイザック・サックス(ソウルメイト)
④ ダーモット・ホギンズ
⑤ 映画『カベンディッシュの大災難』の主演俳優
⑥ ザックリー(主人公)
と、すべての物語にメイキャップを十全に凝らすことによる七変化(六変化)で出演している。
 
 ハル・ベリーも同様に、
① 植民地の農園で働くマオリ族
② ジョカスタ・エアズ(ソウルメイト)
③ ルイサ・レイ(主人公)
④ 出版パーティーのインド人女性
⑤ ソンミの首輪をはずす闇医者
⑥ メロニム(ソウルメイト)
と六変化している。
 
 ほかに、ヒューゴ・ウィーヴィング、ヒュー・グラント、ジム・スタージェスがすべての物語に何かしらの役で出ている。
 いずれの役者もさすが国際クラスの大スターの名に恥じない演じ分けをしている。とくに、5つの物語で‘抑圧者’を演じているヒューゴ・ウィーイングが光っている。第4の物語に登場するサディスティックな看護婦ノークスなどは、彼女を主人公にコメディ映画をシリーズ化したいほどの出色キャラである。 
 同一の役者が演じていることによって、観る者は勘違いしてしまう。トム・ハンクスが演じている登場人物が6回連続して輪廻転生している、ハル・ベリーの演じた登場人物達が同一の魂の継承者である、ヒューゴ・ウィーヴィングが演じている・・・・(以下同)と勘違いしてしまうのである。
 ネットでこの映画に関する感想や批評や解説を見ても、それどころか日本版の公式サイトを見ても、こうした見方がなされているのは驚きである。いわく、「トム・ハンクス演じる人物の魂が、6つの物語(転生)を通して様々な経験をして次第に成長していく物語である」とか、「近づいたり離れたりを繰り返しながら、時空を超えていつの日か達成する愛の物語」とか・・・。
 だが、‘抑圧者’を5回演じているヒューゴ・ウィーヴィング、および‘天敵’を4回演じているヒュー・グラントはともかくとして、トム・ハンクス、ハル・ベリー、ジム・スタージェスのそれぞれの物語における役の振り当てられ方には特段意味なり共通項なりを見出すことはできない。前の物語での行動の是非が、次の物語の役割を決定しているといった関連性はそこには見出せない。因果応報はない。たとえば、トム・ハンクス演じる人物は、悪人(第1話と第4話)になったり、善人(第3話)になったり、どちらでもない第三者であったり、なんら脈絡がない。6つの物語を通じて、次第に人間として成熟しているというわけでもない。
 同一の役者の演じる役が転生しているわけではない。そうであるなら、観る者は輪廻転生の秘密を探るために、6つの物語のどこにどの俳優がどの役で出演しているか、高度なメイキャップの技術を目を凝らして見抜かなければならなくなるではないか。そんな無駄なこと! たとえソルティのように3回繰り返して観る暇人がいて、見事に見抜いたとしても、特定の一人の俳優が演じる6つの役柄の連関性を解釈するのはどだい無理である。
 察するに、トム・ハンクスやハル・ベリーなどのオスカー級大スターを、莫大な出演料を払いながらたった一つの物語だけに使うことのもったいなさが、こうした六変化出演を許してしまったのであろう。出演する役者にとっても、このようないろいろな役柄を演じられるということが、出演を決めるための一つのインセンティヴになったのかもしれない。
 誰がどこに出演しているかを見抜くという作業も確かに映画鑑賞の楽しみの一つとして否定することはできないが、この作品に限っては、それによってテーマの混乱を招いてしまっただけのように思われる。
 第6の物語の主人公ザックリーが、悪夢にうなされるシーンがある。
 そこで彼が見るのは、医師ヘンリー・グースに毒殺されようとするユーイングであり、浴槽で拳銃自殺するフロビッシャーであり、車ごと海に沈められるルイサ・レイであり、体制に銃殺されるソンミ451である。つまり、前世の自分の姿である。
 やはり、流星型の痣を持つ人物が転生していると解釈するのが妥当だろう。

