ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

諏訪大社

● 永久保的 本:『伊勢神宮の謎』(稲田智宏著)

2013年学研パブリッシング発行。

 伊勢神宮は日本の神社の中で別格というか破格の地位にある。山で言えば富士山みたいなもので、一つだけ抜きんでている。古来ここは天皇のみが参拝できるお宮だったのである。
 ソルティは20代と40代の時に行った。都会から離れた風光明媚な伊勢志摩の地にあって、深い森と清らかな五十鈴川に守られ、実に気持ちのいいところであった。パワースポットブームが来る前のことであるが、参拝した後は身も心もすっきりしてすがすがしい気持ちになった。


五十鈴川
五十鈴川(内宮)の御手洗場


 最初に訪れた時から不思議に思っていたことがある。
    1. なぜ、当時の都(近畿圏)からこんなに離れたさびしい土地にあるのだろうか?
    2. なぜ、内宮と外宮の2つがあるのだろうか?
    3. なぜ、外宮から先にお参りしなければいけないのだろうか?
    4. なぜ、外宮の主祭神が記紀ではあまり登場しない地味な豊受大御神(とようけのおおみかみ)なのだろうか?
    5. なぜ、20年に一度の式年遷宮があるのだろうか? 
 不思議には思ったが、特に調べることもなくこれまで過ごしてきた。神話に属することに理由を求めても仕方がないと思っていた。

 近所の図書館でこの本を見つけてなんとなく惹かれるものがあった。間もなくやって来る皇位継承のせいかもしれない。
 著者が掲げている謎は、見事に上のソルティの抱いた疑問と一致している。まあ、普通に考えれば誰でも同じ疑問を持つか。
第一章 創建の謎
第二章 祭神の謎
第三章 祭祀の謎
第四章 外宮の謎
第五章 式年遷宮の謎

 著者は『古事記』『日本書紀』『風土記』はもとより、平安時代に書かれた神道資料である『古語拾遺』や、もっとも古い伊勢神宮公式文献である『皇太神宮儀式帳(内宮)』および『止由気宮儀式帳(外宮)』や、鎌倉時代に外宮の神職であった度会(わたらい)氏が書いたとされる『神道五部書』などを読み込んで、さらに江戸時代の国学者である本居宣長や平田篤胤の見解にも触れ、これまでに唱えられたいろいろな説を紹介しながら伊勢神宮の謎に迫ろうとしている。ちょっとした推理小説のようで、なかなか面白かった。

 結論だけを言えば、ソルティが上げた5つの謎の正解は「今となってはわからない」である。
 ガックリ。
 むろん、上記の古い資料の記述(神話)をそのまま信じるならば、1と2と4は説明がついている。たとえば内宮創建に関して言えば、

 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)以来、天照大御神は天皇のお側でお祀りされていましたが、第10代崇神天皇の御代、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を立てて大御神をお祀りしました。
 その後、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国に入られました。
 『日本書紀』によると、そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われ、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしました。(伊勢神宮公式ホームページより抜粋)

伊勢神宮内宮
伊勢神宮内宮
 

 しかし、『日本書紀』における垂仁天皇の御代は約2000年前である。弥生時代の真っただ中。いくら何でもなあ・・・。
 支配者の作った官製の記録は、権力の維持と誇示に都合がいいように編集されるのは今も昔も変わりない。信憑性に欠ける。そのまま信じるわけにはいくまい。


