ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価B-

● 映画:『黒部の太陽』(熊井啓監督)

1968年日活。

 黒部ダム建設の苦闘を描いた骨太の人間ドラマ。上映時間196分(3時間以上!)は破格の長さであるが、長さをまったく感じさせない脚本のうまさ、役者たちの演技の熱さ、セットのリアルさ、撮影技術や演出の見事さに舌を巻く。さすが、『地の群れ』、『サンダカン八番娼館』の熊井啓。
 ダム建設自体も大変な苦労だったろうが、この映画の撮影もまた相当な苦労だったろう。当時(50年代後半)の日本社会が持っていた人的・財的・技術的資源と巨大ダム建設に賭ける男たちのほとばしる情熱は、そのまま当時(60年代後半)の日本映画界が持っていた人的・財的・技術的資源と映画制作に賭ける男たちのみなぎる情熱そのものである。これが戦後の復興を可能ならしめたパワーというものだろう。
 ・・・どこかに消えて久しい(いい悪いは別として)。
 
 役者陣の充実ぶりも凄い。 
 石原裕次郎演じるキザな熱血男児・岩岡と、あこぎで破天荒なその父・源三(辰巳柳太郎)の父子相克は、『美味しんぼ』の山岡士郎と海原雄山のそれとダブる。リアリティあふれる辰巳柳太郎の土方の演技を見るだけでもこの映画を見る価値はある。
 父子と言えば、なんと宇野重吉・寺尾聰親子が共演している。これは寺尾聰(『ルビーの指輪』)の映画デビュー作(当時21歳)なのだ。
 
当時、石原プロの元にはスタッフ・キャスティングに必要な人件費が500万円しか無かった。石原裕次郎はこの500万円を手に、劇団民藝の主宰者であり、俳優界の大御所である宇野重吉を訪ね、協力を依頼した。宇野は民藝として全面協力することを約束し、宇野を含めた民藝の所属俳優、スタッフ、必要な装置などを提供。以降、裕次郎は宇野を恩人として慕うようになった。(ウィキペディア「黒部の太陽」より抜粋)
 
 この宇野重吉の相貌がいまの寺尾聰そっくりである――順序から言えば逆か。いまの寺尾聰が当時の宇野重吉そっくりなのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、映画撮影当時はここまで相似するとは予期できなかっただけに、なんだか感動する。
 
 三船敏郎と石原裕次郎。
 やはり昭和が生んだ大スターの名に恥じない存在感である。
 相性も悪くない。
 二人を一緒に並べて観ることで、俳優としての二人の資質の違いを実感した。
 石原裕次郎は、何をやっても石原裕次郎である。それ以外にはなれない。裕次郎としての個性が強すぎて、役柄よりも個性が前に出てしまう。吉永小百合や高倉健と同じである。
 一方、国際的俳優でアクの強さでは本邦随一とも言える三船敏郎は、演じる役に同化することができる。‘大スター三船敏郎’はスクリーンのうちに存在を消して、役柄になりきることができる。この映画でも、誠実で娘思いで渋さの際立つ建設会社管理職そのものになりきっている。たとえば、三船が出演していることを知らずにこの映画を観た人が、「あれ?この役者確かにどっかで見たことあるけれど、だれだったかなあ?」と思ってしまうほどの、確かな役の造形力、演技力である。
 三船敏郎は演技派だったのだ。 
 
 それから、気になったのは音楽。
 ソルティが最近はまっているマーラーの交響曲になんだか似ている。いつくかの主要な動機(=メロディ)もそうだし、様々な楽器の――特に金管楽器の使い方がマーラー風である。
 「誰だ? 音楽担当は?」
 クレジットを見直したら、黛敏郎だった。
 なるほど、大自然を相手の人間の涙ぐましい死闘、人知を尽くして苦難を克服した輝かしい一瞬の栄光、その裏に隠された幾多の犠牲と悲劇、そしてその後(バブル崩壊後)わが国に訪れることになる、生きるパワーの停滞と不安と虚しさ・・・・・。これらを表現するのにマーラーの音楽ほど適したものはないかもしれない。トンネル開通の浮かれ騒ぎの中で娘の死を知った三船敏郎の深い苦悩の表情とともに、この音楽もまた、黒部ダム建設が「人間の勝利、技術の光輝」という単純な‘プロジェクトX’図式に回収される話ではないことを物語っているようだ。

 

 
評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 


C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

●  奇跡の年 映画:『花咲く港』(木下恵介監督)

1943年松竹。

 木下監督のデビュー作。30歳の時の作品である。
 同じ年に世界のクロサワが『姿三四郎』でデビューしている。
 まさに奇跡の年だったのだ。
 
 どうってことのないコメディ映画なのであるが、新人のデビュー作とはやはり思えない。東山千栄子、小沢栄太郎、上原謙、水戸光子、笠智衆、東野英治郎、坂本武といった並み居るベテラン役者、人気役者を見事に使いこなしている。カメラワークも達者。テンポも絶妙。
 この翌年に世界映画史上まれに見る傑作反戦映画『陸軍』を撮っていることを思えば、木下は映画監督としては早熟の天才タイプだったのだろう。
 黒澤明に比べると、扱うテーマが日常を舞台とした恋愛や友情や家族ドラマなど地味なものが多かったためもあってか、現在に至るまで世界的には知名度も評価も低い。
 しかし、こと女性を描く力量に関して言えば、黒澤明は木下恵介の足元にも及ばない。木下作品に登場する女性たちのリアル感から見ると、黒澤作品の女性たちはまるで書割りである。『陸軍』の田中絹代、『華香』の岡田茉莉子と乙羽信子、『女の園』の高峰三枝子、『永遠の人』の高峰秀子を観れば、現代にも通用する木下のフェミニズムに賛嘆の念を禁じえない。

 黒澤明の作品が今以上に深く理解されることも高く評価されることもないであろう。
 が、木下恵介の作品は、これからますます理解される度を深めてゆくであろうし、それにつれて評価も高まってゆくであろうことは想像に難くない。
 むろん、自分は木下派である。


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


 
 

● 今さらのレリゴー♪ 映画:『アナと雪の女王』(監督クリス・バック、ジェニファー・リー)

2013年アメリカ(製作ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ)

 遅ればせながら、2014年に日本で主題歌ともども大ヒットしたアニメを鑑賞。
 ブーム真っ只中の時は乗りたくないという昔からのソルティの天邪鬼ゆえである。おかげでリアルタイムの話題にいつもついていけない。
 どうでもいいか。

 アニメだから、ディズニーだから、と馬鹿にしていたわけではないが、予想外に面白かった。
 子供たちを楽しませる分かりやすいストーリー、マジカルでビューティフルでファンタジーな映像、ユニークな脇のキャラクター(雪だるまのオラフ)、ミュージカルとして舞台にかけても十分通用するであろう高レベルの音楽表現・・・。
 さすがディズニーである。
 
