ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

認知症

● 永遠の神経衰弱 映画:『リピーテッド』(ローワン・ジョフィ監督)

2014年イギリス・アメリカ・フランス・スウェーデン共同制作。

 原題はBefore I Go to Sleep. 「私が眠りにつく前に」

 ニコール・キッドマン主演のミステリー&シチュエーションスリラーである。
 どんなシチュエーションかと言うと・・・・・
 クリスティーンは10年以上前の外傷が原因で記憶障害になり、朝目覚めると前日までの記憶をいっさい失ってしまい、20歳の自分に戻ってしまう。
 ベッドの横には見知らぬ中年の男が眠っている。
 (これは誰?)
 (ここはどこ?)
 (私は何をしているの?)
 パニクっているクリスティーンに見知らぬ男は言う。
「ぼくは君の夫のベンだ。ぼくたちは14年前に結婚して、それから一緒に暮らしている」
 ベンの説明を聞き、壁に貼られた結婚式以来の様々なツーショット写真を見て、クリスティーンはやっと気持ちを落ちつかせる。
 そんな朝が繰り返される。
 
 ニコール・キッドマンも、ベンを演じるコリン・ファースもベテランらしい確かな演技で観る者を惹きつける。少ない登場人物で、派手な演出もアクションもなく、おそらくCGもない? 度肝を抜かれるほどの‘どんでん返し’もなく、最後は‘母と子の再会’という永遠の涙腺弛緩テーマで感動を誘う。
 可もなく不可もなく、何も残らない。
 
 ・・・・・のであるが、連想したのは職場(老人ホーム)の認知症の進んだ高齢者たちである。
 「毎朝目が覚めると、昨日までのことをすっかり忘れている」
 というのは、まさに彼らのことなのだ。
 
 部屋のベッドで目が覚める。
 白い天井が見える。
 (はて、ここはどこだろう?)
 起き上がって、周囲を見回す。
 ベッド柵がある。ライトがある。カーテンの閉まった窓がある。ゴミ箱がある。自分のものらしい衣類が置かれた棚がある。
(昨日は家でなくここに泊まったらしい。どうしてだろう?)
 誰かがやって来る足音がして、部屋の扉がガラリと開く。
「○○さん、おはようございます。朝ですよ。今日もいい天気です。さあ、起きましょう」
 見知らぬ若い男が、わざとらしい愛想良さで声をかけてくる。
(これは誰? でも、私の名前を知っているようだ。ホテルの従業員?)
「は、はい。おはようございます。今起きます」
 男に渡された衣類に着替える。
(いつの間に寝巻きに着替えたんだろう?)
 男と一緒に廊下を歩いて、とりあえずトイレに向かう。
 同じような部屋がたくさん並んでいる。
(やっぱり、ここはホテル?)
 食堂に入ると、たくさんの見知らぬ顔が並んでいる。爺さん、婆さんばかり。車椅子に乗っている人もいる。みな、自分と同じようにわけが分らないような顔して押し黙っている。
(ここは病院らしい。自分は病院に連れてこられたのか・・・? どこか悪いんだろうか?)
 隣でお茶をすすっているお婆さんに聞いてみたいけれど、「私はなぜここにいるのですか?」なんて尋ねたら、なんと思うだろう。こちらをキチガイかなんかだと思うのではないだろうか? 
 お茶を配っているあの人に聞いてみようか。でも、なんだかとても忙しそうで、ゆっくり話ができる雰囲気じゃない。
 しばらく黙って様子を見ていよう。
(おや? あの人は見たことがある。名前は知らないけれど、前に話したことがある。とても親切な人だ。ああ、良かった。知っている人がいて・・・・・。そう言えば、お腹がすいた)
 
 こんな朝が繰り返されているのではないかと想像する。
 
 施設で働き始めたばかりのころ、認知症の人たちのレクリエーションでトランプの神経衰弱をやったら、まったくテーブルの上の札が減っていかない。いつまでたっても終わりが見えない。
 前の自分の番のときにめくった札の場所や数字はおろか、直前の人がめくった札の数字も覚えていないのである。記憶を頼みとする神経衰弱は、認知症の人の最も不得意なゲームなのだ。いきおい、2枚の同じ数字の札がめくられるのは、純粋に偶然か直感かに限られる。確率的にかなり‘起こりえない’。
 しまいには参加者全員飽きて、ゲームは中途終了となった。
 その次からは、数字をあわせるのではなく、スーツを合わせるやり方に変えた。ハート同士、クラブ同士、ダイヤ同士、スペード同士合えばOKというように。これなら偶然でも当たる確率は1/4となる。もっとゲームスピードを上げたいときは、色同士で合わせる。赤と赤、黒と黒ならOKというように。これなら目隠しでやっても1/2の確率で当たる。
 かくして神経衰弱は記憶力を競うゲームから、直観力あるいは‘その日の運’を競うゲームに変貌したのである。

 朝方、不安と疑問と心細さで一杯だった入所者たちも、朝食をすませ、トイレを済ませた頃には落ち着いてくる。近くの席の人たちと笑顔で世間話なんかを始める。
 その鮮やかな転換ぶりが4年経ったいまでも不思議なのだが、おそらく彼らは自分が朝方不安におびえたこともまた忘れてしまうのだろう。
 そうでなければ、本当に神経衰弱になってしまう。
 


評価:C+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● すべての生命は認知症である:初期仏教講演会『どっちがほんもの?~正しいことの真偽を問う』

日時  2016年1月9日(土)午後1時半~
会場  なかのゼロ小ホール
講師  アルボムッレ・スマナサーラ長老
主催  日本テーラワーダ仏教協会

 550席あるホールは8割がた埋まっていた。
 相変わらず若い層(50代以下)が目立つ。新たな参加者も増えている。『仏教思想のゼロポイント』の好評に見るように、「いよいよ初期仏教が浸透してきたなあ」という感をもった。

 今回もまた途中まで、座席で瞑想まがいの傾眠をしていた。
 午前中に用事で都心に出向いたら、すっかりバテてしまった。用事そのものは疲れることなかったが、どうも都会の人混みにいるとエネルギーが消耗してしかたない。知らずに気が奪われていくようだ。ただの老化や運動不足による体力低下・気力低下とは違うのは、逆方面への運動――すなわち山登りなら何時間歩こうがこんなに疲れることはないってことだ。むしろ、筋肉疲労はあれども気はリフレッシュし充実している。
 気を奪われない方法を学ばない限り、都心はできるだけ避けるほかないようだ。

 が、しっかりと目が覚めて頭が冴えたのが、説法的には重要な後半部だったのはいつもながらうまくできている。スマナサーラ長老の講演はいつも、前半が俗世間用(在家向け)の内容で、後半が出世間用(修行者向け)の内容になっているからだ。
 タイトルの「正しいことの真偽を問う」の結論は最初からはっきりしている。「人の持つ意見・思考・思想・主義・主張・論に正しいものなどない」である。これらはすべて‘見解’であって、個々人がそれぞれの知識や性格や教育や信仰や体験や好みや利害を素材として創り上げた、純粋に主観的な‘ものの見方’に過ぎない。
 だから、見解は人の数だけある。似かよった見解をもつ大集団が自分の立場を安定保持するために、「これが正常」「これが常識」「これが普通」と決め付けることはある。が、それでもなおそれが客観的に正しいわけではない。ただ多数派というだけだ。
 このことを各人が理解しない限り、この世から争いが無くなることはない。「自分が正しい」と各人や各集団が思い込んで主張している限り、絶対に平和的解決は起こりえない。
 「自分が‘絶対に正しい’なんてことはあり得ない」という一歩引いた理解の仕方、言うなれば絶対性から相対性への転換が必要なのだが、これが難しいのである。なぜなら、‘自己を相対化する’とは、自我の正体を暴いて、ニュートラルな立場から再調教する手続きが必須だからであり、再調教の目的はつまるところ、自我=アイデンティティの空洞化なのだから。キリスト教ともイスラム教とも違う仏教のスタンスはまさにここにある。(以上、講演テーマに関連してのソルティの見解含む。)

 スマナ長老の話より。ブッダが指摘した人が見解をつくる際のもとになる5つのもの。
1. 信仰
2. 好み
3. 言い伝え・伝統
4. 理屈・思考
5. 自分の意見・見解と合う他人のそれ 

 今回、面白かった長老の言葉。
 
「すべての生命は認知症です」

 すべての‘生命は’と言っているところがポイントであろう。
 すべての‘人間は’なら、上記に書いたように、各個人の物事に対する認識の仕方はそもそもが見解という「自我プリズム」で捻じ曲げられていて客観的な真実とは程遠い、というだけの話である。(これだけでも容易に理解しがたい話なのだが・・・)
 すべての‘生命は’といった場合、もっと根源的なところを言っている。
 すなわち、それぞれの生命は、自然(神?)によって与えられた生まれついての「種」としての認識機能(知覚手段)を持っている。人間なら、視覚(目)・聴覚(耳)・嗅覚(鼻)・味覚(舌)・触覚(体)というように。仏教ではこれに法(意)を加えて六処とする。蛇には聴覚がないと言われる。ミミズには視覚がないと言われる。犬の嗅覚はヒトの1億倍という説もある。イルカやコウモリは人間にない探知機能(ソナー)を持っていると言われる。それぞれの生命(種)は、外界を認識するためのそれぞれのツールを有している。逆に言えば、認識される外界の姿はそれぞれの生命によって異なるということである。
 では、どの生命が認識した外界の姿が正しいのだろうか?
 我々人間?
 犬 (逆立ちしたGOD)?
 イルカ?
 ゴキブリ?
 ET?
 樹齢7000年の縄文杉?
 畑の白菜?
 「盲人象を撫でる」のことわざ通り、どの生命も外界の一部をそれぞれの認識限界内で捉えているに過ぎない。
 だから、「すべての生命は認知症」なのだ。