 今や正解を導くことができないということは、逆にどんな説も打ち立てられるということである。そこで、ソルティはこのように想像(創造)した。
  1. なぜ、当時の都(近畿圏)からこんなに離れたさびしい土地にあるのだろうか?
    ⇒もともと伊勢には土地の人に信仰されている神がいた。おそらく土地柄、太陽を祀る神と豊漁・豊作を祈る神であったろう。大和朝廷が武力侵略を行い支配権を奪い、神殿を破壊し、古い神の代わりに天照大御神を祀った。
  2. なぜ、内宮と外宮の2つがあるのだろうか?
    ⇒はじめは天照大御神(内宮)だけだったが、土地の民の反乱を抑えられなかった。また、祟りを思わせるような事件が朝廷に頻発した。そこで、もともとの土地の神のための宮もほぼ同格の規模で造ることになった。それが外宮である。
  3. なぜ、外宮から先にお参りしなければいけないのだろうか?
    ⇒もともとの土地の神の怒りに触れないようにである。
  4. なぜ、外宮の主祭神が記紀ではあまり登場しない地味な豊受大御神(とようけのおおみかみ)なのだろうか?
    ⇒豊受大御神こそがもとからの地元神である。天照大御神と並んで祀られる奇怪さをカモフラージュするため『日本書紀』にその名を入れ込んだのかもしれない。また、外宮正殿には豊受大御神と一緒に“正体の明かされていない”3柱の神が祀られているそうである。なんとなく諏訪大社の地元神であるミシャグチや、ソソウ神、チカト神、モレヤ神などを連想させる。
  5. なぜ、20年に一度の式年遷宮があるのだろうか?
    ⇒式年遷宮はそもそも地元の神の怒りを鎮めるための呪い(まじない)だったのではないか。その呪いの有効期限が20年だったのでは?
伊勢神宮外宮
伊勢神宮外宮


 本書で初めて知ったのだが、伊勢神宮の内宮と外宮の正殿の下には「心御柱(しんのみはしら)」というのが埋められているそうである。
 
 下というのは、正殿は高床式の建造物だから正殿の床と地面は広く空いており、床下に心御柱が立っているということだ。それはまた正殿のうちに安置されている御神体(ソルティ注:内宮にある八咫鏡)の、真下という位置になっているらしい。
 柱とはいっても、何かを支えていたり接続しているものではない。したがって正殿という建築物に力学的に関わるものではなく、装飾といったものでもない。
 
 御神体を除いてあらゆるものが作り替えられる式年遷宮においては、心御柱も作り替えられるけれども、新しく正殿が建てられるまでかつての正殿の下にあった心御柱は残され、古殿地の覆屋の中にあるらしい。
 
 式年遷宮のとき、まず最初に行われるのは、山で用材を伐り出すことの安全を祈願する山口祭である。そしてその日の夜、実際に用材の伐採が行われるのだが、まず最初に伐採されるのは心御柱のための木で、この祭を木本祭という。神殿のための御樋代の用材を伐る御杣始祭や御船代の用材を伐る御船代祭に先立って、夜中に木本祭が行われるということは、心御柱の重要性、神秘性を思わせる。

 この心御柱の役目というか意味するものが何なのかもまた謎に包まれている。御神体と同じように神聖視され、神宮職にある者はあれこれと語ることすら憚っているのだそうだ。古文書では「陰陽の原」「万物の体」「皇帝の命」「国家の固」と説明されたり、八咫鏡同様に天照大神の御神体だとする説や、天照大神より以前の古い太陽神である高皇産霊尊(たかむすびのみこと)の御神体の名残ではないかという説もある。
 式年遷宮を終えたあと更地の上に残された心御柱は、次の遷宮までの20年間覆屋で隠され、次の遷宮のときに(つまり40年ぶりに)地面から抜かれて処分される。
 役目を終えた古い柱はどうなるのか。
 
 鎌倉時代後期の『大神宮両宮之御事』に次のように記される。「古い柱は荒祭宮の前にある谷に、葬送の儀式によって送る。この谷を地獄谷という。人は知らない秘事である」。
 
 もっとも重要でもっとも神聖な心御柱を「葬送の儀式によって地獄谷に送る」とは!
 やっぱり何だか呪い(まじない)くさい。
 心御柱こそが、もともと彼の地に住まわれていた神様とその怒りを封じ込める杭なのではなかろうか。
 
 ――なんて永久保貴一的な想像を巡らせるのは楽しい。 





 

● 日本のヘソ、諏訪大社めぐり 

 4/10まで使える18切符が2回分残っていたので、一日は長野県の諏訪大社に、一日は山梨県の昇仙峡と羅漢寺山(弥三郎岳)に行くことにした。

 諏訪大社は死者を出すことも珍しくない天下の奇祭「御柱(おんばしら)」で有名である。自分の鎮守である諏訪神社の総本社なので一度はお参りしたいと思っていたが、なんとなく近寄りがたいものを感じていた。

