ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

魚川祐司

● 本:『オープン・シークレット』&『何でもないものがあらゆるものである―無・存在・すべて―』(トニー・パーソンズ著)

青い鳥


①『オープン・シークレット』
 1995年原著刊行
 2016年ナチュラルスピリット社より発行
②『何でもないものがあらゆるものである―無・存在・すべて―』
 2007年原著刊行
 2015年ナチュラルスピリット社より発行

 『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』を読んでいて、そこに登場する‘わかっちゃった人たち’の数人が共通して言及している人の名前があった。真理探求の旅において、その人物に出会ったことで意識が高まったとか決定的な体験を持ったとか一様に述べている。どうやらいま欧米でもっとも人気のあるスピリチュアルマスター(?)あるいは覚者の一人らしい。
 それがトニー・パーソンズである。

1933年にロンドンで生まれる。21歳のとき、見かけの目覚めがあり、長年この「公然の秘密」を世界中の人々と分かち合ってきた。彼の講話とワークショップは主にヨーロッパで開かれている。(上記②に掲載のプロフィールより)

 例によって、パーソンズもまた若い頃から精神的不全感を抱え、キリスト教や現代的なセラピーやスピリチュアリティの世界を探訪してきた。が、どれによっても不全感が拭われることはなかった。

 ある日、私はロンドン郊外の公園を横切っていた。歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。そうして、そうした予測を手放して、ただ歩きとともにあることを選んだように思えた。一歩一歩の感触、圧力がそれぞれまったく違い、ある瞬間にあったものがつぎの瞬間には消えていて、同じ形で繰り返されることが決してないことに私は気づいた。
 こうしたすべてが起こっていたそのとき、自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。それから起こったことはまったく描写不可能だ。どうしても不完全になるが、言葉を使って表すとすれば、完全な静寂があらゆるものの上に降りてきたようだった。ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(上記①より引用)

 これが21歳のときの体験とすれば1954年である。それから最初の著作である『オープン・シークレット』を発表するまでの40年以上、パーソンズは外側から見れば普通の成功した男として暮らしてきた。(まあ今も普通の男には違いないが)
 建設業で財を築き、結婚して四人の子供を作り、プールつき豪邸に住んでヨットやフェラーリを乗り回し、それから家庭を離れて英国内のOSHOのコミューンに関わり、出版業で成功する。極めてやり手なのである。誰もが羨む人生を歩んできた「勝ち組」と言える。
 それが結局こうしてスピリチュアルな世界に戻ってきたわけだから、21歳のときの体験がいかに強烈なものであったか、それと比べれば社会的成功が彼にとっていかに虚しいものであったかを伺い知ることができる。こうした経歴は、商才に長けていたグルジェフを思わせる。

 上記2冊を読むと、間違いなくパーソンズも覚者の一人であると知られる。つまり、歴代の有名な覚者――グルジェフ、クリシュナムルティ、OSHO、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ e.t.c.――と同様のことを言っている。
 ①の本では、パーソンズの子供の頃から悟りに至るまでの精神遍歴が明かされる。そして、彼の‘教え’のエッセンスが簡潔に過不足なく語られている。わずか68ページの薄い本なので、あっという間に読むことができる。しかし、そこに凝縮されている‘教え’を、言葉の上だけでなく、知的・論理的にでもなく、身をもって得心するのは至難の技である。(と言うと、当のパーソンズから「その時間的思考が一番の障害」と指摘されそうだが・・・)
 ②の本は、パーソンズの開催しているワークショップで実際に参加者とパーソンズとの間で交わされた対話を中心に編集されたものである。なので、パーソンズの個性や他人を導く際のスタンス、ミーティングの雰囲気を伺うことができる。参加者がパーソンズに投げかける問いは、悟っていない我々が当然のように抱き得るものなので、この本を読む者は自らを参加者の立場に置いてパーソンズと話しているような気分になる。
 「濡れ手に粟」「のれんに腕押し」ではないが、パーソンズの答えのあまりのつかみどころのなさ・取りつく島のなさに、煙に巻かれたようなもどかしい気になる瞬間もあれば、「目からウロコ」の瞬間もある。ピッタリくる表現を探すなら、「瞬時瞬時、足場がすくわれる」感覚ということになろうか。
 
 グルジェフを思わせると書いたが、実のところ読んでいて一番「似ているな」と思ったのはクリシュナムルティである。
 他の覚者たちと一線を画すパーソンズの‘教え’の明確な特徴は、真理に至るための方法論の拒絶である。
 
 熱意、受容が必要だとか、あるいは肉体―精神を浄化することが必要だというのは、誤った考えであることは明らかです。内側に注意を向け、「自分の本質」や、非常に多くを約束してくれながらも素早く来ては去って行く気づきの状態を発見するようには、招待もされないことでしょう。ここではどんな種類のスピリチュアルなアイスキャンデーも提供されません。
 探求者が指針やプロセス、あるいは何かになる教えを必要としていることに対しては、何の妥協もありません。ここにはいかなる特別な父親も母親もいなければ、所属すべきスピリチュアルな家族もいません。どんな種類の魔法もカリスマも譲渡もありません・・・・・何も売っていません。ただ小さい「自分」というおとぎ話を、終了することができるかもしれないだけです。(上記②より引用)
 