 キリスト教徒ならこう言うかも知れない。
「その通りです。ただ唯一、全知全能の神様だけが世界の正しい姿を知っておられるのです」
 全知全能の神様を認識する人間の認識が偏っているのだから、何をかいわんや。

 介護の仕事で認知症の高齢者と日々向き合って対応の難しさにボヤいている自分であるが、「自分もまた二重の意味で(人間として、生命として)認知症にほかならないんだ」と謙虚に思った年明けである。


2016冬



 


● 認知と信仰 本:『私は誰になっていくの?アルツハイマー病者からみた世界』(クリスティーン・ボーデン著、クリエイツかもがわ)

私は誰になっていくの 2003年刊行。

 46歳でアルツハイマー病と診断された著者は、三人の娘の母にして、輝かしい経歴を持つ高級官僚であった。1995年のことである。
 それからの著者のジェットコースターに乗っているかのような波乱の生活を記したもの。認知症の患者自身が自らの体験と症状について、また「周囲の世界がどのように見えるか」をありのままに描いたものとして、本国アメリカのみならず各国で話題になった。
 
 アルツハイマーは認知症を引き起こす病気として主要なものの一つである。(認知症の原因疾患は70あると言う。)
 

 基本的に言うと、脳の細胞が侵され、もつれて混乱し、もはや機能できなくなるものだ。影響が及ぼされるのは、人格や、行動や、思考や、記憶を司る細胞である。これらの細胞は、主として前頭葉、側頭葉、眼窩の後ろ側にある。
 身体の動きや機能には、ほとんど影響しない。そういうものは実際、比較的小範囲の脳によって制御されている。最大の影響は「高次の」脳細胞――つまり、私たちを自分自身にさせているもにについて起こる。最後には、多くの細胞が損傷されることで、脳は身体も動かすことができなくなり(例えば飲み込み方がわからなくなる)、そして昏睡に陥って死ぬ。(本書より、以下同)

 認知症(本書ではまだ「痴呆症」という用語を使っている)の何がタイヘンか。
 むろん、周囲の人間はタイヘンである。脳の損傷によって引き起こされる認知症患者の様々な問題行動(最近ではBPSD=Behavioral and Psychological Symptoms of Dementiaと呼ぶ)は、介護する家族や関わる人間たちを狼狽させたり、悲しませたり、イライラさせたり、疲弊させたりする。「しっかり者だったこの人が、こんな風になってしまった」という心理的なショックもあるし、火の始末ができない、知らないうちに外に出て行方不明になる、自分の排泄物をもてあそぶといったような具体的な行動によってもたらされる困難もある。
 だが、当の本人の心のうちはなかなか分かりえない。本人が自分の状態をどの程度把握しているのか、なぜ問題行動を起こすのか、問題行動の結果をどう捉えているのか、どんな気持ちで過ごしているのか・・・当の本人が言葉で上手く説明できないので、周囲は想像するほかない。あるいは、「本人はなにも分からないのだから、かえって幸せかもしれない」と、とんでもない誤解をしてしまう。
 周囲もタイヘンには違いないが、一番しんどいのは明らかに認知症患者本人である。
 
 もし癌で死ぬことになっているのなら。私は、本当の私のままだ。私自身が知っている私、家族や友達が知っている私――三人の娘たちの母であり、協会の「兄弟・姉妹」の一員でもある。アルツハイマー病で死ぬのなら、私はどんな人間になって死を迎えるのだろう? たとえ友達や家族が、何度も繰り返して私に、最後までずっと本質的な「自分」であり続けるよと請け合ってくれても、頭でわかるだけで心はまだそれを受け入れない。

 ・・・・死は、私が最も恐れることではない。むしろ私がおびえているのは。「自己」の本質が崩壊し、病気の後期になって、自分では気づかないまま社会的に受け入れられないような振る舞いをして、たぶん自分自身も困惑し、家族も困らせるだろうという現実である。


 「自分=アイデンティティ」を失うこと。
 それが認知症患者当人にとっての一番の苦しみである。
 だんだんと記憶を失い、物の名前が出てこなくなり、ついさっきやったこと(食事、入浴、買い物、会話、排泄e.t.c.)を忘れる。家族や知人の名前や顔を忘れ、今日がいつなのか、自分は何歳なのか、ここがどこなのか、なぜここいるのかを言うことができなくなる。自力で歩くことも食べることも困難になってくる。自分が誰かもわからなくなる。・・・・・
 介護業界のカリスマ三好春樹が書いていたが、「頭がしっかりした状態で寝たきり(要全介助)になるのと、身体は動くけれどボケるのとどちらがいいですか」という問いかけをすると、たいがいの人は「ボケのほうがいい」と答えるらしい。「ボケると周囲は困るが、本人は何も分からないから」というのがその理由だと言う。三好の回答はこうである。「残念ながら、どちらにしても3年後には同じ状態になります。寝たきりにしておけば人はボケてくるし、ボケている人も最後には寝たきりになります。」

 老人ホームで働くようになるまでは、自分も「寝たきりよりボケがいい」と思っていた。
 が、毎日認知症の高齢者と関わることで、この考えは変更を迫られることになった。
 認知症の人がどんなに内面的に苦しんでいるかをまざまざと知ったからである。
 ナースコールで呼ばれてある男性入居者の部屋に行くと、恐怖と悲嘆のパニック状態で泣き叫ぶ。
「すぐ妻に電話してくれ。俺は変になった。何がなんだかわからなくなってしまった!」
 ある入居者は、自分の記憶の喪失を周囲に知られまいと、いつも辻褄合わせに必死で、話しかけるとすぐ強い緊張状態に陥ってしまう。
 なんとなくではあるが、インテリだった人(高学歴)ほど、ホワイトカラー(‘自然’から遠い職種)ほど、支配的な性格の人ほど、そして男性ほど、「自分」を失うことへの抵抗が強く、問題行動が激しいような気がしている。つまり、近代的な大人ほどボケを受け入れ難いのかもしれない。(三好もそんなことを言っていた。) 
 高級官僚として政府の大きな仕事をまかされていた著者のクリスティーンもまた、大変なインテリであった。

私はいつでもあらゆるものを短時間で記憶できた。読むのも速く、すばやく質問し、いつも次の話題に移るのが待てないほどだった。学校でも、大学でも、上位二、三人の内に入った。私の知的レベルは高く――実際、知能テストをおもしろがって受けたが、150から200ぐらいの得点だった。

 であればこそ、アルツハイマーになったことで生じた「落差」を受け入れることは、これまでのスーパーレディたる「自分」を捨て、何ごとにも周りの手助けが必要な新たな「自分」を受け入れることは、並大抵のことではなかったであろう。
 クリスティーンを支えたものは何か。

 一つは、家族や友人たちである。3人の娘と、昔からの友人と、理解あるかつての同僚や医療者、ボランティア、同じ信仰を有する教会の仲間たち。それに発病してから知り合った新しいパートナーであるポールが加わる。(DV加害者であった前夫とは離婚している。)
 そして、いま一つがキリスト教徒としての確たる信仰である。
 アルツハイマーの診断を受ける(その兆候も感じていなかった)5年前の1990年に、クリスティーンは「偶然の一致が続いて」英国国教会派のキリスト教徒になる。それが、あとから彼女を救うことになるとは知るよしもなかった。

 この先の何年間か、私がどんなにこの信仰を必要としたか、そして、神のジェットコースターにやっと間に合うように乗り込んだのだということを、その二人共ほとんど知らなかった。・・・・・・
 キリスト教徒ではない方も、ちょっと想像してみてください。私がそれまでいつも、とても大切に思ってきたもの――私自身の知性――それを、この病気は奪っていくのだ。神への信仰なくしては、どうして私が(あなたではなく――きっと、あなたは私よりずっと強い人で、神のような「支え」を必要とはしないでしょう!)、この病気とうまく折り合っていけるものだろうか。
 
 その時からは、神に心を向けている限り、恐れは用意に捨て去ることができるようになった。でも、そこから顔をそむけると、すぐに沈み込んでしまう。私には、このことを繰り返し学ぶことが必要だった。


 神を信じるとは、「大いなるもの」に「自分」を預けることである。言い変えれば、「自分を明け渡すこと」である。
 「自分」を失うことに恐怖していた彼女が、信仰によって見出したパワーの鍵はここにあるのだろう。「自分」を捨てて、神を信じ、周囲を信じれば、何も恐れることはないのだ。

 ここに至って、本邦の認知症患者のことを思う。
 日本の認知症患者もまた、家族や友人やご近所、我々介護職や医療従事者、ボランティアなどからの支えは得られる。それは必要不可欠であり、恐怖と不安に陥っている本人を落ち着かせて、安らぎを与えるのに大いに役立つ。
 しかるに、そこから先がない。
 信仰を持っていない人が圧倒的である。
 自分が認知症患者と関わって、いつも思うのはそこなのである。
 老いと上手につきあうには、来るべき死と向きあうには、「自分=アイデンティティ」が次第に失われていく不安と恐怖によって狂気に陥ることなく生き抜くには、なんらかの意味で宗教的な支えが必要ではないだろうか。
 いや、別にキリスト教や仏教や新興宗教でなくともよい。
 クリスティーンの新しいパートナーのポールは次のように表現している。

 精神性とは宗教に限らないことです。私の精神性はキリスト教にもとづいていますが、他の人にとっては、心の平和(平穏)を感じさせているものが何かということです。それは、芸術であったり、絵であったり、歩くことである人もいるでしょう。それに価するものがないまま痴呆になると大変な人生を送っていたであろうと言えるようなものです。


 一方、認知症もあるレベルまで進むと、信仰も役に立たなくなるのだろうか。
 神という概念、慈悲や無常と言う観念がまったく理解できなくなれば、やはりそこには苦しみだけが待っているのだろうか。
 そのあたりが気になるところである。

