ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

評価B+

● 第三の矢を受けず 映画:『赦し――その遥かなる道』(チョウ・ウクフィ監督)

 2008年韓国映画。

 愛する家族を惨たらしく殺された遺族たちが、余人には測りしれない苦痛と悲しみと絶望の中で生きる姿が描かれているドキュメンタリー。
 

 連続殺人事件の実行犯ユ・ヨンチョル(柳永哲)に3人の家族(母、妻、一人息子)を殺されたコ・ジョンウン(高貞元)さん。ヨンチョルが逮捕された後、死を思い定めた彼だが、殺人者を赦してから自殺することを決意する。しかしその心を決めた瞬間、彼には再び生きることへの望みが生まれた。
 その後、ユ・ヨンチョルと直接手紙を交換し、彼の死刑に反対する嘆願書を提出するなど、積極的な活動を展開するジョンウンさんだったが、その心は相変わらず苦しみが去らなかった。父の行動を理解できない二人の娘たちとの関係も疎遠になり、時には悪夢にうなされもする。(DVD付属のパンフレットより抜粋)

 ジョンウンさんの日常とインタビューを中心に語りは進んでいく。(日本語版の語り手は竹下景子)


 愛する者を喪うことは、この世で最もつらいことである。
 それが誰かに殺されてのことだとしたら、その苦しみは筆舌に尽くしがたい。
 もっとも、人の苦しみを比較することはできない。
 失恋した者の苦しみ、離婚した者の苦しみ、流産した母の苦しみ、自然災害で家族を失った者の苦しみ、病気や戦争で家族を亡くした者の苦しみ・・・。
 どの苦しみも、どの悲しみも、遺された者にとっては100%の苦しみであり、胸の張り裂ける悲しみである。他と比較して「マシだろう」とか、「自然には適わないね」などと慰めるのは思いやりに欠けることである。
 しかし、愛する者が誰か人の手よって殺されたとしたら、喪失の悲しみに加えて、やりどころのない怒りや恨みや理不尽な思いが湧き起ころう。


 仏教に「第二の矢」の教えがある。

比丘たちよ。まだ教えを聞かぬ人々は、苦受をうけると嘆き悲しんで、いよいよ混迷するにいたる。それは、ちょうど、第一の矢を受けて、さらに第二の矢を受けるに似ている。それに反して、すでに教えを聞いた人は、苦受をうけてもいたずらに嘆き悲しんで、混迷にいたることがない。それを私は第二の矢を受けず、というのである。
 (増谷文雄著『仏教百話』、ちくま文庫)  

 愛する者を喪う衝撃が「第一の矢」、苦痛と悲しみに囚われて心身を毀し、あたら歳月を無為のままに費やすことが「第二の矢」にあたる。
 悟りを啓いていない凡夫にとって「第二の矢を受けず」は不可能に等しい。どうしたって「第二の矢」を胸に受けてしまう。
 だが、時は偉大である。
 喪失の痛みだけならば、時が解決する。無くなりはしないけれど、胸の奥で飼い馴らせるようになる。矢で受けた傷跡も癒えるだろう。
 一方、怒りや恨みは時によって解決できるものではない。普通に過ごしていて、自然に薄れていくものではない。それを抱えながら生きていくことは地獄の苦しみであろう。「第三の矢」は抜き難い。その傷は膿み深まるばかりである。
 
 映画の中でも、ジョンウンさんと同じように殺人者に家族の一人を殺された遺族が登場する。被害者の兄弟のうち二人は、ショックから立ち直ることができず、心を病み自害してしまう。つまり、三人が殺されたのだ。残された父と弟は、その状況を受け容れることができず、犯人を激しく憎み、その死刑だけを生きる目的として、日々苦悩のうちに過ごしている。
 弟は語る。
「あいつ(犯人)がこの世に生きていて同じ空気を吸っていると考えるだけでも我慢ならない。自分が生き直すためには、どうしてもあいつが死ななければならない。」
 これが普通であろう。世間一般であろう。
 