 明らかにクリシュナムルティとスタンスを同じくする。
 
‘真理’は道なき領域であり、いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はそれに近づくことはできない。(ルネ・フェレ著、大野純一訳『クリシュナムルティ 懐疑の炎』めるくまーる社)

 すべての探求手段を否定するこのスタンスゆえに、パーソンズのワークショップの参加者および読者は途方にくれることになる。当然である。そもそもワークショップに参加すること自体、本を読むこと自体、探求にほかならないからだ。
 この矛盾が漫才のように面白い問答となって顕われる。

参加者 : 気づきや存在のそのレベルに到達するために、私にできることが何かありませんか?
パーソンズ : 何もありません。それは何もできない誰かがいるからでなく、誰もおらず、達成すべきレベルもないからです! それがないので、他のどんなレベルもありません。何もなく、かつあらゆるものだけがただあります。

参加者 : つまり、これを聞きに来ていることには、絶対的に何の意味もないのですか?
パーソンズ : はい。まったく何の意味もありません。 
参加者 : しかし、本当にないのですか?
パーソンズ : はい。でもあなたは来ることをやめるでしょうか?
(上記②より引用。発話者の表示はソルティ付す)

 漫才のようでもあり、禅問答(公案)のようでもある。言葉で言い表せないものを言葉を使ってできるだけ誠実に伝えようとすると、どうしてもこんなふうになってしまうのだろう。

 ところで、「真理に至る道はない」というのは真理であろうか?
 悟るための方法論は、伝統的なものであれ現代的なものであれ、日常的なものであれ非日常的なものであれ、すべてナンセンスなのだろうか?
 もしそうなら、五戒や八正道や瞑想法を提唱したブッダは間違っていたことになる。五戒を守ることも、仏法の勉強をすることも、瞑想することも、善行為をすることも、慈悲を育くむことも、智慧を開発することも、意味がないことになる。仏教は否定されよう。
 どうなのだろう?
 さらに、いろいろな覚者、いろいろな宗教団体等によって、千差万別の悟りに至る方法論が提唱され実践されている現実がある。たとえば、同じ瞑想でもサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いがあるし、同じヴィパッサナー瞑想でもマハーシ系とゴエンカ系とで違いがある。「いやいや、必ずしも悟るのに瞑想は必要ない。慈悲行や念仏こそ悟りへの道」という大乗仏教系もあれば、千日回峰のような苦行を重んじる宗派もある。宗教ではないが、『奇跡のコース(The Course of Miracle)』のような自己学習型のスピリチュアル・ワークブックもあれば、特殊な周波数を発するCDを聴いて体外離脱をはかり真実を知るというものもある。まさに百花繚乱である。その様を表すのに、「悟りとは山登りのようなものだ。頂上は一つであるが、そこに至る山道はいろいろある」と言われたりする。山登りが趣味のソルティには納得しやすい喩えであるが、実際のところ、このような多様性が生まれる背景にはなにがあるのだろうか?
 

理由1 覚者それぞれの悟りの質やレベルの違いから 

 「悟り」と一言でいっても、覚者それぞれによって違うものを見ている可能性がある。
 世の中には掃いて捨てるほどの自称他称‘覚者’がいる。信者からのお布施や女性(男性)信者との身体的エネルギー交流や権威誇示やパワーコントロールが目的の詐欺同然の自覚的インチキ覚者もいる。一方、自覚的でない誇大妄想系の覚者もいる。悪い人ではないけれど「イッちゃってる」タイプである。
 これらは大概、普通の常識なり良識なり科学的知識があれば見抜けるものであろう。たとえば、「尊師の入ったお風呂のお湯を飲めば悟りに近づける」とか「プレアデス星雲から発された光線が地球の次元を上昇させます」なんて言説を妄信できるのは、頭の悪い証拠である。こういったものは、現実社会に適応できない自我が、なんとか延命するために編み出した、自我にとって都合の良い逃避先である。自我は生き延びるためならどんな「物語」でも創る。グルと信者はその逃避先で「物語」の共同創作者にして共同読者になる。
 それとは別に、真理の香りを体現している‘本物’の覚者もいる。何をもって‘本物’とするかは難しいところであるし、‘本物’と‘ニセモノ’の境は限りなく曖昧であるようにも思う。これまで様々な‘本物’と言われている古今東西の覚者の本を読んできたソルティの印象では、‘本物’には次のような言説を最大公約数として指摘できよう。
  • 自我は幻想であり、自我を終焉することで悟りは顕現する。
  • 過去や未来は幻想である。実際にあるのは「いまここ」だけである。
  • 見るものは見られるものである。
 しかるに、こうした‘本物’の覚者間においても、それぞれの悟りに微妙な違いを感じることがある。
 これに関して、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会会長である石川勇一が興味深いことを書いている。

 トランスパーソナルの代表的思想家であったケン・ウィルパーは、悟りの定義を次のように述べています。「悟りとは、その段階まで進化した、すべての状態とすべての段階、および、その時点のすべての存在との一体化である」(『インテグラル・スピリチュアリティ』春秋社、2008)。 
  