 


 

● 新春仏教講演:『知ってるつもり!やってるつもり!~成長を止める落とし穴~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

【日時】2015年1月10日(土)13時00分 ~ 16時30分
【会場】東京:日暮里サニーホール
【主催】日本テーラワーダ仏教協会

 新年最初の法話、寒さも手伝って身が引き締まる思い。
 サニーホールは荒川区の施設で日暮里駅の近くにある。はじめて来たが、きれいでファッショナブルなホールである。日暮里舎人ライナー開通以降、このあたりもどんどん垢抜けていく。

 400名定員のホールは8割がた埋まっていた。
 やっぱり圧倒的に男性が多い
 テーラワーダ仏教は「心の科学」と言われるくらい論理的で実証的である。キリスト教のように愛や信仰を重視するのでなく、各々の修行による智慧の開発・確信をもっぱら重視する。そのあたりが男性向けなのかもしれない。スマナ長老の人柄もあろうか。歯に衣を着せずに容赦なくズバっと核心を突く鋭さは、‘慈悲’よりも‘智慧’の人というイメージを抱かせる。(むろん、慈悲の深さは限りないものであるが・・・)

 今日のテーマは、「仏法を知ってるつもり、修行をやってるつもり」になって、実際には成長がストップしている修行者に向けて、渇を入れるものであった。
 まさに自分・・・・!
 スマナ長老の著書を含め数々の仏教書を読んで学んだことや、毎日のヴィパッサナー瞑想で発見したことで、「自分は人より(テーラワーダ)仏教を知っている、世のありよう(無常・無我・因縁・苦)を理解している」とどこかで‘上から目線’になっていた。それが修行の進歩を妨げて、同じところを堂々巡りしていたのであった。毎日行なっている慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想、および月例の講演会参加も含めた仏法の勉強、それでOKと安心してしまい、それ以上の努力を怠っていたのである。 

修行によって発見した、体験した真理を使用することで、実践することで、復習することで、真理に達するのです。ヴィパッサナー瞑想で発見したこと(無常・無我・因縁・苦など)を実践して生活することが大切です。

 生活における実践、つまりそれが八正道なのだろう。
1. 正見  ・・・・・正しく見る
2. 正思惟 ・・・・・正しく考える
3. 正語  ・・・・・正しい言葉を語る
4. 正業  ・・・・・正しい行いをする
5. 正命  ・・・・・正しい仕事をする
6. 正精進 ・・・・・正しい精進をする
7. 正念  ・・・・・正しい気づきを行なう
8. 正定  ・・・・・正しい集中力を養う

 自分の場合、特に3と4、つまり普段の言動をもう少し注意したほうがよさそうだ。昔に比べれば、ずいぶん自分をコントロールできるようになって、他人に対する余計な言動やあとから後悔するような言動は減ったと思う。
 でも、まだまだ「つい、言ってしまった」「つい、やってしまった」ということがある。
 たいていの場合、何かを言うよりは黙っていたほうが正解である。何かをするよりはやらないでいるほうが結果うまくいくことが多い。とくに、感情(気分)に煽られての言動、酒に飲まれての言動は、あとから後悔することが多い。
 後悔というより反省か。
 今年は、そのあたりの是正を目標にしよう。


 さて、本題はそれとして、今日は講演後の質疑応答がなかなか面白く勉強になった。


●若い女性の質問「私は男性が怖いんです。どうすればいいんでしょうか」
○スマナ長老「一般論として言います。それは勘違い。男性のほうが女性を恐れているのです(場内笑)。命を生んで育てなくてはならない性が弱いはずがありません。生物学的にも女性のほうが強く作られているのです。私だって、男性が何人歯向かってきてもどうということもなくやり返せます。でも、女性が本気で歯向かってきたらお手上げです(と両手を挙げられる)。男性なんかどうってことない、という強い気持ちでいてください」

●中高年男性の質問「妻がアルツハイマーで記憶障害になった。どう対応したらよいのか」
○スマナ長老「難しく考える必要はありません。奥さんのいまの状態をそのまま受け容れて、奥さんがニコニコと幸せでいられるようにその場その場で対応すればいいのです。あなたのことが分からなくなったら‘隣のおじさんだよ。君のことが気に入ったんだ’とでも言ってあげてください」  


 認知症老人の介護を仕事(正命)としている立場から言って、スマナ長老の答えは大正解である。脳の器質異常(萎縮など)はもとに戻せないのだから、相手を昔のクリアな状態に戻そうとしたり、昔と違ってしまったことで苦しんだりするのは無意味である。今目の前の相手が穏やかに落ち着いて笑顔で過ごせるようにすることが一番である。
 そして、それは結局、認知症患者相手に限らず、平常の人間関係すべてについて言えることなのだ。過去のかくあった自分・未来のあるべき自分、過去のかくあった相手・未来のあらまほしき相手、そういったイメージに我々は捕らわれ過ぎている。‘いま、ここ’の自分と相手とが幸せであること、そこにしか幸せは築けないのである。



● 自立か安全か 本:『プロ介護職のサービス』(小林由憲著、幻冬舎)

プロ介護職のサービス 2013年刊行。

 有名な漫画家と同じ読み名を持つ著者は、大起エンゼルヘルプという会社の代表取締役である。もともとは建築関係の会社であるが、介護保険が導入される16年も前(1984年)に介護事業に参入している。すいぶんと目端の利く会社であるなあと感心するが、夫(著者の父親)の会社を手伝っていた母親が看護師であったことが、きっかけであるらしい。今では、訪問介護、訪問入浴、グループホーム、ケアハウス、有料老人ホーム、デイサービス、ケアプラン作成サービス・・・と総合的な介護サービス事業を展開している。

  この本は単刀直入に言えば、大起エンゼルヘルプの介護サービスの紹介であり、PR(=自慢)であり、販促ツールである。
 別段それは悪いことではない。書いてあることと実際の現場でやっていることとが一致しているならば。それに、もう一人のコバヤシヨシノリのようにゴーマンな感じはない。謙虚である。
 大起エンゼルヘルプの介護の何が自慢できるのか。
 著者は言う。

 少しでも利用者のためになるサービスを提供したいと考え、実践していった結果、私たちではこのように多岐にわたる業務内容を行うこととなりました。
 そのすべての前提としてあるのは、利用者の意思を尊重しているかどうかです。事業者や介護者の都合ではなく利用者の思いを最優先する仕事だと理解しなければいけません。

 利用者の意思の尊重――これが根幹にあり、それを目指すべく「専門性と効率性の実践」「人に社会に自分自身に誇れる仕事の実践」を社の方針として掲げている。
 立派である。
 利用者(=高齢者)の意思を尊重した介護なんて当たり前のことじゃないか、と言うなかれ。
 これが実際には一筋縄ではいかないのである。
  そのあたりの事情を知るには、著者が本文で紹介している介護施設サービスの3つの類型を揚げると分かりやすい。

 1. 完全管理型 
 決まったスペースで暮らし、決まった時間にご飯を食べお風呂に入り、決まった時間に消灯する。病院の入院生活にやや近いかもしれません。ただ、完全管理型の施設は、介護サービスが多様化した現代においてはその数を減らしつつあります。

 管理を徹底した先に、施錠(外出させない)・終日オムツ(トイレに行かせない)・拘束(転倒防止のためベッドや車椅子に縛り付ける)・チューブ栄養(口から食べさせない)がある。かつての「措置」時代の老人ホームが典型的だろう。

2. 非日常サービス提供型 
 介護職がつきっきりで世話をしてくれ、ホテルのように自分では何もしなくとも生活できます。中には温泉付きであったりご飯が豪華であったりというところを売りにしている施設もありますが、もちろんサービスが至れり尽くせりであればあるほど、費用はどうしても高額になります。

 入居費の高い有料老人ホームが代表であろう。

3. 日常生活支援型 

 自炊する日常生活のように、自分たちでできることはできるだけ自分たちで行い、介護職は「自分で行う」ことに対しての「支援」をするために存在するという施設です。

  入居者(利用者)の「尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう」というのが介護保険法の趣旨(=国の方針)なので、現在介護保険で行われているサービスは基本3のタイプを目指している(目指さなければいけない)はずである。
 が、現実には、「完全管理型」と「日常生活支援型」の間のどこかに、巷にある多くの介護サービスは存在していると言える。

 前提としていえるのは、これらのサービス形態において、どれが優れているかという安易な比較はできないということです。なぜなら、介護を受ける側やその家族の希望によって、メリットデメリットが変わってくるからです。

  そうなのだ。
 施設が「完全管理型」に近ければ近いほど、利用者の「安全」というメリットが大きくなる。施設にとっては「介護しやすい、効率がよい」というメリットもある。その代わり「不自由」「非人間的」というデメリットも付いてくる。
 「日常生活型」を推し進めていけば、利用者の「自由や尊厳」は守られる。だが、徘徊や転倒や事故によるリスクは高まる。介護者の労力は大きくなる。
 自立(尊厳)か、安全(命)か。

 わかりやすい例を出せば、施設の施錠である。
 多くの老人ホームでは入居者が勝手に外に出ないよう施錠したり暗証番号で鍵を開閉できるシステムを用いている。入居者のほとんどは多かれ少なかれ認知症状があり、高齢のため転倒しやすい。
 職員の目の届く施設の中においてすら、利用者が危険な行為をしないよう、車椅子から立ち上がって転倒しないよう見守るのは大変である。現行の人員基準だと、各勤務帯において職員1人で10名以上の利用者を見なければならない勘定になる。外出したがる利用者にひとりひとり付き添う余裕などはなからない。知らない間に利用者に離設(=脱走)された日には、上へ下への大騒ぎである。
 いや、それでも自由と尊厳が大切。本人の自由意志で外に出るのだから尊重すべきだ。ほうっておけばよいではないか。自己決定⇒自己責任だ。
 ――という意見もあろう。
 だが、人は一人では生きてはいない。家族がいる。本人が「もうどうせあと少しで死ぬのだから好きにさせてくれ」といくら声を大にして訴えようが、息子や娘がNOと言ったら事業者はそれを無視できない。何かあれば責任を問われるのは施設である。
 また、最近こういうニュースがあった。 
 
