いきなりはじめる仏教生活 2011年刊行。

 「気鋭の宗教学者にして僧侶である著者による、目からウロコの仏教案内」とカバーの背表紙に書いてある通りの本。
 著者は1961年大阪生まれの浄土真宗の僧侶。大学で宗教思想を研究し、かつ教える学者である。 

ご存知のように、仏教はえらく裾野が広いので、幅広く語るのは容易じゃありません。しかも、本書は仏教思想を体系的に学ぶことを目的としていません。そこで、ややこしい論点や各宗派・部派の特有部分は一旦保留することにしました。それよりも、「苦悩の連鎖はどうすれば安らぎの連鎖へと転換できるのか」という仏教全般に共有されている「問い」を語ろうとしております。

 という狙いに沿って、幅広い視点から仏教を語って面白いし、とても読みやすい。
 手始めに著者は現代人が陥っている苦悩の核が「近代」特有のものであることを示す。 

かつて、近代成長期においては、「もっと自我をタフにしろ」、つまり「確固たる個人を確立せよ」という言葉が主流を占めていました。「君には無限の可能性がある」、「あきらめなければ夢はかなう」、そうやって煽られて、走り続けた時期だったと言えるでしょう。
 ところが、今のような近代先鋭期では、「君は君のままでいい」や「本当の君になるんだ」というメッセージが発せられるようになりました。他者への共感や異質なるものとの共存を目指して、従来の枠組みを再編成する動きが起こってきたという予感はあります。しかし、近代成長期の<大きな物語>が解体され、ただただ自分に興味があるだけという<私の物語>へとシフトしているようにも思えます。もはや現代の日本人にとって、生きがいや楽しみは命より大事なものになりつつあります。生きがいや楽しみが見出せなければ、もはや生きていく意味さえなくしてしまう、自分の生きがいや楽しみのためには、人の生命だって奪う。なぜそれが悪いのか、わからない。それが、近代という怪物に煽られ続けた私たちが到達した地点です。


 苦しみの源はどこにあるのか。 

禁欲的努力で勝利をつかもうとした近代成長期も、自分らしくありたいと願う近代先鋭期も、自我を基盤としている点では同じです。そして、そこに立脚している限り、苦しみは解体できないと仏教では考えます。


 自我が苦しみの原因である。

 仏教は2000年以上前にお釈迦様がインドで説いた教えである。が、その本質的意義が十全に理解され、仏教の真価が燦然と輝きわたるのは、まさに「近代的個」の行き詰まりがあらわになった2000年後の「現代」においてなのかもしれない。そう思うと、この時代に仏教と出会えたことの有り難さをつくづく感じる。

 次に著者は宗教の本質について考察し、それを「外部」「儀礼」「象徴」という三つの特性とする。
 そのうちの「外部」こそがもっとも主要なものであろう。 

「外部」というのは、神や来世、浄土や天国、聖性や超越といった私たちの日常や目に見える世界を超えるものです。・・・・・・外部があるという共同幻想によって、現実を相対化するという機能を宗教は持っています。

 宗教を通じて現実を相対化する視点を持つことによって、現実を絶対視する「頑なさ」ゆえに自分自身が持たされてしまった苦悩を緩和、解毒、解体する。それが宗教の大きな働きなのである。いったん「外部」に出ることによって、はじめて「内部」構造が分かり、その構造の中で四面楚歌に陥ってもがいていた自分の姿が見える。 

仏教を生活に活用する場合、「こうあるべき」という枠組みをとにかく一度はずしてみること、ここが肝要になります。今まで重要だと思っていたもの、大切だと考えていたものに懐疑の目を向けます。いわゆる「相対化のプロセス」ですね。
 自分自身やこの世界を相対化するプロセスを経て、私たちはもう一度、この世界を生き抜く軸を再形成するのです。ここはキモです。ばくぜんと、しかも結構強固になってしまっている枠を点検し、いったんはずして、もう一度自分の立ち位置を選び取るのです。そして、今度はできるだけ枠組みが強くならないような生活をする。これが出世の智慧です。

 「できるだけ枠組みが強くならないような生活」のキーワードは、「こだわるな」と「おまかせ」だと著者は言う。
 たしかに、自分の友人の中でも、いつもにこやかでとぼけていて、深刻に悩む姿を見たことのない人間を思い浮かべると、このキーワードがピッタリ来る。周囲から突っ込みどころ満載の、いわゆる‘ボケ’だ。
 この二つにもう一つのキーワードを加えたい。
 これでいいのだ。
 

私たちはみんな、何らかの物語の中に生きています。物語の中にしか存在しません。私という存在も、私の人生も、この世もあの世も、愛も宗教も、すべてひとつの物語であり、虚構です。共同幻想です。少なくとも、仏教ではそう考えます。でも、虚構だから無意味・無価値なものとは考えません。逆です。幻想だからこそ、常にケアし続けていなければ、簡単に崩壊するものだということです。つまり、その物語に耳を傾けようとしてくれる者が誰もいなければ、生を持続することは困難なのです。逆に言えば、耳を傾けてもらえる者がいれば、そこは生きていける場だということです。