 ウィルパーの悟りの定義は、トランスパーソナル学や新霊性運動を代表しているといってもよい考え方です。しかも、もっとも幅広い知見に基づき、よく吟味され洗練された理論に基づいているといえます。新霊性運動は一枚岩ではありませんが、おしなべてウィルパーのように大いなるものとの合一、ワンネスが最終ゴールと捉えられています。梵我一如が悟りであるというヴェーダの思想や、大乗仏教、タオイズム、諸々の神秘主義思想においても、これと同様の悟りの理解は数多く見出すことができます。

 このようにウィルパーはあらゆる段階・状態・存在との一体化が、人間の普遍的な悟りであると理論化したのですが、これはブッダの説いた悟り、すなわち解脱とは定義が異なっています。初期仏教のすべての目標は、煩悩の矢を引き抜いて、煩悩が顕在的にも完全に「吹き消された状態」である涅槃(nibbana)に至ること、すなわち解脱することです。

 目的が煩悩を滅した解脱にあるのか、非二元的な一体化にあるのか、ここが初期仏教と、トランスパーソナルや霊的諸伝統との決定的な違いであると思います。

(以上、『サンガジャパン』26号(サンガ発行)掲載の石川勇一著『二つの河を渡って 心理学、トランスパーソナル、初期仏教のあいだ』より引用)

 同じ「悟り」という言葉・概念を用いているにしても、その実質なりレベルなりが異なっている可能性があるということだ。つまり、到達した山頂が違っていた。あるいは、同じ山ではあるけれど、中には8合目を山頂と勘違いして満足している人もいる。
 ならば、それぞれの覚者が指し示す山頂への道(=方法論)が異なってくるのは無理からぬところである。
 ちなみに、「非二元(Non Dual)の教え」を核とするトニー・パーソンズの悟りは、明らかに上記のトランスパーソナルの悟りに該当すると思うのだが、「段階」とか「進化」といったものを否定している点でウィルパーとはまったく異なっている。


理由その2 覚者それぞれの‘個性’の違いから 

 いまここに同じ山頂に到達した二人の覚者がいるとしよう。まったく同じ‘真理’を見て、まったく同じ境地に達した二人である。
 彼らは、無明に苦しむ衆生の姿を見て、慈悲の念を起こし、自らが達した境地へ衆生を導かんと、説法と布教を開始しようと決断する。
 二人は同じやり方(=方法論)を採るであろうか?
 最終的な悟りに達した覚者(仏教で言う「阿羅漢」)からは「自我=自己意識」が消えると言う。なので「個性」というものはないはずと思うのだが、クリシュナムルティによると、「個人の独自性(individual uniqueness)」は残るらしい。これは「エゴ」ではなくて、「普遍的な生に固有の区別であり、個人性からすべてのエゴイズムが一掃された時に残る、個人性の純粋に抽象的なフォルム(型)」なのだという。(1928年のクリシュナムルティとE.A.ウッドハウスの対話より)
 クリシュナムルティの言葉どおり、悟後の覚者に何らかの‘独自性’が残るなら、説法と布教に乗り出そうとする際に、その独自性が「個性」となって顕現する可能性はあろう。
 魚川祐司が次のように書いている。
 
 覚者・解脱者たちにとっては、悟後の「行為」はその全てが純粋な「遊び」である。そして「遊び」である以上、その仕方は「自由」だから、利他の実践へと踏み出す場合、その範囲や形式に関しては、彼らに裁量の余地が存在する。言い換えれば、仏教徒はみな「物語の世界」の外部へと至ることを試みるが、そのことに成功した後に、未悟の衆生に対してどのような物語を示現するか(あるいは、そもそもそのことを全く行わないか)は、本人の「自由裁量」にしたがう可能性として、本質的には常に未決定のまま開かれているということだ。

 現状の仏教の多様性は驚くほどのものであり、その中には互いに矛盾する思想や実践も、多く包含されている。ゆえに、そのうちのどれが「正しい仏教」であり、どれが「本当の仏教」なのかということが、仏教者のあいだでしばしば問題として論じられることがある。だが、私としては、そうした多様性は覚者それぞれの「物語の世界」への対応の仕方の差異によって生じるものなのだから、それらのうちのあるものが「正しく」て、あるものが「間違っている」と、決めつける必要はないと思う。
(以上、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』より引用)

 この観点をとれば、クリシュナムルティやトニー・パーソンズは、その本然の‘独自性’を自由裁量のうちに存分に発揮して、「未悟の衆生が捕まろうとする‘物語’をその場で徹底的に容赦なく叩き潰す」という方法論を用いている、と解釈することができるのかもしれない。
 

 以上、悟りの方法論の有る無し、あるいは方法論の多様性について、乱暴に考察してみた。もっといろいろな観点があると思うが、ここらがソルティの限界である。それに、そもそもこんな考察(=妄想)したところで頂上に一歩も近づけるわけでないことは最初から分かっていた。
 休日を半日使っての単なる「暇つぶし」「遊び」であった。