 2007年に91歳の認知症の男性がJR東海道線の線路内に入り、列車にはねられ死亡した。男性は介護なしでは日常生活が困難だったため、当時85歳の妻と、介護のために横浜から近所に移り住んだ長男の妻とが世話をしていた。男性が自宅を出たのは長男の妻が玄関を片付けに行き、そばにいた妻がまどろんだ一瞬のことだった。 事故から半年後に遺族はJR東海から手紙を受け取った。事故による損害賠償の協議申し入れだった。遺族が賠償を拒否したことでJRは提訴を起こした。提訴から3年経った今年8月、名古屋地裁は、遺族に対し「注意義務を怠った」として鉄道会社に720万円を支払うよう命じた。(毎日新聞2013年10月16日記事より抜粋)

 遺族は控訴したのでまだ決着はついていない。
 けれど、介護現場にとっては衝撃な判決である。
 この裁判がJRの勝訴で幕を閉じたとしたら、もう認知症患者はどこかに閉じ込めておくほかない。24時間行動を監視するなど無理なのだから。遺族が訴えられるくらいなのだから、公金で運営されている介護施設なんかは同様のことが起きたら絶対槍玉に上げられるだろう。そうでなくとも厳しい運営。巨額な賠償金でつぶれるのは必定である。
 しかも、この遺族は嫁さんを都会から呼んでまで、亡くなった男性をきちんと見守ろうという意志あった上での事故なのである。はなから「認知症でも外出自由」を方針としている施設など「無責任」の烙印を押されること間違いなかろう。
  自分も介護職のはしくれである。当然遺族の側に立ちたいのだけれど、JRの言い分も分かる。車両の修理費用、列車遅延による乗客への払い戻し、他社への振り替え輸送の費用、後処理にかかった人件費など、多額の損失を一体どこに請求すればいいのだろう。自殺だったら遺族に請求できる。だが、本人が認知症で責任能力がない場合は?
 記事によると、「認知症の人と家族の会」を運営している関係者の意見として「何らかの公的補償制度を検討すべき」とある。
 それはあったほうがいいだろう。
 しかし、お金の問題だけではない。
 亡くなった人や遺族を責めるつもりは毛頭ないが、もしこの男性が「完全管理型」の施設にいたならば防げた事故だったのでは…と思ってしまうのだ。そうすれば、列車に乗っていた大勢の人が不都合を被ることもなかったろう。列車の遅延で大切な用事をふいにしてしまうこともなかったろう。運転手が一生忘れられない心の傷を負うこともなかったろう。(運転手がこの事故で心を病んで失職するようなことになったら、家族が路頭に迷うようなことになったら、誰が責任を負うのだろう?)
 こういった社会的な影響を考えたときに、「防げることが可能なものは未然に防いでおくのが市民のつとめ」とどこかで思っている自分がいる。

  大起エンゼルヘルプの介護サービスは当然「日常生活支援型」である。これまでの介護常識を破って職員一丸となって利用者の自立支援を実践していることが「売り」なのである。
 それは手放しで素晴らしいと思う。自分の職場(老人ホーム)も少しでもその方向に近づければいいと思う。
 一方、「好きなときに外に出て行くという‘人として当たり前’を叶えることが、生活支援という仕事だと認識している」著者の会社の施設では日中はほぼ施錠をしないそうだ。現場の職員の気苦労は一通りではないであろう。よほど有能な職員が揃っているとみえる。  
 職員が目を離したすきに出て行ってしまった利用者がいたとしましょう。そんな場合でも、職員はどこを探せばいいかだいたいの検討がついています。毎日のコミュニケーションの中で、その人が好きなところや行きたいと思うであろう場所をヒアリングし、情報を職員全員で共有しているからです。
 しかし、うまくいくときばかりではありません。ときには利用者を途中で見失ってしまったり、出ていったことに気づけなかったりして、手の空いている職員総出で探しまわるといったこともあります。利用者が警察に保護されていたということもありました。私たちが目指している介護のスタイルは、万一の事故につながってしまうこともないわけではありません。危険と表裏一体で、理想を追い求めているのです。

 ここでも「天邪鬼」の自分は考え込んでしまう。
 警察だって暇じゃないのだ。迷子になった認知症老人を探したり保護したりするのに人と時間を取られて、その間に発生した事件や事故の解決に十分な力が注げなかったら、適切な介入をすることによって未然に防げた事件(たとえばストーカー被害など)が防げなかったら、それは社会的な損害ではないだろうか。
 盗難の現場にすぐに駆けつけられなかった。泥棒は姿を消したあと。
 被害者「どうしてもっと早く来てくれなかったんだ!」
 警官 「申し訳ありません。認知症の老人が自主外出したのを施設の人と一緒に探していたので。」
 ――なんて言い訳が通るだろうか。

  こうなると、「自立(尊厳)か安全(命)か」の問いかけは、さらに「個人か社会か」という問いにもなってくる。
 もちろん二者択一が間違っているのであり、正しい答えは――「自立も、安全も」、「個人も、社会も」――である。

  介護を必要とする人はこれから増える一方である。
 65歳~74歳を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と呼ぶが、団塊の世代が後期高齢者に達する2025年の時点で、介護が必要となる高齢者の総数は500万人以上(日本人の20人に1人)、そのうち認知症の老人が323万人と予測されている。
 500万人を「日常生活支援型」で介護することは可能だろうか。
 人と金とが足りないからといって「完全管理型」に戻ったら元の木阿弥である。

  中庸の道を探らなければなるまい。


 

● 本:『袋小路の向こうは青空~認知症と生きていくためのヒント』(鷹野和美著、法研)

治りませんようにほか 001 2008年刊行。

 著者は1957年生まれ。『がんばらない』で有名な鎌田實医師のもと諏訪中央病院の医療ソーシャルワーカーとして日本初の「老人デイケア」を企画運営。その後は大学(研究)と病院(実践)を行き来しながら、病院コンサルタント、自治体コンサルタント、講演活動、海外医療援助などを行ってきた。2008年より京都創生大学学長に就任。地域ケアを主眼とした高齢者福祉の研究者にして、開拓者にして、実践者にして、教育者にして、唱道者。
 アイデア(頭)とハート(心)とパッション(胸)とフットワーク(足)と気力(肝)とが見事に揃った才能豊かな人である。はじめてその存在を知ったが、こういう人がいるのなら日本の高齢者ケアも先行き暗くはないぞ~、と思う。

 地域ケアのコンサルタントとして著者自身が関わったいくつかの自治体の例が紹介されている。これが面白い。

① 北海道の本別町で2002年に始まった「やすらぎ支援事業」は、認知症介護の基礎的な研修を受けた「やすらぎ支援員」を町民の中から養成し、町内の認知症高齢者の家を訪問、話し相手になるサービス。介護保険の中では時間と仕事が規定されているホームヘルパーのできないところ、しかも認知症患者にとって最も大切なケアとも言える見守りとコミュニケーションをもっぱらとする。今で言う「傾聴ボランティア」のはしりであろう。
 認知症患者を持つ家族のレスパイト(息抜き)を狙って始まった事業であるが、それだけに終わらず、認知症の本人がどんどん清明になってきてしまったという。
 効果を知った厚生労働省がこの「やすらぎ支援員」を介護保険の制度として盛り込もうと打診したが、本別町の人たちは断ったらしい。賢明である。

 また、本別町では2007年に「徘徊SOSネットワーク」を作った。
 認知症高齢者の顔写真と特徴をあらかじめ町役場に登録しておいて、当人が行方不明になったときなどにその情報を公開し、地域全体が協力して探し出すシステムである。行政区域の境界線がしっかりしていて、人口も多くない地域だからできる良策である。
 一方、個人情報保護法の点でなかなか難しい面もあるらしい。著者の言うように、この場合、個人情報より「いのち」だろう。

② 長野県の泰阜(やすおか)村は「老人は死ぬ義務がある」を哲学に、医療・福祉政策を進めている。「口からものを食べられなくなったら生物としては最後だ、そこから先は何もしない」という方針で延命治療をしないから、老人医療費は日本屈指の低さになっている。その代わり(と言う訳でもないだろが)、村は一人に月100万円以上かけて在宅ケアを支援している。

 普通の町では介護施設に入ると月に50万円、在宅だと介護保険で36万円。ところが、泰阜村ではこの36万円ですむところを100万円かけて、在宅生活をぎりぎりまで保障している。本来、介護保険では36万円の限度額を超えた分は全額負担になるけれど、利用者に負担させるのは無理なので、その分を村が全額出しているのだ。しかも介護保険の分も、普通なら利用者が10パーセント負担するところを、4パーセントに軽減している。

③ 同じ長野県の栄村では、診療所長の次の一言、

 「莫大な資金をかけて、役に立たない健康診断をやるくらいなら、村の健康診断を全部やめてしまえ。そのやめた費用で、村人全員をヘルパー教室に通わせろ」
 その結果、村人のほとんどがホームヘルパーになってしまった。・・・・何かあったら、いちばん近い人が下駄履きで駆けつけることができるという意味で、俗に「下駄履きヘルパー」と呼ばれている。

 ヘルパーの資格を取ったからといって即良い介護ができるとは限らないけれど、「何かあったら隣近所で助け合おう」という心構えを醸成するのに良いアイデアだと思う。認知症の人への対応のコツなど(特にNG対応)は、知っていると知らないとでは結果が全然違ってくる。そのような隣人に囲まれている認知症患者は落ち着いて住み慣れた村を散歩できることだろう。