 福祉の場において、いや、どんな場であろうと、他者の支援に際しては「傾聴」が一番重要である。たとえ、その他者が語る内容が、まったくのナンセンスであったり、自分ではまったく共感できない・価値の見出せないものであったり、その物語の矛盾や亀裂が明らかにこちらに見えている(当人には見えていない)場合であっても、他者の「物語」を尊重することは生の肯定につながる。ひとは、十分に傾聴してもらってはじめて、既成の「物語」にとらわれている自分自身の姿をありのままに客観視できる位置に立てるのである。
 

「仏法は邪魔になるまで聞け」と言います。聞けば聞くほど、仏教って、邪魔になってくる、この感覚は私もよくわかります。いっそ仏教なんか知らないほうがもっとあっさりと生きて行けたのでは、という気になるときがありますから。

 この一文は、今まさに自分が痛感しているところである。

 テーラワーダ仏教と出会い、法の勉強と瞑想修行を始めて5年が経つ。
 仏教と出会っていなかったら、今頃どうなっていただろう?
 アル中か精神疾患になっていたかもしれない。
 最悪の場合、自殺していたかもしれない。
 そのくらい当時も(今も)自分の中の「虚しさ」は手強い。
 いや、思い起こせば「虚しさ」こそが、物心ついてからもっとも自分に親しい感情だったような気がする。
 我を忘れて何かに熱中するという経験が、どういうわけか自分には難しかった。仕事も趣味も遊びも交友も恋愛も・・・。20代の頃は「書くこと(=表現すること)」が一時それを可能にする手段のように思えたが、30代になったらそれもうまく働かなくなった。40代に入って「虚しさ」はいよいよ表面にせり上がり、全貌を露わにし始めた。
 鬱になった。
 なんにもしたくなかった。 いや、できなかった。
 厄を終えて鬱状態から脱出はしたものの、そのときには「虚しさ」はすでに自分の性格の一部になってしまったかのようであった。まるで、「ムーミン」に出てくるジャコウネズミのように、何を見ても何を聞いても「無駄じゃ、無駄じゃ」が頭の中にこだまする。
「これからあと何十年もこうやって生きていかなければならないのか」
 そう思って、ぞっとした。
 宗教が必要なのだと思った。
 仏教には興味はあったものの、日本の仏教にはまったく関心が持てなかった。感心しなかった。いろいろな宗派の法話を聞きに言ったが、語っているお坊さん自身が迷っているように感じられた。自分の心に響いてこなかった。禅寺で座禅を組んで精神修養をはかった。いっとき精神は落ち着くが、日常に戻ると元の黙阿弥だった。
ブッダが本当のところ何を言ったのか、阿弥陀如来や弥勒菩薩や真言や仏性に装飾・歪曲されていない仏教本来の姿が知りたいと思った。
 そんなとき、テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の書いた『仏教は心の科学』を読んで、本来の仏教の合理性、冷徹なまでの現実認識に痺れた。
 2009年のことである。


 仏教との出会いは「虚しさ」を埋めるものではなかった。
 埋められるものだったら、それは信仰になる。
 仏教は信仰ではない。何か他のもので埋めるのではなしに、「生きることそのものがそもそも虚しいのだ。それを直視し認識しなさい」とブッダは言っていた。
 一切行苦――。

 認めてしまえば、あきらめがつく。それを埋めるために何かを探してあくせくするのが馬鹿らしくなる。つまり、落ち着く。
 仏教と出合って一番良かったことは、落ち着きが得られたこと、あるいは落ち着く方法が得られたことである。


 一方で、「仏教なんて知らなきゃ良かった」と思うことがある。
 まず何より世間的な事柄に対する興味が薄れてしまった。テレビがつまらない、雑誌もつまらない、列車の中吊り広告の記事にまったく関心が持てない、スポーツもつまらない、いろいろな趣味や遊びも以前ほどの興味が持てない、世間話ができないから酒の席もつまらない。我ながら「なんとつまらない人間になってしまったことか」と思う。
 次に、五戒を破ったときの罪悪感というか不快感が恒常化する。
 酒を飲みすぎたあとの二日酔いとは別種の不快感、淫らなことをしてしまったあとの虚脱感や恥辱とは異なる不快感、嘘をついたあとの後ろめたさとは違う不快感。「快」を求めて行なったはずの行為が、結局は「不快」に終わる繰り返しに、自然とストイックにならざるをえない。この不快感の原因は、毎日のヴィパッサナ瞑想修行によって自分の「心」の状態を常に見つめる習慣が根付いてしまったので、自分の「心」が欲望に振り回され放縦に流れているモードに入ったときに自然アラームが鳴り響くためである。自分が自分の監視者になってしまった。
 また、瞑想修行の付随的な効果だと思うが‘気’に敏感になった。
 悪い‘気’の蔓延する場所には行きたくない。新宿や渋谷など都心に足が向かわなくなった。電化機器もなるべく触りたくない。最先端の現代生活とは無縁になってくる。一人でいることが多くなる。
 仏教を知って「なんだか生き難くなったなあ」という気がするのである。 

 さりとて、今さら仏教から離れることも不可能であろう。

 瞑想修行を通して獲得した智慧(=いったん知ってしまったこの世のありよう)は、決してなかったことにはできないからだ。
 妊娠21週目を超えた妊婦がもはや後戻りすることができないように、こうなったらもう「行くところまで行くしかない」のだろうか。

 後悔しているわけではないのだけれど、たまに仏教を選ばざるを得なかった人生を哀れに思うときがある。 
 同時に、仏教を選ばざるを得なかった人生を幸運に思うときがある。

 ま、これでいいのだ。