 ソルティが「面白いな」と思ったのは、この物語はもともとアンデルセン童話『雪の女王』が下敷きになっていて、少年と少女の友情物語なわけである。それがエルサ(雪の女王)とアナの姉妹愛の物語に転換されている点がまず一つのポイント。
 姉妹愛の物語って考えてみると、あまりないのである。『若草物語』くらいしか思い浮かばん。『細雪』は姉妹愛とはちょっと違うしな。
 えっ、『美徳の不幸』? 
 ・・・・・。
 とりわけ、この物語のように妹が自分の命を犠牲にして姉を助けるといった話は聞いたことがない。
 姉エルサの魔力で全身が凍りついてしまったアナを救うには、「真実の愛の接吻」が要る。この仕掛けは、同じくディズニー映画になっている童話『眠れる森の美女』や『白雪姫』と変わりない。少女が夢見る「白馬に乗った王子様のキス」という永遠にして凡庸なファンタジーである。「壁ドン」はそのヴァリエーションだろう。
(むろん最後には、アナを本当に愛している勇敢な山男クリストフの熱いキスが、アナの氷を溶かし蘇らせるのだろう。二人はめでたく結ばれるのだろう。)
と、タカをくくって観ていた。(だってディズニーだもん。)
 が、アナを救ったのは恋人ではなかった。男ではなかった。
 姉に対する自らの「真実の愛」だったのである。
 自分で自分を救ったのだ。
 ここが新鮮で面白い。
 「もう少女たちには、救ってくれる男なんて必要ありません」という、ある意味フェミニズム的な匂いがしたのである。
 そう、アナの性格はまさに、従来のディズニー的な夢見る少女、魔法使いや王子様が現れて窮地を救ってくれるのをただ待っているだけの女性とは違っている。自分の手で人生を切り開いていく気概と勇気にあふれている。
 エルサもまた同様に男を必要としていない。魔法使いであることを隠して自分自身を閉じ込めて生きてきたエルサは、自らに備わった特別なパワーを恐れ、それがバレることで起こる周囲からの攻撃に怯えている。が、全国民を前にした戴冠式の日に、あっけなく正体がばれてしまう。パニックになって山奥に逃避するエルサ。
 ここで有名な「レリゴー(Let It Go)」が歌われる。
 観る者は「おやっ?」と思うのだ。
 エルサの気持ちを想像するに、自分の正体がばれたこと、周囲から「モンスター」と恐れられたこと、妹と決別したこと、女王の座を失ったこと、国を捨てて孤独に生きざるをえなくなったこと、そんな宿命を背負うよう生まれついたこと・・・等々を、哀しみ、怒り、嘆き、呪い、恥じているのではないかと普通なら考える。共同体から追放されるあぶれ者(男が多い)を描く従来の物語であれば、それが普通だろう。
 だが、エルサが歌に籠めるのは、世間体から解放された自由であり、「ありのままの」自分自身を何の遠慮なく生きることができる喜びであり、自らのパワーを思いのままに発揮できる高揚感なのである。
 やっぱり、フェミニズムっぽい。
 同年(2013年)に公開された『かぐや姫の物語』とくらべると、主人公の女性たちのベクトルが正反対であることに思い至る。かぐや姫は、山の中で男女の別なく自由奔放に育った楽しい幼年時代を捨てて、世間体と窮屈なしきたりや習慣に支配される貴族社会(=男社会)に身を置くことになり、自らのパワーを押し殺していった。嫁ぐべき男を選ばなくてはならない羽目に陥ったわけである。
 どっちの映画のほうが、現代の女性観客に受けるかといったら、それはもう言うまでもない。
 
 昨今のディズニーがこんなにフェミニズムだなんてびっくりした。
 まあ、そうでもなければ、女性たちにそっぽを向かれるだろう。 


評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 

● 映画:『ザ・ヴァンパイア ~残酷な牙を持つ少女~』(アナ・リリー・アミールポアー監督)

2014年アメリカ。

 原題はA GIRL WALKS HOME ALONE AT NIGHT.
 「深夜少女は一人帰宅する」といったところか。
 女ヴァンパイア(吸血鬼)を主人公とするホラー映画なのだが、まったく怖くもグロくもエロくもない。スリルもサスペンスもない。物語的な感動もない。
 では、失敗作なのか?
 そんなことはない。
 むしろ、新鮮な驚きに満ちたかなりの傑作である。
 
 モノクロの乾いた画面と抑えたセリフが初期のジム・ジャームッシュを彷彿させる。と思えば、幻想的なライティングと絵画的構図によりジャン・コクトーの『美女と野獣』ほかを想起する。と思えば、バッドシティという架空の町に漂う閉塞感、登場人物の虚無感は、まさにフィルム・ノワールこそがこの作品の出自と睨ませる。
 映画でしかできない表現の追求は、めくるめく体験である。
 これが女性監督によるデビュー作とは驚くほかない。

 次回作に期待。



評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!





 

● 三國連太郎は立派な男です 映画:『善魔』(木下惠介監督)

1951年松竹。

 昭和の名優三國連太郎のデビュー作。このときの役名がそのまま芸名になった。
 共演は、やはり名優にして暗き瞳のダンディな森雅之と、名優にしてコケティッシュな瞳が蠱惑的な淡島千景。そして、永遠の朴訥にして泰然自若たる笠智衆。
 この存在感抜群な4人の演技合戦が最大の見物である。物語自体は出来は良くないし、一瞬社会派ドラマあるいはドストエフスキーばりの形至上学を匂わせる「善魔」というテーマの描き方も不発で、木下恵介の得意とするのは喜劇や風刺劇や人情劇であっても社会派ドラマや不条理劇ではない、ということを改めて認識する。ちなみに、善魔とは「人は善を貫くために時に魔の心を必要とする」といった意味合いの造語である。
 
 4人の演技合戦と書いたが、勝負ははじめから明白である。森雅之と淡島千景が圧倒的にいい。演技は巧いし、滴るようなデカダンの魅力に終始惹きつけられる。
 新人の三國連太郎が演技下手なのは仕方ないが、驚くのは我らが笠智衆も匹敵するくらい下手なんである。まったく、この作品が小津安二郎『晩春』(1949年)のあとに撮られているとは信じられない。『晩春』における笠の名演がウソのよう。小津マジックによって‘名優’と勘違いされたのは、実は原節子以上に笠智衆なのだと思う。
 もちろんソルティは原節子も笠智衆も大好き。三國連太郎も。
 スターの一番の魅力とは、演技力でなくて、醸し出す雰囲気(=個性)にある。
 新人の三國連太郎がまれに見るスター性を有しているのを確認できること。それがこの作品を観る価値あるものにしている最大の理由である。



評価:B-
 
A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
 

● 鉄の女に涙はあるか 映画:『パレードへようこそ』(マシュー・ワーカス監督) 

2014年イギリス映画。

 ゲイと炭鉱夫。
 片や、「男らしく」ない代表格と見下され、ファッションやアートやダンスやお喋りにうつつを抜かすナヨナヨした連中。片や、「男らしさ」の権化のように見做され、命を賭した危険な重労働を黙々とこなし、酒と博打と女と喧嘩に誇りをかける逞しい連中。
 ステレオタイプは無論承知。が、まあ、両者に抱く大方の最大公約イメージはこんなところだろう。つまり、「男」の両極に位置する、正反対の種族というわけだ。
 むろん、社会的な上下関係ははっきりしている。知性や収入の差はともかくとして、社会的に受け入れられ信頼を得ているのは炭鉱夫である。ジェンダーの既成価値を強烈になぞっているがゆえに・・・。
 そんな相反する2つの種族が出会い、戸惑い、衝突し、認め合い、共闘し、友情を育む。そんな‘他者との出会い’の一部始終を丁寧に描いたのがこの映画である。実話をもとに作られたというから驚く。

