修源 何か面白い本はないかと近所の古本屋を渉猟しているとき目についた。
 大袈裟なタイトルとハードカバーのぶ厚さ(442ページ)に最初は買う気なかった。「仏陀出現」とはいかにもトンデモ本っぽいし、大川隆法が自分のことを「仏陀再来」とかふざけたことを言っているのを連想させる。大体、輪廻を解脱した仏陀が再来するわけないのである。再来したのであれば、「もう二度と生まれ変わりません」と宣言した仏陀は嘘をついたことになるから、自身が作った五戒を破ったことになり、とうてい信用できる人物ではないということになる。山口修源という名前もまた、ちょっと前に世間を騒がせた「法の華」の福永法源を連想させて胡散臭さを感じさせる。
 著者プロフィールを見ると、

 幼少より無常観に生きる。中学より聖書を学ぶようになり、キリストに傾倒。同時に高校より仏教に目覚め、更に大学にてインド仏教を専攻。水行等の荒行や、『人間改造講座』の原型となった修行法の実践及び瞑想三昧の日々を経ながら、新聞記者を経験。啓示を受けて1986年ニュー・タイプス・ユニバースを設立、霊性向上を目指した『人間改造講座』を編纂し、指導にあたる。その後、延べ一年にわたる深山幽谷に於いての滝行を中心とした荒行と瞑想三昧の山籠りを経て、ヒマラヤにても数ヶ月に及ぶ行を為すも、目的に達せず。1990年、三十代半ばでついに因縁の地イスラエルの荒野に於いて二ヶ月の感応の行を成し、キリストの出現に出遭い、阿羅漢(悟)を得、現在に到る。


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 またぞろ新興宗教団体のリーダーによる誇大妄想チックな自己宣伝本&信者勧誘本か。
 普通なら無視するところであるが、サブタイトル「拡大せし認識領界」がどうも気になる。手にとって中味をパラパラめくってみたら、思いの外であった。ずいぶんと堅気な学術書風な装いで、しかも最新の科学について書かれているらしい。各ページに付けられている用語注釈も親切でしっかりしている。
 前書きを読むとこうある。

 本書は、科学理論に基づいて述べられている。かなり難解である。これ程広い分野にまたがって論が進められ、しかも精緻に及んでいるものはほかに見聞したことがない。・・・・この種の本は、常に科学者の立場から著されてきたが、今回このような形で、行者の立場から分析されたことは意義のあることだと自負している。・・・・・
 これからの宗教は科学性を持たなければいけない。旧態依然とした形で、信じれば救われる的教義は、もはや時代遅れである。何より妄信・迷信・狂信の巣窟になりかねない。一件科学的内容を述べたものもあるにはあるが、結局は牽強付会的に自宗を擁護するところで止まっている。これでは宗教に新の未来は訪れない。


 自信たっぷりである。そこがちょっと恐いところだが、後半部分は正鵠を射ているし、冷静な分析が入っている。
 確かに、見るからに難解そうではあるけれど、4ヶ月通っていた介護の学校も終了したいまは元の無職に舞い戻り時間はたっぷりある。
 だまされるを覚悟で読んでみるか。(定価2000円のところを1000円で購入)

 読み終えるのに半月くらいかかるかなと踏んでいたのであるが、一週間足らずで読了してしまい、我ながら驚いている。
 面白くて、しかも読みやすかったのである。
 他人はどう思うか知らないが、トンデモは感じなかった。むしろ、著者の言うとおり、実に広い分野にわたる最新(この本の書かれた80年代終わり頃)の科学理論のダイジェストが、批判的な検討も加えながら、非常にわかりやすく体系的かつ客観的に紹介されており、現代の科学(物理学、分子生物学、脳生理学、精神分析学等)の最先端がどのあたりにあるのかを知る格好のテキストになっている。新聞記者の体験があるだけあって文章も実にこなれていて、うまい。
 これは当たりであった。
 やはり偏見は損をする。

 とは言え、やはり著者は行者であり宗教家である。
 自称「阿羅漢」でもある。


 阿羅漢とは完全に悟った(解脱した)人のことを言う仏教用語である。「完全に」悟ったとはどういう意味か。完全でない悟りもあるのか。
 そうなのである。
 仏教では悟りは4段階ある。
1.預流果(よるか)・・・悟りの流れに入った。今生にあと7回生まれ変わる間に解脱する。
2.一来果(いちらいか)・・・あと1回今生に生まれ変わって解脱する。
3.不還果(ふげんか)・・・今生には生まれ変わらない。天界に生まれ変わってその命が尽きて解脱する。
4.阿羅漢果(あらかんか)・・・もうどこにも生まれ変わらない。輪廻を脱した。

 こういったことが日本でこれまで伝えられてこなかったのはまことに不可解である。日本は大乗仏教の国で、釈迦本来の教えが入ってこなかった(広まらなかった)からという一応の理屈はあろうが、ことは仏教の核心たる、すべての修行者の最大にして最終目的たる「悟り」に関してである。
 悟りが何なのか、どうすれば悟れるのか、悟りには段階があるのか、伝統仏教(いわゆる小乗仏教)でははっきりと経典に示され、そのための修行体系も整っている、修行において最も重要なポイントが、我が国には明確に伝わっていなかったのである。長い日本仏教の歴史の中でどれだけ多くの行者や僧侶が悟りを求めて苦難呻吟してきたかを思うと、実にもったいないというか奇妙奇天烈な話である。おかげで、日本においては「悟り」というものが亀の毛か兎の角のように、現実にはありえない、暇で奇特な一握りの人間たちが執りつかれた世迷い言のようなものになってしまったのである。