 このような地方でのユニークな取り組みをみると、こと福祉分野に限っては「井の中の蛙」は地方人ではなくて都会人なのかもしれないと思う。人口が少なくて、行政組織が小さい結果として政策の決定・施行までのスピードが速くて、高齢者の割合が高い(悠長に待っていられない)地方のほうが、柔軟な発想、思い切った先進的取り組み、住民の合意形成が安易なのかもしれない。


 また、著者は福祉国家デンマークの認知症ケアの様子を紹介している。
 欧米諸国の老人介護現場の様子を視察してきた日本人の誰もが感じたのと同様の感想を著者もまた述べている。
 すなわち、欧米諸国のケアの理念の中心を成すのは「自立」と「合理性」である。
 そのことはもう彼我の国民性の違い、民族としてのアイデンティティの相違であろう。日本人がこの2つを身につけるのは猫に犬芸を教え込むようなものである。なにも日本人が欧米人に比べて劣等だとか優秀だとか言うのではなく、ただ単に脳の構造に差があるのではないかと最近考えている。(たとえば、日本人が「風流」に感じる虫の声を、欧米人は雑音としてか聞けないというような・・・)
 ここで役に立つなあと思ったのが、著者が紹介するデンマークでの認知症ケアのコミュニケーション・メッソードである。
○ 名前で呼びかける
○ そばに立つ
○ 話すときはからだにさわりながら
○ 目線を合わせて話す
○ 目をそらさない
○ 一度に話す内容はひとつだけ
○ 話はていねいにする
○ はっきりした声で明瞭に話す
○ 命令調にならないように留意する
○ 身振り手振りを上手に使う
○ 高齢者よりゆっくり歩く(追い越さない)
○ 高齢者を急がせない

 日本では大汗をかいて、大声で話して、忙しそうにしていると、いい職員だと言われる。
 ところが、デンマークでもドイツでもスウェーデンでも、この三つをやっている職員は「仕事ができない人」と思われてしまう。

  う~ん。反省しきり・・・。
 
  最後に著者は、専門である認知症の地域ケアについてこうまとめる。 
 認知症は、アルツハイマー病や脳血管性疾患のように頭蓋内に病的変化があったり、身体的な廃用が原因であったりするから、その治療に医療が不可欠なのは事実である。しかし、認知症をひとり医学的治療の対象としたところから、現在の認知症の人に対するケアのあり方に多くの問題が生まれたとも考えられないだろうか。・・・・・少なくとも認知症ケアに関しては、認知症の人をとりまく家族や近隣の人々、周囲の環境まで含めたもっと大きな視点が必要であろう。
 ・・・・・・・
 認知症の人とその家族を支えるには、「生活丸ごとモデル」で考えるしかない。医療も介護も看護も福祉も隣組もなんでもかんでもひっくるめてひとつになって「地域をあげて看る」。つきつめれば、これがぼくの認知症ケアの結論だ。

 そう。
 考えてみると、地域(地縁・血縁・社縁)の崩壊と呼応するかのように、認知症老人が巷に現れてきたのであった。


追記:著者プロフィールによると、鷹野和美は㈱ワタミの介護のアドバイザーをしているそうである。(2008年現在) こればかりは不可解である。信じがたいような介護事故を連発するブラック企業にいったい何をアドバイスしているのだろう?
 そんなワタミを国会議員にしてしまった日本人。
  日本人総「認知症」化なのか。

 

● 仏教介護宣言 本:『看護と生老病死』(井上ウィマラ著、三輪書店)

看護と生老病死 2010年刊行。

 この先、自分のバイブル的存在(経典的存在?)になりそうな本である。
 出家の経験ある著者による「仏教」と「看護」とを結びつけた本なのであるが、自分が今、そしてこれからやろうとしていることは「仏教」と「介護」とをリンクさせることであり、「看護」という言葉をすべて「介護」という言葉に置換すれば、この本に書いてあることはそのまま自分の目標となり、導きとなり、後ろ盾となり、励みとなるからである。


本書は仏教の教えと瞑想的実践の本質を看護の臨床現場に手渡してゆく試みです。(「まえがき」より)

 その場合、「仏教」と言うのは、日本に古くから伝わる「大乗仏教」ではない。自分が軸足を置いて学び修行しているのは上座部仏教、釈迦の教えを現代までもっとも忠実に伝える、いわゆる「テーラワーダ仏教」である。
 著者の井上ウィマラは、曹洞宗とミャンマーのテーラワーダ仏教で出家し瞑想修行を行ってきた。その後、西欧諸国での瞑想指導や仏教研究を経て還俗。現在は高野山大学スピリチュアルケア学科で、スピリチュアルケアの基礎理論と援助法の構築と教育に取り組んでいる。
 井上の拠り所とする仏教はまさにテーラワーダである。


 現在自分は老人ホームの介護職をしているが、介護は看護より時間的にも距離的にももっと濃く対象となる相手の傍らにいる仕事である。看護の第一の目的が病気の治癒にあるなら、介護の目的は生活支援にある。西洋医学がメインの現代では、看護はどうしても手術や薬剤の投与に代表される、人間を生理機械として見立てた即物的なものになりやすい。自然、相手を見る視点も心より体優先になりやすい。一方、介護は、排泄や入浴や食事やレクリエーションなどをのサポートを通じて相手の心の声を聴く仕事である。
 また、老人介護の仕事は、病や死や親しい人との別れといった人生の危機に直面している人々との関わりである。認知症という、アイデンティティ(自我)の崩壊に苦しむ人々との関わりである。
 介護現場にこそスピリチュアル視点の導入が重要であり喫緊だと思っている。
 仏教系のビハーラ、キリスト教系のホスピスは日本にもいくつか存在しているが、ターミナルに至るもっと以前から、必要な介助を受けながら、老いと病と死とつき合うための教育の場があってもいいはずだ。

 老人介護の現場に仏教的視点や瞑想実践を取り入れることの利点は何か。
 何よりもまず、それが「老病死」の苦しみを和らげることである。
 

 仏教心理の視点から老年期について考えるとき、何かを獲得することによる幸せから手放すことによる幸せへの転換がどれだけできているかということがポイントになります。それまではできて当たり前だったことが加齢と共にできなくなってくること、すなわち自立や自律の喪失という現実と向かい合わねばならなくなるからです。
 
 ブッダの教えの根幹は「四聖諦」として表現されています。諦とは真理の意味で、四つの聖なる真理とは、生老病死の苦しみをありのままに知ること、その苦しみの原因を見いだして手放すこと、苦しみの消滅である涅槃を実体験すること、苦しみの消滅に至る実践の道を歩むことです。看護という臨床現場は生老病死のすべてを抱えています。それゆえに、生老病死の苦しみを見守るブッダの大いなる視点を看護の現場に応用することは、患者と看護者とが病苦を契機として共に苦しみからの解放に向かって歩むための灯を得ることになるのではないかと思うのです。

 
 老病死の苦しみは、むろん身体上のものであるが、より大きいのは心の苦しみであるのは言うまでもない。身体上の苦痛は最近では鎮痛剤などを使ってかなり軽減されるようになってきている。
 心の苦しみを作りだしている最大の原因は「自我への執着」である。
 仏教の「諸行無常」「諸法無我」「因縁」という教えこそ、この「自我への執着」という病に対するカンフルだと思う。
 
 無我とは、自我のないことではありません。人生は自我の思い通りにはならないという現実を受け容れて、試練に直面しても絶望して行き詰まってしまうことなく、試行錯誤しながら生き抜いてゆくしなやかな自我の強さを養うことです。
 
 認知症患者へのケアは、仏教の無我を実践的に深く理解するための重要な機会となり得ます。「私」という観念の成り立ちとその崩壊をありのままに見つめ、「私」という観念を手放す悲しみの道のりにそっと寄り添ってゆく学びです。
 
 次に、テーラワーダ仏教に伝わる瞑想法であるヴィパッサナー瞑想は、「今ここ」の自分の体や心に起きている現象を逐次認識する(実況中継する)のを特徴とする。自らをありのままに見て受け容れる作業である。
 修行の本来の目的である智慧の開発や解脱とは別に、この瞑想の実践は認知症の予防になるのではないかと推測している。
 と言うのも、認知症とは、「今現在の自分の状況を受け容れられないことから起こる自己否認」ではないかと思うからである。
 テーラワーダの伝わる国々(ミャンマーやタイやスリランカ)での、あるいはテーラワーダのお坊さん達の認知症の割合を知らないので何とも言えないが、もしこの推測が当たっているのなら、高齢化が猛スピードで進む日本にとってヴィッパサナー瞑想の普及は福音と言える。

 老人ホームで働いていて、利用者が日がな一日何もやることがなくてしんどそうにしているのを見ていると、「瞑想を知っていれば退屈しないのに…。」といつも思う。
 瞑想には目的がある。最終目的である「悟り」が啓けなくとも、智慧が開発される。それはワクワクするような面白いことである。効用もある。深い呼吸は身体にも心にも良いのは証明済み。免疫力を高めるというデータもある。心が満たされれば対人関係もスムーズになる。人生の最後の時間を誰にも邪魔されずに瞑想修行に充てられるなんて幸せではないか。介護を受けながらでも最後まで張り合いを持って生きられるではないか。(仏教では死ぬ時の心のありようが、次の転生先を決めると言われている。)

 また、ビハーラやキリスト教系のホスピスのように、施設全体がある特定の宗教を基盤として運営され、利用者が同じ宗教に学ぶ仲間であるのならば、そこには自然と助け合いの精神が生まれるだろう。介護を必要とする者同士が、お互いに助け合い、足りないところを補い合い、教え合い、学び合う場が生まれる。それこそ「サンガ」である。それは、社会や家族の軛を離れ、人生の最後を過ごすにふさわしいコミュニティたりうるはずである。

