ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

部落

● 東海テレビに「あっぱれ!」 映画:『ヤクザと憲法』(東海テレビ制作)

 2015年3月30日(1年前)深夜に東海テレビで放映したドキュメンタリーを、数日前にポレポレ東中野で鑑賞した。クチコミや雑誌記事等で話題となっていたせいか満席であった。

 ヤクザは社会のガンであるとよく言われる。ほうっておくと次々と隣りの細胞を蝕み、患部を広げ、あるいは血液に乗って転移し、体全体を駄目にする恐れがあるから、早めに発見して切除するに限る。ガンが悪性新生物と呼ばれるのと同様、ヤクザ=悪の権化という見方である。
 この見方に沿って、昨今のヤクザ対策すなわち暴力団対策法や暴力団排除条例は制定され、マスコミ報道もなされている。清原元プロ野球選手の覚醒剤使用や激化している山口組の分裂抗争などの報道を見ても、ヤクザ=悪の権化というイメージを視聴者にいっそう強く植え付けるものとなっている。
 だが、「紋切り型」は思考停止のスタートである。
「ヤクザは悪の権化だ。怖い。庶民は近づかないに限る。警察にまかせておけばいい。警察が一掃してくれるのに期待しよう。自分たちとは関係ない」
 そこから先は思考停止となり、想像力は遮断される。
 すると、人々が見失うのはヤクザの「実質」である。「実態」ではない。ヤクザ・暴力団と呼ばれている人々の素顔が見えなくなる。
 いったい、どういう人たちがヤクザになるのだろう?
 なぜヤクザになったのだろう?
 どうしてヤクザで居続けるのだろう?
 ヤクザでいて幸せなんだろうか?
 更正することは可能なのだろうか? 
 どんなことを考えて生きているんだろう?

 単純に考えても、ヤクザでいることで得することよりも損することのほうが圧倒的に大きいだろう。一般市民からは嫌われ恐れられ排除され、警察からはマークされ、対立するグループあれば常時身の危険にさらされ、当節ではたいした贅沢もできない(資金繰りに困っているヤクザ事務所は少なくない)と聞く。そのうえ、家族ができたら家族にも不利が生じる。愛する我が子が「ヤクザの子供」として周囲から扱われることになる。就学、就職、結婚、友達づきあい等々、いろいろなことに負荷がかかる。「子供を自分のような立派なヤクザに育てたい」と思う親はまずいないだろうから、結局ここでも社会との摩擦に悩むことになる。
 それでもヤクザになりたい、居続けたいと思うのはなぜだろう?
 それとも、ヤクザになるしかない、ヤクザで居続けるより道はないというのが、正味のところなのだろうか?
 としたら、それは何故だろう?

 このドキュメンタリーをつくった東海テレビのプロデューサー阿武野勝彦は次のように制作理由を語っている。

「暴力団排除条例以降、ヤクザと接触ができなくなり、実態がつかめない」「ヤクザは地下にもぐり始めている」「ヤクザのかわりに半グレやギャングなど面倒な連中が蔓延してきた」
 この番組のディレクターは最近まで事件・司法担当記者で、捜査関係者からそんな話を聞いていました。テレビドラマや映画などで描かれるヤクザは縄張りをめぐって抗争を繰り返す輩たちで、拳銃を所持し、地上げに介入し、覚せい剤を密売する犯罪集団…。しかし、現実はそうではなさそうだ…。ディレクターは、暴力団対策法、続く、暴力団排除条例以降のヤクザの今を知りたいと考えました。
 「取材謝礼金は支払わない」「収録テープ等を放送前に見せない」「顔のモザイクは原則しない」。これは、私たちがこの取材の際に提示する3つの約束事です。しかし、この条件に応えるヤクザはいません。彼らにとって、姿をさらしても、何の得もないし、警察に睨まれたくないのです。
 そんな中、大阪の指定暴力団「東組」の二次団体「清勇会」に入ることになりました。


 カメラは、東海テレビのスタッフが清勇会事務所にはじめて入って行くところから回りだす。
 住宅地の中にある窓の少ない堅牢な造りの3階建てのビル。道路に向けて取り付けられた巨大な監視カメラ。外階段を上がって2階にある事務所の入口は、ぶ厚い鋼鉄製の扉で厳重に守られている。中に入ったとたん目にするのは、巨大なグロテスクな木彫りのオブジェ。
 カメラと共に侵入しはじめて目にする現実のヤクザ事務所の光景になんだかドキドキする。映画に出てくる暴力団事務所のセットに似ているような、似ていないような。ソファセットがあって、観葉植物があって、テーブルの上に灰皿があって、事務机があって、電話があって、机の上に現金の入った茶封筒があって、壁に‘読売新聞の’カレンダーがあって、中年の腹の出た目つきの鋭いおっさん達がタバコをぷかぷか吹かしていて、立派な会長(親分)の部屋があって・・・・・。どちらかと言えば、昔ながらの不動産屋の事務所に似ている。明らかに違うのは、壁に掲げられた墨痕鮮やかなる「任侠道」の木のパネル。
 カメラが奥に入ると、部屋住みの舎弟たちが居住する畳の部屋があって、布団があって、服役中の組員に差し入れられていた文庫本や漫画がいっぱい詰まった本棚があって、お勝手があって、風呂があって、洗濯物が干してあって・・・・・。このへんは体育会の合宿所みたいだ。
 大阪という土地柄もあるのだろうか。想像したよりもずっとざっかけない庶民的な雰囲気である。
 この事務所を中心に、半年ほどのヤクザの生活の断片が映し出される。そして、数名の組員の素顔が垣間見られる。