 時は1984年。新自由主義の御旗のもと「弱い者いじめ」政策を断行する‘鉄の女’サッチャー政権下、炭鉱労働者たちがストライキを起こす。それを支援すべく、ロンドンに住むレズビアンとゲイの若い活動家グループが勝手に街頭での募金活動を開始する。
 しかし、全国炭鉱労働者組合は同性愛者の集めた寄付金を快く受け取ってはくれない。活動家たちはウェールズにある小さな炭鉱町オンルウィンに直接寄付することにする。同性愛者のグループとは知らずに寄付を受け取った町の人々は、感謝の意を示すべく、活動家たちを町に招待する。バスを仕立て意気揚々と炭鉱町に向かうゲイ&レズビアンご一行。
 かくして、異質の者との邂逅が始まる・・・。
 
 テーマが現代的で面白い。
 というより、あらゆる‘物語’は基本的に「異質との出会い」を描いたものなんである。恋愛小説しかり、青春小説(ビルディングもの)しかり、ホラーしかり、SFしかり、ミステリーしかり、戦闘ものしかり、ジェネレーションギャップを描いたものしかり、純文学しかり・・・。
 はじめ「異質」であったものが、だんだんとその正体が明らかになってきて、主人公がその実質を‘理解できる’ことが分かってコミュニケーションへの道が開かれるか、あるいは‘理解できない’ことが顕わになって断絶して戦いに突入するか、というのが‘物語’の定石なのである。
 なので、もろ‘異質との出会い’をテーマに据えたこの映画が面白くないわけがない。両者間に芽生えた友情がセクシュアリティの違いを超えてゆく感動のクライマックスは、鉄の女と同族でなければ涙することであろう。
 日本語字幕だと分りにくいけれど、主人公のゲイの青年マーク(=ベン・シュネッツァー)がストライキをしている炭鉱労働者をテレビで見て突如支援しようと思い立ったのは、サッチャー政権に対する反感が共通することもあるけれど、それ以上に、炭鉱夫(miner)が少数者(minor)と同じ音(マイナー)を持つことから閃いたのである。マークが自分たちのグループにつけたLGSM(Lesbian & Gay Supporting Miners)という名前は、「炭鉱夫/少数者を支援するゲイ&レズビアン」という、ちょっとブラックユーモア風の意味があるわけである。
 
 役者の魅力も満載である。
 まず、炭鉱町オンルウィンの組合の中心人物クリフを演じるビル・ナイが印象的である。別記事でもこの俳優に注目したが、やっぱり名バイプレイヤーである。炭鉱町に生まれ育ち、今や町の中心人物として町民の尊敬と信頼を集めながら実は‘隠れゲイ’であるという、複雑なキャラクターをリアリティ豊かに演じている。
 同様に、‘隠れビアン’であったことをクリフ相手に告白するヘフィナ演じるイメルダ・スタウントンも、その研ナオコかギボアイコにも似た特異な顔立ちと女丈夫(じょじょうふ)なキャラとあいまって、愛すべき強烈な印象を残す。
 その他、LGSM結成当初唯一のレズビアンとして気を吐くダイ(=パディ・コンシダイン)のカッコよさ、両親に内緒で活動にかかわるも最後にはバレて家を離れる決心をする二十歳の青年ジョー(=ジョージ・マッケイ)の清潔感が光っている。この二人、きっといい役者になるだろう。

 異質な者との関わりにおいて重要なのはまずは‘勇気’である、とこの映画は教えてくれる。相手と関わろうとする勇気、自分をさらけ出す勇気、衝突を恐れない勇気、真実の自分および自分の感情を素直に認める勇気。道はそこから開けるのだ。
 そして、その‘勇気’をくれる最大のものが仲間であることも教えてくれる。
 ゲイやレズビアンといったホモセクシュアルは、当然ながらヘテロセクシャルな男と女から生まれ、その影響下に育つわけだから、基本的に親は仲間(=理解者)になりえない。どんなに理解ある進歩的で寛容な親であっても、ヘテロである限り‘仲間’にはなれない。そこには越え難い溝がある。
 ゲイやレズビアンは親との関係をある意味で‘あきらめる’ところから、自分の生きる場所を見つけざるをえない。ソルティ自身も、思えば「親に理解してほしい」なんて感情は二十代に捨ててしまっている。よく言えば、精神的に自立せざるをえない。そのぶん、仲間の存在が重要になってくる。悩みを打ち明け希望を共にする仲間が。自分の生きるモデルとなってくれる先達が。(日本の多くのゲイにとって最大にして最強の先達は美輪サマだろう。三島由紀夫では決してない。レズビアンにとっては誰だ? ジョディ・フォスター?)
 
 この映画を観てもう一つ実感することは、女という性の役割である。
 子供を産む性、子供を育てる性、家庭を亭主や子供にとって安心できる場所として維持する性、やりくりする性といった意味ももちろん馬鹿にならない。
 けれど、思うに、大きな声では指摘されないけれど無視することのできない女の大きな役割は、「男を教育する」ことにあるように思う。一人の男を教育しその価値観をも変えさせるほど力を持ち得るのは、世間広しと言えども、男の‘母である女’、‘妻である女’、‘娘である女’だけではないか。彼女らは、‘息子である男’、‘夫である男’、‘父親である男’の急所を握っている。なればこそ、世間相手に百戦錬磨の荒らぶる男たちも、彼女らの前では青菜に塩のごとくシュンとなってしまうのだろう。
 男尊女卑のイメージが強い炭鉱町が実のところ女性天下であるという逆説を、この映画は描いていて小気味よい。
 結論として、世の中は最終的に女性を味方につけた者の勝ちなのだろう。
 その秘密を知っているがゆえに、ソルティはフェミニストなのである。 

 さあて、もうすぐパレードがやって来る。
 今年はcharaが来るらしい。
 すげえ~!
 


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 差別との出会い 映画:『人間の証明』(佐藤純彌監督)

1977年東映。

 八杉恭子(岡田茉莉子)は、戦後の混乱期、生きるためにパンパン(米兵相手の売春)をやっていて、知り合った黒人兵との間に男の子をもうけた。これが事件の発端となる。
 数十年後、大物政治家の妻となり、ファッションデザイナーとして頭角を現していた恭子のもとに、過去の亡霊が現れる。捨てたはずの息子ジョニーが、アメリカから恭子を慕ってやって来たのである。
 過去が世間に暴露されスキャンダルになれば、今の幸せが崩壊する。
 思い余った恭子はジョニー殺しを決行する。

 30年以上ぶりに観た。
 やっぱり、見ごたえある。
 主演の岡田茉莉子は当時44歳。10代のソルティの目には‘派手で年増のおばさん’という印象だったが、自分がその年齢を上回った今見ると、まぎれもなく美貌と貫禄あふれる大女優がそこにいる。三船敏郎、夏八木勲、長門裕之、鶴田浩二、峰岸徹、地井武男、ハナ肇、ジョージ・ケネディ・・・錚々たる豪華男優陣を足元にも寄せ付ず独り高みで輝いている。
 唯一匹敵すべき存在感を発揮しているのが松田優作。やはり子供の目には‘むさくるしい怖そうなオジサン’という印象だったが、当時28歳。今見ると青春の香りがふんぷんとするではないか。岡田茉莉子と互角に渡り合うのだから、やっぱり稀代の名優と言うべきだろう。
 そうそう。当時26歳の岩城滉一が岡田の息子役で出演している。本来の‘族’上がりの硬派イメージとは異なる「甘やかされ駄目になったお坊ちゃん」役で、そのギャップが楽しい。
 