 一方、介護する側にも利点がある。
 一つには、職場がそのまま慈悲と智慧の学びの場、発揮する場になることである。何と言っても、助けを必要としている人が目の前にいるのだ。
 一つには、「老病死」と向き合っている老人達と関わることで、自らの修行の場となることである。
 
 私たちが生老病死という人生の現実にどのように対応するかというパターンは、私たちがどのような家族の中で育ってきたかという生育歴に強く影響されます。そこには、ある特定の感情パターンや思考パターンが親から子へと世代間を伝達されています。仏教では因縁と呼んでいるものです。私たちはそこに小さな意味での輪廻の姿を見ることができます。
 看護現場で困難に出会った時、自分が陥りやすい行き詰まりのパターンに遭遇した時、それは自分の生育歴を振り返ることが求められている時であり、輪廻する世代間伝達の悪循環に気づき、手放し、新たな良い循環を創造してゆくチャンスでもあるのです。こうした意味で、看護の現場は、微細なレベルでの輪廻パターンに気づき、手放し、新たな係わり合いの可能性を創造する総合的な智の実践の場でもあります。
 
 つまるところ、修行とは「自らを知る」ことにほかならない。
 介助を必要とする老人達と関わることによって生じた怒りや戸惑いや哀しみや虚しさや喜びや苦手意識をありのままに認めて、その感情の起こった背景や由来を探り出し、自我の構造を暴き出すのである。

 また一つには、仏教はターミナルケアを射程に入れる教えである。
 死に向かってゆく相手に対し、どのように接していくか、どのような言葉をかけていくか、どのように耳を傾けていくか。相手の表情や振る舞いや言葉から触発される自身の感情をどのように受けとめ、コントロールし、燃え尽きることなく介護を続けていくか。仏教は、瞑想は、役に立つはずである。(実際、いま役に立っている。)
 
 仏教的視点をもった看護では、死の間際の意識のあり方を大切に支援するという仕方で、そうした宗教的選択に寄り添いたいと思います。これはいかなる宗教を信じる人たちに対しても平等になされるべき仏教の基本的視点です。
 人が人生の最後に何を見るかを強制することはできませんし、強要すべきではありません。何を信じ、何を見て死んでゆくにしても、その人の死の間際の意識のあり方を大切にすること、すなわちできるだけよい状況で、不安や恐れなく、安心や感謝や喜びや希望に囲まれて、最後の景色を見つめて通過してゆくことができるようにケアすることが大切なのです。
 そうすることで、死を敗北として避けるのではなく、健康な人生の一部として自覚的に死を受容して生き抜いてゆけるように支援する医療や看護が可能になってゆくのです。

 今自分が働いている施設で、いきなり仏教的要素を取り入れるのは難しいだろう。職員にも利用者にもいろいろな宗旨の人がいるし、宗教には無関心あるいは反感を抱く人もいることだろう。それぞれの利用者の抱く信仰と儀式(お経を読むなど)を尊重するのがせいぜいである。介護保険という公金が投入されている関係上、特定の宗教色を目立たせるのも難しいだろう。(それもおかしな話なのだが。)
 だが、今施設にいる老人達は、神棚や仏壇を家に祀ってきた人がほとんどである。特定の宗派に強い信仰が無くとも、神仏に対する崇拝の念・畏敬の気持ちは持っている人が多い。施設の中に仏像を飾った仏間や神棚くらいあっても良さそうだと思うのだが・・・。朝夕に手を合わせるだけでも、心が格段落ち着いてくると思う。辛い時、悲しい時、寂しい時には、人生経験が薄いわりに大きな顔してのさばっている若輩の介護士なんかに話を聞いてもらうよりは、よっぽど拠り所になると思う。


 今は個人レベルで、介護する際のこちらの心の持ち方の土台(OS)として、仏教を役立てている。そのうち、より深いレベルで仏教と介護とをリンクさせていけたらよいなと思っている。



jpgppc




● 介護の仕事5 (開始10ヶ月)

 老人ホームで働いて10ヶ月になる。
 日々の仕事にずいぶん慣れた。身体の使い方や業務をこなす段取りが上手くなったと思う。更衣・入浴・オムツ交換など一つ一つの介助を行うスピードも上がってきた。
 業務を円滑に行う上で「慣れてきた」のはいいことであるが、一方で懸念すべきこともある。
 一つは緊張感を失い基本を怠った介助を行った結果、事故につながる可能性。山登りでも峠を越えて一安心した頃が一番危ない。先日も落薬ミスをしたばかり。利用者に薬を投与する際に床に一粒落としてしまい、他の利用者に指摘されるまでそれに気づかなかった。
 もう一つの懸念は、施設で働き始めた当初に感じた「違和感」が薄れてきていることだ。
 施設の外の世界(一般人の生活空間)と施設の中の世界(介護生活空間)とは勝手が違う。外の世界の「あたりまえ」が中の世界では通用しない。中の世界の「常識」が外の世界では「非常識」。当初、そのギャップに強烈な違和感を持った。「これでいいのだろうか?」「これしかないのだろうか?」という疑問を抱いた。が、最近はそれが薄れている。施設の「あたりまえ」がだんだんと自分の「あたりまえ」になってきているのを感じる。
 それは脅威である。
 やっぱり「あたりまえ」にしてはいけない部分があると思う。
 風化しないうちに、それをもう一度洗い出して、検討して、言葉にしておく必要を感じる。


1.「外に出られない」ということ

 いったん入所したら、利用者は自分ひとりではもう外に出ることができなくなる。家族が訪れて本人を連れ出すとき以外は、必ず誰かスタッフが一緒についていくことになる。そもそも一人で生活するのが困難な状態に、終始見守りが必要な状態になったから施設に入れられたわけであるから、当然と言えば当然なのだが・・・。
 ほとんどの利用者は、多かれ少なかれ認知症があるので一人で外出したら行方不明になりかねない。転倒や交通事故にあう危険もある。
 施設では、利用者が勝手に外に出ないようにフロアのすべての扉や窓を三重ロックにしている。スタッフだけが出入りできるようドアの開閉には暗証番号を用いている。
 一方、外出を希望する利用者に対して、その都度希望を叶えてあげる余裕はない。スタッフが圧倒的に足りない。
 利用者は、好きなときに好きなだけ外を散歩することもできない。
 我々の住む「外の世界」では考えられないことである。
 ある意味これは「幽閉」である。「監禁」である。
 介護の世界では「利用者の拘束は虐待にあたります。やってはいけません。」と言う。ベッド柵を閉める、居室に鍵をかけて閉じ込める、車椅子から立ち上がらないよう紐で縛る。そういったことには目くじらを立てるのに、大本のところで自由を奪っていることに呵責を感じていないみたいである。
 毎日夕刻になると、フロアを徘徊する利用者がいる。外に出ようと、あっちの扉、こっちの窓と渡り歩いて鍵を開けようとする。その姿を見ていると「いったい自分たちは何をしているんだろう?」と思うことがある。まるで牢屋の番人のようだとも。

 利用者の安全を守るために、これは仕方ないことだと分かっている。徘徊する利用者の姿にも慣れたし、その対応方法もつかんできた。外に出すわけにはいかない。利用者の家族に介護をまかされている以上、命を守る責任がある。
 かくして、自分の部屋と食堂、その二つをつなぐ廊下。それだけが利用者の生活空間になる。
 働き始めた頃、あまりに覚えることが多いのと緊張とで毎日がストレスフルであった。仕事を終えて帰るときにこう自分に言い聞かせて励みとした。
「それでも自分は帰るところがあるだけマシだ。自由に外に出られるだけ幸せだ。」


2.「好きなものが食べられない」ということ

 長年、自分は、好きな物を好きな時に好きな形態で好きな量だけ食べる(飲む)のをあたりまえとする生活をしてきた。健康やメタボを考えて食べる量を減らしたり、食べる物を制限したりということはあるけれど、それだって結局自分の意志でやっていることである。食べたくないのに無理やり食べさせられる、飲ませられることもない。(学生時代、クラブの先輩に酒を強要されたくらいか・・・)
 施設ではこの自由も奪われる。
 朝昼晩メニューは決まっている。みんなと同じものを食べるほかない。量も決まっている。おかわりもできない。持病によって様々な食事制限がある場合、あらかじめメニューからはずされてしまう。(例えばワファリン服用者は納豆が禁止) 誤嚥による窒息や肺炎を防ぐために食事の形態も決められてしまう。元の食材が何だったか分からないほど、細かく刻まれたり、SF映画に出てくる宇宙食みたいにカラフルなペースト状にされる。酒やタバコも施設内ではダメである。これは健康上の理由もあるが、集団生活であること、防災上の理由もある。
 人間にとって最大の楽しみの一つである食べること。その自由が奪われる。
 一方、現在ホームにいる老人たちは、日本が貧しかった時代を生きてきた。子供の頃のひもじい思い、戦中戦後の食料難を知っている。「食べられる物があれば恩の字」という考えの人も多い。飽食の時代を生きている戦後生まれのような食に対するこだわり(グルメ)やわがままは希薄である。そこは救いかもしれない。
 食べることへの執着を手放していかないと老後は辛い。


3.「始終監視される、あるいはプライバシーがない」ということ

 安全を守るという大義名分のもと利用者は一日中監視下に置かれる。これを介護用語では「見守り」と言う。

 勝手に部屋の扉を開けられる。
 勝手に部屋に入られる。
 知らないうちにセンサーマットを入れられる。(転倒リスクの高い人がベッドから降りるたびに鳴り響く仕組み。)
 勝手にトイレの扉を開けられる。
 勝手にトイレに入ってこられる。
 用を足している間も職員が傍らに立っている。
 一人でゆっくり風呂に浸かれない。