 だからこそ、犯人を「赦す」というジョンウンさんの生きざまに圧倒されるのである。
 苦しみという見えない十字架を背負って、たった一人街を歩き、インタビュアに語る彼の姿や表情が映し出されるたびに、臓腑をえぐられるような衝撃を受ける。
 誰にでもできることではない。
 被害者遺族に、ジョンウンさんと同じように振る舞うことを期待するなど、まったくのたわごとである。
 ジョンウンさんはカトリック信者なのだが、神の存在を疑い、信仰を失ってもおかしくないほどの試練なのだ。
 
 苦しみから逃れるすべのないジョンウンさんは、アメリカに旅し、同じような被害者遺族の集まりに参加する。死刑囚の家族、冤罪被害者、殺人被害者遺族がともに痛みを分かち合い、互いの傷を慰めあう「希望の旅」というグループである。
 そこでジョンウンさんは、「赦すことによって癒され、癒されることによって生きる希望を取り戻した」多くの仲間たちと交流する。(ある高齢の女性は、一人娘は殺害され、一人息子は死刑になった、という数奇な運命の持ち主だった。) 
 苦しみの中で人と人とが出会うとき、苦しみは一個人のものから、この世に生きるすべての者が多かれ少なかれまとわざるを得ない「生の影」であることが感受される。
 やはり仏教のキサー・ゴータミーの話を思い出す。

(彼女は)嫁して男子を産んだが、死なれ、その亡骸を抱いて「わたしの子に薬をください」といって町中を歩き廻った。
 これをあわれんだブッダは「いまだかつて死人を出したことのない家から、芥子(けし)の粒をもらって来なさい」と教えた。しかし彼女はこれを得ることができなかった。彼女は、ハッと人生の無常に気付いて出家した。(中村元訳『尼僧の告白』、岩波文庫P.108)
 いまのジョンウンさんにとって、本当の家族は「希望の旅」の仲間たちなのかもしれない。
 
 誰にでもできることではない。
 「やられたらやりかえせ。それができないのなら、せめて国が代わりに殺してくれ。」
 というのが被害者遺族一般の心の叫びであろう。
 だから、ジョンウンさんのような人が存在するという事実が、途方もないことに思えるのである。
 世にもっとも赦しがたいことを、それでも赦そうと決心するジョンウンさんの姿を見ては、日常の些細な人間関係のすれ違いで怒りを覚えて、「許しがたい」などとつい思ってしまう自分は、なんとちっぽけな人間なのだろう。


 この映画は2007年のクリスマス特集番組として韓国で地上波テレビ放送され、大きな反響があったそうである。
 韓国は法的には日本同様死刑制度を有しているものの、1997年12月の死刑執行を最後に死刑は凍結されており、アムネスティ・インターナショナルから実質的な死刑廃止国として認定されている。
 一方、日本では昨年(2013年)、8名に対して死刑が執行されている。



評価:B+

 
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
          
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 雷さま、礼讃 !! 映画:『薄桜記』(森一生監督)

 1959年大映。

 60年代の時代劇映画黄金期の大映の二大看板、市川雷蔵と勝新太郎の共演、競演、狂演、凶演、響演、驚演--である。ほんと、ゴージャスな時代もあったもんだ。
 と言っても、撮影当時、雷蔵はすでに人気・実力兼ね備えた押しも押されぬトップスター。一方、勝新はまだ代名詞と言える「座頭市」に出会っておらず、鳴かず飛ばずの巣籠り状態にあった。間違いなく主役は市川雷蔵である。
 でありながら、当時のそんな様子を知らない人がこの作品を見ても、勝新が雷蔵と堂々と渡り合っていて、演技も存在感も魅力も只者ならぬものがあることを認めるだろう。二人が、その後「カツライス」と並び称される最強ライバルになる、その予兆をはらんだ作品と言えよう。
 勝新と雷蔵の関係は、「陽と陰、太陽と月、動と静、明と暗、火と水」みたいなものであろうか。勝新が浅田真央、雷蔵がキム・ヨナか。演技のタイプもそうかもしれない。勝新と真央は何を演じても勝新、何を演じても真央が前面に出てくる。個性の魅力が強すぎる。雷蔵とキム・ヨナは演じる役によって雰囲気や表情を多彩に変えることができる。大衆受けするのは勝新と真央、専門受けするのはキム・ヨナと雷蔵かもしれない。
 