 自分を待ち受けているつぎの「スピリチュアルな」高揚感に向けて行進しているときに、私たちが理解し損ねているように思えるのは、自分の探している宝物はそうやって向かおうとしている先にではなく、今まさに歩いているその足どりの単純な性質のなかにあるということだ。今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている。(『オープン・シークレット』より)


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● 非凡なエゴイスト 本:『知的唯仏論』(対談:宮崎哲弥&呉智英)

2012年サンガ初出。
2016年新潮文庫発行。

 仏教に詳しい、かつ仏教への高い評価を有する二人の論客による対談。
 対談ならではのトピックの自在さ、言葉の平易さ、両者の関係性の綾、垣間見られる素の表情が感じられ、面白くて読みやすい。
 一方、対談とは言うものの、途中から圧倒的に宮崎のセリフが多くなって、おのずと仏教に関する専門用語が多くなる。中観派の仏教徒を自認する宮崎の独壇場となり、呉は話の聞き手、引き出し役に回っている。もうちょっと呉の話が聞きたかった。

対談中、私は宮崎君から学ぶことばかりであった。私は素人として、読者代表として、宮崎君と格闘した。いや、二人で笑いあいながら、仏教思想の沃野ではしゃぎ合い、じゃれ合った、と言ったほうが正確かもしれない。(呉による「まえがき」より)

 まあ、呉の仏教観は著書『つぎはぎ仏教入門』に書かれているようだから、読んでみよう。
 そう。この対談を読んで一番「トクした」と思ったのは、次に読みたい本や漫画がいくつか見つかったことである。二人の話の中で取り上げられて、いかにも面白そうなのである。
  • 漫画 たかもちげん『祝福王』
  • 漫画 井浦秀夫『少年の国』
  • 小説 高村薫『太陽を曳く馬』
  • 評論 丘山万里子『ブッダはなぜ女嫌いになったのか』
  • 評論 D.H.ローレンス『現代人は愛しうるか』
  • 評論 呉智英『つぎはぎ仏教入門』
  • 経典 『サンユッタ・ニカーヤ』
 ま、すべてはシャフクの試験(1/29)が終わってからだ。

 宮崎の言葉から宮崎の仏教観――というより「そもそも釈迦の教えとはどんなものなのか」が伺える。
 つまり、日本に伝来する以前の、インドから中国にわたる以前の、大乗と小乗に分裂する以前の、初期の仏教のありのままの姿。呉はそれを「プロト仏教」と呼んでいる。本書(新潮社版)の解説を『仏教思想のゼロポイント』で仏教研究者として一躍名を高めたニー仏こと魚川祐司が引き受けているのもそれゆえであろう。

 以下、宮崎の言葉より抜粋。

 言葉の限界というのは、同時に論理の限界、世界の限界でもありますから、言葉や理性を携えたまま、世界に内蔵したままで、自ずと超えてしまう。そこから世界や言語や論理に内側から穴を開け、外に出してしまい、果ては内と外の分別すらも滅却してしまう。そんな思考技術、心身技法を開発した仏教は、宗教としてもやはり特異なものですね。

 法を求めることは、近親者への情愛に優る。何となれば「子供や配偶者の存在は自分を根源的な苦悩から解放してはくれないから」というわけ。これが仏教の基本的思想ですね。まさしく「非凡なエゴイスト」の教えに相応しい言葉だし、夫や子供の存在が自己確立や自己解放に繋がるわけじゃないとする現今のフェミニズムの主張にも通じるものがありますよね。

 ここではすでに仏教教理の二つの特徴が表れていると解せます。悟りの境地とそこに向かう教えは第一に、私達の日常生活における実感と反するものであること。第二に、下手に教えを広めると却って世間を害する虞(おそれ)があること。

 仏教の慈悲の意味は、人間の実存に根ざした、生老病死に纏わる根源的苦を取り去ることです。社会がどうあろうが、たとえば完全無欠の理想社会が訪れようが、そこでも解明できない「この私」の苦しみこそが仏教本来の救済対象なのです。

 上の「非凡なエゴイスト」という言い方に、仏教徒は――少なくとも初期仏教を拠り所とする仏教徒は「なんて酷薄でジコチュウな奴らだ」と思う向きもあるかもしれない。
 しかし、それは勘違いであろう。
 世の中にはおおむね二通りの人間しかいない。
 「非凡なエゴイスト」と「凡なエゴイスト」と――。


 サードゥ、サードゥ、サードゥ


 
 


● 私は苦しんで、そうして人間になっています。 本:『スノー・イン・ザ・サマー』(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳)

 『自由への旅』を読んで、すっかりウ・ジョーティカ・ファンになってしまったソルティ。またもミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。

 この本は、80年代から90年代前半にかけて、ウ・ジョーティカ師が友人たちに書き送った手紙から編纂されている。師は1947年生まれであるから、30歳半ば~40歳半ばの知力・気力とも充実した、世間的に言うなら男盛りの脂の乗り切った頃に書かれた文章である。 
 そもそもが公表を前提としていない友人たちへの私信ということもあって、飾らない率直な表現、様々なテーマに関する個人的見解のストレートな表明、家族や友人たちへの惜しみない愛情と誠実さの発露――が特徴的である。僧侶としてのウ・ジョーティカ師ではなく、一人の人間としてのウ・ジョーティカの心の中を覗いているような気がするほど、書き手を身近に感じられる。
 また、古今東西のたくさんの哲学書や宗教書や心理学の本からの引用があり、師が並外れた読書家であることが伺える。インテリ中のインテリなのだ。