 作品の今一つの綻びは、あまりにシーンが切り換わるのが早過ぎて(忙しすぎて)、ドラマに深みが欠けてしまっている点である。
 時代も場所も異なる6つの物語を、コマ刻みにパラレルにつないでいく手法を取っている。第1の物語を10分やったら、第5の物語に飛び、せっかくのいい場面まで来たら、突如として第3の物語に飛ぶ・・・といったアクロバティックな編集をしている。6つの物語の類型(骨子)は、「主人公が体制の理不尽に気づき、それに抵抗して立ち上がる」という点で共通しているので、6つの物語を同時進行させることで、このテーマが6本の線で重複されることになり、より濃く浮き上がり、観る者により深く伝わる仕組みにはなっている。
 が、あまりにカッティングし過ぎである。目まぐるしくて疲れてしまう。一つの物語の醸し出すムードに浸る暇なく、次へ次へと追いやられてしまう。結果、ドラマというより予告編かダイジェスト版を見ているような軽薄な印象を持たされる。
 役者の重厚にして滋味深い演技によって、じっくりと人間の感情や心の襞や人間同士の綾を描き出すという、本来の‘ドラマ性’を欠いている。
 全体がロールプレイングゲームのようである。(昨今はそんな映画ばかりであるが)

 まあ、これだけ壮大深遠なストーリーを172分に凝縮したところに無理があるのかもしれない。むしろ、たった172分に凝縮させた監督の手腕こそ、褒め称えるべきなのかもしれない。
 もっとじっくり丁寧に撮るとしたら、おそらく上映時間2時間として3部作くらいは必要であろう。『風と共に去りぬ』『ベン・ハー』『ロード・オブ・ザ・リング』のような大作は予算的にも簡単には撮れないだろうし、また、テレビやコンピューターゲームの影響で観る者もすっかりセッカチになってしまっているから、大河が滔々と流れるような悠長な大作にははじめから背を向けてしまうリスクがある。
 そしてまた、これまでのフィルモグラフィを見るに、ウォシャウスキー姉弟もとい姉妹は、ゲーム的感覚の作品は得意だが、人間ドラマは苦手という気がする。で、残念ながら、輪廻転生を描くこの物語ほど‘人間ドラマ’を欲するものはないわけである。人間的な感情こそが、輪廻転生を引き起こすエネルギーとなるのだから。

 とても興味深い、面白い、繰り返し見たくなるほど刺激的な作品なのだが、やっぱり惜しい。偉大なる失敗作と言いたい。
 
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 ときに、『クラウド アトラス』というタイトルは、直訳すれば「雲の地図」になる。なるほど、映画のファーストシーンは青空に広がる白い雲のショットであった。
 私見だが、この「クラウド」はインターネット用語における「クラウド」、つまり個人の端末ではなくインターネット上(プロバイダーのホストコンピューターとか)に情報(データ)が保存される仕組み――を意味しているのではないだろうか。いっさいの個人の記録は、ネット上にUP(保存)されて貯蔵される。だから、端末が壊れても大丈夫。然るべき手続きでアクセスされた別の端末に、これまでの情報が新たにダウンロードされる。あたかも‘生まれ変わり’のように。
 「クラウド アトラス」とは、個体を超えたところに存在する思考・感情・無意識・言動・体験の巨大な貯蔵庫、いわゆるスピリチュアル業界で耳にする「アカーシックレコード」に相応するものを言っているのではないか。
 古くからの日本語で言えば「閻魔帳」である。 