 この『人間の証明』と並んで、少年ソルティが強い刻印を受けた70年代の日本映画に、松竹の『砂の器』(野村芳太郎監督、1974年)と、東宝の『犬神家の一族』(1976年)がある。いずれも大ヒットを記録し、森村誠一、松本清張、横溝正史の原作本は飛ぶように売れた。この3つの作品が、それまで『ゴジラ』や『モスラ』などの怪獣映画や、『地底探検』『人類SOS!』などの海外B級SF映画にしか興味なかったソルティが、日本の本格的大人映画に目覚めたきっかけであり、そこに共通して響いている重くて暗いテーマに愕然とし、「生きるって大変なのかも・・・」と洗礼を受けた最初であった。
 重くて暗いテーマとは、ずばり「過去」である。
 
 『人間の証明』『砂の器』『犬神家の一族』は、人に言えない悲惨な過去が、安穏にまた華やかに生きている現在の人間達を不意打ちする。主人公は、現在の生活と体面を守るために闇から立ち現れた過去を封じ込めようとして、殺人を犯す。そこが、単なる痴情のもつれや遺産をめぐる争いや衝動殺人とは違った、深い業とでも言うべき動機を主人公に担わせ、「犯人が捕まってよかった」「自業自得だ」という単純な勧善懲悪に終わらずに、観る者の胸のうちに犯人に対する哀れみと同情の念を催すのである。謎の解明は、決してすっきりした気分のいいものではなく、背景にある戦争・差別・偏見・因習に縛られた家制度などの不条理を浮かび上がらせ、映画館を出る観客たちは「人が歴史の中を生きることの重さ・不自由さ」について思いをめぐらせたのである。当時の大人たちは、その過去を、犯人たちの「物語」をリアルタイムで共有してもいた。
 
 パンパンもハンセン病もよくは知らなかった十代のソルティは、おそらく『人間の証明』や『砂の器』の真犯人の動機を十全に理解してはいなかった。主人公が過去を隠さなければならない理由を、大人の観客のようにはわかっていなかった。
 でも、差別というものがいかに残酷で、差別される人をどれほど苦しめ生きにくくするものなのかを、おぼろげながら感じとり、お茶の間ロードショーが終わって枕に頭をつけてもまだ物語を反芻していたのであった。
 後年自分もまた、差別を受ける側(マイノリティ)になるとは思いもせずに・・・。 

 そう、真の問題は「過去」ではない。「差別」だった。
 

評価:B-


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


 

● 閻魔帳、あるいは映画:『クラウド アトラス』(ウォシャウスキー姉妹、トム・ティクヴァ監督)

2012年ドイツ、アメリカ、中国、シンガポール製作。

 不滅の魂の本質は言葉や行いによって決定され、その因果の中、我々は永遠に生き続ける。命は自分のものではない。子宮から墓場まで、人々は他者とつながる。過去も現在も。すべての罪が、あらゆる善意が、未来をつくる。

 登場人物の一人、未来社会に生きるクローン少女ソンミ451の上記のセリフに見るように、この映画の中心テーマは「輪廻転生、因果応報」である。
 『マトリックス』のウォシャウスキー姉妹(←姉弟←兄弟)が「輪廻転生」をテーマとした映画に挑んだと来れば、もう期待するなと言うほうが無理である。
 案の定、172分の長尺をものともせずに、3回繰り返して観てしまった。
 1度目は、筋を追い、登場人物を見極め、複雑な構成を見抜くのに手一杯で、「あれよあれよ」という間に終わってしまった。ウィキペディアクラウド アトラスで蓄えた知識をもとに臨んだ2度目は、構成の巧みさ、俳優たちに施されたメイキャップ技術の凄さ、テーマ曲『クラウド・アトラス六重奏』の美しさ――坂本龍一の『エナジー・フロー』に似ている――などに感心しつつ、ソンミの言葉に涙した。2倍速で観た3度目で、巧緻に編まれたこの作品の綻びが顕わになった。
 
 原作はデイヴィッド・ミッチェルというイギリス生まれの作家の同名小説である。日本に数年間住んでいたことがあり、日本人女性と結婚し、今は二人の子供とともにアイルランドに住んでいる。子供の一人は自閉症であり、その息子を理解したいと願っているところに出会ったのが、東田直樹の書いた『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』であった。東田の本を読んでいたく感激したミッチェルは、夫人と共に東田の本を英訳し、世界に紹介した。
 なんだか『クラウド アトラス』を地で行くような因縁めいた話である。
 
 この映画は、時代と場所の異なる6つの物語からできている。登場人物も、ただ一人(物理学者のルーファス・シックススミス)をのぞき、それぞれの物語間で合い重なることはない。
 ただ、それぞれの物語の主人公には共通の特徴がある。体のどこかに流れ星型の小さい痣(あざ)がついているのである。6人は、生きる時代・場所はむろん、性別も階級も性格も人種も様々であるけれど、この痣の存在を通じて、そして共通して与えられた使命――自由を求めて抑圧的な力と闘う――を通じて、同じ一つの魂の分離体であることが知られる。つまり、輪廻転生している。
 この仕掛けは、おそらくデイヴィッド・ミッチェルが敬愛する三島由紀夫の最後の小説『豊饒の海』4部作にヒントを得ているのだろう。あの小説では、転生する主人公の徴となったのは、脇の下の三つの黒子(ほくろ)であった。
 
 スピリチュアルの世界でよく言われるように、今生で深い関係を持つ人間とは前世でも出会っている。来世でも出会うことになる。前世で夫婦であった二人は、今生では兄弟であるかもしれない、来世では親子であるかもしれない、その次はライバルであるかもしれない・・・・とその都度間柄は変わるのだが、濃い因縁は継続するので、必ず近い関係性をもって転生し、出会うのである。だから、転生するときは個人ではなく、グループで、あたかも同じ船に乗った「運命共同体」として転生する。これをソウルグループ(魂の仲間)と言う。ソウルグループのうち、もっとも近しい、味方となる関係(夫婦や恋人になる場合が多い)をソウルメイトと呼ぶ。
 ソウルグループの成員は、各自がそれぞれ与えられたテーマ(役割)を有しており、そのテーマの成就・克服・繰り返しを目的に多生を生きることになる。これが「宿命」というやつだ。
 第6の物語の舞台が韓国のネオソウル(魂)であるのは偶然ではあるまい。

第1の物語「波乱に満ちた航海の物語」
●とき 1849年
●ところ 南洋の植民地~帰りの船中~アメリカ
●主人公が乗り越えるべきテーマ 奴隷制
●ソウルグループの人間模様
主人公 アダム・ユーイング(弁護士)=ジム・スタージェス
天敵 ヘンリー・グース(医師)
抑圧者 ハスケル・ムーア(奴隷商人、主人公の義理の父)
ソウルメイト オトゥア(逃亡奴隷)、ティルダ(主人公の妻)
●ソルティが連想した映画 『ルーツ』