 清勇会が取材をOKしたのは、それなりの理由があってのこと。
 バブルの頃の石田純一はたまたJリーグの初代チェアマン川淵三郎を髣髴とさせるお洒落で二枚目の親分は、スタッフを自室に招き入れ、資料を見せる。それは、全国の組関係者から収集した「ヤクザとその家族に対する人権侵害の事例」である。子供の入園が拒否された、銀行口座がつくれず子どもの給食費が引き落とせない、生命保険に入れない、刑事事件の弁護を断られた・・・。
 撮影中にも、自動車事故に遭った組員の一人が通常通り自動車保険の請求をしたところ、警察が出てきて詐欺容疑で逮捕されるという一幕がある。また、日本最大の暴力団山口組の顧問弁護士が登場するが、彼は自ら被告になった裁判やバッシングに疲れ果て引退を考えている。
 こうした事態に憤り、世に訴えたいというのが取材許可の背景にあるようだ。
「俺たちヤクザに人権ってないのか!」

 もちろん、カメラに映されたものは、一面に過ぎない。本当にまずいところは撮影許可が下りないし、組員たちも口を閉ざす。
 たとえば、「この事務所に銃は置いてないんですか?」「あれ、今のシノギですよね? もしかしてクスリですか?」「いま茶封筒に入れた札束は賭けの配当ですか?」等々。
 スタッフもむろん、彼らが答えられないと分かっていて尋ねている。正直に肯定されたら、今度は自分たちが法的に困った立場になるだろう。
 その意味では、このフィルムが映しているのは地球の側を向いた月の半面である。陰になった部分は隠されている。テレビ放映を前提として制作されている以上、放送できないものはここでは省かれている。撮影の段階でも、編集の段階でも。
 なので、これがヤクザの真実の姿だとか、ヤクザもつき合ってみれば普通の市民と変わらないとか、ヤクザにも人権があるのだから差別はやめようとか、安易に結論づけることはできない。このフィルムだけからヤクザの実質を云々するのは、あまりに軽率、あまりにナイーブだろう。

 しかし、見ようと思ってみれば見えてくるものがある。
 フィルムの中でのスタッフによる説明や注釈は、過去にあった実際の事件のあらましやヤクザの組織構成についてなど、一般とは異なる独特の世界の背景理解を視聴者に促し、鑑賞上の混乱を避けるための最低限のものに限られている。つまり、スタッフの意見や主張は表面には出てこない。せいぜいがタイトルで示唆されている「ヤクザの人権について問題提起してみましたが、どうでしょう?」くらいである。他の多くのすぐれたドキュメンタリー同様、これをどのように見て、どう思い、どう判断するかは視聴者に任されている。
 我々は何を見なければならないのだろう?

 部屋住みの青年がいる。まだ19歳である。ヤクザに憧れて東組本家の門を叩いたところ、清勇会に預けられたという。事務所の電話番、掃除や買い物などの雑用を、水を得た魚のように喜々としてやっている。話し出してすぐに分かるが、何らかの発達障害を疑わせる。当たり前に考えれば分かるようなことができなくて兄貴分に叱られてばかりいる。その彼がたどたどしい言葉でカメラに向かって熱弁する。「ヤクザが変わり者だからといって排除するのではなくて、人と違うところがある者とそうでない者とが両方存在できるほうがいい」といったようなことを真剣な面持ちで言う。
 観る者は思うのだ。教室の中で彼はどんな存在だったのだろう? 学校は彼にとって居心地良かっただろうか? 親はなぜ十代の息子がヤクザの道に入るのを阻止しなかったのか? 教育機関は、福祉は、何をしていたのか?

 ヤクザの事務所に電話が入る。某政党からの投票のお願いだ。電話に出た組員は、卑屈なほど丁重に答える。「はい。みんなに(投票するように)言っておきます」
 いまさら暴力団と某政党との癒着を言いたいわけではない。ヤクザも選挙に行くことに驚いているわけでもない。
 スタッフがそこにいた組員一人一人に問いかける。「あなたも選挙に行きますか?」
 肯定の返答が続く中、一人の組員が答える。「行かない。自分は選挙権がないから」
 一瞬わけが分からず絶句するスタッフ。「それはどういう意味ですか?」
 どう見ても日本人(関西人)の組員が答える。「国籍のことがあるから。帰化しない限りできない」
 在日のこの男が前述の部屋住みの青年の面倒を親のように見ている。
 
 ある組員は妻子と別れてヤクザになった。貧乏の家に育った彼はもともと工場で働いていたが、労働環境のあまりの酷さに窮して、どうしようもなくなった。
「誰も助けてくれなかった。どうにもしようもなくて追い詰められていた時に、声をかけて救ってくれたのが親分だった」
 
 フィルムでは触れられていないが、やはり考慮に入れるべきは部落差別問題だろう。
 東組の本部がある大阪市西成は、かつて被差別部落の多いところであった。(「ふらっと人権情報ネットワーク」記事参照)
 差別がいかに人の心を踏みつけ、萎縮させ、屈折させ、蝕み、絶望や自暴自棄に追いやっていくか。環境の劣悪さがそこに住む人にどれほど不健全な影響を及ぼすか。
 被差別部落出身のノンフィクションライター角岡伸彦はこう述べている。
 