 それにしても雷蔵はかっこいい。
 当たり役となった眠狂四郎で到達した「虚無感、ダンディズム、ニヒリズム」の演技は、雷蔵の地の部分(複雑な生い立ち)に由来するようだが、こうした翳りのあるイケメン役者を他に挙げるとしたら『羅生門』『雨月物語』の森雅之、最近では西島秀俊あたりか。清潔感では雷蔵が際立っている。やはり、元歌舞伎役者として立ち居振舞いの美しさと品格のせいであろうか。
 しばらく雷蔵を追うことになりそうだ。

 森一生の映画を観るのはもしかしたらこれが始めてかもしれないが、最後の雪の中の片手片足の立ち回りシーンは、映画史に残る凄さである。必見。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」        

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
 
 

● ガルボの‘異邦人’性 映画:『クリスチナ女王』(ルーベン・マムーリアン監督)

 クリスチナ女王 0021933年アメリカ映画。

 実在したレズビアンの女王の話である。
 “レズビアンの女王”と言えば、普通は古代ギリシアの詩人サッフォー(@レスボス島)であるが、こちらは正真正銘のスウェーデンの女王陛下(1626-1689)。処女王と呼ばれた英国エリザベス一世同様、生涯結婚しなかった。(エリザベス一世はレズビアンでも処女でもなかったらしいが。)
 6歳で王位を継いだクリスチナ女王が28歳にして退位するまでの半生を恋愛ドラマを主軸に描いている。
 と言っても、そこは30年代ハリウッド。臣下の女性たちとのダイキーな恋愛模様が描き出されるべくもない。往年の二枚目俳優ジョン・ギルバート演じるスペインの貴族アントニオとの運命的な悲恋が創造されている。

 脚本も演出もカメラワークも素晴らしいが、魅力の第一は何と言っても主役を演じるグレタ・ガルボである。
 クリスチナ女王とガルボには共通点が多い。
 スウェーデン人であること。独身を貫いたこと(ガルボはレズビアンorバイセクシュアルの噂があった)。ガルボはハリウッドの女王として、あるいは「神聖ガルボ帝国」の女王として常に孤高に輝いていた。若くして引退したところも似ている(ガルボは36歳で銀幕から姿を消した)。
 それだからなのか、クリスチナ女王のセリフがそのままガルボの本心の吐露のように聞こえる箇所がある。
 ガルボにとって最高のはまり役だったのではないだろうか。
 ただし、美貌の点では二人は似ていない。肖像画に見るクリスチナ女王はおせじでも美人とは言い難い。
 一方のガルボと来たら・・・。

 神の手による創造物のうち最も完璧な美。
 北欧のフィヨルドを想わせる近寄りがたい壮麗さ。
 整形手術のない時代にこれほど整った顔立ちがこの世に存在し得るとは!
 残念なことに我々は白黒の映画や写真でしかガルボを見ることができない。作家のトルーマン・カポーティが「ガルボの美しさの秘密はその顔色の素晴らしさにある」とどこかに書いていた。カラー映画で観たかった一人である。

