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日時 2016年11月13日(日)14:00~
会場 府中の森芸術劇場どりーむホール
演目
  1. デュカス/交響詩「魔法使いの弟子」
  2. ビゼー/「カルメン」組曲
  3. サン=サーンス/交響曲第3番作品78「オルガン付き」
指揮 金洪才(キム・ホンジェ)
オルガン奏者 池野裕美
入場無料 

 アマオケ演奏会は週末(土日)の午後に集中するので、どれに行こうか迷うことが多い。
 コンサートに行くと、入場時にその日のプログラムと一緒に十数枚もの他のアマオケ演奏会のチラシをもらう。それを持ち帰って日付順にファイリングしておく。首都圏だと大体、土日各日に少なくとも3つ以上のコンサートがかぶる。多いときは10を越える。週末が近づくとファイルを手繰って、「さて、この土日は何を聴きに行こうか」と思案する。チラシ以外の情報源として、Freude(フロイデ)というサイトも利用している。

 ソルティの選択基準は、
  • 家から遠くないこと(せいぜい1時間以内で行ける距離)
  • 入場料が安いこと(1000円以下がベター)
  • 作曲家と曲目(マーラーははずせないな)
  • 指揮者 
といったところである。
 それにつけても、本当にアマチュアオーケストラの多いこと!
 各大学に大概一つはあるわけだから学生オケだけでも相当数になる。そこにOB達の立ち上げた新旧のオケがごまんとある。上記「フロイデ」に登録されている東京都内のアマオケ(学生オケ含む)だけでもざっと500以上数えられる。それぞれのオケの定期演奏会が年2回として、全体で年1000公演。毎土日、複数のホールでアマオケが演奏しているのも道理である。
 こんなに豊穣な世界があったとは! 
 東京って、すごかばい。
 
 今日もまた近場で開催される4つのコンサートのどれに行くかで迷った。
 
1.練馬交響楽団(練馬文化センター)入場料1000円
  • ヴェルディ/歌劇「運命の力」より序曲
  • グリーグ/ピアノ協奏曲
  • バルトーク /管弦楽のための協奏曲 
指揮:小森康弘
 
2.国分寺チェンバーオーケストラ(府中の森芸術劇場)入場料1000円
  • ヴァンハル/交響曲ト短調(Bryan g2)
  • モーツァルト/交響曲第40番ト短調
  • ハイドン/交響曲第94番ト長調「驚愕」
指揮:坂本 徹
 
3.東村山交響楽団(所沢市民文化センターミューズ)入場無料
  • メンデルスゾーン/「フィンガルの洞窟」序曲 作品26
  • グリーグ/「ペールギュント」第1組曲 作品46
  • チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調 作品74「悲愴」
指揮:中島章博 

 結果的に府中市民交響楽団を選んだのだが、一番の理由は指揮者にあった。金洪才(キム・ホンジェ)の音楽を体験してみたかったのである。
 1954年兵庫県伊丹市出身。名前から分かるように在日韓国人(おそらく2世)である。日本、アメリカ、韓国での多彩な活動及びいくつもの輝かしい成功のあと、2016年11月に韓国を代表するオーケストラ光州市立交響楽団の常任指揮者に就任。いま波に乗っている指揮者の一人と言っていいだろう。(詳しいプロフィールは「ミリオンコンサート協会ホームページ」にある)

 指揮者の国籍や出自や生い立ちは、どの程度その音楽性に影響するものだろうか?
 これが文学者なら多大なるものがあろう。映画監督然り。画家然り。作曲家然り。芸術の創造者にとって、自らのアイデンティティは創作や表現の核ともオリジナリティ(個性)ともなるべきものである。
 二次創作者とでも言うべき指揮者や演奏家はどうだろう?
 他人の書いた楽譜をもとに表現するという行為にもまた、たとえば表現者の国籍なり出自なりマイノリティであることの属性は深く関わってくるものだろうか? 
 それとも、「音楽は世界の共通語」と言われるように、純粋に表現者自身の身につけたテクニックや生まれついての音楽的才能のみが普遍的価値を持ち、‘ものをいう’のだろうか? 
 端的に言って、在日韓国人であることは金洪才の音楽になにがしかの固有性をあたえているのだろうか?
 金洪才を選んだのには、上のような漠たる問いがソルティの根底にあったらしい。(はっきりと意識していなかったが)
 同じく在日韓国人(3世)で人気ある指揮者に金聖響(きむせいきょう)がいる。女優のミムラと結婚したり(2010年離婚)、ヴァイオリニストと再婚したり、ゴーストライター問題でバッシングを浴びた佐村河内守とのつながりで多額の負債を抱えたりと、いろいろと話題の尽きない人である。こちらは1970年生まれ、金洪才とは16歳離れている。この年齢差、世代の差は、在日韓国人にとっておそらく大きなものがあるだろう。
 金洪才はソフトバンクの孫正義(1957年生まれ)と同世代である。 