第2の物語「幻の名曲の誕生秘話」
●とき 1931年
●ところ イギリス
●主人公が乗り越えるべきテーマ 同性愛への偏見
●ソウルグループの人間模様
主人公 ロバート・フロビッシャー(駆け出しの作曲家)=ベン・ウィショー
天敵 ヴィヴィアン・エアズ(有名な作曲家)
抑圧者 フロビッシャーの父親?(登場せず)
ソウルメイト ルーファス・シックススミス(物理学を専攻する学生、主人公の恋男)、ジョカスタ・エアズ(ヴィヴィアンの妻、ユダヤ人)
●第1の物語から継承するキー ユーイングの手記
●連想した映画 『アマデウス』『アナザー・カントリー』 

第3の物語「巨大企業の陰謀」
●ところ 1973年
●ところ アメリカ
●主人公が乗り越えるべきテーマ 資本主義の闇
●ソウルグループの人間模様
主人公 ルイサ・レイ(女性ジャーナリスト)=ハル・ベリー
天敵 ロイド・フックス(原発企業の社長)
抑圧者 ビル・スモーク(殺し屋)
ソウルメイト アイザック・サックス(フックスの会社の社員)、ジョー・ネピア(フックスの用心棒、ルイサの父親の戦友)、ルーファス・シックススミス(物理学者)
●第2の物語から継承するキー フロビッシャーの曲「クラウド・アトラス六重奏」
●連想した映画 『大統領の陰謀』『チャイナ・シンドローム』

第4の物語「ある編集者の大脱走」
●ところ 2012年
●ところ イギリス
●主人公が乗り越えるべきテーマ 管理施設の束縛
●ソウルグループの人間模様
主人公 ティモシー・カベンディッシュ(編集者)=ジム・ブロードベント
天敵 デニー・カベンディッシュ(ティモシーの実兄)
抑圧者 ノークス(老人ホームの女看護師)
ソウルメイト アーシュラ(ティモシーのかつての恋人)、ミークスほか(ホームからの脱走仲間)
●第3の物語から継承するキー 原稿『ルイサ・レイ事件』
●連想した映画 『大脱走』『グリーンマイル』

第5の物語「伝説のクローン少女と革命」
●ところ 2144年
●ところ ネオソウル(韓国)
●主人公が乗り越えるべきテーマ 人間性を剥奪する官僚システム
●ソウルグループの人間模様
主人公 ソンミ451(クローン人間)=ペ・ドゥナ
天敵 リー師(ソンミの雇用者)
抑圧者 メフィ評議員に代表される官僚制度
ソウルメイト ヘジュ・チャン(革命派の闘士)、ユナ939(ソンミの親友)
●第4の物語から継承するキー 映画『カベンディッシュの大災難』
●連想した映画 『マトリックス』『ブレードランナー』『未来世紀ブラジル』

第6の物語「崩壊した地球での戦い」
●ところ 2321年
●ところ どこかの島
●主人公が乗り越えるべきテーマ 心の中の悪魔
●ソウルグループの人間模様
主人公 ザックリー(平和的部族の一員)=トム・ハンクス
天敵 コナ族(食人する部族)
抑圧者 オールド・ジョージ(主人公の心の闇の顕現)
ソウルメイト メロニム(プレシエント族)、アダム(主人公の義弟)
●第5の物語から継承するキー ソンミの遺した言葉
●連想した映画 『ロード・オブ・ザ・リング』『猿の惑星』

 6つの物語の主人公が輪廻転生しているように、天敵や抑圧者やソウルメイトもまた一緒に転生している。
 天敵のテーマは「弱肉強食」である。なので、大概、成功者、権威、金持ちで生まれてくる。第6の物語に至っては、コナ族は文字通り「食人」を習慣としている。
 抑圧者のテーマは「この世には序列がある(差別主義)」。抑圧者は、既存体制を守るため、自由と平等を希求する主人公の意志をくじき、あの手この手を使って抑圧し虐げる。
 ソウルメイトは、理不尽な体制の中で自身虐待されながらも、主人公が真実に目覚めるきっかけをつくる(黒人のオトゥア、ユダヤ人のジョカスタ、アイザック・サックス、クローンのユナ939など)。あるいは、主人公の実質上のパートナーとなる(ティルダ、シックススミス、アーシュラ、ヘジュ・チャン、メロニムなど)。

 こんなふうに解析すると、この壮大な物語の構造が明瞭になってこよう。
 第6の物語は、「コナ族に食べられた部族の歯の化石」と「ザックリーが森の中で発見したアダム・ユーイングの翡翠色のボタン」というキーを介して、第1の物語に回帰する円環構造になっている。輪廻転生は時空を超えて永劫回帰するというわけだ。

 実際よくできているなあ~、面白いなあ~と感心するのだが、一方、どうしても綻びが目に付くのである。
 一つは、第3の物語(1973年)と第4の物語(2012年)が近すぎて、生まれ変わりに支障が生じている点である。
 第3の物語の主人公ルイサ・レイ(想定30代)と第4の物語の主人公ティモシー・カベンディッシュ(想定60代)は、たとえルイサが1973年に突然死したとしても、生まれ変わることができない。39年の時間差では不可能だ。第3の物語の‘天敵’ロイド・フックスから、第4の物語の‘天敵’デニー・カベンディッシュ――どちらの役もヒュー・グラントが演じている--もまた、生まれ変わるには時間が近すぎる。どうしたって同時代に生存している。
 むろん、生まれ変わりのルールの中には、一つの魂が必ずしも単独の個体(人間)に生まれ変わるのではなく、二人や複数の個体に分裂して生まれ変わることもある、という変則も唱えられている。そう理解すれば、第2の物語の主人公ロバート・フロビッシャーの魂が、第3の物語のルイサ・レイと第4の物語のティモシー・カベンディッシュの二人に分かれて転生したと考えることも不可能ではない。(二人は同年生まれと言う可能性はあり得る)
 しかし、それはどうにも苦しすぎる。何らかの説明の要するところだ。 
 時代設定は原作でも同様であるらしいから、これは多分、原作時点における設定ミスではないかと思う。

 今一つの綻び、というか失策は、同一の俳優を6つの物語通して出演させたことである。
 たとえば、トム・ハンクスは、
① 医師ヘンリー・グース(天敵)
② 安ホテルの支配人
③ アイザック・サックス(ソウルメイト)
④ ダーモット・ホギンズ
⑤ 映画『カベンディッシュの大災難』の主演俳優
⑥ ザックリー(主人公)
と、すべての物語にメイキャップを十全に凝らすことによる七変化(六変化)で出演している。
 
 ハル・ベリーも同様に、
① 植民地の農園で働くマオリ族
② ジョカスタ・エアズ(ソウルメイト)
③ ルイサ・レイ(主人公)
④ 出版パーティーのインド人女性
⑤ ソンミの首輪をはずす闇医者
⑥ メロニム(ソウルメイト)
と六変化している。
 