 以前、関西の大手ヤクザ組織を取材したことがある。会長の話によれば千人以上いるメンバーのうち、半分以上は部落出身者だという。この比率は、いかにも多い。もっとも、年齢が若くなればなるほど部落出身のヤクザは少なくなる。これは就学、就労の機会がここ数十年、部落民にも開かれた結果であろう。一方、在日韓国・朝鮮人のヤクザは若い世代でも減っていない。在日に対する差別が、いまなお厳しいことの証左である。
 
 部落出身のヤクザが多いと書いたり発言したりすると、「誤解を生むからやめてくれ」と言われることがある。冗談ではない。なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない。
(角岡伸彦著『はじめての部落問題』、文藝春秋2005年刊)

 障害のある青年(そうとは限らないと一応言っておく)、ブラック企業の被害者、在日朝鮮人、部落出身者・・・・・。こういった者たちが集められているヤクザ事務所とはいったいなんだろう?
 日本社会の「負」の終着駅か。
 病巣部か。
 福祉の網に引っかからなかった者たちの最後のセーフティネットか。
 
川と芥


 知り合いにいくつもの難病を抱えた人がいた。その人は不自由極まりない、いつ倒れても不思議ではない体で、障害者支援の活動に身を捧げていた。左目はガンに侵され失明し、右目の視力も良くはなかった。
 あるとき、医者が言った。「左目をそのままにしておくとガンが転移する可能性があるから、眼球摘出したほうがいい」
 その人は手術を断ったのだが、その理由をこう教えてくれた。
「左目があるおかげで、ガンが広がらないで済んでいます。左目を取ってしまったら、きっと今度は右目をやられるでしょう。そしたら全盲になるでしょう。左目は自らを犠牲にして、防波堤のように他のところを守ってくれているのです」
 この言葉が医学的にどれだけ妥当性があるのかどうかは知らない。だがそれは、何十年もの間、いくつもの難病を持ちながら専門医の余命宣告を裏切って奇跡的に生き伸びてきた者の知恵だったのは間違いない。その人にとってガンは闘うべき悪ではなかった。命の防波堤だったのである。

 ヤクザは社会のガンだと言われる。病巣部という点ではその通りであろう。
 だが、それを実質も知らず、因果関係も見ず、結果も考えず、善後策も講じず、何の考えもなしに切除してしまった時に、いったい何が起こるだろう?
 清流の中の岩でできた自然の堰には、枯葉や生き物の死骸などの芥が集まる。堰を壊すと、芥は川全体に広がって清流を一気に汚す。同じように、やくざ組織を切除すれば、そこに吸収され「同類相食む」抗争ゆえにカタギ社会への流出を免れていた「負の怨霊」は、社会全体に広がることになろう。放たれた怨霊は、市民に憑依することだろう。市民のヤクザ化が始まるだろう。否、前述のプロデューサーの言葉が示しているとおり、それはすでに始まっている。
 そしてまた、ヤクザを「悪」とする紋切り型の言説が氾濫する裏で、我々はいま本当に憂えるべき・阻止すべき事態の進行を見過ごしているのではないか。闘うべき「巨悪」を見逃しているのではないか。国家権力の巨大化と、それを企む連中とを。(そのうちに「暴力団を一掃するために自衛隊を出動させます」と言う政治家が出てくるやもしれない)


 フィルムの最後のほうで、事務所内をただ漠然と映しているカットがある。
 暇な午後らしく、組員たちは思い思いにあちこちに座って、退屈そうに煙草をふかしている。最初のうちスタッフとの間にあった「壁」も半年の取材ですっかり消えたようで、何ら構えることなく、緊張することなく、無防備な表情を晒している。あたかも母親の帰りを待っている留守番の中学生のような。
 そのカットを観たときに、事務所の入口の分厚い鉄の扉の意味を理解したのである。
 あの分厚い鉄の扉は、あの巨大な監視カメラは、この窓の少ない堅牢な作りの建物は、「砦」なのだと。対立するグループや警察の急襲から彼らを守る「砦」であるばかりでなく、どこにも居場所のない彼らがかつて自分に冷たかった「世間」から身を守り立て籠もるための最後の「砦」なのだと――。



評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 
 
 

● 「かなしさ」の出自 本:『日本の路地を旅する』(上原善広著、文藝春秋)

路地を旅する 2009年刊行。

 久しぶりに悲しい本を読んだ。
 読後の何ともいいようのない、胸のふたがる思いは、その昔『ジョバンニの部屋』(ジェイムズ・ボールドウィン、白水社)を読んだときに通じる。
 もっとも、単純な紀行文と思って読み始めたわけではない。
 タイトルにある「路地」とは、夭折した小説家の中上健次が好んで使った言い回しで、ありていに言えば「(被差別)部落」のことを指す。著者の上原自身が大阪の更池という名の、食肉業をなりわいとする路地に生まれた人間である。つまりこの本は、部落出身である上原が、日本各地の部落を訪れ、そこに住まう人々の話を聞き、読者に紹介したもの、上原の言葉を借りれば「全国の路地をスケッチした物語」なのである。
 当然、部落を語る上では切っても切れない要素である、職業(食肉、皮革、芸能e.t.c.)の話、差別の話、貧しさの話は予期のうちである。部落で生まれ育った人間がたどる、あるいは悲惨な、あるいは壮絶な、あるいは屈折した、あるいは隠花植物のようにひっそりと目立たない、あるいは闘争的な、あるいは楽天的な、いくたりかの人生の物語が供されることも予期のうちである。
 しかし、自分の感じた悲しさは予想を超えていた。