 第6の物語で心に潜む悪魔オールド・ジョージに打ち勝ったザックリーは、運命の相手であるメロニムと一緒に、放射能汚染され生き物の住めなくなった地球を離れて、どこかの惑星に移り住む。
 これまでの長い物語は、この惑星の大地で満点の星空の下、年老いた片眼のザックリーが、メロニムとの間にできた孫たち相手に、過去500年以上にわたる自らの輪廻転生の物語を語っていたのだということが明らかになる。
 ザックリーは、もう生まれ変わることはないのだろうか?
 天敵を殺害し、心の悪魔を退治し、地球を離れ、輪廻転生をつぶさに思い出したザックリーは、解脱したのだろうか?
 それとも、惑星での命が尽きると共に、またどこか別の惑星に、別の人物として、生まれ変わるのだろうか?
 輪廻は続き、第7の物語があるのだろうか?
 


評価:(作品としては) C-(解析する楽しみを与えてくれたことで)B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!




 


 

● 映画:『エレナの惑い』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)

2011年ロシア。

 ベネチア映画祭グランプリに輝いた10年に1本出るか出ないかの傑作『父、帰る』(2004年)を撮ったアンドレイ・ズビャギンツェフの3作目。
 寡作な人だ。よく食って行けるな。
 
 高級アパートで金持ちの夫ウラジミルと何不自由ない生活を送る元看護婦のエレナ。
 ウラジミルには、快楽にしか興味がない甘やかされた一人娘カテリナがいて今も父親に寄生している。エレナには、養うべき妻と二人の子供がいるにかかわらず、仕事もせず職探しもせず、昼間から飲んだくれているぐうたらな息子セルゲイがいる。一家はエレナが定期的に持ってきてくれる年金を頼りに暮らしている。
 それぞれに自立できない駄目な子供に悩まされる再婚同士の初老の二人。だが、決して同等の立場にはない。
 一つは圧倒的な貧富の差。エレナは息子一家の窮乏を救うために、また孫のサーシャ(セルゲイの息子)の学資を工面してもらうために、夫ウラジミルに頭を下げなければならない。自分の娘には出費を惜しまないウラジミルも、血のつながりのないセルゲイ一家にはけんもほろろな態度を示す。
 今一つはロシア社会の根強い男性優位主義。家庭でエレナは、ウラジミルの家政婦兼ダッチワイフである。ウラジミルが一等いい部屋の立派なベッドで寝ている一方、エレナは台所脇のソファのような狭い寝台で朝を迎え、ウラジミルの気が向いた時だけ彼のベッドに呼ばれる。息子一家のためにウラジミルの機嫌を損ねたくないエレナには、それを拒む勇気はない。
 そんな‘どこにでもある’ような夫婦関係の中で、事件が起きる。ウラジミルはある日、ジムのプールで泳いでいる最中に心臓麻痺を起こす。なんとか無事退院すると、余命を危ぶんで、「明日遺言書を作成する」とエレナに宣言する。その内容は「娘カテリナにすべての財産を譲る」というもの。
 エレナは密かに決意する・・・・。

 息子や孫思いの平凡な中年女性が、夫殺しという冷酷な所業を犯す過程を、落ち着いたカメラワーク、スタイリッシュな映像美、そしてセリフに頼らない寡黙で丁寧な演出とで淡々と描いた秀作である。役者の演技も深みとリアリティがある。特にエレナを演じるナジェジダ・マルキナの存在感は、最初から最後まで観る者の目を釘付けにする。顔の表情の変化ではなく、体全体でもって心理を表現しているかのよう。彫刻的な演技とでも言おうか。

 この作品、男性優位社会に生きる女の業とか、妻たること(=夫)より母たること(=息子)を優先した女の性(さが)とか、神と倫理(モラル)を失った現代人の心の闇とか、いろいろな捉え方はできるだろう。
 ソルティ自身は、『父、帰る』と共通したテーマを根底に感じ取った。
 すなわち、父性の不在――である。