 ほかに、ヒューゴ・ウィーヴィング、ヒュー・グラント、ジム・スタージェスがすべての物語に何かしらの役で出ている。
 いずれの役者もさすが国際クラスの大スターの名に恥じない演じ分けをしている。とくに、5つの物語で‘抑圧者’を演じているヒューゴ・ウィーイングが光っている。第4の物語に登場するサディスティックな看護婦ノークスなどは、彼女を主人公にコメディ映画をシリーズ化したいほどの出色キャラである。 
 同一の役者が演じていることによって、観る者は勘違いしてしまう。トム・ハンクスが演じている登場人物が6回連続して輪廻転生している、ハル・ベリーの演じた登場人物達が同一の魂の継承者である、ヒューゴ・ウィーヴィングが演じている・・・・(以下同)と勘違いしてしまうのである。
 ネットでこの映画に関する感想や批評や解説を見ても、それどころか日本版の公式サイトを見ても、こうした見方がなされているのは驚きである。いわく、「トム・ハンクス演じる人物の魂が、6つの物語(転生)を通して様々な経験をして次第に成長していく物語である」とか、「近づいたり離れたりを繰り返しながら、時空を超えていつの日か達成する愛の物語」とか・・・。
 だが、‘抑圧者’を5回演じているヒューゴ・ウィーヴィング、および‘天敵’を4回演じているヒュー・グラントはともかくとして、トム・ハンクス、ハル・ベリー、ジム・スタージェスのそれぞれの物語における役の振り当てられ方には特段意味なり共通項なりを見出すことはできない。前の物語での行動の是非が、次の物語の役割を決定しているといった関連性はそこには見出せない。因果応報はない。たとえば、トム・ハンクス演じる人物は、悪人(第1話と第4話)になったり、善人(第3話)になったり、どちらでもない第三者であったり、なんら脈絡がない。6つの物語を通じて、次第に人間として成熟しているというわけでもない。
 同一の役者の演じる役が転生しているわけではない。そうであるなら、観る者は輪廻転生の秘密を探るために、6つの物語のどこにどの俳優がどの役で出演しているか、高度なメイキャップの技術を目を凝らして見抜かなければならなくなるではないか。そんな無駄なこと! たとえソルティのように3回繰り返して観る暇人がいて、見事に見抜いたとしても、特定の一人の俳優が演じる6つの役柄の連関性を解釈するのはどだい無理である。
 察するに、トム・ハンクスやハル・ベリーなどのオスカー級大スターを、莫大な出演料を払いながらたった一つの物語だけに使うことのもったいなさが、こうした六変化出演を許してしまったのであろう。出演する役者にとっても、このようないろいろな役柄を演じられるということが、出演を決めるための一つのインセンティヴになったのかもしれない。
 誰がどこに出演しているかを見抜くという作業も確かに映画鑑賞の楽しみの一つとして否定することはできないが、この作品に限っては、それによってテーマの混乱を招いてしまっただけのように思われる。
 第6の物語の主人公ザックリーが、悪夢にうなされるシーンがある。
 そこで彼が見るのは、医師ヘンリー・グースに毒殺されようとするユーイングであり、浴槽で拳銃自殺するフロビッシャーであり、車ごと海に沈められるルイサ・レイであり、体制に銃殺されるソンミ451である。つまり、前世の自分の姿である。
 やはり、流星型の痣を持つ人物が転生していると解釈するのが妥当だろう。

 作品の今一つの綻びは、あまりにシーンが切り換わるのが早過ぎて(忙しすぎて)、ドラマに深みが欠けてしまっている点である。
 時代も場所も異なる6つの物語を、コマ刻みにパラレルにつないでいく手法を取っている。第1の物語を10分やったら、第5の物語に飛び、せっかくのいい場面まで来たら、突如として第3の物語に飛ぶ・・・といったアクロバティックな編集をしている。6つの物語の類型(骨子)は、「主人公が体制の理不尽に気づき、それに抵抗して立ち上がる」という点で共通しているので、6つの物語を同時進行させることで、このテーマが6本の線で重複されることになり、より濃く浮き上がり、観る者により深く伝わる仕組みにはなっている。
 が、あまりにカッティングし過ぎである。目まぐるしくて疲れてしまう。一つの物語の醸し出すムードに浸る暇なく、次へ次へと追いやられてしまう。結果、ドラマというより予告編かダイジェスト版を見ているような軽薄な印象を持たされる。
 役者の重厚にして滋味深い演技によって、じっくりと人間の感情や心の襞や人間同士の綾を描き出すという、本来の‘ドラマ性’を欠いている。
 全体がロールプレイングゲームのようである。(昨今はそんな映画ばかりであるが)

 まあ、これだけ壮大深遠なストーリーを172分に凝縮したところに無理があるのかもしれない。むしろ、たった172分に凝縮させた監督の手腕こそ、褒め称えるべきなのかもしれない。
 もっとじっくり丁寧に撮るとしたら、おそらく上映時間2時間として3部作くらいは必要であろう。『風と共に去りぬ』『ベン・ハー』『ロード・オブ・ザ・リング』のような大作は予算的にも簡単には撮れないだろうし、また、テレビやコンピューターゲームの影響で観る者もすっかりセッカチになってしまっているから、大河が滔々と流れるような悠長な大作にははじめから背を向けてしまうリスクがある。
 そしてまた、これまでのフィルモグラフィを見るに、ウォシャウスキー姉弟もとい姉妹は、ゲーム的感覚の作品は得意だが、人間ドラマは苦手という気がする。で、残念ながら、輪廻転生を描くこの物語ほど‘人間ドラマ’を欲するものはないわけである。人間的な感情こそが、輪廻転生を引き起こすエネルギーとなるのだから。

 とても興味深い、面白い、繰り返し見たくなるほど刺激的な作品なのだが、やっぱり惜しい。偉大なる失敗作と言いたい。
 
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 ときに、『クラウド アトラス』というタイトルは、直訳すれば「雲の地図」になる。なるほど、映画のファーストシーンは青空に広がる白い雲のショットであった。
 私見だが、この「クラウド」はインターネット用語における「クラウド」、つまり個人の端末ではなくインターネット上(プロバイダーのホストコンピューターとか)に情報(データ)が保存される仕組み――を意味しているのではないだろうか。いっさいの個人の記録は、ネット上にUP(保存)されて貯蔵される。だから、端末が壊れても大丈夫。然るべき手続きでアクセスされた別の端末に、これまでの情報が新たにダウンロードされる。あたかも‘生まれ変わり’のように。
 「クラウド アトラス」とは、個体を超えたところに存在する思考・感情・無意識・言動・体験の巨大な貯蔵庫、いわゆるスピリチュアル業界で耳にする「アカーシックレコード」に相応するものを言っているのではないか。
 古くからの日本語で言えば「閻魔帳」である。 

 第6の物語で心に潜む悪魔オールド・ジョージに打ち勝ったザックリーは、運命の相手であるメロニムと一緒に、放射能汚染され生き物の住めなくなった地球を離れて、どこかの惑星に移り住む。
 これまでの長い物語は、この惑星の大地で満点の星空の下、年老いた片眼のザックリーが、メロニムとの間にできた孫たち相手に、過去500年以上にわたる自らの輪廻転生の物語を語っていたのだということが明らかになる。
 ザックリーは、もう生まれ変わることはないのだろうか?
 天敵を殺害し、心の悪魔を退治し、地球を離れ、輪廻転生をつぶさに思い出したザックリーは、解脱したのだろうか?
 それとも、惑星での命が尽きると共に、またどこか別の惑星に、別の人物として、生まれ変わるのだろうか?
 輪廻は続き、第7の物語があるのだろうか?
 


評価:(作品としては) C-(解析する楽しみを与えてくれたことで)B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!




