1965年日活映画。
自分にとって岡田茉莉子と言えば、なんといっても『人間の証明』(佐藤純彌監督、1977年角川)の母親役である。地位と栄誉と世間体と今ある家族を守るために、戦後の混乱期にパンパンをしていた自らの過去を隠し、黒人兵との間にできた色の黒いハーフの息子の突然の名告りに怯え、ついにはその手で息子を殺める。「母」たることを自ら封印し子殺しするという、強烈な業を背負った女の哀しい姿が目に焼きついている。こうやって書いているうちにも、西條八十の詩をもとにした、あの大ヒットした主題歌の出だしが頭の中でリフレインするほどだ。
その後(1978年)、テレビで古谷一行が主演した金田一耕介シリーズの『女王蜂』で犯人役を演じた岡田茉莉子を見た。自らの「よこしまな」恋のため、恐るべき連続殺人事件の発端をつくってしまった眉目秀麗な家庭教師役を大女優の貫禄をもって好演した。(映画では岸恵子がこの役を演じていた。それにしても、なぜ「よこしま」なのかが、当時も今も理解できない。)
この2作で自分の中で岡田茉莉子のイメージがつくられた。
それは、「深い業を背負った犯罪者の役がよく似合う、顔立ちの派手なおばさん」である。
そう。岡田茉莉子のスターとしての最盛期を自分は知らない。日本の女優にはめずらしく老け顔であるし、太りやすい体質なのだろう。自分が知ったときには美貌というにはちょっと無理があった。彼女を主役とした昔の映画を観る機会もなかったので、若い頃の美しさのほどを知らずにいた。
今回はじめて、32歳の岡田茉莉子の主演作を見た。
う、うつくしい!
い、いろっぽい!
着物姿の岡田のなんともあでやかで、しとやかで、なまめかしいことよ。
頭の斜め上から女性を撮るというアングルは、着物を着た日本の女優を美しく撮るために開発された日本独特のものではないだろうか。その角度からだと、髪を結い上げた女の首筋やうなじの美しいラインが映えるのである。若尾文子を撮った増村もその角度を使っていた。
う~ん。「顔立ちの派手なおばさん」なんて言ってゴメンナサイ。
あなたは美しい。
もちろん、撮っているのが夫である吉田喜重であることも大きい。当然、妻をもっとも美しく見せる手段を熟知している。共演の浅丘ルリ子が、若くオシャレで美貌盛りであるにも関わらず、迫力負けしてしまっているのは、女優としてのキャリアの差ばかりではなかろう。監督の愛が女優を美しく見せるのだ。
さて、この映画は微妙なテーマを扱っている。洋の東西問わず、あまりお目にかからないテーマである。それは、美しい母親を持つ一人息子が、母親が「女」であることを受け入れられず煩悶する、というもの。
静雄(入川保則)は、デパートの会長の娘である美しい婚約者・ゆみ子(浅丘ルリ子)との結婚を控えながらも心が晴れない。夫亡き後、女手一つで自分を育ててくれた母親からの親離れができないからである。そこに、母親・静香(岡田茉莉子)がゆみ子の父親・伝蔵(山形勲)に長年囲われていたことを知り、ショックに打ちのめされる。ゆみ子と自分は異母兄妹なのかという疑惑が頭をもたげるが、もちろんそうではなかった。彼にとって一番の鬱屈は、自分だけの優しい母親が他の男の「女」になっているという事実を受け入れられないところにある。結局、ゆみ子とは上手くいかず、別居してしまう。自暴自棄になって仕事も辞めて、母親と心中することを考える。母親を自分だけのものにしておきたいがために・・・。
簡単に言えば、究極のマザコン男なのであるが、それも無理もないと思わせるほどの岡田茉莉子の美貌とたおやさかなのである。
中学生の息子を持つ知り合いの女性がこんなことを言っていた。
「うちの子供、自分が体外受精で生まれたと思っているの。何で?って聞いたら、私がAVに出てくる女優みたいにハアハア言いながら、パパとセックスしている姿が想像できない、想像したくないって。私、ぜ~んぜんバリバリなのに・・・。」
男の子にとって、母親とは「神聖にして侵すべからず」なのである。
しかし、「母」というカテゴリーにとじこめられ、「家」という世間体を背負ったところで、個人の性は満足しない。女が性的であることに対する非難や反感が強かった時代、結婚相手に処女が求められていた時代、女たちの抑圧された性のプレッシャーはさぞ強かったであろう。
いや、女性の性が解放された今だって、こと母親に限って言えば、その呪縛は決して弱くはない。父親が外で女をつくったり、女を買ったりするのと、母親が同じことをするのとでは、まったく世間の反応が違う。子供のショックの度合いも違う。おそらく、その後の家庭の成り行きも違ってくる。
この差は、男と女に社会から付与されているジェンダーの違いだけに還元できようか。
父親と母親に付与されている役割・イメージの違いに起因しているのか。
女が性的に盛んであるとき、生まれてくる子が誰のタネか分からなくなる。自分の遺伝子を継ぐ子供かどうかを男は知ることができない。母子を養う責任者を決めるのに困難が生じる。家督相続に問題が生じる。タネをまく性と産む性。生物学的な差異に差別の生じる基盤があるのか。
しかし、前近代までは庶民の性はもっと大らかだったと聞く。夜這いに見るように、結婚した女も性を結構楽しんでいたのだ。祭りのドサクサでまぐわって、誰の子供か分からずに生まれた子供は村の子供として育てたと聞く。
すると、やはり近代化に発端はあるのか。
明治政府は、都市では遊郭、三業地、銘酒屋その他、カフェー、のみ屋など遊所の発達を保護、監励し、はるかに広大な領域の農村にも芸妓屋、料理屋、性的旅館、簡易な一ぱい屋などの普及によって、その営業税、酒、ビールその他の酒類の巨大な税収を企図したのであり、一夫一婦制だの、青年、処女たちの純潔教育など、ただの表面の飾りにすぎなかった。したがって広く、深く普及していた農村の性民族、とくに夜這い慣行に対して徹底的な弾圧を加えたのは当然であった。(赤松啓介著『夜這いの民俗学』ちくま学芸文庫)
欧米がもたらした近代的家族制度が、母親から「女」を奪ったのだろうか。
母親が処女であることが「聖」である、という途轍もない矛盾をあたりまえの前提とし、それを根底に立ち上げられた西洋文化による洗礼こそが諸悪の根源か。(吉田監督はこの作品の制作意図として「父権社会への抵抗」と述べている。)
「母」であり続けることも「女」であることも許されず、また選ぶこともできなかった静香は、結局湖に身を沈めてしまう。ボートに乗って遺体を探す静雄とゆみ子は、湖面に浮かび波に揺られ流れていく静香の日傘を呆然と見つめる。
それは、息子のために「女」として生きることを自ら封印した母親の形見である。
かあさん、ぼくのあの帽子、どうしたんでしょうね。
評価: B-
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。
「東京物語」「2001年宇宙の旅」
A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
「スティング」「フライング・ハイ」
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
ヒッチコックの作品たち
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」
B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」
「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
「ボーイズ・ドント・クライ」
チャップリンの作品たち
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
「アナコンダ」
C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」
D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」
D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!