 一方、『自由への旅』は、師が50歳のときの講義の記録である。テーマも「ウィパッサナー瞑想」に絞られている。
 その意味で、二つの本を較べたときに、対照的な印象を受けるのは当然といえば当然である。
 が、そうした体裁上の違いばかりでなく、10年という歳月におけるウ・ジョーティカ師の瞑想者としての進化をどうしてもそこに感じざるを得ない。なんというか、筆致の無駄のなさというか、ある種の‘恬淡さ’を後発の書には感じるのである。枯淡の境地か。
 『スノー・イン・ザ・サマー』は掛け値なしに素晴らしい。仏道修行者(=マインドフルネスの実践者)必読の本である。仏教徒でなくとも、孤独や人生に悩む者もまた一読感じ入ることの多い名著であろう。これを書いた時点(年齢)におけるウ・ジョーティカ師の‘人として’の成熟は、畏れ入るばかりである。

 そして10年。
 それを超えてさらに進化していったのだ。
 それが可能なのがウィパッサナー瞑想なのだ。 


以下、引用。

 孤独というものは、自分の周囲に誰もいないことから来るものではなく、自分にとって重要であると思われる物事についてコミュニケーションがとれないこと、もしくは他者が認められないと感じるような見解を保持していることから来るものです。誰かが他の人よりたくさんのことを知っていたら、その人は孤独になる。
 しかしながら、孤独というのは必ずしも人付き合いと相反するものではありません。孤独な人ほど人付き合いに敏感な存在もありませんし、人付き合いが上手くいくのは、各個人が彼/彼女の個体性を心に留めて、自身と他者を同一化しない時だけだからです。

 あなたにできる最上のことは、心のいまある状態を、自身を責めたり正当化したりすることなく、それを違った状態にしたりそこから逃げ出そうとしたりすることなく、また後ろめたく思ったり恥ずかしく思ったりすることなく、認めて、気づいて、知ることです。

 自分自身と自分の生き方を本当に肯定できている時、はじめてあなたは、本当に他者を助けることができるのです。ですから、自分の心と深く繋がることが、とても大切なのですよ。

 私は、人々がどれほどさみしいか知っています。あなたがどれほどさみしいかも知っていますよ。私がどれほどさみしいかを、私は知っていますからね。私は自分の人生を、静かに、穏やかに、そして独りで暮らす仕方を学んできました。しかし、誰かと本当に心と心でふれあうことは、素晴らしいことだと思っています。
 私はたくさん苦しんで、それで僧侶になっています。
 私はもっと苦しんで、そうして人間になっています。

 私たちはそれぞれが、誰かが自分をさみしく感じないようにできるだろうと期待している。目的を果たす手段としての関係性は、常に失望に終わります。さみしさから逃げること。これが、私たちのほとんどが、ほとんどの時間を費やして行っていることです。

 真誠であり続けるためには、私たちは変わらなければなりません。きつくなり過ぎてしまった皮を脱ぎ捨てる蛇のように、私たちは自分の大好きな夢を脱ぎ捨てなければならない。きつ過ぎて息ができなくなったと愚痴をこぼす代わりに、より楽に自分が呼吸できるようにするために、私たちは古い皮を脱ぎ捨てて、新しい皮を育てなければならないのです。
 しかし、その新しい皮を脱ぎ捨てる時が来たら、ためらってはならないということも覚えておかねばなりません。いつだって、古い皮を脱ぎ捨てるというのは辛いことです。新しい皮は環境と接することに耐えられるほど、まだ十分に強くなっていないので、自分がとても脆弱で、ひどく感じやすい状態になってしまいますからね。




  

● 本:『自由への旅 ~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳)

 インターネットのミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。
 卓抜なる仏教解説書『仏教思想のゼロポイント』の著者、ニー仏こと魚川祐司が翻訳している。どうやらウ・ジョーティカ師は、魚川が私淑しているお坊さまのようである。

 ウ・ジョーティカ師はムスリムの家庭に生まれ、カトリックのミッション・スクールに通い、大学では電気工学を学んで、さらに結婚して二女を設け、それから出家して瞑想指導者になるという、複雑な経歴の持ち主である。
 それだけの複雑な人生を歩んできた方だから、当然、家族や周囲の人々との関係にも、複雑なコンフリクトが色々とあった。彼の著作には、そのことが包み隠さず書かれていて、それが彼の実践している瞑想によってどのように変化していったかが、豊富な知識と経験の裏打ちによって、丁寧に描写されている。
 世界の人々が、ウ・ジョーティカ師の著作を読んで感銘を受けるのは、彼が私たちと同様の日常的な問題に深く悩んだ上で、それを仏教の実践によって一つ一つ乗り越えているからであり、形而下的な煩悶と形而上的(に感じられる)瞑想の境地が、そこで有機的に結びついているからだろう。(Note「ニー仏」のページより抜粋)
 