 外の世界では考えられない話である。裁判沙汰になってもおかしくないことばかり。
 たとえ集団生活であっても、自分の部屋やトイレの個室や浴室は、人が独りっきりになってリラックスできる唯一の場所である。その空間が奪われるなんて今の自分には考えられない。
 最初のうちは利用者が用を足している脇で排尿や排便の音を聞きながら突っ立っているのに抵抗があった。逆の立場なら恥ずかしいのと緊張とで出るものも出ないだろう。
 だが今はやっている。一人で姿勢を保って便器に座るのが困難な人の場合、仕方ないからである。それができる人ならば、便器に座ってもらったら基本いったん外に出る。が、再度トイレに入る際にノックはするが返事は待たない。利用者に拒否権はない。
 翌日の入浴準備をするため、利用者が食堂にいる間に利用者の部屋に無断で入って利用者の衣類を引っ掻き回す。最初は戸惑ったことも今ではやっている。女性の下着だからとて容赦しない。外の世界で同じことをやったら、「空き巣」「プライバシー侵害」「準わいせつ罪」である。(無論、自分で準備ができる方には声がけしてやっていただくようにしている。)
 こういった非常識がまかり通るのは、利用者に認知症があって自力ではできないからであり、権利の侵害に無反応になっているからであり、「介護されているんだから仕方ない」という弱み(あきらめ)があるからである。そしてまた、業務があまりに忙しくて、すべてのことについて、いちいち一人一人の利用者の許可を得て介助するのは到底不可能だからである。

 自分のプライバシーについての感覚がずいぶん麻痺していると思う。外の世界の生活に波及しないといいが・・・。)


4.「好きな時に起床できない、横になれない」ということ

 隠居してせっかく丸一日自由な時間が得られたというのに、悠々自適な老後だったはずなのに、施設に入れば一日のスケジュールが否応無く決まってしまう。「今日は昼まで布団の中でゴロゴロしていたい」「どうせ起きても何もすることがなくて退屈だから寝ていたい」と思っても、具合が悪くない限り職員が起こしに来る。日曜・祝日も関係ない。
 規則正しい生活は健康維持には欠かせないし、日中臥床してしまうと夜眠れなくなり、しまいには昼夜逆転してしまう。夜勤スタッフにとって、夜中にフロアをふらつく利用者、トイレ頻回の利用者はごめんこうむりたいところである。それに、寝てばかりいて筋力が落ちるのも、褥瘡ができるのも困る。
 最初はこうしたことが分からなくて、「なんで本人が寝たいと言っているのに寝させてあげないんだろう?」と思っていた。
 大体、自分の基本的な考え方は「もうここまで十分生きてきたのだから、あとは好きにさせてあげたら・・・」なのである。が、それを認めてしまうと、負担は我々職員に跳ね返ってくる。一人一人の利用者の好き勝手を援助していたら、到底手に負えなくなる。
 丸一日時間を好きに使える休日を持てることの贅沢さを、この仕事を始めてから一層強く感じるようになった。


5.リハビリする意味って・・・?

 介護にはリハビリも付きもの。
 体の状態が良くなり、運動機能が上がり、自分でできることが増えることは、基本的に良いことである。トイレだって体を洗うのだって他人の手を借りるより自分でできたほうが良いに決まっている。トランス(移乗)だって柵をつかみながら自力でできれば、職員の手の空くのをじっと待っている必要はない。結果として、職員の負担も減る。
 一方で、首をかしげてしまうケースもある。
 これまで車椅子でしか動けなかった人が、リハビリの成果で杖で歩けるようになった。認知があるのでフロアを行ったり来たり徘徊する。忙しい職員は四六時中見守っていることはできない。それはつまり「転倒リスクを高めた」と言うことでもある。で、転倒して骨折して車椅子に逆戻り。
「いったい何をやっているんだろう?」


 歩けるようになることは若いクララ(『アルプスの少女ハイジ』)にとっては喜ばしいことである。好きなところに自分の足で行くことができる。散歩も買い物も海外旅行もできる。汗水流して働くことだってできる。恋愛の機会だって増える。
 一方、施設の利用者は歩けたところで家に帰れるわけじゃなし、自由に外出できるわけじゃなし、仕事が待っているわけでもない。歩けた先の目的がない。
 リハビリする意味って何だろう???と思うことがたまにある。
 もちろん、本人が自分から望むならばそれをサポートするのが職員の務めである。が、リハビリを拒否する利用者に対し、なんとかその気にさせようとする意味が見えない。言葉が見つからない。
「あなたが自分で立てるようになると、介護する私たちがラクになるんですよ」とでも言うのか。


6.「暇をもてあます」ということ

 一番の違和感というか粛然とさせられたのがこれだ。
 日がな一日、何するでもなくボーッと食堂の椅子に座っている利用者達。「することがない」とはこんなに辛いものかと思う。
 テレビを観るでなし(耳が遠い、目がよく見えない、世間的なことにもう関心がない)、他の利用者と会話するでなし(認知がある、耳が遠い、自分の話を聞いてほしい人ばかりで会話が成り立たない)、何か趣味に没頭するでなし(体の損傷でできなくなった、認知でできなくなった、インドアで一人でできる趣味を持っていない)、インターネットやゲームに興じるでなし・・・。職員が行うレクリエーションに参加するか、おしぼりをたたむのを手伝うか、トイレと食席を往復するか・・・。自発的に何かを楽しむということがない人が多い。
 もちろん、そうでない人もいる。自分の部屋にこもって好きな読書をしている人もいれば、パソコンをいじっている人もいれば、編み物している人もいる。積極的にフロアの手すりを使ってリハビリする人もいる。
 だが、多くの利用者は暇をもてあましている。
 これは世代的な理由もあるのだろうか。仕事や家事だけに生涯を捧げてきて趣味や娯楽に興じる機会の無かった世代の特徴だろうか。それとも年を取ると、様々なことに興味が失われてしまうのか。あるいは認知症のため集中力がキープできないためだろうか。
 日本人の平均寿命がそんなに長くないうちは、老後も短かった。仕事ができなくなってお陀仏、子供を生んで育てて孫の子守してご臨終、という切りの良さがあった。
 いまや職業生活を終えてから、家族の世話係を終えてから先の人生が長い。
 人生の最後の空いた時間に自分は何をするか、何ができるか。それを考えておくことの大切さを思わざるを得ない。


7.「嘘をつくこと」について

 これは個人的にしんどい部分である。
 認知症の利用者に対して「嘘をつく」のは日常茶飯事である。
 夕刻になると帰宅願望が起こる人は多い。「そろそろお暇します」とか「勘定お願いします」とか「家に電話して迎えに来るよう家族に伝えて下さい」とか言って、フロアをウロウロし始める。この状態を「不穏」と言う。
 職員はうまくなだめて落ち着かせなければならない。下手に対応すると感情的になって、職員や他の利用者への暴力行為につながったり、他の利用者にも「不穏」が伝染してフロア全体が収拾つかなくなったりするからである。出口を探して徘徊しているうちに転倒する危険もある。
 そんなときにやってはいけない対応は、「なに言っているんですか。あなたはここに入所しているんですよ。ここがあなたの家ですよ。帰れませんよ。」と、相手の言うことを否定して本当のことを伝えることである。本人が納得しないばかりか、職員との信頼関係が壊れいっそう不穏状態がひどくなる。
 対応の基本は、相手を否定しない。無理に説得しようとしない。
 たとえば、こんなふうに言う。
「今日はもう遅いからここに泊まって、明日お帰りになりませんか」
「わかりました。ご家族に連絡いたしますね。その間、夕食をご用意しましたので、良かったら召し上がって行ってください。」
 むろん、「明日お帰り」も「家族に連絡」も嘘である。当座をしのいで、帰宅願望のピークをやり過ごすのである。「方便」と言えば聞こえはいいが、やはり嘘には変わりない。

 自分が嘘をつきたくないのは、正直者だからではない。
 仏教徒として守るべき五戒の一つを破ってしまうからである。

 一、殺してはならない。
 一、盗んではならない。
 一、淫らな行為をしてはならない。
 一、嘘をついてはならない。
 一、酒や麻薬などを摂取してはならない。


 一番最後の「酒を摂取」がそうそう守れないので、せめてあとの四つくらいは守りたいと思っているのである。
 この仕事をやっている間は難しそうだ。


 こうして違和感を洗い出していくと、介護という行為の性質上、「仕方ないもの、止むを得ないもの」もあれば、スタッフの増員などの条件が整えば「改善できるもの」もある。暇をもて余している利用者への対応など、「何らかの工夫の余地があるもの」もある。そのあたりを見極めていくことがポイントだろう。
 また、こちらの見方・考え方を変えることで、取り組み方を変えられる場合もありそうだ。


 介護という仕事は、人の権利や羞恥心を踏みにじったところに成り立つ「やくざな仕事」である。
 プライドや喜びをもって精を出すのは全然構わないが、決して威張れるものではない。



前段→介護の仕事4

後段→介護の仕事6 

● 本:『目からウロコ!まちがいだらけの認知症ケア』(三好春樹著、主婦の友社)

20120909認知ケア 2008年発行。

 介護業界のカリスマ、三好春樹の本。
 業界の新参者として日々老人ホームで認知症老人の対応に苦慮する自分にとって、わらにもすがる思いで手にした本である。
 って、ちょっと大袈裟。

 就職してまだ半年にもならないが、認知症の老人たちとのつき合いを通じて得た実感は、「認知症とは、今ここにある現実の自分自身を認知したくないことからくる様々な症状」なのではないかというものである。 

 老いて病んで、他人の手を借りずには日常生活(食う、出す、着替える、風呂に入る)が送れない自分。家庭からも会社からもリタイアして、悠々自適と言えば聞こえはいいが、誰からも必要とされなくなった自分。もはや将来に何の夢も希望も計画も楽しみも持てなくなった自分。お国のお荷物として人様に迷惑かけながら老残の身をさらし、あとは死を待つばかりの自分。
 こういった自分を受け入れるのは辛すぎる。と言って自殺するわけにもいかない。

 いっそのことすべてを忘れてボケてしまえ!

