こんな夜更けにバナナかよ 2003年発行。

 大宅壮一ノンフィクション賞を獲ったドキュメンタリー。
 進行性筋ジストロフィーのため人工呼吸器をつけ寝返りひとつ打てない鹿野靖明(1959年生まれ)と、彼を24時間体制で介護するボランティアたちとの「心温まる交流を描いた愛と涙の闘病ストーリー」。
 ――というのは嘘で、そのような「24時間愛は地球を救う」的な紋切り型を軽く蹴破ってしまうところに、この本の価値はある。(24時間テレビを何十年も見ていないので断定するのも何であるが)
 ボランティアたちとの「交流」は当然ある。確かに描かれている。
 しかしそれは、素直に「交流」と言ってよいものかどうか。「心温まる」ものなのかどうか。
 傍目にはそこには「助けを必要とする者」と「助ける者」がいる。一方に、多くの重度身体障害者や難病患者がそうであるように施設や病院に収容され医療従事者らによってケアされるそんな在り方を拒み、自らボランティアを育成しコーディネートしながら自宅で生活を送り、福祉に欠ける社会に対してアピールする開拓者の姿がある。一方に、彼の命と自立生活の継続を支える無償のボランティアたちの感心な行為がある。
 そこからはいくらでも美談が紡ぎだされよう。
 だが、このドキュメンタリーは、というより現実はつねにもっと猥雑である。


 とりたてて福祉や医療やボランティアに興味のなかった著者の渡辺は、北海道新聞社の編集者から鹿野靖明とボランティアとが日々綴る「介助ノート」のコピーを渡され、それをもとに本を書くよう依頼される。
 つまり、自ら「どうしても書きたい」という内なる慫慂があったわけではなかった。
 

 家に帰ってから、渡された介助ノートのコピーをじっくり読んでみた。
 おもしろかった。少し意外な気がした。
 それまで、障害者とかボランティアの体験談といえば、「感動的」な話しか知らなかったが、そこからハミ出してあふれ出てくるような何かが、そのノートには満ちていた。
 同時に浮かんだ、いくつかの疑問と好奇心。
 そもそも他人の介助を二十四時間必要とする、つまり、片時も一人になる時間がない生活というのはどのようなものなのか。
 私はといえば、「人に迷惑をかけない。かけられたくもない」という範囲内で生きることに、なぜだかこれまで死力を尽くしてきたような気がする。


 さらに、もう一つの疑問と好奇心。それは、編集者がいったように、なぜ多くの若者たちがボランティアに来るのかということだった。その世界には、いったい何があるのか。


 こうした好奇心を胸に、渡辺は「道営ケア付き住宅」であるシカノ邸(札幌)に入り込んでいく。
 そこで見聞したものは、渡辺の予想や常識をくつがえす、衝撃と混沌の「生」と「関係」のありようであった。それが、この作品の最も魅力的な柱をなしているように思う。
 すなわち、渡辺が「異質(=他者)」と出会って、それに驚き、興奮し、困惑し、苛立ち、反発し、巻き込まれることに怯え、躊躇し、熟考し、最終的に受け入れていく――そのプロセスこそが面白い。
 それは、多くのドキュメンタリーやルポルタージュや伝記作家がするように、自らの視点や立場や価値観を固定したままで客観的に対象を観察し描き出そうとするのとは違う。取材対象に「かかわる」ことで自らも「かわっていく」、動的な関係性なのである。

 渡辺がどう理解したらよいのか苦しんだことの一つに、鹿野の「ワガママ」があった。それは鹿野に関わるボランティアたちが早晩ぶち当たるジレンマで、この本のタイトルはまさにそこを突いている。
 

 私もまた鹿野と何度となく会い、言葉をかわすうちに、拭いがたくそう感じてしまうことが多かったのである。しかし、障害者がワガママで自己中心的だなどという話は、それまでの私が知る範囲での“障害者物語”の文脈にはおよそ不似合いな気がしたし、多少のワガママは“重い障害があるから仕方のないこと”であり、あるいは、そう感じてしまう健常者の(私の)共感能力にこそ問題がるのだろうかと思ったりもした。
 しかし、そうではないのではないか――。取材を通して鹿野以外の何人かの障害者と出会い、「障害者運動」というものについて考えてゆくうちに、徐々にそう感じるようになった。