父性とは、子育てにおいて、父親に期待される資質のこと。子供を社会化していくように作動する能力と機能である。母性とは異なる質の能力と機能とをいうことが多い。母性が子供の欲求を受け止め満たして子供を包み込んでいくことを指すのに対して、父性というのは子供に忍耐・規範(社会的ルールや道徳)を教え、子供を責任主体として振るまうようにし、理想を示すものである。(ウィキペディア「父性」)
 
 ウラジミルは父権社会の中で威張ってはいるが、父親としては失格である。金儲けが第一で、娘をまっとうに育てられなかった。エレナの元亭主がどんな人間だったかは映画の中で語られていないが、セルゲイを見るからに、駄目な父親であったことは容易に知れる。父性の不在が、母親であるエレナとセルゲイを共依存にしたことが読み取れる。で、セルゲイときた日には、まったく父親の役目を果たしていない。セルゲイとその息子サーシャが一緒にソファに座って、スナックをぼりぼり食べながらテレビを見ているシーンがある。二人は親子というよりも兄弟である。セルゲイは、図体のでかい腹の出た子供である。結果、エレナが人殺しをしてまで学資を用立てしてやった孫のサーシャは、陰で不良仲間と一緒に弱者相手に暴力行為を働くような人間に育ってしまった。
 父権社会、男性優位主義の中で、しかし肝心の父性だけは欠如しているという矛盾が、描き出されているのである。
 父性の欠如した父権社会とはなんだろう?
 ルール無き権力国家か。
 モラル無き階級社会か。
 ・・・・・・中国か。
 
 映画は、夫の遺産を半分もらったエレナにくっついて、セルゲイ一家が安アパートからウラジミルの高級アパートに引っ越してくるシーンで終わる。もちろん、サーシャは無事進学の道を歩むことになる。エレナも、セルゲイ一家も、万々歳の結末である。危険を犯しての夫殺しの甲斐はあった(ように見える)。
 だが、むろん観る者は分かっている。
 この先、セルゲイ一家は決して幸福にはならないだろうと。一家は贅沢三昧の挙句、エレナの財産を食いつぶして、最後には路頭に迷うことになろうと。それでもセルゲイが働くことはなく、おそらくはアル中になるだろうと。サーシャは大学生活で問題を起こして誤った道に進むであろうと。エレナはそのすべてを見て、自分の犯した罪深き行為の無益を悟るであろうと。
 だが、もはや彼女には神は見つけられないだろうと――。
 
  
評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● そこに何が見えますか? 映画:『回転』(ジャック・クレイトン監督)

1961年アメリカ。

 原題はThe Innocents(無垢な者たち)
 原作はイギリスの文豪ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)の人気小説『ねじの回転』。
  ジェイムズ作品は、この小説以外にも、ニコール・キッドマン主演『ある貴婦人の肖像』(1996)、ヘレナ・ボナム・カーター主演『鳩の翼』(1997)、ユマ・サーマン主演『金色の嘘』(2000、原題は『黄金の盃』)などが映画化されている。総じて、イギリスの上流階級(有閑階級)の日常を舞台とした人間模様を丹念に品よく、しかし意地悪いほど辛辣に描いている。ソルティの最も好きな作家10人のうちの1人である。
 
 『ねじの回転』は、上質のホラー(怪談)&心理サスペンスで、読み始めたらラストまで一気に持っていかれるほど面白い。難解で、高踏的で、事件らしい事件も起こらず、スティーヴン・キングのような派手なストーリー展開を求める人にとっては「冗長で退屈」なジェイムズの作品群にあって、群を抜いた読みやすさ、ストーリー性、手ごろな長さ、すなわち一級の娯楽作品となっている。おそらく、最も多くの外国語に翻訳され、最も読まれているジェイムズ小説だろう。
 ソルティは大学生の時に原典および新潮文庫で邦訳を読んで、ダイヤモンドのような硬質な文体と卓抜な構成、ゴシックホラーとしての完成度に圧倒された。
 