 本書はたいへんな名著にして、涙が出るほど有難い実用書である。
 だが、仏教に関心のない一般の人にとっては何の役にも立たない。
 仏教に興味があっても瞑想をやったことのない人にとっても何の役にも立たない。
 瞑想は瞑想でも、サマタ瞑想――わが国で伝統的かつ大衆的に実践されている最も一般的な瞑想である――をやっている人にとっても何の役にも立たない。
 ただただ、テーラワーダ仏教に伝わる「悟りに至る瞑想」と言われるウィパッサナー瞑想を実践している人にとってだけ、はじめて役に立ち、実用書としての真価を発揮し得る。
 だから、本書が書物となって書店に並ぶ日が来る可能性は、今のところないだろう。(来てほしいけれど)
 その意味で、本書を邦訳して(無料で!)ネットに挙げてくれた魚川は、非常に良い業(カルマ)を積んだと断言できる。ウィパッサナー瞑想によって智慧を開発し悟りを目指す日本の仏教徒たちに、またとない指南書を提供してくれたのであるから。
 まずは謹んで感謝したい。
 
 ウィパッサナー瞑想の指南書としては、同じくミャンマーのマハーシ長老が書いた『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』(国際語学社より1995年発行)という、すでに古典と言ってもいい名著がある。『自由への旅』はそれに勝るとも劣らない画期的な‘虎の巻’である。

ミャンマーの瞑想 001
 

 ウィパッサナー瞑想の凄いところは、きちんと瞑想のやり方をそれなりの師から学んで、教えられたとおりに日々真面目に実践すれば、「誰でも、必ず、同じような過程をたどって、前もって示されている智慧が現れて、前もって示されているある種の精神状態に達し、前もって示されているいくつかのスランプにはまり、前もって示されている11段階の智慧のステップを徐々に上がって、最終的に悟りに達する」ところである。
 つまり、普遍性と実証性とが、2000年のテーラワーダ仏教の歴史とその間の何十万人かの悟達者の存在によって証明されているのである。まぐれや偶然や生まれついての能力による悟りではなく、純粋に個人個人の精進による悟りが可能なのである。
 であるからこそ、テーラワーダ仏教徒が毎日読経する「ダンマ(法)の六徳」ではこう言っている。
 
 世尊の法は、
① 善く、正しく説き示された教えである。
② 実証できる教えである。
③ 普遍性があり、永遠たる教えである。
④ 「来たれ、見よ」と言える確かな教えである。
⑤ 実践者を涅槃に導く教えである。
⑥ 賢者たちによって各自で悟られるべき教えである。 

 普遍性と実証性がかくも高らかに宣言できる理由は、おそらくウィパッサナー瞑想が科学的根拠を持っているから、と自分は考える。すなわち、ウィパッサナー瞑想は人間の脳に影響を及ぼし、脳の構造を不可逆的に変容させる仕組みを持っているのではないかと思う。シナプスの接続変換とか脳内物質の増加とか普段は使用されていない‘残り70%の’脳細胞の活性化とか、なにかそんなことと関係しているのかもしれない。いやしくも人間の脳であればそこに共通した構造や働きが想定できるから、誰にとっても起こりうるわけだ。
 自分の場合、ウィパッサナー瞑想をはじめた当初、頭が締め付けられるような感覚をおぼえ、知恵熱のように頭の中が熱くなったのを覚えている。(実際に熱はなかった。)
 その後も瞑想をしていると、脳を下から突き上げるような痛みを感じたり、脳が頭蓋骨の中で前転したかのような奇怪な刺激を感じたり、脳の一部が空になったような突き抜け感を覚えたりした。前頭葉あたりがうずいて、そこから何かが額の裏を通って滴り落ちるような感覚もときに起こる。瞑想が脳に何らかの作用を起こしているという感じは拭えない。
 その真偽はともかく、自分がウィパッサナー瞑想を続けている理由は、明らかに「前もってテキストに示されている」通りの現象が、まったくその通りに起こり続けているので、瞑想の効用を信じないわけにはいかないからである。このまま行けば、いつかは悟りに達するのだろうと思わざるを得ない。

 本書でウ・ジョーティカ師は、ウィパッサナー瞑想の実践者がたどる階梯を、第一の智慧から始まって第十一の智慧に至るまで、そしてその先の涅槃(=悟り)について、詳しく丁寧に解説している。実際の瞑想合宿(リトリート)の場で、参加者を前にして行っている講話なので、非常に分かりやすい言葉で具体的に語られており、章末には瞑想に関する質疑応答もついている。魚川の訳も的確で、読みやすく、よどむところがない。ここでもまた『仏教思想のゼロポイント』同様、瞑想実践者ならではの深い理解が礎になっていることが感じとれる。
 そして、言い忘れちゃいけない本書の何よりの魅力は、魚川が上に示唆したとおり、ウ・ジョーティカ師の誠実で、率直で、賢明で、慈悲深いパーソナリティが全編漂っている点である。道を求める実践者をあたたかくサポートする師のまなざしは紙面の奥から読者に降り注ぎ、穏やかで心を落ち着かせる師の声は行間から読者の耳朶を震わす。瞑想すると、こんなに素晴らしい人格に至れるのだという見本のようである。
 実践者が、いつも手元に置いて繰り返し読みたい本である。(やっぱり、刊行してほしいな。サンガさん、お願いします。)

