2014年集英社刊行
2017年集英社文庫化
橋本治が、東日本大震災以降の天下国家を読み解いた社会評論である。
と言うと、難しく堅苦しいものを想像するかもしれないが、そこは橋本らしく、ドジョウのようにつかみどころの無いぬらりくらりした平易な文章で、重要なことをさらりと言ってのける。データや専門用語や理屈を駆使する評論(たとえば桜井よしこ)とは一線を画している。評論と言うより「巫女の宣託」に近いかもしれない。
内容はともかく、ちょっと意外に思ったことが二つ。
一つは、橋本治が東日本大震災の数ヶ月前から病気を患って入院していたこと。それも4ヶ月近くの入院というから大病である。毛細血管が炎症を起こしてただれるという数万人に一人の難病らしい。
なんとなく、橋本治のような柔軟な知性を持つ人間は大病しないんじゃないかという勝手なイメージがあった。というより大病してほしくないという願望か。ソルティもまた、心(性格)と病には無視できない深い関連があると思っている一人なので、それを覆すようなケースに出遭うと違和感を持ってしまうのだ。といって、橋本治のことをよく知っているわけでもないのだが・・・。
なんとなく、橋本治のような柔軟な知性を持つ人間は大病しないんじゃないかという勝手なイメージがあった。というより大病してほしくないという願望か。ソルティもまた、心(性格)と病には無視できない深い関連があると思っている一人なので、それを覆すようなケースに出遭うと違和感を持ってしまうのだ。といって、橋本治のことをよく知っているわけでもないのだが・・・。
もう一つは、本書に納められている評論の半分くらいが集英社の雑誌『週刊プレイボーイ』に掲載されたものであるという点。
まず、2017年現在における『週刊プレイボーイ』の意味というのがソルティにはようわからん。列車の中吊り広告を見るたびに、「よく続くよな~」「だれが買うのか?」「集英社さんはもはや意地で出しているんだろうな~」と思う。現に、広告の吊ってある列車内でも、若い男がいるソルティの職場でも、『週刊プレイボーイ』を読んでいる奴なんて見たことない! いるとしても家でこっそり読んでいるのだろう。それは「エロが恥ずかしい」というのではなくて、「週刊誌を読む、週刊プレイボーイを読む」若い男というのがいまやマイノリティに転じてしまったためである。
エロ、車、スポーツを3大柱とし若い男のズリネタ兼「男社会」の通過儀礼的存在だったかつての『週プレ』黄金時代を知る者にとっては、この凋落は凄まじい。書籍・雑誌など活字文化の衰退の原因はネットの登場がもちろん大きいのだろうが、男も変わったのである。
で、どこの誰が読んでいるのかよく見えない『週刊プレイボーイ』に橋本治の連載コーナーがある(あった)というのが意外である。橋本治と『週刊プレイボーイ』の座標上の位置はまったく逆、というイメージがあるからだ。
橋本治は文壇登場の最初から「男社会の異端児、はぐれ鳥、超越者、反逆者、アウトサイダー」といったような立脚点を武器にして創作活動を行ってきた。それゆえ、これまた一つの男社会の縮図である文壇において決して主流にはなれなかった。1977年デビューの橋本が、『桃尻語訳 枕草子』や『窯変 源氏物語』など数々の話題作やベストセラーを発表してきたにもかかわらず、大きな賞をもらうようになったのは2000年代に入ってからだというのがその証拠であろう。男社会の外側に立って男社会の奇矯さや欺瞞性を打つ橋本治が、男社会において‘正当な’評価を受けるはずはなかった。
まず、2017年現在における『週刊プレイボーイ』の意味というのがソルティにはようわからん。列車の中吊り広告を見るたびに、「よく続くよな~」「だれが買うのか?」「集英社さんはもはや意地で出しているんだろうな~」と思う。現に、広告の吊ってある列車内でも、若い男がいるソルティの職場でも、『週刊プレイボーイ』を読んでいる奴なんて見たことない! いるとしても家でこっそり読んでいるのだろう。それは「エロが恥ずかしい」というのではなくて、「週刊誌を読む、週刊プレイボーイを読む」若い男というのがいまやマイノリティに転じてしまったためである。
エロ、車、スポーツを3大柱とし若い男のズリネタ兼「男社会」の通過儀礼的存在だったかつての『週プレ』黄金時代を知る者にとっては、この凋落は凄まじい。書籍・雑誌など活字文化の衰退の原因はネットの登場がもちろん大きいのだろうが、男も変わったのである。
で、どこの誰が読んでいるのかよく見えない『週刊プレイボーイ』に橋本治の連載コーナーがある(あった)というのが意外である。橋本治と『週刊プレイボーイ』の座標上の位置はまったく逆、というイメージがあるからだ。
橋本治は文壇登場の最初から「男社会の異端児、はぐれ鳥、超越者、反逆者、アウトサイダー」といったような立脚点を武器にして創作活動を行ってきた。それゆえ、これまた一つの男社会の縮図である文壇において決して主流にはなれなかった。1977年デビューの橋本が、『桃尻語訳 枕草子』や『窯変 源氏物語』など数々の話題作やベストセラーを発表してきたにもかかわらず、大きな賞をもらうようになったのは2000年代に入ってからだというのがその証拠であろう。男社会の外側に立って男社会の奇矯さや欺瞞性を打つ橋本治が、男社会において‘正当な’評価を受けるはずはなかった。
バブル崩壊の頃だったと思うが、橋本治が何の雑誌だったか忘れたが青年コミック誌に評論を書いているのを読んだことがある。よっぽどの大作家でなければ自分から発表媒体を選ぶのは難しいであろうから、編集サイドが橋本に原稿を依頼したのであろう。読者層とその傾向を知悉している編集サイドは「橋本治の書いたものを読者の男たちに読んで貰いたい」と思ったのである。なので、同じ若い男をターゲットにする『週刊プレイボーイ』掲載は、唐突なものではなく、この延長上にある。そう考えれば意外なことではない。編集サイドに橋本治のシンパがいるのだろう。
「ず~っと男社会の鬼っ子であった橋本治が、少しずつその牙城を突き崩し、ついに週プレという男社会の本丸に入り込んだ」と考えると、ある種の小気味よさにも似た感慨をソルティは抱くのであるが、一方で、「いったい青年コミック誌や『週プレ』の若い男の読者が橋本治の書くものを理解できるのだろうか? 共感できるのだろうか?」という不思議もある。
失礼を言っているだろうか。
たぶん、この不思議の解明は、「今や青年コミック誌や『週プレ』の一番の購読層は若い男ではなくて、若い時分からそれらをずっと読み続けている30代、40代以上のオジサンだ」というところにあるような気がする。男社会で働いてきて、妻や子供に日々なじられて、いい加減「男」であることに疲れてきたオジサンたちが、他の論理を求めているということではないだろうか?
