伊勢神宮は日本の神社の中で別格というか破格の地位にある。山で言えば富士山みたいなもので、一つだけ抜きんでている。古来ここは天皇のみが参拝できるお宮だったのである。
ソルティは20代と40代の時に行った。都会から離れた風光明媚な伊勢志摩の地にあって、深い森と清らかな五十鈴川に守られ、実に気持ちのいいところであった。パワースポットブームが来る前のことであるが、参拝した後は身も心もすっきりしてすがすがしい気持ちになった。
- なぜ、当時の都(近畿圏)からこんなに離れたさびしい土地にあるのだろうか?
- なぜ、内宮と外宮の2つがあるのだろうか?
- なぜ、外宮から先にお参りしなければいけないのだろうか?
- なぜ、外宮の主祭神が記紀ではあまり登場しない地味な豊受大御神(とようけのおおみかみ)なのだろうか?
- なぜ、20年に一度の式年遷宮があるのだろうか?
著者が掲げている謎は、見事に上のソルティの抱いた疑問と一致している。まあ、普通に考えれば誰でも同じ疑問を持つか。
第一章 創建の謎
第二章 祭神の謎
第三章 祭祀の謎
第四章 外宮の謎
第五章 式年遷宮の謎
著者は『古事記』『日本書紀』『風土記』はもとより、平安時代に書かれた神道資料である『古語拾遺』や、もっとも古い伊勢神宮公式文献である『皇太神宮儀式帳(内宮)』および『止由気宮儀式帳(外宮)』や、鎌倉時代に外宮の神職であった度会(わたらい)氏が書いたとされる『神道五部書』などを読み込んで、さらに江戸時代の国学者である本居宣長や平田篤胤の見解にも触れ、これまでに唱えられたいろいろな説を紹介しながら伊勢神宮の謎に迫ろうとしている。ちょっとした推理小説のようで、なかなか面白かった。
ガックリ。
むろん、上記の古い資料の記述(神話)をそのまま信じるならば、1と2と4は説明がついている。たとえば内宮創建に関して言えば、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)以来、天照大御神は天皇のお側でお祀りされていましたが、第10代崇神天皇の御代、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を立てて大御神をお祀りしました。
その後、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国に入られました。
『日本書紀』によると、そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われ、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしました。(伊勢神宮公式ホームページより抜粋)
しかし、『日本書紀』における垂仁天皇の御代は約2000年前である。弥生時代の真っただ中。いくら何でもなあ・・・。
支配者の作った官製の記録は、権力の維持と誇示に都合がいいように編集されるのは今も昔も変わりない。信憑性に欠ける。そのまま信じるわけにはいくまい。
今や正解を導くことができないということは、逆にどんな説も打ち立てられるということである。そこで、ソルティはこのように想像(創造)した。
- なぜ、当時の都(近畿圏)からこんなに離れたさびしい土地にあるのだろうか?
⇒もともと伊勢には土地の人に信仰されている神がいた。おそらく土地柄、太陽を祀る神と豊漁・豊作を祈る神であったろう。大和朝廷が武力侵略を行い支配権を奪い、神殿を破壊し、古い神の代わりに天照大御神を祀った。 - なぜ、内宮と外宮の2つがあるのだろうか?
⇒はじめは天照大御神(内宮)だけだったが、土地の民の反乱を抑えられなかった。また、祟りを思わせるような事件が朝廷に頻発した。そこで、もともとの土地の神のための宮もほぼ同格の規模で造ることになった。それが外宮である。 - なぜ、外宮から先にお参りしなければいけないのだろうか?
⇒もともとの土地の神の怒りに触れないようにである。 - なぜ、外宮の主祭神が記紀ではあまり登場しない地味な豊受大御神(とようけのおおみかみ)なのだろうか?
⇒豊受大御神こそがもとからの地元神である。天照大御神と並んで祀られる奇怪さをカモフラージュするため『日本書紀』にその名を入れ込んだのかもしれない。また、外宮正殿には豊受大御神と一緒に“正体の明かされていない”3柱の神が祀られているそうである。なんとなく諏訪大社の地元神であるミシャグチや、ソソウ神、チカト神、モレヤ神などを連想させる。 - なぜ、20年に一度の式年遷宮があるのだろうか?
⇒式年遷宮はそもそも地元の神の怒りを鎮めるための呪い(まじない)だったのではないか。その呪いの有効期限が20年だったのでは?
本書で初めて知ったのだが、伊勢神宮の内宮と外宮の正殿の下には「心御柱(しんのみはしら)」というのが埋められているそうである。
下というのは、正殿は高床式の建造物だから正殿の床と地面は広く空いており、床下に心御柱が立っているということだ。それはまた正殿のうちに安置されている御神体(ソルティ注:内宮にある八咫鏡)の、真下という位置になっているらしい。
柱とはいっても、何かを支えていたり接続しているものではない。したがって正殿という建築物に力学的に関わるものではなく、装飾といったものでもない。
御神体を除いてあらゆるものが作り替えられる式年遷宮においては、心御柱も作り替えられるけれども、新しく正殿が建てられるまでかつての正殿の下にあった心御柱は残され、古殿地の覆屋の中にあるらしい。
式年遷宮のとき、まず最初に行われるのは、山で用材を伐り出すことの安全を祈願する山口祭である。そしてその日の夜、実際に用材の伐採が行われるのだが、まず最初に伐採されるのは心御柱のための木で、この祭を木本祭という。神殿のための御樋代の用材を伐る御杣始祭や御船代の用材を伐る御船代祭に先立って、夜中に木本祭が行われるということは、心御柱の重要性、神秘性を思わせる。
この心御柱の役目というか意味するものが何なのかもまた謎に包まれている。御神体と同じように神聖視され、神宮職にある者はあれこれと語ることすら憚っているのだそうだ。古文書では「陰陽の原」「万物の体」「皇帝の命」「国家の固」と説明されたり、八咫鏡同様に天照大神の御神体だとする説や、天照大神より以前の古い太陽神である高皇産霊尊(たかむすびのみこと)の御神体の名残ではないかという説もある。
式年遷宮を終えたあと更地の上に残された心御柱は、次の遷宮までの20年間覆屋で隠され、次の遷宮のときに(つまり40年ぶりに)地面から抜かれて処分される。
役目を終えた古い柱はどうなるのか。
鎌倉時代後期の『大神宮両宮之御事』に次のように記される。「古い柱は荒祭宮の前にある谷に、葬送の儀式によって送る。この谷を地獄谷という。人は知らない秘事である」。
もっとも重要でもっとも神聖な心御柱を「葬送の儀式によって地獄谷に送る」とは!
やっぱり何だか呪い(まじない)くさい。
心御柱こそが、もともと彼の地に住まわれていた神様とその怒りを封じ込める杭なのではなかろうか。
――なんて永久保貴一的な想像を巡らせるのは楽しい。