 著者は最初に自らのルーツ、生まれ育った大阪の更池をスケッチする。
 食肉卸しの店を営む父親と堺の地主の娘だった母親。四人兄弟の末っ子として1973年に生まれた著者は、特段記憶に残るような差別を受けることもなく、食うに事欠くこともなく、腕白に育った。住民同士の結束の固い更池は少年時代の著者にとって居心地の良い場所であった。それは、路地(=部落)出身でない少年が過ごし体験する少年時代と、環境面ではいろいろ違いはあろうが、内面的にはさして変わりがない、屈託のないものとして描かれている。狭山事件の冤罪を訴えるデモ「ゼッケン登校」でさえ、少年の著者にとっては「お祭り騒ぎで楽しいもの」であった。
 だから、著者が後年、北海道から沖縄まで全国の路地を探して渡り歩き、そこに暮らす人々を取材して差別された民の「生き様」を書くことをなりわいとするようになったのは、何らかのきっかけなり衝動があったはずである。
 その謎を残したまま、旅は始まる。

 弘前の太鼓職人、秋田の剥製職人、墨田の皮なめし工場、差別を怖れ生業を捨てた近江の路地、かつては「ヤクザ者の巣」と言われ現在は「猿回し」のメッカである山口県光市の路地、牛肉偽装事件で世間を騒がした岐阜県の路地、同和地区指定を受けなかったために貧しいまま取り残された佐渡の路地、解放運動から「足を洗って」ヤクザになった熊本の青年、内地から琉球に移り住んだ「京太郎」と呼ばれる門付け芸人・・・・。
 読む者は上原の案内にしたがって各地の路地の中に入り込み、昔を知る古老の話に共に耳を傾け、今昔の路地の光景を眼前に思い描き、土地に染み付いている因縁を嗅ぎ取る。
 著者が驚くべき嗅覚で各地の路地を探し当て、初対面の相手からも深い話を引き出してしまえるのは、上原自身が路地出身者であることも大きいが、インタビュアとしても優れた資質を持っているからであろう。

 

 こうして一人で路地をまわる旅を続けていると、ふらりと一人の男が突然に訪ねてきて話を聞かれるだけでも、路地の人々にとっては、時に身を切られるように辛いことであろうと思ってしまうのだ。そう思うと、いたたまれない気持ちになる。路地をまわり始めて10年以上になるが、あまりに気持ちが重く、胃をいためて一年間どこの路地にも出られずにいたこともあった。
 だったらこんな、傷口に塩をなすりつけてまわるような旅などしなければいいのにと、自分でも思わないこともないが、不器用な私はいつまでも、このような人の心のひだを覗き込むような旅しかできないでいた。

 時折、読者に示される上原の独白、暗示的に差し挟まれる兄の存在。読者にもたらされるのは、各地の路地のスケッチというどちらかといえば客観的な情報と、そこを旅する上原の客観的でいられずに揺れ動く心の軌跡である。


 悲しさの出自はどこにあるのか。


 まず、差別される者、貧しさにあえぐ者を憐れむ心、共感する心がある。
 次に、このような不条理を温存させてきた日本社会の未熟さや世間のむごさに対する苛立ちと絶望がある。
 部落に生まれ育った宿命をコントロールできず、環境に羽交い絞めにされて、いじけ、ひねくれ、道を過ってしまう人がいることへの悲しみがある。
 同和対策事業特別措置法(同対法)ができて、住環境や就職事情や教育水準は目覚しく向上したにもかかわらず、いまなお簡単には改善し得ないもの、解決できないものがあることのやりきれなさがある。
 上原は記す。

 私の世代にとっては、受けたことのない差別や、一生に何度もあるわけではない結婚差別を心配するよりも、路地というものを背負ったことによる間接的な影響の方が大きいように思う。たとえば、更池で子供会の世話をしていた竹本さんという人は以前、幼なじみのトシや私の家庭をかえりみてこう言ったことがある。
「上原のお父ちゃんもみんな貧乏やったから、学校もろくに行かんと肉仕事してたやろ。あれは重労働やんか。みんな結婚も早い。そこに法律ができて急に金回りがようなったもんやから、青春を取り戻すかのように遊びに出て家庭崩壊。子供はぐれて『やっぱり部落は怖い』と、こうなるわけや。更池にはこんな家が多いわな」

 お金や法律や制度で外面はいくらでも変えることはできる。今では、ほとんどの部落が「路地」という言葉が似つかわしくないほど、道も家屋も整備され、きれいになっている。
 一方、どうにもできないものもある。最たるものが幼少期の環境によってつくられた当人の根本的な気質・性格であろう。それを次世代は遺伝的にまた親子関係の中で知らないうちに受け継いでしまう。「カエルの子はカエル」と言われる所以だ。だから、「親のようにだけはなるまい」と頑張って生きて、いつのまにか疎んでいた親と同じように自らの子供に接している自分を発見するという「連鎖」が生じる。
 