 なぜ介助者は、ときに「ワガママ」などという否定的感情を抱いてしまうのか。
 一つに、他人による全介助を必要とし、ベッドからほとんど動くことのできない鹿野にとって、自分の欲求を口にし、介助者にものを頼むことが「生きること」であり自己の存在を他に示すほとんど唯一の手段であるということだ。


 さらに考えなければならないことは、自立をめざす重度障害者たちは、こうした自己主張を対人関係のみならず対社会にまで押し広げることで、在宅福祉制度の必要性を訴え、自立生活の基礎そのものを生み出してきた点だ。・・・・・・・
「施設や病院はイヤだ。街で暮らしたい!」
「普通の生活がしたい。それは当然の権利なのだ!」
 これらの要求も、つねに「ワガママだ」とか「ぜいたくだ」という視線に阻まれてきたことを考えると、自立を試みる障害者たちは、そもそも健常者にとって本質的に「ワガママ」な存在であるという言い方もできる。そうでなければ、何ものをも変えることはできないだろう。


 障害者の「ワガママ」――。
 いや、障害者に限らない。当事者の「ワガママ」というものは、それと付き合わざるを得ない(付き合うことを選んだ)周囲の支援者にとって、実に厄介なテーマである。
 社会的に不利な状況に置かれている当事者の境遇に同情し、「個人的に支えたい。そのような不公平な社会システムを彼らと一緒に変えていきたい。」と思えばこそ、支援者は当事者にかかわる。
 だが、当事者と、当事者でない者の協働は、遅かれ早かれ壁にぶち当たる。
 「当事者性」という壁に。
 最初から支援者はどうしたって当事者の気持ちや意向を尊重する。心のどこかに「かわいそう」「不憫だ」という思いもあるだろうし、「常に当事者の利益を最優先し、当事者の自己決定を尊重すべし」という社会福祉の黄金ルールもある。
 すると、そのうち両者の関係が不透明になってくるのである。
 支援者は思う。
「いったい、どこまで当事者の要求を聞いたらいいのだろう?」
「これはワガママだろうか。それとも正当な権利だろうか?」
「これをワガママと感じてしまう自分は冷たいのだろうか?」
 そのうち支援者は当事者の「ワガママ」に振り回されているような感覚を持ち始める。心の優しい支援者ほど、当事者の要求をなるべく叶えてあげようと骨を折り、挙句の果てにバーンアウトする。
 一方、当事者は社会や周囲から与えられていた(与えられている)無理解や差別に対する報復(ルサンチマン)を、まず身近なところにいる「当事者でない人間(=支援者)」に向けることがある。あるいは、まず「隗より始めよ」で、周囲の人間の意識変革を求める。それは理解できないことではない。
 が、支援者の度量には限界がある。
 そのうちに一人また一人と運動から去って行く。
 当事者は、自分から離れていく支援者を見るにつけ「当事者のことは結局当事者にしか分からない」という結論を強固にし、ますます壁を厚くしてしまう。


 自分(ソルティ)もまた障害者のサポートを通じて、この「当事者性」にはずいぶん悩まされた。「‘当事者主権’は重要であるが、‘当事者原理主義’は良くない」と思ったものの、両者の適切な線引きが難しいのである。渡辺が書いているように、「社会を変える力となるのは、常識や良識を逸脱しているかに思える個人のワガママがきっかけ」と思うから、ある程度のワガママを聞くことも支援のうちと思うのであるが、時に自分の目からすると、当事者がその「当事者性」の上にあぐらをかいて被害者意識を振り回すことで、周囲に罪悪感(あるいは鬱陶しさ感)を持たせ、結果的に自らの思い通りに万事を運ぶテクニックを用いているかのようにも見えるからである。(そんなことを思いつく自分に自己嫌悪した・・・)