 美貌に酔わされて忘れられがちなのだが、ガルボは演技もめっぽう巧い。
 舞台の演技と映画の演技は別物であるが、ここでガルボは映画的演技の模範とも言える見事な演技を披露している。瞳の動きやまぶたの伏せ方、唇の端のちょっとした上げ下げ、微妙な顎の角度といった、アップでこそ冴える感情表現を巧みに使って、女王であり女である主役の心の動きを十全に表現し切っている。
 窮屈な政務から逃亡したクリスチナは、正体を隠し、旅先で偶然出会ったアントニオと宿屋で結ばれる。一人の女として愛し愛され、束の間のランデブーを満喫したクリスチナが、二人で過ごした部屋をただ歩き回るシーンがある。なんてことないシーンなのだが、ガルボがあちこちの家具を愛おしそうに触りながら典雅な風情で部屋を歩き回るとき、我々の目はアントニオ同様、彼女の動きに釘付けになってしまう。こんなふうにただ歩くだけで多彩で豊穣なニュアンスを画面にもたらしてしまう女優なぞ、滅多にいまい。

 ガルボの美には独特の個性がある。
クリスチナ女王 001 ハンガリア出身の作家、映画理論家のベラ・バラージュ(1884-1949)はこう語っている。

   ガルボの美しさはたんに線の調和ではなく、たんに顔の道具立てでもない。ガルボの美しさのなかには、或る特定の心の状態をあらわす相貌が表現されているのだ。
 ・・・・・・・
 われわれはグレタ・ガルボの美しさを、より高貴なもの、より優雅なものとして受け取る。それはじつに、そのなかにあの異邦人のもつ哀愁、孤独者の哀愁があらわれているからにほかならない。何の屈託もなく、楽しげに、いかにも幸福そうに笑っている顔の線が、どんなに美しく整っていようと、そのような笑い顔が、今日の、この社会のなかで、いかにも楽しく幸福そうに見えるとすれば、それはその人間が精神的にきわめて幼稚な人間であることを示すだけであろう。今日では、政治意識を全然もたぬ小市民でさえ、この汚れた世界に触れることにおぞ毛をふるかのようなジェスチュアや、もの悲しい苦悩の美は、その人間がより高級な、魂のより純潔な、精神的により高貴な人間であることを示すものだと感じている。ガルボの美は今日のブルジョア社会に敵対する美である。
(ベラ・バラージュ『映画の理論』、學藝書林)

 ガルボの「異邦人」性。
 それは、ハリウッドの中のスウェーデン人というところにあったのではなかろう。
 ヘテロ社会の中のマイノリティであったところに由来するように思う。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 
 
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● アッシジ追想 映画:『神の道化師、フランチェスコ』(ロベルト・ロッセリーニ監督)

 1950年イタリア映画。

 聖フランチェスコと言えばアッシジ、アッシジと言えば聖フランチェスコである。

 かれこれ20年になるだろうか。数ヶ月のイタリア旅行の最中に訪れたアッシジの平和で美しい田園風景は今も折に触れて思い出す。
 ローマ(バチカン)、ナポリ(ボンベイ)、シチリア、レッジョ・カラブリア、バーリ、アンコーナと列車で回り、若さに恃んで毎日朝から晩まで重いリュックを背に街を歩き回っては、『地球の歩き方』に載っている観光名所を巡り、有名な教会や美術館や博物館をしらみつぶしに訪ねた。身体の疲れと見知らぬ土地を歩く緊張感とで、南イタリアを脱したときは身も心もクタクタであった。アッシジに向かう列車の中ではグロッキー状態、同じコンパートメントの地元の人に話しかけられても、もはや返事する気力も、イタリア旅行するには欠かせないsimpaticoな(親しみやすい)笑みをつくる余裕すら失われていた。
アッシジ アッシジ駅からオリーブ畑の彼方にこんもりと盛り上がって見えるアッシジの街は、他のイタリアの街とは違う不思議な穏やかさに包まれていた。

 一週間ほど滞在しただろうか。春の喜びをさえずる小鳥たちに囲まれて、城砦のてっぺんの丘に仰向けになり、柔らかな陽光を浴びながら、大理石の家々と教会の塔と周囲に広がるもやに霞む田野を眺めていると、旅の疲れが癒されていくのを実感した。