 この小説の、あるいはヘンリー・ジェイムズという作家の最大の特徴は、「曖昧性」「秘密めいた匂い」にある。
 明らかな事実、シンプルでわかりやすい筋書き、登場人物の行動の心理的裏づけ、だれもが納得ゆく(少なくとも理解できる)結末・・・・こういったものをわざと回避することによって、作品にある種のヴェール(紗)をかける。煙幕を張る。最後にはすべてが白日の下に晒されてスッキリ、という読者が一般に期待するような通常の終わり方をよしとせず、いろいろな筋が謎のうちに曖昧にぼかされたまま、筆が置かれる。
 結果として、ジェイムズの小説は多義的な解釈が可能となり、常に論争の的になる。同じ一つの現象を、ある批評家は「A」と言い、ある作家は「B」と解し、ある読者は「C」と読み、ある研究者は「D」と唱える。で、喧々諤々の論争が始まる。
 論争など無意味だ。そこに正解などない。
 少なくともジェイムズ自身は自分の書いたものの解説をしなかった。曖昧のままほうっておくことが、最初からの彼の狙いだったのだろう。
 そうすることによって、議論を巻き起こし、作品に何か深い意味があるかのように思わせ、読者や批評家の関心を惹きつける、いわば手品師の目くらましのような高等テクニックだったのか。種を明かせば「なあんだ」で興味を失ってしまうことが分かっているから、わざと種を明かさずに「もったいぶった」書き方をしていたのか。
 そうとばかりも言えない。
 
 ジェイムズの小説を読む者は、それを自分なりに解釈することによって、結局「自分」を発見することになる。「A」と解釈した者は、(ジェイムズではなく)おのれの中に「A」という傾向や属性を持っているから、そのように解釈したわけである。同様に、「B」「C」「D」と解釈した者は、それぞれの内面に無意識的にせよ意識的にせよ、「B」「C」「D」を抱えているから、そう読んだ(読めた)のである。
 つまり、ジェイムズの小説は、各々が内面を知るためのリトマス試験紙みたいなものである。

 学生時代、『ねじの回転』や彼の短編集を読んで、その構成や文章の完成度とはあまりに対照的な、ストーリーそのものの「曖昧性」「不完全さ」に戸惑った。真相(=作者の意図)を知りたいと思い、ジェイムズ研究で有名な日本の評論家が書いたものを読んでみた。
 びっくりたまげた。まったく自分が想像しもしなかったような読み方(解釈)をしていたのだ。
「この小説のどこを、どう読めば、そんなふうに読めるのか???」
 同じ小説を読んで、こうも違った解釈があり得るとは思いも寄らなかった。
 自分も若かったので、「いや、これは違うだろう。自分の解釈のほうが妥当だろう。より作者(ジェイムズ)の真意に近いだろう」と心の中で思ったが、今となってみれば、自分もその評論家も同じ穴のムジナ。まんまとジェイムズの手の内に落ちたのであった。

 『ねじの回転』こそは、ジェイムズの「曖昧性」「秘密めいた匂い」がもっとも巧みに、もっとも効果的に打ち出された小説である。幽霊譚、すでに亡くなった人間による手記、という恰好の設定を得て、それらが全編に横溢している。
 結果、読み終わった後に‘解釈したくなる欲求’、‘その解釈を誰かに聞いてもらいたくなる欲求’に襲われる。その解釈こそは、読み手自身の欲望や抑圧の投影なのである。リトマス試験紙というより、心理テストのロールシャッハテストに近い。
 何に見えますか? 