 


 

● 映画:『エレナの惑い』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)

2011年ロシア。

 ベネチア映画祭グランプリに輝いた10年に1本出るか出ないかの傑作『父、帰る』(2004年)を撮ったアンドレイ・ズビャギンツェフの3作目。
 寡作な人だ。よく食って行けるな。
 
 高級アパートで金持ちの夫ウラジミルと何不自由ない生活を送る元看護婦のエレナ。
 ウラジミルには、快楽にしか興味がない甘やかされた一人娘カテリナがいて今も父親に寄生している。エレナには、養うべき妻と二人の子供がいるにかかわらず、仕事もせず職探しもせず、昼間から飲んだくれているぐうたらな息子セルゲイがいる。一家はエレナが定期的に持ってきてくれる年金を頼りに暮らしている。
 それぞれに自立できない駄目な子供に悩まされる再婚同士の初老の二人。だが、決して同等の立場にはない。
 一つは圧倒的な貧富の差。エレナは息子一家の窮乏を救うために、また孫のサーシャ(セルゲイの息子)の学資を工面してもらうために、夫ウラジミルに頭を下げなければならない。自分の娘には出費を惜しまないウラジミルも、血のつながりのないセルゲイ一家にはけんもほろろな態度を示す。
 今一つはロシア社会の根強い男性優位主義。家庭でエレナは、ウラジミルの家政婦兼ダッチワイフである。ウラジミルが一等いい部屋の立派なベッドで寝ている一方、エレナは台所脇のソファのような狭い寝台で朝を迎え、ウラジミルの気が向いた時だけ彼のベッドに呼ばれる。息子一家のためにウラジミルの機嫌を損ねたくないエレナには、それを拒む勇気はない。
 そんな‘どこにでもある’ような夫婦関係の中で、事件が起きる。ウラジミルはある日、ジムのプールで泳いでいる最中に心臓麻痺を起こす。なんとか無事退院すると、余命を危ぶんで、「明日遺言書を作成する」とエレナに宣言する。その内容は「娘カテリナにすべての財産を譲る」というもの。
 エレナは密かに決意する・・・・。

 息子や孫思いの平凡な中年女性が、夫殺しという冷酷な所業を犯す過程を、落ち着いたカメラワーク、スタイリッシュな映像美、そしてセリフに頼らない寡黙で丁寧な演出とで淡々と描いた秀作である。役者の演技も深みとリアリティがある。特にエレナを演じるナジェジダ・マルキナの存在感は、最初から最後まで観る者の目を釘付けにする。顔の表情の変化ではなく、体全体でもって心理を表現しているかのよう。彫刻的な演技とでも言おうか。

 この作品、男性優位社会に生きる女の業とか、妻たること(=夫)より母たること(=息子)を優先した女の性(さが)とか、神と倫理(モラル)を失った現代人の心の闇とか、いろいろな捉え方はできるだろう。
 ソルティ自身は、『父、帰る』と共通したテーマを根底に感じ取った。
 すなわち、父性の不在――である。

父性とは、子育てにおいて、父親に期待される資質のこと。子供を社会化していくように作動する能力と機能である。母性とは異なる質の能力と機能とをいうことが多い。母性が子供の欲求を受け止め満たして子供を包み込んでいくことを指すのに対して、父性というのは子供に忍耐・規範(社会的ルールや道徳)を教え、子供を責任主体として振るまうようにし、理想を示すものである。(ウィキペディア「父性」)
 
 ウラジミルは父権社会の中で威張ってはいるが、父親としては失格である。金儲けが第一で、娘をまっとうに育てられなかった。エレナの元亭主がどんな人間だったかは映画の中で語られていないが、セルゲイを見るからに、駄目な父親であったことは容易に知れる。父性の不在が、母親であるエレナとセルゲイを共依存にしたことが読み取れる。で、セルゲイときた日には、まったく父親の役目を果たしていない。セルゲイとその息子サーシャが一緒にソファに座って、スナックをぼりぼり食べながらテレビを見ているシーンがある。二人は親子というよりも兄弟である。セルゲイは、図体のでかい腹の出た子供である。結果、エレナが人殺しをしてまで学資を用立てしてやった孫のサーシャは、陰で不良仲間と一緒に弱者相手に暴力行為を働くような人間に育ってしまった。
 父権社会、男性優位主義の中で、しかし肝心の父性だけは欠如しているという矛盾が、描き出されているのである。
 父性の欠如した父権社会とはなんだろう?
 ルール無き権力国家か。
 モラル無き階級社会か。
 ・・・・・・中国か。
 
 映画は、夫の遺産を半分もらったエレナにくっついて、セルゲイ一家が安アパートからウラジミルの高級アパートに引っ越してくるシーンで終わる。もちろん、サーシャは無事進学の道を歩むことになる。エレナも、セルゲイ一家も、万々歳の結末である。危険を犯しての夫殺しの甲斐はあった(ように見える)。
 だが、むろん観る者は分かっている。
 この先、セルゲイ一家は決して幸福にはならないだろうと。一家は贅沢三昧の挙句、エレナの財産を食いつぶして、最後には路頭に迷うことになろうと。それでもセルゲイが働くことはなく、おそらくはアル中になるだろうと。サーシャは大学生活で問題を起こして誤った道に進むであろうと。エレナはそのすべてを見て、自分の犯した罪深き行為の無益を悟るであろうと。
 だが、もはや彼女には神は見つけられないだろうと――。
 
  
評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● そこに何が見えますか? 映画:『回転』(ジャック・クレイトン監督)

1961年アメリカ。

 原題はThe Innocents(無垢な者たち)
 原作はイギリスの文豪ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)の人気小説『ねじの回転』。
  ジェイムズ作品は、この小説以外にも、ニコール・キッドマン主演『ある貴婦人の肖像』(1996)、ヘレナ・ボナム・カーター主演『鳩の翼』(1997)、ユマ・サーマン主演『金色の嘘』(2000、原題は『黄金の盃』)などが映画化されている。総じて、イギリスの上流階級(有閑階級)の日常を舞台とした人間模様を丹念に品よく、しかし意地悪いほど辛辣に描いている。ソルティの最も好きな作家10人のうちの1人である。
 
 『ねじの回転』は、上質のホラー(怪談)&心理サスペンスで、読み始めたらラストまで一気に持っていかれるほど面白い。難解で、高踏的で、事件らしい事件も起こらず、スティーヴン・キングのような派手なストーリー展開を求める人にとっては「冗長で退屈」なジェイムズの作品群にあって、群を抜いた読みやすさ、ストーリー性、手ごろな長さ、すなわち一級の娯楽作品となっている。おそらく、最も多くの外国語に翻訳され、最も読まれているジェイムズ小説だろう。
 ソルティは大学生の時に原典および新潮文庫で邦訳を読んで、ダイヤモンドのような硬質な文体と卓抜な構成、ゴシックホラーとしての完成度に圧倒された。
 