 表面上はもはや風化したかのように見える部落差別が、何か事あると噴き出してくるという現実もまた悲しい。 

 路地に詳しいある人が、こう語っていたのを思い出す。
 「この現代に被差別部落があるかといわれれば、もうないといえるだろう。それは土地ではなく、人の心の中に生きているからだ。しかし一旦、事件など非日常的なことが起こると、途端に被差別部落は復活する。被差別部落というものは、人びとの心の中にくすぶっている爆弾のようなものだ」
 平成14年に女子高生誘拐殺人を起こした群馬県のある部落出身の男Yの物語が出てくる。
 著者はYの生い立ちや来歴を調べ、生まれ育った路地を訪ね、昔の彼を知る者を探し出して会話し、近所に住む人たちの声を聞く。 
 路地を含めた付近住民たちの反応は、ただただ困惑、といったところだろうか。度重なる事件の発生により、路地への偏見の増長という負と負の板ばさみから、町の人たちは事件について固く沈黙を守るようになってしまった。しかし、規模も大きく歴史ある路地でこうまで重大な事件が立て続けに起こると、昔から住む人が多いこともあり、偏見はさらに増幅されることになるだろうことは容易に察しがつく。
「やっぱり部落は怖い。部落の人間は自分たちとは違う」と安易に結論付けてしまう世間の悪意も悲しいけれど、さらに悲しいのは「部落出身であることと、犯罪を起こしたこととはまったく関係がない」と断言できないでいる著者の曖昧な態度である。
 その理由は、実の兄を訪ねて上原が沖縄(八重山)に渡る終章に至って明らかになる。 
 兄とは幼い頃からとても仲が良かったが、父が女をつくって家を出てからは、四人いる兄弟ともそれぞれが疎遠になってしまっていた。家族の一人が崩れただけで、家族すべてがばらばらになってしまうことがあるのだが、それが今でも不思議な気がする。
 兄の墜落はそこから始まる。十八のときから少女へのいたずらを繰り返し、ついには逮捕され、三年間刑務所に入れられる。出所後もほうぼうから借金を繰り返し、何人かの女と同棲しては別れ、仕事も続かない。ついには借金を踏み倒して、沖縄に逃げてしまう。  
 兄のしたことについては、本人なりのきっかけがある。22で結婚したとき、路地の者やと嫁の母親になじられたことが発端だと、本人は言うのだ。初めから反対された結婚でうまくいかず、何年かして別れ、それから数ヵ月後にいたずらし始めたと言うのだ。
 しかし、きっかけはそれだけでないだろうと私は思っている。いたずらについては18のときからで再三にわたって警察から注意を受けていたし、実家の食肉店の仕事がきつく休みがちで、いいようのない焦燥感になぶられていたようだ。金遣いが夫婦とも荒かったと聞いている。
 だから別れた理由についても、ただ兄が路地の生まれだというだけではないと、血縁の者は話していた。路地に生まれたことは、兄にとって墜落への免罪符のようなもので、そう言いさえすれば更池では時と場合によっては、同情を得ることもできるからである。

 そんな兄との久しぶりの再会は、しかし(案の定というべきか)、そっけないものであった。二人は近所の焼肉屋に行き、兄の新しい女をはさんで盛り上がらない会話を交わす。 

 それにしても、兄と再会してからは、何を見ても悲しくなってしまうような気がして仕方なかった。初恋の人と再会してもがっかりするだけだとよくいわれるが、兄との再開後は、何か喪失感にも似た感情に苛まれるようになっていた。
 
 路地で育った者が罪をおかし、借金の返済に困って南の島まで逃げ、そして暑い潮風になぶられながら他所の女と生きていく。それはそれで良いのだろうが、しかし――。
 もう少し、そうなる前に何とかならなかったのだろうか。兄と共有した時間のことばかりが思い出され、もう少し普通に会えないのかと、悔しささえ覚えた。二人して路地へと向う電車を待った駅のプラットホームや線路の情景が、思い出されては霞のように消えていった。
 私は思った。間違いなく兄は、どこかで曲がり角を違えただけの私なのだ、と。だから兄にはどうしても、西南の果てへなど逃げて欲しくなかったのだ。
 ここに至って、この路地を巡る旅行記は私小説に変貌する。
 いや、正確に言うならば、この本は紀行の形を借りた私小説なのである。
 路地を知らぬ読者のためにスケッチを描くという口上のもと、各地の路地を訪ね、来歴を調べ、そこに住まう人々と交流を重ねながら、著者がやってきたのは実は別のことだったのだ。 
 今まで自分は路地と路地をつなぐ糸をつむぐつもりで旅していたけれども、そうではなく、これは私の中で途切れた路地との糸をつむぐ、自分のための旅であったようだ。失われた路地と路地との糸をつむぐなどということは、ただ自分の小さな思い上がりであって、実際、私は千年昔からあった路を通って、路地から路地へと旅をしていただけに過ぎない。
 幼い頃に更池を出て以来、私と路地との関係は途切れたままであったが、その後も機会あるごとに、私は路地との接点を求め続けてきた。引っ越してからも兄と一緒に路地に通い、15歳になると集会などに参加しては路地の人と語り、大阪のいろいろな路地に出かけた。そこに、まだ幸せだった頃の家族の幻影を見ていたのかもしれないし、自分自身のアイデンティティなどという脆く儚い何かを求めていたのかもしれない。
 各地の路地を訪ね歩くことで、少しずつ自分の心の中で傷つき途切れた糸をつむいでいたのだろう。路地の歴史は私の歴史であり、路地の悲しみは私の悲しみである。私にとって路地とは、故郷というにはあまりに複雑で切ない、悲しみの象徴であった。


 幼少時に自分が愛し、楽しい思い出を与えてくれたその場所が、後年、そこに生まれ育った者に不幸と生き難さをもたらす揺籃でもあったと気づく。
 それはあまりに切ない経験である。
 だが、それは一人著者だけに「差別的に」訪れた切なさではないように思う。
 人が「無邪気で屈託がない」ということは、時として残酷なものである。お祭り気分で「ゼッケン登校」していた著者の隣で、読書と絵が好きだったという(おそらくは感受性の豊かな)この兄は、何を感じ、何を思っていたのだろう。路地でない周囲の目をどのように意識していたのだろう。無邪気にはしゃぐ弟の姿をどう見ていたのだろう。
 子供の頃の無邪気さは、後年になって当人に仕返しするものである。その痛みを人は「成長」と呼ぶ。
 だからこの悲しみには普遍性があって、読む者の心をえぐるのであろう。