 以下、引用。
 
 実際のところ、ウィパッサナーの洞察智には、三つの洞察智、つまり無常・苦・無我しか存在しません。しかし、無常・苦・無我を経験する度合いの差異によって、諸々の洞察智が、異なることになるのです。
 
 瞑想において得た洞察智は、あなたの日常生活、あなたの世俗的な問題にも、適用が可能です。瞑想においてのみならず、人生全体を生きるための正しい態度を、あなたは育てる。あなたの人生全体にとって、それは正しい態度なのです。
 
 死ぬ準備ができている人には、生きる準備ができているのです。私たちのほとんどは、生命活動を行っているけれども、本当の意味で生きているわけではありません。私たちは生に対して、あまりにも多く抵抗している。私たちは本当の意味で注意を払っておらず、また人生から十分に学んでもいないのです。
 
 よいことであれ悪いことであれ、物事は私たちがそれに値するから起こるのです。ひとたびこのことを、非常にはっきりと理解すれば、あなたは非難することをやめてしまいます。自分の業を非難することすらやめてしまうのです。両親や政府を、非難することもやめてしまう。
 私たちはいつも非難しています。責任を、他者や状況に押し付け続けている。十分な責任をとってはいないのです。
 物事は自分がそれに値するから起きているということを、ひとたび理解すれば、あなたは学び、成長し、そして変化する。そうすれば、物事はどんどんよくなっていきます。
 
 涅槃へと導く唯一の道は、あなた自身の精神的と身体的プロセスを観察することです。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


● 本:『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(魚川祐司著)

2015年新潮社刊行。

この本を書店の仏教書コーナーで見つけて、ざっと立ち読みしたとき、
「ついに出てきたなー」
 と心のなかで叫んだ。

 日本テーラワーダ仏教協会が設立されて20年余、中心的指導者であるアルボムッレ・スマナサーラ長老の八面六臂の活躍によって、テーラワーダ仏教を学びヴィパッサナー瞑想実践する人が今や日本中に広がっている。その著者は仏教書としては異例のベストセラーを重ねている。
 むろん、テーラワーダ仏教(上座部仏教あるいは原始仏教)はそれ以前に日本に入っていて、在日のタイ人やミャンマー人を中心に細々と信仰されていたであろうし、大乗仏教に飽き足らぬ日本人の求道者が個人的にタイやミャンマーに渡って修行したり出家したりということはあった。
 が、今日ここまでテーラワーダ仏教が日本および日本人に浸透し、テーラワーダ仏教関連の本が書店に並び、一種のブームと言えるほど活況を呈しているのは、明らかにここ10年くらいのことである。
 こうした流れにあって、しかし、テーラワーダ仏教もとい「お釈迦様のもともとの教え」の本質は何なのかを、内側からわかりやすくコンパクトに伝えた本はなかった。
 むろん、スマナサーラ長老の膨大な著書はある。が、それらは仏教という広大深遠な宇宙のあちらこちらをピンポイントで取り出して、幾分希釈しつつ、素人にわかりやすく丁寧に伝えたものである。長老の目的が、目の前の人々の苦しみを取り除き、最終的に修行実践へと誘うものである限り、これは当然である。重要なのは、「仏法を学んでみよう。ヴィパッサナー瞑想をやってみよう」と読者や聴衆が思うようになることであり、長老の仕事はそのための入口を提供することなのだ。小難しい学術的な仏教書など書くだけ時間の無駄である。知的に仏教を理解するのは、かえって智慧を遠ざける危険がある。智慧はあくまでも瞑想実践によって各自が悟るべきものである。

 自分の知る限りでは、仏教学者の宮元啓一、田上太秀佐々木閑あたりが、原始仏教に対する優れた理解を持って解説書や入門書を書いている。しかしそれらは(あくまでソルティの実感だが)「内側からでなく外側から」、つまり瞑想実践によって到達した智慧を礎に筆者自らの確信に基づいて語っていると言うよりも、経典研究をもとに純粋に学術的に捉えた語りという趣がある。そしてまた、‘仏教思想のゼロポイント’たる肝心かなめの「悟り」の内容については、お茶を濁している感がある。
 一方で、修行によって達したある境地から「確信を持って」言葉を放っていると感じられる書き手として、小池龍之介藤本晃井上ウィマラがいるが、彼らはスマサーラ長老同様、ブッダ本来の教えをもって、苦しんでいる世間の人々を援けることに焦点を置いているので、ブッダの教えそのものを学術的体裁でまとめたものは著していない。(ソルティが浅学寡聞なだけかもしれない・・・)
 そんなわけで、テキスト研究と自らの瞑想実践によって裏打ちされた智慧をもとに、確信を持って、学術的体裁をとりながら、ブッダ本来の教えをコンパクトに赤裸々なまでに先鋭化して著した本が、テーラワーダ仏教ブームの一つの収穫および到達点として、若い書き手(1979年生まれ)の中から「ついに」現れた、という感慨を持ったのである。