諏訪大社120409 011 一つには、諏訪大社のシンボルとも言えるあの巨大なしめ縄に仮託される蛇に対する信仰のためだ。
 今でこそ諏訪大社のご祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、その妃である八坂刀売命(やさかとめのみこと)、同じ大国主命(おおくにぬしのみこと)を父とする兄弟の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)のお三方、つまり「古事記」や「日本書紀」に出てくる日本神話の神々であるが、もともと土着の神々が祀られ信仰されていたのである。
 
 本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。
 (ウィキペディア「諏訪大社」より)

 今でも、蛙や鹿を生け贄として捧げる儀式があり、神殿の四隅に御柱を立てるのもミシャグチを降ろすための依り代の意味があると言う。御柱祭の死者も実は想定の範囲内であって、あれはミシャグチへの人身御供なのだという説もある。(このあたり長久保貴一の怪奇マンガ『カルラ舞う』に面白い。)

 ミシャグチの正体はよく分かっていないのだが(蛙を捧げるのだからやっぱり蛇だろう)、大和朝廷に侵略され乗っ取られ、ご祭神を代えさせられてもなお土地の人々の間で生き続ける強い信仰を感じさせる。
 それが、蛇に対する苦手意識に加え、ヨソ者への排他性を感じてしまうのである。
 ともあれ、謎に包まれた秘密めいた匂いのする、もっとも神秘的な神社であるのは間違いない。


 諏訪大社は、中央線「下諏訪」に下社2つ(春宮・秋宮)、二駅離れた「茅野」に上社2つ(前宮・本宮)の計4社ある。どうせ行くのなら全部回ろう。

諏訪大社120409 00110:30 中央線「下諏訪駅」着。
     ウォーキングスタート。
        下社秋宮~来迎寺~青塚古墳
      ~矢除石~慈雲寺~下社春宮
      ~万治の石仏~諏訪湖 
13:20 下諏訪駅発(中央線)
13:30 茅野駅着、タクシーで上社本宮へ
        北斗神社~相本社~上社前宮
       ~達屋・酢蔵神社~横内笠地蔵
16:40  茅野駅着(中央線)
18:00 石和温泉駅着

諏訪大社120409 002 平日の下諏訪の町は静かで落ち着いている。あちこちに温泉があり、旧中山道沿いの本陣や旅館やお寺など、過ぎし宿場町の繁栄の名残が感じられる。

 秋宮では第一の柱(拝殿に向かって右前)の裏手で、神官さんたちが何かの儀式の最中であった。全体に澄んだきれいな空間ではあるが、それほど強い気は感じられない。


 旧中山道を通って春宮に向かう。来迎寺にある銕焼(かなやき)地蔵は平安時代の恋多き美貌の歌人和泉式部のゆかりで、伝説によると和泉式部はこの地で生まれて「かね」という名で温泉に奉公していた。たまたま京から訪れた大江雅致に見出されて養女となったという。和泉式部が美貌を授かったのは、この地蔵の御利益ということらしい。温泉地らしいエピソードである。
 ルルドのいずみ式部か・・・。
諏訪大社120409 007
 武田信玄が戦場におもむく前に心を静めに来たという臨済宗慈雲寺に寄る。杉並木に囲まれた苔むした石畳の参道、それを丁寧にそうじする修行僧の姿、境内の枯山水の庭と見事な松。いかにも禅寺らしい静かさと簡素な美しさとがある。

 
 高台にある寺から望む下諏訪は、ここが湖とお社に囲まれた町であることを感じさせる。

諏訪大社120409 008



諏訪大社120409 009 春宮は気持ちの良いところであった。拝殿で手を合わせていると、呼吸に合わせて体が律動し始めた。体が繭に包まれて、その繭がゆっくりと膨らんだり縮んだりを繰り返す。あたたかな女性らしい気である。秋宮では何も感じなかったのに、なぜ?