 日曜の府中は賑わっていた。
 ここは奈良時代、東国一の都であった。府中という名前は「国府の所在地」という意である。ある世代以上の者にとっては、1968年に発生した3億円事件の現場となった府中刑務所の名が記憶に残っているだろう。
 奈良時代ほどではなくとも、現在も府中は賑わっている。
 一つには東京競馬場の存在がある。今日はオーロカップがあった。オーロとはスペイン語で「黄金」を意味する。
 いま一つは、伝承によれば1900年の歴史を誇る大国魂(おおくにたま)神社の存在。今日は七五三直前の日曜日のため、境内は式服で着飾った親子連れの姿が多く見られた。参道の左右には屋台がぎっしり並んでお祭りのようであった。

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 そして、府中の中心街からやや離れたところにある府中の森芸術劇場でも、良い席を求める人々が開場30分以上前から列をなしていた。クラシック音楽はすっかり日本の庶民に根付いている。

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 府中市民交響楽団は、視覚障害者のために点字プログラムを用意したり、英文によるチラシとプログラムを作成したりと、マイノリティのための配慮が素晴らしい。こういったオケなら支援したくなる。世界を股にかけて活躍中の金洪水が、日本の小さな一都市のアマオケの指揮を買って出たのも、もしかしたらオケのこんな‘共生的姿勢’を評価してのことかもしれない。
 
 1階席の通路を挟んだ後部区画、最前列の中央付近というベストな席(通常ならA席になろう)に陣取ったソルティ。入口でもらったチラシを一枚一枚眺め、行きたいものをチェックする。プログラムに目を通して曲の解説を読み、どこで拍手すればいいかを確認する。演奏が始まる前の期待感に包まれながら行うこうした一連の作業こそ、コンサートの醍醐味の半分を占める。
 座席は(2,027席)は7割くらい埋まったろうか。

 今回のプログラムの統一テーマは、フランスの作曲家。
 デュカス「魔法使いの弟子」は、何と言ってもディズニー映画『ファンタジア』(1940年)の印象が強い。半人前の魔法使いの弟子がしでかすドジっぷりがユーモラスに描かれる。『ファンタジア』ではミッキーが主役を演じている。
 まずは、めりはりの効いた溌剌とした演奏で、府中市民交響楽団のレベルの高さを伺うに十分であった。全体にバランスよく、統一感があり、ソロパートも無難にこなす実力を備えている。聴いていると、事態を収拾しようと悪戦苦闘する可愛いミッキーの姿が浮かんできた。
 上々の滑り出し。

 多くの観客にしてみれば、ビゼーの「カルメン」組曲こそ、この日のプログラムのメインであろう。ドラマチックで、良く知っているメロディがあふれている。
 ここで、金洪才の際立った才能を知った。
 この指揮者の特徴は、音楽を立体的に魅せる力量にあると思う。何をどうやれば立体的になるのやら素人には皆目見当つかないのだが、登山者が2000メートルを越える山の頂きから見渡したときに、周囲の山々が前後左右に累をなして連なるごとく、金洪才はそれぞれの楽器の音色、強弱、緩急、タイミングの微細なずれを用いて音楽を立体的に(パノラマティックに)仕立て上げる。彫刻家のような冴えた手技が、だだっ広いホールの日常的空間をも彫塑し、非日常の音楽的空間に変えていく。
 これこそプロの魔法だ。
 その特徴ゆえ、純器楽作品よりも今回の最初の2曲のような、何らかのドラマを内包する作品のほうが真価を発揮できるのではないかと思った。プロフィールによると、これまでにも『蝶々夫人』『仮面舞踏会』など、いくつかオペラを振っているようだ。外見こそクールで渋めで物静かな印象だが、実際はかなりの情熱家でほとばしるものを秘めている人ではないだろうか。
 2曲目で「ブラーヴォ」が飛んだ。十分それに値すると思った。
 
 サン=サーンス「交響曲第3番作品78オルガン付き」。
 どこかで見たことのあるタイトルだなと思ったが、始まってすぐ分かった。フィギュアスケートの安藤美姫(こっちはミキティ)がいつぞやフリープログラムで使用していた曲だ。聴きながら、ニコライ・モロゾフの庇護的視線を浴びながら、(見かけだけの)頼りなさそうな表情で安藤美姫が滑っている姿が脳裏に浮かび、彼女のその後の‘我が道を行く’人生にも連想は及び、ビミョーな気分になった。
 クラシック音楽は、映画のサントラなりフィギュアスケートなりに使用されることで人気が出る一方、曲のイメージが固定されてしまうリスクがある。有名なのは、マーラーの5番アダージョとヴィスコンティ映画『ベニスに死す』の関係である。(昔ベニスを旅したとき、ソルティの頭の中はあのアダージョが鳴りっぱなしであった。美少年には遭遇しなかった・・・)
 オルガン(風琴)がとても重要な地位を占める曲で、教会音楽的な響きが特徴である。
 演奏は決して悪くはなかった。が、どうもこの曲の真価がいま一つ伝わってこなかった。
 ミキティのせいばかりとは言えまい。

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 さて、指揮者のアイデンティティと演奏の質との関係についてであるが、今回のプログラムでは判断材料に不足した。『カルメン組曲』の中の「ジプシーの踊り」に、‘金洪才が抱えていると想像される’民族的なものに対するアンビバレントな思いがなんとはなしに投影されているような気もしたけれど、ソルティの牽強付会(あるいは偏見)かもしれない。
 今後の課題としよう。
 
 帰り道で見つけたソルティ好みのホテル。


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