 この小説の、あるいはヘンリー・ジェイムズという作家の最大の特徴は、「曖昧性」「秘密めいた匂い」にある。
 明らかな事実、シンプルでわかりやすい筋書き、登場人物の行動の心理的裏づけ、だれもが納得ゆく(少なくとも理解できる)結末・・・・こういったものをわざと回避することによって、作品にある種のヴェール(紗)をかける。煙幕を張る。最後にはすべてが白日の下に晒されてスッキリ、という読者が一般に期待するような通常の終わり方をよしとせず、いろいろな筋が謎のうちに曖昧にぼかされたまま、筆が置かれる。
 結果として、ジェイムズの小説は多義的な解釈が可能となり、常に論争の的になる。同じ一つの現象を、ある批評家は「A」と言い、ある作家は「B」と解し、ある読者は「C」と読み、ある研究者は「D」と唱える。で、喧々諤々の論争が始まる。
 論争など無意味だ。そこに正解などない。
 少なくともジェイムズ自身は自分の書いたものの解説をしなかった。曖昧のままほうっておくことが、最初からの彼の狙いだったのだろう。
 そうすることによって、議論を巻き起こし、作品に何か深い意味があるかのように思わせ、読者や批評家の関心を惹きつける、いわば手品師の目くらましのような高等テクニックだったのか。種を明かせば「なあんだ」で興味を失ってしまうことが分かっているから、わざと種を明かさずに「もったいぶった」書き方をしていたのか。
 そうとばかりも言えない。
 
 ジェイムズの小説を読む者は、それを自分なりに解釈することによって、結局「自分」を発見することになる。「A」と解釈した者は、(ジェイムズではなく)おのれの中に「A」という傾向や属性を持っているから、そのように解釈したわけである。同様に、「B」「C」「D」と解釈した者は、それぞれの内面に無意識的にせよ意識的にせよ、「B」「C」「D」を抱えているから、そう読んだ(読めた)のである。
 つまり、ジェイムズの小説は、各々が内面を知るためのリトマス試験紙みたいなものである。

 学生時代、『ねじの回転』や彼の短編集を読んで、その構成や文章の完成度とはあまりに対照的な、ストーリーそのものの「曖昧性」「不完全さ」に戸惑った。真相(=作者の意図)を知りたいと思い、ジェイムズ研究で有名な日本の評論家が書いたものを読んでみた。
 びっくりたまげた。まったく自分が想像しもしなかったような読み方(解釈)をしていたのだ。
「この小説のどこを、どう読めば、そんなふうに読めるのか???」
 同じ小説を読んで、こうも違った解釈があり得るとは思いも寄らなかった。
 自分も若かったので、「いや、これは違うだろう。自分の解釈のほうが妥当だろう。より作者(ジェイムズ)の真意に近いだろう」と心の中で思ったが、今となってみれば、自分もその評論家も同じ穴のムジナ。まんまとジェイムズの手の内に落ちたのであった。

 『ねじの回転』こそは、ジェイムズの「曖昧性」「秘密めいた匂い」がもっとも巧みに、もっとも効果的に打ち出された小説である。幽霊譚、すでに亡くなった人間による手記、という恰好の設定を得て、それらが全編に横溢している。
 結果、読み終わった後に‘解釈したくなる欲求’、‘その解釈を誰かに聞いてもらいたくなる欲求’に襲われる。その解釈こそは、読み手自身の欲望や抑圧の投影なのである。リトマス試験紙というより、心理テストのロールシャッハテストに近い。
 何に見えますか? 

ロールシャッハテスト


 1961年公開のこの映画、原作に忠実に作られている。
 イギリスの田舎の古い屋敷や美しい庭園の風情、登場人物のイメージ、ストーリー展開やセリフ回し、幽霊が登場するシーンのおぞましいまでの不吉感・・・・・・どれも原作を知る者にとって、これ以上にない見事な映画への移管ぶりである。カラーでなく、モノクロ撮影にしたことも画面の緊張感を高め、ストーリーの非現実感(=幻想性)を増幅する効果を上げている。

 上流階級の紳士に雇われて、田舎の美しい屋敷で、彼が後見する二人の幼い子供(マイルズとフローラ)の家庭教師をすることになったミズ・ギデンズ(=デボラ・カー)。可愛い兄妹になつかれて、家政婦のグロース夫人とも仲良くなり、はじめのうちは楽しく明るい日々を過ごしていた。が、屋敷内に‘いるはずのない’不吉な人影を見たことがきっかけとなり、だんだんと屋敷や子供たちの不自然さに気づく。グロース夫人に詰問したところ明らかになったのは、以前の使用人クイントと家庭教師ジョスルの間にいびつな愛憎関係があり、二人は屋敷内であいついで変死を遂げたとのこと。生前の二人が子供たちに「何かおぞましい」影響を与え、亡くなった今も「悪」へと引きずり込もうと企んでいるのを確信したギデンズは、子供たちを守るために一人悪霊たちと闘う決心をするのであった・・・・。

 家庭教師役のデボラ・カーの演技が秀逸である。『王様と私』『地上より永遠に』あたりが彼女の代表作だろうが、こんなに上手い女優だとは思わなかった。つつましやかな物腰のうちに凛とした美しさがあり、責任感ある子供思いの大人の女性という一面と、性的抑圧に置かれている想像力たくましい牧師の娘という一面を、見事に融合させた人物造型をつくっている。
 霊的現象が続き、子供たちがどうにも自分の思い通りにならないストレスの中、ギデンズが次第に精神的に追い込まれ、前の一面があとの一面へと傾斜してゆき、次第に常軌を失ってゆく過程を、リアリティ豊かに、鬼気迫る迫力で演じている。しかも、原作の持つ「曖昧性」を壊すことなく、ギデンズだけに見える幽霊が「現実なのか」、それとも彼女の「妄想なのか」、両義性を宿した巧みな演技で、観る者の想像力を刺激する。
 デボラ・カーはオスカーに縁のない名女優として有名だったそうだが、この演技でオスカー取れないとは・・・。

 この小説をはじめて読んだ時、自分はそこに「ホモセクシュアルなもの」を嗅ぎ取った。亡くなった使用人クイントは、マイルズ少年に‘何か邪悪なこと’を教えていたらしいのだが、それが同性愛ではないかと思ったのだ。オスカー・ワイルドの裁判に見るように、当時(19世紀)のイギリスなら、間違いなくそれは‘邪悪’だったから・・・。
 もちろん、自身の内面にあるものを作品に投影したゆえの解釈である。
 が、一生妻帯しなかったヘンリー・ジェイムズはどうやらホモセクシュアルな傾向を持っていたらしい。恋男に書いた恋文が最近見つかったというニュースを目にした。
 また、この映画の脚本を書いているのは、あの‘歩くカミングアウト’『ティファーニで朝食を』『冷血』で有名な作家トルーマン・カポーティである。
 制作者が確信犯的にそのあたりを意識しているのは間違いなかろう。

 一方、この映画ではミス・ギデンズの性的抑圧がかなり濃厚に描き出されている。聖職者の娘として厳しく躾けられ、羽目をはずすことなく(男を知らず)四十路を迎えたオールドミスが、襟元・袖口まできっちりとボタンを閉めた一分の隙のないドレスを着て、クイントとジョスルのみだらな逢引の妄想に取りつかれる。邸内で彼女が目にし、それをきっかけに不安に襲われる事物が、「塔」や「鳩」であるのは暗示的である。つまり、それらはフロイト的にいえば男根の象徴だからだ。
 欲求不満の抑圧の強いオールド・ミスが神経を病んで妄想にかられて起こした悲惨な事件。
 そういったトニー・リチャードソン監督『マドモアゼル』風の読み方も可能なのである。

 えっ? これもソルティの内面の投影だって?
 ほっとけ。
 

評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

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