● 本:『猿まわし 被差別の民俗学』(筒井功著、河出書房新社)

猿回しの民俗学 2013年刊。

 この本は面白い。
 筒井功はほかに『漂泊の民サンカを追って』を読んだが、これも面白かった。
 この作家は、民俗学の面白さを十分に感じさせてくれる。
 それは何かというと、文献や古老への聞き取り、地名や人名、その土地の神社(信仰)や祭事、昔から伝わっている風習やしきたりや伝説などを手がかりとして、ある文化や事物の由来・来歴・いわれ・成り立ち・変容などを探る面白さである。
 綿密な調査と取材、自然な論理展開と鋭い分析力、そして深い人間理解を伴った過去を再構成する想像力。それらが揃った民俗学には、優れた推理小説を読むのと同質の面白さがある。恰好の例として、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)を挙げたい。
 筒井の本もまた推理小説のように謎解きの興味に読者を引き込む。
 しかも、共同通信社の記者をやっていただけあってその文章はわかりやすい。
 
 題材は猿回しである。
 60年代首都圏生まれの自分は、テレビや観光地などでたまに見かける猿を使った芸というイメージしかなかったのであるが、昔は縁起物として正月に家々を回り、家人に芸を見せてご祝儀を得ていた。いわゆる門付け芸である。門付け芸をする猿まわしは、60年代初頭に日本から姿を消したとあるから、自分が知らないのも無理はない。
 その歴史は古く、中国古代の文献『荘子』や『列子』に猿回しをする芸人として「狙公」という言葉が見られるそうである。日本の文献では13世紀成立の『吾妻鏡』『古今著聞集』までさかのぼれるとのこと。
 だが、本来、猿回しの主たる仕事は芸を見せることではなかった。

 これまでに紹介してきた文献類からもうかがえるように、猿まわしという職業者の仕事は、もともとは牛馬の祈祷とくに厩祓いを主としたものであった。


 どうして、猿に馬を守る力がそなわっていると考えるようになったのか、これに納得できる説明を与えることは、実は今日でも非常にむつかしい。ただ、そのような習俗は古くから中国にも東南アジアにもあって、どうやらインドが発祥地らしいということは、ほぼ間違いがない。


 それはともかく、猿は馬の守りになる、馬の病気をふせぎ治すという思想が存在したことは、はっきりしている。のちには大型家畜の牛にも、この考え方は適用されるようになる。その結果、猿を扱う者すなわち猿飼が牛馬の祈祷を職掌とすることになったと考えられる。


 すなわち、猿まわしとは牛馬の祈祷に特化したシャーマンだといえる。これが本質であって、猿に芸をさせて喜捨を乞う芸人の姿は、時代が下ってからの転進である。

 
 この本の表紙に使われている写真(上掲)は、新潟県上越市西本町の府中八幡宮にあった「神馬」と猿の木像であるが、まさに猿と馬との切っても切れない親密な関係を表している。
 大陸から入った「厩で猿を飼う」という習俗がまずあった。著者は日本では10世紀頃から広く見られるようになったと推定している。その後、猿を連れた猿まわしが大名屋敷を訪れてお厩祓いに勤め、祓いが終わってから余興としてお偉方に猿舞を見せるようになる(江戸時代全盛)。維新後になると、正月を中心に各地に出稼ぎして、家々を回って門付け芸をしたり、路上で大道芸をするようになった。
 現代の猿まわしの姿は、この変貌の最終局面(=大道芸)だったのである。
 
 ところで、現在日本でもっとも名前の知られている猿まわしと言えば、村崎太郎であろう。80年代末に「反省する猿(次郎)」のCMで一躍有名になった。以後、文化庁芸術祭大賞を受賞したり、ニューヨーク・リンカーン・センターで公演したり、千葉県市原市に「次郎おさるランド」を開設したり、「徹子の部屋」に出演したり、その半生がドラマ化されてプロデューサーであった栗原美和子と結婚(2007年)したりと、華やかなスター街道を愛猿・次郎と共に歩いてきた。
 自分は栗原美和子の書いた『太郎が恋をする頃までには…』(幻冬舎2008年刊)を読み、はじめて村崎太郎が被差別部落の出身であること、それに、猿まわしという職業が皮革産業や食肉産業のように伝統的に部落特有の仕事とされてきたことを知った。もっとも、山城新吾の『現代・河原乞食考 ―― 役者の世界って何やねん?』(解放出版社)を出すまでもなく、日本の伝統芸のルーツは「河原者」という知識はあった。猿まわしがこれほど古い歴史を持つ伝統芸であるとは知らなかったのである。
 ちなみに、『太郎が恋をする頃までには・・・』は近頃珍しいほど真摯でピュアな恋愛小説である。平成の『破戒』と評されたらしいが、自分はむしろ『ロミオとジュリエット』を、あるいはニコール・キッドマン主演の『白いカラス』(ロバート・ベントン監督、2003年)を連想した。まったくのところ涙なしには読めない。こういう小説こそドラマ化して、近頃のつまらないテレビに活を入れるべきである。
 村崎太郎は妻の本と前後してテレビで出自をカミングアウトした。現在は、本業に加え、部落問題に関する講演や啓発活動なども行っている。