 といって自制のタガをはずすのが認知症の正体なのではないか。


 もちろん、脳の萎縮といった生理学的な原因もあるだろう。年を取れば記憶力をはじめとする様々な精神機能が衰えるのも自然だろう。
 しかし、それが徘徊や暴力や見当識障害や被害妄想などの認知症特有の問題行動に即つながるとするのは早計である。なぜなら、多少ボケてもそれなりに落ち着いた暮らしをしている老人はたくさんいるからだ。

 こんなふうに感じたのも、施設に収容されて全員一緒の同じ日課を強いられている老人たちを見ていると、「つらいだろうな~」「しんどいだろうな~」と思わざるを得ないし、ある程度「自分」をまだしっかり保っている老人を一対一で介助している最中、ほとんどの人が絶望の嘆きを漏らすのに直面するからである。
 と言って、自分の勤めている施設やそこの介護の質が特段悪いわけではない。
 今の日本社会で、地域で、家庭で、老人達が置かれている環境が悪いーというか、昔とすっかり変わってしまったのが大きな原因だと思う。
 簡単に言えば、老人は敬われなくなった。


 一人前の介護職っぽいことを言ったが、この本で著者が述べていることも自分の実感とそう変わりはなかった。
 三好は、認知症の原因として挙げられているいくつかの説(脳の病気、遺伝子、個人の性格、これまでの生活環境)について検討を加えながら、次のように結論づけている。

 「認知症」は、老いていく自分を認めることができなくなったことから起きる、と考えるのが一番だろうと私は思います。老いていく自分を認められない老人が、障害による機能低下、人間関係の変化などをきっかけとして起こす「自分との関係障害」です。


 自分との関係障害。
 なんてうまい言い方をするのだろう!
 「これまでの自分(かくあった自分)」と「いまの自分(かくある自分)」との落差による葛藤、混乱、落ち込み、否認。
 としたら、落差の大きい人ほど、自我の強い人ほど認知症状もひどく顕れるという仮説が成り立つ。
 う~ん、そうかもしれない・・・・。


 重要なのは、しかし、原因追求よりも介護のコツ、目の前の認知症老人にどう対応するかである。

 介護の側が目ざしているのは、「認知症」そのものを治すことではなく、老人が落ち着き、日々の生活を安定して送れることです。徘徊や異食(食べ物ではないものを口にする行為)などの問題行動が見られたら、その原因を探り、対応を考えていくのです。逆に、「認知症」であっても、問題行動がなく、落ち着いて生活できていれば、それでいいということになります。

 ここで著者は、国際医療福祉大学の竹内孝仁氏が提唱し、介護現場で共感を持って受け入れられた認知症の3つのタイプを紹介する。

葛藤型 ・・・情緒不安定で怒ったり、おびえたりする。暴言を吐き、ときには暴力を振るう。若くて社会的地位もあったかつての自分と、老いて介護してもらっている現在の自分との間で、葛藤が起きている。
 効果的な対応は、役割づくりと理解者の存在。


回帰型 ・・・見当識障害と徘徊を主な症状とする。現在の老いた自分ではなく、かつての人から頼られていた自分に帰っている。
 「ここは自分のいるべき場所であり、現実の老いた自分が自分であり、それでもいいのだ」と思ってもらえるような“いま、ここ”をつくり出すことがケアの目標。

遊離型 ・・・問題を起こすわけではないが、自分からは何もしなくなる。現実がから遊離して無為自閉している。
 効果的なのは、みんなで楽しむ多彩な刺激とスキンシップ。「生きているんだ」「生きていてよかった」と実感してもらえるような生活や体験をしてもらうことが目標。

 もちろん、すべてのケースが3つのいずれかに簡単に分類できるものではなく、「混合型」や「移行型」もあると言う。

 この分類、現場で働いている人間の実感として確かに頷けるところが多い。
 「ああ、会社社長をしていたAさんはまさしく葛藤型だ。突然怒りだすし。」とか、「専業主婦で家事が得意だったBさんは回帰型だ。夜になると徘徊が始まるし。」とか、「一日フロアのテーブルで虚空を見つめてボーっとしているCさんは遊離型だな。」というように、うまくあてはまるケースがすぐに思い浮かぶ。 
 これを知っただけでも、この本を買った価値があった。


 他にも非常に啓発的な文章があった。

 専門家がよく言う言葉に「自己決定」があります。介護で最も大切なことは、老人の自己決定を大切にすることだというのです。しかし、老化や惚けは、その自己が解体されていく過程です。何も決定しなくなった認知症老人に対しては、どんな介護をすればいいのでしょうか。
 そのときは、介護者自身がどうあってほしいか、さらにはどうしたらいいかを老人にぶつけるべきなのです。「自己満足じゃないか」といわれるかもしれません。でも、自己嫌悪よりはマシです。それが老人の要求に沿っていたかどうかは、なにより老人の表情で判断できるはずです。


 介護とは、要介護者を主体とした、その人のための生活づくり、関係づくりです。

 介護職の適性を考えるとき、男女を問わず「母性」が大切な要素になることは以前から指摘されてきました。それは、「いまよりよくなる」ことを求める医療とは異なり、「いまあるがままを認める」介護では、「条件をつけないで受け入れる姿勢」が求められるからです。
 「無条件で受け入れる」ことは、母性の基本です。介護の専門家は、豊かな母性のうえに専門性が付加されている人でなければなりません。


 自分はどうだろう?
 世間一般の男より母性はあると思うが。
 人の「あるがまま」を受け入れるには、まず自分の「あるがまま」を受け入れられることが大切だろう。

 難しいな。




● 本:『「痴呆老人」は何を見ているか』(大井玄著、新潮新書)

痴呆老人は何を見てるか 2008年発行。

 著者は、終末期医療に取り組む医師である。
 痴呆老人、いわゆる認知症の老人たちとの日々のつき合いを通じて得られた様々な洞察や知見が出発点となって、著者の思想はいろいろなテーマへとつながり、発展し、深化していく。

 認知症に対する欧米人と日本人の受け止め方の違い、認知症の人との関わり方のコツ、彼らの見ている世界を理解しようとする著者の試みは認識論へと読者を誘い、それは「私とは何か」という哲学の究極テーマにつながっていく。「私」に対する考察はまた、欧米と日本(アジア)の世界観、人間観の差異をえぐる文明論を惹起し、認知症老人と「ひきこもり」の若者の生き難さを「世界とのつながり感覚の欠如」という命題でもって結びつける。
 200ページたらずの薄い本であるが、示唆するものの多さ、内容の深さは、とどまるところを知らない。熟読玩味すべき本である。

 著者のプロフィールとタイトルからは、認知症の高齢者を理解するポイントが書かれている医学書かと早とちりしてしまうが(むろん、それも書かれている)、全体的には思想書と言っていいだろう。


 認知症高齢者の介護に携わる者として、心に留め置きたい文章。


 「痴呆」になったら延命処置を拒否する理由として、日本では圧倒的多数が「家族や周囲の人に迷惑をかけたくないから」と答える、と述べました(日本尊厳死協会のアンケート調査)。しかし、アメリカを中心とした英語の文献からうかがわれる「痴呆を恐れる理由」は、圧倒的に「自己の自立性が失われるから」でした。


 「延命」努力が日本社会でまだ最優先されている情況の底流には、貧しい環境の中で仲間同士がはげましあって生きてきたという倫理意識があるようです。いうなれば、死にゆく者を引きとめようとする周囲の力、つながりの強さの現れでもあります。


 認知能力(特に記憶力)が低下することで、現在の環境へのつながりが失われます。自分はどこにいるのか、なぜここにいるのか、今はいつなのか、つながりを築こうとする努力は報われません。つながりが感じられない世界は心象的によそよそしく、混乱し、理解できない様相を示しています。そこに生じる情動は不安が主たるもので、たやすく恐怖へと成長します。不安、恐怖、怒りなど、いのちが脅かされたときに生ずる情動がコントロールできなくなった瞬間、せん妄状態に移行していくように見えます。


 痴呆状態にある人と「心を通わす」とは、記憶、見当識の低下などの認知能力の低下によって彼らに生ずる「不安を中核とした情動」を推察し、それをなだめ、心おだやかな、できれば楽しい気分を共有することです。そのためには細かい行動学的観察に基づく個別化された接近方法が必要ですが、しかしまず、自分は彼らと連続した存在であり、彼らは、実は「私」であるということを確信しなくてはなりません。


 認知能力の落ちた高齢者にとっての「うまいつながり」とは、・・・・・
1. 周囲が年長者への敬意を常に示すこと、
2. ゆったりした時間を共有すること
3. 彼らの認知機能を試したりしないこと
4. 好きなあるいはできる仕事をしてもらうこと
5. 言語的コミュニケーションではなく情動的コミュニケーションを活用すること、
などによって形成されるものと考えられます。



 最後に、「私」とは何かに対する著者の洞察。
 

 今までの「私」や「人格」についての議論を総括すると、「私」「人格」もある現象であって、条件が整っている限り、種々の因子がおたがいに関係しあってその現象を生ぜしめている、ということです。つまり、仏教のいう、すべては「因縁」によって生起しているという法則にまとめることができるように思います。換言すれば、「実体的自我」は、ヒトの発育過程でも、死に近い老いの過程でも観察できないのでした。
 
 そう。認知症の人との関わりの面白さは、構築された「私」の脆弱さを眼前にするところにあると言ったら不謹慎だろうか。


記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文