 この感覚ははじめてではなかった。
 同じような経験を数年前のインド旅行で、ある町に滞在していたときにも感じたのである。
 そう。アッシジはブッダガヤに似ていた。

 アッシジは聖フランチェスコが生まれ育ち、回心し、伝導をはじめた土地である。ブッダガヤは釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた土地である。どちらも聖人が誕生した土地で、どちらも喧騒を離れた田舎であり、世界中から巡礼が訪れる信仰の地である。雰囲気が似てくるのは不思議ではないのかもしれない。
 しかし、アッシジの持つ雰囲気は、カトリックの中心たるバチカンや、ミラノの大聖堂をはじめとするイタリアの有名な教会で感じた雰囲気とは質が違っていた。そこには、旅の間、自分を精神的に疲れさせたキリスト教の持つ厳格で他罰的で父性的な空気がなかった。あらゆるものを優しく受け入れるような母性的雰囲気、あえて言うならば「慈悲」の気に満ちていたのである。
 伝記に見る聖フランチェスコもそのような人であったらしい。動物たちと会話するなど、キリストよりブッダに近いような気がする。

 もう一つ。聖フランチェスコと言えば、映画『ブラザーサン、シスタームーン』(フランコ・ゼフィレッリ監督、1972年)である。
 裕福な家に生まれ放蕩三昧の生活を送っていた青年フランチェスコは、戦争で負傷したのをきっかけに回心する。家も財産も家族も世間も捨てて乞食同然の修道生活に入る。理解者は少しずつ増えていくものの、既存の教会組織からの様々な妨害にあう。疑問を抱いたフランチェスコは自らの信仰の正しさを確かめるため、ローマ法王に会いに行く。
 バチカンでローマ法王に謁見する場面は最大のクライマックスである。インノケンティウス3世を演じるアレック・ギネス(『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービ)の抑えた演技が実に素晴らしい。
 ほぼ史実に沿った筋書きだと思うが、ゼフィレッリ監督の男色趣味横溢でフランチェスコ役のイケメン俳優を衆人環視のもと丸裸にしたり、あちこちで端役の美青年をショットで抜いたり、なにかと‘ルネサンス’チックである。
 また、映画が撮られた時代の香りが全編から漂っている。体制への反抗、伝統・権威の否定、腐った大人社会に対する嫌悪と怒り、自然回帰を目指す原始共同体・・・・すなわちヒッピー文化である。
 そういうカラーはあるが、『ブラザーサン、シスタームーン』は心が乾いたときに自分が見る映画の一つで、DVDを所有している数少ない映画である。


 ネオレアリズモの巨匠ロッセリーニは、ローマ法王との謁見によって正式に伝道を認可されたフランチェスコが、故郷に帰ってきたシーンから撮っている。
 つまり、凡人が聖人となるドラマチックな過程ではなく、すでに聖人となったフランチェスコとその仲間たちの貧しくも敬虔な信仰生活の様子をいくつかのエピソード仕立てで描いている。ゼフィレッリとくらべると、実に淡々と、あおらずに、誠実に、ときにユーモラスに。フランチェスコ自身よりも、むしろ弟子たち(「兄弟」というのだろうか)のほうが目立ってさえいる。
 アッシジの草原をみすぼらしい修道服姿で走り回る兄弟たちの姿は、はしゃいでいる子供のように無垢なる喜びに満ち溢れ、軽やかである。

 人が為しうるもっとも美しい生活とはこのようなものかもしれない・・・・と思う。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 映画:『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(三浦大輔監督)

 2010年公開。

 平成の世も20年以上過ぎた今になって、これほど‘純’な、これほど‘ストイックな’これほど面白い映画が出るとは思わなかった。
 この数年の日本映画の中のピカイチである。
 加えて言えば、主役を演じる峯田和伸にどんなものであれ主演男優賞を、脇を演じるYOUに助演女優賞を与えることのできなかった日本映画界の鈍感さ、不甲斐なさは、日本映画の歴史に泥を塗る破廉恥である。