 さて、筒井は猿まわしという職業が「なぜ差別されたか」を最後に検証している。


 遅くとも中世に始まり、そして今日なお日本人を呪縛しつづけている社会的差別の根源は、いったい何に由来するのか。これは被差別部落や中、近世史の研究者のみならず、およそ自らが暮らす社会に多少なりとも関心をもつ者なら、だれしもが意識のどこかに抱いている疑問のように思われる。
 この問いに答えるのは簡単ではない。現在、最も有力とされているのは穢れと清めの両語をキーワードとする説であろう。わたしは、それに対してずっと、しっくりしないものを感じていた。それでは、どうしても説明しきれない事実があるとの思いが消えなかったからである。
 その例として猿まわし差別や、渡し守差別を挙げることができる。


 と、書いているので分かるように、本書での筒井の一番の目的は「猿まわしが差別されるようになった理由」の追求にある。
 筒井の出した結論(=仮説)は興味深い。

 その差別は詰まるところ、呪的能力者の零落であるというのが私見である。ほかの差別にはほとんど言及していないが、ほぼ同様の視点で理解しうると、わたしは考えている。


 猿まわしはもともと共同体のシャーマン(古い日本語で「イチ」という)として、恐れられ祀り上げられていた。
 それが時代を経て、人知が進み、人々の間で神の地位が軽くなっていくとともに零落していった。

 神の零落は、もっとはっきりした形でイチの身に及ぶことになる。畏敬は、それが消えたとき軽侮に転化しやすい。卑近な例を挙げれば、落選した政治家、成績が落ちたスポーツ選手、人気がなくなったタレント・・・・などのたどる道に通じている。
 畏敬と軽侮が入りまじった感情の重心が後者へ移っていくにしたがい、それはやがて差別へつながることになる。


 この部分が著者の鋭い人間観察と深い人間理解の表れだと思う。
 人は、それまで尊敬し恭順の意を表していた人間が何か失望させるような行為を働いたのを知ったとき、必要以上に容赦なくその人間をバッシングするものである。失望して、単に「普通の人」レベルに相手の地位を修正すればいいと思うのだが、以前に自分が捧げていた恭順の意の裏返しとして持たされていた劣等意識や嫉妬が、反転し、一挙にむき出しになり、相手に向かうのである。


 被差別民を指す代表的な呼称の一つに「エタ」という言葉がある。「穢多」と書くので、「穢れにふれることが多い人びと」という意味で生まれた言葉と勘違いされやすいが、実はそうではない。「エタ」という音が先にあって、あとから「穢多」という漢字をあてたのである。
 では、語源は何か。
 筒井はこう推理する。


 エタの本質は呪的能力者にあったと思われる。そうだとすると、エタの語源はイチだということになる。猿や、鹿児島県で蛇の意があるエテも同様であろう。


 イチが転じてエタになった。
 この見解、当たっているのか、外しているのか。
 いずれにせよ、当の猿たちにしてみれば「どうでもいいこと」である。
 きっと、くだらない差別に「回されている」人間たちを見て、手を打って笑っていることだろう。



● 橋下知事の出自 映画:『人間みな兄弟 部落差別の記録』(亀井文夫監督)

 1960年日本映画。

 部落問題を描いたドキュメンタリー映画としてはもっとも早い時期に作られたものである。
 制作にあたっては部落解放同盟、全国同和教育研究協議会(現・全国人権教育研究協議会)ら当事者団体の協力を得ている。したがって、『破戒』や『橋のない川』などの文芸作品の映画化とは違い、当事者が関わってお墨付きを与えた「正しく」描かれた部落の姿および部落問題と、一応は言えるのかもしれない。
 古い映画であり、部落問題以外のところで人権的にも学問的にも現在の感覚からすれば不適切な表現が見られるので、テレビはもとより一般の映画館で上映されるわけもなくTUTAYAに置いてあるわけもない。
 上映された会場は浅草にある東京都人権プラザ、主催は東京都人権啓発センターである。上映終了後に静岡大学で部落問題を研究している黒川みどり氏の講演があった。

 上映時間は60分、モノクロである。

 部落の置かれている場所(崖の上や川べりなど人が住むのに適さない場所にあることが多い)についての言及から始まって、衣食住、路地の風景、生業、具体的な差別事例、不就学児童、信仰(浄土真宗の信徒が多い)、生活の中の楽しみなど、部落の人々の暮らしぶりが赤裸々に描かれてゆく。
 また、部落差別をいわゆる江戸時代の「士農工商穢多非人」の身分制度由来という歴史的経緯から説明するだけでなく、「近代になっても差別はなくなるどころか、むしろそれは政治にとって必要なものとして維持されており。今も一部ではつくられつつある」という認識のもと、社会構造的な見方を提示している。(江戸時代起源説は今否定されているらしいが。)
 責善教育(いわゆる同和教育)の推進によって新しい世代では部落外の人々との融和がはかられつつあるという希望も描き、部落問題を「みじめさ、悲惨さ、暗さ、恐ろしさ、絶望」といったマイナスイメージだけで語る陥穽から免れている。


