花園大学教授である佐々木はもちろん、伝統的な大乗仏教を否定も批判も断罪もしていない。が、釈迦本来の‘正しい’仏教の広まることが、結局は仏教の為になり、世の苦しむ人々の為になることを確信しているのは間違いあるまい。
では仏教を信じるとはどういうことなのか。それは単に「仏の存在を信じる」のとは違う。仏教を信じるとは、「釈迦の説いた道を信頼する」のである。お釈迦様という人が発見した「悟りへの道」を信頼し、そこに自分の生活をゆだねる。それが仏教を信じるということの本来の意味である。
第二次大戦中、日本は戦争色に染まった。「私は僧侶だから戦争には協力しない」と言って時流に抵抗した人もかなりいたが、逆に戦争を賛美する僧侶も多かった。「アジアの平和を実現するための聖戦だから許される」という理屈である。そして、反戦論者は迫害され、賛美した人は褒められた。ここに、仏教という宗教の持つ問題点がある。社会から非難されないよう、自己の行いを正していくという独特のシステムの裏側には、社会の大勢に迎合してしまう危険性が潜んでいる。お布施で生きる以上、世間の顰蹙を買うような行動は絶対に避けねばならないが、一方、あまりにも社会の時流に流されると、教えに背いてしまうことになる。「律」の規則のひとつに、「僧侶になるためには、10人以上の同性の僧侶の許可を得なければならない」というものがある。男なら10人以上の男の坊さんが「よし」と言わないと、坊さんになれない。女なら10人以上の尼さんの「よし」が必要である。・・・・・・・・・スリランカを中心とする南方諸国で、国が乱れて僧侶の数が減っていき、尼さんの数が10人を切り、女性の僧団が消えたのだ。そして、驚くべきことに、その後1000年、スリランカにもタイにもミャンマーにも、正式の尼さんはいない。せっかく釈迦の説いた悟りの道が、それ以来、女性には閉ざされたままなのだ。最近、なんとかしようという動きがでてきたが、まだ問題山積である。釈迦は、非常に高度な平等主義者だった。家柄・血筋で人の価値が決まると考えられていた古代インドで、決然とそれに反旗を翻し、「人の価値は、生まれではなく、心根や行為によって決まる」と説いた。当時としては革新的な主張だ。だがその釈迦が作った仏教僧団にも、様々な差別が残った。世間の人びとからもらうお布施だけが頼りの仏教は、当時のインド社会の差別意識に逆らうことができず、障害者や重病人の出家を認めなかったし、男女間に格差を設けて女性修行者を低く見た。その差別は釈迦にも逆らいがたい、きわめて強固な社会常識だったのだ。
初期仏教では、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の4つの「悟り」のうち、出家しないと悟れないと断定されているものはない。第3の悟りである不還果を得た人でも、かろうじて在家生活を送ることができる。だが、「解脱」に至る最後の悟りである阿羅漢果を得たら、「自分」という感覚が滅してしまうので、もはや在家生活は不可能である――と言うのである。
こうはっきり述べている。
私は釈迦の信者だが、輪廻の実在性は信じない。つまり、「もはや輪廻しない」という確信こそが真の安らぎをもたらすという、釈迦の精神は尊敬するが、「天の神様」や「地獄の亡者」が実在すると考える、その時代のインド人の世界観を丸ごと鵜呑みにはしないということである。
ソルティ自身は「輪廻(=変化)」については「ある」と確信している。「輪廻転生(=生まれ変わり)」については結論を出すことをペンディングにしている。この二つを混同するのは良くないと思っている。