結局のところどうするべきなのか。
 ・・・・・。
 介助者は、鹿野を気づかって、ただ言いなりになっているだけでは、主体的な介助者としてしっかり“つながる”ことはできない。しかし同時に、「ワガママ」と感じてしまう鹿野の要求に宿っているかもしれない重要なメッセージもまた聞き逃してはならない。
 つまり、健常者である自分の生活感情・信条を基盤にして「おかしい」ことは「おかしい」と言えばいいのだが、同時に「おかしい」のはひょっとしたら自分なのかもしれない、という視点も手放してはならない。常識的に対応すればいいのだが、常識を疑ってみることも大切である。
 その中和点・一致点・妥協点を、たえず対話や、ときには互いにケンカをしながら、言葉とカラダで確かめなおしていくようでなければならない。


 ともあれ、鹿野が施設や病院でなく在宅生活を選択した時に、退路は絶たれた。社会との対決しか、「ワガママ」に生きるしか、道は残されていなかったのである。
 そしてそれは、関係の中に自らを「ありのまま」さらすことでもあった。

 地域で生きることを志す重度身体障害者たちは、「他人と生きる宿命」をそのカラダに刻みつけられた人々である。人との関わりを断って部屋にこもっていては生きていけず、障害が重ければ重いほど多くの人間関係を結び、その関係が豊かでなければいい介助が受けられない。

 取材を通してシカノ邸に入り込み、たくさんの新旧のボランティアたちや鹿野の元カノの話を聞き、自らも鹿野の介助をするようになり、すっかり鹿野ファミリーの一員になった渡辺を最後に待っていたのは、作品の完成ではなかった。
 あとがきを書こうとしていた矢先、主人公が亡くなったのである。
 よもや鹿野の死と葬儀の叙述で原稿を終えることになるとは予期していなかった渡辺は、友人・鹿野の死にショックと無念さを隠せない。

 障害によって生き方を制限され、活動範囲を制限されながら、あるときは電動車いすに乗りながら、あるときは身動きのとれないベッドの上で、鹿野はその一人ひとりと向き合い、ごまかしのない関係を結んできたのだと思うと、その底知れなさに胸を打たれた。
 ふと《書くべきことは書かねばならない》《彼と「共に生きる」ための方策を考えなければならない》などと一人粋がっていた過去の自分が、ただの馬鹿者に思えて仕方なかった。 


 しかし、読む者にしてみれば、これ以上にないクライマックスであり、予想を超えた感動の結末である。不謹慎な言い方であるが、鹿野の死がなければ、この本はこれだけの完成度と感動には至らなかっただろうと思うと、なんだかこの本を完成させるために鹿野は絶好のタイミングで亡くなったかのように思えるのである。
 その「死」によって、それまで綴られてきたすべてのエピソードや、鹿野本人やボランティアたちの発した一つ一つの言葉や、渡辺自身の種々の思考や行間に込められた感情が、まったく別の意味を帯びて来る。
 それは、近しい者が死んだとき、その瞬間から生き残った者たちはその「死」に意味を与え始めるからであり、ここまで「鹿野物語」につきあってきた読者も、知らぬ間にそこに参与してしまうからである。
 古くからのボランティアの一人であり、現在は報道記者として活躍する国吉は、渡辺にこう語る。

「ホントにワガママな人だった、という印象が強いんですよね。あのワガママが、ぼくにとてはやっぱり強烈でした。
 でも、“あつかましさ”っていうのが人にとっていかに大事か。それは、今の仕事をしててもつくづく感じるんですよ。最初は嫌がられても、はねつけられてもね、情熱さえあれば、結局人って動いてくれるし、最終的にはわかってくれるんだよね。
 とにかくシカノさんは、人に対して手抜きをしない人だった。誰とでも真剣につきあってた。そして、目一杯生きた。重度の障害を抱えた人生だったけど、その枠組みの中で、ホントに精一杯生きたなという気がする」


 それは確かに「ワガママ」である。
 非常識で猥雑である。
 しかし、鹿野のようなある意味『アクの強い』人間が存在することで、人間関係がますます希薄化していく社会に、人が人と「かかわる」場が生まれ、人はそこで他者と出会い、自らを発見し、「かわる」ことができる。
 この不思議な縁起に思いをいたすとき、人は「福祉を必要とする者」こそ「福祉を与える者」であることに気づき、ケアの何たるかを知るのであろう。