 まず、全編を通じて印象づけられるのは、部落の貧しさである。
 60年代初頭の日本はまだ貧しかった。「ウサギ小屋」に家族が身を寄せ合って、隣近所と醤油やお米の貸し借りしながら、継ぎのあたったお古を着て、節約第一に暮らしている民は多かっただろう。
 それでもここで描かれている部落の貧しさに比すべくもない。
 普通なら雑巾にすらしないだろうボロボロの薄汚れた肌着が、何十枚と洗濯されて「幸福の黄色いハンカチ」よろしく紐にくくられて家の外に干してあるシーンがある。その光景は、言葉による説明をどんなにたくさん差し出されるよりも、一瞬にして部落の貧しさを観る者に知らしめる。まさに映像の持つ力である。子供の頃の自分の家も貧乏だったと思うけれど、干してあるあの肌着の中のもっともましな、もっとも汚れの少ないものでさえ、子供の頃に着せられた覚えがない。
 部落外の庶民の貧しさと部落民の貧しさを分かつもっとも大きなものは、部落民は職業選択ができなかったところにある。実入りの安定した仕事は部落民には閉ざされていた。どんなに勉強して良い成績を取ろうが就職の段階ではじかれてしまう。漁村でも漁の仲間に入れてもらえず、農村でも畑が持てない。だから、昔ながらの賤業と呼ばれる実入りの悪い仕事を続けるか、下請けの下請けの下請けのような不安定な安賃金の仕事をして糊口をしのぐほかなかったのである。
 職業が自由に選べさえしたら、安定した雇用が得られさえしたら、持って生まれた自分の能力が発揮できさえすれば、収入を得て貧困から抜けられる。そうやって、部落外の日本人は戦後の貧困から抜け出していった。部落民はそれが許されなかったゆえに貧乏のままに置かれ続けていた。そこから抜けて一発逆転する道は、芸能かスポーツの分野で成功するか、裏社会に連なることくらいしかなかったであろう。

 この映画が上映された1960年は、同和対策審議会が設置された年でもある。これによって部落をめぐる環境は大きく変貌していく。同和対策事業に莫大な予算がつけられ、道路や住宅が整備され、貧困や就職差別を無くすためのいろいろな策が取られ、生活状態全般の改善がはかられた。教育水準も上がった。明らかに差別も減った。この映画に出てくるような劣悪の環境に置かれた悲惨な部落は、今や見つけるのが難しいだろう。その意味でこの映画は歴史的証言としての価値がある。
 一方で、当時の部落問題で指摘されていることが、2012年現在の労働問題・貧困問題にそのままつながる。亀井監督の発言にこうある。
「有力な会社が部落の人々を差別して就職させない事情は、驚くほどである。(中略)会社側に言わせると、部落の人々は労務管理上やっかいな問題を起こしやすいから使わないのだそうだが、実際は一般労働者の低賃金制の土台として、部落のぼう大な失業者ないし無業者群を温存しておく方が、より有利な結果になっている。」
 この「部落の人々」という言葉を「派遣労働者」「フリーター」などと変換すれば、そのまま現在の労働事情にあてはまる。


 半世紀前に作られたこの映画を見て、貧しさと同時に強く感じたことがもう一つある。
 それは部落の人々がもつバイタリティ、生きる力、生きる知恵である。それを部落民全体に一般化してしまうのはまたしても「ステレオタイプ」という偏見を作ってしまう危険はあるのだが、日本人がここ数十年で失ってしまったこれらのものを映画に登場する人々から感じとるのはさして難しくない。
 近隣の工場から捨てられて部落を通る川を流れてくるハンダのくずを、川に入ってざるで漉して拾い集める少年の話が出てくる。集めたハンダくずを火で溶かして型に流し込んでふたたび棒状に鋳造し、それを必要とする同じ部落内の職人に売るのである。ナレーションが入る。
 「部落ではどんなことでも仕事(金)にしてしまう。」
 こうしたしぶとさ、生き抜くための知恵と工夫のようなものが、日本人とくに戦後生まれには欠けている。お仕着せのもの、出来合いのものあふれる中で、何不自由なく育った人間の創造力の弱さ、バイタリティの乏しさ。
 部落の人々はある意味「開き直った」ところに生きている。これ以下のどん底はないのだ。カッコつけたり見栄を張ったりする余裕も必要もない。ギリギリのところで生きている人間が放つ逞しさ、なりふりかまわず生きるパワーこそ、今の日本に必要なものかもしれない。


 ところで、この映画の筋書きは『製作趣意書』の中で前もって提示されていた。
 閉ざされた就職の門、はばまれた恋愛・結婚、部落はつくられた、分裂政策、ニコヨン(日雇い仕事のこと)、行商、不就学児童、寺の勢力・・・等々。
 この筋書きは、その数年前(1957年)に『週刊朝日』で掲載された「部落を開放せよー日本の中の封建制」というルポルタージュ記事とほとんど一致しているそうである。
 つまり、当時『週刊朝日』は、部落問題を当事者視点で「正しく」とらえていたのである。
 橋下大阪知事の出自をめぐる記事の件で『週刊朝日』は全面的に謝罪をする結果となった。
 『週刊朝日』が橋下徹という人物およびその政治姿勢を嫌うにはそれなりの理由と因縁があるのだろう。自分もかなり危険な人物だと感じている。
 しかし、いくら嫌いだろうと、相手を貶めたかろうと、超えてはいけない規(のり)がある。
 『週刊朝日』はその規を超えてしまった。それと共に、過去の編集者が守ってきた「朝日」の良心を汚し、イメージを失墜させてしまった。
 自分は記事そのものは読んでいないけれど、あの「ハシシタ」という見出しだけで十分差別的である。橋下徹に対する差別というよりも、「橋の下」のような劣悪の環境で生きることを強いられた部落の人々に対する蔑視と悪意丸出しである。(なんで今回、解放同盟は出て来ないのだろう?)

 天下の「朝日」が人権問題でミソをつける。
 日本のマスコミはまさに「病膏肓に入って」しまった。
 そして、なにあらん。
 橋下徹を生んだのは部落ではない。まぎれもなくマスコミであった。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!





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