 駅の観光案内所でもらった説明文を読んで合点がいった。神様たちは、季節によって居場所を変えるのである。2月から7月までは春宮に、8月から1月までは秋宮に。つまり、いまは春宮に住まわれているのだ。そう言えば、秋宮を訪れた時に見あたらなかったしめ縄が春宮の神楽殿には堂々と飾られていた。神様のいない時はしめ縄もご用済みなのか?(秋宮に電話で問い合わせてみたら、秋宮神楽殿が現在工事中のためということであった。な~んだ。)


諏訪大社120409 015 春宮の気持ち良さの理由の一端は、裏手に回って分かった。木立の並ぶ涼しげな空間を、神社の背中を洗うように清流が流れているのだ。砥川(とがわ)は町の中を通って諏訪湖に注いでいる。

 この空間の奥まった位置に岡本太郎が激賞した名仏がある。万治の石仏だ。
 巨大でユーモラスで摩訶不思議な文様の彫り刻まれた仏様が、畑の真ん中にデンと居座っておられる姿は、なんとも微笑ましい。表情も和ませる。ちょっと、マツコデラックスに似てないか?

諏訪大社120409 014


 春宮の鳥居をくぐり参道を逆進し、諏訪湖に出る。青い空を映す穏やかな湖面が春らしい。うららかである。
 途中で買ったパンを食べる。

諏訪大社120409 019



 第2部は茅野駅から。

 さすがに本宮までは遠いのでタクシーを使う。
諏訪大社120409 024 ここ本宮が四社の中で一番大きい。真っ白い鳥居も立派。御柱も立派である。
 面白いのは、鳥居をくぐって参道があって正面に拝殿(幣殿、本殿)というのが普通の神社の造りだが、ここは変わっている。鳥居の正面の階段を上って左に直角する位置に拝殿があるのだ。もう一つ別の入口(鳥居)もあるのだが、そちらからだと今度は拝殿の後ろからになる。おかしな配置だ。

 地図で見ると、拝殿の向きは諏訪湖を越えて春宮拝殿に相対している。そう考えると、いつもは本宮におられるという男神(建御名方命)が、春宮にいる妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)に諏訪湖を渡って会いに行くという言い伝えには合致する。このとき湖につけられる跡のことを御神渡(おみわたり)と呼んでいる。

 ここは春宮とは違う男らしい力強い気を感じた。無口な健さんみたいな。
 おみくじを引いたら、出た番号が49。渡されたくじを開いたら案の定、凶だった。「天網恢々、疎にして漏らさず」というようなことが書かれてあった。
 自戒、自戒!(でも、気にしない)

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 前宮まで歩く。
諏訪大社120409 030 途中、北斗神社というカッコイイ名前の神社があった。北斗とはもちろん北極星の意であるが、なんとご祭神は天御中主命(アメノミナカヌシノカミ)、この世で最初に現れた神様、まさに神々の親分である。
 この神をご祭神とする神社はほとんど見かけたことがないのだが、まさかこんなところにあるとは! 本宮と前宮とを結ぶライン上である。しかも祭主は禰宜太夫、つまり諏訪神社の官職にあった人だ。面白いではないか。なぜミシャグチでも建御名方命(たけみなかたのみこと)達でもなくて、天御中主命なのか。諏訪大社より格の高い神を祀りたいどんな理由がこの官職にはあったのか。
 拝殿は山の中腹にあり、下から見上げると冗談のように急な石段が空に続いている。周囲は木もまばらで丈の低い枯れた茂みばかりなので、石段とはるか彼方に見える社の様はいかにも唐突である。

諏訪大社120409 032 のぼろうか止めようか。
 考える前に足が動いていた。

 二百段はあっただろうか。粗末な小屋のような社が、粗末な石の祠に取り囲まれて立っている。なんだか奇妙な社だ。この石段を上がってお参りする(自分のような)酔狂者がそうそういるとは思えないし・・・。
 そばにあった掘っ立て小屋の縁に腰を下ろして、茅野の町を見下ろして一服。