ロールシャッハテスト


 1961年公開のこの映画、原作に忠実に作られている。
 イギリスの田舎の古い屋敷や美しい庭園の風情、登場人物のイメージ、ストーリー展開やセリフ回し、幽霊が登場するシーンのおぞましいまでの不吉感・・・・・・どれも原作を知る者にとって、これ以上にない見事な映画への移管ぶりである。カラーでなく、モノクロ撮影にしたことも画面の緊張感を高め、ストーリーの非現実感(=幻想性)を増幅する効果を上げている。

 上流階級の紳士に雇われて、田舎の美しい屋敷で、彼が後見する二人の幼い子供(マイルズとフローラ)の家庭教師をすることになったミズ・ギデンズ(=デボラ・カー)。可愛い兄妹になつかれて、家政婦のグロース夫人とも仲良くなり、はじめのうちは楽しく明るい日々を過ごしていた。が、屋敷内に‘いるはずのない’不吉な人影を見たことがきっかけとなり、だんだんと屋敷や子供たちの不自然さに気づく。グロース夫人に詰問したところ明らかになったのは、以前の使用人クイントと家庭教師ジョスルの間にいびつな愛憎関係があり、二人は屋敷内であいついで変死を遂げたとのこと。生前の二人が子供たちに「何かおぞましい」影響を与え、亡くなった今も「悪」へと引きずり込もうと企んでいるのを確信したギデンズは、子供たちを守るために一人悪霊たちと闘う決心をするのであった・・・・。

 家庭教師役のデボラ・カーの演技が秀逸である。『王様と私』『地上より永遠に』あたりが彼女の代表作だろうが、こんなに上手い女優だとは思わなかった。つつましやかな物腰のうちに凛とした美しさがあり、責任感ある子供思いの大人の女性という一面と、性的抑圧に置かれている想像力たくましい牧師の娘という一面を、見事に融合させた人物造型をつくっている。
 霊的現象が続き、子供たちがどうにも自分の思い通りにならないストレスの中、ギデンズが次第に精神的に追い込まれ、前の一面があとの一面へと傾斜してゆき、次第に常軌を失ってゆく過程を、リアリティ豊かに、鬼気迫る迫力で演じている。しかも、原作の持つ「曖昧性」を壊すことなく、ギデンズだけに見える幽霊が「現実なのか」、それとも彼女の「妄想なのか」、両義性を宿した巧みな演技で、観る者の想像力を刺激する。
 デボラ・カーはオスカーに縁のない名女優として有名だったそうだが、この演技でオスカー取れないとは・・・。

 この小説をはじめて読んだ時、自分はそこに「ホモセクシュアルなもの」を嗅ぎ取った。亡くなった使用人クイントは、マイルズ少年に‘何か邪悪なこと’を教えていたらしいのだが、それが同性愛ではないかと思ったのだ。オスカー・ワイルドの裁判に見るように、当時(19世紀)のイギリスなら、間違いなくそれは‘邪悪’だったから・・・。
 もちろん、自身の内面にあるものを作品に投影したゆえの解釈である。
 が、一生妻帯しなかったヘンリー・ジェイムズはどうやらホモセクシュアルな傾向を持っていたらしい。恋男に書いた恋文が最近見つかったというニュースを目にした。
 また、この映画の脚本を書いているのは、あの‘歩くカミングアウト’『ティファーニで朝食を』『冷血』で有名な作家トルーマン・カポーティである。
 制作者が確信犯的にそのあたりを意識しているのは間違いなかろう。

 一方、この映画ではミス・ギデンズの性的抑圧がかなり濃厚に描き出されている。聖職者の娘として厳しく躾けられ、羽目をはずすことなく(男を知らず)四十路を迎えたオールドミスが、襟元・袖口まできっちりとボタンを閉めた一分の隙のないドレスを着て、クイントとジョスルのみだらな逢引の妄想に取りつかれる。邸内で彼女が目にし、それをきっかけに不安に襲われる事物が、「塔」や「鳩」であるのは暗示的である。つまり、それらはフロイト的にいえば男根の象徴だからだ。
 欲求不満の抑圧の強いオールド・ミスが神経を病んで妄想にかられて起こした悲惨な事件。
 そういったトニー・リチャードソン監督『マドモアゼル』風の読み方も可能なのである。

 えっ? これもソルティの内面の投影だって?
 ほっとけ。
 

評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

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