 事実、魚川の文章は、極めて論理的で核心を突いており、言葉も引用も的確であって、有無を言わせぬ説得力に満ちている。しかも、青年特有の(と言ったらステレオタイプになるのかもしれないが)一切の妥協を許さぬ追求心と純粋さとが全編あふれている。伝統的な仏教観・ブッダ像・世間を喜ばせる仏教イメージ(たとえば、極楽浄土、仏性、慈悲、阿弥陀仏の救い、瀬戸内寂聴e.t.c)を潔くも廃して、釈尊の言葉をそのまま伝える初期仏教経典をたよりに、等身大のブッダ像・仏教を「危険なほど誠実に」――と宮崎哲弥が帯で評している――提示している。
 そしてまた、経典研究だけからなる知的な創造からは嗅ぎ取ることのできないもの、すなわち、実際にミャンマーに渡航して自ら瞑想センターで修行してブッダの教えを「内側から納得した」者だからこそ放つことのできる‘真理の香り’が、行間から立ち昇っている。


以下、引用。

●ゴーダマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の常識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもの前提となる「人間」とか「正しい」とかいった物語を破壊してしまう作用をもつ。渇愛を完全に消滅させて阿羅漢となったヤサが「卑俗に戻る」ことができなくなったことからもわかるように、解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。

ソルティ:魚川の言葉を借りれば、ブッダは修行者に対して「異性とは目を合わせないニートになれ」と求めていたことになる。まさにオイラだ。異性とは目は合わせるけれど欲情はしない。
 同性とは? 
 ・・・・・・・・。
 文末の「全ての物語からの解放」という表現に、ジブリのアニメ『かぐや姫の物語』を連想する。


● dukkha(苦)はしばしばanicca(無常)と関連付けられながら語られるが、このことは、「苦」という用語が単に苦痛のみを意味しているわけではなくて、むしろ欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態をこそ意味することを、示している。

ソルティ:そう。仏教の中心となる3つのターム「諸行無常」「諸法無我」「一切行苦」のうち、「一切行苦」だけちょっとニュアンスが違うと常々思っていた。前の2つはこの世の性質を客観的に示しているのだが、「一切行苦」は「苦」という主観(感情)が入っている。主観(感情)を廃し「ありのまま」に観ることが仏教なのに、「苦」という言葉を用いているのは矛盾している。だって、人によって「苦」と感じるものは違うのだから。究極のマゾヒストにしてみれば、「一切行苦=一切行快楽」になるではないか。
 一切の現象は、それ自体は「苦でもなく楽でもない」というのが仏教のスタンスであろう。
 思うに、ドゥッカ(dukkha)を「苦」と翻訳したのが誤解の元である。より正確を期するならば、「不完全」「終わりがない」「不満足」「不安定」「無意味」と解するべきであろう。


●それでは、「何」が輪廻をし続けているのか? それは仏教の立場からすれば、行為の作用とその結果、即ち業による現象の継起である。つまり、行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスが、ひたすら相続しているというのが、仏教で言うところの「輪廻」の実態・・・・(略)。
「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすれば、そもそもカテゴリーエラーの問いであるということになる。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻(廻り流れること)」と呼ばれているのであって、そこに「主体」であると言えるような、固定的な実体は含まれていないからだ。

ソルティ:無我説と輪廻転生の矛盾という、実に2000年にわたる仏教的ゴルディアスの結び目(難題)は、結局「自我(の存在を確信している頭脳)によっては解けない」というところにポイントがある。自分の落とした影の中に黒いボタンを探して「ない、ない」と言っているようなものである。自分が消えれば、ボタンは見つかる。


●ゴーダマ・ブッダの語ったことは、「全ては無意味だ」ということではない。そうではなくて、彼が教えたのは、「無意味だ」と口にしてまで「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動、その根源的な欲望を深く見つめ、それを滅尽させることである。そうしてはじめて、私たちは物語の外、「世界の終わり」に、本当に達することができる。

ソルティ:ここは大事なポイントだ。仏教は、だから、単純な「虚無主義」とは違う。自殺を含む反社会的行動を許容するものではない。「生きることに意味がない」ならば、「死ぬことにも意味がない」。「意味がないから何もしない」――ことにも意味がない。


●解脱者たちは、しばしばそう誤解されるように、生を嫌悪し世界を唾棄しながら、苦虫を噛み潰したような顔をして、人生の残りの時を過ごしていたわけではない。前章で引いた『信心銘』の言葉にあったように、何かを憎み嫌うことは、愛し好むことと同様に執着の一つの形であって、そのような正負いずれの方向の執着からも離れることこそが、解脱の内実だからである。・・・・・・・・・・・・・・・・
 ならば、彼らは人生の残りの時をどのように過ごすのか。渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それはもちろん、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような、執着によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のもでもなくなった現象を観照することによってはじめて知られる、「最高の楽(paramam sukham)」と言うべきものだ。


 魚川祐司は「ニー仏」というハンドルネームで、ネットでも活躍中である。
 今後の活動に期待。
 --と言いたいところだが、これだけ完成度の高いものを上梓して、「この先」があるのだろうか。





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