では、若い男はどこにいるか。
若い男はネットの中に散り散りになった。そこでは「エロ」も「車」も「スポーツ」もそれぞれ十分な供給源が用意されていて、なにも3点セットでまとめて購入する必要などない。彼らにとって、「男」としての連帯意識や主流プライドももはや鬱陶しいだけであろう。
「ず~っと男社会の鬼っ子であった橋本治が、少しずつその牙城を突き崩し、ついに週プレという男社会の本丸に入り込んだ」と考えると、ある種の小気味よさにも似た感慨をソルティは抱くのであるが、一方で、「いったい青年コミック誌や『週プレ』の若い男の読者が橋本治の書くものを理解できるのだろうか? 共感できるのだろうか?」という不思議もある。
失礼を言っているだろうか。
たぶん、この不思議の解明は、「今や青年コミック誌や『週プレ』の一番の購読層は若い男ではなくて、若い時分からそれらをずっと読み続けている30代、40代以上のオジサンだ」というところにあるような気がする。男社会で働いてきて、妻や子供に日々なじられて、いい加減「男」であることに疲れてきたオジサンたちが、他の論理を求めているということではないだろうか?
では、若い男はどこにいるか。
若い男はネットの中に散り散りになった。そこでは「エロ」も「車」も「スポーツ」もそれぞれ十分な供給源が用意されていて、なにも3点セットでまとめて購入する必要などない。彼らにとって、「男」としての連帯意識や主流プライドももはや鬱陶しいだけであろう。
以下、引用。
「初めに結論ありき」の国では、危機対策が中途半端にしか出来ません。なにしろ初めに「結論」と言う形で全体像を想定しちゃっているんだから、その範囲を超えた事態になると、もうなんともならない。危機に直面した現場で体を張っている人にすべてをまかせるしかなくなってしまう。「まかせる」ならまだいい表現だけど、実態は「丸投げ」に近くなる。
「初めに結論ありき」の国では、まともな議論が提出出来ない。まず、「へんな人だからそういうことを言うのだろう」という目で見られる。その異議が理解されても、「これを受け入れるとめんどくさいことになるな」というのが分かった場合、放っとかれる。放っとかれてる間に、「そういうことを言うのはへんな人だから排除してOK」という免疫機能が作動して、「めんどくさい異議」は取り上げなくてもいいようになる。戦後というのは、旧来の考え方から離れて、日本人が「市民」になろうとして、「市民社会」なるものを形成しようとした時代だったはずだ。メディアも教育もその方向へ進んでいて、だからこそ1960年代が終わったら、内実は別として、日本は「市民社会」になってしまっていた。であるにもかかわらず、戦後の日本には「市民の社会」に立脚した政党がない。端的に言えば、日本の社会にサラリーマンの数がどんどん増えて、「サラリーマンが日本社会を支えている」というような状況になっても、「サラリーマンを支持基盤とする政党」がなかった。それは、生まれてもあっさりと消える弱小政党で、「サラリーマンを支持基盤とする政党」がないからこそ、その支持者になるであろうはずの人間達は「支持政党なしの無党派層」という最大会派を形成する。「サラリーマンは会社に所属して会社を支持し、会社は保守政党を支える」という間接民主主義みたいなことになっていたからそうなるんだろう。戦後の日本にあった政党は、戦前由来の「政府系政党」を引き継ぐ保守政党と、左翼政党、それと宗教団体をバックにする中道政党だけだった。安倍政権の不思議さは、安倍政権よりも、これを支持する国民のほうにあるのだと思う。
安倍政権が高い支持率を得ている理由はいたって分かりやすい。この内閣がその目標を「景気回復」の一点に絞っているからだ。おそらく国民は、その点で「内閣支持」を表明している。しかし、当の安倍内閣の目標は「景気回復」だけではない。「景気回復」と「憲法改正」の二つがセットとなった目標のはずだ。
それでは国民は、憲法改正をどのように考えているのだろうか? 考えられる選択肢は、「改正した方がいい」「絶対反対」と「よく分からない」の三つだろうが、そこに至る前に「なんでそれを考えなければいけないのだろう?」という気分が大きく立ちふさがっているような気がする。憲法改正に関する考え方で一番大きいのは、「問われれば考えてもみるが、今なぜそれを考えなければいけないのかがよく分からない」なのではないかと思う。
女・子供の我儘に疲れ切った中年男たち、ネットに散った若い男たち、をふたたび一つにまとめて連帯感や主流プライドを回復させて「男」にする、最も有効な手段は何だろうか?
それは口にするのも憚られる。