 だが、実際に人は悟れるのである。
 最後の阿羅漢果まで行くのはさすがに難しいが、最初の預流果はきちんと修行すればそれほど期間をかけずに得られる。実際、古い経典でも釈迦の説法を聞いて一度に多くの人がその場で預流果を得た話があちこちに見られる。チャレンジする価値はある。

 話がそれた。
 山口修源は阿羅漢ということだから、完全に悟ったということである。本当だとしたら、たいしたことである。
 この本は、阿羅漢・山口修源が見出した究極の真理と、現在わかっている最先端の科学知識及び理論との整合性の確認という意味合いもある。「行者の立場から分析された」とはそういうことである。

 第一章では、著者のこれまでの人生で起った数々の神秘体験が述べられる。このあたりは好奇心も手伝って面白く読める。
 とりわけ、20歳の時に起こったという体験が興味深い。

 「アッ・・・無い!」
 「本当に無い。何も存在しない。全ては幻影ではないか」
  ・・・・・・・
 それは、劇的な体験だった。二十歳の夏の出来事だった。それまでの認識では、この世(現象世界・三次元世界)の存在は明らかに実在しており、且つ、非現象世界(四次元以上)も、三次元世界に重複して実在していると考えていたのである。もちろん、この考えは一定の法則性において間違ってはいない。しかし、これ以上の新たな認識、否、真実に気付かされたのである。・・・・・・端的に言えば、この世は存在しないーということになる。 


 修原氏(当時はまだ修源を名乗っていなかったであろうが)は、まさに般若心経で有名な「色即是空」を悟ったのである。
 面白いのは、このときの悟り方である。

 実は私にとって、この体験はもう一つの興味ある側面をもっていた。それは、従来のこの種の“神秘体験”が直感をもって行われてきたのに対し、この時に限っては、無限な程に速いスピードで脳が活動し、この把握(認識)を導き出したことである。脳が瞬時にして、信じ難い程のスピードで次々と論理を追い遂に最終結論を導き出したという驚くべき体験は、味わった者でなければ理解し難いことであろう。


 第2章からいよいよ本論である現代科学の分析に入る。
 次々と読者の前に紹介される学者や研究者の名前と彼らの提唱した理論名を挙げるだけでも、著者がいかに広い分野の本を読破し、科学素人の読者にかみ砕いて紹介できるまでに内容を深く理解しているかが分かる。そのうえ、各理論について欠陥や不足を指摘できるまでに検討・分析を加えているのである。これだけでも、修源氏が尋常でない頭脳の持ち主であることが知られる。

 詳しい内容は省くが、物理学(フリッチョフ・カプラやデイヴィド・ボームが登場)、分子生物学(今西錦司や利根川進やリチャード・ドーキンスが登場)、脳生理学(クンダリニーへの言及、ペンフィールドが登場)、精神分析学(フロイト、ユング、ソンディが登場)という多岐の異なる科学領域を闊歩しつつ、そこに浮かび上がって見えてくる‘統一理論’を著者は指し示そうとする。それはまた、著者が深い理解と敬意をもっているのが歴然である中国古来からの教えである道家思想につながる。

 われわれはこれまで、全くの自由意志の許に生きてきたと信じて疑うことはない。しかし、本書は、それを現代科学に基づいて否定してきた。実は、自由人生どころか機械的な人生であることを明らかとしてきたのである。さらには、先祖及び個人の前世にまで言及しその意識の奥に無意識なる存在があり、それによって衝き動かされているという心理学理論を紹介した。・・・・・それらを整合していくと、われわれには如何ともし難い因果の関係性を見出すのである。それは巨大な力でわれわれを衝き動かしていく。
 しかし、その巨大な力に抗し得る偉大な自我或いは自己或いは霊(たましい)の存在があることを心理学者は示してくれたのである。それは、物理学法則にいう「ゆらぎ」によって導かれるものである。われわれの透徹した意識は、このゆらぎを通して巨大な力に対抗し、すでに定められた運勢を少しでも良い方向に転換させることを可能とするのである。


 この「如何ともし難い因果の関係性」から抜けることが、いわゆる解脱なのであろう。
 修源氏は、そのための方法(修源之法)を一章をあてて読者に伝授してくれている。
 なに、おびえることはない。頭にヘッドギアなんかつける必要も、滝に打たれる必要もない。

 自観法―自分自身を観る、気づく。

 いま、あなたは私のこの本を読んでいるところだ。正にこの文字を見、理解しようと必死(?)である。そこでこの本を読んでいる自分に改めて気づけば良いのだ。これが自観法である。

 単純で簡単そうなのだが、やってみるとこれが結構難しいことに気づく。
 「今ここ」の自分自身(の身体・心・動き)に気づくことをサティ(念)と言うが、これこそ伝統仏教の悟りに至る瞑想と言われる「ヴィッパサナ瞑想」の中核を成す。してみると、修源之法はそれほどナンセンスなものではない。

 自分自身に気づくことがなぜ「如何ともし難い因果の関係性」の集合体であるところの自分を変容させるのか。
 その点について量子力学の第一命題とも言うべき次の一文が何かを示唆しているようで面白い。

 量子物理学において一個の粒子を観察すると、観察するという行為が、粒子そのものに対して何らかの影響を与える。