諏訪大社120409 031


 奇妙な符号はまだ続く。
諏訪大社120409 035 やはり前宮に向かう国道16号の途中にあった相本社。
 諏訪にある神社はどれも、たとえご祭神が諏訪大社のそれ(建御名方命ら)とは異なっていても、すべからく社殿の四隅に木の柱を立てている。結界さながらに。それが諏訪にある神社のお約束、諏訪に住む人々の昔からの風習なのだ。そのことは通り過ぎる際に見たいくつかの神社(自宅の敷地内のお稲荷様でさえそうだった!)で見当がついた。この相本社も同じであった。
 そのことはいい。問題はここの御祭神。
 なんと今度はイザナミ・イザナギと来た。矛で泥をかき回し日本の大地を造った国産みの夫婦神である。
 いったいこのラインはなんだろう?
 日本誕生レイラインか。


諏訪大社120409 038 上社前宮は四社の中では一番地味で、淋しいところにある。
 昔はずいぶん栄えていたらしく、山一つ分くらいが関係する建物で埋まっていたようだが、室町時代に神殿が移転され、いまでは祭典に必要な建物だけが残っている。
 諏訪大社120409 039拝殿の左側の三の柱と二の柱の脇を「水眼(すいが)」と呼ばれる清流が流れている。せせらぎを聴きながら手を合わせていると、心が洗われる思いがした。



 これで四社クリア。
 ほっとした。
 どこも思ったより小さかった。大社というからには、出雲大社か奈良の天理教本部くらいの規模を想像していたのである。一番大きい本宮でも明治神宮よりずっと小さい。もっとも、四社を合わせればなるほど文句の言いようのない大社である。
 気(パワー)も思っていたより強くなかった。御柱祭の年に最大となるに違いない。いまは、春宮→本宮→秋宮→前宮の順か。が、前宮にはなんだか捨て置けないような雰囲気がある。禁忌という言葉が似つかわしい謎めいた匂いがある。


 歩いて茅野駅に戻る。
 途中に達屋・酢蔵神社(たつや・すくらじんじゃ)という聞いたことのない名前の神社があった。達屋社のご祭神は大国主命(おくにぬしのみこと)と手置帆負神(たおきほおいのかみ)。前者は諏訪大社の兄弟神の父親であり、農業、商業、医療の神様として信仰されている。後者は、天の岩戸の物語に登場する建築・祭器具製作の神である。一方、酢蔵社のご祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、やはり天の岩戸に登場しアマテラスを岩穴から引っ張り出すアイデアを出した知恵の神様である。
 なんだか茅野駅周辺は、神話の世界が生きているようだ。高千穂に似ている。


諏訪大社120409 046 駅近くの横内笠地蔵も一風変わっている。二体のお地蔵さんが頭の上に平たい石を笠に見立てて乗っけている。重いだろうに。笠の上を、ちょっと早めの鯉のぼりが春風に吹かれて踊っていた。住宅街のこの一角は、塀で四角く囲われていて、笠地蔵の他にも水子地蔵やウルトラマン兄弟よろしく六地蔵が並んでいる。ちょっと異様な空間である。昔、この敷地でなにか忌まわしい事件でもあったか。なんてことを想像する。

 

 帰宅してから、諏訪について調べていて、ぎょっとするような記述を見つけた。


 下諏訪町はフォッサマグナの上にある。


 そうなのだ。
 諏訪湖は、日本の二大断層である中央構造線とフォッザマグナの糸魚川・静岡構造線の交差点に位置するのである。まさに日本のヘソである。
 ミシャグチとはもしかしたら日本最大の龍脈たるフォッサマグナの神格化、すなわち巨大地震の比喩ではないだろうか。
 そして、地鎮祭の青竹さながら、諏訪湖を囲むように立っている四社も、各社殿の四隅に御柱を立てる風習も、この龍を鎮めるためのまじないなのではないだろうか。


 結界は、外からやって来る脅威を防ぐためにだけあるのではない。中にある怖ろしい何かを外に出さないようにするためのバリアでもあるのだ。

 6年に1度の御柱祭の人のパワーが、普段は諏訪湖の奥深くに眠る荒ぶる力を抑えている。そんな想像はいかがであろうか。




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