 峯田和伸という俳優(兼ミュージシャン)については何も知らなかったが、役者としての才能はデビュー当時の窪塚洋介や松山ケンイチを凌駕していると思う。これからメキメキと頭角を現してくることだろう。


 原作は花沢健吾が「ビッグコミック・スピリッツ」に連載した青年マンガなので、物語そのものは「単純で紋切り型でご都合主義でたわいない」。一言で言うと「馬鹿」ということになる。
 だが、その性質は「男」そのものを表す。男とは、「単純で紋切り型でご都合主義でたわいない」馬鹿な生き物だから。
 昨今の男は病んでいて、さまざまな関係のしがらみの中で、あるいは「上手く」生きようと立ち回るうちに、原始的な気質を見失ってしまう。いったい、彼女に見せる「標準的な(マニアックでない)」アダルトビデオを友人に借りに行くため、夜中に3時間も自転車をこぐ馬鹿(=男)がいまどこにいようか。しかも、借りたビデオの中味は違っていて「獣姦もの」だったというオチ。
 主人公タニシは、29歳にして「男」の純粋な核を体現する存在である。
 だから、周囲の男達は、仕事もできない、職場の女ともロクに話せない、ダメ男の典型のような彼を好きにならずにおれない。片思いの女をもてあそんだ男の会社に殴り込みをかけるタニシのために一肌脱がずにはいない。たとえその助力が失敗に終わろうとも。(ビートたけしを思い出すなあ。でも、たけしは独りでなく軍団で行ったところがイヤだ。)
 こういう男を「キュート」だと思ってくれる唯一の女が、母親をのぞけばYOU演じるソープランド嬢‘しほ’のような、優性遺伝子(精子)争奪戦から退いた女であるという皮肉も効いている。


 生きるとはぶざまに生きることである。
 青春とはかっこ悪いものである。
 男とは不器用な生き物である。

 そんなベタな原点を直球勝負で描き切ったところ、演じきったところに惜しみない喝采を送りたい。




評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 今、もっとも日本人にすすめたい  映画:『みえない雲』(グレゴール・シュニッツラー監督)

 2006年。ドイツ映画。

 原題はDIE WOLKE(雲)。
 原発事故で発生した放射能を含んだ雲のことである。

 西ドイツのある町で原子力発電所の放射能漏れ事故が起こり、周辺に住む人々に避難警報が発令される。
 物語前半は、高校生のハンナと弟のウリーが放射能から逃れようと、家を捨て町を脱出するまでの姿をパニック映画のスタイルで描く。後半は、事態がひとまず落ち着いたものの、病院に収容されたハンナや友人や恋人が次々と発病し、死の恐怖と闘っていくなかでの人間ドラマを描く。

 事故直後は、見えない放射能よりも、見えるパニックのほうが実際には恐ろしい。ウリーは、放射能ではなくて、パニックの中で猛スピードで逃げる自動車に轢かれて死んでしまう。結果論ではあるが、逃げずに家の中に籠もっていたほうが安全だったのだ。
 一方、放射能の恐怖は、直接の被爆でなければ、あとからじわじわとやってくる。髪の毛が抜け、皮膚に腫瘍があらわれ、体は痩せ細り、周囲の人々から恐れられ・・・。ハンナと恋人のエルマは、再会の喜びもつかの間、二人とも発病する。
 時を分けて襲ってくる二段重ねの恐怖の実態がよく描けている。

 主人公ハンナを演じたパウラ・カレンベルクは、チェルノブイリ原発事故のときに胎児であった。外見こそ健常であるが、心臓に穴が開いており、片方の肺がないとのこと。

 いま日本人がもっとも観ておきたい映画である。
 まだ遅くはない。



評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文